9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-2
9月26日 9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-2
コロナ禍で今年2回目の歴史探訪の会
想定外の新型コロナ騒動で歴史探訪会も 3 月から予定していた例会が全て中止になり、
久しぶりの今回の例会はコロナ対策として、電車のラッシュを避けるため集合時間を
何時もより半時間遅らせて10時半受付、参加者は16名でした。其の他のコロナ対策は、
・各自、朝の体温が37度以下である事を確認して参加する。・マスクを着用する。
・集合場所で手の消毒をおこなう。・博物館などの建物には入らない。 等を条件とし
て実施されました。此の日の私の万歩計は、17332歩で約10.3㎞歩いたことに・・・
コースは、橿原神宮前駅西改札口前で受付 10時半
橿原神宮前駅 ~ タクシーに分乗~益田の岩船石 ~倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
~ シルクの杜・公園(昼食) ~ 千塚古墳 ~益田池堤跡 ~ 久米御縣神社~久米寺 ~
橿原神宮一之鳥居前(解散)~橿原神宮前駅~五位堂駅~バス~服部バス停
志都美駅~香芝駅
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島
大明神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1
(1172 )年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が
常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりと
いう記録がある。伝承ではその時村人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)
を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集
団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間
にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な
古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、
現在は奈良国立博物館で保管されている。
下田駅
橿原神宮前駅西口
益田の岩船石
東西約 11M、南北約 8M、高さ約 4.7M の台形状の硬質の岩で、東西の側面はほぼ垂直
に切り立っている。上部に 1 辺 1.6 メートル深さ 1.3 メートルの方形の穴が二つくり
抜かれている。岩の重さは約 500~600tと推測される。飛鳥の巨石(亀石・酒船石等)
の中でも最大の石造物で、江戸時代には観光名所として見学者も多かったようである。
岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7 世紀頃の建造と
推定される。用途として、石碑の台石説 ・ゾロアスター教徒の拝火台(松本清張作の
小説『火の路』)などあるが、最有力説は“横口式石槨”となっている。
岩船石を下山
しばらく住宅街を歩くと遠く金剛葛城山系を望む田園風景が現れた。
途中大きなお堀を有する第 28 代宣化天皇陵古墳を見る。
鳥屋(とりや)ミサンザイ古墳(宣化天皇陵 せんかてんのうりょう)
鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)は橿原市鳥屋町に所在する、墳丘長
138mの前方後円墳です。前方部を北東に向けており、県道戸毛・久米線から南にその
姿を望むことができます。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っています。これまで
に外堤の護岸工事にともなう調査などで円筒埴輪や須恵器が出土しています。それら
の遺物から6世紀前半に築造されたと考えられます。
鳥屋ミサンザイ古墳は、宣化(せんか)天皇の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかの
えのみささぎ)とされています。宣化天皇は第28代天皇で、継体(けいたい)天皇の
第二皇子です。名は武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)と
いい、新羅が任那と百済を攻撃した時には大伴狭手彦(おおとものさでいでひこ)を
派遣して防衛にあたらせた、と『日本書紀』に記されています。
※檜隈寺跡(ひのくまでらあと)於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内に石碑
於美阿志神社境内の一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひの
くまのい おりののみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にとも
ない、536年、この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓へ向かう
しばらくすると畑の先に大きな森が見えてくる。倭彦命墓だ・・・
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
一辺 85M、高さ 15M の全国最大の方墳である。『日本書紀』によれば、第 10 代崇
神天皇と皇后の御間城姫との間に生まれた皇子である。同母兄の垂仁天皇 28 年 10
月 5 日に倭彦命は薨去し、11 月 2 日にここに葬られた。
その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされ、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、
その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出した。
※垂仁天皇 32 年 7 月 6 日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、
天皇は野見宿禰の進言に従って人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とす
ることを命じ、以後これが埴輪の慣例になった。
日本における殉死に関する記録としては、「魏志倭人伝」に卑弥呼死去の際に「奴婢
百余人」の殉葬が書かれている。 豊臣秀吉、徳川秀忠、家光が亡くなった時にも元老
中や近習などが切腹したと記録にある。近年でも明治天皇が崩御された時、乃木希典
夫妻が自死、昭和天皇の際にも元軍人など数名が後を追って自死していると言う。
此処までは、
