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11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-2

11月27日       11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-2
                 歴史探訪の会 11月例会
コロナ禍の中で今年3回目の歴史探訪の会、参加者15名を7名と8名の2班編成で三密を
避けてコロナ感染防止対策、勿論参加者全員マスク着用、受付で検温、手指消毒して
生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さんのお世話で有意義な例会となりました。
生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さん、お世話になり有難う御座いました。
此の日の私の万歩計は、15617歩で約9.3㎞歩いたことに・・・
「南生駒の石の文化財巡り」
今でも村落の出入り口に結界の残る新子いう信仰心の厚い生駒地区、中でも南生駒地
区に今でも残る石の文化財を巡り、当時の人々が仏教を信仰していたのか?思いを馳
せながら今に残された石仏と自然をみつめてまわる歴史探訪の会にしました。
コース
萩の台駅~石福寺~応願寺~円福寺~興融寺~竹林寺・忍性菩薩墓・神變大菩薩行者
堂・庫裡で昼食休憩・竹林寺本堂・行基菩薩墓~竹林寺古墳~観泉寺~菊司醸造(お
酒各種試飲・お買い物)解散~南生駒駅  以上。
志都美駅~萩の台駅
萩の台駅
萩の台駅前広場にて検温、手指消毒、参加者15名。3密を避ける為に2班編成で生駒
市観光ボランティアガイドの会の皆さんと巡りました。
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萩の台駅~石福寺へ向かう
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文化財保存館
※乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商(造り酒屋)だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り
入れようと、村人に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。
平成19年(2007)には「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財
に指定。生駒市萩の台の石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなく
なってしまった「村芝居」の資料が展示・保存されている。
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石福寺・・・正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
大阪平野の大念仏寺で行われる25菩薩お練り行に毎年参列する信心深い地域という。
逆修の十三仏板碑
境内前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)の
もので歴史が感じられる。
※逆修                        
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈る為の仏事をする事。その為に
建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修。
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石福寺~応願寺へ向かう
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応願寺・・・祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月
11日の銘有り、伊派(伊行末が創始)の石工伊行氏の作と考えられている。
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※伊行末(いぎょうまつ)
伊行末(いぎょうまつ、い の ゆきすえ? - 文応元年7月11日(1260年8月19日))は、
鎌倉時代の石工。           
南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、鎌倉時代初頭に来日し南都焼討後の
東大寺復興にあたった。                  
我が国の石工集団「伊派」の創始者であり、彼の子孫は「伊」「猪」「井」を冠する
苗字を名乗り(例えば伊野、猪野、井野)、日本各地にその足跡を残している。
代表的な作品
• 新大仏寺本尊石造台座、建仁2年(1202年)重要文化財
• 大野弥勒磨崖仏、承元2年(1208年)史跡
• 大蔵寺十三重石塔、延応2年(1240年)奈良県指定文化財
• 般若寺十三重石塔、建長5年(1253年)
今回のコースでは、長い坂道が続くので石仏寺には行きませんでしたが(参考迄)

※石仏寺・・・岩生山 石仏寺
奈良県生駒市藤尾町 石仏寺。暗越え奈良街道の西、藤尾峠に在る石仏寺。本尊は伊派
(創始者は伊行末)の石工伊行氏作で光背部に観音・勢至菩薩を浮き彫りにして阿弥
陀三尊としています。

応願寺~円福寺へ向かう
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円福寺・・・龍華山 円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿革は
明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが残る。

重要文化財の本堂
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2)
-入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書「応安4年
(1371年)」から当時の建立とみられる。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。
北側の塔(写真左)は初重に四仏の「種字」を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。
南側の塔は初重に四仏の像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
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興融寺・・・慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。沿革は不明ですが、安永3年
(1774)『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には阿弥陀堂と記載されています。興融寺は生駒市
青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れているため、石仏ファンで
もない限り訪れる人は少ない。しかも、ちょっと分かり難い場所にお寺が立っています。
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興融寺~竹林寺・忍性菩薩墓~へ向かう
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竹林寺・忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)
で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をし
ました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業を展開します。
忍性は行基の大ファン?

16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。忍性は19歳から6年間毎月竹
林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺で行基の舎利が発見された。行基は
奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、大仏建立にも尽力した
ことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣
し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範とするとするところが
大きいと云われる。忍性は、鎌倉・極楽寺で87歳で臨終を迎えた。遺言により遺骨は
三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に努めた忍性に、後醍
醐天皇は「菩薩」号を追贈した。

忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事
に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、
病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老
いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿
が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期
以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識さ
れており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。
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竹林寺・神變大菩薩行者堂・・神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役小角(えんのおづの/おづぬ/おつの)、舒明天皇6年(634年)
伝–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。
修験道 の開祖とされている。
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竹林寺・庫裡で昼食休憩
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此処までは、
11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-27-1
此処では、続きの 竹林寺本堂~ についての詳細を掲載致します。
竹林寺本堂
竹林寺・・・生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定されるが
詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所から舎
利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。
山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。
奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった
僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたも
のと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台
山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理し
ていたが、20世紀末から境内の整備が進められている。
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※行基菩薩
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇などの
教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐
して玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のものとなっ
ていた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行ったとされて
いる。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそうだ。その後、
聖武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で人生を終えると母
親の近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ/668年~749年)は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機
関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り
畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬さ
れた。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、
困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷から
は度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね
返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武
天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大
寺の「四聖」の一人に数えられている。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武
天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んで いる。

