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8月24日の明日香稲渕の棚田と案山子と彼岸花巡り-2

9月30日        8月24日の明日香稲渕の棚田と案山子と彼岸花巡り-2
                    9月の歩こう会例会  10㎞コース
此の日は曇り空の中に参加者70名、途中からバスの案内もしていたが70名全員が完歩。
皆さんの日頃の行いが良いせいか雨には降られずハイキングを終わる事が出来ました。
此の日の私の万歩計は、21661歩で約12.9km歩いたことに・・・
コース  午後スタート時に石舞台古墳公園~飛鳥駅へバスの案内をしたが全員歩き。
飛鳥駅(受付・スタート10時10分)~高松塚古墳~欽明天皇陵~文武天皇陵横の休憩所
(トイレ休憩)~朝風峠下~稲渕の棚田&案山子ロード・彼岸花鑑賞・班毎の写真撮影~
男綱~石舞台古墳公園(昼食休憩・集合写真撮影)~玉藻橋~橘寺~川原寺跡~亀石~
村立聖徳中学校前~天武・持統天皇陵~国営飛鳥歴史資料館(休憩)~飛鳥駅
志都美駅
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此の日は生駒山と信貴山も・・・
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝
わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)
が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管
されている。
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飛鳥駅(受付・スタート10時10分)
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高松塚古墳へ向かう
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高松塚古墳
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)に
存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m(下段)
及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が発見された
ことで一躍注目されるようになった。2009年に本来の形状に復元され、一般に公開されて
いる。壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、切石の上に厚さ数ミリ
の漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、四方四神および星辰
(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍とその上の日(太陽)、女
子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子群像、四神のうちの白虎とそ
の上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像はいずれも4人一組で、計16人
の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画発見当初は)色彩鮮やかで、歴
史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介され、「飛鳥美人」のニックネー
ムで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観儀式』にみられる元日朝賀の儀式に列
する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀の儀式には日月・四神の幡も立てら
れる。奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天井には星辰が描かれている。南壁に
は四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時
に失われたものと思われる。天井画は、円形の金箔で星を表し、星と星の間を朱の線で
つないで星座を表したものである。中央には北極五星と四鋪四星(しほしせい)からなる紫
微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古代中国の思想に基づくもので、中央の
紫微垣は天帝の居所を意味している。
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※高松塚壁画館
館内には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、
棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡など
のレプリカを展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現。

文武天皇陵横の休憩所(トイレ休憩)景色が素晴らしい
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※文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18日))
は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4年6月15日
(707年7月18日))。天武天皇と持統天皇の孫。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)のもと
で政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。

朝風峠下へ向かう
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※朝風峠の地蔵さん
以前、朝風峠でガイドさんに下記の伝説を聞いた事が有ります。
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けているのは、
「朝風地蔵」と平田集落にある「みみなほし地蔵」が争って、片方の「朝風地蔵」は
肩を取られ、片方の「耳なほし地蔵」は耳を取られた。というおもしろい言い伝え
があるそうです。

※耳なほし地蔵
平田集落にある「みみなほし地蔵」
此のみみなほし地蔵には「キリ」が多数奉納され、キリで穴が開けられる様に耳が
通り聞こえる様になる?というおまじないの様です。

稲渕の棚田&案山子ロード・彼岸花鑑賞・班毎の写真撮影
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棚田が素晴らしい
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フジバカマも咲いている
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今年のジャンボ案山子のモチーフは
「チコちゃん」・・・高さ6m、因みに昨年は「せごどん」だった。
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此処までは、
9月24日の明日香稲渕の棚田と案山子と彼岸花巡り-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-30
此処では、続きの南海キャンディーの山ちゃん~ についての詳細を掲載します。
南海キャンディーの山ちゃんご夫婦
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男綱
※綱掛神事
綱掛神事は明日香村稲渕と栢森(かやのもり)に伝わる神事です。 稲渕は「男綱」、
栢森は「女綱」がかけられます。
子孫繁栄と五穀豊穣を祈り、飛鳥川と道路をまたいで綱を渡し、悪疫が川や道路を
とおって進入することを押しとどめ、住民を守護するための神事と言われています。
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石舞台古墳公園(昼食休憩・集合写真撮影)
※石舞台古墳
6世紀の築造。巨石30個を積み上げて造られた石室古墳。その規模は日本最大級を
誇る。盛土が失われて、露出した天井石の上面が平らなことにちなんで、石舞台と呼
ばれる。墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。石室の長さは19.
1m、玄室は高さ約4.7m、幅約3.5m、奥行き約7.6m。石の総重量は推定2,300t、古
墳最大の巨岩である天井石は、南側が約77t、北側約64tもあるという。この巨大古墳
が誰の墓なのかは不明であるが、付近に蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の
墓ではないかとの説が有力である。また、石室が露出しているのは、馬子の横暴な態
度に反発した後世の人が封土を取り除いたためともいわれている。周囲は芝生広場
になっており、春は桃やサクラ、秋は彼岸花が咲く。
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玉藻橋を渡って橘寺へ向かう
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橘寺
厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、太子建立の七ヶ寺の一つです。建物は何度
も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎
が当時を物語っています。謎の石造物のひとつ「二面石」があるのもこの橘寺です。
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亀石へ向かう
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亀石
亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6メートル、幅
2.1メートル、高さ1.8メートルの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの
名前で呼ばれている。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。
亀石伝説
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナ
マズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみ
んな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。
亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に
向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。
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※村立聖徳中学校前~
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天武・持統天皇陵
天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓。 直径50m、高さ6.36m。 円
墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。天武
天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。また、持統天皇は
天皇として初めて火葬された人物としても知られる。鎌倉時代に盗堀された時の記録が残
されていたことから、被葬者が確実となった。
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国営飛鳥歴史資料館(休憩)~飛鳥駅
※国営飛鳥歴史公園館
国営飛鳥歴史公園4地区の施設や催し物の案内をはじめ、飛鳥地方の史跡や歴史を立体
模型や映像を用いて紹介しています。 誰にでも分かりやすい「飛鳥歴史アニメ」、タッチパネ
ルコンピュータで見る「飛鳥百景」など、飛鳥探訪の出発点となる施設です。

飛鳥駅へ向かう
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9月22日の明日香稲渕の棚田&案山子ロード&彼岸花-2

9月24日       9月22日の明日香稲渕の棚田&案山子ロード&彼岸花-2
                   近鉄ハイキング 10㎞
此の日は午後3時の降水確率が50%、其の前に飛鳥駅へ戻らないと雨に降られるかも知れ
ない、知人のK場さん・I 田さんと3名で参加した、近鉄ハイキングと別に飛鳥周遊クイズにも
挑戦、見事8問すべてに正解して景品のキトラ古墳周辺で収穫された「キトラ米」をGetした。
コース   近鉄ハイキング  飛鳥駅~飛鳥駅
飛鳥駅(10:05集合)~高松塚古墳~文武天皇陵~朝風峠~稲渕棚田(案山子ロード)~
男綱~石舞台古墳~犬養万葉記念館~橘寺~亀石~鬼の雪隠・鬼の俎~猿石~飛鳥駅
別途 飛鳥周遊クイズに参加して景品(キトラ米)と飛鳥の観光スポット絵ハガキを貰った。
帰りの電車に乗ってから雨、此の日の私の万歩計は、20415歩で約12.2km歩いたことに・・・
志都美駅ホーム
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畝傍駅~八木西口駅へ乗換
飛鳥駅
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高松塚古墳
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休憩所~朝風峠へ向かう
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朝風峠へ登る道・・・此処へは行かない
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此処から男綱へ案山子ロードを下る
おばあさんがお出迎え
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稲渕案山子ロード・朝風峠の碑、今年は未だ彼岸花が少ない
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福笑~相撲
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例年彼岸花の咲いてる斜面に彼岸花が見えない
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明日香の棚田の模型?
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何? キティーちゃんとサンマ
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良く見たら彼岸花が咲いていた、棚田が素晴らしい
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ちっちゃいおっさん、演奏会へようこそ・・・
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藤バカマ
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これくらい大きいと目立つ、寝転んでるグータラ
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農家の・・・、 千手観音?
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今年のジャンボ案山子は「チコちゃん」
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此処までは、
9月22日の明日香稲渕の棚田&案山子ロード&彼岸花-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-24
此処では、続きのスマイル・・・・ ~についての詳細を掲載致します。
スマイル・・・・
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リハビリセンター
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遠くから
今年のジャンボ案山子「チコちゃん」
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彼岸花、パンダ、棚田を下から
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令和おじさん
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明日香楽園
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お弁当タイム
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派手なギャル、彼岸花は此れから
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南海キャンディーズ
やまちゃんの結婚発表
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男綱
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石舞台古墳公園へ向かう
藤バカマ、唐辛子、彼岸花、百日紅
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石舞台古墳公園のジャンボ彼岸花
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石舞台古墳公園出昼食、ススキ
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岡寺の入口の大鳥居、犬養万葉記念館でコーヒータイム
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橘寺・聖徳皇太子御誕生地碑
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川原寺跡
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亀石へ向かう
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亀石
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怖い案山子もあるよ
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鬼の雪隠・俎~飛鳥駅へ向かう
溜池、ひまわり・・・
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9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-2

9月23日       9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-2
                    歴史探訪の会 & ビール工場見学
此の日の参加者は18名、歴史探訪の後のビール工場見学は8名と少人数になったが実り
の多い楽しい歴史探訪の会ハイキング&サントリービール工場見学となりました・・・
コース  大山崎ふるさとガイドの会様の2名のガイドさんが歴史探訪をガイドして下さった。
JR山崎駅(受付・スタート10時)~離宮八幡宮~関大明神~宝積寺(閻魔堂・本堂拝観)~
竹林のこみち経由~山崎聖天~桜の広場(昼食休憩)~瓦窯跡経由~歴史資料館(解散)
解散後希望者8名でサントリービール    ビール工場へ  工場見学&試飲へ
此の日の私の万歩計は、14636歩で約8.7km歩いたことに・・・
志都美駅
曇り空で葛城山も二上山も見えない
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JR山崎駅(受付・スタート)
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この奥に妙喜庵がある
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JR山崎駅前に有る妙喜庵(みょうきあん)
千利休作の日本最古の茶室 国宝「待庵」が有る事で知られる。
妙喜庵は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。妙喜禅庵とも称する。
江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福寺派に属する。室町時代の
明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開創聖一国師法嗣・春嶽士芳。

※「待庵(たいあん)」国宝。
日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。
大山崎町歴史博物館にレプリカ?が設けられており外廻りから見る事が出来る。

離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)
離宮八幡宮は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。旧社格は府社。石清水八幡宮の元社
にあたる神社として知られる。
貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京
の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎
の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰
京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が
建立された。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡
宮とした。また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し
荏胡麻(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。その後
「大山崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、多くの兵火に焼かれながらも江戸
時代まで栄えた。
しかし、幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商家と
ともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明治4年)
に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した。
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油祖像 河陽宮故址石碑&製油発祥地碑が有る
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石清水八幡宮と銘が彫り込まれた灯籠
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境内でガイドの説明を聞く
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離宮八幡宮を出て関大明神社へ向う
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関大明神社(せきだいみょうじんしゃ)
関大明神社は、大阪府三島郡島本町にある神社。関戸明神(せきどみょうじん)、関戸大明
神とも称される。祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこ
と)、または大智明神(だいちみょうじん)。島本町から京都府乙訓郡大山崎町にかけての土
地は天王山と淀川(桂川)に挟まれ古くは山崎橋も存在したことなどから交通の要衝として関
所が設置されており、関大明神社の名前の由来となっている。また、この神社自身が関所
「山崎関」(山城の関)跡地であるといわれ、関所または後に設けられた「関戸院」(関戸の院
〈せきどのいん〉)の鎮守社であったともいわれる。
創建は不詳で、水無瀬の里に置かれていたが洪水によってこの地へ移されたとも、京都へ悪
霊の侵入を防ぐためこの地に道祖神が建立されたのが起源ともされる。また、伯耆国大山の
大智明神の神輿を収めたことにより始まるという伝承もある。この地は西国街道の宿場町で
山崎宿として知られ、周辺には古い建物が散見される。
また、傍らには「従是東山城國」との石碑も存在する。古くはこの関大明神社の前に流れる小
川が摂津国と山城国の境であったといわれており、現在でもこの川にほぼ沿った形で府境が
引かれている。
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※全国でも珍しいJR山崎駅・・・ホームの途中に京都府と大阪府の府境界が有る
山崎宗鑑碑
JR山崎駅から天王山へ至る、踏み切りを渡りきると、ちょうど天王山登山口にこの霊泉連歌講
跡碑と山崎宗鑑句碑が立っています。
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※山崎宗鑑
山崎宗鑑は、室町幕府9代将軍足利義尚に仕える武士でしたが、義尚の陣没(延徳元年、148
9年)後に出家して宗鑑と名乗り、この大山崎に隠棲しました。大山崎油神人の繁栄や、惣中や
待衆の支えによって連歌講の中心人物になり、宗鑑はこの付近にあったとされる冷(霊)泉庵で
連歌の会を開いたり、俳句の指導をしていたとされています。また書にも優れ 宗鑑流として多く
の人々に愛されました。晩年は『新撰犬筑波集』などを発表し、俳諧の創 始者として知られてい
ます。宗鑑の自宅は大阪と京都の境目の関大明神の向かいにあったとされ、その場所の旧家
森村家には「宗鑑井戸跡」「宗鑑旧居跡」が残されています。