9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-25
此の続きは、新沢千塚古墳群へ向かう~
新沢千塚古墳群へ向かう
此処から新沢千塚古墳へ入る
新沢千塚古墳
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続
けました。
シルクの杜(橿原市新沢千塚公園) 昼食休憩
市民の憩いの場として、新沢千塚古墳群の中に設けられた。歴史博物館や、ジム・温泉
・プール等の他、ミニ道の駅や龍の広場等がある。
近くに有る奈良芸術短期大学の学生が、4 世紀ころの風景を壁画として描いたもの
龍の広場で昼食
新沢千塚古墳群
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続け
ました。1960 年代、古墳群全体の約 2 割にあたる約 130 基の古墳の発掘調査が行われ、
この調査によって多くの成果があがり、遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされ
た副葬品が出土した 126 号墳の調査はその代表的なものです。
調査の成果をうけ、新沢千塚は 1976 年(昭和 51)に国の史跡に指定されました。
ペルシャから渡ってきたガラス製のお椀やお皿の他、金・銀・ガラス・ひすい等の装飾
品が遺骨に着いたまま出土し一部は国の重要文化財として、東京国立博物館に展示され
ている。
美しい畝傍山を見ながら沢山の古墳が並ぶ散策路を進むと、まるでモヒカン刈りの様な
堤防跡が見えてきた。
益田池堤跡
平安時代、大和の国は水不足で人を養うだけの作物が収穫できず、821 年に空海が改修
した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れて、825 年この地に灌漑池を作った。
面積は 40 ヘクタール(0.4 平方Km)であったとされ、堤防の長さ約 200 m、幅約 30
m、高さ約 8 mであり、満水時の貯水量は 140 万tから 180 万tと推測されている。
橿原考古学研究所附属博物館には、1961 年(昭和 36 年)の川底改修の際に 2 か所で
出土した木製の樋が保存展示されており、「益田池の堤 附樋管」として、1980 年(昭
和55 年)3 月 28 日、奈良県の指定文化財の史跡に指定されている。
久米寺へ向かう
久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)
高皇産霊命・大来目命(天久米命の孫)・天櫛根命を祀る。
『五郡神社記』では「天櫛根大久米命」で一つの神名としており、『式内社調査報告』
では、元は一柱の神であったものが近世に2つに分割して伝えられたものであると考え
られるとしている。
大来目命は久米部の祖神である。一帯は久米部の居住地であった来目邑であり、その祖
神を祀ったものである。創建の由緒は不詳である。「御県神社」という神社は大和国内
に7社あり、いずれも皇室の御料地である御県(みあがた)に鎮座していたものである。
『日本書紀』垂仁天皇27年に「是歳、来目邑に屯倉を興す」という記述があり、創建も
その頃とみられる。
延喜式神名帳では「大和国高市郡 久米御縣神社三座」と記載され、小社に列格している。
ただし、延喜式祈年祝詞には他の6つの御県神社が記載されているが、当社は含まれてい
ない。久米氏の衰退とともに当社も衰微したが、隣接して久米寺が創建され、当社はそ
の鎮守社として再建された。江戸時代中期頃からは「天満宮」「天神社」と呼ばれるよ
うになった。現在も、「天満宮」「天神社」と書かれた燈籠が数多く残る。
明治初年の神仏分離により久米寺から分離され、明治中期に久米御縣神社に改称した。
久米寺
仁和寺別院真言宗の寺院である。 7 世紀後半、推古天皇の勅願により、聖徳太子の弟に
あたる来目皇子が眼病全快を感謝して建立したと伝わる。一方で、空中を飛んでいる時
に川で洗濯をする娘の太股に見とれて墜落した久米仙人によって創建されたという伝説
もある。
本尊薬師如来は眼病に効くとされる。京都仁和寺から移築された多宝塔(重要文化財)は、
桃山様式を残している。かつては大寺院だったということが、残された五重塔の礎石や
瓦からも伺い知ることができる。
久米寺~橿原神宮前に出て、橿原神宮の一之鳥居で拝礼し解散
※橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を
平定した神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、この橿原の地に宮を
建てて、初代神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社
を建てて神武天皇とその皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
を祭神として祀ったの は、わずか120年ほど前の明治23年(1890)である。
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ
のみこと)後の神武天皇が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮
から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓
に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今から
およそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、
日本の原点です。
橿原神宮前駅中央口へ向かう
橿原神宮前駅前の幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮
前駅中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご
利用を」と呼びかけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は
神武天皇が橿原宮を開いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹
都市の盟約を締結した。これを機に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島
神社(宮崎市青島)近くの青島海岸に設置され、人気を集めている「幸せの黄色
いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内で
は初めての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思い
を届けたい時ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッ
セージが・・・
