SSブログ

9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-2

9月26日       9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-2
             コロナ禍で今年2回目の歴史探訪の会
想定外の新型コロナ騒動で歴史探訪会も 3 月から予定していた例会が全て中止になり、
久しぶりの今回の例会はコロナ対策として、電車のラッシュを避けるため集合時間を
何時もより半時間遅らせて10時半受付、参加者は16名でした。其の他のコロナ対策は、
・各自、朝の体温が37度以下である事を確認して参加する。・マスクを着用する。
・集合場所で手の消毒をおこなう。・博物館などの建物には入らない。 等を条件とし
て実施されました。此の日の私の万歩計は、17332歩で約10.3㎞歩いたことに・・・
コースは、橿原神宮前駅西改札口前で受付 10時半
橿原神宮前駅 ~ タクシーに分乗~益田の岩船石 ~倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
~ シルクの杜・公園(昼食) ~ 千塚古墳 ~益田池堤跡 ~ 久米御縣神社~久米寺 ~
橿原神宮一之鳥居前(解散)~橿原神宮前駅~五位堂駅~バス~服部バス停
志都美駅~香芝駅
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島
大明神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1
(1172 )年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が
常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりと
いう記録がある。伝承ではその時村人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)
を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集
団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間
にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な
古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、
現在は奈良国立博物館で保管されている。
DSC06267.JPG

下田駅
DSC06268.JPG

橿原神宮前駅西口
DSC06276.JPG
DSC06272.JPG

DSC06271.JPG
益田の岩船石
東西約 11M、南北約 8M、高さ約 4.7M の台形状の硬質の岩で、東西の側面はほぼ垂直
に切り立っている。上部に 1 辺 1.6 メートル深さ 1.3 メートルの方形の穴が二つくり
抜かれている。岩の重さは約 500~600tと推測される。飛鳥の巨石(亀石・酒船石等)
の中でも最大の石造物で、江戸時代には観光名所として見学者も多かったようである。
岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7 世紀頃の建造と
推定される。用途として、石碑の台石説 ・ゾロアスター教徒の拝火台(松本清張作の
小説『火の路』)などあるが、最有力説は“横口式石槨”となっている。
DSC06277.JPG
DSC06305.JPG
DSC06303.JPG

DSC06283.JPG

DSC06284.JPG
DSC06286.JPG

DSC06287.JPG

DSC06293.JPG
DSC06297.JPG

DSC06298.JPG
DSC06299.JPG
DSC06302.JPG
岩船石を下山
しばらく住宅街を歩くと遠く金剛葛城山系を望む田園風景が現れた。
DSC06308.JPG
DSC06309.JPG
途中大きなお堀を有する第 28 代宣化天皇陵古墳を見る。
鳥屋(とりや)ミサンザイ古墳(宣化天皇陵 せんかてんのうりょう)
鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)は橿原市鳥屋町に所在する、墳丘長
138mの前方後円墳です。前方部を北東に向けており、県道戸毛・久米線から南にその
姿を望むことができます。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っています。これまで
に外堤の護岸工事にともなう調査などで円筒埴輪や須恵器が出土しています。それら
の遺物から6世紀前半に築造されたと考えられます。
鳥屋ミサンザイ古墳は、宣化(せんか)天皇の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかの
えのみささぎ)とされています。宣化天皇は第28代天皇で、継体(けいたい)天皇の
第二皇子です。名は武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)と
いい、新羅が任那と百済を攻撃した時には大伴狭手彦(おおとものさでいでひこ)を
派遣して防衛にあたらせた、と『日本書紀』に記されています。
DSC06314.JPG
DSC06317.JPG
※檜隈寺跡(ひのくまでらあと)於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内に石碑
於美阿志神社境内の一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひの
くまのい おりののみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にとも
ない、536年、この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓へ向かう
DSC06316.JPG
DSC06318.JPG

