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12月21日の近畿大学医学部奈良病院往復

12月23日       12月21日の近畿大学医学部奈良病院往復
              電車バスで行って見る?
今年の五月から生駒市の近畿大学医学部奈良病院(近大奈良病院)へ通う家内だが
此れ迄は、私の運転する車で通うので何も問題無いが、冬場の雪道を想定して家内
の心配性が高じて雪道イコール車は駄目だとして、雪の心配な冬場は電車とバスで
通うと言う想いで、電車バスで一度行って見たい、と言い出し電車バスで行って見
る事にした。此の日の私の万歩計は、6542歩で約3.9㎞歩いた事に・・・・
自宅からバスで王寺駅へ出て、近鉄生駒線王寺駅~東山駅、東山駅からバスで病院
へ行くルートで、帰りは天気良かったので病院から東山駅へブラブラ歩いて。。。
8時に家を出てバスの停留所へ
バスは5分遅れで待たされた。。。
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バス停~近鉄王寺駅迄はエスカレータ、エレベータが有り問題無し
近鉄生駒線王寺駅~東山駅へ

近鉄生駒線東山駅
エスカレータ、エレベータが有り問題無し
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近大奈良病院行きのバスが有り問題無し
近大奈良病院へ向かう
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近大奈良病院到着
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近大奈良病院
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近大奈良病院を出発
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遠回りだが天気良いので
バスで通って来た道を歩いて東山駅へ向かう
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少しだけ登り道が続く
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此処からはずーっと下り道
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信貴山が見える
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東山駅前のバス停留所
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近鉄生駒線東山駅
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駅前の看板
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駅舎内
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東山駅~王寺駅へ

王寺駅前バス停~五位堂駅行きのバスで下牧へ
下牧のバス停から高速道路の裏道を歩いて
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西名阪自動車道の隧道を抜けて
自宅へ向かう
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我が家の紅葉も此れで終わりに
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11月26日の馬見丘陵公園を撮り歩きー2

12月4日          11月26日の馬見丘陵公園を撮り歩きー2
               通院日の午後GSへ行って帰り
此の日はかかりつけの内科と眼科で検診を予約して有ったが、順調に早めに終わった
ので午前中は家内の買い物に付き合い、午後の空いてる時間帯に給油にGSへ廻り其の
帰りに馬見丘陵公園を14:30~16:00迄撮り歩き最後の紅葉?と皇帝ダリアを撮って
帰った。此の日の私の万歩計は、9379歩で約5.6㎞歩いた事に・・・駆け足で疲れた?
中央駐車場に車を入れて
公園館
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結いの広場を通って
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陽だまり広場を通り
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上池
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森のウッドテラスへ
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森のウッドテラス・カエルが出迎え
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上池
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狐塚古墳
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梅林~カリヨンの丘のコキア(ほうき草)
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カリヨンの丘から見る倉塚古墳
倉塚古墳
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下池
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古墳の丘
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下池
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古墳の丘
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バラ園へ向かう
山茶花が咲き出した
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マサキ
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バラ園・ベコニヤ
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バラ園~ススキの丘
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花の道
チャイニーズイエローバナナ冬支度
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連絡隧道を通って北エリア
ダリア園の皇帝ダリアが真っ盛りだが日陰に・・・
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此処までは、
11月26日の馬見丘陵公園を撮り歩きー1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
     https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-12-03-1
此処では、続きの 集いの丘麓~ についての詳細を掲載します。
集いの丘麓
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花笑み橋周辺の皇帝ダリア、此処は未だ日向だ!
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集いの丘麓の紅葉
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集いの丘
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連絡隧道を通り公園館へ向かう
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古墳の丘裏側の登り口
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公園館前の風船唐綿
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11月21日の古代ロマン・キトラ古墳を訪ねて-2

12月1日        11月21日の古代ロマン・キトラ古墳を訪ねて-2
                  近鉄ハイキング
知人のK場さんとI 田さんと3名で近鉄ハイキングに参加、下記の飛鳥駅~壺阪山駅へ
歩いて来ました、此の日の私の万歩計は、18575歩で約11.1㎞歩いた事に・・・
コース
飛鳥駅~猿石~鬼の雪隠・鬼の俎板~亀石~中尾山古墳前~高松塚古墳~文武天皇陵~
キトラ古墳四神の館・キトラ古墳~壺阪山駅  歩程7㎞コース