橿原神宮前駅中央口
五位堂駅~バス 王寺行きに乗り帰宅
コロナ禍で今年2回目の歴史探訪の会
想定外の新型コロナ騒動で歴史探訪会も 3 月から予定していた例会が全て中止になり、
久しぶりの今回の例会はコロナ対策として、電車のラッシュを避けるため集合時間を
何時もより半時間遅らせて10時半受付、参加者は16名でした。其の他のコロナ対策は、
・各自、朝の体温が37度以下である事を確認して参加する。・マスクを着用する。
・集合場所で手の消毒をおこなう。・博物館などの建物には入らない。 等を条件とし
て実施されました。此の日の私の万歩計は、17332歩で約10.3㎞歩いたことに・・・
コースは、橿原神宮前駅西改札口前で受付 10時半
橿原神宮前駅 ~ タクシーに分乗~益田の岩船石 ~倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
~ シルクの杜・公園(昼食) ~ 千塚古墳 ~益田池堤跡 ~ 久米御縣神社~久米寺 ~
橿原神宮一之鳥居前(解散)~橿原神宮前駅~五位堂駅~バス~服部バス停
志都美駅~香芝駅
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島
大明神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1
(1172 )年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が
常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりと
いう記録がある。伝承ではその時村人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)
を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集
団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間
にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な
古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、
現在は奈良国立博物館で保管されている。
下田駅
橿原神宮前駅西口
益田の岩船石
東西約 11M、南北約 8M、高さ約 4.7M の台形状の硬質の岩で、東西の側面はほぼ垂直
に切り立っている。上部に 1 辺 1.6 メートル深さ 1.3 メートルの方形の穴が二つくり
抜かれている。岩の重さは約 500~600tと推測される。飛鳥の巨石(亀石・酒船石等)
の中でも最大の石造物で、江戸時代には観光名所として見学者も多かったようである。
岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7 世紀頃の建造と
推定される。用途として、石碑の台石説 ・ゾロアスター教徒の拝火台(松本清張作の
小説『火の路』)などあるが、最有力説は“横口式石槨”となっている。
岩船石を下山
しばらく住宅街を歩くと遠く金剛葛城山系を望む田園風景が現れた。
途中大きなお堀を有する第 28 代宣化天皇陵古墳を見る。
鳥屋(とりや)ミサンザイ古墳(宣化天皇陵 せんかてんのうりょう)
鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)は橿原市鳥屋町に所在する、墳丘長
138mの前方後円墳です。前方部を北東に向けており、県道戸毛・久米線から南にその
姿を望むことができます。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っています。これまで
に外堤の護岸工事にともなう調査などで円筒埴輪や須恵器が出土しています。それら
の遺物から6世紀前半に築造されたと考えられます。
鳥屋ミサンザイ古墳は、宣化(せんか)天皇の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかの
えのみささぎ)とされています。宣化天皇は第28代天皇で、継体(けいたい)天皇の
第二皇子です。名は武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)と
いい、新羅が任那と百済を攻撃した時には大伴狭手彦(おおとものさでいでひこ)を
派遣して防衛にあたらせた、と『日本書紀』に記されています。
※檜隈寺跡(ひのくまでらあと)於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内に石碑
於美阿志神社境内の一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひの
くまのい おりののみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にとも
ない、536年、この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓へ向かう
しばらくすると畑の先に大きな森が見えてくる。倭彦命墓だ・・・
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
一辺 85M、高さ 15M の全国最大の方墳である。『日本書紀』によれば、第 10 代崇
神天皇と皇后の御間城姫との間に生まれた皇子である。同母兄の垂仁天皇 28 年 10
月 5 日に倭彦命は薨去し、11 月 2 日にここに葬られた。
その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされ、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、
その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出した。
※垂仁天皇 32 年 7 月 6 日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、
天皇は野見宿禰の進言に従って人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とす
ることを命じ、以後これが埴輪の慣例になった。
日本における殉死に関する記録としては、「魏志倭人伝」に卑弥呼死去の際に「奴婢
百余人」の殉葬が書かれている。 豊臣秀吉、徳川秀忠、家光が亡くなった時にも元老
中や近習などが切腹したと記録にある。近年でも明治天皇が崩御された時、乃木希典
夫妻が自死、昭和天皇の際にも元軍人など数名が後を追って自死していると言う。
此処までは、
9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-25
此の続きは、新沢千塚古墳群へ向かう~
新沢千塚古墳群へ向かう