DSC06320.JPG

しばらくすると畑の先に大きな森が見えてくる。倭彦命墓だ・・・
DSC06322.JPG
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
一辺 85M、高さ 15M の全国最大の方墳である。『日本書紀』によれば、第 10 代崇
神天皇と皇后の御間城姫との間に生まれた皇子である。同母兄の垂仁天皇 28 年 10
月 5 日に倭彦命は薨去し、11 月 2 日にここに葬られた。
その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされ、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、
その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出した。
DSC06324.JPG

DSC06327.JPG
※垂仁天皇 32 年 7 月 6 日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、
天皇は野見宿禰の進言に従って人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とす
ることを命じ、以後これが埴輪の慣例になった。
日本における殉死に関する記録としては、「魏志倭人伝」に卑弥呼死去の際に「奴婢
百余人」の殉葬が書かれている。 豊臣秀吉、徳川秀忠、家光が亡くなった時にも元老
中や近習などが切腹したと記録にある。近年でも明治天皇が崩御された時、乃木希典
夫妻が自死、昭和天皇の際にも元軍人など数名が後を追って自死していると言う。
此処までは、
9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
 https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-25
此の続きは、新沢千塚古墳群へ向かう~
新沢千塚古墳群へ向かう
DSC06328.JPG
DSC06329.JPG
DSC06330.JPG

DSC06331.JPG
DSC06332.JPG
DSC06333.JPG

此処から新沢千塚古墳へ入る
DSC06334.JPG
DSC06336.JPG
新沢千塚古墳
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続
けました。
DSC06337.JPG
DSC06338.JPG
DSC06339.JPG

DSC06340.JPG
DSC06341.JPG
DSC06342.JPG
シルクの杜(橿原市新沢千塚公園) 昼食休憩
市民の憩いの場として、新沢千塚古墳群の中に設けられた。歴史博物館や、ジム・温泉
・プール等の他、ミニ道の駅や龍の広場等がある。
DSC06343.JPG
DSC06345.JPG

近くに有る奈良芸術短期大学の学生が、4 世紀ころの風景を壁画として描いたもの
DSC06347.JPG

龍の広場で昼食
DSC06348.JPG
DSC06350.JPG
DSC06351.JPG

DSC06352.JPG
新沢千塚古墳群
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続け
ました。1960 年代、古墳群全体の約 2 割にあたる約 130 基の古墳の発掘調査が行われ、
この調査によって多くの成果があがり、遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされ
た副葬品が出土した 126 号墳の調査はその代表的なものです。
調査の成果をうけ、新沢千塚は 1976 年(昭和 51)に国の史跡に指定されました。
ペルシャから渡ってきたガラス製のお椀やお皿の他、金・銀・ガラス・ひすい等の装飾
品が遺骨に着いたまま出土し一部は国の重要文化財として、東京国立博物館に展示され
ている。
DSC06353.JPG
DSC06354.JPG
DSC06355.JPG

DSC06356.JPG
DSC06357.JPG
DSC06358.JPG

DSC06359.JPG
DSC06360.JPG
DSC06362.JPG

DSC06363.JPG
美しい畝傍山を見ながら沢山の古墳が並ぶ散策路を進むと、まるでモヒカン刈りの様な
堤防跡が見えてきた。
DSC06364.JPG
DSC06365.JPG