竹林寺・行基菩薩墓・・・大正10年に当時の内務省によって国指定史跡に
竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられています。
行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え生駒山で火
葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、左手の墓地に
忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩薩と行基を強く尊
敬しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺言により遺骨は竹林寺
・極楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されています。
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竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒谷)に
おける唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していないことから、こ
の地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる文殊山竹林寺境内に
ある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴輪の特徴から、古墳時代前
期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円部の一部が失われ、後円部は墳頂
に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による損傷が生じている。その他の部分は雑木
林に覆われ、開墾による削平(さくへい)を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺を後に観泉寺に向かう
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観泉寺・・・青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯に
より開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった方々
の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種字十三仏板碑など」が数多くある。
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境内に西国三十三か所巡りがある。
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神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
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菊司醸造(お酒各種試飲・お買い物)解散
菊司醸造
敷地の一画に建つのは酒の神を祀る石碑(右)。今も蔵を見守る。隣には親戚縁者だ
と言う名高い俳人、阿波野青畝の 「和を以って 尊ぶために 菊の酒」 との句碑、
親戚縁者だと言う。
※阿波野青畝
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月 - 1992年(平成4年)12月)は
奈良県出身の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期
に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称され「ホトトギ
ス」の黄金時代を築くのに貢献した。
奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取
支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学校
(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。1915年「ホトトギス」を知り、県立郡山中学
校で教師をしていた「ホトトギス」同人の原田浜人のもとで俳句を学んだ。
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菊司醸造様 奈良漬と美味しいお酒の試飲、有難う御座いました。

南生駒駅 
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11月17日の馬見丘陵公園の皇帝ダリアと紅葉-2

11月26日       11月17日の馬見丘陵公園の皇帝ダリアと紅葉-2
                 馬見丘陵公園 北エリア
此の日は皇帝ダリアと紅葉を目当てに、駆け足で北エリアを一回りして帰った・・・
家内を近所の商業施設へ送って、家内がスーパー等で買い物をしてる間に馬見丘陵公
園へ、北口駐車場に車を停めて、9時半~10時半迄の1時間、3448歩で約2㎞歩いた。
10時45分には、スーパーで家内をピックアップして家路へ、ほんま忙しい撮り歩き?
馬見花苑~集いの丘
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集いの丘
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集いの丘~
花笑み橋の皇帝ダリアへ向かう
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花笑み橋の両側の皇帝ダリア
橋の上から撮る
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橋の下へ降りて
皇帝ダリアの根元から見上げて撮る
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此処までは、
11月17日の馬見丘陵公園の皇帝ダリアと紅葉-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-25-2
此処では、続きの 集いの丘麓~ についての詳細を掲載します。
集いの丘麓
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集いの丘麓の外周の紅葉
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集いの丘
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彩り広場・ダリア園
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ダリア園と花サポータ花壇間の
皇帝ダリアを下から眺めて撮る
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彩りの広場・ダリア園の紅葉
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11月14日の紅葉シーズン到来の吉野山!!-2