此処から新沢千塚古墳へ入る
新沢千塚古墳
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続
けました。
シルクの杜(橿原市新沢千塚公園) 昼食休憩
市民の憩いの場として、新沢千塚古墳群の中に設けられた。歴史博物館や、ジム・温泉
・プール等の他、ミニ道の駅や龍の広場等がある。
近くに有る奈良芸術短期大学の学生が、4 世紀ころの風景を壁画として描いたもの
龍の広場で昼食
新沢千塚古墳群
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続け
ました。1960 年代、古墳群全体の約 2 割にあたる約 130 基の古墳の発掘調査が行われ、
この調査によって多くの成果があがり、遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされ
た副葬品が出土した 126 号墳の調査はその代表的なものです。
調査の成果をうけ、新沢千塚は 1976 年(昭和 51)に国の史跡に指定されました。
ペルシャから渡ってきたガラス製のお椀やお皿の他、金・銀・ガラス・ひすい等の装飾
品が遺骨に着いたまま出土し一部は国の重要文化財として、東京国立博物館に展示され
ている。
美しい畝傍山を見ながら沢山の古墳が並ぶ散策路を進むと、まるでモヒカン刈りの様な
堤防跡が見えてきた。
益田池堤跡
平安時代、大和の国は水不足で人を養うだけの作物が収穫できず、821 年に空海が改修
した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れて、825 年この地に灌漑池を作った。
面積は 40 ヘクタール(0.4 平方Km)であったとされ、堤防の長さ約 200 m、幅約 30
m、高さ約 8 mであり、満水時の貯水量は 140 万tから 180 万tと推測されている。
橿原考古学研究所附属博物館には、1961 年(昭和 36 年)の川底改修の際に 2 か所で
出土した木製の樋が保存展示されており、「益田池の堤 附樋管」として、1980 年(昭
和55 年)3 月 28 日、奈良県の指定文化財の史跡に指定されている。
久米寺へ向かう
久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)
高皇産霊命・大来目命(天久米命の孫)・天櫛根命を祀る。
『五郡神社記』では「天櫛根大久米命」で一つの神名としており、『式内社調査報告』
では、元は一柱の神であったものが近世に2つに分割して伝えられたものであると考え
られるとしている。
大来目命は久米部の祖神である。一帯は久米部の居住地であった来目邑であり、その祖
神を祀ったものである。創建の由緒は不詳である。「御県神社」という神社は大和国内
に7社あり、いずれも皇室の御料地である御県(みあがた)に鎮座していたものである。
『日本書紀』垂仁天皇27年に「是歳、来目邑に屯倉を興す」という記述があり、創建も
その頃とみられる。
延喜式神名帳では「大和国高市郡 久米御縣神社三座」と記載され、小社に列格している。
ただし、延喜式祈年祝詞には他の6つの御県神社が記載されているが、当社は含まれてい
ない。久米氏の衰退とともに当社も衰微したが、隣接して久米寺が創建され、当社はそ
の鎮守社として再建された。江戸時代中期頃からは「天満宮」「天神社」と呼ばれるよ
うになった。現在も、「天満宮」「天神社」と書かれた燈籠が数多く残る。
明治初年の神仏分離により久米寺から分離され、明治中期に久米御縣神社に改称した。
久米寺
仁和寺別院真言宗の寺院である。 7 世紀後半、推古天皇の勅願により、聖徳太子の弟に
あたる来目皇子が眼病全快を感謝して建立したと伝わる。一方で、空中を飛んでいる時
に川で洗濯をする娘の太股に見とれて墜落した久米仙人によって創建されたという伝説
もある。
本尊薬師如来は眼病に効くとされる。京都仁和寺から移築された多宝塔(重要文化財)は、
桃山様式を残している。かつては大寺院だったということが、残された五重塔の礎石や
瓦からも伺い知ることができる。
久米寺~橿原神宮前に出て、橿原神宮の一之鳥居で拝礼し解散
※橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を
平定した神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、この橿原の地に宮を
建てて、初代神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社
を建てて神武天皇とその皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
を祭神として祀ったの は、わずか120年ほど前の明治23年(1890)である。
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ
のみこと)後の神武天皇が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮
から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓
に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今から
およそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、
日本の原点です。
橿原神宮前駅中央口へ向かう
橿原神宮前駅前の幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮
前駅中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご
利用を」と呼びかけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は
神武天皇が橿原宮を開いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹
都市の盟約を締結した。これを機に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島
神社(宮崎市青島)近くの青島海岸に設置され、人気を集めている「幸せの黄色
いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内で
は初めての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思い
を届けたい時ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッ
セージが・・・
橿原神宮前駅中央口
五位堂駅~バス 王寺行きに乗り帰宅
9月10日の馬見丘陵公園散策-2
9月24日 9月10日の馬見丘陵公園散策-2
2週間遅れ?此の間何をしてたんだろう?