DSC06366.JPG
益田池堤跡
平安時代、大和の国は水不足で人を養うだけの作物が収穫できず、821 年に空海が改修
した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れて、825 年この地に灌漑池を作った。
面積は 40 ヘクタール(0.4 平方Km)であったとされ、堤防の長さ約 200 m、幅約 30
m、高さ約 8 mであり、満水時の貯水量は 140 万tから 180 万tと推測されている。
橿原考古学研究所附属博物館には、1961 年(昭和 36 年)の川底改修の際に 2 か所で
出土した木製の樋が保存展示されており、「益田池の堤 附樋管」として、1980 年(昭
和55 年)3 月 28 日、奈良県の指定文化財の史跡に指定されている。
DSC06369.JPG
DSC06370.JPG
久米寺へ向かう
久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)
高皇産霊命・大来目命(天久米命の孫)・天櫛根命を祀る。
『五郡神社記』では「天櫛根大久米命」で一つの神名としており、『式内社調査報告』
では、元は一柱の神であったものが近世に2つに分割して伝えられたものであると考え
られるとしている。
大来目命は久米部の祖神である。一帯は久米部の居住地であった来目邑であり、その祖
神を祀ったものである。創建の由緒は不詳である。「御県神社」という神社は大和国内
に7社あり、いずれも皇室の御料地である御県(みあがた)に鎮座していたものである。
『日本書紀』垂仁天皇27年に「是歳、来目邑に屯倉を興す」という記述があり、創建も
その頃とみられる。
延喜式神名帳では「大和国高市郡 久米御縣神社三座」と記載され、小社に列格している。
ただし、延喜式祈年祝詞には他の6つの御県神社が記載されているが、当社は含まれてい
ない。久米氏の衰退とともに当社も衰微したが、隣接して久米寺が創建され、当社はそ
の鎮守社として再建された。江戸時代中期頃からは「天満宮」「天神社」と呼ばれるよ
うになった。現在も、「天満宮」「天神社」と書かれた燈籠が数多く残る。
明治初年の神仏分離により久米寺から分離され、明治中期に久米御縣神社に改称した。
DSC06372.JPG
久米寺
仁和寺別院真言宗の寺院である。 7 世紀後半、推古天皇の勅願により、聖徳太子の弟に
あたる来目皇子が眼病全快を感謝して建立したと伝わる。一方で、空中を飛んでいる時
に川で洗濯をする娘の太股に見とれて墜落した久米仙人によって創建されたという伝説
もある。
本尊薬師如来は眼病に効くとされる。京都仁和寺から移築された多宝塔(重要文化財)は、
桃山様式を残している。かつては大寺院だったということが、残された五重塔の礎石や
瓦からも伺い知ることができる。
DSC06375.JPG
DSC06376.JPG
DSC06377.JPG

DSC06378.JPG
DSC06379.JPG
DSC06381.JPG

DSC06383.JPG
DSC06384.JPG
DSC06385.JPG
DSC06386.JPG
久米寺~橿原神宮前に出て、橿原神宮の一之鳥居で拝礼し解散
※橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を
平定した神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、この橿原の地に宮を
建てて、初代神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社
を建てて神武天皇とその皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
を祭神として祀ったの は、わずか120年ほど前の明治23年(1890)である。
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ
のみこと)後の神武天皇が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮
から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓
に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今から
およそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、
日本の原点です。
DSC06387.JPG
橿原神宮前駅中央口へ向かう
橿原神宮前駅前の幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮
前駅中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご
利用を」と呼びかけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は
神武天皇が橿原宮を開いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹
都市の盟約を締結した。これを機に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島
神社(宮崎市青島)近くの青島海岸に設置され、人気を集めている「幸せの黄色
いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内で
は初めての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思い
を届けたい時ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッ
セージが・・・
DSC06388.JPG

橿原神宮前駅中央口
DSC06389.JPG

五位堂駅~バス 王寺行きに乗り帰宅
DSC06390.JPG

nice!(22)  コメント(4) 

9月10日の馬見丘陵公園散策-2

9月24日         9月10日の馬見丘陵公園散策-2
           2週間遅れ?此の間何をしてたんだろう?
此の日は、百日紅とダリア園の様子、彼岸花の様子、とカリヨンの丘のコキアの様子を
見る為に、雨が降る前に駆け足で公園内の目的の場所を廻る予定だったが途中から雨に
降られて傘を広げての散策になったが目的は達成したのかな・・・・
此の日の私の万歩計は、7053歩で約4.2㎞歩いた事に、最近の散歩としては長いほうだ。
公園館前の中央駐車場に車を入れて
公園館横の百日紅、花の道へ向かう
DSC06130.JPG
DSC06131.JPG

バラ園前の百日紅
DSC06137.JPG

バラ園の花の道は夏の花が未だ未だ・・・
DSC06141.JPG
DSC06143.JPG

チャイニーズイエローバナナ
DSC06144.JPG
DSC06145.JPG
DSC06149.JPG

花の道、クレマチス
DSC06150.JPG
DSC06151.JPG

DSC06152.JPG
DSC06153.JPG
北エリアへの連絡隧道は
人が多くて撮れなかった・・・
養生中のダリア園
DSC06155.JPG
DSC06156.JPG
養生中に
待ちきれずに数輪?咲いてしまってた
DSC06157.JPG
DSC06158.JPG
DSC06159.JPG

