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6月29日の古市古墳群を歩く(世界文化遺産)-2

7月6日         6月29日の古市古墳群を歩く(世界文化遺産)-2
                    近鉄ハイキング 7㎞ 
此の日は、古市駅前で外食にする予定で知人の・K場さん・O村さん・I 田さんと4名で
弁当を持たずに参加、予定を少し変更して途中の峰塚公園前の喫茶「花園」でランチ
タイムにして、後半の峯ヶ塚古墳~清寧陵古墳~白鳥陵古墳~古市駅へと戻った・・
此の日の私の万歩計は、18551歩で約11.1km歩いたことに
コース  近鉄駅フリーハイキング  古市駅~古市駅へ  7km
古市駅(受付・スタート)~白鳥神社~誉田八幡宮~応神天皇陵~向墓山古墳・資料
館~墓山古墳~仁賢天皇陵~峰塚公園前で(昼食休憩・外食)~峯ヶ塚古墳~清寧
陵古墳~白鳥陵古墳~古市駅 
柏原駅で近鉄線に乗り換え
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古市駅(受付・スタート)
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白鳥神社・・・藤井寺市観光協会HPより
元は軽里の西方、伊岐谷に創建された伊岐宮(白鳥陵の上にあった。)が江戸時代
に現在地に移され、日本武尊と素戔鳴命を祭神とする古市の氏神となりました。この
場所は6世紀に築造された欽明天皇のモガリ陵の後円部であるといわれています。
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誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)
社伝によると、欽明天皇20年(559年)に任那の復興を目指した欽明天皇によって、
応神天皇陵前に神廟が設置されたことをもって創建としている。このことから最古の
八幡宮を称している。奈良時代には行基によって神宮寺の長野山護国寺も創建さ
れた。永承6年(1051年)の後冷泉天皇行幸の際に、元の鎮座地から1町ほど南の
現在地に遷座した。
八幡神が源氏の氏神とされることから、源氏姓を名乗る歴代の将軍をはじめ、武家
の信仰を受けた。南北朝時代から戦国時代にかけては、別当職の誉田三河入道一
族によって保護されたが、享徳3年(1454年)より始まった河内守護・畠山氏の内輪
争いにより社殿・伽藍を焼失し荒廃した。三好氏により滅ぼされた応神天皇末裔の
誉田氏の一部は、四国や九州に逃れ、また、江戸期には、関西一円の香具師(やし)
(露天商)の元締めとして君臨したといわれている。河内国を支配下に置いた織田信
長により、社領をすべて奪われた。その後、豊臣秀吉は社領200石を寄進し、社殿を
再建した。天正14年(1586年)に社殿が焼失したため、豊臣秀頼が片桐且元を普請
奉行に任命して社殿再建を行ったが、拝殿の建造中に大坂夏の陣・豊臣氏滅亡が
あり、建物の内部が未完成のままとなっている。
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スイレンやアガパンサスも咲いて
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東高野街道碑・・・羽曳野市HPより
東高野街道は高野詣でのための京から高野山に至る道で、江戸時代には東高野街
道の他、西高野街道、下高野街道、中高野街道などいくつかの経路がありました。東
高野街道は、 京都九条の教王護国寺(東寺)から大阪平野の東縁を南下し、羽曳野
市域を通って紀見峠を越え高野山に至っています。
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大鳥塚古墳へ向かう
大鳥塚古墳・・・わくわく南河内HPより
藤井寺市 大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110mの前方後円墳です。古市古墳群の中では中形で、
前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み入
れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた5世紀前葉当時、墳丘の斜面に
は石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分
かっていません。しかし、変形獣形鏡と位至三公鏡と呼ばれる二面の鏡や、鉄製の剣
・刀・矛・矢じりが掘り出されたと伝えられています。
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誉田山古墳(応神天皇陵古墳)・・・羽曳野市HPより
古市古墳群最大の前方後円墳で、墳丘長約425m、後円部直径250m、高さ35m、前
方部幅300m、高さ36mを測ります。百舌鳥古墳群の仁徳陵古墳(大仙古墳)に次いで
2番目の大きさを誇ります。また、古墳を築造したときに使用した土の量は約143万立米
にものぼり、大仙古墳を上回っています。墳丘は三段に積み重ねられ、斜面は一面に
石が 葺(ふ)かれています。テラスと呼ばれる平坦な部分には推定2万本に及ぶ円筒
埴輪が立て並べられていたと考えられます。5世紀前半頃の築造と考えられています。
墳丘のまわりには二重の周濠(しゅうごう)が巡りますが、東側では先に造られた二ツ塚
古墳を避けて少しいびつな形になっています。出土遺物には、円筒埴輪や盾・靫(ゆぎ)
・家・水鳥などの形象埴輪の他に、蓋形の木製品やクジラ・タコなどの土製品あります。
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応神天皇陵をぐるっと半周して
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外堀外堤へ出て
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此処までは、
6月29日の古市古墳群を歩く(世界文化遺産)-1 として
  下記のセカンドブログ(気の向くままに・・・3)へ詳細を投稿すみです。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-06
此処では、続きの 墓山古墳へ向かう~ についての詳細を掲載します。
向墓山古墳・資料館(羽曳野市文化財展示室)
向墓山古墳・・・墓山古墳の陪塚。