此の日は、百日紅とダリア園の様子、彼岸花の様子、とカリヨンの丘のコキアの様子を
見る為に、雨が降る前に駆け足で公園内の目的の場所を廻る予定だったが途中から雨に
降られて傘を広げての散策になったが目的は達成したのかな・・・・
此の日の私の万歩計は、7053歩で約4.2㎞歩いた事に、最近の散歩としては長いほうだ。
公園館前の中央駐車場に車を入れて
公園館横の百日紅、花の道へ向かう
バラ園前の百日紅
バラ園の花の道は夏の花が未だ未だ・・・
チャイニーズイエローバナナ
花の道、クレマチス
北エリアへの連絡隧道は
人が多くて撮れなかった・・・
養生中のダリア園
養生中に
待ちきれずに数輪?咲いてしまってた
集いの丘へ
集いの丘
集いの丘
低木の百日紅
中央エリア
連絡隧道へ向かう
此処までは、
9月10日の馬見丘陵公園散策-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-24
此処では、続きの連絡隧道を通って中央エリアのススキの丘へ~の詳細を掲載。
中央エリアススキの丘へ
ススキの丘
バラ園~栗の木~マサキ~古墳の丘
古墳の丘~下池
下池の百日紅
下池
ウッドテラス
上池堤の彼岸花
倉塚古墳~一本松古墳
カリヨンの丘のコキア
雨の中を
森のウッド橋へ
ウッド橋を抜けて
上池と陽だまり広場
睡蓮池
芝生の丘の百日紅
公園館
2週間遅れ?此の間何をしてたんだろう?
此の日は、百日紅とダリア園の様子、彼岸花の様子、とカリヨンの丘のコキアの様子を
見る為に、雨が降る前に駆け足で公園内の目的の場所を廻る予定だったが途中から雨に
降られて傘を広げての散策になったが目的は達成したのかな・・・・
此の日の私の万歩計は、7053歩で約4.2㎞歩いた事に、最近の散歩としては長いほうだ。
公園館前の中央駐車場に車を入れて
公園館横の百日紅、花の道へ向かう
バラ園前の百日紅
バラ園の花の道は夏の花が未だ未だ・・・
チャイニーズイエローバナナ
花の道、クレマチス
北エリアへの連絡隧道は
人が多くて撮れなかった・・・
養生中のダリア園
養生中に
待ちきれずに数輪?咲いてしまってた
集いの丘へ
集いの丘
集いの丘
低木の百日紅
中央エリア
連絡隧道へ向かう
此処までは、
9月10日の馬見丘陵公園散策-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-24
此処では、続きの連絡隧道を通って中央エリアのススキの丘へ~の詳細を掲載。
中央エリアススキの丘へ
ススキの丘
バラ園~栗の木~マサキ~古墳の丘
古墳の丘~下池
下池の百日紅
下池
ウッドテラス
上池堤の彼岸花
倉塚古墳~一本松古墳
カリヨンの丘のコキア
雨の中を
森のウッド橋へ
ウッド橋を抜けて
上池と陽だまり広場
睡蓮池
芝生の丘の百日紅
公園館
回顧3)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3
9月14日 (回顧録)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3
昨年10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに
天気にも恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行く
できばえ?だった、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
☆奄美大島はこんな所です?
