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7月28日の馬見丘陵公園の向日葵他-2

7月30日         7月28日の馬見丘陵公園の向日葵他-2
               歩こう会を中止にしたので
本当なら今日7月28日は歩こう会で藤原宮跡の花蓮を見に行く予定だったが、コロナ
感染者が増え続けている為、7月度の歩こう会は中止にして次回、8月度の歩こう会を
堂するのか?検討中。この日は午前中は天気もよさそうだし馬見丘陵公園へ向日葵の
様子を見に行く事にして中央駐車場に車を入れて、向日葵を探して北エリアへ向かう。
此の日の私の万歩計は、4396歩で約2.6㎞歩いた事に・・・
鉢植えの向日葵がお出迎え
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今日は此れから北エリアをグルット廻って見ようかと・・・
花の道
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バラ園を抜けて
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ススキの丘
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チャイニーズイエローバナナ
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クレマチス
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連絡隧道を通り北エリアへ
北エリアのルドベキア
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向日葵
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ルドベキア
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ダリア園
向日葵
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白の百日紅
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此処もルドベキア
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百日紅
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集いの丘をグルット廻る
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集いの丘
此処の向日葵は未だ小さな蕾
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大型テント
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集いの丘
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向日葵
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大型の向日葵は未だ一輪
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此処までは、
7月28日の馬見丘陵公園の向日葵他-1 として
        下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-30-1
此処では、続きの 集いの丘~ についての詳細を掲載します。
集いの丘
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馬見花苑
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集いの丘を後に
中央エリアへ向かう
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中央エリアへ戻る
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ススキの丘
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中央エリア
バラ園へ
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バラ園の向日葵は未だ蕾
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此処の向日葵は未だ未だ蕾
チョコレート色の向日葵も未だ一輪しか咲いていない
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紅白のアメリカ芙蓉も咲いて
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菖蒲園へ向かう
栗の木とマサキ
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菖蒲園を抜けて
古墳の丘
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下池
ウッドブリッジ、亀達は見当たらなかった
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古墳の丘へ戻って
中央駐車場へ向かう、セミの声がウルサイ
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中央公園館へ戻って来た
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7月22日の藤原宮跡の蓮~おふさ観音風鈴祭り-2

7月27日       7月22日の藤原宮跡の蓮~おふさ観音風鈴祭り-2
             7月28日の歩こう会へ向けてコース下見
7月28日に予定している歩こう会に向けて新型コロナ騒動の最中でのハイキングの
コース下見に行って来ました。大和八木駅へ遅めの10時15分集合で駅や電車内の
人々コロナ感染対策や込み具合、施設の利用状況、コースの人出等も参考に・・・
此の日の私の万歩計は、21264歩で約12.7㎞歩いた事に(朝の6000歩が効いた)
M吉さん、K場さん、S籐さん、A座さん、O村さん、Y田さんと7名でハイキング。
志都美駅
葛城山~二上山方面
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志都美駅~香芝駅 近鉄下田駅へ乗り換えて大和八木駅への予定だったが未明の
雨で和歌山線で被害が出て王寺駅~高田駅間で間引き運転、予定してた電車が無い。
志都美駅を出て下田駅へ歩く羽目になり、自宅から下田駅迄6000歩費やした・・・
大和八木駅へ10分遅れて10時25分に到着、同行の皆さんに迷惑をかけてしまった。
大和八木駅~耳成山麓へ向かう
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耳成山・耳成山公園(トイレ)
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩
が侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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南麓の池、木原古池遺跡
木原古池の万葉歌碑
  耳成の 池し恨めし 我妹子が
    来つつ潜かば 水は涸れなむ (巻16-3788) 作者未詳
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山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを
論社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記して
をり、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合
には、本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊
山口神社に連なる。
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山之坊山口神社~八釣山地蔵尊へ向かう
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八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)
に火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)
の頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸が
あり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「や
とり」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の
職業名の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に
「八釣」と呼ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかって
おり、この地域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。「かしはら町名考」より
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畝傍坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。
遂に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という
埴安の地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の※迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。
この時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神
の健土安比売命である。
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※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎ
はやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつち
のかみ;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、
火産霊(ほむすび)と表記される。

