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7月28日の橿原市「キバナコスモス&蓮の花」巡り-2

7月31日       7月28日の橿原市「キバナコスモス&蓮の花」巡り-2
            JRふれあいハイキング 10㎞ 244名参加
今回のJRふれあいハイキングには、知人のK場さんと参加、阿倍野のM崎さんんも参加し
ていた。 此の日の私の万歩計は、18714歩で約11.2km歩いた、暑い暑い一日だった・・・
途中で参加者全員にカップの「かち割り氷」が振る舞われる嬉しい事も有りました。
コース  JRふれあいハイキング 大和ウオーキング協会主催 参加費500円 
JR畝傍駅(9:45集合)~おふさ観音・涼を誘う風鈴の音色~醍醐池・黄花コスモスと耳成
山~藤原宮跡・蓮の花と香久山&畝傍山~天香久山神社(通らないショートカットコースも
有り)~天岩戸神社~香久山公園(昼食休憩・此処からバスで帰るショートカットコースも
有り)~万葉の森・万葉集句碑~妙法寺~たちばな公園(解散)~JR香久山駅 又は近鉄
大福駅へ
JR畝傍駅(9:45集合)
畝傍駅をスタート
畝傍駅
皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に昭和天皇の橿原神宮行幸に際して建築され、
重厚な寺社風の木造駅舎が現在も残っている。近鉄小房線(廃線)の起点駅でも有った。
かつては近鉄吉野線の旧線でもある近鉄小房線(おふさせん)の起点終点駅でもあった。
ホームは駅舎より高い位置にあり、駅舎とホームは階段およびスロープで結ばれている。
その階段は現在使われている出入口(改札口)を結ぶものと、貴賓室とを結ぶもの、団体
用出入口(閉鎖)を結ぶ3つ設置されていた。
貴賓室
橿原神宮や神武天皇陵への最寄り駅だったため、参拝する皇族のために駅舎内には貴賓
室が設けられた。1940年(昭和15年)には皇紀2600年大祭が営まれて昭和天皇が、1959
年(昭和34年)には成婚から間もない皇太子夫妻(後の明仁上皇・上皇后美智子)が、この
貴賓室を利用した。普段は閉鎖されているが、年1回程度、不定期に一般公開される。
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廃線になった近鉄小房線のホームだけが残ってる?奥に見えるのが畝傍駅ホームと駅舎。
このホームに小房線がついていた様で、左の方に小房線の線路が引かれていたそうです。
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※近鉄小房線
近鉄小房線は、橿原神宮前駅と国鉄桜井線 畝傍駅を結んでいた路線です。
1924年(大正13年)11月1日 - 吉野鉄道(現在の近鉄吉野線の前身)が橿原神宮前駅
(初代)から延伸し当駅(畝傍駅)に乗り入れ。
大正13年(1924年)開業、昭和27年(1952年)に廃止になりました。

おふさ観音へ向かう
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おふさ観音・涼を誘う風鈴の音色
寺のある地名と合わせて「小房(おふさ)観音」と呼ばれていて、正式名は高野山真言宗
別格本山観音寺といいます。本尊である十一面観音はもともと身体に健康を授けると言
われていましたが、近年ではそれ以外に厄除け、子授け、長寿と老人病封じを願う人々
が多く訪れるようになり、大和ぼけ封じ霊場会の札所にもなっています。
江戸時代にこの辺りは大きな池でがあり、ある日、土地の娘「おふさ」さんが池のほとり
を歩いていると、観音様が現れたというのです。この「おふさ」さんが、観音様を奉られた
のが、お寺の起源だとも言われています。
春と秋には、「バラまつり」が開催されイングリッシュローズを中心に約2,300種類のバラ
が可憐に、優雅に咲き競い、夏には、風鈴の涼しい音色が厄を払うという仏教伝来の思
想から、「風鈴まつり」が開催され、2,000個を超える日本各地の風鈴が展示されます。
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醍醐池・黄花コスモスへ向かう
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醍醐池・黄花コスモスと耳成山
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醍醐池
醍醐池は、醍醐町とともに古い歴史を持ち、町の言い伝えによると行商のためこの地を
訪れて病などで倒れた人や、封建時代ゆえに身分や事情を公に出来ないため、醍醐池
に埋葬された人が数多くいると言われています。
醍醐池の北西の角には、供養塔とその傍らに歴史を物語る石碑が建てられています。
美しい桜並木や菜の花、キバナコスモスの風景の裏側で、過去に悲しい出来事があった
ということがわかります。
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藤原宮跡へ向かう
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藤原宮跡の蓮田へ到着
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蓮の花と香久山
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此処までは、
7月28日の橿原市「キバナコスモス&蓮の花」巡り-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-31
此処では、続きの 蓮田の途中~ についての詳細を掲載します。
蓮の花達
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藤原宮跡・蓮の花と香久山&畝傍山
藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。持統天皇が
飛鳥から藤原の地に都を遷したのは694年のこと。新たな都の造営は、亡き夫・天武天
皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大き
さは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都で
す。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という
国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。
藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)は、藤原京の中心施設である藤原宮のあったところです。
藤原宮は一辺約1kmの中に、大極殿や朝堂院といった国をあげての儀式や政治を行う
施設や天皇の住まいである内裏などがあり、現在の皇居と国会議事堂、霞ヶ関の官庁
街を合わせた性格を持っていました。藤原京は16年間の都でしたが、藤原宮の構造は
その後の都にも引き継がれていきます。
藤原宮跡では、季節ごとに美しい花が植えられ、菜の花やコスモス、キバナコスモス、ハ
スなど色とりどりの大地のカーペットを楽しむことができます。また、藤原宮跡は大和三山
の絶好の眺望スポットとなっています。
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蓮の花とうねび山
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香久山と蓮の花
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天香久山神社へ向う
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天香久山神社(通らないショートカットコースも有り)
トイレ休憩後、知人と二人、ショートカットコースを歩く

天香久山神社(あまのかぐやまじんじゃ)
天香山神社の祭神は、櫛真智命神(くしまちのみことのかみ)です。
境内にある「朱桜」(にわざくら)という古名で知られる「波波架の木」(ははかのき)
は、その昔、占いに用いられたと言われています。
「古事記」の天岩戸神話(あまのいわとしんわ)には、天香具山(あまのかぐやま)
の雄鹿の骨を抜きとって「朱桜」の木の皮で焼き、吉凶を占ったとあります。

