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12月20日の堺市大浜公園・蘇鉄山~旧堺港巡り-2

12月23日    12月20日の堺市大浜公園・蘇鉄山~旧堺港巡り-2
             昼飲み会ハイキング 6㎞
此の日の参加者は・K場さん・S藤さん・Y本さん・R得さん・M村さんと私の
6名で初の湊駅集合。ハイキング日和の中、ワイワイガヤガヤ話が弾み・・・
コースは  南海 湊駅(10:10分集合・スタート) 
南海 湊駅(10:10分)~船待神社御旅所・飛行場跡碑~大浜公園・蘇鉄山
・相撲場~旧堺灯台・旧堺港(龍女神像は眺めるだけ)~ルソン助左衛門像
~大浜公園(昼食)~神明神社(蘇鉄山登頂証明貰う)~南海堺駅(ゴール)
※ショートカットで 天誅組義士上陸之碑・酒井事件碑~南蛮橋を通らず。
志都美駅
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湊駅をスタート
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出島漁港&ヨットハーバー
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船待神社御旅所
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魚貝海虫慰霊碑
船待神社御旅所付近にある碑。 大阪府に面した大阪湾の埋め立てに伴い、それ
まで住んでいた生物の犠牲・供養を目的に建立された。
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民間航空輸送発祥の地之碑
船待神社御旅所付近にある碑。1922年、日本の民間航空輸送会社として初めて
日本航空輸送研究所が設立された。 設立には、徳島県出身のタクシー会社経営
の井上長一氏が携わった。 日本航空輸送研究所は、堺市の大浜水上飛行場を拠
点とした。 小松島、高松、大分、白浜など全国各地を結び、乗客・貨物・郵便
の輸送業務を行っていた。 海軍から払い下げられた横廠式イ号甲型水上練習機、
一四式水上偵察機、愛知AB-4飛行艇、スーパーマリン サザンプトンなどを
運用し、「空飛ぶホテル」として人気を集めた。 後に、拠点を大阪市大正区の
木津川河口の木津川飛行場に移転させた。
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大阪府・堺大浜飛行場跡地
大浜飛行場があった所、今は漁港とヨットハーバーになっている。(南海本線
湊駅から西へ800m)(出島漁港に民間航空輸送発祥之地の碑がある)
戦時国策のため閉鎖された民間航空輸送のさきがけ大浜水上飛行場跡
大正11年から始まって昭和14年に閉鎖されるまで18年間に、堺および大阪
と徳島・高松・今治・大分との間や白浜への延べ飛行距離は249万キロメートル、
旅客2万5千人のほか、郵便・貨物を運んだ、日本の民間航空輸送の発祥地であ
る。第一次世界大戦で飛行機が兵器として有効性が認められ急速に発達するが、
国内でも、明治43年、軍人の日野・徳川両大尉による代々木練兵場での初飛行
に示されるように軍用飛行としてスタートする。これに対してあくまで民間の人、
もの、情報を運ぶ「平和利用」としてパイオニア的に開設されたのが、大浜海岸
を利用した水上機と飛行艇による航空事業であった。「征空野武士」ともいわれ
た徳島出身の井上長一氏によって「日本航空輸送研究所」という名称の会社が設
立され、数度の風水害や事故をのりこえて、閉鎖される3年前に導入した双発の
スーパーマリン・サザンプトン飛行艇(19人乗り)はキリン号と名付けられ、
大きな座席、明るい窓、エアガールによるサービス、ビール提供の「空飛ぶホテ
ル」として関西から四国・九州方面の利用客から人気を博した。さらに当時とし
てはジャンボ機にたとえられてもよい50人乗りの大飛行艇を導入し、大発展を
期していた矢先の閉鎖を余儀なくされる。それは、昭和6年の「満州事変」、同
12年の日中戦争、そして近づく太平洋戦争へ、すべてが戦争遂行のため、国策
の大日本航空株式会社へ吸収されたからである。この時、井上長一氏は無念の気
持ちを国にかなり遠慮しながらも「18年の光栄ある日本航空輸送研究所の無に
帰することは愛児を葬る日のごとき惜別の情がひしひしと胸底を往復し、一抹の
悲哀は事業の終末の挽歌と思える。」と述べている。最近まで残っていた格納庫
は新しい市の消防本部庁舎が建ち、痕跡はなくなった。ただ出島漁港の西側の船
待神社お旅所の片隅に、海に向かって高さ1.8mの自然石の記念碑と航空事業
の犠牲になった、飛行士、機関士、整備士らの銘板が残されている。
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出島漁港
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大浜公園
明治36年内国勧業博覧会場にもなった最古の市営公園。水族館・公会堂・潮湯・