畝傍都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。
祭神の哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、
伊邪那美神(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生
み亡くなったのを、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれ
た女神だと言われています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末
社の八幡(はちまん)神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 
祈れども我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内に
あります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰
は桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の
秋七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統
天皇十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇
ることなかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛
鳥時代には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、
同じく式内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所
「香山正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
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奈良文化財研究所
藤原宮跡資料室
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・畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる・香具山(かぐやま)
・畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。
それが長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけら
れたそうです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」
「宇禰縻夜摩」「慈明寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大
兄皇子(なかのおおえのおうじ)が大和三山のことを詠んだ歌があります。
 「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 
    古昔も 然にあれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」
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藤原宮跡(昼食&花蓮鑑賞)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都
で、日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家
の首として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、
とある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例
から3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。
この時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、
飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重
なっている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成
立を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮
都建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(こ
れを倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)と
も言われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三
代にわたって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の
勅が下り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、
宮が焼けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
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左の奥に二上山
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奥に畝傍山
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此処までは、
7月22日の藤原宮跡の蓮~おふさ観音風鈴祭り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を掲載済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-26
此処では、続きの 花蓮鑑賞の途中~ についての詳細を掲載します。
花蓮鑑賞
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大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる
・香久山(かぐやま)
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大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる
・香久山(かぐやま)
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大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる
・耳成山(みみなしやま)
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大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる・香具山(かぐやま)
醍醐池には、香久山を詠んだ万葉歌碑が有る
 春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 
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花蓮鑑賞
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大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる
・畝傍山(うねびやま)
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花蓮鑑賞
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おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したと
言われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
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おふさ観音 風鈴まつり
開催期間:2020年07月01日〜2020年08月31日 厄払いの風鈴約2500個が鳴り響く、
     おふさ観音の夏の風物詩
おふさ観音風鈴まつりは、2003年(平成15年)から始まった催しで、風鈴の音色は、
鐘の音が魔を払い、厄を払うといわれる仏教の思想にも合致しています。そもそも風
鈴は、中国から伝わった「風鐸(ふうたく)」がもとになったといわれています。
平安時代には、貴族が魔除けとして軒先に吊るしていて、“風鈴”という呼び名は、こ
の頃から使われるようになったとされています。
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飛鳥川沿いを今井町へ向かう
クルミ
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今井町(重要伝統的建造物群保存地区)
今井町は、※称念寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井
兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、我
孫子の城主をも兼ねていた。彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和
議の使者のひとりとして兵部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときである。
丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なかん
ずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を
統轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果た
している。明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、御一泊
の後堺に向け御進発遊ばされた。西南の戦争の始まりであった。
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※称念寺
称念寺は室町時代末期、今井町の中核となった寺院です。中世期末の時代から、本願
寺の証如上人 蓮如上人の末子実従、さらに顕如上人らの高僧が投宿されています。
また明治10年には明治天皇が投宿したおり、西南の役の勃発をここ称念寺で知らされ
たと伝えられています。このように称念寺は浄土真宗寺院の貴重な遺構であり、歴史
上でも重要な役割を果たしてまいりました。称念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今
井御坊とも南之御堂とも呼ばれている。

蘇武橋のエノキ
説明板では、幹周 5m、樹高 14m、樹齢 推定420年。
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八木西口駅へ
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7月20日早朝の藤原宮跡の蓮田-2

7月23日         7月20日早朝の藤原宮跡の蓮田-2
              早朝に家内と行って来た
前日迄は一人で6時半出発で8時半迄に帰って来るから、と言う事で予定してたが、
当日朝、朝食を終えて出かける直前に一緒に行くと言い出し、出発が20分遅れて、
駐車場に着いたのが7時25分、既に陽が上って暑い日差しが?約20分間撮って・・
7時48分に駐車場へ、此の日の私の万歩計は、1865歩で約1.1㎞歩いた事に・・・
駐車場へ着いて畝傍山を・・・
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蓮田へ向かう
天香久山の方向を?
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蓮田へ向かう
蓮田の向こうに耳成山
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蓮田に着いて
蓮、蓮のバックは畝傍山
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バックは畝傍山
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バックは畝傍山
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花蓮色々、トンボを見つけた
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バックは耳成山
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此処までは、
7月20日早朝の藤原宮跡の蓮田-1 として
     下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
    https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-23 
此処では、続きの 花蓮色々~以降の詳細も掲載します。
花蓮色々
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耳成山
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花蓮色々
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バックは香久山
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花蓮色々
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駐車場へ向かう
カラスだ・・・
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未だ未だ
蕾が多かったが来て見て撮れて良かった・・・