天岩戸神社の手前で本隊と合流して・・・

天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)
香具山(かぐやま)の麓にある神社で本殿はありませんが、日の神・天照大御神(あ
まてらすおおみかみ)が隠れた天岩窟(あまのいわや)または、天岩戸(あまのいわ
と)と言われる巨石がご神体です。
太陽神である天照大御神は、弟の須佐之男命(すさのおのみこと)があんまり乱暴を
働くので、岩戸に隠れてしまいました。日の神が隠れたことによって世の中は闇に包
まれてしまいます。そこで、神々は思案し一計をめぐらしました。天岩戸の前に集ま
って、ある神様が踊り出し、これをほかの神様も笑いながら楽しみました。隠れてい
た天照大御神が外の様子が気になって岩戸から顔を覗かせたとき、天手力雄神(あめ
のたぢからお)がとうとう外に出してしまいました。そして、また世の中はもとどお
り明るくなったという事です。境内には毎年新しい竹が7本育つ代わりに、別の7本が
枯れ死するという「7本竹の不思議」が伝わっています。
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香久山公園へ向かう
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香久山公園(昼食休憩・此処からバスで帰るショートカットコースも有り)
大和三山のひとつ香久山の南麓丘陵部に位置しており、市営香久山墓園や市営斎場と
併せて設置されました。春には桜が咲き誇り、秋には紅葉が美しく、市民はもちろん
観光客にも楽しんでいただけます。また、公園内には県下唯一の自然博物館である
「橿原市昆虫館」があります。亜熱帯地方の植物が生い茂る中、オオゴマダラなど
十数種類の蝶が常時500羽以上飛び交う温室や昆虫標本展示や生態展示など自然環境
の学習ができます。
午後のスタート、万葉の森へ向かう
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万葉の森・万葉植物・万葉歌碑
香久山の入り口にある森林公園です。森林内には様々な植物の展示園があり、万葉集
に詠まれた万葉植物が73種植栽されています。天香具山の北東麓に整備されている。
第32回全国植樹祭記念事業の一環として整備されました。
万葉集に詠まれる植物(アセビ、イチイガシ、梅等)を植栽した万葉植物展示園が中心
で、桜展示園・紅葉展示園・花木園・水生植物園・竹林園・野鳥誘致園なども有り、四
季折々の花が楽しめます。遊歩道には立派な万葉歌碑が立てられています。
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出口には、膳夫古池(かしわでふるいけ)が有ります。・・・此処で水分補給休憩
天香具山の北東部の麓にある池は『膳夫古池』と呼ばれます。
「万葉の森」に隣接し、「白鷺の舞い降りる池」としてNHKでも紹介された風光明媚
なところです。
≪かしわでの地名のいわれ≫
古代に天皇の食事を用意した専属料理人:膳夫(かしわで)氏の一族がこの一帯に住
んでいたそうです。一族の長(おさ)を膳臣(かしわでのおみ)と呼んでいました。
古くは、食器の代わりにカシワの木の葉を使っていたことから、これらの呼び名が
ついたそうです。 
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此処での水分補給休憩にカップに入ったかち割り氷が全員に配られ非常に有難かった。
何杯も水やお茶が飲めて最後に氷をがりがりと・・・一度に疲れがとれた感じ
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妙法寺(みょうほうじ)御厨子観音(みずしかんのん)
妙法寺(みょうほうじ)御厨子観音(みずしかんのん)は、奈良時代の賢人である吉備
真備(きびのまきび)が遣唐使として派遣され、無事唐から帰国できたことを喜んで創建
させたということです。本尊は十一面観音菩薩で、吉備真備が中国で窮地に立たされた時、
蜘蛛によって助けられたというエピソードもあることから、クモ観音とも呼ばれています。
真備の功績の1つである「大般若経(だいはんにゃきょう)」は現在奈良国立博物館に保管
されています。また寺の東側に、万葉集で大津皇子(おおつのみこ)が辞世の歌として詠
んだ「百伝ふ磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ」で有名な磐余(いわ
れ)の池があったと言われています。この磐余の池が御厨子という名前の由来とも言われ
ています。
このほかにも橿原市東池尻町西南の御厨子山頂に、土地の氏神「御厨子神社」が鎮座して
います。初め「水尻神社」と呼ばれたこの社は、この地一帯に古代あったという磐余池の
池尻に位置したことから社名が生まれたと伝わっています。
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※吉備真備(きび の まきび)
吉備 真備は、奈良時代の公卿・学者。元の名は下道 真備(しもつみち の まきび)。姓
は下道朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。勲等は
勲二等。下道氏(下道朝臣)は吉備地方で有力な地方豪族吉備氏の一族。
異説として加茂氏系図に、吉備彦之孫・(鴨の)吉備麻呂・右大臣という記載があり、
この人物が吉備真備であるという説がある。また賀茂保憲や賀茂光栄を吉備真備の末裔
とする文献もある。
備中国下道郡(現在の岡山県倉敷市真備町)出身。
霊亀2年(716年)遣唐留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共
に入唐した。唐にて学ぶこと18年、天平7年(735年)に玄昉と同船で帰路に就くも種子
島に漂着するが、多くの典籍を携えて帰朝した。唐では経書と史書のほか、天文学・音
楽・兵学などを幅広く学び、帰朝時には経書(『唐礼』130巻)、天文暦書(『大衍暦
経』1巻、『大衍暦立成』12巻)日時計(測影鉄尺)、楽器(銅律管・鉄如方響・写律
管声12条)、音楽書(『楽書要録』10巻)、弓(絃纏漆角弓・馬上飲水漆角弓・露面漆
四節角弓各1張)、矢(射甲箭20隻、平射箭10隻)などを献上し、『東観漢記』をもた
らした。 帰朝後は聖武天皇や光明皇后の寵愛を得て、天平7年(735年)中に従八位下
から一挙に10階昇進して正六位下に、天平8年(736年)に外従五位下、天平9年(737
年)に従五位上に昇叙と、急速に昇進する。翌天平10年(738年)に橘諸兄が右大臣に
任ぜられて政権を握ると、真備と同時に帰国した玄昉と共に重用され、真備は右衛士督
を兼ねた。天平12年(740年)には、真備と玄昉を除かんとして藤原広嗣が大宰府で反
乱を起こす(藤原広嗣の乱)。
天平18年(746年)には吉備朝臣の姓を賜与され、天平19年(747年)に右京大夫に転
じて、天平勝宝元年(749年)には従四位上に昇った。
天平15年(743年)8月に孝謙天皇が即位して以降、藤原仲麻呂が権を握り、真備や玄昉、
諸兄と対立する。天平17年(745年)筑紫観世音寺別当に左遷され、翌年に同地で没した。
真備も天平勝宝2年(750年)に格下の官かつ地方官である筑前守、次いで肥前守に左遷
される。さらに翌年の天平勝宝3年(751年)には遣唐副使に任命され、翌天平勝宝4年
(752年)に再び危険な航海を経て入唐。同地では阿倍仲麻呂と再会する。その翌年の天
平勝宝5年(753年)に帰国の途に就くも、鑑真と同じく屋久島へ漂着、さらに紀伊国太
地に漂着後、無事に帰朝する。帰朝後も中央政界での活躍は許されず、翌天平勝宝6年
(754年)に正四位下・大宰大弐に叙任されて九州に下向する。天平勝宝8歳(756年)
に新羅に対する防衛のため筑前国に怡土城を築き、天平宝字2年(758年)に大宰府で唐
での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた。その後、暦学が認められて、儀鳳暦に替えて
大衍暦が採用された。 天平宝字8年(764年)、造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京
した。同年に発生した藤原仲麻呂の乱において、緊急に従三位に昇叙され、中衛大将と
して追討軍を指揮して、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、仲麻呂は戦死した。翌天
平神護元年(765年)には勲二等を授けられ、翌天平神護2年(766年)、称徳天皇(孝
謙天皇の重祚)と法王に就任した弓削道鏡の下で中納言となり、同年の藤原真楯薨去に
伴い大納言に、次いで従二位・右大臣に昇進して、左大臣の藤原永手と共に政治を執っ
た。これは地方豪族出身者としては破格の出世であり、学者から立身して大臣にまでな
ったのも、近世以前では、吉備真備と菅原道真のみである。 神護景雲4年(770年)、
称徳天皇が崩じた際には、娘(妹)の由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手
らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を実現した。
光仁天皇の即位後、真備は老齢を理由に辞職を願い出るが、光仁天皇は兼職の中衛大将
のみの辞任を許し、右大臣の職は慰留した。宝亀2年(771年)に再び辞職を願い出て許
された。それ以後の生活については何も伝わっておらず、宝亀6年(775年)10月2日薨
去。享年83。 最終官位は正二位前右大臣。 奈良市内にある奈良教育大学の構内には真
備の墓と伝えられる吉備塚(吉備塚古墳)がある。

たちばな公園(解散)~JR香久山駅 又は近鉄大福駅へ
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知人と二人、近鉄大福駅へ向かう

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7月26日の公園巡り「馬見丘陵公園ひまわりウイーク」-2

7月30日        7月26日の公園巡り「馬見丘陵公園ひまわりウイーク」-2
                    昼飲み会ハイキング 公園巡り 6km
此の日の昼飲み会ハイキングは、公園巡り。馬見丘陵公園ひまわりウイーク(7月27日
~8月4日)を先取りした形で、7月26日午前中に馬見丘陵公園のひまわりや他の夏の
花達を見て天王寺の居酒屋での昼飲み会につなげよう?と言うものでK場さんM吉さん
S籐さんと4名で、8時40分に近鉄五位堂駅二集合、8時46分発の馬見丘陵公園へ直通
バスで行、丘陵公園の至る所に咲いているひまわりの花や他の夏花をめで、昼前迄に
池部駅~新王寺駅、王寺駅経由で天王寺駅へ、天王寺駅で2名と合流し居酒屋へ。。。
此の日の私の万歩計は、13838歩で約8.2km歩いたことに・・・
前日25日に病院の帰りに馬見丘陵公園の近くを通ったので、ちょっと下見?
巣山古墳前と南エリアの倉塚古墳前を覗く巣山古墳前はひまわりが無く、倉塚古墳前は
見事にひまわりが咲いていた・・・・
巣山古墳前
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南エリア
倉塚古墳前
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7月26日
香芝駅~下田駅へ乗り換え
鹿島神社
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五位堂駅~馬見丘陵公園へバスで向かう
先ず公園館を覗いて南エリアの倉塚古墳前へ向かう
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ウッドデッキの森を抜けて上池へ
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梅林の前を通り倉塚古墳前&一本松古墳前
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下池前の百日紅
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バラ園前の大輪のアメリカ芙蓉
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花の道の
チャイニーズイエローバナナ
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隧道を北エリアへ
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隧道を抜けた所で
昨夜、奄美から届いたパッションフルーツを試食
1人はパッションフルーツが嫌い?と言う事も解り・・・
こんな滅多に無いタイミングで届いたパッションフルーツ、皆さんのお土産に・・・

此処はひまわりじゃ無いが黄色の綺麗な花が満開
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百日紅も綺麗
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花苑と集いの丘
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集いの丘のこちら側には
背の高いひまわり群が・・・
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反対側には
背の低いひまわり達の群れ
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此処から
1300年ロードを池部駅へ向かう
池部駅~新王寺駅 王寺駅へ乗り換えて天王寺駅へ
天王寺駅の待ち合わせポイントで2名と合流、此の日は6名で何時もの昼飲み会・・・
合流した2名にもパッションフルーツのお土産を渡して
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7月23日の自然博物館&温山荘園&マリーナシティ-2

7月29日        7月23日の自然博物館&温山荘園&マリーナシティ-2
                   7月度歩こう会例会 歩程約6km
7月23日の歩こう会は、和歌山県立自然博物館&温山荘園&マリーナシティを参加者58
名で歩きました。此の日の私の万歩計は、16400歩でやく9.8kmもあり距離の苦情も?
マリーナシティでは、黒潮市場を見て和歌山フルーツ村を見て黒潮温泉に入って帰った。
コース  雨天決行 和歌山自然博物館&温山荘園&マリーナシティ 参加費400円
JR海南駅(西広場10:15集合)~和歌山自然博物館~琴の浦温山荘園(昼食休憩)~
ムーンブリッジ~マリーナシティ(解散フリータイム)
マリーナシティフリータイム(黒潮市場・ポルトヨーロッパ・天然黒潮温泉)~バスで南海
和歌山駅又はJR和歌山駅へ戻る
JR海南駅(西広場10:15集合)~
和歌山立自然博物館へ向かう
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和歌山立自然博物館
和歌山県立自然博物館は、豊かで美しい和歌山県の自然を紹介する施設です。水にす
む生きものの展示を中心に、動・植物、昆虫、貝、化石などの標本も展示・収蔵し、興味
を持って楽しみながら学習できます。また、研究や教育普及活動を通じ、地域に親しまれ
る博物館をめざしています。
展示コンセプトは「和歌山にこだわる!」。
展示されているものほとんどすべてが和歌山に生息・生育しているものです。
海や川の生き物を生きたまま展示する水族館型の第1展示室では約500種5000匹を展
示しています。
第2展示室では和歌山の地質・化石、植物や貝類、昆虫などの動物を標本や模型で紹介
しています。
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琴の浦温山荘園へ向かう
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琴の浦温山荘園(昼食休憩)
琴の浦温山荘園
日本で初の動力伝動用革ベルトの製造に成功し、世界有数のベルトメーカーとなった新田
帯革製造所(現ニッタ株式会社)の創業者・新田長次郎翁が大正初期から造園されました。
18,000坪の庭園は、海水を引き入れる潮入式池泉回遊庭園で、潮の干満に合わせて水位
が変化する珍しい造作になっています。平成22年、文化庁より庭園は国指定の名勝に、建
造物は重要文化財に指定されています。
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年期の入ったカイズカイブキ
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※新田長次郎翁
明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカー
となった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁、1857年に現在の愛
媛県松山市山西町で生れ、20歳の時に大阪に出て、1885年に創業、その3年後に我が国で
初の動力伝動用革ベルトの製造に成功。ベルト総合メーカー、ニッタ株式会社(東証1部)の前
身である、新田帯革製造所を創業。長次郎は、幕末の動乱の時代に志を胸に実業界に船出。
運も味方して事業は順調に拡大、大阪屈指の資産家になりました。社会貢献についても積極
的で、松山高等商業学校(現 松山大学)の創設者の一人であり、大阪市では有隣尋常小学校
を開校し、12年後には大阪市にすべてを寄贈。教育を通じて社会に貢献したいという考え方。