海水浴場などの当時のレジャー地は、現在では野球場・プール・体育館・相撲場
などになっています。7月開催の「堺大魚夜市」は有名。
明治12年に海浜公園として誕生し有名になった堺市営で最も古い公園です。明治
36年には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、堺水族館が設置さ
れ世界に誇る東洋一の水族館とはやされました。他にも公会堂、潮湯、海水浴場、
料理旅館や土産物屋などが軒を連ね当時は堺のレジャー地として賑わっていた。
しかし白砂青松の美しい海岸線も、臨海工業地帯の埋め立て造成に伴いその面影
をなくしました。現在は16haの敷地に野球場、プール、体育館、相撲場、サル島、
蘇鉄山(一等三角点のある日本で一番低い山)などがあり、気軽に利用できるレクリ
エーションスペースとなっています。
また、毎年7月31日には鎌倉時代から続く堺の夏の風物詩「堺大魚夜市」が、古式
に則したせりや、鮮魚の即売など威勢のいい掛け声とともに賑やかに繰り広げられ
ます。
ひょうたん池
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大浜公園 蘇鉄山
幕末の黒船来航に備えて築かれたお台場、明治12年大浜公園として開放され築山と
して整備されました。昭和14年東南の御蔭山から移された一等三角点が設置されて
いる標高6.97mの日本一低い山。
蘇鉄山は大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を、
明治12年(1879年)に大浜公園として解放され展望のよい築山として整備されたとこ
ろです。蘇鉄山の約300m東南にあった御蔭山の頂に、近代地図作成のための基準
点となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定されました。
その後御蔭山が削られ、昭和14年(1939年)に蘇鉄山の標高6.97mの所に移設された
ものです。現在一等三角点の設置されている日本一低い山となっています。御蔭山
は天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積み上げ
てできた大阪の天保山とは兄弟関係にあたります。
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蘇鉄山 一等三角点
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ラジオ塔
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蘇鉄山 反対側へ降りる
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此処までは、
12月20日の堺市大浜公園・蘇鉄山~旧堺港巡り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-23
此処では、続きの 相撲場へ向かう~ についての詳細を掲載します。
相撲場へ向かう
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大浜公園 相撲場
古くからアマチュア(学生)相撲の大会が行われ、幾多の好勝負と名選手をその歴
史に刻んできた相撲場です。
第1回全国学生相撲選手権大会が大浜で大正8年に開催され、第64回大会からは大浜
公園相撲場と両国国技館において隔年開催されています。現在に至るまで幾多の好
勝負を生み、名選手をその歴史に刻んできました。
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相撲場の横を通り
旧堺港灯台へ向かう
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旧堺港灯台
堺旧港南波止場に明治10年築造された高さ11.3mの六角錘形の灯台。埋め立てが進
み役割を終えた後、堺のシンボルの一つとして保存、現地に現存する日本最古の木
造洋式灯台として国指定史跡になっています。
室町時代から安土桃山時代にかけて、天然の良港であった堺港は海外貿易港として
も発展しました。後に大和川の付け替えにより衰退しましたが、江戸の商人と堺の
人々により築港・修理されたのが現在の堺旧港の原型です。
その南波止場に、明治10年(1877年)堺の人々の寄付などにより高さ11.3mの六角錘
形の木造洋式灯台が築造されました。灯台はおよそ1世紀にわたって堺港に出入り
する船の航海の安全を守ってきましたが、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(1968
年)にその役割を終えました。今なお堺のシンボルの一つとして保存され、現地に
現存する日本最古の木造洋式灯台の一つとして国の指定史跡になっています。近年
老朽化が著しかったのを平成13~18年度に保存修理工事が行われ往時の姿が甦りま