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7月17日の柏原市史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-2

7月20日       7月17日の柏原市史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-2
              近鉄てくてくマップハイキング
コロナ騒動以降、初の知人達と5名でのハイキングを計画したが天候悪く出出し雨で
2名が不参加、M吉さん。K場さんと3名で近鉄てくてくマップ大阪14番コースを短縮
して河内国分駅~西町地蔵尊~国分神社~西法寺~阿弥陀寺~不動明王堂~田辺池~
田辺廃寺跡・春日神社~初吉稲荷社~原川コミュニティー道路(レンガの歩道)~大
和川河川敷公園(昼食・解散)と、此の日の私の万歩計は、15077歩で約9㎞歩いた、
久し振りの長距離で疲れた。
志都美駅
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高井田駅
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白坂神社・・・宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
宿奈川田神社は、大阪府柏原市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。地元で
は通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ばれ、地図や看板でもそのように表記され
ている。祭神は、宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田)とともに、当地
を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社となっ
ており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列してい
る。中世には「白坂大明神」と称していた。一説には、現在二宮神社(柏原市安堂町)
大正時代に2社を合祀して現在地に遷座)のある地が「字白坂」であることから、元
の宿奈川田神社の鎮座地であるという。
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大和川・国豊橋
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大和川
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国豊橋を渡って
河内国分駅で待ち合わせ、駅改札でスタンプを貰ってスタート
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西町地蔵尊・奈良街道
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国分神社・松岳山古墳・・・今回は古墳への登頂はパス
当社は字美山にあり、その創建は詳らかではないが、古書、口伝等によれば
鎌倉時代の建立によるとある。創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に
仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼すなわち有職、接待、技術等
かつて見たこともないものを伝え、その才の勲功があったと大仁後の正二位の
官位を賜ったが舒明天皇の十三年(六四一年)に没した。二十七年後の天智
天皇の七年(六六八年)妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳
山の上に葬った。その墓は前方後円墳で史跡として当社が所有している。
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※松岳山古墳(まつおかやま古墳)此の日は登らず・・・
松岳山古墳は古墳時代前期の前方後円墳。国の史跡である。4世紀後半の
築造と考えられている。国宝の※銅製船氏王後墓誌(三井記念美術館蔵)は
この古墳から出土したと伝えられている。
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※銅製船氏王後墓誌(どうせいふなしおうごぼし)
墓誌は、松岳山古墳群から出土したと伝えられていますが、出土の詳しい場所や
時期など経緯は不明です。縦約30cm、横幅約7cm、厚みが0.1cmの 極めて薄い
短冊形の銅板で、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字が刻まれています。
668年につくられたと考えられており、わが国最古の墓誌で す。また、文字使い
や内容などから学問的にも貴重な資料です。
国分神社
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国分神社御旅所
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西法寺へ向かう、雨に濡れた煙の木?
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西法寺
浄土真宗本願寺派 塩出山 西法寺
西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代蓮如上人の教化により
浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
西法寺の西門に石碑が建っています。その石碑に西法寺の歴史が記されてあり、そ
の碑文を書き写したものが残っています。
今から約1400年前、聖徳太子が仏法を広めるため「塩出山 浄生院 放光寺」というお
寺を枯栖山(今の芝山らしい)のふもと、杜本神社の近くに建てられました。
初代の住職は「実言」という方でした。その後宝亀3年(772年)火災で、堂塔、門等
すべて焼失して僅かに礎石を残すだけとなったために、小さなお堂を建てて法灯を護
り続け、創建以来900年が経ち、第53代「実弘」の時代となりました。
当時の国分代官「安藤 善正」は実弘の弟であり、兄弟で本願寺第8代の「蓮如上人」
を慕い、そのみ教えを信奉して浄土真宗に帰依しました。それが文明8年(1476年)
のことです。そこで、西法寺は「善正」を浄土真宗としての開基住職としています。
その後「蓮如上人」が当寺にお立ち寄りになり7日間御逗留され、浄土真宗のみ教え
をお説きになられました。「放光寺」が「西法寺」という名前(寺号といいます)に変
わりましたのは、慶長12年(1607年)10月に本願寺第12代宗主准如上人より「西法寺」
の寺号を賜り公称するようになりました。第8代住職「善空」の時に現在の地に移転。
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此処までは、
柏原市の史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-1 として
       下記のセカンドブログへも詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-20
続きは、阿弥陀寺~
阿弥陀寺でトイレ休憩
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不動明王堂
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田辺池
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田辺廃寺跡・春日神社
田辺廃寺跡
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふ
ひと)氏が建てた氏寺と言われている。1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、
南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明しました。東塔の基壇
はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み
上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡
は春日神社の境内にあります。白鳳時代から中世までの間法灯を伝えるが、終始そ
の間同氏を背景に盛衰した寺院と考えられる。
春日神社(かすがじんじゃ)
境内は「国指定史跡 田辺廃寺跡」があります。 田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠
地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われている。
1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽
藍配置であることが判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げ
たセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに
三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの
出土遺物も境内の収蔵庫に展示されています。
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初吉稲荷社(おいなり古墳)
おいなり古墳遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいな
り古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬
施設は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認
できていません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古
墳が複数存在した可能性が考えられています。
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原川コミュニティー道路(レンガの歩道)
ムクゲ(憲法で定められてるわけではないが韓国の国花と言われる、ムグンファ)
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大和川河川敷公園(昼食・解散)
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国豊橋へ
大和川
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振り返って
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高井田駅へ向かう
大和川~遠くに二上山
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高井田駅
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おまけ
12日に故郷の奄美から届いた時計草(パッションフルーツ)
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回顧 2017‐7月30日の藤原宮跡の花々と大和三山