宝積寺へ向かう急な坂道
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宝積寺仁王門前
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宝積寺(ほうしゃくじ)
通称・宝寺(たからでら)は、奈良時代の724年に聖武天皇の勅願を受けて行基が開創したと伝
えられる歴史と由緒のあるお寺で、大阪府との府境に程近い大山崎町にあります。そして、この
大山崎町という場所自体が歴史的にもそしてパワースポット的にも非常に重要な意味を担って
いるのです。
昔話の「一寸法師」に登場する「打出の小槌(うちでのこづち)」。振ると、大判小判や宝物がザク
ザクと現れるというあの「打出の小槌」のモデルになったとされるものが、この宝寺に実在してい
ます。一寸法師(実際は普通の身長の男性)がここ宝寺で修行し、お寺にあった「打出」と「小槌」
のご利益で鬼を退治したことからお姫様と結婚し出世がかなったという話が、寺伝として実際に
伝わっているのです。「打出の小槌」と一般に言われますが、実は「打出」と「小槌」は別々のもの
で、「打出」は実り(福)の種を蒔くために土にさして穴を開けるためのもの、「小槌」は実り(福)を
祈願して振るためのものというのが本来であり、今でもお寺には古より伝わる「打出」と「小槌」が
保存されています。この宝寺は聖武天皇の勅願で建てられたものですが、即位以前、夢の中に
現れた龍神から打出と小槌を授けられ、それに75日間祈ったところ無事天皇に即位することが
できたことから、この打出と小槌を奉納するためにお寺を建てることになったという話が言い伝え
られています。聖武天皇の即位と秀吉の出世に(もしかしたら一寸法師の出世にも)宝寺が少な
からず関わっていたというのは興味深い話であり、金運のみならず、出世運にも多大なご利益が
あるという噂もうなずけます。

豊臣秀吉 一夜の塔
寺宝を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている「一夜の塔」
と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。
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宝積寺・閻魔堂・本堂拝観・豊臣秀吉 一夜の塔
美術工芸品では本堂内安置の十一面観音菩薩立像、仁王門の金剛力士像及び収蔵庫に安置
される閻魔王像と眷族像が重要文化財に指定されている。其の中でも特に日本一の閻魔王像と
眷属像は見る者を圧倒する迫力があり必見です。本堂左横にある小槌宮には大黒天が祀られ、
聖武天皇が夢で竜神から授けられたという打出と小槌で、参詣者に福徳を授けています。その
ため宝寺という別名もあり、歴史上しばしば登場するお寺で大黒天宝寺として商売繁盛のお寺と
知られています。一寸法師の説話も宝積寺から生まれたのです。
また、本堂の脇には秀吉が腰掛けて天下統一について考えたと伝えられる出世石があります。
この出世石に腰掛けると出世するというお話もあります。許可をいただければ実際に腰掛けるこ
ともできます。
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竹の小路を山崎聖天へ向かう
大山崎山荘庭園で最初に建てられた建物の搭
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大山崎山荘
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※大山崎山荘庭園
宝寺に隣接する広大な敷地には、ニッカウヰスキーの創業に参画した実業家、加賀正太郎氏
が建てた「大山崎山荘」があり、現在ではアサヒビールが管理する美術館として、内部の貴重な
調度品や庭園なども一般に公開されています。近くには、サントリーの山崎蒸留所があったり、
邸宅が見受けられたりと、自然に恵まれた環境であると共に豊かな空気に包まれた一帯という
印象を受けます。宝寺のある地区が「銭原」というお金にまつわる縁起の良さを感じられる名前
であることもそうですが、重要な歴史の舞台になり、また歴史を形づくってきた人々と縁の深い
場所ならではの特別なパワーがこの一帯に満ちているのでは?などと思えて来てしまいます。

※加賀正太郎(かが しょうたろう)
加賀 正太郎(1888年1月17日 - 1954年8月8日)は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した
日本の実業家。1888年、大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった
江戸時代から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。東京高等商業学
校(現・一橋大学)卒業後、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三菱UFJ証券に合併)を設
立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭
業などで成功した。1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。出資の70%を
構成して同社の筆頭株主だった。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山
本為三郎にニッカウヰスキー株を売却。

竹林のこみち
アサヒビール大山崎山荘美術館と観音寺(山崎聖天)を結ぶこみちです。春には対岸の
背割り堤の桜並木を眺望できます。
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此処までは、
9月18日の大山崎町の歴史探訪&サントリービール工場-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-23-1
此処では、続きの山崎聖天~ についての詳細を掲載致します。
山崎聖天
天王山麓に位置し、「山崎の聖天さん」として京阪神の人々から厚い信仰を受けて いるお寺で
す。平安時代に宇多天皇(寛平法皇)の勅願で開山されました。その後江戸時代に木食以空が
中興開山し堂塔を整えました。本堂横に聖天堂があり江戸時代には現世利益を求めた大阪の
商人の厚い信仰を受け大いに隆盛しました。豪商住友家も帰依し立派な青銅製の灯篭を寄進
しています。幕末、元治元(1864)年に起こった禁門の変の余波で全焼し、明治時代になって伽
藍が復興しました。
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境内で説明を聞く
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桂昌院寄進の釣鐘
境内の梵鐘は五代将軍綱吉の生母桂昌院から、また銅製の大灯籠は江戸時代中頃に住友家
から寄進されました。このような有力な信者を持った観音寺は富裕町人にも人気があり山崎の
聖天さんとして、近隣はもとより大阪一帯からも親しまれてきました。
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山崎聖天を後に桜の広場へ向かう
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桜の広場(昼食休憩)後大山崎瓦窯跡へ向かう
※大山崎瓦窯跡
平成16年(2004)12月の調査の結果で平安宮の所用瓦を焼成した平安時代前期の瓦窯が6基、
まとまって発掘されました。当時、平安京周辺各地の多数の瓦窯で大量の瓦を生産し、平安宮・
京の造営を支えたものと考えられ、大山崎瓦窯もその一つとされます。
ここで製作された瓦は平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨院、河陽離宮に供給されました。2006年
(平成18年)には、重要性が考慮され国の史跡に指定されています。2008年には、7番目の窯が
発見され、2009年には、更に8番目の窯が北約6mの崖で瓦窯の燃焼室の焚口が見つかってい
ます。大山崎瓦窯跡の石碑が立っている真向かいに、天王山登山口と観音寺へ続く道がある。

大山崎町歴史資料館へ向かう
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大山崎町歴史資料館(解散)
大山崎。それは天王山が淀川へ最もせり出した場所を意味します。その自然の関門ともいうべき
地形から、日本の東と西を結ぶ交通の要衝として古代以来発展してきま した。当歴史資料館の
常設展では、これまで歩んできた歴史的特色を踏まえ、7つのコーナーを設けて町の歩みを紹介
しています。まず、エントランスルームでは、年表、文化財地図パネル等で町の歴史概観ができま
す。そして竹林のプロムナードをぬけると、そこには大山崎の名水にちなむ井戸ビジョンがあり、映
像で各時代の特色ある文化・歴史を紹介し、次のコーナーへの興味を高めます。展示室は5つの
コーナーに分れ、古代コーナー、中世コーナー、山崎合戦と待庵・利休のコーナー、近世コーナー
という構成になっています。各コーナーとも実物展示のほか、解説ビデオやイラスト、模型や複製
などを用いて、楽しみながら歴史学習ができるように心がけた展示となっています。
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サントリービール京都工場見学&試飲へ向かう
阪急大山崎駅⇒西山天王山駅から歩いてサントリービール京都工場へ

サントリービール京都工場見学・試飲
1970年大阪万博のサントリー館の展示ホールのモニュメントを移設・・・
※サントリー館の吹き抜け展示ホールには、高さ 12mのステンレス製の巨大な モニュメント
「御酒口(みきぐち)」が展示された。「御酒口」は昔、祝い事の際、神酒の飾りとして使用され
た竹製の装飾品で、そのシンプルな造形美をヒントにして制作されたもの。モニュメントは数
種の照明に照らされ、静かな音楽が流れる中で、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
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試飲 三種類のビールがf試飲出来る様になっていた。
下戸の私は、二種類で満足、三種類目は飲めずにリンゴジュースで締めた・・・
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帰りは
ほろ酔い気分で工場からのバスで駅へ送られ、梅田経由で帰りました。

自宅へ帰り着いたのは午後6時を過ぎていた
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9月16日の大和の古道を通りホテイアオイ鑑賞-2