デイゴ
パパイア
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
アダン
サガリバナ
極楽鳥花
加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
歴史・・・興味ないかもしれないが
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。
6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
何も無い奄美空港へ到着
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
6月7日
朝飯前の名瀬港散歩
加計呂麻島へ渡る
此処までは、
6月6日~7日迄を
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此の続きは、
6月8日~13日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月8日~13日迄を
6月8日
朝めし前の砂浜散歩
6月9日
朝めし前の砂浜散歩
6月10日
朝めし前の砂浜散歩
6月11日
朝めし前の砂浜散歩
6月12日
朝めし前の砂浜散歩
6月13日
朝めし前の砂浜散歩
此処までは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-09
此処では、6月14日~の詳細を掲載します。
6月14日
朝めし前の砂浜散歩
此れは
我家の柿の木2本
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
海上タクシー
瀬相港を離れて
マグロ養殖研究所の沖に高校の実習船が・・・
もうすぐ古仁屋港
6月15日
朝飯前の古仁屋港を散歩
コーラル橋
瀬戸内海の駅
海上タクシー
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して奈良の自宅へ発送、奄美市名瀬へ向かう
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の家で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で奈良の自宅へ発送
6月16日
奄美空港
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度もやり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・
雨の伊丹空港到着
おまけ・・・パッションフルーツ
昨年10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに
天気にも恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行く
できばえ?だった、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
☆奄美大島はこんな所です?
デイゴ
パパイア
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
アダン
サガリバナ
極楽鳥花
加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
歴史・・・興味ないかもしれないが
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。
6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
何も無い奄美空港へ到着
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
6月7日
朝飯前の名瀬港散歩
加計呂麻島へ渡る
此処までは、
6月6日~7日迄を
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此の続きは、
6月8日~13日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月8日~13日迄を
6月8日
朝めし前の砂浜散歩
6月9日
朝めし前の砂浜散歩
6月10日
朝めし前の砂浜散歩
6月11日
朝めし前の砂浜散歩
6月12日
朝めし前の砂浜散歩
6月13日
朝めし前の砂浜散歩
此処までは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-09
此処では、6月14日~の詳細を掲載します。
6月14日
朝めし前の砂浜散歩
此れは
我家の柿の木2本
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
海上タクシー
瀬相港を離れて
マグロ養殖研究所の沖に高校の実習船が・・・
もうすぐ古仁屋港
6月15日
朝飯前の古仁屋港を散歩
コーラル橋
瀬戸内海の駅
海上タクシー
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して奈良の自宅へ発送、奄美市名瀬へ向かう
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の家で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で奈良の自宅へ発送
6月16日
奄美空港
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度もやり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・
雨の伊丹空港到着
おまけ・・・パッションフルーツ
回顧2)2016‐6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2
9月9日 (回顧録2)2016‐6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2
昨年は10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに天気に
も恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行くできばえ?だ
った、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
☆奄美大島はこんな所です?
デイゴ
パパイア
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
アダン
サガリバナ
極楽鳥花
加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
歴史・・・興味ないかもしれないが
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。
古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
奄美大島 加計呂麻島 2016年
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
加計呂麻島(かけろまじま)
加計呂麻島は、奄美群島内の島で、鹿児島県大島郡瀬戸内町に属する。真っ白
な砂浜とコントラストをなす青い海とが特徴的で、加計呂麻ブルーと呼ばれる。
加計呂麻島の地理
面積77.25km2で、大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合っている。また、
地形は細長く海岸線が複雑に入り組んでいるため海岸線長は147.5kmと長くな
っている。島内には小さな集落が30ヶ所程存在し、世帯数852、人口1,262人
(2017年8月末現在)。
加計呂麻島の産業
サトウキビ栽培、漁業。きび酢、黒糖焼酎の製造。観光(民宿、ペンション
など)。島内に大規模な商店はなく、島民の多くはフェリーかけろまで行け
る古仁屋港付近のスーパーマーケットでまとめ買いをする。
6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
此処までは、
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此処では
此の続きの6月8日~の分の詳細を掲載します。
6月8日
朝飯前の砂浜散歩から
釣れた魚
6月9日
朝飯前の砂浜散歩
釣れた魚、昨日と同じ魚が釣れた
6月10日
朝飯前の砂浜散歩
6月11日
朝飯前の砂浜散歩
釣れた魚・・・ヤガラ
6月12日
朝飯前の砂浜散歩・・雨が降って来たので早々に帰った
歓送迎会で残った料理
6月13日
朝めし前の砂浜散歩
此の続きは、
回顧3)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3 として
下記のメインブログへ詳細を投稿すみです。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2016-06-21
続きは、6月14日~
6月7日~14日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して発送
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の所で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で発送
6月16日
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度やり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・
昨年は10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに天気に
も恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行くできばえ?だ
った、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
☆奄美大島はこんな所です?
