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7月28日の橿原市「キバナコスモス&蓮の花」巡り-2

7月31日       7月28日の橿原市「キバナコスモス&蓮の花」巡り-2
            JRふれあいハイキング 10㎞ 244名参加
今回のJRふれあいハイキングには、知人のK場さんと参加、阿倍野のM崎さんんも参加し
ていた。 此の日の私の万歩計は、18714歩で約11.2km歩いた、暑い暑い一日だった・・・
途中で参加者全員にカップの「かち割り氷」が振る舞われる嬉しい事も有りました。
コース  JRふれあいハイキング 大和ウオーキング協会主催 参加費500円 
JR畝傍駅(9:45集合)~おふさ観音・涼を誘う風鈴の音色~醍醐池・黄花コスモスと耳成
山~藤原宮跡・蓮の花と香久山&畝傍山~天香久山神社(通らないショートカットコースも
有り)~天岩戸神社~香久山公園(昼食休憩・此処からバスで帰るショートカットコースも
有り)~万葉の森・万葉集句碑~妙法寺~たちばな公園(解散)~JR香久山駅 又は近鉄
大福駅へ
JR畝傍駅(9:45集合)
畝傍駅をスタート
畝傍駅
皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に昭和天皇の橿原神宮行幸に際して建築され、
重厚な寺社風の木造駅舎が現在も残っている。近鉄小房線(廃線)の起点駅でも有った。
かつては近鉄吉野線の旧線でもある近鉄小房線(おふさせん)の起点終点駅でもあった。
ホームは駅舎より高い位置にあり、駅舎とホームは階段およびスロープで結ばれている。
その階段は現在使われている出入口(改札口)を結ぶものと、貴賓室とを結ぶもの、団体
用出入口(閉鎖)を結ぶ3つ設置されていた。
貴賓室
橿原神宮や神武天皇陵への最寄り駅だったため、参拝する皇族のために駅舎内には貴賓
室が設けられた。1940年(昭和15年)には皇紀2600年大祭が営まれて昭和天皇が、1959
年(昭和34年)には成婚から間もない皇太子夫妻(後の明仁上皇・上皇后美智子)が、この
貴賓室を利用した。普段は閉鎖されているが、年1回程度、不定期に一般公開される。
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廃線になった近鉄小房線のホームだけが残ってる?奥に見えるのが畝傍駅ホームと駅舎。
このホームに小房線がついていた様で、左の方に小房線の線路が引かれていたそうです。
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※近鉄小房線
近鉄小房線は、橿原神宮前駅と国鉄桜井線 畝傍駅を結んでいた路線です。
1924年(大正13年)11月1日 - 吉野鉄道(現在の近鉄吉野線の前身)が橿原神宮前駅
(初代)から延伸し当駅(畝傍駅)に乗り入れ。
大正13年(1924年)開業、昭和27年(1952年)に廃止になりました。

おふさ観音へ向かう
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おふさ観音・涼を誘う風鈴の音色
寺のある地名と合わせて「小房(おふさ)観音」と呼ばれていて、正式名は高野山真言宗
別格本山観音寺といいます。本尊である十一面観音はもともと身体に健康を授けると言
われていましたが、近年ではそれ以外に厄除け、子授け、長寿と老人病封じを願う人々
が多く訪れるようになり、大和ぼけ封じ霊場会の札所にもなっています。
江戸時代にこの辺りは大きな池でがあり、ある日、土地の娘「おふさ」さんが池のほとり
を歩いていると、観音様が現れたというのです。この「おふさ」さんが、観音様を奉られた
のが、お寺の起源だとも言われています。
春と秋には、「バラまつり」が開催されイングリッシュローズを中心に約2,300種類のバラ
が可憐に、優雅に咲き競い、夏には、風鈴の涼しい音色が厄を払うという仏教伝来の思
想から、「風鈴まつり」が開催され、2,000個を超える日本各地の風鈴が展示されます。
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醍醐池・黄花コスモスへ向かう
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醍醐池・黄花コスモスと耳成山
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醍醐池
醍醐池は、醍醐町とともに古い歴史を持ち、町の言い伝えによると行商のためこの地を
訪れて病などで倒れた人や、封建時代ゆえに身分や事情を公に出来ないため、醍醐池
に埋葬された人が数多くいると言われています。
醍醐池の北西の角には、供養塔とその傍らに歴史を物語る石碑が建てられています。
美しい桜並木や菜の花、キバナコスモスの風景の裏側で、過去に悲しい出来事があった
ということがわかります。
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藤原宮跡へ向かう
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藤原宮跡の蓮田へ到着
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蓮の花と香久山
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此処までは、
7月28日の橿原市「キバナコスモス&蓮の花」巡り-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-31
此処では、続きの 蓮田の途中~ についての詳細を掲載します。
蓮の花達
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藤原宮跡・蓮の花と香久山&畝傍山
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が
飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天
皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大き
さは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都で
す。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という
国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。
藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う
施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁
街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造は
その後の都にも引き継がれていきます。
藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハ
スなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、藤原宮跡は大和三山
の絶好の眺望スポットとなっています。
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蓮の花とうねび山
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香久山と蓮の花
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天香久山神社へ向う
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天香久山神社(通らないショートカットコースも有り)
トイレ休憩後、知人と二人、ショートカットコースを歩く