東郷平八郎書
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※東郷平八郎
明治時代の日本海軍の指揮官として日清及び日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際
的地位を「五大国」の一員とするまでに引き上げた一人である。日露戦争においては、連合
艦隊を率いて日本海海戦で当時世界屈指の戦力を誇ったロシア帝国海軍バルチック艦隊を
一方的に破って世界の注目を集め、アドミラル・トーゴー(Admiral Togo 、東郷提督)としてそ
の名を広く知られることとなった。当時、日本の同盟国であったイギリスのジャーナリストらは
東郷を「東洋のネルソン」と、同国の国民的英雄に比して称えている。日本では、大胆な敵前
回頭戦法(丁字戦法)により日本を勝利に導いた世界的な名提督として、東郷と同藩出身者
であり同じく日露戦争における英雄である満州軍総司令官・大山巌と並び、「陸の大山 海の
東郷」と称され国民の尊敬を集めた。
弘化4年12月22日(1848年1月27日)、薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(下加治
屋町方限、現・県立鹿児島中央高校化学講義室付近)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛
門の三女・益子の四男として生まれる。
庭園
潮入式池泉回遊庭園
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此処までは、
7月23日の自然博物館&温山荘園&マリーナシティ-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-28
此処では、続きの温山荘園の庭園の途中~ の詳細についてを掲載します。
温山荘園の庭園の途中
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地下にダンスホール等も・・・
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庭園で昼食
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午後はマリーナシティへ向かう
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温山荘園を外から・・・
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※養翠園・・・隣接する和歌山市にある
以前、歩こう会で訪れた事のある潮入式池泉回遊庭園
養翠園は紀州藩十代藩主徳川治宝の別邸である水軒御用地の庭園として文政元年
(1818)から9年(1826)にかけて造営した回遊式庭園です。現存する海浜の立地及び
風致を活かした「汐入」の様式をもつ庭園は徳川将軍家の別邸浜御殿を前身とする浜
離宮恩賜公園と並ぶ、非常に貴重なものです。
庭園は養翠亭を中心に構成されており、L字型の敷地の東側には天神山や章魚頭姿
山を借景とした広大な池泉が設けられ、敷地の南辺と西辺は松ヶ枝堤により隣接する
大浦湾と園内が区切られています。
庭園の景色は池泉の東側と西側で大きく異なり、東側は北岸から池泉の中央に配され
た中島に向けて直角に曲がる土堤が伸び、三つ橋と太鼓橋が架けられた中国杭州の
西湖の蘇堤をモチーフとした中国風のものになっています。それに対し、養翠亭よりの
西側は曲線的な護岸壁をもち、章魚頭姿山を借景に持つ周囲の自然を取り込んだ日
本的な回遊式庭園となっています。なお、三つ橋と太鼓橋は明治中期に掛け替えられ
たコンクリート製のものですが、保存されているコンクリート構造物としては初期のもの
であり、非常に貴重なものです。
池泉の西側に建つ書院養翠亭は、池泉を臨む御座の間、あやめ池の正面にある次の
間、露地を伴う茶室の実際庵等が付属しています。

ムーンブリッジへ向かう
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ムーンブリッジ
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マリーナシティ(解散・フリータイムは黒潮市場・ポルトヨーロッパ・天然黒潮温泉等)
和歌山マリーナシティ(わかやまマリーナシティ、Wakayama Marina City)
和歌山マリーナシティは、和歌山県和歌山市毛見沖の和歌山湾にある人工島。1994年
(平成6年)に開催された世界リゾート博に合わせ、松下興産(当時)によって作られた。
人工島には、テーマパークの「ポルトヨーロッパ」「和歌山マリーナシティホテル」(旧ロイ
ヤルパインズホテル)などの施設があるほか、リゾートマンションも建設されている。また、
島内のヨット倶楽部は、わかやまマリーナシティ海の駅として国土交通省より海の駅の
登録を受けている。
島の造成にあたって、埋立用の土砂は旧下津町(現在は海南市下津町)丸田の土砂採
集場から採取された。バブル景気の頃にはこの旧下津町の土砂採集場跡地もリゾート
開発される計画であったが、実際にはメガソーラー(NTTファシリティーズF海南太陽光
発電所)と蚊取り線香の工場(大日本除虫菊和歌山工場)が立地している。
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月桃の花
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天然黒潮温泉
塩化物泉は、温泉に含まれる塩の成分により、皮膚表面にある皮脂やタンパク質などと結
び付いて塩皮膜を形成します。その膜が肌の表面に薄いヴェールのようにお肌を包み、肌
の水分や熱を逃げにくくし、“しっとり”・“ぽかぽか”が続く保湿・保温効果をもたらします。
また、塩化物泉は「熱の湯」とも言われ、皮膚の温度を高め、発汗を促してくれます。
塩皮膜との効果により身体を芯から温め、エネルギー消費の持続時間も長くなることから
“冷え性”や“ダイエット”をしたいと思っている方や“メタボ”が気になる方にも効果的です。
適応症・・・きりきず、末梢循環障害、冷え性、うつ状態、皮膚乾燥症等に効果
筋肉若しくは関節の慢性的な痛み又はこわばり(関節リウマチ、変形関節症、腰痛症、神経
痛、五十肩、打撲、捻挫などの慢性期)運動麻痺における筋肉のこわばり、胃腸機能の低下
(胃がもたれる、腸にガスがたまるなど)、軽症高血圧、耐糖能異常(糖尿病)、軽い高コレス
テロール血症、軽い喘息又は肺気腫、痔の痛み、自律神経不安症、ストレスによる諸症状
(睡眠障害など)、病後回復期、疲労回復、健康増進に効果が有ると言われます。
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黒潮市場
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2019年   7月21日の大阪リバーサイドウオークで暑気払い-2

