7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-2
7月20日 7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-2
9月度 歴史探訪の会例会
此の日は、予約が必要な万博記念公園内の太陽の搭の内部を見学するツアーに34名で
予約(会員30名+特別参加4名)、オープン参加企画にした為、4名の特別参加者が・・・
万博記念公園の入園券(自然文化園と日本庭園)と太陽の搭入館券の2枚と園内マップ。
大阪モノレールの万博記念公園駅に10時集合
万博公園へ向かう
参加費用は、入園券&太陽の搭入館券、団体割引で@800円
万博記念公園
日本万国博覧会(大阪万博)の跡地を整備した公園である。万博記念公園(ばんぱくきね
んこうえん)や万博公園(ばんぱくこうえん)とも呼称される。
所在地は大阪府吹田市千里万博公園。公園を管理するのは、大阪府である。1972年3月
15日の日本万国博覧会一般公開2周年の日にエキスポランドと自然文化園の第1期及び
日本庭園・大阪日本民藝館などを公開して開園する。
エキスポランドは万国博覧会開催時に設置されたが、2009年8月までに全アトラクション施
設が撤去された。休憩所や階段・通路等の構造物も2013年11月からの工事で撤去された。
エキスポタワーは老朽化で2003年に解体。
自然文化園
各パビリオンを撤去した跡に作られた広大な芝生の広場や桜、アジサイなど季節の花が
ある。太陽の塔もこの園内にある。
太陽の搭へ向かう
太陽の塔
博覧会終了後は、地下の展示空間は埋められ、巨大な大屋根は1977年から1978年度
(昭和52年から53年)にかけて撤去されましたが、50年近くの時を経た今でも太陽の塔
は万博記念公園のシンボルとして残されています。
太陽の塔の構造・材質・規模
基底部から腕下端まで 鉄筋コンクリート造。
腕下端から腕上端まで 鉄骨・鉄筋コンクリート造。
腕上端から頂部及び両腕 鉄骨+ショットクリート。
高さ 約70m。 基底部(根元)直径 約20m。腕の長さ(片側) 約25m。
黄金の顔(頂部・直径約10.6m)、ステンレス鋼板に特殊塩化ビニールフィルム
(金色)貼付。※目玉の直径:約2m。
太陽の顔(胴中央部・直径約12m)
下地:FRP(ガラス繊維強化プラスティック)、表面:発砲ウレタン、コンクリート吹き
付け、樹脂塗装。
黒い太陽(背面・直径約8m):黒色陶器(信楽焼)タイル貼付。
イナズマ模様:下地:塩化ビニール仕上げ。
正面の「赤いイナズマ」と背面の「緑のコロナ」は、ガラスモザイクタイル(イタリア産)
仕上げ。総工費(当時) 約6億3千万円(テーマ館全体では約25億9千万円)。
工期:1969年(昭和44年)1月から1970年(昭和45年)3月までの約1年2ヶ月
(テーマ館全体では1968年(昭和43年)9月からの約1年半)
太陽の搭へ入館
岡本太郎作 原生生物から人類の誕生までの進化をたどった高さ41mの「生命の樹」や、
「地底の太陽」を復元公開! 岡本太郎が音響や、動線にまでこだわりぬいた太陽の塔
の内部は、 全体がひとつのミュージアム。
大阪万博当時に公開されていた塔内には、知られざる驚きがたくさんありました。
模型の総数はなんと292体(当時!)