天香久山神社(あまのかぐやまじんじゃ)
天香山神社の祭神は、櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)です。
境内にある「朱桜」(にわざくら)という古名で知られる「波波架の木」(ははかのき)
は、その昔、占いに用いられたと言われています。
「古事記」の天岩戸神話(あまのいわとしんわ)には、天香具山(あまのかぐやま)
の雄鹿の骨を抜きとって「朱桜」の木の皮で焼き、吉凶を占ったとあります。

天岩戸神社の手前で本隊と合流して・・・

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)
香具山(かぐやま)の麓にある神社で本殿はありませんが、日の神・天照大御神(あ
まてらすおおみかみ)が隠れた天岩窟(あまのいわや)または、天岩戸(あまのいわ
と)と言われる巨石がご神体です。
太陽神である天照大御神は、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)があんまり乱暴を
働くので、岩戸に隠れてしまいました。日の神が隠れたことによって世の中は闇に包
まれてしまいます。そこで、神々は思案し一計をめぐらしました。天岩戸の前に集ま
って、ある神様が踊り出し、これをほかの神様も笑いながら楽しみました。隠れてい
た天照大御神が外の様子が気になって岩戸から顔を覗かせたとき、天手力雄神(あめ
のたぢからお)がとうとう外に出してしまいました。そして、また世の中はもとどお
り明るくなったという事です。境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が
枯れ死するという「7本竹の不思議」が伝わっています。
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香久山公園へ向かう
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香久山公園(昼食休憩・此処からバスで帰るショートカットコースも有り)
大和三山のひとつ香久山の南麓丘陵部に位置しており、市営香久山墓園や市営斎場と
併せて設置されました。春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しく、市民はもちろん
観光客にも楽しんでいただけます。また、公園内には県下唯一の自然博物館である
「橿原市昆虫館」があります。亜熱帯地方の植物が生い茂る中、オオゴマダラなど
十数種類の蝶が常時500羽以上飛び交う温室や昆虫標本展示や生態展示など自然環境
の学習ができます。
午後のスタート、万葉の森へ向かう
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万葉の森・万葉植物・万葉歌碑
香久山の入り口にある森林公園です。森林内には様々な植物の展示園があり、万葉集
に詠まれた万葉植物が73種植栽されています。天香具山の北東麓に整備されている。
第32回全国植樹祭記念事業の一環として整備されました。
万葉集に詠まれる植物(アセビ、イチイガシ、梅等)を植栽した万葉植物展示園が中心
で、桜展示園・紅葉展示園・花木園・水生植物園・竹林園・野鳥誘致園なども有り、四
季折々の花が楽しめます。遊歩道には立派な万葉歌碑が立てられています。
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出口には、膳夫古池(かしわでふるいけ)が有ります。・・・此処で水分補給休憩
天香具山の北東部の麓にある池は『膳夫古池』と呼ばれます。
「万葉の森」に隣接し、「白鷺の舞い降りる池」としてNHKでも紹介された風光明媚
なところです。
≪かしわでの地名のいわれ≫
古代に天皇の食事を用意した専属料理人:膳夫(かしわで)氏の一族がこの一帯に住
んでいたそうです。一族の長(おさ)を膳臣(かしわでのおみ)と呼んでいました。
古くは、食器の代わりにカシワの木の葉を使っていたことから、これらの呼び名が
ついたそうです。 
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此処での水分補給休憩にカップに入ったかち割り氷が全員に配られ非常に有難かった。
何杯も水やお茶が飲めて最後に氷をがりがりと・・・一度に疲れがとれた感じ
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妙法寺(みょうほうじ)御厨子観音(みずしかんのん)
妙法寺(みょうほうじ)御厨子観音(みずしかんのん)は、奈良時代の賢人である吉備
真備(きびのまきび)が遣唐使として派遣され、無事唐から帰国できたことを喜んで創建
させたということです。本尊は十一面観音菩薩で、吉備真備が中国で窮地に立たされた時、
蜘蛛によって助けられたというエピソードもあることから、クモ観音とも呼ばれています。
真備の功績の1つである「大般若経(だいはんにゃきょう)」は現在奈良国立博物館に保管
されています。また寺の東側に、万葉集で大津皇子(おおつのみこ)が辞世の歌として詠
んだ「百伝ふ磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」で有名な磐余(いわ
れ)の池があったと言われています。この磐余の池が御厨子という名前の由来とも言われ
ています。
このほかにも橿原市東池尻町西南の御厨子山頂に、土地の氏神「御厨子神社」が鎮座して
います。初め「水尻神社」と呼ばれたこの社は、この地一帯に古代あったという磐余池の
池尻に位置したことから社名が生まれたと伝わっています。
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※吉備真備(きび の まきび)
吉備 真備は、奈良時代の公卿・学者。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。姓