9月22日         9月16日の大和の古道を通りホテイアオイ鑑賞-2
                   近鉄ハイキング 大和三山 10㎞
此の日は、知人のK場さん・I 田さん・O村さんが友達と一緒に来て5名で近鉄ハイク参加。
コースは  近鉄ハイキング 大和三山 
大和八木駅(10時集合)~耳成山~八木札の辻交流館~今井町~神武天皇陵~畝傍山
~橿原神宮~本薬師寺跡(ホテイアオイ鑑賞)~畝傍御陵前駅(ゴール)だったが少し変え、
今井町の前に入鹿神社・正蓮寺~今井町~畝傍御陵前駅前・餃子の王将で昼食~神武
天皇陵~橿原神宮~橿原観光ホテル(はにわ饅頭)~橿原神宮前駅(ゴール・解散)となり
ホテイアオイに大満足、其れに、はにわ饅頭も買え、私の万歩計は、25206歩で約15.1km
歩いたことに・・・
志都美駅
曇り空で葛城山がよく見えない
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換えへ
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神(か
しまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に源義朝(みな
もとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の
鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその時村人は塩餅
(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮座)が
あり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独特の伝
統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさん伝
わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃもんじょ)
が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で保管
されている。
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下田駅~
大和八木駅(10時集合)
耳成山へむかう
正面に耳成山
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秋近し?耳成山
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耳成山と耳成山山口神社の鳥居
今日は此処まで
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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耳成山口神社(みみなしやまぐちじんじゃ)
耳成山口神社は、奈良県橿原市の耳成山(大和三山)にある神社。「山口神社」とある
が山麓ではなく山の八合目程の位置にある。大和国の山口社六社(飛鳥・石村・畝火・
忍坂・長谷・耳成)のうちの1社で、皇室の舎殿用材を切り出す山の神として祀られてい
た。また、同境内には金刀比羅神社・稲荷神社・白龍大神も祀られている。祭神は、高
皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)、大山祗神(おおやまみつのかみ)
創建は定かではないが、古くは『正倉院文書』の正税帳の730年(天平2年)に天皇より
稲を給わったことや、『延喜式神名帳』に大社として月次祭・新嘗祭を仰せつかったと
の記載がある。また、806年(大同元年)や859年(貞観元年)9月などに、天皇の遣使
によって雨乞いの神事が行われたと記録が残っている。
1651年(慶安4年)、山之坊の村民が神木を伐り荒らしたことを切っ掛けに神社を中心
にした山の管理や所有争論が起こり、1702年(元禄15年)、「耳無山天神ハ式内之社
耳無山口神社」とすることで決着した。その後、山之坊の村民は神霊を山之坊山口神
社に遷座している。 この間、建物が焼失するなど荒廃していたが、1748年(寛延元年)
8月、耳成村の氏子らが現在に残る本殿と拝殿を再建し、石原田・木原・葛本・新賀・常
磐・山之坊地区の氏神として祀られている。
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木原古池
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八木札の辻交流館・・・橿原市HPより
市指定文化財「東の平田家(旧旅籠)は、平成24年7月14日より、八木札の辻交流館
として開館しました。建物の見学は無料です。2階を貸室としてご利用いただけます。
1階土間部分には、休憩していただけるようベンチとお茶を用意しております。
八木のまちを散策する拠点としてぜひご利用ください。
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接待場跡(せんたいばあと)・・・橿原市観光協会HPより
江戸時代、民達が集団的に参拝する「おかげ参り」が大流行し、大和、伊勢沿いでは
八木が最大の宿場町として接待連中が組織され「センタイバ」において湯茶や食事の
接待を行い、宿の世話をしました。
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入鹿神社へ向う
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横大路と太神宮灯籠(だいじんぐうとうろう)・・・橿原市観光協会HPより
横大路そいに有ります。200m東の「接待場跡」にあった灯籠を近年移設し、本来の方
位から45度傾けて設置されました。明和8年(1771年)の銘があり、「おかげ参り」が大流
行した年です。
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入鹿神社・正蓮寺 大日堂
入鹿神社・・・蘇我入鹿公を御神体とする神社
入鹿神社は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の東南部の一段高い所に西に向かって
建ち、もとは同寺の鎮守社であったと伝えられる。祭神はスサノオノミコトと蘇我入鹿の両
柱を合祀しています。現在の橿原市周辺は蘇我氏のゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」
といった地名も残っています。
神社の伝えによると、乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で中大
兄皇子や中臣鎌足らに倒された時、その首が小網町(しょうこうちょう)に飛んで来
たのを祀ったと言われている。入鹿は首を斬られたので、入鹿神社が首から上の
病に霊験あらたかと言う信仰がある。頭痛になやむ人々には同情的で頭痛に霊験
あらたかな入鹿神社として知られている。
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※入鹿神社の伝説 (橿原市小綱町)
蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねられたので、昔は小綱では鶏を飼わなかったといわれ
る。また、小綱で生れたものは多武峯へ参ると腹痛が起るといわれ、また、高市郡明日香
村の小原は藤原鎌足の母の出世地だというので、小綱と小原は縁組しないといわれた。

正蓮寺 大日堂
正蓮寺大日堂は廃寺真言宗高野山派仏起山普賢寺の本堂で、普賢寺の創建年代につ
いては全く明らかにすることはできないが、その建立年代は棟札により文明10年(1478)
の上棟であることが分かっている。
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今井町へ向かう
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今井町
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。
現在も町の大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。
江戸時代のまま残され、時代劇の撮影などにも使われる町並みは、世界的に貴重な
財産であり、平成5年には「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。
東西約600m、南北約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数約1500棟
弱のうち、約500棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています
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順明寺(じゆんみょうじ)
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の御堂と
もよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破風(ちどりは
ふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双金具(いりはっそう
かなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての確証はありませんが、文
献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが窺われます。扉以外はすべて
建立当初の材を残している、貴重な門です。1217年(建保5年)に照意房順明が十市
郡新賀庄に創始して、1626年(寛永3年)に現在地に移したと言われています。
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称念寺称念寺(しょうねんじ)
稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。現在
の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。寺の草創は室町末
期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井兵部卿豊寿がここ
に本願寺の道場を建てたのに始まる。豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊とした
が、本願寺の与力や本願寺の支城、我孫子の城主をも兼ねていた。
彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和議の使者のひとりとして兵部
も織田信長の元に赴いている。今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(159
2~1595年)で富綱のときで、時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なかん
ずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を
統轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果た
している明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。明治天皇は、
二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、御一泊の後堺に
向け御進発遊ばされた。西南の戦争の始まりであった。
平成十四年(2002年)五月二十三日、本堂、国の重要文化財に指定される。
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今井まちなみ交流センター華甍
奈良県指定文化財・旧高市郡教育博物館。今井町旧環濠外の東南部にある。2階建の
本館を中央に配し、両側に左右対称に翼廊がある。明治36年に建設された博物館であ
るが、昭和初年より約30年間今井町役場として使用されていた。外観は大和にふさわし
く、和風的にまとめた県下では数少ない明治建築である。江戸時代の町並を残す、今井
町の町並みについての展示コーナー、映像シアターまた情報提供の図書室等がある。
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高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
創祀年代は不詳だが、社伝によると成務天皇の御代に創立。 式内社・高市御縣神社
に比定されている古社で、高市県主に任ぜられた天津彦根命の後裔が祖神を祀った
神社。 大和には、幾つかの「御県に坐す神」が祀られている。延喜式では、高市、葛木、
十市、志貴、山辺、曽布の六社でその中の第一位。
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畝傍御陵前駅前 餃子の王将で昼食
本薬師寺跡周辺のホテイアオイへ
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本薬師寺跡(ホテイアオイ鑑賞)
ホテイアオイ
このホテイアオイは、米の生産調整の一環として休耕水田(面積約1.4ha)を利用して本
薬師寺跡(橿原市城殿町)周辺で栽培されているもので、約14,000株を毎年6月末頃に
「橿原市立畝傍北(うねびきた)小学校」の2年生の皆さんに御協力を頂き植え付けます。
花は8月下旬に見頃を迎え9月下旬にかけて咲き誇ります。その涼しげなすみれ色の花
は、素朴な農村景観に艶やかな風情を醸し出し、本薬師寺跡や大和三山(特に畝傍山、
香具山)の景観に溶け込んで、訪れる方々を大いに楽しませています。
ホテイアオイは葉柄(ようへい:茎の根元)の中央部がふくれ、これが浮き袋の役割をし
ています。名前の由来は、この姿を七福神の一人「布袋様(ほていさま)」のお腹に例え
たものです。蕾(つぼみ)が朝の太陽の日ざしにより花開き、夜になると萎んで、翌朝に
また新しい蕾が花開きます。特に日ざしが強い日は開花が多いようです。また、朝開花
した花は夜には萎んでしまうことから、水田一面に咲いていた翌日にはまったく咲いてい
ないこともあります。
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此処までは、
9月16日の大和の古道を通りホテイアオイ鑑賞-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-21
此処では、此の続きの 本薬師寺跡のホテイアオイ鑑賞~ の詳細を掲載します。
ホテイアオイ
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※畝傍山(うねびやま)・・・此の日は元薬師寺跡から眺めるだけ
畝傍山は、天香久山、耳成山と共に大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)には他の
2山と共に国の名勝に指定された。標高は198.8mと三山の中では最も高い。ただし、
山頂に有る三等三角点の標高は198.49mである。歴史的風土特別保存地区にも指定
されている。畝傍とは「火がうねる」の意味で有る。田の畝のようにくねくねした尾根を多
く持つことから名付けられたとも云われる。山頂への登山口は、東麓の橿原神宮側と、
西麓の畝傍山口神社側が有る。山頂からは天香久山や耳成山の他、遠く若草山なども
眺望する事が出来る。
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本薬師寺跡
本薬師寺は西暦680年(天武9)、天武天皇(てんむてんのう)が皇后(後の持統天皇)の
病気が治ることを祈願(きがん)して発願(ほつがん)した寺で、西暦698年にほぼ完成、
藤原京の四大寺の1つに数えられています。伽藍配置(がらんはいち)は、金堂の前面に
東西2つの塔を配置した薬師寺式(やくしじしき)と呼ばれる伽藍配置で、現在、西ノ京に
ある薬師寺と同じ伽藍配置となっています。また寺域(じいき)は、藤原京の右京八条三
坊の全域が寺域であり、造営に当たっては、寺域を東西に分けていた西三坊坊間路を
埋め立てたことがわかっています。
本薬師寺は、平城京遷都に伴い奈良に移りますが、建物や三尊(さんぞん)の仏像も全
て平城京に移ったのかという点が長い間、問題となっていました(薬師寺論争)。発掘調
査の結果、1.金堂や塔の規模や配置は平城京の薬師寺と変わらない、2.裳階(もこし)
の礎石は残っていないが、小さな軒瓦などが出土していることから、金堂・塔ともに裳階
付きの建物であったこと、3.奈良・平安時代の瓦が出土したことから、伽藍は修理され
つつ、平安時代まで存続したこと、4.創建(そうけん)時に葺かれた瓦が大量に出土した
こと、が明らかとなりました。つまり、平城京の薬師寺は、藤原京の薬師寺(本薬師寺)を
移築したものではなく、本薬師寺に倣(なら)って造られたことが確定したのです。しかし、
本薬師寺の三尊がどのようなものであったのかは依然、不明のままです。
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神武天皇陵へ向かう
※綏靖天皇陵(すいぜいてんのうりょう)・・・今回は行かなかった
第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。和風諡号は、『日本
書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では「神沼
河耳命」。神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事
績の記述は少なく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。 『日本書紀』によると、神渟
名川耳尊は神武天皇42年1月3日に立太子した。神武天皇76年3月11日に父天皇が崩御
した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くた
め弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そうとした。己卯年11月、この陰謀を知った神八井
耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天
津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町
付近か)の大室に臥せっていた手研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震
えて矢を射ることができず、代わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態
を深く恥じたため、神渟名川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることと
なった。 翌年(神武崩御の4年後;綏靖天皇元年)1月8日に即位し、宮を葛城高丘宮に遷し
た。その後、綏靖天皇33年5月10日に在位33年にして崩御した。時に『日本書紀』では84
歳、 『古事記』では45歳という。安寧天皇元年10月11日、遺骸は「桃花鳥田丘上陵」に・・・・
伝承:南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり、朝夕
に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」との虚言を
弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。

神武天皇陵(じんむてんのうりょう)
初代天皇とされる神話・伝説上の人物(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年3月
11日)。和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひこのすめ
らみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さののみこと)」、
諱は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。日本皇統の祖としている。神武天皇の即位月日とさ
れる1月1日(旧暦)は、明治に入り新暦に換算され、2月11日となり、日本国の建国の日と
して1873年(明治6年)に「紀元節」(祭日)と定められた。紀元節は1948年(昭和23年)に
廃止されたが、1967年(昭和42年)に「建国記念日」として国民の祝日となった。
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橿原神宮へ向かう
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橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を平定し
た神日本磐余彦尊かむやまといわれひこのみことは、この橿原の地に宮を建てて、初代
神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社を建てて神武天皇とそ
の皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命ひめたたらいすずひめのみことを祭神として祀ったの は、わ
ずか120年ほど前の明治23年(1890)である。日本最古の正史ともされる『日本書紀』に
おいて、日本建国の地と記された橿原。天照大神あまてらすおおかみの血を引く神倭伊
波禮毘古命かむやまといわれびこのみこと(後の神武天皇)が、豊かで平和な国づくりを
めざして、九州高千穂の宮から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山うねび
やまの東南の麓に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、
今からおよそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、日
本の原点です。
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橿原観光ホテル(はにわ饅頭)
橿原市のお土産に大人気?の「はにわ饅頭」を初めて購入、結構おいしかった

橿原神宮前駅(ゴール・解散)
橿原神宮前駅前の幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮前駅
中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご利用を」と呼び
かけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は神武天皇が橿原宮を開
いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹都市の盟約を締結した。これを機
に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島神社(宮崎市青島)近くの青島海岸に設置
され、人気を集めている「幸せの黄色いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内では初め
ての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思いを届けたい時、
ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッセージが・・・
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9月14日の奈良きたまち・歴史(とき)めぐり-2