7月24日    2019年 7月21日の大阪リバーサイドウオークで暑気払い-2
               JRふれあいハイキング 11㎞
此の日は、大阪府歩け歩け協会主催のJRふれあいハイキングに参加、参加者309名と
一緒に長い方の11kmコースを完歩しました、以前にJRハイキングで御一緒した阿倍野
のM崎さんとの出会いも有りました、暑い暑い真夏の一日でした・・・・参加費用@300円
コースは    JRふれあいハイキング JR野田駅近くの江成公園で受付・集合 
野田駅~江成公園(受付・集合)~大開公園・松下幸之助創業の地~鷺洲中公園~淀
川河川公園~富島神社~本庄公園(昼食休憩)・此処で中間7kmコースと分割~毛馬の
閘門・与謝蕪村句碑~蕪村公園~毛馬桜之宮公園~桜ノ宮駅(11kmコース・解散)
内回り大和路快速で王寺駅へ 
JR野田駅~江成公園
江成公園 受付・集合・スタート
福島区区民センターの横にあり、用事が終わって休憩している人や、午後には近くの幼
稚園の園児やお母さんたちで賑わいます。
公園の入り口には綺麗なお花が咲いていたり、中には大きなヤシの木が植えられてい
ます。北側の出入り口は広い歩道を挟んで北港通りに面していますが、他に3ヶ所住宅
地側にも出入り口が設けられています。
朝礼&準備体操
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大開公園・松下幸之助創業の地へ向かう
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大開(おおひらき)公園
隣に大開幼稚園があるので、よく園児たちが元気いっぱい走り回っています。
また公園内の藤棚の中には松下幸之助創業の地記念碑が建立されていて、地元
の歴史に触れたり、11月には幸之助さんの好物、「ぜんざいパーティー」も行われ
ています。
松下幸之助創業の地記念碑
大正₇年(1918)、松下幸之助は東成区猪飼野から大開へ引っ越して、松下電気器具製
作所を創立しました。昭和4年(1929)に松下電器製作所に改称、やがて月産10万台の
ランプ工場に発展させ、昭和8年(1933)には門真に工場を移転しました。昭和7年(19
32)の創業記念式典で、水道水のように大量の製品をどこでも安価に供給するのが産業
人の使命であるという有名な「水道哲学」を説きました。記念碑は直筆の「道」の文字が刻
まれています。
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鷺洲中公園へ向かう
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鷺洲中公園~
住宅街の中にある、細長く広い公園です。カラータイヤや、幅が広く大きなすべり台、つい
つい遊びたくなっちゃうジャングルジムなどの遊具がたくさん設置されています。
遊具も多いですが、十分に走り回れる広さなので、まだ遊具で遊べない小さい子から小学
生や中学生まで、元気いっぱい楽しめます。
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トイレに列
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淀川河川公園へ向けて出発
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淀川河川公園~
淀川沿いに設けられた広々とした河川敷公園です。中でも海老江エリアは、テニスコートや
野球場(ともに要予約・有料)、かわいらしい遊具のある児童公園に加え、バーベキュー広
場もあります。無料駐車場も完備しているので、車でも大丈夫!みんなで1日中楽しめます。
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富島神社(とみしまじんしゃ)~
創建の年月は不明だが、祇園牛頭天王社と称し、文禄3年の片桐且元検地にも
除地とあり、それ以前からあった。
祭神は、速素盞烏尊です。 配祀:天照皇大神、八幡大神、住吉大神、奇稻田姫命。
合祀:豐受皇大神、菅原道眞。境内に摂社として、鷺島神社「豐受皇大神 」、
美津社「兵衛府八幡、天児屋根命、事代主神、猿田彦神」 、稲荷社、天満社、御神
木があります。
この富島神社は、パワースポットとしても有名で、特にこの神社のお守り「勝守」
(かちもり)はとても人気で、試合や勝負どきに買われるとのことです。
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本庄公園(昼食休憩地)へ向かう
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本庄公園(昼食休憩)
此処で中間7kmコースと分割~
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此処までは、
此の続きは、
7月21日の大阪リバーサイドウオークで暑気払い-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-24
此処では、続きの淀川堤へ向かう~ の詳細に付いて掲載します。
淀川堤へ向かう
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淀川堤を毛馬の閘門へ向かう
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毛馬の閘門&与謝蕪村句碑~
毛馬の閘門
水位の違う淀川と大川をつなぎ通行できるようにするための水門。
淀川は大規模な洪水が頻発し、流域の人々に甚大な被害を及ぼしたため、明治政府
は明治29年より淀川の大改修工事を開始しました。 毛馬には閘門(明治40年竣工)
と洗堰(同43年竣工)を設置し、これにより旧淀川(大川)に流れ込む水量を調節する
とともに、船運の利便を図りました。 共に煉瓦造で、要所に花崗岩を貼っています。
現在の閘門と洗堰は昭和49年(1974)に新造されたものですが、明治時代の旧第1
閘門と旧洗堰は淀川河川公園内に保存されており、国の重要文化財となっています。
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与謝蕪村顕彰碑
毛馬閘門近くの淀川堤防上に、蕪村の句碑と生誕地の碑がある。句碑には有名な
「春風馬堤曲」の中の『春風や 堤長うして 家遠し』の句が、蕪村の自筆を拡大して
刻まれている。かつてこの句を刻んだ小さな碑が近くに建てられていたが、淀川改
修工事で一時的に取り除かざるを得なくなった。淀川改修百周年記念事業の一つと
して、句碑の復活が取り上げられ、地元では有志による蕪村顕彰碑保存会が結成
され、建設省(当時)・大阪府・大阪市に働きかけ、この四者の協力により昭和53年
2月、現在の堂々とした立派な句碑が建立されたのである。初代の句碑は昭和28年
にやはり地元の有志によって設置されていたもので、今は国土交通省毛馬出張所
敷地内の桜の木の下にひっそりと置かれている。生誕地の碑は昭和54年3月大阪
市が建てている。
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蕪村公園へ向かう
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蕪村公園
この公園は大阪が生んだ江戸時代を代表する文化人である与謝蕪村を顕彰して、
蕪村の誕生地である大阪市都島区毛馬町に、2009年(平成19年)4月にオープ
ンした公園である。公園の規模は約1ヘクタールで、市街地の公園としては十分な
大きさであるが、与謝蕪村の業績を紹介する写真パネルが、柵に取り付けてある
など、蕪村を顕彰するというには、その中身がちょっとお粗末。予算との兼ね合い
もあってのことだろうが、やはり、資料館などが欲しいところだ。
此処で解散式?
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毛馬桜之宮公園~
毛馬洗い堰から天満橋までの大川の河川敷を利用した、水と緑と桜の河岸公園。
造幣局などのレトロ建造物の他、水の広場、遊歩道などがあり、散策ジョギングに
も最適。約4,500本の桜並木が続き、花見の名所としても知られている。
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大阪市水道発祥之地(すいどうはっしょうのち)
大阪市都島区中野町五丁目 都島橋東詰南側
明治28年11月13日、大阪市最初の上水が、ここから送水された。それまで飲料水は、
淀川の水か井戸水にたよっていた。そのためコレラなどが流行し酸鼻を極めた。そこ
で当時の市年間予算の3倍強の経費と3年余の歳月をかけ61万人の給水能力をもつ
施設が整備された。この水はポンプで大阪城内配水池に揚水し、自然流下式で給水
された。その後大阪市の発展につれて拡張工事が重ねられたが、大正4年9月現在の
柴島(くにじま)浄水場の完成で閉鎖された。
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桜ノ宮駅
環状内回りの大和路線奈良行に乗車し王寺駅へ

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7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-2

7月20日            7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-2
                      9月度 歴史探訪の会例会
此の日は、予約が必要な万博記念公園内の太陽の搭の内部を見学するツアーに34名で
予約(会員30名+特別参加4名)、オープン参加企画にした為、4名の特別参加者が・・・
万博記念公園の入園券(自然文化園と日本庭園)と太陽の搭入館券の2枚と園内マップ。
大阪モノレールの万博記念公園駅に10時集合
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万博公園へ向かう
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参加費用は、入園券&太陽の搭入館券、団体割引で@800円
万博記念公園
日本万国博覧会(大阪万博)の跡地を整備した公園である。万博記念公園(ばんぱくきね
んこうえん)や万博公園(ばんぱくこうえん)とも呼称される。
所在地は大阪府吹田市千里万博公園。公園を管理するのは、大阪府である。1972年3月
15日の日本万国博覧会一般公開2周年の日にエキスポランドと自然文化園の第1期及び
日本庭園・大阪日本民藝館などを公開して開園する。
エキスポランドは万国博覧会開催時に設置されたが、2009年8月までに全アトラクション施
設が撤去された。休憩所や階段・通路等の構造物も2013年11月からの工事で撤去された。
エキスポタワーは老朽化で2003年に解体。
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自然文化園
各パビリオンを撤去した跡に作られた広大な芝生の広場や桜、アジサイなど季節の花が
ある。太陽の塔もこの園内にある。
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太陽の搭へ向かう
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太陽の塔
博覧会終了後は、地下の展示空間は埋められ、巨大な大屋根は1977年から1978年度
(昭和52年から53年)にかけて撤去されましたが、50年近くの時を経た今でも太陽の塔
は万博記念公園のシンボルとして残されています。
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太陽の塔の構造・材質・規模
基底部から腕下端まで  鉄筋コンクリート造。
腕下端から腕上端まで  鉄骨・鉄筋コンクリート造。
腕上端から頂部及び両腕   鉄骨+ショットクリート。
高さ  約70m。 基底部(根元)直径  約20m。腕の長さ(片側)  約25m。
黄金の顔(頂部・直径約10.6m)、ステンレス鋼板に特殊塩化ビニールフィルム
(金色)貼付。※目玉の直径:約2m。
太陽の顔(胴中央部・直径約12m)
下地:FRP(ガラス繊維強化プラスティック)、表面:発砲ウレタン、コンクリート吹き
付け、樹脂塗装。
黒い太陽(背面・直径約8m):黒色陶器(信楽焼)タイル貼付。
イナズマ模様:下地:塩化ビニール仕上げ。
正面の「赤いイナズマ」と背面の「緑のコロナ」は、ガラスモザイクタイル(イタリア産)
仕上げ。総工費(当時)  約6億3千万円(テーマ館全体では約25億9千万円)。
工期:1969年(昭和44年)1月から1970年(昭和45年)3月までの約1年2ヶ月
    (テーマ館全体では1968年(昭和43年)9月からの約1年半)
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太陽の搭へ入館
岡本太郎作 原生生物から人類の誕生までの進化をたどった高さ41mの「生命の樹」や、
「地底の太陽」を復元公開! 岡本太郎が音響や、動線にまでこだわりぬいた太陽の塔
の内部は、 全体がひとつのミュージアム。
大阪万博当時に公開されていた塔内には、知られざる驚きがたくさんありました。
模型の総数はなんと292体(当時!)
内部再生事業により、約200体の模型が復元・修復されました。
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太陽の塔は、未来を象徴する頂部の「黄金の顔」、現在を象徴する正面の「太陽の顔」、
過去を象徴する背面の「黒い太陽」の3つの顔を持っていますが、日本万国博覧会当時
テーマ館の地下展示室には「地底の太陽」といわれる第4の顔が展示されていました。
「地底の太陽」は、高さ約3m、全長約11mにもなる巨大な展示物であったとされていま
したが、博覧会終了後の撤去作業から約50年を経た現在も行方がわからない状態と
なっています。
復元された地底の太陽
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生命の樹
「生命の樹」は、単細胞生物から人類が誕生するまでを、下から順に<原生類時代>、
<三葉虫時代>、<魚類時代>、<両生類時代>、<爬虫類時代>、<哺乳類時代>
にわけて、その年代ごとに代表的な生物の模型によって表していた。当時「生命の樹」の
枝には292体の模型が取り付けられており、これらのうちの一部は電子制御装置により、
動いていた。デザインはウルトラマンの造形で知られる成田亨が岡本太郎の原案を元に
制作した。なお、これらの模型は円谷プロが製作を行った。
修復工事では耐震性を上げるため壁を20cm厚くし、重量のあるエスカレーターを階段に
付け替えるなどした。万博当時は強制的に5分で最上部まで登っていたが、階段にした事
によりゆっくりと鑑賞する事ができる。内部が少し狭くなった事や安全性を考慮し、292体
あった生物模型は183体になった。153体は新規に制作し、29体を修復した。生命の樹上
部のゴリラのみは経年を表すため頭がもげ、内部機構が出た状態で展示されている。
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太陽の搭への入館は11:00~予定は11:30迄だったが、
館内で3班に分けられて全3班が終了したのは11:50、此処で一旦解散しフリータイムに・・