DSC06160.JPG

集いの丘へ
DSC06161.JPG
DSC06163.JPG

集いの丘
DSC06166.JPG
集いの丘
低木の百日紅
DSC06167.JPG
DSC06169.JPG

DSC06172.JPG

DSC06175.JPG

DSC06176.JPG
DSC06177.JPG

DSC06183.JPG
DSC06184.JPG

DSC06186.JPG
DSC06187.JPG
中央エリア
連絡隧道へ向かう
DSC06189.JPG
DSC06190.JPG
此処までは、
9月10日の馬見丘陵公園散策-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-24
此処では、続きの連絡隧道を通って中央エリアのススキの丘へ~の詳細を掲載。
中央エリアススキの丘へ
DSC06191.JPG
DSC06192.JPG
DSC06193.JPG

DSC06194.JPG
DSC06196.JPG

ススキの丘
DSC06197.JPG
DSC06198.JPG
DSC06199.JPG

DSC06200.JPG
DSC06201.JPG

バラ園~栗の木~マサキ~古墳の丘
DSC06202.JPG
DSC06203.JPG

古墳の丘~下池
DSC06206.JPG
DSC06207.JPG

下池の百日紅
DSC06208.JPG
DSC06209.JPG
DSC06210.JPG

DSC06211.JPG
下池
ウッドテラス
DSC06212.JPG
DSC06213.JPG
DSC06214.JPG

上池堤の彼岸花
DSC06215.JPG
DSC06216.JPG
DSC06217.JPG

DSC06218.JPG
DSC06219.JPG
DSC06220.JPG

DSC06221.JPG
DSC06222.JPG
DSC06223.JPG

DSC06225.JPG
DSC06226.JPG

DSC06227.JPG
DSC06228.JPG
DSC06229.JPG

DSC06230.JPG

倉塚古墳~一本松古墳
DSC06231.JPG
DSC06232.JPG
DSC06233.JPG

DSC06234.JPG

カリヨンの丘のコキア
DSC06235.JPG
DSC06236.JPG
DSC06238.JPG

DSC06237.JPG
DSC06239.JPG
DSC06240.JPG

DSC06241.JPG
DSC06242.JPG
雨の中を
森のウッド橋へ
DSC06243.JPG
DSC06244.JPG
DSC06245.JPG

DSC06246.JPG
DSC06247.JPG

ウッド橋を抜けて
DSC06248.JPG

上池と陽だまり広場
DSC06250.JPG
DSC06249.JPG
DSC06251.JPG

DSC06252.JPG
DSC06253.JPG

睡蓮池
DSC06254.JPG

芝生の丘の百日紅
DSC06255.JPG
DSC06256.JPG
DSC06257.JPG

DSC06258.JPG
DSC06260.JPG

DSC06262.JPG
DSC06263.JPG

公園館
DSC06264.JPG

nice!(15)  コメント(4) 

回顧3)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3

9月14日  (回顧録)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3
        昨年10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに
天気にも恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行く
できばえ?だった、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
    ☆奄美大島はこんな所です?
PB062109.JPG

デイゴ
IMG_7664.JPG

パパイア
PB092234.JPG
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
IMG_7696.JPG

アダン
IMG_7742.JPG

サガリバナ
PA133715.JPG

極楽鳥花
PA123650.JPG

加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
PA143734.JPG

加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
PA143750.JPG
歴史・・・興味ないかもしれないが 
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。

6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
IMG_0028.JPG
IMG_0033.JPG

何も無い奄美空港へ到着
IMG_0037.JPG

6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
6月7日
朝飯前の名瀬港散歩
IMG_0041.JPG