9月20日          9月14日の奈良きたまち・歴史(とき)めぐり-2
                  JRふれあいハイキング 5.5㎞
此の日は久し振りに知人のY田さんと二人でJRふれあいハイキングに参加しました・・・・
コースは  JRふれあいハイキング  なら観光ボランティアガイドの会主催 参加費無料
JR奈良駅 奈良市総合観光案内所前(9:15集合)~旧奈良駅駅舎~開化天皇陵~浄教
寺~漢國神社~初宮神社~奈良女子大学~聖武天皇陵・光明皇后陵~多門城跡~旧
奈良監獄~般若寺~北山十八間戸~転蓋門(解散12:00頃)
解散後~昼食は来来亭でラーメン~近鉄奈良駅~JR奈良駅
旧奈良監獄へ行く迄は涼しい風もあり快適だったが以降はやはり暑くなり暑かった・・・
奈良愛にあふれたボランティアガイドの説明に聞き入り楽しいハイキングになりました。
知人と私は、1班16名でスタート、2班は10名以下で我々の後からスタートした様です。 
此の日の私の万歩計は、16797歩で約10km歩いたことに・・・
JR奈良駅 奈良市総合観光案内所前(9:15集合)
旧奈良駅駅舎(観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用さ
れていました。  日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、
その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の
荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそ
うです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが平成
13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったことによ
り、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的価値を踏
まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと鉄の棒(ころ)
による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年に観光案内所とし
て生まれ変わったのです。.
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棚田嘉十郎が建立した石碑・・・大極殿跡への道標を建立した。
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう)
日本の植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて平城宮の保存
活動を行った。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた。
江戸時代に幕府の役人北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年に奈良県
技官で東京大学名誉教授の関野貞・同奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された。
棚田は、観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、場所を知らず答えることが出来な
かった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡の保存と顕彰に
一生をかけることを決意した。
1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積みに
なっている有様を見て、次のように言って涙を流したという。

「 実に見る影もなき有様。之れを皇居の址と云はれ様か。 」

これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込んでいった。平城宮の啓発のため
に宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした。
また、1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織したほか、1912年3月には
当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。
朱雀門前に銅像が建立されており今でも平城宮跡を見守っています。
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の
第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる
「欠史八代」の1人に数えられる。
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浄教寺へ向かう
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浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延と
名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年(12
44年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がなかったが、楠
木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授かり、第7
世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるようになったという。
また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った。11世行心の代、享禄3年
(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、また永禄2年(1559年)
12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという。この頃より九条山と号するよう
になった。また天正19年(1591年)、行春は石山合戦の際の忠節を顕如上人から讃えら
れ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、現在地
へ移転した。
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漢國神社(かんごうじんじゃ)&林神社
漢國神社は、式内小社(論社)、旧社格は県社。祭神は、園神(そのかみ)として大物主命、
韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ
名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が園神
を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神
二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称して
いたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。
貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神と
したと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾している。

境内社として林神社がある
境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国か
ら来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因
が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合祀し、
饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。林浄因の命日である4月19日
には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神
前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわ
れる。また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の
原点として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、
巨石を伏せた饅頭塚もある。
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茶道発祥地への案内標識
茶礼祖村田珠光旧蹟称名寺 左と書かれた石碑
村田珠光
能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光 は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な
「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに大徳寺の一休宗純から学んだ禅の精神を加味し
て,精神的・芸術的内容をもつ茶道を作りました。
能阿弥が十八畳の書院座敷を用いたのに対し、珠光は四畳半の茶室を考案しました。
当初、広い座敷を屏風で囲って区切ったので、後に茶室は「かこい」とも呼ばれます。
茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを「限られ
た少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えたのでした。
東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云
われています。
村田珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎や千利休を経て今日に伝わり, 現存する各流
儀のいずれもが村田珠光をもってその祖としている。

※武野紹鴎(たけのじょうおう)
武野紹鴎は、1502~55(文亀2~弘治1)村田珠光の茶の湯を徹底して深化し、佗び茶の
根本を説いた戦国時代の茶人。珠光の四畳半茶の湯をいっそう清潤化し、小座敷のうちに
心のやすらぎを求める。これが紹鴎の創始になる佗び茶の真髄といわれる。津田宗久・今
井宗久は高弟にあたる。次代の千利休らに強い影響を与えた。
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奈良女子大へ向かう
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初宮神社
比較的立派な鳥居・社殿を持つ神社は、そのルーツを奈良時代に宮中で神祇官が天皇
を守護するためにお祀りしていた「八神殿」の存在にまでさかのぼる非常に歴史ある存
在となっており、ご祭神としてはその神祇八神である神皇産霊神(かんむすひのかみ)・
高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)・魂留産霊神(たまとめむすびのかみ)・生産霊神(い
けむすびのかみ)・足産霊神(たるむすびのかみ)・大宮売神(おおみやのめのかみ)・御
膳津神(みけつのかみ)・事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀るほか、春日大社の「若宮
神社」が創建された時期からは伊勢皇大神(いせすめらおおかみ)・春日大神・住吉大神
も合わせてお祀りしています。また、境内には小さなお社もあり、市杵島姫命(いちきしま
ひめのみこと) と稲荷大神がそれぞれ祀られています。
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奈良女子大学の重要文化財(・奉安殿・講堂・門柱)
「奈良女子大学」にある、明治末期に建てられた建築物『奈良女子大学記念館(旧本館)』。
重要文化財に指定されている貴重な建物です。
古くは奈良奉行所が置かれていた北魚屋東町・西町に位置する『国立大学法人 奈良女子
大学』。前身となる「奈良女子高等師範学校」は、1908年3月に設立されました。
その中心に建つ「奈良女子大学記念館」は、明治末期の1909年に「奈良女子高等師範学
校本館」として竣工したもの。1階は事務室、2階は講堂として利用されました。1990年に名
前を「記念館」と名称を改め、1994年には大規模な改修工事を行い、守衛室(附 正門)と
奉安殿とともに国の重要文化財に指定されています。
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奈良奉行所跡
奈良奉行所は、今の奈良女子大のところにあり、江戸幕府の設置した遠国奉行のひとつ。
奈良町中の行政・訴訟、大和国の寺社の支配、大和国の訴訟の一部を職掌としていまし
た。約29,000平方メートルの敷地があり、遠山金さんのいた江戸北町奉行所の3倍以上の
大きさ。奉行所として日本一の規模。堀で囲まれ、京都の二条城と同じ規模のまさにお城と
言えます。
有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていました。女子大前の道が広
いのは、ここで行列を整えたから。また、奉行所向かいの寺川道具店は、奉行所の中をのぞ
けないように2階に窓がありません。奉行所があったことの証人です。
又、佐保川堤の川路桜としても有名な幕末の名奉行川路聖莫(かわじとしあきら)が、弘化
3年(1846)からあしかけ6年間善政をひいたことで有名。
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聖武天皇陵へ向かう
桟瓦と丸瓦が混在のサンプルが・・・
瓦作りの技術は、中国から朝鮮を経て、寺院建築とともに日本に伝えられた。瓦といえば、
今日では一般に桟瓦(さんがわら)を連想するが、古くは丸瓦と平瓦を組み合わせて葺き
上げていく方法、すなわち本瓦葺きが基本的な葺き方であった。日本では瓦作りが始まっ
た当初から、丸瓦は重なりを考慮して一方を狭く作る行基葺き式のものと、重なりの部分
に玉縁のつくものとが混在していた。…
左が丸瓦で右が桟瓦(さんがわら)
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聖武天皇陵へ向かう
佐保川の向うに天皇陵
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聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう)-756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武天皇の
第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月
15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会
うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢
37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇
(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇
子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤
原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天
皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正
天皇より皇位を譲られて即位することになる。聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する
長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:
県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即
位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は
光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自
害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長
屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄
弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入っ
たが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血
縁の者である。天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとん
どが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じ
て辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷
都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫
香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付け
は定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火
災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。天平年間は災害や疫病(天然痘)が
多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平
15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を
行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)
が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私
財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年
閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒
殺と見る説がある。天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲
位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷
が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
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右手は光明皇后陵
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光明皇后陵へ
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此処までは、
9月14日の奈良きたまち・歴史(とき)めぐり-1 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-19-1
此処では、続きの光明皇后陵~ のついての詳細を掲載します。
光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年)-天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、
奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である
藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とう
さんじょう)。正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。
皇族以外から立后する先例を開いた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、
阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階
である夫人号を得る。神亀4年(727年)、基王を生んだ。神亀5年(728年)、皇太子に立てられ
た基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平
元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。 娘である阿倍内親王の立太子、およびその
後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の
藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天
皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に
葬られた。光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を
行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創
設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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多聞城跡へ向かう
佐保川
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多門城跡
永禄2年(1559)に松永久秀が築城。天正4年(1576)に信長によって、跡形もなく破壊さ
れました。わずか17年間の城ですが、天守閣や多聞櫓を備えた白亜の城の最初であり、
安土城をはじめとするその後の城郭のモデルとなった画期的なものでした。
ポルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダが、「世界中でこの城ほど美しい城はない」と記録。
城跡からは東大寺や興福寺が足元に広がり、久秀の大和支配の気持ちを凝縮しており、
見せる城として豪華なものであったそうです。
久秀はさかんに茶会を催しており、今井宋達や宋久といった名前が見えます。柳生石舟斎
は久秀の武将として活躍しています。奈良に戦国の城があったという歴史。
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多聞城の有った場所は
若草中学校
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市街地や東大寺大仏殿の裏手が見下ろせる
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切通しを見て
旧奈良監獄へ向かう
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旧奈良監獄前の駐車場
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旧奈良監獄
奈良の観光名所、東大寺などからほど近い丘の上に佇む「旧奈良監獄」。江戸時代から
の奈良奉行所の流れを組みながらも、司法の近代化を掲げて造られた「明治五大監獄」
として、唯一原形を保っています。数多くの受刑者と、彼らの更生を見守ってきたロマネス
ク様式のれんが建築は、竣工から100年あまりの時が過ぎた現在もなお、その威厳と美し
さが衰えることはありません。
旧奈良監獄は、明治五大監獄(千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島)の一つとして、1908年
(明治41年)7月、当時司法省に勤め、数多くの刑務所や裁判所の設計を手がけた山下啓
次郎氏の設計によって建てられました。建設の大半は受刑者の労働によって作り上げられ、
使用されたれんがも構内に窯を築いて自給されたと伝えられています。
現代でも美しく重厚なイメージを残すロマネスク様式の赤れんが建築は、随所に当時の先
進的な技術や意匠が取り入れられ、赤れんが造りの塀で囲まれる、およそ10万6千㎡の
敷地の中央には、「ハビランド・システム」と言われる放射状に伸びた収容棟が配置されて
います。2017年(平成29年)3月まで、百有余年に亘り刑務所としての機能を果たし、日本
最古の刑務所建築としてその全貌を残した旧奈良監獄は、同年2月に、重要文化財に指
定されています。2021年に星野リゾートのホテルとして生まれ変わる事になります。
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門扉の中は?
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般若寺へ向かう
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般若寺
真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。般若寺
の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確な
ところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良
時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。
寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖
武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、
これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇
の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。
寺伝によると遠く飛鳥時代の開創という名刹寺院とのことです。宗派は西大寺の叡尊が再
興したのをうけて「真言律宗」、山号は「法性山(ほっしょうざん)」です。般若寺の名称は「般
若経」から付けられたもので、それ故般若経と強く関わりのあった「文殊菩薩」を本尊として
おります。「般若」とは「智慧」という意味ですが我々が知るのは「嫉妬に狂った鬼女を表した
般若の面」「般若湯(酒)」などがあり、それになんといってもお経と言えば「般若心経」であり
ます。昔、般若寺といえば医療施設を備えて病人や貧困者の救済事業に力を注いだという
庶民にはとっては大変有難いお寺だったようでその証が「北山十八間戸」と云われる。 
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宇治川中之島の十三重搭に次いで2番目に高い
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夕日観音
室町時代の夕日地蔵があり、会津八一のうたに詠まれています。
「ならさか の いしの ほとけの おとがいに こさめながるる はるは きに けり」
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北山十八間戸
わが国最古の病院として著名な「北山十八間戸」です。
「法華寺のお話」で「光明皇后」が治療されたわが国最初の「ハンセン氏病(癩)」患者の病院
だった所の様です。江戸時代の再建とはいえ管理がよく行き届いたきれいな建物です。
しかし、鎌倉時代に、「文殊菩薩」に深く帰依された「西大寺」の僧「忍性」によって創建された
との説もあります。忍性はハンセン氏病などの救護と治療の慈善事業に大変尽くされました
のでその功績に報いて諡号「忍性菩薩」が贈られました。それと、忍性は般若寺の再建に尽
力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われていた影響でこの病院を創設され
たと考えるのが穏当かもしれません。
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古い建物を見つけた・水道局跡?
奈良市水道計量器室
転害門から般若寺へ向かう道にある煉瓦造りの小さな建物。既に屋根がない?
ほぼ廃墟化している。煉瓦造り、 旧奈良市水道計量器室 1920(大正9)年頃、
正面上方に右から「奈良市水道計量器室」という漢字が見えます。
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転蓋門へ向かう
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今在家町の佐保川に架かる長さ15mの大きな石橋。
かつての奈良街道の賑わいを示す証人。石橋研究家にも知られていない橋でした。
今在家町の石橋は、慶安3年といいますから、今から353年前の1650年に架けられた記
録が残っています。これは九州の橋を含めても全国20番目ぐらいの古さで、大変貴重な石
橋であるといえます。
東大寺の元禄の復興の時に、木津から荷揚げしたが木材が運ばれましたが、25トン長さ2
5mにもおよぶ巨大な梁や柱が無事佐保川を渡る事ができたのも、この石橋のおかげです。
東大寺とも縁の深い橋です。
京都や伊賀、八幡への玄関口として重要な橋であり、奈良奉行所によって南都で唯一架け
られた橋です。
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転蓋門(解散12:00)
転蓋門(てがいもん)
東大寺の転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10
年)の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像
できる唯一の遺構(国宝)。 転害門は、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書かれた。
寺の西北にあるので「西北大門」、この門が佐保路(一条大路)の起点となっているので「佐保
路門」とも呼ばれている。「転害門」は、宇佐八幡宮が勧請されるときに八幡神がこの門から入
り、みちみち殺生が禁止されたから、又は、手向山八幡宮の「転害会」の渡御がこの門まで行
われるから「転害門」と呼ばれるようになったといわれ、行基が大仏開眼の導師菩提僧正をこ
の門のところで手招きしたから「手掻門」と書いたともいう。また、大仏殿落慶供養に参列した
源頼朝を暗殺するために悪七兵衛景清(平景清)が隠れていたため「景清門」と呼ぶともいう。
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1400年間風雨にさらされた柱
南向きに見事な節々が綺麗に揃っている
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昼食は来来亭でラーメンを食べて~近鉄奈良駅~JR奈良駅迄歩いて・・・