11月24日        11月14日の紅葉シーズン到来の吉野山!!-2
              近鉄ハイキング 10日遅れのUP
此の日は、素晴らしいハイキング日和とはいかず?暑かったが知人のK場さんとI 田さん
と3名で紅葉シーズン到来の吉野山へ、近鉄ハイキングに参加しました。
コース   近鉄吉野駅 11時集合・スタート
吉野駅~2.2㎞~如意輪寺~2.2㎞~吉水神社~0.5㎞~金峯山寺蔵王堂~0.5㎞~銅の鳥居
~0.5㎞~七曲り坂~1.3㎞~吉野駅
実際に歩いたコース
吉野駅~道標~町営住宅・道標~地蔵・道標~石標~温泉旅館道標~石畳の道~石碑~如
意輪寺~後醍醐天皇陵・親王陵~山門ゲート~道標~カーブミラー~参陵トンネル~道標
~後醍醐天皇陵石碑~吉野山観光案内マップ~勝手神社跡・鳥居~金峯山寺蔵王堂~銅の
鳥居~大橋~七曲り坂~吉野駅
此の日の私の万歩計は、19726歩で約11.8㎞歩いたことに? 暑かった、疲れた・・・
吉野駅~道標
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町営住宅・道標
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地蔵・道標
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石標~温泉旅館道標
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吉野山石票
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温泉旅館
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道標
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石畳の道~石碑
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如意輪寺
如意輪寺は、奈良県吉野山の中腹に位置し、春は桜に、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪
と四季を感じ自然豊かな中に伽藍が連なっています。
延喜年間(901-923)三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人により
真言宗のお寺として建立されました。そして、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、
後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝(吉野朝)勅願寺ともなりました。
如意輪寺は、南朝と大変深い関わりがあるお寺です。正平二年(1346)、楠正行公は
大阪府四條畷の戦いの前に、一族郎党143人と共に如意輪寺に参詣しました。正行公は
参詣した者から少しずつ遺髪として髪を集め本尊前に143名分を奉納し、本堂の扉に弓
矢を手に取り鏃(やじり)で辞世の歌を刻み、如意輪寺の過去帳に143人の名前を書き、
四條畷に出陣していかれました。
その後、江戸時代に四国の戦国武将・長曾我部元親と、正行公の弟・楠正儀の末裔とな
る女性との間に生まれた文親と呼ばれる武将が出家して文誉鉄牛上人となり、如意輪寺
中興上人として入りました。その際に真言宗から浄土宗へと改宗され、念仏を弘通し、
御陵を守護するお寺として現在に至っています。
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※楠正行(くすのき まさつら)
延元元年(1336年)湊川の戦で父正成が亡くなった後、11歳の正行は楠氏の惣領とな
ると、約2年間にわたる幕府軍との天野合戦・河内合戦を戦い抜き、河内東条に安寧を
もたらすとともに、吉野山に入った宮方、後醍醐帝の警護に努めます。
正行公成人の後、河内近辺にて賊にさらわれようとする女人を助け、尋ねたところ吉野
朝廷に仕える女官弁内侍でした。早速家来に命じて吉野まで送り返します。のちに後村
上天皇より内侍を正行の奥方にとのお言葉がありましたが、四条畷の戦には生きて再び
帰れぬ覚悟であった為辞退されました。
正平3年正月5日。四條畷の戦いは早朝よりはじまり、夕刻にまで及びます。敵将高師直
の軍勢約5万、味方は5千、一気に本陣に向かい、師直の首を斬りましたが影武者の首で
した。七度空に投げ上げ残念がります。遂に弟正時と差し違えて討死にします。
時に正行23才、正時21才でした。
※弁内侍(べんのないし)
弁内侍は日野俊基の娘で、才色ひときわ勝れた美貌の持ち主で、いつどこで見初めたのか
高師直が恋慕し、策を講じ誘い出し、都への拉致を図ります。折しも、正行が吉野に参内
するため石川辺りに差し掛かった際、中から泣き声の聞こえる怪しげな駕籠に遭遇し、拉
致された弁内侍を助け、吉野に送り届けました。
正行が四條畷の合戦で討死したことを知った弁内侍は、深い悲しみに沈みます。しかし正
行への追慕の情を絶ち難く、ここ如意輪寺で黒髪を切り、大君に仕えまつるも今日よりは
心にそむる墨染めの袖と詠い、尼となって吉野山を下り、山口村龍門の西蓮華台院(現西
蓮寺)に入り、寂滅するまで正行の菩堤を弔い、正行への貞節を護ったと云われています。
※高 師直(こう の もろなお)
高 師直は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、官僚、政治
家、歌人。正式な名乗りは、高階 師直(たかしな の もろなお)。
高師重の子、兄弟に師泰・重茂、子に師夏・師詮ら。鎌倉幕府有力御家人足利氏執事、
建武政権雑訴決断所三番奉行人・武者所および窪所寄人、北朝武蔵守、室町幕府初代
および第三代執事(室町幕府管領の前身)・上総国守護・武蔵国守護・引付頭人。
通称の「高」は、本姓で氏(うじ)の「高階」ないし氏姓(うじかばね)「高階朝臣」
の略記であり、領地に基づく家名である名字を持たなかった珍しい武士である。
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後醍醐天皇陵・親王陵
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
第九十六代後醍醐天皇は、北条幕府を倒幕し京都で建武の親政を始められ、足利尊氏の
離反により京都を逃れ吉野に南朝(吉野朝)をたて、尊氏は光明天皇を擁立し京都で北
朝をたて対立することになりました。
如意輪寺は、後醍醐天皇勅願寺(南朝勅願寺)と定められ、後醍醐天皇は如意輪寺に祀
られる如意輪観世音菩薩と金剛蔵王権現を熱心に拝み、日々祈願祈祷に来られますが、
延元4年(1339)8月16日に、右の御手に剣を、左の御手に経巻を握り、尊氏がいる京都
の方(吉野より京都は北に当たる)をにらみつけたまま崩御されます。そのときの綸言に、
唯生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅して、四海泰平ならしめんと思ふば
かりなり。(中略)これを思う故に玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむる共魂魄は常に北闕の
天を望まんと思ふと残し、如意輪寺の御堂のうしろの林の奥に円丘を高くして葬られまし
た。後醍醐天皇陵は「塔尾陵」又は「延元陵」と呼ばれ、天皇陵のなかで唯一の「北面の
御陵」(歴代天皇の陵はすべて南向きに葬り奉るのを通規とする)となっています。後醍
醐天皇崩御の後は、天皇陵を守護し菩提を弔い続けています。
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山門ゲート~道標
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県道37号のカーブミラー
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高野マキ群落
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参陵トンネル~道標
参陵隧道は、県道15号~如意輪寺の後醍醐天皇陵へむかう道路へ通ずる短い隧道で
皇紀2600年にあたる1941(昭和16)年に、「皇紀2600年記念事業」
のひとつとして建造されたもの。
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猿引き坂・後醍醐天皇石板碑?公園で昼食休憩
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竹林院
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吉野山聖天
吉野聖天は、役行者が1350年前に大峰々中奥深く「聖天の森」に祀られた日本最古の
聖天さまです。その後、より多くの方がお参りできるようにと、当山第二世により吉
野山櫻本坊に御魂が移され、ご遷座くださいました。
聖天尊とは大聖歓喜双身天王と称され、梵我一如・和合と調和・財宝の神です。
宇宙の中心・究極の神仏といわれ、その大慈悲心とお力の強さで知られています。
聖天尊は、ご本地仏十一面観世音菩薩と一つになってはじめて、お力が発揮されます
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善福寺
善福寺の詳細は歴史書などが現存していないため不明な点が多く、現在でも確かな
創建年代の情報はありません。本堂内の仏像群や本堂北側にある井光井戸など見所
は多数あります。
※『井光の井戸』伝承
昔、神武天皇が九州から大和に来られた時に、『吉野』のあたりを通られました。
杉の木の根っこに井戸があって、井戸の中からもの凄い光が射してきました。
井戸の中から尻尾のある小さな人が出てきて神武天皇の前にひれふしました。
神武天皇が驚いて、「お前は何者なのだ。」と尋ねると尻尾のある小さな人は、
「私はこの吉野に住んでいるものです。あなたが大和に来られたと聞いて、道案
内をして差し上げようと思っていたのです。あなたをお待ちしていました。」と
こたえました。
神武天皇は喜んで道案内をしてもらうことになりました。道案内のお蔭で神武天
皇は山を越えて、とうとう『橿原』にたどり着くことが出来たということです。
それ以来、尻尾の有る小さな人の井戸を、「井戸が光る」ということで、『井光
の井戸』と言うようになりました。
またこんな話も伝わっています。
井戸の中から現れたのは尻尾のある人ではなく、『井光』という名前のお姫様で
あったというのです。そして、このお姫様が神武天皇の道案内をして神武天皇を
お助けしたということです。それからこの「水分神社」のあるあたりをお姫様の
名前である『井光(いびか)』がなまって、『飯貝(いいがい)』と言うようになった
ということです。
また、この地で神武天皇が、貝をおかずにしてご飯を召し上がったので『飯貝』
と呼ばれるようになったとも伝えられています。
※井光井戸
『井光の跡』とされる場所は3か所あります。
一つは川上村の『井光(いかり)』。もう一つは吉野山の「善福寺」で、近くに
『井光の井戸』があります。そしてもう一つが、飯貝の「水分神社」の下の
『井戸跡』です。近年地元の方が『井光の井戸伝承地』というプレートを建て
ました。又『飯貝』(いいがい)は『井氷鹿』(いびか)から来ている説や、飯貝に
猪という文字がつく人がいることから、昔は猪飼部の里があり「いのかいべ」
から飯貝になった説などがある。
善福寺の詳細は不詳ですが、江戸時代には現在の桜本坊の所にあったという古文書
を「金峯山寺編纂」された首藤善樹氏が発見しました。
伝えでは葬儀を行わず祈祷を旨とする吉野の修験道寺院が多く、善福寺は吉野山住
人の菩提寺として江戸時代には存立していたとされています。決して修験道と関わ
りがないわけではなく、本堂には蔵王権現像や役行者像が安置されています。
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此処までは、
11月14日の紅葉シーズン到来の吉野山!!-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-24
此処では、続きの 勝手神社跡・鳥居~ についての詳細を掲載します。
勝手神社跡・鳥居
この神社の祭神は、大山祇神、木花咲耶姫命 ほか三神で、社殿は豊富秀頼が慶長九年
(1604)に改修したのが、正保元年(1644)十 二月に焼亡したので、翌二年に再建
され、さ らに明和四年(1767)にまたも焼失しました 現在の建物はこの後の再建に
なるものです。
社殿の後の山を袖振山といって、天智天皇 の十年(672)大友皇子に対抗して、吉野
(今の宮滝か) に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、この神 前で琴をかなでて
いると、天女が後ろの山の上から袖をひるがえして舞いながら現れ、吉 兆を示しまし
た。この故事が五節の舞の起り だといわれ、芸ごとに深いかかわりを持つ神 様とさ
れて、かつては猿楽や能が盛んに奉納 されました。
又、文治元年(1185)の暮れ、源義経と雪の吉 野山で涙ながらに別れた静御前が、
従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っているところを追手に捕えられ、この
社殿の前で雅た姿で法楽の舞をまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたとう話が伝え
られています。境内には舞塚がある。
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金峰山寺蔵王堂へ向かう
東南院
東南院(とうなんいん)は、奈良県吉野郡吉野町にある大峰山の持護院。金峯山修験
本宗別格本山。役行者霊蹟札所。山号は大峯山。開山は役行者。
霊地霊山は、霊地を開くときに中心になる伽藍を建て、そこから巽(東南)の方角に
当たる所に寺を建て、一山の安泰と興隆を祈願した。金峯山寺より東南に位置する。
現在は宿坊も営む。
多宝塔は1937年(昭和12年)に東南院に移されてきたものである。元々は和歌山県
海草郡紀美野町の野上八幡宮にあったものであるが、その後、数度移築が行われ、
東南院に落ち着いた。
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金峰山寺蔵王堂へ向かう
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金峯山寺蔵王堂
金峯山寺は吉野山のシンボルであり、修験道の総本山。蔵王堂は正面5間、側面6間、
高さ約34m、檜皮葺き(ひわだぶき)の、東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築。蔵王権
現像(重文)3体がまつられ、本尊は高さ7mにもおよびます。
金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗(修験道)
の本山である。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来より桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝
の中心地でもあった。「金峯山」とは単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野
郡吉野町)と、その南方二十数キロメートルの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県
吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称である。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣
人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、およびこれら
霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素とな
っている。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役
小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山に
は吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他
にも多くの社寺が存在する。
「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域
地名である。また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719m)
の山頂近くには大峯山寺がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代
以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵
王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」
とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。
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黒門(仁王門)~黒門を出て
細い町なみの正面、石段の上に立っている。3間1戸、重層入母屋造、本瓦葺の楼門で
金峯山寺の北の仏門。康正2年(1456年)の再建である。仁王は仏師康成の作で鎌倉
末期の力強さを示している。平成16年7月7日、世界遺産に登録。
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銅の鳥居(かねの鳥居)
銅の鳥居は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山寺の銅で造られた鳥居である。
大峰山上までに修行(しゅぎょう)、等覚(とうかく)、妙覚(みょうかく)の3つの
門があり、この鳥居は第一門で「発心門」とも呼ばれていた。創立年代不詳であるが、
俗に東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)鋳造の際に余った銅を使い建立されたという。
『太平記』によれば1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の兵火により
焼け落ちたとあり、その後の再建時期は不明であるが、康正(1455年から1457年)の
頃に復興されたと考えられている。
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七曲り坂へ向かう
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大橋(朱色の橋)
大塔宮が吉野に蜂起されたとき、三空堀に見たてられた谷にかかる大橋・天王橋・丈の
橋を吉野三橋といいます。大橋は七曲り坂を登りきった攻が辻のすぐ上手にある、朱塗
りの欄干の橋。天王橋は竹林院近くの小さな橋です。丈の橋は残っていません。大橋を
渡ったあたりから、門前町の風情ある町並みが広がります。
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七曲り坂
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吉野駅~吉野口駅~志都美駅
おまけ 吉野名産のお土産
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10月31日の近鉄 飛鳥駅~橿原神宮前駅-2