2020年7月10日     回顧 2017‐7月30日の藤原宮跡の花々と大和三山
2017‐7月30日の藤原宮跡の蓮田&キバナコスモスー2
            7時54分~8時24分迄の30分間    
家内と一緒に車で藤原旧跡の蓮田を見に行って来た。前夜の話しでは、蓮は早朝
が良いから、7時前に6時50分頃出発して、との予定が7時25分にズレて出遅れて、
藤原宮跡の花見臨時駐車場に着いたのは7時50分過ぎ?駐車場にはかなりの車が有
って蓮田の周りにはカメラマン、カメラウーマンが・・・
車を降りて、先ず大和三山、畝傍山~
大和三山
大和三山(やまとさんざん)は、奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺
(橿原市)にそびえる3体の山々の総称。1967年(昭和42年)12月15日、歴史的風
土保存区域に指定、各山も歴史的風土特別保存地区に指定、2005年(平成17年)7
月14日、国の名勝に指定された。
天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま、152m)
畝傍山(うねびやま、199m)
耳成山(みみなしやま、140m)
飛鳥時代の持統天皇の頃には三山周辺に大規模な条坊制を取り入れた藤原京が整備
されて、三山に囲まれた中心部に大極殿などの宮城が置かれてた(現藤原宮跡)。
畝傍山
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天香久山
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耳成山
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回顧
2017年7月30日の藤原宮跡の花々


以上、詳細は下記の2017年7月31日投稿の
7月30日の藤原宮跡の蓮田&キバナコスモスー2 として、下記投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2017-07-31