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9月11日のリーダーと歩こう・日本最古の橋とコリアタウンー2

9月12日       9月11日のリーダーと歩こう・日本最古の橋とコリアタウンー2
                   JRふれあいハイキング 10㎞コース
此の日は、JRふれあいハイキングに1人で参加、参加者97名、大坂城公園噴水前~鶴橋駅迄
歩き、汗かきの私は大汗をかいて歩いたが木陰はわりと凄し易く皆さん涼しそうに?歩いてた。
コース  JRふれあいハイキング 大阪・関西歩け歩け協会主催  参加費@300円
森ノ宮駅~5分~大阪城公園噴水前(10時集合)~難波宮跡~玉造カトリック教会~玉造稲荷
神社(水分補給)~三光神社~旧真田山陸軍墓地~真田山公園(トイレ休憩)~産湯稲荷神社
~上本町6~上本町9~五条運動公園(昼食休憩)~桃谷駅前~鶴の橋跡~御幸橋(ゴール)~
(自由散策)コリアタウン~御幸森天神宮~彌榮神社~鶴橋本通商店街~鶴橋駅
此の日の私の万歩計は、17113歩で約10.2km歩いたことに・・・
森ノ宮駅
大阪城公園噴水、噴水前の木陰に集合
大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西の丸庭園の
桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山地区は森林公園となって
おり、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩う姿も見られ、都会のオアシスとして
市民から愛されている。
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朝礼&柔軟体操
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出発
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難波宮跡へ向かう
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難波宮跡
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上町台地
の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完
成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でお
こなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』に
は「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽く
せないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、
655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。683年(天武12年)には天武
天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮
室が全焼してしまった。
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玉造カトリック教会
カトリック玉造教会マリア大聖堂
カトリック玉造教会のHPより
1894年、この玉造の地に聖アグネス聖堂が建てられ、マリー神父が初代主任司祭となって
玉造教会が誕生しました。その聖堂は戦災によって焼失しましたが、その後、仮聖堂を経て、
ザビエル来日400年記念の年に建設された聖フランシスコ・ザビエル聖堂に引き継がれ、
1963年3月に、現司教座聖堂「聖マリア大聖堂」へと生まれ変わりました。その大聖堂の西
北には、細川越中守の屋敷跡と伝えられている「越中井」が残されており、細川ガラシア夫
人を記念して辞世の句碑が建っています。現在の聖マリア大聖堂は、鉄骨鉄筋コンクリート
建て、建坪2450平方メートル、軒高20メートル、青銅板葺きの大伽藍です。大小およそ100
個の窓は、通風窓をのぞき、ステンドグラスで、イエス・キリストの生誕と洗礼、聖母マリアの
生涯、そして小聖堂には日本人に福音を伝える聖フランシスコ・ザビエルが描き出されていま
す。 大聖堂前広場の両端には、高山右近と細川ガラシア夫人の石像が有ります。
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玉造稲荷神社(へ向かう
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玉造稲荷神社(水分補給)
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年
に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き
「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたとところ、後
に枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。その後、天正4年の兵乱に
より本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿
(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和
5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は
豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、
史料に残っています。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月
の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建。現在の「玉造」の社名は
鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作っていた玉作部の居住地であった
という伝承がある。
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三光神社へ向う
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三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原
の遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神
社となった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創
建以後神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事とし
て六月一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ
全国各地からの参拝者が絶えない。
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真田幸村像&大阪城への抜け穴&水分補給
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、
その台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて
真田石)が置かれている。
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真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城
(えんげつじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと
言い伝えられ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
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旧真田山陸軍墓地へ
※旧真田山陸軍墓地
この墓地は明治4年の創設で、日本でもっとも早く設置された陸軍墓地である。墓地には
西南の役、日清日露及び今次大戦に至る戦没者将兵ら5,300余柱もの墓石が整然と並
び霊堂には43,000余柱の遺骨が祀られている。外国人名が刻まれた墓石も有るとか・・
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旧真田山陸軍墓地~真田山公園(トイレ休憩)
真田山公園(トイレ休憩)
真田山公園は、1939年(昭和14年)大日本帝国陸軍騎兵第4連隊跡地を整備して開園
した。1889年(明治22年)から1932年(昭和7年)の南河内郡金岡村移転まで、当地には
騎兵第4連隊の兵営が置かれていた。現在は大阪府立天王寺スポーツセンター(真田山
プール・アイススケート場)、大阪市立真田山野球場、真田山庭球場が設置されている。
公園周辺は、1614年の大坂冬の陣で真田信繁(幸村)が活躍した古戦場として知られ、
公園の北側には旧真田山陸軍墓地がある。
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此処までは、
9月11日のリーダーと歩こう・日本最古の橋とコリアタウンー1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-12
此処では、続きの産湯稲荷神社へ向う~ についての詳細を掲載します。
産湯稲荷神社へ向う
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこと)
は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷に誕生
した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」という。 父は
神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」としている。
すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人である。 この誕生
のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。また、一説では生野区
にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小橋命に関わる伝承は多い。
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上本町6~上本町9~五条運動公園(昼食休憩)~桃谷駅前へ向かう
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桃谷駅前
※桃谷駅
江戸、明治時代に桃畑が続いて「桃山」「桃谷」と呼ばれた事が駅名の由来です。当初
は桃山駅でしたが、明治38年(1905)に伏見桃山駅と混同するので改名しました。太古
の昔は此の辺りは河内湖が広がって大陸の交易船が行き交ったといいます。桃も中国
の舶来植物ですが、大陸文化の香りを感じる駅名です。
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桃谷商店街
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振り返ってみると
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鶴の橋跡
『日本書紀』仁徳天皇14年の条に、猪甘津(いかいのつ)に小橋(おはし)を作った記事が見
える。記録に残る日本最古の橋で、それは平野川(旧大和川)に架けられたものである。名の
由来は、鶴が多く集まっていたからとも言われた。また、「津の橋」がなまったからとも言われ
ている。明治7年、平野川浚渫のとき木橋から石橋に架け替えられた。
そのときの親柱を記念に残し大きな橋跡の碑が建てられた。河内湖の小橋の江と呼ばれた入
り江には、百済川(後の平野川)が注ぎ込んでいたのですが、その河口付近には、人や物資を
運ぶ猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる港が設置されていて、たいへんな賑わいだったのだそう
です。その場所に架けられた猪甘津橋(いかいつのはし)は、まさに古代の交通の要所でした。
高津宮(こうづぐう)のあたりには、その昔、仁徳天皇が政治を行った高津宮(たかつのみや)
があったとされていますから、天皇のおわす都から官道が河内へ、そして大和へとつながって
行く・・そのための橋だったわけです。やがて、江戸時代の頃から、この橋は鶴橋(つるのはし)
と呼ばれるようになります。
猪甘津橋が鶴橋と呼ばれるようになったのは、この橋の北のあたりに鶴が多く集まった事から
とも、猪甘津を略して津(つぅ)の橋と呼ばれていたのが、いつしか変化した物だとも言われます。
明治七年(1874年)に、鶴の橋は石橋に架け替えられます。そんな日本最古の橋も、大正12年
(1923年)の耕地整理によって、平野川がルート変更となり、新平野川となったため、不要となっ
た旧平野川が埋め立てられてしまい、鶴の橋も廃橋となり、其の使命を終えました。江戸時代に
は、長さ二十間(36.4m)、幅七尺五寸(2.3m)もあった巨大な橋は、この時に、歴史の彼方へと
消え去ったのです。
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御幸橋へ向かう
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御幸橋(ゴール)~(自由散策)コリアタウン
御幸橋~コリアタウンを撮る
生野(いくの)コリアタウンは大阪市生野区の北東部、鶴橋駅から南東へ800mほどの 所
にあるまちです。御幸(ごこう)通りは市道上新庄生野線(通称「疎開道路」)との 交点から
東へ、平野川に架かる御幸橋まで、東西約500mにわたって伸びる商店街。
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生野コリアタウン
御幸通の3商店街(通称:生野コリアタウン)は1600年の歴史ある御幸森神社のお膝元、東
西450m程に約120店舗が軒を連ねる商店街です。大正時代に旧猪飼野と呼ばれた。人口
の増加に伴い市街化していく中、鶴橋公設市場が開設され、日本にある一般的な商店街と
して発展していきました。現 在の生野区(当時は東成区(郡)の一部)は大正時代、大阪が大
大阪(だいおおさか)と呼ばれた当時急速に市街化していき、多くの中小零細企業が集まりま
した。生活の苦しかった朝鮮半島の人々は既に韓国併合が行われていたことにより、日本に
職を求めて移住するようになります。特に大正末期に就役した「君が代丸」により、済州島か
らの移住者が増大します。その人々こそ経済成長著しい大 阪の中小零細企業にあって特に
避けられがちな労働や雇用需要を担ったのです。出稼ぎ労働者が増えてくると、今度は同胞
を相手に商売(といってもゴザに物品・食品を並べる程度)を行い始る人々が現れ、その界隈
が朝鮮市場と呼ばれるようになります(現在の御幸通の裏手)。戦 争が激化し大阪にも空襲
が行われると、それまで御幸通で商売をしていた旧日本人店主たちが疎開を始めるようにな
ります。疎開の際、「店舗は空襲の被害にあうかもしれない」「ほうっておいては店舗・家屋が
痛む」と考えた旧店主達は、それらを安く貸したり売ったりするようになりました。この時、御幸
通の裏手で商売をしていた人たちを始めとして在日韓国・朝鮮人達が御幸通で店舗を構える
ようになります。この頃を境に御幸通商店街が特異な商店街としての発展を見せ始めます。
昭 和30年代~50年代前半にかけては日本の高度経済成長もあり、韓国・朝鮮の食品や物品
がひとところに集まる商店街としてその隆盛期を迎えます。近隣の在日韓国・朝鮮人だけでな
く、大阪府下を始め近畿地方の各地から仕入れに訪れる業者で商店街がひしめき合う状態で
した。ところが昭和50年代後半頃から陰りを見せ始めます。最初期の渡航者から数えると50
年程経つ中で、在日韓国・朝鮮人の生活様式の変化、日本経済の成熟、後継者の不在等来
街者が目に見えて減少していきました。そんな時、危機感を覚えた当時の商店主達が、御幸
通をただの商店街で終わらせるのではなく新たな顧客を呼びこむために御幸通を特色ある商
店街として訴求していく"コリアタウン構想"を掲げます。しかし当初コリアタウン構想を立ち上げ
たとはいえ、社会見学やフィールドワークの学生等、新しい来訪者の方への対応に商店主達が
戸惑いを見せるような状態でしたが、特徴的な門や舗装道路が完成し、その後日韓共催ワール
ドカップ、冬のソナタに始まる韓国文化への関心が高まると、コリアタウンとして商店街に注目が
集まるようになりました。現 在ではお買い物のお客様だけなくフィールドワークや社会見学、修
学旅行の来街者も年々増加しております。
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御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、大阪府大阪市生野区(旧摂津国東生
郡猪飼野村)にある神社である。 仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村
の氏神である。
御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいの
つ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する。猪甘津は日本書紀仁徳天皇十四
年の条に記され、猪甘部(いかいべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいた。猪甘
部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていた。また付近は百済野と呼ばれ
百済からの渡来人が多く住んでいた。水鳥が集まる景勝地であったとも伝えられてい
る。伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々
この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。仁徳天皇
崩御の後の反正天皇2年406年、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸
宮と称されたと伝えられている。
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コリアタウンを抜けて彌榮神社へ
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彌榮神社
彌榮(やえい)神社は、文禄年間(1592年~1595年)に島根県八束郡(旧出雲國意宇郡)
の旧國幣大社熊野神社より御分霊を移して御祭りしたと旧記にあります。創立以来、旧木
野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕していました。明治5年村社に列せ
られ、神職を置き奉仕し、また社号もこの時に彌榮神社と改めました。
弥栄神社は、御幸森天神宮と並んで、コリアンタウンに鎮座する仁徳天皇と大変縁の深い
神社として有名です。弥栄神社は古くから地元の氏神様として、鶴橋・桃谷の人々に篤い
信仰を集めている歴史ある神社。特にこの界隈は、商店街通りとして、個人商店が多く立
ち並ぶので、商売繁盛の神としてお稲荷さんにお参りする人も多く、お参りが絶えない神
社として、地元の人たちに愛されています。
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屋榮神社~鶴橋本通商店街を通って鶴橋駅へ
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鶴橋本通商店街
鶴橋駅前に広がる「鶴橋商店街」の歴史は古く、1947年に鶴橋国際商店街連盟として結
成したのが始まりです。連盟には、5か国の人々が集結し、会員数は1,200人を上回り、
店舗数は300を超えたといわれています。鶴橋商店街振興組合・鶴橋西商店街・高麗市
場・鶴橋卸売市場・鶴橋本通鶴進会・御幸通商店街と大きく6つの市場に分けられており、
通称「つるしん」と呼ばれる「鶴橋商店街振興組合」がメインストリートになります。
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鶴橋駅
鶴橋駅~環状線で天王寺駅~大和路快速で王子駅へ
王寺駅~バスで自宅もよりの停留所へ
停留所~高速度呂の裏道で・・・
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9月7日の初秋の竹之内街道とワイン飲み比べ-2