11月12日        10月31日の近鉄 飛鳥駅~橿原神宮前駅-2
                   近鉄ハイキング
久し振りに知人のK場さん、H田さん、I田さん、S藤さん、Y田さん達と6名で近鉄
ハイキング参加、飛鳥駅~橿原神宮前駅迄10㎞コースを途中ショートカットで歩いた。
本来のコース
飛鳥駅~猿石~亀石~甘樫丘地区(国営飛鳥歴史公園)~飛鳥資料館~万葉文化館~
雷丘(いかずちのおか)~橿原神宮前駅 約10㎞コース 
実際に歩いたコース・・・飛鳥京跡苑池 発掘調査現場に立ち寄る
飛鳥駅~天武・持統天皇陵~亀石~橘寺~飛鳥京跡苑池発掘現地~入鹿首塚~飛鳥寺
~明日香村埋蔵資料館~甘樫丘~雷丘(いかずちのおか)~剣池・孝元天皇陵古墳~
橿原神宮前駅  約8㎞コースにショートカットして歩いたつもりだったが。
此の日の私の万歩計は、19726歩で約11.8㎞歩いたことに・・・ 
吉野口で乗換
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飛鳥駅
紅葉したコキアがお出迎え
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天武・持統天皇陵
天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓。 直径50m、高さ6.36m。
円墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。
天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。また、持統
天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。鎌倉時代に盗堀された時
の記録が残されていたことから、被葬者が確実となった。
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古墳の横を降りて亀石へ向かう
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亀石へ向かう
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亀石
亀石(かめいし)とは、奈良県明日香村川原にある亀の形をした遺構。長さ3.6m、
幅2.1m、高さ1.8mの巨大な花崗岩に亀に似た彫刻が彫られていることからこの名前
で呼ばれている。ユーモラスな顔つきから明日香村観光のシンボルともなっている。
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※亀石伝説
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと
川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしま
い、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造
って亀の供養をしたという。
亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いている
が、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝え
られている。