太陽の搭の見学を終えて、4名で日本庭園へ向かう
此処までは、
7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。 
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-20 
此処では、続きの日本庭園~ についての詳細を掲載します。
日本庭園
万国博覧会出展のために作庭された約26ヘクタールの池泉回遊式庭園である。設計
及び施工指導は田治六郎。上代・中世・近世・現代の4庭園で構成され、各時代の様
式を一堂に見ることができる「庭園博物館的な機能」を兼ね備える。
※田治六郎
田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日本の造園家。
1904年(明治37年)、石川県七尾市に生まれる。1930年、東京帝国大学農学部農学科卒
業。1932年大学院修了後は内務省都市計画大阪地方委員会技手となり、いくつかの各都
市計画地方委員会技手を兼務した。
内務技師、地方技師として当該府県の都市計画の策定、とくに都市公園計画に参画して各
市を指導。特に西日本や旧満州の公園緑地の行政と計画設計にあたった。また大阪万博
に出展する日本庭園(万博記念公園内に現存)の設計及び施工指導にあたった人物。
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日本庭園の中央休憩所の涼しい場所で昼食を済ませて、アイスコーヒータイム
日本庭園の中央の心字池~
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ハス池~
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築山~
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木漏れ日の滝~
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深山の泉~
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竹林の小路を通り日本庭園を一周して日本庭園をでて
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日本庭園を後にして
平和のバラ園へ
世界9ヵ国から寄贈された希少な品種などのバラ約140品種・約5600株があり、カナダ
政府からモントリオール万国博覧会で寄贈されたカエデの木が植えられている。
スイレン池と平和のバラ園を通り
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お祭り広場の横を通り
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東の広場前~夏の花八景を撮り歩いて
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太陽の搭広場へ出て、万博公園を後に万博記念公園駅へ向かう
2名は門真市方面行に、2名は千里中央駅経由で天王寺方面へ別れて・・・、

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2019年  7月8日~14日の奄美&加計呂麻島へ帰省-2

2019年7月19日     7月8日~14日の奄美&加計呂麻島へ帰省-2
             故郷へ先祖の墓参り&生家の手入れ
今年初の帰省、「(初泊付)大阪 伊丹空港発着」JAL直行便で行く!選べるホテル!
エンジョイ奄美大島1泊7日の旅、を利用して故郷の加計呂麻島へ行って来ました。
此の日、家内が大阪で娘と会う、と言うので其の前に伊丹空港迄送って貰った
7月8日 自宅~王寺駅へバス、王寺駅~天王寺駅へ電車、伊丹空港へ空港バス
往路AIR
7月8日 伊丹空港(9:25) → 奄美空港(11:00) JAL2465便 737-800
奄美空港
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奄美空港上空へ定刻通り到着したが滑走路空かず10~15分上空で待機した為
約30分遅れて11:30に到着、11:45分発のバスで奄美市へ向かった・・・
奄美市の叔母の家で昼飯を済ませて、庭木の伐採と剪定を済ませて、シャワーを
浴びて夕方、初泊のホテルへ向かう、朝食バイキングが気に入り此のホテルへ
7月8日 初泊 ホテルビッグマリン奄美へチェックイン
グアバジュース
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7月9日 6:30~7:00迄にホテルの朝食を済ませて岸壁周辺を小1時間散歩・・
朝食バイキング・・・鶏飯を食べた
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ホテル周辺の岸壁散歩
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ホテルをチェックアウトして8:30頃に叔母の家へ戻り叔母を病院(眼科)へ送迎や
お土産を送るだったり、昨日に続き庭木の手入れ(2ヶ所にアーチを作る)
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7月10日 奄美市 → 瀬戸内町古仁屋港 → 加計呂麻島瀬相港 → 芝集落
サガリバナが咲いていた
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途中の住用の道の駅で休憩
ヒカゲヒゴ、月桃の花(サネンバナ)、ソテツ等・・・
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阿木名から嘉鉄経由で古仁屋港へ向かう
嘉鉄への入口には、ハートが見える風景・・・
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嘉鉄集落の出口は、マネン崎・・・
マネン崎から嘉鉄湾を見る
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嘉鉄湾で発見されたミステリーサークル
アマミホシゾラフグのラブストリー
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古仁屋港側、対岸は加計呂麻島
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此処までは、
7月8日~14日の奄美&加計呂麻島へ帰省-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-19 
此処では、続きの古仁屋港~ についての詳細を掲載します。
古仁屋港、海の駅の幸福の鐘
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フエリーかけろま
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クロマグロ養殖日本一のまち 瀬戸内町
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10:10のフェリーに乗り、11:00過ぎには故郷の芝集落へ到着
生家の戸や窓を開放して空気を入れ替え、電気、ガス、水道を確認して部屋中を
掃除機かけて、寝御座を2枚干して今夜から生活出来る様にしないといけない
庭の巨大?ポトス
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7月10日~12日
日に3回着替えてシャワー浴びて庭木の伐採と剪定、そして草取り・・・
7月11日早朝の集落の風景
海岸、対岸は奄美大島
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12日&13日早朝の集落の風景
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海岸から集落内へ
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7月13日
庭木剪定のあとにサガリバナとパパイアの苗を植えた
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7月13日 芝集落 → 加計呂麻島瀬相港 → 瀬戸内町古仁屋港 → 奄美市
途中の薩川集落に有る介護施設に立ち寄り義理の叔父を見舞い
14:40発のフェリーに乗る
フエリーの切符売り場&フェリー到着
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7月13日奄美市の叔母の家
玄関前の2つのアーチもなじんで
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7月14日 奄美市名瀬 → 奄美空港
復路AIR
7月14日 奄美空港(11:55) → 伊丹空港(13:30) JAL2464便 737-800
伊丹空港到着
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家内が空港へ出迎えに来てて、少し遅いランチを済ませて
空港バスでJR難波駅(OCAT)経由、大和路線快速で王寺駅、駅~タクシーで自宅へ

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7月4日の京都大山崎町の歴史散策コース-2

明日8日~14日のスケジュールで故郷の奄美大島や加計呂麻島へ帰省、暫く
ブログ投稿をしません、皆様のブログ訪問も出来ませんが宜しくお願いします。

7月7日        7月4日の京都大山崎町の歴史散策コース-2
                 9月度歴史探訪の会 コース下見
此の日は、天気良く暑い暑い一日、9月18日の歴史探訪の会のコース下見に・M越さん・
K場さん・M吉三と4名で参加、コースの最後はサントリービール京都工場見学と試飲迄
楽しみ、此の日の私の万歩計は、14741歩で約8.8km歩いた、上り坂が多かった・・・
コース   JR山崎駅で現地 大山崎ふるさとガイドの会のT尾様他2名と合流  
山崎駅(合流)~離宮八幡宮~関大明神~山崎宗鑑碑経由~宝積寺・閻魔堂・本堂拝観
~大山崎山荘庭園~竹林のこみち経由~山崎聖天(昼食)~桜の広場~瓦窯跡経由~
大山崎町歴史資料館・打合せ~阪急大山崎駅⇒サントリービール京都工場見学・試飲へ
山崎駅(合流)
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妙喜庵(みょうきあん)・・・千利休作の日本最古の茶室 国宝「待庵」賀有る
妙喜庵(みょうきあん)は京都府乙訓郡大山崎町にある仏教寺院。山号は豊興山。
妙喜禅庵とも称する。江戸時代一時地蔵寺の塔頭であったが、現在は臨済宗東福
寺派に属する。室町時代の明応年間(1492年 - 1501年)の開創。開山は東福寺開
創聖一国師法嗣・春嶽士芳。国宝の茶室「待庵(たいあん)」があることで知られる。
2018年6月18日、大阪府北部地震により土壁に亀裂が入った。
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※「待庵(たいあん)」国宝。
日本最古の茶室建造物であると同時に、千利休作と信じうる唯一の現存茶室である。
大山崎町歴史博物館にレプリカ?が設けられており外廻りから見る事が出来る。