9月10日        9月7日の初秋の竹之内街道とワイン飲み比べ-2
                  近鉄ハイキング古市駅~5㎞コース
此の日は知人の・O村さん・K場さんと3名で近鉄ハイキングに参加、今シーズン56回目、
未だ未だ残暑厳しく、8月の真夏のハイキングと変わらない暑さの中でのハイキング・・・
コース  近鉄ハイキング56ケ目のスタンプ 
古市駅(9時40分集合)~白鳥神社~竹之内街道~西琳寺~ふれあいスポット竹之内~
石川を渡る(臥龍橋)~出会いの道~杜本神社~河内ワイン館(無料試飲有り)~飛鳥戸
神社~飛鳥ワイン(無料試飲有り)~上ノ太子駅
此の日の私の万歩計は、13452歩で約8km、最後の飛鳥ワインで葡萄果汁飲んで休憩。
古市駅(9時40分集合)
受付を済ませて日陰の白鳥神社で二人の到着をしばし待つ・・・
白鳥神社
白鳥神社縁起によると、もとは軽里西方の伊岐谷に創建された伊岐宮(いきのみや)が
本来の宮であったようだ。その後、戦火に追われ峯ヶ塚古墳墳頂に小さな祠として祀ら
れていたものが、慶長の大地震(1596年)で倒壊し荒廃していたものを、江戸時代初め
の寛永末期(1640年頃)に現在の地に遷座したと伝えられている。
祭神は、江戸時代には白鳥大明神、午頭天王(ごずてんのう)、婆利妻女(はりさいにょ)
の三神が祀られていましたが、現在は日本武尊と素戔鳴命(すさのうのみこと)が祀られ
ています。秋には、だんじりが町内をめぐり、大変にぎわいます。
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※日本武尊
「古事記」「日本書紀」に登場する古代の英雄。景行天皇の皇子として生まれ、天皇の命
により九州の熊襲(くまそ)や東国の蝦夷(えみし)と戦い、東国遠征からの帰途、伊吹山
の神にたたられ、伊勢国の能褒野(のぼの)で亡くなり葬られました。しかし、やがて白鳥
に姿を変えて飛び立ち、大和の琴弾原(ことひきのはら)を経て河内の旧市邑(ふるいち
のむら)に舞い降り、そこにも陵(みささぎ)(墓)が築かれますが、ついに、再び白鳥と化
して天に上ったといいます。

竹之内街道
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。
このことから、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹
内街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を伝えた。
中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見せ、場所ごとに
様々な表情を浮かべる。
1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺産を通して感じさせる日本最古の国道。それが
竹内街道・横大路(大道)。
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西琳寺(さいりんじ)
西琳寺(さいりんじ)は、応神朝後期の渡来した百済(くだら)の学者王仁(わに)博士が帰
化し、その後裔である河内の文氏が文化の発展に努めた際に、欽明天皇のときに自宅の
一部を精舎としたのが起源となっているといわれています。境内にある巨石は、仏教考古
学上でも珍しい形式の五重塔の心礎であり、約7500貫(28トン)の塔礎は飛鳥朝様式とし
ては最大級のものです。
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ふれあいスポット竹之内
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石川を渡る(臥龍橋)
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出会いの道
飛鳥川の旧河川敷を利用して、古墳時代・飛鳥時代の時の流れや変化を表現した遊歩道
です。「人」・「時」との出会いの空間を創造しています。
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竹之内街道
「緑の一里塚」の第7号
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飛鳥川絵を渡り
河内ワイン館へ向かう
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杜本神社(もりもとじんじゃ)
駒ヶ谷駅から東に約10分程歩いた宮山頂上付近にある神社です。現在の祭神は、経津主
命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命(ふつぬしのひめのみこと)とされていますが、平安初
期には百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏(あすかべし)を祀る
神社であったようです。
藤原永継の子・冬嗣(ふゆつぐ)は、嵯峨天皇のときに起こった薬子の変を契機として設置
された蔵人所の初代蔵人頭に任命され、急速に力を伸ばしていきました。そして永継とそ
の祖先神を祀っていた杜本神社は、大・小の官社(式内社)とその祭神を記した『延喜式
(えんぎしき)』のなかでもっとも格式の高い名神大社として位置づけられ、宮中の月次祭
(つきなみのまつり)や新嘗祭(にいなめさい)には朝廷から勅使(ちょくし)が派遣されまし
た。その後織田信長の高屋城(たかやじょう)攻めの兵火を受けて焼失し、さらに豊臣秀吉
のときには所領を没収されるなど衰退していましたが、江戸時代に金剛輪寺(こんごうりん
じ)(杜本神社の神宮寺)の住職・覚峰(かくほう)によって再興されて現在に至っています。
祭礼は春が4月8日、秋が10月7・8日で、後醍醐(ごだいご)天皇・後村上(ごむらかみ)天
皇の書状や人身獣面の隼人石などが残されています。
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此処までは、
9月7日の初秋の竹之内街道とワイン飲み比べ-1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-10 
此処では、続きの河内ワイン館~ についての詳細を掲載致します。
河内ワイン館(無料試飲有り)
羽曳野市を中心とした南河内地方でブドウの栽培がはじまったのは、明治時代中期の事。
昭和に入ると、全国一の生産高も記録しますが、昭和9年の室戸台風により、ぶどう畑は
大きな打撃を受けます。
これを契機として、ブドウを原材料とするワインの生産を志した人物こそ、河内ワイン館を
営む株式会社河内ワインの創業者・金銅徳一氏でした。果実酒製造免許を取得した金銅
氏は金徳屋洋酒醸造元を設立。以後、ワインをはじめとする数々のお酒を製造・販売しま
す。昭和53年には地元で収穫されたブドウを100パーセント使った「河内ワイン」を発売し、
河内ワインのブランド化がはかられました。現在の社名である株式会社河内ワインに名称
が変更されたのは、平成8年のこと。今回、ご紹介する河内ワイン館はその社名の変更を
契機として、平成9年に建てられています。
河内ワイン館の2階には、金徳屋洋酒醸造元時代の貴重な文物が展示されており、河内
ワインの百年近い歴史をうかがい知ることが出来ます。

今回のハイキングでは隣接する工場が試飲会場だったので此のワイン館には入らず・・・
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飛鳥川沿いを
飛鳥ワインへ向かう
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チョウヤ梅酒の葡萄畑が・・・
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此処は秋の恵み
クリの木に実がたわわに・・・
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飛鳥戸神社の参道の鳥居が・・・
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飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
竹内街道に沿う飛鳥の丘陵上に鎮座する神社です。平安時代中期、延長5(927)年に完成
した『延喜式』には名神大社として記載されています。現在は素戔嗚尊(スサノオノミコト)を
祭神としていますが、5世紀後半に来朝した百済の王族、琨伎王[昆支王](こんきおう)を祭
祀しているという説があります。
羽曳野市東部から柏原市南部にかけての地域は、古代の安宿郡にあたり、琨伎王を祖と
する飛鳥戸造の一族の本拠地とされています。飛鳥戸神社の周辺には百済の横穴式石室
の構造と関係があると考えられる観音塚古墳や、渡来系氏族との関連が考えられる竈(かま
ど)や甑(こしき)などを表したミニチュアの炊飯具を副葬した横穴式石室をもつ、飛鳥千塚古
墳群があり、飛鳥戸造一族との関係を考える説があります。
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門前の木陰のベンチで昼食休憩・午後神社本殿へ・・・
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※飛鳥戸氏
河内飛鳥戸郡を本拠とする渡来系の古代氏族で、飛鳥部、安宿戸、安宿と書くこともありま
す。百済(くだら)の比有王(ひゆうおう)の子、昆伎王(こんきおう)が、雄略天皇の頃に日本
に渡ってきたのが始まり伝えられています。

飛鳥ワインへ向かう・看板が見えて来た
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飛鳥ワイン(無料試飲有り)
飛鳥ワインは元はぶどう農家で、昭和9年に室戸台風によって傷んで市場に出せなくなった
ぶどうを何とか商品にできないか、とワイン作りを商売にしたのが始まりで、戦争の際に一度
酒造の免許を返納しているそうですが、先代がワイン作りのために免許を取り直し、以降続
いているそうです。
昔は状態が悪く売れない生食用のぶどう、デラウエア100%でワインを作っていたことから、
品質的には低いものが多かったそうですが、現在の飛鳥ワインでは除草剤や農薬をなるべ
く使わずにワイン用のぶどうやデラウエアでもワインに向くようにホルモン処理をしていない
ものを特別に育成し、上質なワインを作られています。
そのこだわりは、全国環境保全型農業経営コンクールにて奨励賞を受賞するほど。
また、2007年に大阪エコ農産物認証制度の認証を受け、認証を受けたぶどうのみを使用し、
加工してできた~飛鳥の秀逸畑シリーズ~“早摘みのデラウェア”は大阪エコ農産物観光品
第一号として認定されています。