墓山古墳
墓山古墳は古市古墳群のほぼ中央にある大形の前方後円墳です。三段に築かれた
墳丘は長さ225メートル、くびれ部両側に造出しを備え、深い濠と幅広い堤をめぐらせ
ます。墳丘部は「応神天皇陵陪塚」として宮内庁が管理されていますので、内部の詳
しい様子は不明です。だた、これまでに多量の滑石製勾玉や各種の形象埴輪の出土
が知られています。また、後円部には亀甲紋を陰刻した長持形石棺が納置されてい
た報告もあります。これらの情報から墓山古墳は5世紀の前半に築造されたと考えら
れます。墓山古墳の周囲には浄元寺山、向墓山、野中、西墓山という4基の陪塚が配
されていて、典型的な中期大型古墳の様相をみせています。
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仁賢天皇陵へ向かう
バナナが・・・
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仁賢天皇陵
仁賢天皇(にんけんてんのう、允恭天皇38年 - 仁賢天皇11年8月8日)は、第24代天皇
(在位:仁賢天皇元年1月5日 - 同11年8月8日)。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・
大石尊(おおしのみこと)、意祁命・意富祁王(おおけのみこ)。諱は大脚(おおし)または
大為(おおす)、字は嶋郎(しまのいらつこ)。
安康天皇3年、天皇が暗殺された後に父の市辺押磐皇子が大泊瀬皇子(後の雄略天皇)
に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝
郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟
共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。縮見屯倉首(しじみのみやけのお
びと)に雇われて牛馬の飼育に携わっていたが、清寧天皇2年に、弟王が宴の席で王族
の身分を明かした。清寧天皇は、子がなかったため喜んで迎えを遣わし、翌年に2王を宮
中に迎え入れた。4月に億計王が皇太子となった。
同5年に清寧天皇が崩じたときに皇位(王位)を弟王と譲り合い、その間は飯豊青皇女が
執政した。『古事記』では、2王が身分を明かして宮中に戻ったのは清寧天皇の崩御後、
飯豊王の執政中のことであるとする。翌年、弟王が即位(顕宗天皇)したが、わずか在位
3年(『古事記』では8年)で崩御した。
これを受けて、億計王が仁賢天皇元年1月に即位した。3年2月に石上部(いそのかみべ)
舎人を、5年に佐伯造(さえきのみやつこ)を置いた。また、6年9月に高麗(こま)へ日鷹吉
士(ひたかのきし)を遣わし、皮の工匠などの手工業者を招いたという。仁賢天皇の時代は
国中が良く治まり、人民から「天下は仁に帰し、民はその生業に安んじている」と評された。
7年1月には皇子の小泊瀬稚鷦鷯尊を皇太子に定め、11年8月に崩御。『水鏡』に50歳、
『帝王編年記』には51歳とある。
皇后は雄略天皇の皇女である春日大娘皇女であるが、父を殺した雄略天皇の皇女を皇后
とした理由として、仁賢天皇自身が傍系の出身であるため、直系の皇女を皇后に迎え入れ
正当性を強めたと考えられている。これは娘の手白香皇女も、傍系出身の継体天皇の皇后
となった事で繰り返されている。
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峰塚公園前で(昼食休憩・外食)
喫茶「花園」でランチタイム