橘寺・川原寺へ向かう
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橘寺・川原寺
橘寺
厩戸皇子(聖徳太子)生誕の地とされ、太子建立の七ヶ寺の一つです。建物は何度
も焼失し、現在の伽藍は江戸時代以降のものですが、美しいタチバナ形の塔心礎
が当時を物語っています。謎の石造物のひとつ「二面石」があるのもこの橘寺です。
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川原寺跡
飛鳥寺、薬師寺、大官大寺とともに飛鳥四大寺に数えられ、斉明天皇の冥福を祈り
息子の天智天皇が建立したとも言われていますが、未だ創建については謎が多く
残されているお寺です。創建時の姿は飛鳥資料館の模型で見ることができます。
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飛鳥川を越えて飛鳥京跡苑池へ向かう
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飛鳥京跡苑池・・・発掘調査現場に立ち寄る
飛鳥京跡苑池は、飛鳥川右岸の川岸段丘上に立地する飛鳥時代の庭園遺跡です。
平成11年に橿原考古学飛鳥京跡苑池研究所が実施した発掘調査で初めてその存在
が明らかになった。日本最古の庭園と言われている。
案内所で資料を受け取って
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発掘調査現場へ向かう
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発掘調査現場
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此処までは、
10月31日の近鉄 飛鳥駅~橿原神宮前駅-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
     https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-12
此処では、続きの 蘇我入鹿首塚・飛鳥寺へ向かう~ の詳細を掲載します。
蘇我入鹿首塚・飛鳥寺へ向かう
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蘇我入鹿首塚・飛鳥寺
※蘇我 入鹿(そが の いるか)
蘇我 入鹿は、飛鳥時代の豪族。蘇我蝦夷の子。大臣として大和朝廷の有力者であっ
たが、乙巳の変において討たれ、その後蘇我氏が凋落するきっかけとなる。
644年(皇極天皇3年)11月には甘樫丘に邸宅を築き、これをそれぞれ「上の宮門
(みかど)」「谷の宮門」とし、さらに自分の子女達を皇子と呼ばせた。また、畝
傍山に要塞を築き、皇室行事を独断で代行した。これらの政策により、入鹿は実質
最高権力者としての地位を固め、その治世には人々は大いに畏敬し、道に落ちてい
るものも拾わなくなったと言われた。しかし、そのような入鹿の天下は長くは続か
なかった。古人大兄皇子の異母弟で、皇位継承のライバルだった中大兄皇子(後の
天智天皇)・中臣鎌足らのいわゆる乙巳の変のクーデターによって、飛鳥板蓋宮の
大極殿において皇極天皇の御前で殺害された。
討たれた首が600m離れたこの地迄飛んで来たとされ、此処に首塚が建てられた。
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飛鳥寺(あすかでら)
飛鳥寺は、奈良県高市郡明日香村にある寺院。現在は安居院という。蘇我氏の氏寺
である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称
される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。山号を鳥形山(とりがたやま)
と称する 。現在の宗派は真言宗豊山派。新西国三十三箇所第9番札所。
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明日香村埋蔵資料館へ向かう
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明日香村埋蔵資料館(明日香村埋蔵文化財展示室)
明日香村大字飛鳥にあります「明日香村埋蔵文化財展示室」展示室では、明日香村
文化財課が発掘調査を行ってきた遺跡の出土品を中心に展示を一新いたしました。
小さいお子さんから大人まで、明日香村の文化財に触れていただく良い機会になる
と思います。旧飛鳥小学校の建物を利用しているから、ちょっとレトロな雰囲気。
利用時間: 午前9時から午後5時まで (入館は午後4時30分迄)。年末年始は休日。
入場料 : 無料。土・日・祝日については、解説員を配置しています。
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あすか夢の楽市
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甘樫丘
標高148mの、東西数百m、南北1kmほど広がる丘陵である。丘全体が国営飛鳥歴史
公園甘樫丘地区となっている。丘の北側には甘樫丘展望台、南側には河原展望台が
整備されており、明日香村内や橿原市内の大和三山や藤原京などの風景を望むこと
ができる。散策路は万葉集などで歌われた植物が植えられた「万葉の植物園路」が
整備されている。
麓で昼食を済ませて展望台へ
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甘樫丘を下る
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甘樫丘を出て
雷丘へ向かう
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雷丘(いかずちのおか)・・・写真は無し
雷丘は、奈良県高市郡明日香村大字雷にある標高110mほどの丘。
「大君は神にしませば天雲の雷の上に庵りせるかも」柿本人麻呂の句が残っている。
小墾田宮(おはりだのみや)跡
小墾田宮は、飛鳥時代の推古朝および奈良時代の淳仁朝・称徳朝の宮殿。「小治田
宮」とも書く。近年の発掘調査で、雷丘とその周辺にあった可能性が高いとされて
いる。• 雷丘東方遺跡出土 「小治田宮」墨書銘土器 明日香村埋蔵文化財展示室展示。
• 雷丘東方遺跡出土 井戸枠 明日香村埋蔵文化財展示室展示。
※雷城
築城時期や築城者は不明だが中世の城郭と見られる跡が残っている 。丘の中央に主
郭、南と東に一段下げた曲輪、空堀を挟んで西側に曲輪、更に西に一段下げた曲輪、
北に空堀から続く曲輪が置かれていた。飛鳥時代までの遺構はこの頃に破壊された
と推測されている。
発掘調査
2005年(平成17年)11月、発掘で埴輪の欠片などが見つかり小子部栖軽(ちいさこ
べのすがる)の古墳墓である可能性や雷神伝説(後述)との関連をうかがわせた 。
雷山の東南麓は飛鳥時代から奈良時代の遺跡が数多く残り、現在も発掘調査が続け
られている。
雷神伝説
『日本霊異記』(上巻巻頭)と『日本書紀』 に雷丘に関連する伝承が記されている。
雄略天皇が后と寝ている寝所へ、家臣の少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が気付
かずに入ってしまい、天皇に「雷神を捕らえてこい」と命じられる。栖軽は豊浦寺
と飯岡の間にある丘に落ちていた雷神を連れ帰り天皇に献上するも、天皇は光り輝
く雷神に恐れをなし「落ちていた所へかえしてこい」と命じる。この雷神が落ちて
いた所を雷岡(雷丘)という。