先ず工場で試飲を済ませて・・・
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2階のカフェへ
ワインや果汁を楽しみ此処で暫く休憩
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上ノ太子駅へ向かう
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上ノ太子駅前
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私は、上ノ太子駅~道明寺駅
道明寺駅で柏原へ
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9月4日の扇町公園~OAP~スカイビル~グランフロント大阪-2

9月9日   9月4日の扇町公園~OAP~スカイビル~グランフロント大阪-2
              JRふれあいハイキング 天満駅~10㎞コース
コース  JRふれあいハイキン  大坂・関西歩け歩け協会主催  参加費@300円
天満駅~徒歩5分~扇町公園(10時集合)~OAP~源八橋~毛馬閘門跡~本庄公園~
中津中央公園~梅田スカイビル~グランフロント大阪(14:00頃)~徒歩5分~大阪駅
此の日は1人で参加、今回で2枚目のカードが丁度満杯になり、参加費が無料になった。
此の日の参加者数は128名、毛馬閘門跡は工事中の為入れない、との事でカットされ、
此の日の私の万歩計は、16683歩で約10km歩いた事に・・・
カンテレのマスコット 「ハチエモン」
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実際に歩いたコースは
天満駅~徒歩5分~扇町公園(10時集合)~西天満~大塩平八郎墓所~天神橋筋商店
街~緒方洪庵墓所・大村益次郎足塚~OAP(トイレ休憩)~大川・源八橋・源八渡し跡碑
・毛馬桜ノ宮公園~都島橋~飛翔橋~長柄東公園~毛馬橋~長柄八幡宮~本庄公園
(昼食トイレ休憩)~梅田スカイビル~グランフロント大阪(14:00頃)~徒歩5分~大阪駅
天満駅~徒歩5分~扇町公園(10時集合・スタート)
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受付 今日は3枚目のカードを頂きました。
大阪・関西歩け歩け協会の参加カード2枚目が満杯になり今日の参加費は無料
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朝礼&柔軟体操
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スタート
西天満へ向かう
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西天満与力町
大塩平八郎墓所・・・成正寺(日蓮宗)の門前にあります。
大塩平八郎は、江戸時代末期に幕府という巨大権力の腐敗に抗議して立ち上がり、明治
維新の先駆けとなった人物です。成正寺の山門の前に中斎大塩平八郎墓所 碑があり、
本堂の前右側に大塩平八郎と息子格之助の墓があります。左側には大塩の乱に殉じた
人々の碑があります。境内は自由に入ることができます。
「大塩平八郎の乱」は、江戸時代の天保8年(1837年)に、 大阪町奉行所の元与力大塩
平八郎(中斎)と、 その門人らが起こした江戸幕府に対する反乱です。 いわば、幕府側の
人間が幕府に対して反乱したわけです。 乱を起こしたころには、養子の格之助に家督を
譲って隠居していました。天保の大飢饉により苦しみが増した百姓たちを助けるために立
ち上がったのです。結局、幕府に捕らえられてしまいました。
江戸時代には、大塩親子の墓を造るのは禁じられていたが明治になって作られました。

天神橋筋商店街を横切る
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西天満同心町の「龍海寺」の門前に
緒方洪庵墓所・大村益次郎足塚の碑が有ります。
洪庵は、晩年、幕府の要請により、江戸で奥医師をしていて、そこで亡くなっているので、
東京にもお墓があります。大阪の龍海寺は、元々が緒方家の菩提寺で、奥さんの八重
さんのお墓もこちらにあります。
龍海寺の門前には、「緒方洪庵墓所」刻まれた碑と大村益次郎の足塚の碑が建てられ
ています。
適塾・・適塾は江戸時代の蘭学塾であり、優れた塾生を多く輩出したことでも有名です。
適塾は、幕末の蘭学者・医学者の緒方洪庵が現在の大阪市中央区に開いた蘭学塾で
あります。
また、緒方洪庵は日本医学の近代化にもっとも貢献した医学者の一人であるともいえ
ます。医学書を著すだけにとどまらず、一人の医者として、実に高い行動力を持ってい
たことがその功績からわかります。たとえば、長崎から入ってきたコレラはまたたく間に
大阪まで広がり、「三日ころり」という名前で恐れられました。洪庵はこの未知の病気に
対して「虎狼痢(ころり)治準」というコレラの予防書を刊行しました。多くの医者がこの本
を頼りにコレラの治療にあたったそうです。また、洪庵は天然痘の予防のため、種痘事
業にも尽力しました。人痘種痘法よりも安全で確実な牛痘種痘法を普及させるために
大変な努力をされたという事です。現在適塾の南にも除痘館(種痘所)が残っています。

大村益次郎の足塚は、切断された右足が、洪庵夫妻の墓の隣に眠っているそうです。
洪庵の墓の傍に埋葬してほしいという、大村益次郎たっての遺言だったそうです。
※大村益次郎 本名、村田蔵六(むらたぞうろく)。大阪市中央区法円坂2丁目1番に
大村益次郎卿殉難報国の碑(おおむらますじろうきょうじゅんなんほうこくのひ)が有る。.
はじめて西洋式軍艦を設計し、蘭学者、兵学者としてその名を高めた。
長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となったことから陸海軍の総
司令官に抜擢。近代陸軍兵制の確立と人材の養成に尽力し、事実上の日本陸軍の創
始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされる。
文政7年(1824)周防(すおう)に生まれた。弘化(こうか)3年(1846)23歳のとき来坂、
適塾に入り僅か1年で塾頭になっている。明治2年(1869)兵部大輔(ひょうぶだいゆう)
に任ぜられ、近代陸軍兵制の確立に努力した。しかし不平士族の反感をうけ、同年9月
京都で襲撃された。そのとき右脚に重傷をおったが、京都では適切な治療をうけられず、
現在の碑の近くにあった浪華仮病院(大福寺から当所へ移転、同頂参照)で右脚切断
の手術をうけたが、すでに手後れで敗血症のため死亡した。切断された脚は遺志により、
師緒方洪庵夫妻の傍ら(北区竜海禅寺)に葬られている。

OAPへ向かう
大阪アニメーションスクール
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OAPの公園に到着
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OAP(トイレ休憩)
OAP(大阪アメニティパーク)
三菱金属(現・三菱マテリアル)大阪製錬所跡地の再開発で出来た。
水の都・大阪を流れる大川(旧淀川)のほとりに位置し、OAPタワー&プラザ、帝国ホテル
大阪、ギャラリー、マンション、公園で構成された複合施設「OAP・大阪アメニティパーク」。
地上39階建てのOAPタワーは主としてオフィスビルとなっているが、地下1階・地上1~2
階は和・洋・中などさまざまなレストランのほか、隣接する帝国ホテルには有名ブランドシ
ョップが勢揃いしており、食事や買い物を存分に楽しめる。また、ゆったりと流れる大川、
桜並木の美しい毛馬桜宮公園、明治時代の歴史が薫る造幣局や泉布観など、辺りには
たくさんの名所であふれており、ゆっくり散策するのにもおすすめの場所。春は造幣局の
「桜の通り抜け」、夏は「天神祭」に多くの人が訪れる。
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OAPを出発
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※泉布観
国道を挟んで大阪造幣局と隣接する泉布観は、明治4年(1871)、創業当初の造幣寮(現
在の造幣局)の応接所として建てられた。設計は明治初期の日本の洋風建築に大きな業
績を残した英国人技師・ウォートルス。白い漆喰塗りの壁が美しい2階建ての建物は総煉
瓦造りで、周囲にべランダを巡らせた「ヴェランダ・コロニアル」様式。室内は天井が高く、
暖炉やシャンデリアなど優雅な装飾が施されている。「泉布」は貨幣、「観」は館を意味し、
明治天皇が自ら命名したもの。国指定重要文化財。

大川・毛馬桜之宮公園・源八橋・源八渡し跡碑へ
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源八渡し跡
江戸時代元禄末(1700ころ)、すでに存在していた記録が残る。名の由来も人名から来
たとする説、地名にちなむ説といろいろで不詳である。左岸の都島側は農村であったが、
京街道にも近く、また右岸は天満組で大坂城代配下の与力などの役宅が並んでいた。
さらに桜の名所があることから大へん賑わったという。上流の「平田の渡し」と共に有名
であった。昭和11年6月架橋され、それによって渡しの使命は終ったが、橋名にその名
を残している。
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※平田(へいた)の渡し跡
淀川には、古くから渡しが発達し、便宜をもたらしていた。江戸時代の記録(「摂陽群談
(せつようぐんだん)」元禄14年、1701)によると、長柄の渡し以下15ほどを数える。その
うち平田の渡しは、延宝4年(1676)ごろから開かれ昭和45年の豊里大橋が完成するま
での間、約300年近くにわたり活躍した。明治40年には大阪府営となり、大正8年からは
道路の一部と認定されて無料、昭和23年以降は大阪市直営であった。

大川・毛馬桜之宮公園~都島橋~飛翔橋~長柄東公園へ
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長柄東公園
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毛馬橋西詰
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長柄八幡宮
長柄八幡宮は永仁4年(1296年)に山城国の石清水八幡宮(男山八幡宮)より御神体を
勧請して祀られたのが起源です。
主祭神を八幡大神とし、御神体は今より約710余年前、即ち八幡神崇敬の最も盛んな鎌
倉時代の特徴を表現した国宝的価値ありと謂われる僧形八幡神像を安置しており、神仏
習合に依る神宮寺です。
又、本社と表裏一体の関係にある相殿には出雲神社の大己貴大神、少彦名大神をお祀り
しております。
※八幡大神とは応神天皇・比咩大神・神宮皇后の三柱を総称した神様です。
平安時代の平将門の乱、藤原純友の乱、鎌倉時代の元寇などの時には、朝廷より石清水
八幡宮へご祈願があり、その後八幡大神のご神徳のもと速やかに平定されたことより災い
を除ける神様・厄除けの神様として氏子・崇敬者よりご崇敬を頂いております。
また応神天皇が八幡大神であるとされていることから皇室の祖神ともされ、皇室から分か
れた源氏も八幡大神を信仰し、源義家は石清水八幡宮で元服したことから、八幡太郎義家
と呼ばれ源氏をはじめ、足利氏・徳川氏・今川氏・武田氏など、多くの武人が信仰したこと
から武神・弓矢の神・必勝の神とも伝えられております。
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道路を挟んで
なにわの湯
大阪駅から2km圏内にある天然温泉、なにわの湯。入浴料金800円。
地上8階まで引き上げた温泉水に癒され、
空に浮かぶ飛行機や星を見ながら入る露天風呂は、まるで「空に浮かぶ休憩所。
なにわの湯では、地下659メートルからの豊富な湯量を誇る源泉100%の天然温泉を使用。
皮膚の角質層を軟化し、分秘物を乳化する作用のあるお湯は、その特性から『美人湯』と
呼ばれています。
泉質:ナトリウム・塩化物・炭酸水素塩温泉(低張性・アルカリ性・温泉)
効能:神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・うちみ・くじき・慢性消化
器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず・火傷・虚弱児童・婦人病
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本庄公園へ向かう
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此処までは、
9月4日の扇町公園~OAP~スカイビル~グランフロント大阪-1 として
               下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
           https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-09
此処では、続きの本庄公園~ についての詳細を掲載します。
本庄公園(昼食トイレ休憩)
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出発式
本庄公園を出発
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梅田スカイビルへ向かう
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スカイビルが見えて来た
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梅田スカイビル
2008年に英国の有名情報誌が選ぶ「世界の建築トップ20」に日本で唯一ランクインした
梅田スカイビル。地上40階・地下2階建て、東棟と西棟の2棟をつないだ高さ173mの連
結高層ビルで、オフィスをはじめショールームやイベントホール、また展望台やレストラン、
ショップに映画館など、エンタテインメント的な要素も兼ね備えた複合施設です。
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下からビルを眺めて
小休止
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さあーまもなく出発
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出発
グランフロント大阪へ向かう
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地下道を通って
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もうすぐ
グランフロント大阪
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グランフロント大阪
大阪の中心部、梅田にひろがる複合施設です。水のせせらぎと緑豊かなまちの中で、
ファッションから雑貨、 ライフスタイル、ビューティー、カフェ、レストラン、バーなどお散
歩気分のショッピングが 楽しめます。 ...
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大阪駅
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8月31日の香芝穴虫山口神社~王寺達磨寺へ-2