デイゴ
パパイア
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
アダン
サガリバナ
極楽鳥花
加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
歴史・・・興味ないかもしれないが
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。
古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
奄美大島 加計呂麻島 2016年
再生できない場合、ダウンロードは🎥こちら
加計呂麻島(かけろまじま)
加計呂麻島は、奄美群島内の島で、鹿児島県大島郡瀬戸内町に属する。真っ白
な砂浜とコントラストをなす青い海とが特徴的で、加計呂麻ブルーと呼ばれる。
加計呂麻島の地理
面積77.25km2で、大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合っている。また、
地形は細長く海岸線が複雑に入り組んでいるため海岸線長は147.5kmと長くな
っている。島内には小さな集落が30ヶ所程存在し、世帯数852、人口1,262人
(2017年8月末現在)。
加計呂麻島の産業
サトウキビ栽培、漁業。きび酢、黒糖焼酎の製造。観光(民宿、ペンション
など)。島内に大規模な商店はなく、島民の多くはフェリーかけろまで行け
る古仁屋港付近のスーパーマーケットでまとめ買いをする。
6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
此処までは、
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此処では
此の続きの6月8日~の分の詳細を掲載します。
6月8日
朝飯前の砂浜散歩から
釣れた魚
6月9日
朝飯前の砂浜散歩
釣れた魚、昨日と同じ魚が釣れた
6月10日
朝飯前の砂浜散歩
6月11日
朝飯前の砂浜散歩
釣れた魚・・・ヤガラ
6月12日
朝飯前の砂浜散歩・・雨が降って来たので早々に帰った
歓送迎会で残った料理
6月13日
朝めし前の砂浜散歩
此の続きは、
回顧3)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3 として
下記のメインブログへ詳細を投稿すみです。
https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2016-06-21
続きは、6月14日~
6月7日~14日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して発送
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の所で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で発送
6月16日
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度やり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1
9月7日 (回顧録)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1
昨年は10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに天気に
も恵まれ、考えていた作業については自己採点だが粗満足の行く出来映え?だっ
たと思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠けていた・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も有り、後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り
返しで体重増になってしまった・・・
帰阪して6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心。
※今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
☆奄美大島はこんな所です?
デイゴ
パパイア
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
アダン
サガリバナ
極楽鳥花
加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
歴史・・・興味ないかもしれないが
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。
2016年6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港へ、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達、取りあ
えず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
離陸
雲の上を奄美へ
何も無い奄美空港へ着陸
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
奄美市のホテルで迎えた朝・・・鹿児島から定期船が入港
ホテルの朝めし・バイキング
ホテル出発前・対岸の山羊島観光ホテル?
奄美南部の瀬戸内町・古仁屋港へ向けて国道58号線を・・・
月桃の花盛り
阿木名湾から嘉鉄回りでハートの見える風景を
マネン崎へ出て
マネン崎から嘉鉄集落を振り返ると・・・
古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
芝集落に到着・フェリーで義理の叔父に出会い荷物を運び一緒に車で家へ
海岸の石垣のオオイタビ、子供の頃はおやつ代りに食べてた??
我が生家に到着・前も横も裏も草が生い茂っている、畑も・・・
此の続きは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://tahara-nara-amami.blog.ss-blog.jp/2016-06-21
続きは、6月8日~
6月7日~14日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して発送
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の所で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で発送
6月16日
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度やり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバス
も阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来
てくれてた家内と娘もぐったり・・・
昨年は10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに天気に
も恵まれ、考えていた作業については自己採点だが粗満足の行く出来映え?だっ
たと思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠けていた・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も有り、後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り
返しで体重増になってしまった・・・
帰阪して6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心。
※今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
☆奄美大島はこんな所です?
デイゴ
パパイア
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
アダン
サガリバナ
極楽鳥花
加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
歴史・・・興味ないかもしれないが
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。
第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。
現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。
2016年6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港へ、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達、取りあ
えず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
離陸
雲の上を奄美へ
何も無い奄美空港へ着陸
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
奄美市のホテルで迎えた朝・・・鹿児島から定期船が入港
ホテルの朝めし・バイキング
ホテル出発前・対岸の山羊島観光ホテル?
奄美南部の瀬戸内町・古仁屋港へ向けて国道58号線を・・・
月桃の花盛り
阿木名湾から嘉鉄回りでハートの見える風景を
マネン崎へ出て
マネン崎から嘉鉄集落を振り返ると・・・
古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
芝集落に到着・フェリーで義理の叔父に出会い荷物を運び一緒に車で家へ
海岸の石垣のオオイタビ、子供の頃はおやつ代りに食べてた??