離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)
離宮八幡宮は京都府乙訓郡大山崎町にある神社。旧社格は府社。石清水八幡宮の
元社にあたる神社として知られる。
貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平
安京の守護神として奉安することとし、その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が
帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の
湧いたのを帰京後に天皇に奏上したところ、国家鎮護のため清和天皇の勅命により
「石清水八幡宮」が建立された。
その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とした。
また、貞観年間に神官が神示を受けて「長木」(てこを応用した搾油器)を発明し荏胡麻
(えごま)油の製造が始まったことから、日本における製油発祥地とされる。その後「大山
崎油座」の制度で荏胡麻油の販売権を独占して、多くの兵火に焼かれながらも江戸時
代まで栄えた。
しかし、幕末「禁門の変」時に長州藩屯所が山崎にあったため、攻撃を受けて多くの商
家とともに焼失。廃藩置県により社殿のすぐ西から大阪府に割譲し、さらに1871年(明
治4年)に境内北側を国策による鉄道事業にささげ、境内はさらに縮小した。
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油祖像
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河陽宮故址石碑&製油発祥地碑
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石清水八幡宮と銘が彫り込まれた灯籠
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離宮八幡宮を出て
関大明神社へ向う
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関大明神社(せきだいみょうじんしゃ)
関大明神社は、大阪府三島郡島本町にある神社。関戸明神(せきどみょうじん)、関戸
大明神とも称される。
祭神は、大己貴命(おおなむちのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)、または
大智明神(だいちみょうじん)。
島本町から京都府乙訓郡大山崎町にかけての土地は天王山と淀川(桂川)に挟まれ、
古くは山崎橋も存在したことなどから交通の要衝として関所が設置されており、関大明
神社の名前の由来となっている。また、この神社自身が関所「山崎関」(山城の関)跡
地であるといわれ、関所または後に設けられた「関戸院」(関戸の院〈せきどのいん〉)
の鎮守社であったともいわれる。
創建は不詳で、水無瀬の里に置かれていたが洪水によってこの地へ移されたとも、京
都へ悪霊の侵入を防ぐためこの地に道祖神が建立されたのが起源ともされる。また、
伯耆国大山の大智明神の神輿を収めたことにより始まるという伝承もある。
この地は西国街道の宿場町で山崎宿として知られ、周辺には古い建物が散見される。
また、傍らには「従是東山城國」との石碑も存在する。古くはこの関大明神社の前に流
れる小川が摂津国と山城国の境であったといわれており、現在でもこの川にほぼ沿っ
た形で府境が引かれている。
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全国でも珍しいJR山崎駅
ホームの途中に京都府と大阪府の府境界が有る
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山崎宗鑑碑
JR山崎駅から天王山へ至る、踏み切りを渡りきると、ちょうど天王山登山口にこの霊泉
連歌講跡碑と山崎宗鑑句碑が立っています。
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山崎宗鑑
山崎宗鑑は、室町幕府9代将軍足利義尚に仕える武士でしたが、義尚の陣没(延徳元年、
1489年)後に出家して宗鑑と名乗り、この大山崎に隠棲しました。大山崎油神人の繁栄や、
惣中や待衆の支えによって連歌講の中心人物になり、宗鑑はこの付近にあったとされる冷
(霊)泉庵で連歌の会を開いたり、俳句の指導をしていたとされています。また書にも優れ、
宗鑑流として多くの人々に愛されました。晩年は『新撰犬筑波集』などを発表し、俳諧の創
始者として知られています。
宗鑑の自宅は大阪と京都の境目の関大明神の向かいにあったとされ、その場所の旧家
森村家には「宗鑑井戸跡」「宗鑑旧居跡」が残されています。
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宝積寺へ向かう登り坂と宝積寺への階段
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宝積寺(ほうしゃくじ)
通称・宝寺(たからでら)は、奈良時代の724年に聖武天皇の勅願を受けて行基が開創し
たと伝えられる歴史と由緒のあるお寺で、大阪府との府境に程近い大山崎町にあります。
そして、この大山崎町という場所自体が歴史的にもそしてパワースポット的にも非常に重
要な意味を担っているのです。
昔話の「一寸法師」に登場する「打出の小槌(うちでのこづち)」。振ると、大判小判や宝物
がザクザクと現れるというあの「打出の小槌」のモデルになったとされるものが、この宝寺
に実在しています。 
一寸法師(実際は普通の身長の男性)がここ宝寺で修行し、お寺にあった「打出」と「小槌」
のご利益で鬼を退治したことからお姫様と結婚し出世がかなったという話が、寺伝として実
際に伝わっているのです。
「打出の小槌」と一般に言われますが、実は「打出」と「小槌」は別々のもので、「打出」は実
り(福)の種を蒔くために土にさして穴を開けるためのもの、「小槌」は実り(福)を祈願して振
るためのものというのが本来であり、今でもお寺には古より伝わる「打出」と「小槌」が保存
されています。
この宝寺は聖武天皇の勅願で建てられたものですが、即位以前、夢の中に現れた龍神か
ら打出と小槌を授けられ、それに75日間祈ったところ無事天皇に即位することができたこと
から、この打出と小槌を奉納するためにお寺を建てることになったという話が言い伝えられ
ています。
聖武天皇の即位と秀吉の出世に(もしかしたら一寸法師の出世にも)宝寺が少なからず関
わっていたというのは興味深い話であり、金運のみならず、出世運にも多大なご利益がある
という噂もうなずけます。
仁王門
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宝積寺・閻魔堂・本堂拝観・豊臣秀吉 一夜の塔
美術工芸品では本堂内安置の十一面観音菩薩立像、仁王門の金剛力士像及び収蔵庫に
安置される閻魔王像と眷族像が重要文化財に指定されています。
その中でも特に日本一の閻魔王像と眷属像は見る者を圧倒する迫力があり必見です。
本堂左横にある小槌宮には大黒天が祀られ、聖武天皇が夢で竜神から授けられたという
打出と小槌で、参詣者に福徳を授けています。そのため宝寺という別名もあり、歴史上し
ばしば登場するお寺で大黒天宝寺として商売繁盛のお寺と知られています。一寸法師の
説話も宝積寺から生まれたのです。
また、本堂の脇には秀吉が腰掛けて天下統一について考えたと伝えられる出世石があり
ます。この出世石に腰掛けると出世するというお話もあります。許可をいただければ実際
に腰掛けることもできます。
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豊臣秀吉 一夜の塔
寺宝を多く有しており、建造物では桃山時代に秀吉が一夜で建てたと伝えられている
「一夜の塔」と呼ばれる三重搭が重要文化財に、本堂及び山門は京都府の登録文化
財に指定されています。
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※ネジバナ
ネジバナ(捩花)は6~9月に咲くラン科の花。原野や芝生地などに生息する多年草。
花 言葉は「旅立ち」。茎先に螺旋状にねじれた花序をつける。ねじれは左巻きも右巻
きも 両方ある。花の色は淡い紅色だが、色の濃いものから薄いものまで変化が多い。
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十七烈士之碑
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大山崎山荘庭園へ向かう
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大山崎山荘庭園
宝寺に隣接する広大な敷地には、ニッカウヰスキーの創業に参画した実業家、加賀正
太郎氏が建てた「大山崎山荘」があり、現在ではアサヒビールが管理する美術館として、
内部の貴重な調度品や庭園なども一般に公開されています。近くには、サントリーの山
崎蒸留所があったり、邸宅が見受けられたりと、自然に恵まれた環境であると共に豊か
な空気に包まれた一帯という印象を受けます。
宝寺のある地区が「銭原」というお金にまつわる縁起の良さを感じられる名前であるこ
ともそうですが、重要な歴史の舞台になり、また歴史を形づくってきた人々と縁の深い
場所ならではの特別なパワーがこの一帯に満ちているのでは?などと思えて来てしま
います。
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※加賀正太郎(かが しょうたろう)
加賀 正太郎(1888年1月17日 - 1954年8月8日)は、大正時代から昭和時代にかけて
活躍した日本の実業家。
1888年、大阪市東区今橋生まれ。12歳の時に父親が亡くなり、船場にあった江戸時代
から続く実家の繊維業・米穀仲買業・両替商「富商加賀商店」を継ぐ。
東京高等商業学校(現・一橋大学)卒業後、加賀證券(のちに菱光証券に商号変更し三
菱UFJ証券に合併)を設立して社長を務めるなど多くの会社経営を行い、証券業、林業、
不動産業、ゴルフ場経営、洋蘭業などで成功した。
1934年の大日本果汁(現・ニッカウヰスキー)創業にも参画。出資の70%を構成して同
社の筆頭株主だった。1954年死期を悟り、株式の散逸を防ぐためアサヒビールの山本
為三郎にニッカウヰスキー株を売却。

此処までは、
7月4日の京都大山崎町の歴史散策コース-1 として
   下記のセカンドブログ「気の向くままに・・・3」に投稿済みです。
https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-07
此処では、続きの竹林のこみち~ についての詳細を掲載します。
竹林のこみち
アサヒビール大山崎山荘美術館と観音寺(山崎聖天)を結ぶこみちです。春には対岸の
背割り堤の桜並木を眺望できます。
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此処から又、坂道を登る
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山崎聖天(昼食)
天王山麓に位置し、「山崎の聖天さん」として京阪神の人々から厚い信仰を受けて
いるお寺です。
平安時代に宇多天皇(寛平法皇)の勅願で開山されました。その後江戸時代に木食
以空が中興開山し堂塔を整えました。
本堂横に聖天堂があり江戸時代には現世利益を求めた大阪の商人の厚い信仰を
受け大いに隆盛しました。
豪商住友家も帰依し立派な青銅製の灯篭を寄進しています。
幕末、元治元(1864)年に起こった禁門の変の余波で全焼し、明治時代になって伽藍
が復興しました。
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桜の広場(本番の昼食場所候補)
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大山崎瓦窯跡
平成16年(2004)12月の調査の結果で平安宮の所用瓦を焼成した平安時代前期の
瓦窯が6基、まとまって発掘されました。当時、平安京周辺各地の多数の瓦窯で大
量の瓦を生産し、平安宮・京の造営を支えたものと考えられ、大山崎瓦窯もその一
つとされます。
ここで製作された瓦は平安宮朝堂院をはじめ、嵯峨院、河陽離宮に供給されました。
2006年(平成18年)には、重要性が考慮され国の史跡に指定されています。
2008年には、7番目の窯が発見され、2009年には、更に8番目の窯が北約6mの崖
で瓦窯の燃焼室の焚口が見つかっています。
大山崎瓦窯跡の石碑が立っている真向かいに、天王山登山口と観音寺へ続く道が
あります。
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対岸の男山(石清水八幡宮)
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大山崎町歴史資料館・打合せ
大山崎。それは天王山が淀川へ最もせり出した場所を意味します。その自然の関門
ともいうべき地形から、日本の東と西を結ぶ交通の要衝として古代以来発展してきま
した。当歴史資料館の常設展では、これまで歩んできた歴史的特色を踏まえ、7つの
コーナーを設けて町の歩みを紹介しています。
まず、エントランスルームでは、年表、文化財地図パネル等で町の歴史概観ができま
す。そして竹林のプロムナードをぬけると、そこには大山崎の名水にちなむ井戸ビジョ
ンがあり、映像で各時代の特色ある文化・歴史を紹介し、次のコーナーへの興味を高
めます。
展示室は5つのコーナーに分かれ、古代コーナー、中世コーナー、山崎合戦と待庵・利
休のコーナー、近世コーナーという構成になっています。
各コーナーとも実物展示のほか、解説ビデオやイラスト、模型や複製などを用いて、楽
しみながら歴史学習ができるように心がけた展示となっています。
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サントリービール京都工場見学・試飲へ向かう
阪急大山崎駅⇒西山天王山駅
駅前の西山天王山交番
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サントリービール京都工場見学・試飲
1970年大阪万博のサントリー館の展示ホールのモニュメントを移設・・・
※サントリー館の吹き抜け展示ホールには、高さ 12mのステンレス製の巨大な
モニュメント「御酒口(みきぐち)」が展示された。「御酒口」は昔、祝い事の際、神
酒の飾りとして使用された竹製の装飾品で、そのシンプルな造形美をヒントにし
て制作されたもの。モニュメントは数種の照明に照らされ、静かな音楽が流れる
中で、幻想的な雰囲気を醸し出していた。
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工場見学
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廊下の映像でプレミアムモルツが出来るまでを・・・
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更に工場内を
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試飲 三種類のビール美味しかった
下戸の私は、三種類目は飲めずリンゴジュースで締めた・・・
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帰りは
ほろ酔い気分でバスで駅へ送られ、梅田経由で帰りました。