橿原神宮前駅へ向かう
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剣池・孝元天皇陵古墳・・・孝元天皇陵(こうげんてんのうりょう)・剣池
橿原市の南部、石川池(剣池(つるぎいけ))のほとりにあるのが、第8代孝元
(こうげん)天皇の陵、剣池島上陵(つるぎのいけしまのえのみささぎ)です。
石川池はかって剣池(つるぎのいけ)と呼ばれていた潅漑用のため池である。
堤防の上に登ると、広々とした水面が広がり、樹木で覆われた第8代孝元天皇陵
が水面に黒い影を落としている。一見すると、周濠を巡らした御陵のように見え
るが、そうではなく陵墓が作られてから随分たってからこの溜池が作られている。
『日本書紀』には、第15代応神天皇の11年冬10月、軽池、鹿垣(かのかき)
池、厩坂(うまやさか)池と共に剣池を造った、とある。
『日本書紀』にはもう一度剣池に関する話が登場する。 皇極天皇3年(644)の
6月、すなわち大化改新の丁度一年前に、剣池で一本の茎から二つの花を咲かせ
た珍しい蓮が見つかり、当時繁栄の絶頂期にあった蘇我本宗家の蝦夷(えみし)
は、「これは、蘇我臣が栄えるという目出度い前兆だ」と勝手に考え、金泥で蓮
の花を描かせ、大法興寺(飛鳥寺)の丈六の仏に献上した。皮肉なものでそれか
ら一年後、蘇我蝦夷・入鹿親子は中大兄皇子や中臣鎌足らが起こしたクーデター
によって滅ぼされる運命にあった。
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孝元天皇
日本書紀によると孝元天皇の名は、大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこく
にくるのすめらみこと)と言い、父は第7代孝霊(こうれい)天皇です。都を大和
の軽の境原宮に置いたとされ、その場所は現在の橿原市大軽町付近にあたると考
えられています。
※孝元天皇は、穂積臣らの祖先である内色許男命(うつしこをのみこと)の妹・
内色許売(うつしこめ)命を皇后に立てた。皇后は、二男一女を生んだ。第一の
子が大彦(おおびこ)命、第二の子が後の開化天皇、第三が倭迹迹姫(やまととと
ひめ)命という。第一子の 大彦命は後の崇神天皇の時代に将軍として北陸道に派
遣された人物。皇后の他に、二人の妃を娶った。伊香色謎(いかがしこめ)命は
彦太忍信命(ひこふつおしのみこと) を生み、別の妃の埴安媛(はにやすひめ)
は武埴安彦命を生んだ。 彦太忍信命は、景行から仁徳までの六代の天皇に仕えて
300歳まで生きたという伝説を持つ武内宿禰(たけちのすくね)の祖父である。
武埴安彦命後に崇神天皇のとき反乱をおこした ことで知られている。
更に、『古事記』では武内宿禰の9人の子供(男7人、女2人)の名をあげ、武
内宿禰の後裔とされる氏族を 列挙している。その中には、波多臣、巨勢臣、蘇我
臣、平群臣、木臣など臣(おみ)姓の地方豪族の名がある。これらの地方豪族は
後世に共同の祖として武内宿禰を構想し、 その系譜の上流を皇族に結びつけて箔
をつけている。
池の向こうは孝元天皇陵
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橿原神宮前駅へ向かう
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橿原神宮へのイチョウ並木
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橿原神宮前駅
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おまけ
オークホテルロビーでコーヒーブレイクの後、
お土産にショートケーキを買って帰って・・・
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10月27日の歩こう会「馬見丘陵公園自由散策」-2