加計呂麻島へ渡る
IMG_0061.JPG
IMG_0060.JPG
此処までは、
6月6日~7日迄を
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
        https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此の続きは、
6月8日~13日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月8日~13日迄を
6月8日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0073.JPG
IMG_0074.JPG
6月9日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0085.JPG
IMG_0084.JPG
6月10日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0086.JPG
IMG_0090.JPG
IMG_0093.JPG
6月11日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0094.JPG
IMG_0096.JPG
6月12日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0098.JPG
6月13日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0115.JPG
IMG_0116.JPG
此処までは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
        https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-09  
此処では、6月14日~の詳細を掲載します。
6月14日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0119.JPG
IMG_0120.JPG
IMG_0121.JPG
IMG_0122.JPG
IMG_0124.JPG
IMG_0125.JPG
IMG_0126.JPG
IMG_0132.JPG
IMG_0131.JPG
IMG_0135.JPG
IMG_0137.JPG
IMG_0138.JPG
此れは
我家の柿の木2本
IMG_0139.JPG
IMG_0140.JPG

6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
IMG_0145.JPG
IMG_0148.JPG
IMG_0149.JPG

海上タクシー
IMG_0152.JPG
IMG_0155.JPG

瀬相港を離れて
IMG_0158.JPG

マグロ養殖研究所の沖に高校の実習船が・・・
IMG_0162.JPG
IMG_0167.JPG

もうすぐ古仁屋港
IMG_0169.JPG
IMG_0174.JPG
6月15日
朝飯前の古仁屋港を散歩
IMG_0176.JPG
IMG_0177.JPG
IMG_0179.JPG

 コーラル橋
IMG_0180.JPG
IMG_0181.JPG
IMG_0182.JPG
IMG_0186.JPG
IMG_0188.JPG
IMG_0189.JPG
IMG_0190.JPG

瀬戸内海の駅
IMG_0193.JPG
IMG_0196.JPG
IMG_0197.JPG
IMG_0199.JPG
IMG_0200.JPG
IMG_0201.JPG
IMG_0204.JPG

海上タクシー
IMG_0206.JPG
IMG_0207.JPG
IMG_0208.JPG
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して奈良の自宅へ発送、奄美市名瀬へ向かう
IMG_0209.JPG
IMG_0210.JPG
IMG_0211.JPG
IMG_0212.JPG
IMG_0215.JPG
IMG_0216.JPG
IMG_0217.JPG
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の家で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で奈良の自宅へ発送
6月16日
奄美空港
IMG_0220.JPG
IMG_0221.JPG
IMG_0222.JPG
IMG_0225.JPG
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度もやり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・
雨の伊丹空港到着
IMG_0226.JPG

おまけ・・・パッションフルーツ
IMG_0228.JPG

nice!(19)  コメント(4) 

回顧2)2016‐6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2

9月9日 (回顧録2)2016‐6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2
      昨年は10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに天気に
も恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行くできばえ?だ
った、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
    ☆奄美大島はこんな所です?
PB062111.JPG
PB062109.JPG

デイゴ
IMG_7664.JPG
IMG_7734.JPG

パパイア
IMG_7687.JPG
PB092234.JPG
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
IMG_7696.JPG

アダン
IMG_7742.JPG
IMG_7828.JPG

サガリバナ
PA133715.JPG

極楽鳥花
PA123650.JPG

加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
PA143734.JPG

加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
PA143750.JPG
歴史・・・興味ないかもしれないが 
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。

古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
IMG_0060.JPG
IMG_0061.JPG

古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
IMG_0062.JPG
 
奄美大島 加計呂麻島 2016年

加計呂麻島(かけろまじま)
加計呂麻島は、奄美群島内の島で、鹿児島県大島郡瀬戸内町に属する。真っ白
な砂浜とコントラストをなす青い海とが特徴的で、加計呂麻ブルーと呼ばれる。
加計呂麻島の地理
面積77.25km2で、大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合っている。また、
地形は細長く海岸線が複雑に入り組んでいるため海岸線長は147.5kmと長くな
っている。島内には小さな集落が30ヶ所程存在し、世帯数852、人口1,262人
(2017年8月末現在)。
加計呂麻島の産業
サトウキビ栽培、漁業。きび酢、黒糖焼酎の製造。観光(民宿、ペンション
など)。島内に大規模な商店はなく、島民の多くはフェリーかけろまで行け
る古仁屋港付近のスーパーマーケットでまとめ買いをする。
6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ

此処までは、
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿済です。  
        https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此処では
此の続きの6月8日~の分の詳細を掲載します。
6月8日
朝飯前の砂浜散歩から
IMG_0073.JPG
IMG_0074.JPG
IMG_0075.JPG
IMG_0076.JPG

  釣れた魚
IMG_0077.JPG
IMG_0078.JPG
IMG_0079.JPG
IMG_0080.JPG
6月9日
朝飯前の砂浜散歩
IMG_0081.JPG
IMG_0082.JPG
IMG_0083.JPG
IMG_0084.JPG
IMG_0085.JPG

   釣れた魚、昨日と同じ魚が釣れた
160609_0551~01.jpg

6月10日
朝飯前の砂浜散歩
IMG_0086.JPG
IMG_0087.JPG
IMG_0088.JPG
IMG_0089.JPG
IMG_0090.JPG
IMG_0091.JPG
IMG_0092.JPG
IMG_0093.JPG
6月11日
朝飯前の砂浜散歩
IMG_0094.JPG
IMG_0095.JPG
IMG_0096.JPG

  釣れた魚・・・ヤガラ
IMG_0097.JPG
6月12日
朝飯前の砂浜散歩・・雨が降って来たので早々に帰った
IMG_0098.JPG
IMG_0099.JPG
IMG_0100.JPG

  歓送迎会で残った料理
IMG_0112.JPG
IMG_0113.JPG
6月13日
朝めし前の砂浜散歩
IMG_0114.JPG
IMG_0115.JPG
IMG_0116.JPG
IMG_0117.JPG
IMG_0118.JPG
此の続きは、
回顧3)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿すみです。
       https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2016-06-21
続きは、6月14日~
6月7日~14日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して発送
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の所で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で発送
6月16日
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度やり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・

nice!(24)  コメント(2) 

回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1

9月7日 (回顧録)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1
      昨年は10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに天気に
も恵まれ、考えていた作業については自己採点だが粗満足の行く出来映え?だっ
たと思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠けていた・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も有り、後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り
返しで体重増になってしまった・・・
帰阪して6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心。
※今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
    ☆奄美大島はこんな所です?
PB062111.JPG
PB062109.JPG

デイゴ
IMG_7664.JPG
IMG_7734.JPG

パパイア
IMG_7687.JPG
PB092234.JPG
瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
IMG_7696.JPG

アダン
IMG_7742.JPG
IMG_7828.JPG

サガリバナ
PA133715.JPG

極楽鳥花
PA123650.JPG

加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
PA143734.JPG

加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
PA143750.JPG
歴史・・・興味ないかもしれないが 
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。

2016年6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港へ、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達、取りあ
えず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
IMG_0027.JPG
IMG_0028.JPG
IMG_0029.JPG
IMG_0030.JPG
IMG_0031.JPG

   離陸
IMG_0032.JPG
IMG_0033.JPG

   雲の上を奄美へ
IMG_0034.JPG

   何も無い奄美空港へ着陸
IMG_0035.JPGIMG_0036.JPGIMG_0037.JPG
6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
奄美市のホテルで迎えた朝・・・鹿児島から定期船が入港
IMG_0038.JPG
IMG_0039.JPG
IMG_0040.JPG
IMG_0041.JPG
IMG_0042.JPG

  ホテルの朝めし・バイキング
IMG_0043.JPG 

  ホテル出発前・対岸の山羊島観光ホテル?
IMG_0046.JPG

奄美南部の瀬戸内町・古仁屋港へ向けて国道58号線を・・・
月桃の花盛り
IMG_0048.JPG
IMG_0049.JPG

  阿木名湾から嘉鉄回りでハートの見える風景を
IMG_0050.JPG
IMG_0052.JPG
IMG_0053.JPG
IMG_0054.JPG
IMG_0055.JPG