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回顧 2017‐7月30日の藤原宮跡の花蓮

2020年7月7日    回顧 2017‐7月30日の藤原宮跡の花蓮
         7月30日の藤原宮跡の蓮田&キバナコスモスー2
            7時54分~8時24分迄の30分間    
家内と一緒に車で藤原旧跡の蓮田を見に行って来た。前夜の話しでは、蓮は早朝
が良いから、7時前に6時50分頃出発して、との予定が7時25分にズレて出遅れて、
藤原宮跡の花見臨時駐車場に着いたのは7時50分過ぎ?駐車場にはかなりの車が
有って蓮田の周りにはカメラマン、カメラウーマンが・・・
車を降りて、先ず大和三山、畝傍山~
大和三山
大和三山(やまとさんざん)は、奈良県(旧・大和国)の奈良盆地南部、飛鳥周辺
(橿原市)にそびえる3体の山々の総称。1967年(昭和42年)12月15日、歴史的風
土保存区域に指定、各山も歴史的風土特別保存地区に指定、2005年(平成17年)7
月14日、国の名勝に指定された。
天香久山(あまのかぐやま、あめのかぐやま、152m)
畝傍山(うねびやま、199m)
耳成山(みみなしやま、140m)
飛鳥時代の持統天皇の頃には三山周辺に大規模な条坊制を取り入れた藤原京が整備
されて、三山に囲まれた中心部に大極殿などの宮城が置かれてた(現藤原宮跡)。
畝傍山
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天香久山
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耳成山
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回顧
2017年7月30日の藤原宮跡の花蓮


以上、詳細は、2017年7月31日に
7月30日の藤原宮跡の蓮田&キバナコスモスー2 として
        下記へ投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2017-07-31

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6月27日の馬見丘陵公園のアガパンサス&紫陽花ー2

7月2日       6月27日の馬見丘陵公園のアガパンサス&紫陽花ー2
            梅雨の晴れ間にアガパンサス&紫陽花を撮る
中央駐車場に車を入れて、今日はアガパンサスと紫陽花を撮りに園内をぐるっと一回
りし、チャイニーズイエローバナナとマサキ、ねむの木の花を撮ってアガパンサスと
紫陽花を撮るコースを散策、此の日の私の万歩計は、5729歩で約3.4㎞歩いた・・・
梅雨の晴れ間にアガパンサス&紫陽花を撮る 
アガパンサス
2020-0-27梅雨の晴れ間とアガパンサスmp4ファイルは
     https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-06-28
紫陽花
2020-6-27馬見丘陵公園の紫陽花b.mp4 & 紫陽花a.mp4ファイルは
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-07-01
此処では、コースの詳細に付いて改めて掲載致します。
中央駐車場に車を入れて
公園館&鉢植え
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花の道
セイヨウニンジンボク
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バラ園
バラ&アガパンサス
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夏の花が植えられて
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チャイニーズイエローバナナ
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クレマチス
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バラ園入口(中央エリア入口)
此処でUータンして
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ススキの丘へ
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ススキの丘~バラ園へ
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バラ園
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マサキ
蕾が膨らんで、咲いてる?
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菖蒲園~古墳の丘へ出て
下池ウッド橋
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下池
下池の対岸?は一本松古墳  
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乙女山古墳
桐の木の実?
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ハナモモの丘
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ハナモモの丘と乙女山古墳
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下池の向こうに二上山が見える
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公園の外に見える広陵町
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下池
ねむの木の花
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一本松古墳
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倉塚古墳&ヤマボウシ
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此処までは、
6月27日の馬見丘陵公園のアガパンサス&紫陽花ー1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。 
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-02
此処では、続きの カリヨンの丘~ についての詳細を掲載致します。
カリヨンの丘、今年はコキアが・・・
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梅林
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帆立貝型古墳
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クチナシ
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此処にもねむの木
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此処にも
クチナシ
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いにしえの丘との連絡橋(竹取公園とも接続)
ユリノキの大木
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アガパンサス
今年は少ない
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紅白のシモツケ
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ナガレ山古墳前
ハンカチの木
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溜池の亀
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紫陽花
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睡蓮池
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芝生の丘~駐車場へ
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自宅へ戻って
我が家のノウゼンカズラと琉球朝顔
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6月27日の馬見丘陵公園の紫陽花

7月1日           6月27日の馬見丘陵公園の紫陽花
               梅雨の晴れ間に紫陽花を撮る
中央駐車場に車を入れて、今日はアガパンサスを撮りに来て園内をぐるっと一回りし、
チャイニーズイエローバナナとマサキ、あわよくばねむの木の花を見てアガパンサス
を撮るコースを散策、此の日の私の万歩計は、5729歩で約3.4㎞歩いた事に・・・

梅雨の晴れ間に紫陽花を撮る 


コースの詳細に付いては、日を改めて投稿します。
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