11月11日        10月27日の歩こう会「馬見丘陵公園自由散策」-2
             10月度歩こう会「少Grで園内自由散策」
コロナ禍の中での2回目の歩こう会は前回の9月度の服部緑地公園内での少Grによる園内
自由散策に習って、今回も世話人の負担は増るが馬見丘陵公園で少Grでの園内自由散策
を開催し参加者57名と先ず先ずの成果?現状コロナ禍では、此の方式での開催しか無い。
此の日の私の万歩計は、18106歩で約10.8㎞歩いたことに・・・・
此の日は、会員の笑顔を撮る事に終始した為、ブログ投稿用の写真が少なかった。
近鉄田原本線池部駅
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馬見丘陵公園「緑道北口」で受付(10:30~11:00)
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コロナ感染防止対策として
・検温・手指消毒を実施し少Grで順次スタート
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受付を終えて
緑道
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緑道~公園エリア入口でGr写真撮影し園内自由散策スタート
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集いの丘麓・大型テント
帰着受付(13:00~13:30)は此の大型テントの一角
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集いの丘麓・馬見花苑
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彩の広場(ダリア園)
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連絡隧道~花の道・バラ園の秋桜
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マサキ
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古墳の丘~下池~一本松古墳
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此処までは、
10月27日の歩こう会「馬見丘陵公園自由散策」-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
        https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-11
此処では、続きの 倉塚古墳~ についての詳細を掲載致します。
倉塚古墳
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カリヨンの丘・コキア(ほうき草)
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梅林に何が?
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ナガレ山古墳へ向かう
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ナガレ山古墳
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公園館
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花の道
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北エリアへの連絡隧道
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花サポーター花壇
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銀モクセイ
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集いの丘麓
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大型テントの一角で帰着受付
Gr毎に記念撮影済ませて順次解散
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疲れて無い方達は
緑道を通り緑道北口~近鉄池部駅へ帰るルート
歩き疲れた方々は
公園館前 駐車場~バスで近鉄五位堂駅へ帰るルート

此の日の私は王寺駅へ歩いて帰る、と言う友人と一緒に途中迄歩いて帰る事に・・・
途中の河合町で別れて
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10月25日の馬見丘陵公園のダリア&秋桜他-2

11月9日         10月25日の馬見丘陵公園のダリア&秋桜他-2
              27日の歩こう会直前、家内と公園散策
此の日は、北口駐車場に車を入れて大型遊具を橋の上から?砂場や徒渉池、大型滑り台
も有る孫達が来た時に連れて行く遊び場と奥の方には、池と池上古墳の有るエリアだ、
公園内で唯一私が未だ訪れた事の無い池上古墳、一度は古墳に上ってみたい・・・
此の日の私の万歩計は、8966歩で約4.1㎞歩いたことに・・・
北口駐車場~大型遊具エリアへの橋
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集いの丘を一回り
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大型テント
27日の歩こう会公園散策の帰着場所
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花サポーター花壇
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ダリア園
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皇帝ダリア
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此処までは、
10月25日の馬見丘陵公園のダリア&秋桜他-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-08
此処では、続きの 連絡隧道を通りバラ園へ~ についての詳細を掲載します。
連絡隧道を通り
中央エリアのバラ園へ
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公園館前へ
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芝生の丘
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柿の木広場・別所下古墳
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下池ウッドテラス
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下池ウッド橋から亀達を・・・
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古墳の丘
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マサキ
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バラ園、花の道を通り
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連絡隧道を通り
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ダリア園~駐車場へ
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10月22日の馬見丘陵公園のコキア&秋桜-2

11月2日        10月22日の馬見丘陵公園のコキア&秋桜-2
             口腔外科通院早く終わって公園へ
此の日は、馬見丘陵周辺&馬見丘陵公園散策で私の万歩計は、8710歩で約5.2㎞歩いた。
佐味田宝塚古墳を探して?佐味田地区をブラブラ散策してみたが今回は此処迄で・・・
一面綿畑だ
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ナガレ山古墳へ
馬見丘陵公園入場
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ユリノキ
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狐塚古墳
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カリヨンの丘周辺のコキア
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墳観橋から
カリヨンの丘のコキアを撮る
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墳観橋から
巣山古墳前の秋桜を撮る
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此処までは、
10月22日の馬見丘陵公園のコキア&秋桜-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-02
此処では、続きの 倉塚古墳&一本松古墳~ についての詳細を掲載します。
倉塚古墳&一本松古墳
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下池周辺の
セイタカアワダチソウ
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柿の木広場
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公園館前
芝生の丘の秋桜
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公園館&風船唐綿
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10月21日の歴史探訪の会(明智光秀終焉地)ー2

11月1日       10月21日の歴史探訪の会(明智光秀終焉地)ー2
             10月度歴史探訪の会例会 京都山科
京都市営地下鉄 小野駅に参加者15 名、明智光秀終焉の地・小栗栖及び周辺を訪れた。
本能寺の変
天正 10 年(1582)6 月 2 日早朝、明智光秀は本能寺の織田信長と二条城の嫡男信忠を
討った。なぜ光秀が信長を討ったのか?400 年以上にわたり謎は深まる一方・・・
明智光秀の最期
本能寺の変からわずか 11 日後の 6 月 13 日、明智光秀は、驚愕の中国大返しを果たし
た羽柴秀吉に山崎の合戦で敗れた。光秀が信長から付けられた与力大名、丹後の細川
藤孝や大和の筒井順慶が光秀軍に参陣しなかったのが痛かった。明智光秀は勝龍寺城
(京都府長岡京市)に退いたのち、夜陰に紛れて数名の近臣らと居城坂本城を目指し
て落ち延びていった。途中、山科小栗栖に差し掛かった時に竹藪から竹槍の襲撃に会
い、その場で落命したとも、しばらく進んだ所で側近に首を討たせたともいわれる。
襲ったのは小栗栖の武士集団である飯田一党という。天下人の何とも儚い最期・・・