した。周辺は龍女神像とともに新たな親水ゾーンとして親しまれています。
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呂宋 助左衛門 銅像へ向かう
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龍女神象・・・遠くに眺めるだけです
明治36年内国勧業博覧会で大浜水族館前に設置。平和と繁栄のシンボル「乙姫さん」
の愛称で親しまれたが、廃館で撤去された後平成12年市制110周年記念事業で北波
止突堤に復元建設されました。
明治36年(1903年)第5回内国勧業博覧会の際に、堺会場の東洋一を誇った大浜水族館
前に設置されました。博覧会終了後、水族館とともに堺市が譲り受け、像は平和と
繁栄のシンボルとして、「乙姫さん」の愛称で親しまれましたが、臨海工業地帯の
建設や第2室戸台風の影響などで、廃館となった水族館の解体とともに撤去されまし
た。平成12年(2000年)7月、堺旧港周辺が世界民族芸能祭「ワッショイ!2000年」の
会場となった時に、市制110周年記念事業として、北波止突堤の付け根に復元建設さ
れたものです。高さ16mの石張りの台座上に10mのブロンズ製の乙姫像が立ち上がっ
ています。
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呂宋 助左衛門 銅像へ向かう
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呂宋 助左衛門 銅像(るそん すけざえもん 銅像)
大阪府堺市及びマニラに銅像がある。また、同市の大安寺に助左衛門の墓といわれ
ているものがある。呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん、永禄8年(1565年)? -
没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門
(なや すけざえもん)。堺の貿易商・納屋才助の子。呂宋以外にも別名で菜屋助
左衛門(なや すけざえもん)や魚屋助左衛門(ちや すけざえもん)ともいう。
『太閤記』などによれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで
巨万の富を得た。文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人とな
った豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など
珍品を献上し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。
慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒
言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処
分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安
寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝
物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の
怒りを買ったともいう。
慶長12年(1607年)、スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジ
アに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。
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大浜公園へUターン(昼食&トイレ休憩)
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神明神社
この神社の堺市による銘板には次のように記載されています。
        神 明 神 社
祭神はもとは稲荷大神(いなりおおかみ)が主神で、別に伊勢の大神が祭られて
いたが、慶応年間に変更になり、現在は天照皇太神(あまてらすこうたいじん)
・豊受大人(とようけおおかみ)をはじめ住吉(すみよし)大神・金山彦(かな
やまひこ)大神など計16柱が合祀されており、かって新地とよばれた、現在の
堺駅を中心とした地区の氏神として崇敬されている。 稲荷大神は、豊彦稲荷
(とよひこいなり)神社と称し本社に列している。
天保12年 (1841)に当時の堺町奉行水野若狭守(みずのわかさのかみ)
は、この町の繁栄、発展を祈り地域の氏神の奉斎を命じた。これが神明(しんめ
い)神社の創建である。翌13年正月に社殿が完成し、2月の初午(はつうま)
に大祭を執行した。  わずか9日で社殿が竣工したので、これを慶し、九と日
を1字にまとめて、旭宮(あさひのみや)と称した。
その後、安政2年(1855)に境内地地が狭いため移転を計画、慶応元年(1