実際は、少しコースを変えて
飛鳥駅~みみなほし地蔵~欽明天皇陵~吉備姫王(猿石)~鬼の雪隠~天武・持統天皇
陵~中尾山古墳前~高松塚壁画館・高松塚古墳~文武天皇陵~キトラ古墳周辺・檜隈寺
前案内所で昼食休憩~於美阿志神社(檜隈寺跡)~キトラ古墳四神の館~キトラ古墳~
子嶋寺~土佐街道~光永寺~壺阪山駅  他のハイカーに殆ど出会わない良いコース?
志都美駅~香芝駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神
(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に
源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)
(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその
時村人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮
座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独
特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさ
ん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃも
んじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で
保管されている。
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下田駅~大和八木駅~橿原神宮前駅~飛鳥駅
飛鳥駅
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みみなほし地蔵へ向かう
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みみなほし地蔵
平田集落にある「みみなほし地蔵」
此のみみなほし地蔵には「キリ」が多数奉納され、キリで穴が開けられる様に耳が
通り聞こえる様になる?というおまじないの様です。
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※朝風峠の地蔵さんと平田集落の地蔵さん
以前、朝風峠でガイドさんに下記の伝説を聞いた事が有ります。
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けているのは、
「朝風地蔵」と平田集落にある「みみなほし地蔵」が争って、片方の「朝風地蔵」
は肩を取られ、片方の「耳なほし地蔵」は耳を取られた。というおもしろい言い
伝えがあるそうです。

欽明天皇陵~吉備姫王(猿石)
欽明天皇陵・・・欽明天皇(きんめいてんのう)第29代天皇
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年
5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明
天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひ
ろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのす
めらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
継体天皇と手白香皇女との間の息子である。父親の継体天皇は第15代応神天皇から
分かれた傍系の出自であった。このため、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え
入れ、権力基盤が確保された経緯があった。従って、継体天皇は即位までの妃との間
に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とさ
れた。宣化天皇の妃が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中
継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)
に即位し欽明天皇となった。欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった。
天皇が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化
天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、さら
に欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外と
するこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。
大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇
元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に
蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇
崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族で
ある、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛
期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
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吉備姫王墓(猿石)
飛鳥の猿石とは、明日香村平田にある吉備姫王墓(きびつひめのおおきみのはか)の
域内に据えられている4体の石造物のことを云う。吉備姫王は、欽明天皇の皇子の桜
井皇子の娘で、押坂彦人大兄皇子の子の茅渟王(ちぬのみこ)と結婚し、宝皇女(皇
極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を出産された。後の天智天皇や天武天皇には
祖母にあたる皇女である。
墓そのものに対する興味よりも、柵の内側に並べられた4体の石造物を見に来る。
これらの高さ1m前後の石造物は、それぞれ僧、男性、女性、山王権現の名で呼ばれ
ているが、何故か「猿石」と総称されている。
これらの石造物は、もともとは欽明天皇陵の前方部の南側に一列に並べられていたら
しい。江戸時代の元禄年間に欽明天皇陵の南の田んぼから掘り出され、現在の場所に
置かれたとのことだ。 誰が何のために作ったのかは謎とされ、これまでさまざまな説
が出されてきた。その一つは、邪悪なものの侵入から欽明天皇陵を守るために造られ
たものであるという。韓国の弥勒寺跡には、石塔の四隅に飛鳥の猿石と似たような石
造物が置かれているとそうだ。
「大和名勝志」という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あっ
たことが記されている。その1体を土佐の大円寺に移されたとのことだ。現在、高取町
の光永寺の庭には、人頭石(顔石)が置かれている。これがもう一体の猿石のようだ。
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鬼の雪隠へ向かう
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鬼の雪隠
鬼の俎(おにのまないた)と鬼の雪隠(おにのせっちん)
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」
がある。両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったも
のが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。元々は繰り抜かれた
横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。
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天武・持統天皇陵へ向かう
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天武・持統天皇陵
天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓。 直径50m、高さ6.36m。
円墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。
天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。また、持統
天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。鎌倉時代に盗堀された時
の記録が残されていたことから、被葬者が確実となった。
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※天武天皇
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子にとっては両親を
同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位
した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その
治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多
い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇
の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天
武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、
自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編す
るとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい
都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に
完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本
土着の伝統文化の形成に力があった。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最
初の天皇とも言われる。