9月1日          8月31日の香芝穴虫山口神社~王寺達磨寺へ-2
                  JRふれあいハイキング 13㎞コース
コースが自宅の近くで、見てみたいと思ってた古墳が行先の中に有ったので一人で参加
してみた、が途中で雨になり、行きたいと思ってた古墳に辿り着く前雨の為、リタイアして
しまった。当日の参加者は175名、私の万歩計は、15236歩で約9.1km歩いた事に・・・
コース  JRふれあいハイキング 奈良県ウオーキング協会主催 参加費@500円
JR香芝駅(9:30集合)~今池親水公園(トイレ休憩)~大坂山口神社(穴虫)~大坂山口
神社(逢坂)~志都美神社~武烈天皇陵~平野塚穴山古墳~正楽寺~尼寺厨神社~
尼寺廃寺跡(昼食&トイレ休憩)~葛下川遊歩道~達磨寺~王寺駅(解散15:00頃)
志都美駅
左側の葛城山には雲がかかってる
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JR香芝駅(9:30集合)
横の駐車場に集合・朝礼・柔軟体操・スタート
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柔軟体操
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スタート
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2列の隊列で今池親水公園へ向かう
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JR香芝駅横の駐車場をスタートして直ぐの鹿島神社境内児童公園のエノキの巨樹
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※エノキの巨樹・・・香芝市の天然記念物
指定年月日(号数):平成8年3月12日(市指定第11号)
法 量:胸高直径106.0cm 幹周334.0cm 樹高約25m
所在地:香芝市下田西1丁目 鹿島神社境内 児童公園内
概要
鹿島神社境内北東隅の児童公園入口に所在する。
この巨樹は、関屋峠(大峠)を越えて関屋、逢坂、下田、瓦口、別所を経て、初瀬や
伊勢方面に通じていた「伊勢街道」に面していることから、街道の道標的な役割を
果たしていたものと考えられる。

近鉄下田駅の踏切を渡る
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今池親水公園が見えて来た
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今池親水公園(トイレ休憩)
「香芝冬彩」がおこなわれる市役所裏の公園
冬空を光と音で彩る幻想の祭典「冬彩」。香芝市制施行10周年を祝う行事として2001年
から始まり、市民が中心となり企画、運営されている。会場の今池親水公園で16時から
行われる和紙玉の飾り付けや17時から行われるろうそく点火には当日参加可能。メイン
ステージで行われる豪華なイベントや味自慢の屋台料理はもちろん、フィナーレを飾る香
芝天衝太鼓と花火のコラボレーションは圧巻!
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大坂山口神社(穴虫)へ向かう
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二上山を眺めながら進む
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此処までは、
8月31日の香芝穴虫山口神社~王寺達磨寺へ-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
         https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-01
此処では、続きの神社前の由緒有りそうな井戸~ についての詳細を掲載します。
神社前の由緒有りそうな井戸
※穴虫馬場の伝説の井戸
馬場の山口神社の南、社前の井戸を弘法井戸といいます。昔、弘法大師が巡錫の際に
掘られたものだといわれています。今も清水がこんこんと湧いています。もともとこの村
には弘法井戸が六つあったと伝えられていますが、新畑の池尻の井戸は今、埋められ
てなくなっています。
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大坂山口神社(穴虫)
祭神 大山祇命(おおやまつみのみこと)・須佐之男命(すさのおのみこと)・天児屋根命(あ
めのこやねのみこと)
式内社大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では
長尾街道に面する交通の要衝に鎮座(ちんざ)されます。
近世の『大和志(し)』には、「在穴蒸村 今称牛頭(ごず)天王」とみえ、牛頭天王社(祇園
宮)と称されていたことがわかります。秋の大祭には、この牛頭天王に奉納する宮相撲が
行われ、「馬場のお宮さんの相撲」といい、相当な賑わいであったといわれています。拝
殿には、文久二年(一八六二)や明治十九年(一八八六)の奉納板番付があり、境内には
馬場組記念碑や石垣を組んだ桟敷(さじき)席があり、近年まで土俵(どひょう)も残されて
いました。この馬場組をリードしたのは、大阪相撲で活躍した地元出身の力士、大(おお)
の松為次郎(一八五九~一九ニ一)で、大正四年(一九一五)境内で引退相撲を行ったあ
と、素人相撲の世話役として活躍されました。
また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組が『竹園(た
けぞの)日記』などにみえ、周辺の墓地には古い力士墓があります。二上山麓の村々では
相撲が大変盛んであったことがわかります。
なお、式内社大坂山口神社は、当社とその北東約六〇〇mに位置する逢坂のニヶ所に所
在し、ともに式内社と称しています。
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次は大坂山口神社(逢坂)へ向かう
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大坂山口神社(逢坂)
祭神は、大山祇命、須佐之男命、稻倉魂命。又は大山祇命、須佐之男命、神大市姫命。
式内社の論社としては別に穴虫の大坂山口神社が存在し、立地上からも穴虫のほうが
有力なようであるが、 たかだか数百メートルの距離しかなく、元々は同じ敷地内だったの
かも知れない。
『延喜式』の祝詞の中では、飛鳥、石村(いはれ)、忍坂、長谷、畝火、耳無の山口神の名
が見え、他に式内社として夜支布、巨勢、鴨、當麻、大坂、吉野、都祁の八社があり、合
わせて十四社が大社である。 重要視されていた神である。
当神社は大和国中と河内を結ぶ交通の要所に鎮座していることもあって、『日本書紀』で
は崇神紀、天武紀、『古事記』に履中記にも大坂の山口の名前が出てくる。
また、例の「太陽の道」の線上にあたる。
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※「太陽の道」・・・v奈良・大和盆地に「太陽の道」
万葉集の冒頭に登場する枕ことば「そらみつ」は「大和(の国)」にかかる。日本書紀に記さ
れた謎の言葉「空見つ日本(やまと)の国」が語源で、「大空から眺めて良い国だと選ばれ
た」の意だ。「天の岩船」というUFOを思わせる飛行物体に乗ったニギハヤヒノミコトが「国
の中心地」に着陸し、後に神武天皇が「畝傍山の東南の橿原の地」を「ここは国の真中だ」
と考えて今の奈良県橿原市に都を置いたという伝承に由来する。くしくも、大和盆地を「空
から」の視点で研究した説は少なくない。
卑弥呼の墓説もある箸墓古墳、檜原(ひばら)神社、大坂山(穴虫峠)、長谷寺、室生寺を
はじめ、大和盆地を中心とする著名な遺跡、社寺などが北緯34度32分の線上にほぼ一直
線に並び、東は三重県の伊勢斎宮跡、西は堺市の大鳥大社(さらに淡路島の遺跡や古社)
まで延びるという。
この「一直線」は「ほぼ一直線」であり、南北にずれる遺跡もあるのだが、記紀神話などとの
奇妙な暗合が「太陽の道」説。

志都美神社へ向う、雨が降って来た
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雨の中を志都美神社へ
志都美神社の鳥居前に到着
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志都美神社参道を本殿へ向かう
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志都美神社本殿に到着
志都美神社
祭神は、天児屋根命 中筒男命 誉田別命。境内看板によりますと、
「創建は、弘仁四年癸巳年八月九日藤原鎌足六世の孫従四位民部少輔片岡綱利により
創建された古社である。志都美神社は、香芝市今泉に位置するが江戸時代には上里村・
今泉村・高村の五ヶ所の氏神であり、厚い信仰を集めていた。特に明治十三年八月にコ
レラが流行し氏子が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったのを喜
んだ人々が感謝の意味で本殿背後石垣に『明治十二年八月虎列社病流行氏子祈願無
一人患者無人数叶奉納』ときざみ奉納した記念碑がある。
日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレ
ラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した。明治に入ってから同十二年に全国に流
行しての余波が十二年にまで及んだという。死者が出ないということは本当にお珍しく、
ご神徳がうかがえる。また本神社の神宮寺として清水山明王院が明治の神仏分離令が
出るまであり、現在明王院という石灯篭が一基残っている。ある日盲目の法師が境内に
ある井戸で目を洗うと水の霊験で目があいたという伝説があり、それゆえ一時期清水八
幡宮と呼ばれた時代があった。今も手水舎の石に八幡宮の文字が残っている。
本殿裏の社そうは椎の木を中心とした原生林で県指定の天然記念物となっている。
万葉集(巻七一.九)に『片桐のこの向う峰に椎蒔かば今年の夏の陰にならむか』とある。
椎の原生林とかさね合わせばこの附近ではないかと思われる。歌碑は、神社参道入り
口右側にある。」とあります。
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此処から志都美神社の森を越え~武烈天皇陵~平野塚穴山古墳へ向かう
今話題の平野塚穴山古墳へ行って見たかったが私は此処でリタイア・・・
雨はやみそうに無く
武烈天皇陵~平野塚穴山古墳~正楽寺~尼寺厨神社~尼寺廃寺跡(昼食&休憩)
~葛下川遊歩道~達磨寺~王寺駅(解散15:00頃)迄をパスして
志都美神社~志都美駅(水分補給&トイレ)~徒歩20分~雨の中を自宅へ戻る

※平野塚穴山古墳・・・2019年6月25日のニュース
奈良県香芝市の国史跡、平野塚穴山(ひらのつかあなやま)古墳(7世紀後半)で、古墳
の斜面に凝灰岩の石材が張り巡らされていたことがわかった。市教育委員会が25日発
表した。張り石の特徴は、飛鳥時代(6世紀末~8世紀初め)の天皇陵とみられる二つの
古墳と共通し、3例目となる。専門家は、飛鳥時代中ごろに即位した斉明(さいめい)天皇
の父にあたる茅渟(ちぬ)王など天皇の一族の墓の可能性が高まったと指摘している。
※平野塚穴山古墳(ひらのつかあなやまこふん)
国指定史跡、古墳時代後期
西名阪自動車道香芝(かしば)I.C.から南へ、平野(ひらの)の村の中にある正楽寺(しょう
らくじ)の本堂の西側にあって、寺の境内を通っていくことができる。この古墳は昔から開口
していて、江戸時代の終わりごろまでは顕宗天皇(けんぞうてんのう)の墓(顕宗陵)といわ
れていた。(現在は、北今市(きたいまいち)に指定地がある)
昭和47年に行われた発掘調査で、一辺約21m、高さ約4mの方墳(ほうふん)(四角い形の
古墳)とわかり、南側に入口がある石槨(せっかく)(棺を入れる小さな部屋)の中から夾紵
棺(きょうちょかん)(漆(うるし)を塗った布を重ねあわせて作ったお棺)片と金環(きんかん)
(金メッキをした銅製のイヤリング)1個などが土出した。石槨は、屯鶴峯(どんづるぼう)付
近から持ち運ばれた凝灰岩(ぎょうかいがん)の切石を組み合わせて丁寧(ていねい)に作っ
てあり、漆喰(しっくい)も塗られている。内部の規模は、長さ3.05m、幅1.5m、高さ1.76mで
ある。以上の発掘成果から、当時相当身分の高い貴人(きじん)の墓地であったことがわか
る。この古墳が築造されたのは、唐尺(とうじゃく)(西暦618年から907年まで中国を支配した
唐の国での長さの単位)が使われているらしく、7世紀後半から末頃と考えられている。貴重
な終末期古墳(奈良時代の直前に作られた最後の古墳)として、昭和49年に国史跡に指定
された。終末期古墳としては、明日香村の高松塚古墳があまりにも有名であるが、今は保存
のために封じてあり、直接内部を見ることができない。そのかわり、この平野塚穴山古墳で
その構造を知ることができる。

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