内部再生事業により、約200体の模型が復元・修復されました。
太陽の塔は、未来を象徴する頂部の「黄金の顔」、現在を象徴する正面の「太陽の顔」、
過去を象徴する背面の「黒い太陽」の3つの顔を持っていますが、日本万国博覧会当時
テーマ館の地下展示室には「地底の太陽」といわれる第4の顔が展示されていました。
「地底の太陽」は、高さ約3m、全長約11mにもなる巨大な展示物であったとされていま
したが、博覧会終了後の撤去作業から約50年を経た現在も行方がわからない状態と
なっています。
復元された地底の太陽
生命の樹
「生命の樹」は、単細胞生物から人類が誕生するまでを、下から順に<原生類時代>、
<三葉虫時代>、<魚類時代>、<両生類時代>、<爬虫類時代>、<哺乳類時代>
にわけて、その年代ごとに代表的な生物の模型によって表していた。当時「生命の樹」の
枝には292体の模型が取り付けられており、これらのうちの一部は電子制御装置により、
動いていた。デザインはウルトラマンの造形で知られる成田亨が岡本太郎の原案を元に
制作した。なお、これらの模型は円谷プロが製作を行った。
修復工事では耐震性を上げるため壁を20cm厚くし、重量のあるエスカレーターを階段に
付け替えるなどした。万博当時は強制的に5分で最上部まで登っていたが、階段にした事
によりゆっくりと鑑賞する事ができる。内部が少し狭くなった事や安全性を考慮し、292体
あった生物模型は183体になった。153体は新規に制作し、29体を修復した。生命の樹上
部のゴリラのみは経年を表すため頭がもげ、内部機構が出た状態で展示されている。
太陽の搭への入館は11:00~予定は11:30迄だったが、
館内で3班に分けられて全3班が終了したのは11:50、此処で一旦解散しフリータイムに・・
太陽の搭の見学を終えて、4名で日本庭園へ向かう
此処までは、
7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-20
此処では、続きの日本庭園~ についての詳細を掲載します。
日本庭園
万国博覧会出展のために作庭された約26ヘクタールの池泉回遊式庭園である。設計
及び施工指導は田治六郎。上代・中世・近世・現代の4庭園で構成され、各時代の様
式を一堂に見ることができる「庭園博物館的な機能」を兼ね備える。
※田治六郎
田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日本の造園家。
1904年(明治37年)、石川県七尾市に生まれる。1930年、東京帝国大学農学部農学科卒
業。1932年大学院修了後は内務省都市計画大阪地方委員会技手となり、いくつかの各都
市計画地方委員会技手を兼務した。
内務技師、地方技師として当該府県の都市計画の策定、とくに都市公園計画に参画して各
市を指導。特に西日本や旧満州の公園緑地の行政と計画設計にあたった。また大阪万博
に出展する日本庭園(万博記念公園内に現存)の設計及び施工指導にあたった人物。
日本庭園の中央休憩所の涼しい場所で昼食を済ませて、アイスコーヒータイム
日本庭園の中央の心字池~
ハス池~
築山~
木漏れ日の滝~
深山の泉~
竹林の小路を通り日本庭園を一周して日本庭園をでて
日本庭園を後にして
平和のバラ園へ
世界9ヵ国から寄贈された希少な品種などのバラ約140品種・約5600株があり、カナダ
政府からモントリオール万国博覧会で寄贈されたカエデの木が植えられている。
スイレン池と平和のバラ園を通り
お祭り広場の横を通り
東の広場前~夏の花八景を撮り歩いて
太陽の搭広場へ出て、万博公園を後に万博記念公園駅へ向かう
2名は門真市方面行に、2名は千里中央駅経由で天王寺方面へ別れて・・・、
9月度 歴史探訪の会例会
此の日は、予約が必要な万博記念公園内の太陽の搭の内部を見学するツアーに34名で
予約(会員30名+特別参加4名)、オープン参加企画にした為、4名の特別参加者が・・・
万博記念公園の入園券(自然文化園と日本庭園)と太陽の搭入館券の2枚と園内マップ。
大阪モノレールの万博記念公園駅に10時集合
万博公園へ向かう
参加費用は、入園券&太陽の搭入館券、団体割引で@800円
万博記念公園
日本万国博覧会(大阪万博)の跡地を整備した公園である。万博記念公園(ばんぱくきね
んこうえん)や万博公園(ばんぱくこうえん)とも呼称される。
所在地は大阪府吹田市千里万博公園。公園を管理するのは、大阪府である。1972年3月
15日の日本万国博覧会一般公開2周年の日にエキスポランドと自然文化園の第1期及び
日本庭園・大阪日本民藝館などを公開して開園する。
エキスポランドは万国博覧会開催時に設置されたが、2009年8月までに全アトラクション施
設が撤去された。休憩所や階段・通路等の構造物も2013年11月からの工事で撤去された。
エキスポタワーは老朽化で2003年に解体。
自然文化園
各パビリオンを撤去した跡に作られた広大な芝生の広場や桜、アジサイなど季節の花が
ある。太陽の塔もこの園内にある。
太陽の搭へ向かう
太陽の塔
博覧会終了後は、地下の展示空間は埋められ、巨大な大屋根は1977年から1978年度
(昭和52年から53年)にかけて撤去されましたが、50年近くの時を経た今でも太陽の塔
は万博記念公園のシンボルとして残されています。
太陽の塔の構造・材質・規模
基底部から腕下端まで 鉄筋コンクリート造。
腕下端から腕上端まで 鉄骨・鉄筋コンクリート造。
腕上端から頂部及び両腕 鉄骨+ショットクリート。
高さ 約70m。 基底部(根元)直径 約20m。腕の長さ(片側) 約25m。
黄金の顔(頂部・直径約10.6m)、ステンレス鋼板に特殊塩化ビニールフィルム
(金色)貼付。※目玉の直径:約2m。
太陽の顔(胴中央部・直径約12m)
下地:FRP(ガラス繊維強化プラスティック)、表面:発砲ウレタン、コンクリート吹き
付け、樹脂塗装。
黒い太陽(背面・直径約8m):黒色陶器(信楽焼)タイル貼付。
イナズマ模様:下地:塩化ビニール仕上げ。
正面の「赤いイナズマ」と背面の「緑のコロナ」は、ガラスモザイクタイル(イタリア産)
仕上げ。総工費(当時) 約6億3千万円(テーマ館全体では約25億9千万円)。
工期:1969年(昭和44年)1月から1970年(昭和45年)3月までの約1年2ヶ月
(テーマ館全体では1968年(昭和43年)9月からの約1年半)
太陽の搭へ入館
岡本太郎作 原生生物から人類の誕生までの進化をたどった高さ41mの「生命の樹」や、
「地底の太陽」を復元公開! 岡本太郎が音響や、動線にまでこだわりぬいた太陽の塔
の内部は、 全体がひとつのミュージアム。
大阪万博当時に公開されていた塔内には、知られざる驚きがたくさんありました。
模型の総数はなんと292体(当時!)