865)現社地に移転を決定し、同3年6月に竣工、17日間遷座奉祝行事を行
い、旭(あさひ)神明神社と改称した。明治4年(1871)2月13日新地新
明神社と改称、同5年村社に列し同42年(1909)神饌幣帛供進社(しんせ
んへいはくきょうしんしゃ)に指定された。明治30年(1897)頃より神明
神社と称されるようになった。            堺市
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今回は、ショートカットした為、下記の見所は見れませんでした。
☆天誅組義士上陸遺蹟碑
天誅組の変、大和義挙、大和の乱。 1863年、吉村寅太郎ら尊皇攘夷派浪士の
一団(天誅組)は公卿中山忠光を主将として大和国で決起、幕府軍の討伐を受け
て壊滅。 長州藩など各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、朝廷にも強い
影響力を持っていた。 尊攘派の主張で、朝廷は直接各藩に攘夷を命じるほか、畿
内を朝廷の直轄領とするなどの意見があったが、天誅組の蜂起は、幕府に対する
尊攘派の初めての武力蜂起という点で画期的なものであった。 天誅組の挙兵によ
って幕府領支配の拠点である陣屋や居城が公然と襲撃された。
☆堺事件
1868年、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス
副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入
り、同時に港内の測量を行った。 士官以下数十名のフランス水兵が上陸して市内
で遊んでいたが、夕刻、近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長箕浦元章(猪之
吉)、八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉
が通じず、土佐藩兵は仏水兵の捕縛を試みた。 仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪って
逃亡し、土佐藩兵側は発砲。 双方銃撃戦の末、仏水兵を射殺、溺死させ、遺体は
16日に引き渡した。
☆堺事件のその後
土佐藩は発砲を認め、隊長の箕浦、西村ら指揮官4名と隊士16名は責任を取っ
て死刑が決定。 大阪裁判所の宣告により、堺の妙国寺で土佐藩士の刑の執行が
行われた。 立ち会ったフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、11
人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請、結果として9
人が助命。
☆堺魚市場
鎌倉時代から魚介類の市場として栄え、堺の一大名物となっている。 当初は、英
彰小学校付近で市場としての機能を果たしていたが、明治時代には、現在地に移
転したと言う。 近海で獲れた魚介類を中心に、遠洋のものまで幅広く、取り揃う
☆南蛮橋
堅川にかかる橋。 橋の中央部分に設置された南蛮人の銅像が話題を集めている。
かつて、堺市は、堺港があり、海外との貿易が盛んな地域であった。 世界的に
有名なカトリック教の宣教師、フランシスコ・ザビエル氏が訪れた場所としても
知られる。 そんな時代背景からか、川に面した設置された銅像は、過去の堺市の
繁栄を物語る。

堺駅~天王寺駅へ戻り、湯処・あべの橋温泉へ
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銭湯「湯処・あべの橋温泉」
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
   ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復
   ・健康増進・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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JR天王寺駅の待ち合わせ場所へ向かう
阿倍野ハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪
阿部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテ
ルなど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶
景とともに堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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昼飲み会は、居酒屋 甘太郎 14:30~11名で、二次会に4名でカラオケ迄。 
・K場さん・K池さん・N西さん・S藤さん・M吉さん・Y川さん・R得さん
・I 田さん・K西さん・M越さん・私の11名、楽しい一時と二次会のカラオケにも?