は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は
勲二等。下道氏(下道朝臣)は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。
異説として加茂氏系図に、吉備彦之孫・(鴨の)吉備麻呂・右大臣という記載があり、
この人物が吉備真備であるという説がある。また賀茂保憲や賀茂光栄を吉備真備の末裔
とする文献もある。
備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町)出身。
霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共
に入唐した。唐にて学ぶこと18年、天平7年(735年)に玄昉と同船で帰路に就くも種子
島に漂着するが、多くの典籍を携えて帰朝した。唐では経書と史書のほか、天文学・音
楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦
経』1巻、『大衍暦立成』12巻)日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律
管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆
四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』をもた
らした。 帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下
から一挙に10階昇進して正六位下に、天平8年(736年)に外従五位下、天平9年(737
年)に従五位上に昇叙と、急速に昇進する。翌天平10年(738年)に橘諸兄が右大臣に
任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督
を兼ねた。天平12年(740年)には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反
乱を起こす(藤原広嗣の乱)。
天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与され、天平19年(747年)に右京大夫に転
じて、天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。
天平15年(743年)8月に孝謙天皇が即位して以降、藤原仲麻呂が権を握り、真備や玄昉、
諸兄と対立する。天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に同地で没した。
真備も天平勝宝2年(750年)に格下の官かつ地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷
される。さらに翌年の天平勝宝3年(751年)には遣唐副使に任命され、翌天平勝宝4年
(752年)に再び危険な航海を経て入唐。同地では阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天
平勝宝5年(753年)に帰国の途に就くも、鑑真と同じく屋久島へ漂着、さらに紀伊国太
地に漂着後、無事に帰朝する。帰朝後も中央政界での活躍は許されず、翌天平勝宝6年
(754年)に正四位下・大宰大弐に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8歳(756年)
に新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐
での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて
大衍暦が採用された。 天平宝字8年(764年)、造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京
した。同年に発生した藤原仲麻呂の乱において、緊急に従三位に昇叙され、中衛大将と
して追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、仲麻呂は戦死した。翌天
平神護元年(765年)には勲二等を授けられ、翌天平神護2年(766年)、称徳天皇(孝
謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年の藤原真楯薨去に
伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手と共に政治を執っ
た。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでな
ったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。 神護景雲4年(770年)、
称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手
らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将
のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許
された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨
去。享年83。 最終官位は正二位前右大臣。 奈良市内にある奈良教育大学の構内には真
備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。

たちばな公園(解散)~JR香久山駅 又は近鉄大福駅へ
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知人と二人、近鉄大福駅へ向かう

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