内部再生事業により、約200体の模型が復元・修復されました。
太陽の塔は、未来を象徴する頂部の「黄金の顔」、現在を象徴する正面の「太陽の顔」、
過去を象徴する背面の「黒い太陽」の3つの顔を持っていますが、日本万国博覧会当時
テーマ館の地下展示室には「地底の太陽」といわれる第4の顔が展示されていました。
「地底の太陽」は、高さ約3m、全長約11mにもなる巨大な展示物であったとされていま
したが、博覧会終了後の撤去作業から約50年を経た現在も行方がわからない状態と
なっています。
復元された地底の太陽
生命の樹
「生命の樹」は、単細胞生物から人類が誕生するまでを、下から順に<原生類時代>、
<三葉虫時代>、<魚類時代>、<両生類時代>、<爬虫類時代>、<哺乳類時代>
にわけて、その年代ごとに代表的な生物の模型によって表していた。当時「生命の樹」の
枝には292体の模型が取り付けられており、これらのうちの一部は電子制御装置により、
動いていた。デザインはウルトラマンの造形で知られる成田亨が岡本太郎の原案を元に
制作した。なお、これらの模型は円谷プロが製作を行った。
修復工事では耐震性を上げるため壁を20cm厚くし、重量のあるエスカレーターを階段に
付け替えるなどした。万博当時は強制的に5分で最上部まで登っていたが、階段にした事
によりゆっくりと鑑賞する事ができる。内部が少し狭くなった事や安全性を考慮し、292体
あった生物模型は183体になった。153体は新規に制作し、29体を修復した。生命の樹上
部のゴリラのみは経年を表すため頭がもげ、内部機構が出た状態で展示されている。
太陽の搭への入館は11:00~予定は11:30迄だったが、
館内で3班に分けられて全3班が終了したのは11:50、此処で一旦解散しフリータイムに・・
太陽の搭の見学を終えて、4名で日本庭園へ向かう
此処までは、
7月18日の万博記念公園&太陽の搭見学-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-07-20
此処では、続きの日本庭園~ についての詳細を掲載します。
日本庭園
万国博覧会出展のために作庭された約26ヘクタールの池泉回遊式庭園である。設計
及び施工指導は田治六郎。上代・中世・近世・現代の4庭園で構成され、各時代の様
式を一堂に見ることができる「庭園博物館的な機能」を兼ね備える。
※田治六郎
田治六郎(たじ ろくろう、1904年 - 1978年)は、日本の造園家。
1904年(明治37年)、石川県七尾市に生まれる。1930年、東京帝国大学農学部農学科卒
業。1932年大学院修了後は内務省都市計画大阪地方委員会技手となり、いくつかの各都
市計画地方委員会技手を兼務した。
内務技師、地方技師として当該府県の都市計画の策定、とくに都市公園計画に参画して各
市を指導。特に西日本や旧満州の公園緑地の行政と計画設計にあたった。また大阪万博
に出展する日本庭園(万博記念公園内に現存)の設計及び施工指導にあたった人物。
日本庭園の中央休憩所の涼しい場所で昼食を済ませて、アイスコーヒータイム
日本庭園の中央の心字池~
ハス池~
築山~
木漏れ日の滝~
深山の泉~
竹林の小路を通り日本庭園を一周して日本庭園をでて
日本庭園を後にして
平和のバラ園へ
世界9ヵ国から寄贈された希少な品種などのバラ約140品種・約5600株があり、カナダ
政府からモントリオール万国博覧会で寄贈されたカエデの木が植えられている。
スイレン池と平和のバラ園を通り
お祭り広場の横を通り
東の広場前~夏の花八景を撮り歩いて
太陽の搭広場へ出て、万博公園を後に万博記念公園駅へ向かう
2名は門真市方面行に、2名は千里中央駅経由で天王寺方面へ別れて・・・、