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・I 田さんの初参加が嬉しかった
此の日の私の万歩計は、18972歩で約11.3㎞歩いたことに・・・

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12月14日~18日の鹿児島訪問ー2

12月22日      12月14日~18日の鹿児島訪問ー2
             LCC Peachでの旅
旅の初めは、12月14日の関西空港第2ターミナル~鹿児島空港へ・・・
関空第2ターミナルへ入ると屋外の景色は飛行機に乗る時しか見る事が無い。
此れから搭乗
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12月15日
天文館アーケード街を照国神社へ
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照国神社(てるくにじんじゃ)
照国神社は、鹿児島県鹿児島市照国町にある神社。旧社格は別格官幣社。江戸時代
後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。照国大明神(島津斉
彬)を祀る。祭神は薩摩藩第11代藩主の島津斉彬。
祭神は島津家28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝するが、文久2年(18
62年)に祭神の遺志を継いだ弟久光と甥忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神
を祀る社地を選定し、翌3年5月11日に孝明天皇の勅命による「照国大明神」の神号
授与を受けて祠を造営したのが創祀で、翌元治元年(1864年)に改めて東照宮が建
っていた地に社殿を造営し、照國神社と称した。
明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。明治
維新における祭神の功績と薩摩藩の役割が考慮されたと考えられる。
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島津斎彬像
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照国神社を出て鶴丸城跡へ向かう
島津忠義像・・・島津忠義は島津久光の三男
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西郷隆盛像
鹿児島市の鹿児島市立美術館近くに立つ郷土の彫刻家・安藤照が1937年(昭和12
年)に作成した西郷の銅像は軍装(陸軍大将)である。明治より時代が下って鹿
児島市に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢である。
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鶴丸城跡
石垣等が 残っている。
鹿児島城は、薩摩国鹿児島城山麓(現在の鹿児島県鹿児島市城山町)に築かれた
江戸時代の日本の城である。別名「鶴丸城(つるまるじょう)」。鹿児島では一
般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が
羽を広げたようであったことによる。
1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏
の居城であった。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
石垣
遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架か
る石橋が現存している。私学校の石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕
が数多く残っている。
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アコウの大木が・・・
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黎明館案内版
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石垣と堀
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横へ廻って
中へ入って見る
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立派な石垣
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天璋院篤姫像
花嫁の名は天璋院篤姫。13代将軍・徳川家定の正室である。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬の養女となって江戸に輿入れ、若き未亡人となっ
てからも徳川家を守り、江戸城明け渡しの活躍などよく知られるところだ。
はるばる薩摩から遠い江戸に嫁いだ篤姫、どのような思いで旅立ったのだろう
か。その背景とは。その少女時代とは。さまざまな想いが薩摩へ誘う。
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桜島が見える
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御楼門建設現場に入る
大手門にあたる御楼門は現在、鶴丸城御楼門復元委員会によって進められた復元
プロジェクトが、官民の連携による民間が主導する事業として「鶴丸城御楼門建
設協議会」が平成27年(2015年)2月に設立され、平成29年(2017年)9月28日
から2020年3月31日までの工期で建設工事が行われている。
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後ろの山は城山
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此処までは、
12月14日~18日の鹿児島訪問ー1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。 
     https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-22
此処では、続きの 御楼門の工事現場を覆う
壁のアートを見ながら反対側の出口へ向かう~ の詳細を掲載します。
壁のアートを見ながら
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山形屋へ向かう
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山形屋へ昼飯を食べに向かうが長打の列
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山形屋の昼めしを諦めて
鹿児島港へむかう
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ドルフインフインポートで昼食を済ませて
ホテルへ戻る・・・この日(15日)の私の万歩計は、14798歩で約8.8㎞歩いた。
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12月16日は、鹿児島市立病院・・・
翌12月17日
朝、ホテルの部屋から城山の方向を見ると左手にワシントンホテルプラザが・・
ホテルで朝食バイキングを済ませてリムジンバスで鹿児島空港へ
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鹿児島空港~奄美空港へ叔母を見送り
霧島市に住む知人のY丸さんを待つ 
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鹿児島空港展望デッキ&航空展示室をうろうろ?
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知人が空港へ迎えに来て・・・
空港の近くの知人の畑の果樹と立派な野菜
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塩浸温泉龍馬公園
坂本龍馬が新婚旅行で訪れた際、逗留したという温泉が塩浸温泉。園内には
「龍馬資料館」や「龍馬とお龍の縁結びの足湯」、「坂本龍馬・お龍新婚湯
治碑」、龍馬が入ったとされる湯舟があります。

龍馬お龍の銅像や龍馬資料館「この世の外」が・・・天の逆鉾レプリカ見たヨ!