※持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉- 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)
は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日
〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。
大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立て
られた。
『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事に
ついて助言した。
679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津
皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人
は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。
続いて皇后も皇子らを抱擁した。
681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始
め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少
者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。
685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高
めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太
子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。

中尾山古墳前へ向かう
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中尾山古墳前
中尾山古墳・・・2020年11月26日のNHKWebニュース
明日香村教育委員会がおよそ40年前に発掘調査された古墳を世界遺産への登録に向
けて改めて調査したところ、全長がこれまでよりも3メートルほど大きくなることが
分かりました。古墳の正確な大きさが分かったことについて、村の教育委員会は「世
界遺産の登録に向けた大きな一歩」としています。
明日香村の中尾山古墳は、村が46年前に行った発掘調査などで8世紀初めに作られ
たことや土を盛った墳丘が飛鳥時代の天皇の墓に特徴的な八角形をしていたことがす
でに分かっています。
明日香村や橿原市などは「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、20ある遺
跡などを世界遺産に登録することを目指していますが、中尾山古墳を構成資産に含め
るためには、古墳の大きさを確定させることなどが必要なことから、村の教育委員会
は改めて発掘調査を行いました。
その結果、墳丘の周囲から新たに石敷きが見つかり、古墳の大きさがこれまでよりも
3メートルほど長い32メートル以上になることが分かったということです。
明日香村教育委員会の西光慎治調整員は、「今回、古墳として分かった場所を史跡と
して追加で申請すれば、必要な保護措置をとることができる。世界遺産の登録に向け
て大きな一歩となる」と話しています。
今回の調査現場は、今月28日と29日の2日間、一般公開されます。

2020年11月28日 読売新聞オンラインニュース
文武天皇陵であることが発掘調査で確定的となった奈良県明日香村の中尾山古墳(8
世紀初め)で28日、現地見学会が開かれ、多くの古代史ファンが訪れた。
 古墳は1974年に発掘された天皇陵に特徴的な八角墳。新たな調査で、墳丘の外
周に3重に石が敷き詰められていたことなどがわかり、造りと年代から被葬者が文武
天皇(683~707年)であることがほぼ確実となった。
見学会は29日も午前10時~午後3時に行われる。