  マネン崎へ出て
IMG_0056.JPG
IMG_0057.JPG
IMG_0058.JPG

  マネン崎から嘉鉄集落を振り返ると・・・
IMG_0059.JPG

  古仁屋港到着・マグロ養殖日本一の町 瀬戸内町
IMG_0060.JPG
IMG_0061.JPG

  古仁屋港~加計呂麻島 瀬相港へ渡る
IMG_0062.JPG
IMG_0063.JPG
IMG_0064.JPG
IMG_0065.JPG
IMG_0066.JPG    

  芝集落に到着・フェリーで義理の叔父に出会い荷物を運び一緒に車で家へ
IMG_0067.JPG

  海岸の石垣のオオイタビ、子供の頃はおやつ代りに食べてた??
IMG_0068.JPG

  我が生家に到着・前も横も裏も草が生い茂っている、畑も・・・
IMG_0069.JPG
IMG_0070.JPG
IMG_0071.JPG
IMG_0072.JPG

此の続きは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://tahara-nara-amami.blog.ss-blog.jp/2016-06-21
続きは、6月8日~
6月7日~14日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して発送
瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の所で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で発送
6月16日
奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度やり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバス
も阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来
てくれてた家内と娘もぐったり・・・

nice!(24)  コメント(6) 

ブルーべリージャムとポテサラを作った

9月4日       ブルーべリージャムとポテサラを作った
最近は外へ出て撮り歩く機会を失い家でこんな写真を撮ったのでこんな事を・・・
今日は、ピーチの9月14日~10月4日の奄美大島帰省フライト予約をキャンセルし、
ピーチポイントで10090円返却して貰った、此れは2021年3月2日迄使用できる。
12月~1月に変更を考え、コロナ禍でも12月に帰省する事は出来ないだろうかと、
予約変更をトライしたが上手くいかず、一旦キャンセルして様子を見る事にした。

8月29日ーーーブルーベリージャムを作った
昨年8月に収穫して冷凍庫に保管してあったブルーベリー(200g×2袋=400g)に
グラニュー糖 180gでジャムを作った。
冷凍保存して有ったブルーベリー2袋
DSC06102.JPG

鍋に移して
DSC06103.JPG
DSC06104.JPG

グラニュー糖、4.5g×40本準備して、レモン果汁を用意
DSC06105.JPG
DSC06107.JPG

火にかける準備が整いました
DSC06106.JPG

初め中火で沸騰したら弱火にして
DSC06109.JPG
DSC06110.JPG
DSC06111.JPG
ブルーベリーをつぶしながら約10分
グラニュー糖とレモン果汁を入れて完成、冷める迄置いておく
DSC06112.JPG
DSC06113.JPG
おまけ
此の間に昼飯、和そばと冷凍ハムカツ
DSC06115.JPG
完成
冷めたら瓶に移して冷蔵庫へ
DSC06116.JPG
DSC06117.JPG
DSC06118.JPG
おまけ
奄美大島パッションフルーツ、8月産品は小振り・・・
8月産品も味と香りは一緒だ・・・
DSC06119.JPG

7月産品は実がぎっしり詰まってる
DSC05468.JPG

9月3日ーーーポテサラを作った
ポテサラの材料
人参、キュウリ、玉葱、酢玉葱、レタス、ゆで卵の他にピーナッツを入れる
DSC06121.JPG

じゃが芋を3ヶゆでる
DSC06122.JPG
ピーナッツを大量投入
ピーナッツをゆでて水切りした後フライパンで水ケを飛ばす
DSC06123.JPG

人参とキュウリはスライスして塩もみして水切り
DSC06125.JPG

レタスは粗粗1センチ角に切って水切り
DSC06124.JPG

生の玉葱スライスとみじん切りの酢玉葱
DSC06126.JPG

ゆで卵はマヨネーズで和える時に1センチ角に切って入れる
DSC06127.JPG

じゃが芋を1センチ角サイコロに切り潰して胡椒、唐辛子他の材料を入れて混ぜる
ゆで卵を入れてマヨネーズで和えたら完成
DSC06128.JPG

nice!(34)  コメント(7) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。