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途中で昼食を済ませ
小雨の中、霧島神宮へ向かう
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霧島神宮
欽明天皇の御代(6世紀)、慶胤(けいいん)上人という僧侶が高千穂峰と火常
峰(御鉢)の間の「瀬多尾(せたお)(背門丘・瀬戸尾)」に社殿を造られたの
が始まりとされ、欽明天皇元年(540年)に創建されたともいわれている。高千
穂峰が日本神話の天孫降臨の伝承地とされる事から、現在は日向三代にまつわる
神々が祀られているが、元々は高千穂峰そのものを信仰の対象とする山岳信仰か
ら始まった神社であると考えられる。
しかし元の社地の瀬多尾は、火口に近い場所であったため社殿は噴火でたびたび
炎上し、延暦7年(788年)7月の火常峰(御鉢)の噴火で焼失した。その後天
慶3年(940年)、あるいは村上天皇の御代の天暦4年(950年)に性空上人に
より瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に再興されるが、ここもたびたび噴
火の巻き添えで炎上し、文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により社
殿、僧坊等がことごとく焼失したため、霧島市田口の待世(霧島中学校の隣、霧
島町グランドとの境)に「仮宮」を建てて、約250年間祭っていた。文明16
年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶上人が再興したのが、現在の霧島神宮で
ある。但、社殿はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島
津吉貴の奉納により再建した物である。
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また一説には、文暦元年(1234年)の噴火で社殿を焼失し、社殿を霧島山の東の
長尾山(現在の東霧島神社の地)に移した後、文明16年(1484年)、島津忠昌
がこれを「東社」(霧島東御在所権現、現在の霧島東神社)と「西社」(西御在
所霧島権現、現在の霧島神宮)の2社に分けたとも、あるいは霧島山の東の長尾
山に移した後、現在の霧島岑神社と霧島東神社の2社に分け、更に霧島東神社か
ら霧島西神社(現在の霧島神宮)を分けたともいわれている。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中
に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向
国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣
わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰い
でいる。
また、坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れたことが知られ
るが、その頃にはすでに山頂には天津日高彦火瓊瓊杵尊が突き刺したという天の
逆鉾があった。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一
面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権
現信仰の中心的役割を果たしていた。

御神木に仏像が・・・
神木の杉
神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
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17日の夜は、知人宅でご馳走になり昔話に・・・
此の日の私の万歩計は、5600歩で約3.3㎞とほとんど車やバス・・・
翌18日は、朝7時に知人宅を出発、空港迄送って貰い
空港でモーニング、お土産迄貰って至れりつくせり、お世話になりました。
関西空港到着
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南海電車で新今宮駅へ
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12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねてー2

12月10日    12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねてー2
             近鉄駅フリーハイキング 7㎞
此の日は、知人の・O村さん・I 田さんと3名で近鉄ハイキングに参加、良い天気の
なかを気持ち良く歩く事が出来た。此の日の私の万歩計は、15956歩で約9.5㎞・・
コースは  大阪線二上駅(北口10時)   Kipsポイント 
大阪線二上駅(北口10時)~旭ヶ丘近隣公園~志都美神社~武烈天皇陵~太子道~
戎神社~顕宗天皇陵~鹿島神社~下田駅(ゴール) 私は、JR香芝駅へ帰った。
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
鹿島神社・・・コース最後の帰り際に立ち寄るので
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約8
00年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には
貴重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社
文書」(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財と
なり、現在は奈良国立博物館で保管されている。
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大阪線二上駅(北口10時)・・・大勢の人が並んでいた、それでも167番目?