此れ迄の中尾山古墳は
中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字平田に所在する終末
期の八角墳である。
本古墳の立地は、古代には檜隈(ひのくま)と呼ばれたところで、尾根の最高所に位
置する。北に天武・持統天皇陵があり、南に文武天皇陵や高松塚古墳が見えるところ
にある。
本古墳の八角形の墳形、五段の墳丘を天皇の高御座(たかみくら)の形と似ていると
の見方がある。また、何故八角形が採用されたのかについて2説ある。1つは仏教の影
響で、8世紀代の供養堂として八角円堂を真似たものであるという説。2つ目は中国の
思想的背景をもって造られた古墳として被葬者を特定できるのではないかと考えられ
ている。
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高松塚壁画館へ向かう
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高松塚壁画館・高松塚古墳
※高松塚壁画館・・・此の日は入らなかったが
館内には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、
棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡な
どのレプリカを展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現。
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高松塚古墳
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)
に存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m
(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が
発見されたことで一躍注目されるようになった。2009年に本来の形状に復元され、
一般に公開されている。壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、
切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、
四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍
とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子
群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像
はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画
発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介
され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観儀
式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀
の儀式には日月・四神の幡も立てられる。奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天
井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可
能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。天井画は、円形の金箔で
星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星
と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古
代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。
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休憩所へ向かう
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此処までは、
11月21日の古代ロマン・キトラ古墳を訪ねて-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-12-01-1
此処では、続きの 休憩所~文武天皇陵についての詳細を掲載します。
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18
日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4
年6月15日(707年7月18日))。天武天皇と持統天皇の孫。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)の
もとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月
18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶
雲4年6月15日(707年7月18日))。草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)
の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。
父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく
「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子
以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。父・草壁が持統天皇3年4月13日
(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には伯父にあたる
高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子。文武天皇元年8月
1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月
7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて
太上天皇を称し後見役についた。
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キトラ古墳周辺・檜隈寺前案内所へ向かう
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キトラ古墳周辺・檜隈寺前案内所で昼食休憩
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檜隈寺跡(ひのくまでらあと)
『檜隈寺跡』(ひのくまでらあと)は、7世紀ごろ、古代の渡来系豪族「東漢」(や
まとのあや)一族の中心氏族であった檜隈氏が、その祖と伝わる「阿智使主」(あ
ちのおみ)を祀った寺院があった場所です。1907年、この地に『於美阿志神社』
(おみあしじんじゃ)が移転し、現在の形となりました。
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於美阿志神社(檜隈寺跡)
於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内の石碑
この一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひのくまのい おり
のみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にともない、536年、
この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。短い間でした
が、当時の日本の中心だったとされる場所に当たり、境内に石碑が建っています。
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於美阿志神社(檜隈寺跡)~キトラ古墳壁画体験館四神の館へ向かう
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キトラ古墳壁画体験館四神の館
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キトラ古墳
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。石室
の天井には本格的天文図が、壁には四つの方位を守る神とされる四神や十二支の美しい
絵が描かれています。飛鳥歴史公園内キトラ古墳周辺地区の南に位置しています。 名前
の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳
の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明
日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつか
さどる虎(白虎)から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。
キトラ古墳は7世紀末〜8世紀初め頃に造られたと推測されています。古墳時代と呼ばれ
る時代の終わり頃です。
壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたものです。本格的な天文
図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが確認されている、学術
上、価値の高い文化財です。天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の科学的な天文
図です。天の赤道や太陽の通り道である黄道が描かれ、大きな呪術的力を持つとされた北
斗七星をはじめとする中国式の星座が配置されています。太陽と月も描かれています。高
松塚古墳壁画発見の直後、付近の住民から「近くに似たような古墳がある」と知らされ、
これがキトラ古墳の発掘調査に繋がる糸口となりました。1983(昭和58)年にファイバ
ースコープによる探査が行われ、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見。15年後の19
98(平成10)年、上下左右に向きを変えるCCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を
発見しました。そして2001(平成13)年の調査ではデジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を
確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
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子嶋寺
子嶋寺の歴史は天平宝字4年(760)に孝謙天皇の勅願により、報恩法師が建立した事に
始まります。あるいは桓武天皇が子嶋山寺を建立したという記録も残されており、諸説
紛々としています。さらに永観元年(983)に、興福寺から来寺した真興が観覚寺を建て、
真言宗小嶋流を起こして隆盛を極めたと伝えられます。そこから時代は下り、戦国時代
の兵火に見舞われ、子嶋寺は衰退の一途を辿ることになります。天正年間(1573~1597
)に入り、高取城主の本多氏が寺を再興し千寿院と名付けます。更に明治以降には表門
の再建が行われ、寺の名前も子嶋寺と改められて今日に至ります。高取城主の本多氏や
植村氏の厚い庇護を受けたことが、今の子嶋寺へと繋がる布石になったようです。子嶋寺
には弘法大師を通じて嵯峨天皇に献上された国宝が伝わります。胎蔵界と金剛界の二つ
の世界が、金泥・銀泥を使って荘厳に描かれた紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(こんあやじ
きんぎんでいえりょうかいまんだらず)。その由来は2800年前のインドにまで遡り、中
国を経て弘法大師の手に渡ります。嵯峨天皇に献上された後は、200年近くも宮中の本
尊とされていました。一条天皇の御代になり、天皇の病気平癒を祈願した真興(しんごう
)に褒美として与えられ、子嶋寺の宝物として伝わります。
現在の子嶋寺の山門は、高取城の二の門が移築されたものです。日本三大山城の一つに
数えられる高取城。美濃岩村城、備中松山城と共に我が国の三大山城に名を連ねる大和
高取城の遺構を、ここ子嶋寺の山門に見ることができます。現存する高取城の唯一の遺
構と言われる。
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土佐街道~光永寺へ向かう
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土佐街道
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土佐街道~光永寺
※光永寺の人頭石・・・2015年3月7日に撮影のもの
「大和名勝志」という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あっ
たことが記されている。その1体を土佐の大円寺に移されたとのことだ。現在、高取町
の光永寺の庭には、人頭石(顔石)が置かれている。これがもう一体の猿石のようだ。
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土佐街道
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壺阪山駅~五位堂駅
五位堂駅&二上山
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