我が生家に到着・前も横も裏も草が生い茂っている、畑も・・・
此の続きは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
下記のメインブログへ詳細を投稿します。
https://tahara-nara-amami.blog.ss-blog.jp/2016-06-21
続きは、6月8日~
6月7日~14日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して発送
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の所で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で発送
6月16日
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度やり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバス
も阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来
てくれてた家内と娘もぐったり・・・
ブルーべリージャムとポテサラを作った
9月4日 ブルーべリージャムとポテサラを作った
最近は外へ出て撮り歩く機会を失い家でこんな写真を撮ったのでこんな事を・・・
今日は、ピーチの9月14日~10月4日の奄美大島帰省フライト予約をキャンセルし、
ピーチポイントで10090円返却して貰った、此れは2021年3月2日迄使用できる。
12月~1月に変更を考え、コロナ禍でも12月に帰省する事は出来ないだろうかと、
予約変更をトライしたが上手くいかず、一旦キャンセルして様子を見る事にした。
8月29日ーーーブルーベリージャムを作った
昨年8月に収穫して冷凍庫に保管してあったブルーベリー(200g×2袋=400g)に
グラニュー糖 180gでジャムを作った。
冷凍保存して有ったブルーベリー2袋
鍋に移して
グラニュー糖、4.5g×40本準備して、レモン果汁を用意
火にかける準備が整いました
初め中火で沸騰したら弱火にして
ブルーベリーをつぶしながら約10分
グラニュー糖とレモン果汁を入れて完成、冷める迄置いておく
おまけ
此の間に昼飯、和そばと冷凍ハムカツ
完成
冷めたら瓶に移して冷蔵庫へ
おまけ
奄美大島パッションフルーツ、8月産品は小振り・・・
8月産品も味と香りは一緒だ・・・
7月産品は実がぎっしり詰まってる
9月3日ーーーポテサラを作った
ポテサラの材料
人参、キュウリ、玉葱、酢玉葱、レタス、ゆで卵の他にピーナッツを入れる
じゃが芋を3ヶゆでる
ピーナッツを大量投入
ピーナッツをゆでて水切りした後フライパンで水ケを飛ばす
人参とキュウリはスライスして塩もみして水切り
レタスは粗粗1センチ角に切って水切り
生の玉葱スライスとみじん切りの酢玉葱
ゆで卵はマヨネーズで和える時に1センチ角に切って入れる
じゃが芋を1センチ角サイコロに切り潰して胡椒、唐辛子他の材料を入れて混ぜる
ゆで卵を入れてマヨネーズで和えたら完成
最近は外へ出て撮り歩く機会を失い家でこんな写真を撮ったのでこんな事を・・・
今日は、ピーチの9月14日~10月4日の奄美大島帰省フライト予約をキャンセルし、
ピーチポイントで10090円返却して貰った、此れは2021年3月2日迄使用できる。
12月~1月に変更を考え、コロナ禍でも12月に帰省する事は出来ないだろうかと、
予約変更をトライしたが上手くいかず、一旦キャンセルして様子を見る事にした。
8月29日ーーーブルーベリージャムを作った
昨年8月に収穫して冷凍庫に保管してあったブルーベリー(200g×2袋=400g)に
グラニュー糖 180gでジャムを作った。
冷凍保存して有ったブルーベリー2袋
鍋に移して
グラニュー糖、4.5g×40本準備して、レモン果汁を用意
火にかける準備が整いました
初め中火で沸騰したら弱火にして
ブルーベリーをつぶしながら約10分
グラニュー糖とレモン果汁を入れて完成、冷める迄置いておく
おまけ
此の間に昼飯、和そばと冷凍ハムカツ
完成
冷めたら瓶に移して冷蔵庫へ
おまけ
奄美大島パッションフルーツ、8月産品は小振り・・・
8月産品も味と香りは一緒だ・・・
7月産品は実がぎっしり詰まってる
9月3日ーーーポテサラを作った
ポテサラの材料
人参、キュウリ、玉葱、酢玉葱、レタス、ゆで卵の他にピーナッツを入れる
じゃが芋を3ヶゆでる
ピーナッツを大量投入
ピーナッツをゆでて水切りした後フライパンで水ケを飛ばす
人参とキュウリはスライスして塩もみして水切り
レタスは粗粗1センチ角に切って水切り
生の玉葱スライスとみじん切りの酢玉葱
ゆで卵はマヨネーズで和える時に1センチ角に切って入れる
じゃが芋を1センチ角サイコロに切り潰して胡椒、唐辛子他の材料を入れて混ぜる
ゆで卵を入れてマヨネーズで和えたら完成