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6月29日の古市古墳群を歩く(世界文化遺産)-2

7月6日         6月29日の古市古墳群を歩く(世界文化遺産)-2
                    近鉄ハイキング 7㎞ 
此の日は、古市駅前で外食にする予定で知人の・K場さん・O村さん・I 田さんと4名で
弁当を持たずに参加、予定を少し変更して途中の峰塚公園前の喫茶「花園」でランチ
タイムにして、後半の峯ヶ塚古墳~清寧陵古墳~白鳥陵古墳~古市駅へと戻った・・
此の日の私の万歩計は、18551歩で約11.1km歩いたことに
コース  近鉄駅フリーハイキング  古市駅~古市駅へ  7km
古市駅(受付・スタート)~白鳥神社~誉田八幡宮~応神天皇陵~向墓山古墳・資料
館~墓山古墳~仁賢天皇陵~峰塚公園前で(昼食休憩・外食)~峯ヶ塚古墳~清寧
陵古墳~白鳥陵古墳~古市駅 
柏原駅で近鉄線に乗り換え
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古市駅(受付・スタート)
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白鳥神社・・・藤井寺市観光協会HPより
元は軽里の西方、伊岐谷に創建された伊岐宮(白鳥陵の上にあった。)が江戸時代
に現在地に移され、日本武尊と素戔鳴命を祭神とする古市の氏神となりました。この
場所は6世紀に築造された欽明天皇のモガリ陵の後円部であるといわれています。
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、
応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の
八幡宮を称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建さ
れた。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の
現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家
の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一
族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪
争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の
誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)
(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信
長により、社領をすべて奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を
再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請
奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡が
あり、建物の内部が未完成のままとなっている。
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スイレンやアガパンサスも咲いて
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東高野街道碑・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
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大鳥塚古墳へ向かう
大鳥塚古墳・・・わくわく南河内HPより
藤井寺市 大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110mの前方後円墳です。古市古墳群の中では中形で、
前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み入
れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた5世紀前葉当時、墳丘の斜面に
は石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分
かっていません。しかし、変形獣形鏡と位至三公鏡と呼ばれる二面の鏡や、鉄製の剣
・刀・矛・矢じりが掘り出されたと伝えられています。
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誉田山古墳(応神天皇陵古墳)・・・羽曳野市HPより
古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径250m、高さ35m、前
方部幅300m、高さ36mを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで
2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立米
にものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に
石が 葺(ふ)かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒
埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。
墳丘のまわりには二重の周濠(しゅうごう)が巡りますが、東側では先に造られた二ツ塚
古墳を避けて少しいびつな形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)
・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品あります。
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応神天皇陵をぐるっと半周して
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外堀外堤へ出て
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此処までは、
6月29日の古市古墳群を歩く(世界文化遺産)-1 として
  下記のセカンドブログ(気の向くままに・・・3)へ詳細を投稿すみです。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-06
此処では、続きの 墓山古墳へ向かう~ についての詳細を掲載します。
向墓山古墳・資料館(羽曳野市文化財展示室)
向墓山古墳・・・墓山古墳の陪塚。

墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた
墳丘は長さ225メートル、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせ
ます。墳丘部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳
しい様子は不明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土
が知られています。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されてい
た報告もあります。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えら
れます。墓山古墳の周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配
されていて、典型的な中期大型古墳の様相をみせています。
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仁賢天皇陵へ向かう
バナナが・・・
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仁賢天皇陵
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇
(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・
大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または
大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)
に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝
郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟
共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのお
びと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族
の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮
中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が
執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、
飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位
3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)
舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉
士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は
国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、
『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后
とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ
正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后
となった事で繰り返されている。
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峰塚公園前で(昼食休憩・外食)
喫茶「花園」でランチタイム

峰塚公園・峯ケ塚古墳
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目に存在する古墳時代後期
の前方後円墳。古市古墳群の南西部に位置する。国の史跡に指定されている。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96m、前方部の幅74.4m・高さ10.5m、後円部は直径56m・高さ
9mの前方後円墳である。
江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、
允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。
墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほか
は、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗
掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄
鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、
装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土し
た埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
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清寧天皇陵古墳へ向かう
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清寧天皇陵古墳
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちの
さかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白
髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が
祀られている。
※清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天
皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの
すめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄
略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正
月に即位。 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子で
ある億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報
を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘
計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2
王の発見は天皇崩御後の出来事としている。
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白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
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※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。

横の方から半周回る事が出来る
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古市駅(ゴール) 
古市駅→道明寺駅→柏原駅→王寺駅

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6月28日の公園巡り「久宝寺緑地公園」

7月5日         6月28日の公園巡り「久宝寺緑地公園」
                   昼飲み会ハイキング 
大阪の公園巡り第3弾、久宝寺緑地公園へ知人の・M吉さん・K場さん・S藤さんと4名、
12時半~天王寺之居酒屋で昼飲み会&情報交換会を開催するので公園巡りを設定、
此の日の私の万歩計は、11838歩で約6.8km歩いたことに・・・
久宝寺駅に10時に集合して11時半頃迄の約1時間半、久宝寺緑地公園を散策して久
宝寺駅迄戻り、12時15分迄に天王寺駅へ到着する予定だったが、久宝寺緑地公園を
散策して結果的には散策を1時間位で早目に打ち切り久宝寺駅へ戻り、天王寺駅での
コーヒータイムをゆっくり過ごして12時半からの昼飲み会に備えた?
志都美駅
曇り空で左側の葛城山は雲に覆われて見えない
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久宝寺緑地公園に到着
ユリノキロード?両サイドにユリノキ・・・足元には可憐な花が
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足元のアガパンサス
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大阪みどりの百選の石碑
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コキア(ほうき草)が大量に植えられている
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心字池には釣り人多数、コイやフナが釣れている
水辺は何となく涼しげ
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ハスも咲き始めている
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心字池の注意書き
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中には50cm超えのコイも釣れて、紫陽花も咲いて
計量後にコイは池に戻されて元気に泳いで行きました、又だれかに?
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此処には
スイレンも咲いている
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岸辺には、ハンゲショウ?
間違いなく半夏生(はんげしょう)でした
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池の次はカエルとカタツムリがお出迎え
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遊具の広場にはカエルやカタツムリの遊具が
カエルの滑り台
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向うにもカエルの滑り台と
カタツムリ?の遊び場が・・・
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久宝寺駅側の出口へ向かう
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帰りにビヨウヤナギや夾竹桃
ビヨウヤナギ
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高速道路の下を潜る橋を渡って
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グランドの横の
夾竹桃
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久宝寺駅~天王寺駅へ
天王寺のステーションビル2Fで コーヒータイム
小休止後に4Fミオパレス
居酒屋 甘太郎で12時半~飲み会 参加8名 大いに盛り上がりました・・・
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帰りに天王寺駅ホームで 関空特急「はるか」
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6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-2