峰塚公園・峯ケ塚古墳
峯ヶ塚古墳(みねがづかこふん)は、大阪府羽曳野市軽里2丁目に存在する古墳時代後期
の前方後円墳。古市古墳群の南西部に位置する。国の史跡に指定されている。
峯ヶ塚古墳は、墳丘の長さ96m、前方部の幅74.4m・高さ10.5m、後円部は直径56m・高さ
9mの前方後円墳である。
江戸時代には、日本武尊白鳥陵に比定されていた(現在は、軽里大塚古墳を比定)。また、
允恭天皇皇子の木梨軽皇子の墓との伝承もあった。
墳丘は二段に築かれており、二段目斜面の裾部分のみに数段の角礫が葺いてあるほか
は、表面に葺石はみられない。 1992年(平成4年)の発掘調査で、後円部墳頂中央部の盗
掘壙(とうくつこう)を掘り進めた結果、竪穴式石室が現れた。 石室や盗掘壙から、大刀・鉄
鏃などの武器、挂甲小札(けいこうこざね)などの武具、轡(くつわ)・鐙(あぶみ)などの馬具、
装身具、玉類などが大量に出土した。また、成人男性の骨や歯なども出土している。 出土し
た埴輪や横穴式石室の特徴から、6世紀初頃(古墳時代後期)の築造と考えられている。
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清寧天皇陵古墳へ向かう
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清寧天皇陵古墳
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府羽曳野市西浦6丁目にある河内坂門原陵(こうちの
さかどのはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「白
髪山古墳」で、墳丘長112メートルの前方後円墳である。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が
祀られている。
※清寧天皇(せいねいてんのう、允恭天皇33年? - 清寧天皇5年1月16日)は、第22代天
皇(在位:清寧天皇元年1月15日 - 同5年1月16日)。御名は白髪皇子(しらかのみこ)。
和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこの
すめらみこと)、白髪大倭根子命(古事記)。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪(アルビノの可能性もある)であったため、父帝の雄
略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、
権勢を縦(ほしいまま)にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正
月に即位。 皇子がいないことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子で
ある億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報
を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘
計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。なお、『古事記』では2
王の発見は天皇崩御後の出来事としている。
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白鳥陵古墳・・・白鳥陵(しらとりのみささぎ)
公式形式は前方後円。考古学名は「軽里大塚古墳」または「前の山古墳」。墳丘長190m
の前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定される。河内の白鳥陵は明治8年(1875年)
に教部省により伊岐宮(現・白鳥神社)の白鳥神社古墳に考定されたが、明治13年(18
80年)に現陵(軽里大塚古墳/前の山古墳)に改定された。現陵は、『河内国陵墓図』では
木梨軽太子の「軽之墓」と記されている。かつては西方の峯ヶ塚古墳に比定する説もあっ
たという。
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※「日本武尊」
ヤマトタケル(生年不詳 - 景行天皇43年)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族(王族)。
『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命
(やまとたけるのみこと)」と表記される。現在では、漢字表記の場合に一般には「日本
武尊」の用字が通用される。第12代景行天皇皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。
熊襲征討・東国征討を行なったとされる、日本古代史上の伝説的英雄である。
草薙剣
記紀日本武尊が帯びた剣は、草薙剣(草那芸剣)といわれる。出雲でスサノオ尊がヤマ
タノオロチを倒した際にその尾から出てきたもので、天照大神に献上され、天孫降臨に
伴い三種の神器の一つとして、再び地上に戻ってきたものである。
日本書紀の注記によると、元は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)という名で、日本武
尊が駿河で野火攻めに遭った時、この剣が独りでに鞘から抜けて草を薙ぎ払い、難を
逃れたことにより草薙剣(くさなぎのつるぎ)と名付けられたとする。ただし、これは挿入
された異伝であり、正式な伝承とは見なされていない。本文では一貫して草薙剣と表記
され、途中で名称が変わることはない。古事記でも草那芸剣(大刀)とのみ記される。

横の方から半周回る事が出来る
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古市駅(ゴール) 
古市駅→道明寺駅→柏原駅→王寺駅

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