地下鉄小野駅10時30分受付「京都SKY観光ガイド協会」のガイドさんと共にコロナ
感染対策として、全員手指消毒しマスク着用してスタート。
此の日の私の万歩計は、16545歩で約9.9㎞歩いた事に・・・
コース
小野駅~明智光秀胴塚~北小栗栖天神宮(きたおぐりすてんじんぐう)~山科川沿い
の公園で昼食休憩~明智藪・飯田一党の小栗栖城跡~本経寺(ほんきょうじ・供養塔)
~小栗栖八幡宮・八幡宮公園で小休止~天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)
・終礼(解散)~地下鉄石田駅
小野駅
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光秀胴塚へ向かう
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明智光秀胴塚
小野駅から 10 分ほど南に歩くと、府道沿いの一角に明智光秀の胴塚がある。明智藪で
襲撃を受けた光秀は、このあたりまで来たところで死を覚悟し、側近の溝尾庄兵衛に
介錯させて自刃したという。庄兵衛は首を隠し、遺体を郷民が埋葬した。しかし首は
すぐに敵兵に見つかり、遺体も掘り出されて、信孝と秀吉が 6 月15 日に本能寺の焼け
跡に晒した。さらに、首と胴体は繋ぎ合わされて、京都の粟田口に磔にされたという。
胴体が埋葬された「胴塚」が山科のこのあたりにあったとの言い伝えがあり、昭和 45
年、光秀を慕う地元山科の有志がこの地に胴塚を建立した。
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北小栗栖天神宮へ向かう
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北小栗栖天神宮(きたおぐりすてんじんぐう)
胴塚から府道に沿って10分ほど歩くと北小栗栖天神宮が有る。明智光秀は、この道を
北小栗栖天神宮から胴塚の方向に坂本城に向かって落ち延びようとしていたらしい。
大鳥居の向こうは急な石段が 100段あまり。
北小栗栖天神宮の祭神は伊佐那岐命と伊佐那美命。火災の為創立の年代は分からない。
口伝によれば、天智天皇の御代(670年ごろ)に藤原鎌足の長子 定慧が創建したと伝え
られる法琳寺の鬼門除けに、この地に天神社が建立されたとの事である。以来 1300 年
余り、当天神宮は北小栗栖の産土神として地元の人々の崇敬を受け、親しまれている。
※藤原鎌足の長子 定慧(じょうえ):藤原不比等の 16 歳年上の兄
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公園へ向かう
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山科川沿いの公園で昼食休憩
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明智藪へ向かう
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此処までは、
10月21日の歴史探訪の会(明智光秀終焉地)ー1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-01 
此処では、続きの 明智藪・飯田一党の小栗栖城跡~ の詳細を掲載します。
明智藪・飯田一党の小栗栖城跡
明智藪という名前から、周りはすべて竹藪と想像していたが、着いてみると結構開け
ていた。先の台風でたくさんの竹が倒れて、危ないから切ったとのこと。竹が鬱蒼と
していたころは不気味で、通るのも怖かった、と地元の飯田さんが語ってくれた。
明智光秀を討ったのは小栗栖の武士集団 飯田一党である、と説明板に書いてある。
飯田一党の末裔の飯田さんが現在もこの地に住んでおられる。明智藪でその飯田さん
から説明を聞いた。明智藪の真向かい、たくさんの竹の切り株が残る小高い丘が小栗
栖城跡という。一説には小栗栖八幡宮が小栗栖城跡との資料もあるが、それは間違い
とのこと。小栗栖城主は飯田氏で、明智藪の真ん前にある小栗栖城から出撃した??
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飯田一党の小栗栖城跡
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本経寺へ向かう
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本経寺(ほんきょうじ・供養塔)
明智藪は本経寺の境内にある。久遠山本経寺は日蓮本宗の寺である。平成 10 年 6 月、
ご住職が境内に供養塔を立て、悲運の武将明智光秀公に供養を捧げて歴史の一端を伝
えている。石碑には、「明智日向守光秀公供養塔」とある。
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小栗栖八幡宮・八幡宮公園で小休止
本経寺から 5分ほど住宅街の緩い坂道を下ると小栗栖八幡宮の赤い鳥居に至る。此処が
小栗栖城跡との情報があるが、先ほ明智藪の説明をしてくれた飯田さんによるとそれは
間違いで明智藪の真ん前にある竹の切り株が残る小高い丘が小栗栖城跡だという。
神社の祭神は、応神天皇、仲哀天皇(応神天皇の父)、神功皇后(仲哀天皇妃、応神天
皇の母)。神社の創建は平安時代の貞観 4 年(864)、紀興道が男山八幡宮の分霊を勧
進して創建した。室町時代から江戸期まで飯田氏が神主を勤めた。
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神社の下は八幡宮公園になっていて、公園奥に子安地蔵の祠がある。安産のご利益があ
るという。日本三体地蔵のひとつといわれ、沢山のよだれかけがかかっていて、地元の
人たちの信仰の厚さがうかがえる。
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山科川を渡り
天穂日命神社へ向かう
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天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)・終礼(解散)
祭神は、天穂日命。古事記によれば、須佐之男命が天照大御神から 5 つの玉の緒を受け
取り、聖水をふりかけ、口の中で粉々に噛み砕き、霧状の息を吐き出すと 5 柱の男神が
生まれた。その中の 1 柱が天穂日命だったという。葦原中つ国の平定のために、八百万
の神々から最初に遣わされたのが天穂日命であったが、大国主命に媚びへつらって 3 年
経っても報告をしなかったという。
当神社は延喜式神明町に載る天穂日命神社に比定される。現在の本殿は天明 3 年(1873)
の造営である。正面の柱間が2間という、京都市内ではほとんど例を見ない二間社流造形
式の建物である。閑静な境内は「万葉集」などの和歌の名所「石田の杜(いわたのもり) 」
とされ、神社の入口には歌碑が建っている。(参考、最寄駅は石田(いしだ)駅である)
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終礼
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地下鉄石田駅
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