7月1日       6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-2
                  JRふれあいハイキング 歩程約13㎞
此の日は、王寺町~地元の上牧町を歩くJRふれあいハイキングに参加、参加者203名。
コース  奈良県ウオーキング協会主催のJRふれあいハイキング 参加費500円
王寺駅(9時半集合)~達磨寺~葛下川遊歩道・せせらぎ公園~片岡城跡~伊邪那岐神
社~滝川遊歩道~上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)~貴船神社~服部記念病院~
※光專寺~※智照神社~浄安寺~庚申塚~五軒屋~雨乞い地蔵~香芝一号公園~香
芝駅(ゴール)・・・・五軒屋で皆さんと別れて雨乞い地蔵~上牧出合へ出てバスで帰宅。
奈良県ウオーキング協会スタッフの方々に大変お世話になり、有難う御座いました。
今日の私の万歩計は、19670歩で約11.8kmだった。見所のガイドが無いのが残念だ・・・
志都美駅
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王寺駅(9時半集合)・スタート
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達磨寺へ向かう
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達磨寺
達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
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葛下川遊歩道へ向かう
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葛下川遊歩道・せせらぎ公園
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葛下川を渡り片岡城跡へ向う
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此処から山道へ
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片岡城跡・・・中世の山城「片岡城」
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の
頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年頃に片岡
国春によって築かれたとされています。下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香
芝市の境界あたりにある小高い山、送迎(ひるめ)山の標高262mのところにありまし
た。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢
原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、
片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。片岡国春が上牧町内に
新たに築いた片岡城は高さ80mの丘城で、他の山城とは地形的に異なり、要害性に
は劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治・経済の中枢としての機能は送迎
山城より優れていたと考えられます。片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛
下川と滝川との合流点へ続く丘陵地帯に築かれた山城です。
城の西すそを流れる葛下川から見ますと48mの高さの位置にありますが、急な崖で
迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、あたり一
面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の北側で葛
下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に適した地形
になっていました。片岡氏から松永久秀に変わって・・・松永時代に完成した片岡城、
別々に機能していた曲輪と曲輪を共通に防御できるようになり、このときに片岡城が
完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年の8年間と限定できます。
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※細川忠興15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老
名某も、河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟任
(明智)光秀、筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。ここで、長岡藤孝の
嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳の兄弟が真っ先に駆け
入った。織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせた為、死傷者多く出て残
り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切って伏せ、
残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感状をもらっている。
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※片岡城笹ゆり姫物語があります
初夏の風が貴船(きふね)の社の木立を通り抜け竹林をそよがせている。楽士の奏でる音
色に合わせて一人神楽を舞う幼い巫女は、ササユリを両手にかざし得も言われぬ愛らしさ
を辺りに漂わせていた。 「あの子は誰だろう」景頼が、その姫を初めて心に留めたのは、ま
ばゆい光が射し込む御祭礼の日で あった。永禄七年、木辻城の嫡男、景頼は数えて十一
歳。片岡城の一人娘佐葦姫はまだ十歳であった。それから五年、歳月は幼い二人を美しい
姫と逞しい若者へと変えていった。・・・・・・・・・・・・・・・1章~6章迄あり、途中の話を割愛して
「景頼さま」と、駆け寄る。 「今、確かに景頼さまが・・・これは」そこには白いササユリの中に、
一際美しく淡く紅を染めた一輪のササユリが咲いていた。 「これは狭井川の辺に咲くという
幻の紅いササユリでは・・・景頼さまがこれを」 「景頼さま、小百合ですよ。佐葦はもう泣きま
せん。この上の牧で強く生きて行きます。どうぞこの城山から私達を見守っていてください」
瓔珞山の大王杉から一部始終を見守っていた白い梟は、やがて金色に染まり、昏の空いっ
ぱいに羽を広げると、飯盛山の彼方へと消えていった。  
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案内板の横のお地蔵さん
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伊邪那岐神社へ向かう
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伊邪那岐神社
下牧と金富との間に横たわる山の頂にあり、祭神は伊邪那岐命です。
主神の伊邪那岐命を中央にして、相殿とし春日、八幡、住吉、稲荷の神をまつっています。
もと指定村社で、町内の神社では格式が高いとも言われていました。
神殿は流れ造りで明治12年(1879)の造営で昭和43年(1968)に改築されています。
もと東田口の忍山(しのんやま)にありましたが疫病が流行したので静寂の聖地をもとめ
て現在の地に移したといわれています。 旧地は現在住宅化している丘陵の中央で頂上
が平地になっていました。そのころは五社神社と言われていたようです。
また足利の末期に片岡国春がここに片岡城を築いたときに春日、八幡の両神を守護神と
してまつったという言い伝えもあります。『延書式巻九』の神名帳には、「葛下郡伊邪奈岐
神社」と書かれている神社がこれではないかといわれています。
また『大和国町村誌集』には「下牧、神社、伊邪奈岐神社」とあり、明治24年の『神社明
細帳』にも「伊財奈岐神社」とかかれていますが、今は伊邪那岐神社と書いています。
境内に末社はありませんが石灯篭が数多く並んでいて、信仰の篤さを示しています。
その石灯篭の中には寛文年号のものもあります。
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案内板の方へ戻る
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滝川遊歩道へ向かう
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此処までは、
6月26日の達磨発祥の地~ササユリの町上牧町を歩く-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。、
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-07-01 
此処では、続きの滝川遊歩道~ についての詳細を掲載します。
滝川遊歩道
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上牧町2000年会館へ向かう
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上牧町2000年会館・公園(昼食休憩)
やすらぎ広場
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午後のスタート
貴船神社へ向かう
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虹の湯の前を通る
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虹の湯
神の牧温泉。泉質はナトリウムー塩化物温泉。
適応症
神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・間接のこわばり・うちみ・くじき・慢性
消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず・やけど・慢
性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
現在は、スーパー銭湯形式で大野天風呂が魅力の「虹の湯」が営業しています。

貴船神社へ向かう
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貴船神社
智照寺山にあり、祭神は罔象女命(春日)、保食神(稲荷)、素盞鳴命(八坂)、別雷
神(加茂)を祀り、智照神社の奥の宮といわれてる。社殿は神明造りで、もとは上牧
小学校の奉安殿であったのを移建する。この近くに葦田池があったと伝えられ、地
形上から延喜式内の古社「深溝神社」ではないかといわれている。
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服部記念病院へ向かう途中に
貴船神社一の鳥居
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服部記念病院~光專寺
※光專寺(真宗佛光寺派)
佛光寺の草創
越後流罪に遭われた親鸞聖人は、ご赦免の翌年建暦二年(1212)に京都に帰られ、
山科の地に草庵を結ばれました。この草庵が佛光寺草創と伝えられています。
当初、真宗開闢の根本道場を意味して、「興隆正法寺」と号しました。
中興了源(りょうげん)上人
親鸞聖人在世の当時、真宗の教えは関東を中心に広がりをみせていましたが、第七世
了源上人になって、教化活動の拠点を旧仏教の盛んな京都に置き、光明本尊・絵系図・
交名帳を用いて西日本一帯の布教活動に力を入れました。人々は風になびく草木のご
とく上人のお徳を慕って念仏申すようになり、元応二年(1320)には、寺基を山科から
今比叡汁谷(現・京都国立博物館あたり)に移しました。
佛光寺が繁盛するにしたがって、それを妬む輩が現れ、ある夜ご本尊や法宝物を盗み出
して竹やぶに投げ捨てました。
その夜、後醍醐天皇が夢枕に東南の方向から一筋の光が差し込むのをご覧になり、ただ
ちに人を遣わせられたところ、阿弥陀如来のお木像が出てきました。この仏像がわがご本
山の阿弥陀如来像の台座と一致するところとなり、勅願により「阿弥陀佛光寺」略して佛光
寺の寺号を賜ったと伝えられています。
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※智照神社~浄安寺
智照神社
祭神は 罔象女命 配祀 天兒屋根命、素盞嗚命、別雷命、保食命。
延喜式神名帳葛下郡記載の深溝神社に比定されている貴船神社を奥宮として拍手山
頂に置かれた。 山頂には既に蓑目大明神が鎮座していた上に被さったようである。同
じく真言宗智照寺薬師堂もあったが、明治初期の神仏分離による、浄安寺に移された
という。貴船神社の鎮座する山は智照寺山と言う。両社と智照寺などは一体であり、相
当広い境内に散在していたと見られている。
拍手山へ登る参詣道が集落の中央から北に向かっている。石段を登ってさらに廻りつ
つ登る。途中に摂社が二社鎮座しているが、名前が判らない。 社叢はいい。照葉樹と
檜とが多い。本殿付近の石燈籠には五社大明神と刻まれている。
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浄安寺(西国三十三箇所観音傍丘霊場)
浄安寺には由来として二つの説が伝わっています。
1185年の壇ノ浦の戦いで、船中で叔父の平敦盛と自刃して果てたとされる平和盛が、
敵をあざむいて上牧へ逃れ、その守り本尊でああった弁財天をまつり、小庵をかまえ
て移り住んだ。
平家物語に登場する能登守教経の子孫の久保小太郎武盛が、元冶元年(1658)ごろ
祖先である平家一門の霊を弔うために上牧に来て、牧浦と名のり、浄安寺を建立し山
頂付近に弁財天を祠った。
南上牧にある浄安寺は創建年代は不明ですが、宝永5年(1708)に再建されています。
境内には西国三十三箇所の観音石仏が点在しています。
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上牧庚申塚へ向かう
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上牧庚申塚
昔は各集落に立てられていたそうです 
五軒屋を少し離れた一本道沿い、こんもりとした大木に守られるように青面金剛を祀っ
た庚申塚が立っています
かつては、延命長寿を願い夜を徹して語り明かす、庚申講が行われていました。
現在、村内では唯一この塚が残るだけです
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五軒屋・・・此処でハイキングスタッフの方にお断りして皆さんと別れて別行動
五軒屋~雨乞い地蔵へ
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五軒屋の雨乞い地蔵
この石地蔵を荒縄で縛り、神田池へ連れて行き「雨が降ったらお地蔵さんに出ていただ
きます、どうか雨の降るようにしてください」と池の水につけると雨が降ったという話が残
されています。集落には、地域独特の風習やご利益がある地蔵が6カ所に祀られていて、
地蔵盆などを通して、人々に親しまれているそうです 
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※奈良の昔話・・・雨乞い地蔵
奈良盆地の西、北葛城郡上牧(かんまき)町の五軒屋。その昔、このあたりは牧野(ば
くや)とよばれていた。上牧町の東、広陵町と河合町などにまたがって広がる馬見(うま
み)丘陵は、古代、朝廷の放牧地で、上牧の地名もそれに由来するとか。五軒屋を抜け
る今の舗装道路も昔は「馬街道」とよばれていた。
そのかつての馬街道に立つと、五軒屋は、周囲を小高い緑の丘陵に囲まれ、その中に
広々とした田圃(たんぼ)がどこまでも続く。実にのどかな昔懐かしい里山の風景である。
馬見丘陵の北東の磯城郡三宅町。地名は古代の「屯倉」(みやけ)に由来し、大和朝廷
が支配していた穀倉地帯であった。つまり五軒屋も含め、このあたり一帯は古くから豊
かな稲田が一面に広がっていたのであろう。水田に必要な溜池も多く点在している。
   そんな稲作地帯でのお話。
昔、ある年の夏、旱(ひでり)の日が何日も続き、五軒屋の村人も、「こんなに長く雨が降
らんと、米がとれん。困ったなあ」と話し合っていた。「そうや、雨乞い地蔵さんにお願いし
たらどうや」。「ああ、それがよい」ということになり、村のお地蔵さんに助けを求めた。
村人は、重い石地蔵さんを荒縄で縛り、皆で担いで溜池の神田池(じんでんいけ)まで運
んだ。「お地蔵さん、どうか雨を三日のうちに降らせてください。降りましたら、お地蔵さん、
池から出ていただきますから」と言い、地蔵さんを池につけた。
すると、なんと有難いことに、三日のうちに恵みの雨が降った。村人は大いに喜んだという。
この雨乞いの行事は、その後も何度か行われたらしい。だが、困ったことに、地蔵さんを引
き上げる時は、せっかく溜めた大切な池の水を放流しなければならない。そのためかどう
か、いつからか行われなくなった。
ただ、大正十三年八月の大旱魃(だいかんばつ)の時には行われた。その時も「霊験あら
たか。おかげで、雨を降らせてもらった」と、この時のことは今も古老によって語り継がれ
ている。その雨乞い地蔵さんは、五軒屋の村人の手で今も大切に祀(まつ)られている。
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