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旭ヶ丘近隣公園~志都美神社へ向かう
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もうすぐ志都美神社
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志都美神社
祭神は、天児屋根命 中筒男命 誉田別命。境内看板によりますと、
「創建は、弘仁四年癸巳年八月九日藤原鎌足六世の孫従四位民部少輔片岡綱利により
創建された古社である。志都美神社は、香芝市今泉に位置するが江戸時代には上里村・
今泉村・高村の五ヶ所の氏神であり、厚い信仰を集めていた。特に明治十三年八月に
コレラが流行し氏子が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったの
を喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後石垣に『明治十二年八月虎列社病流行氏子祈願
無一人患者無人数叶奉納』ときざみ奉納した記念碑がある。
日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレ
ラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した。明治に入ってから同十二年に全国に流
行しての余波が十二年にまで及んだという。死者が出ないということは本当に珍しく、
ご神徳がうかがえる。また本神社の神宮寺として清水山明王院が明治の神仏分離令が
出るまであり、現在明王院という石灯篭が一基残っている。ある日盲目の法師が境内
にある井戸で目を洗うと水の霊験で目があいたという伝説があり、それゆえ一時期清
水八幡宮と呼ばれた時代があった。今も手水舎の石に八幡宮の文字が残っている。
本殿裏の社そうは椎の木を中心とした原生林で県指定の天然記念物となっている。
万葉集(巻七一.九)に『片桐のこの向う峰に椎蒔かば今年の夏の陰にならむか』と
ある。椎の原生林とかさね合わせばこの附近ではないかと思われる。歌碑は、神社参
道入り口右側にある。」とあります。
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武烈天皇陵
第25代・武烈天皇陵
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第
25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。名は小泊瀬稚鷦鷯尊・
小泊瀬稚鷦鷯天皇、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人
物かどうかについては議論がある。父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇
女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天
皇の皇后)らがいる。皇后:春日娘子 - 『古事記』に見えず。皇子女なし『日本書紀』
に「男女無くして継嗣絶ゆべし」『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とあ
る。仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣
の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大
臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌
垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、
現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち年12月に即位し
て、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。なお、日本書紀は、武烈天皇の異
常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。二年の秋九月に、孕婦の腹を割
きて其の胎を観す。三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。四年の
夏四月に人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すこ
とを快としたまふ。五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、
三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、
弓を以ちて射墜として咲いたまふ。八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の
上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺
し、湿はざる者は没めて官やっことし、此を以ちて楽としたまふ。なお、これら天皇
による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
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太子道・・・太子道 標識
聖徳太子が通ったとされる古代道路・街道を「太子道」といい、太子のご遺体を斑鳩
から叡福寺に運ぶのに通ったとされる事から「太子搬送の道」とも言われている。
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戎神社へ向かう
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此処までは、
12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねて-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-10 
此処では、続きの 戎神社~ についての詳細を掲載致します。
戎神社
小高い丘の上に有り境内から旭ヶ丘ニュータウンや西名阪自動車道の香芝SAが
見渡せます、既に「戎まつり」ののぼりが多数はためいていました・・・
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西名阪自動車道の香芝SAが見える
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顕宗天皇陵・・・第23代・顕宗天皇陵
顕宗天皇(けんぞうてんのう、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨
国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。
弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別
命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛
(はえひめ)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる。皇后:難波小野王(難
波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』
にも「子無かりき」とある。安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺される
と、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹
後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変
えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に
使役され長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の
席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜ん
で迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、
弘計王を皇子とした。同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かし
た大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇
位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗
天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天
皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また
父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験か
ら民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳
(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお即位前に志毘臣(しびのおみ、平
群氏)との恋争いの縺れから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
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鹿島神社へ向かう
公園で弁当を食べて寒い?
知悪のコメダコーヒーで温まって再スタート
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二上山を眺めて
鹿島神社へ向かう
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鹿島神社裏手に有るエノキ巨樹
鹿島神社・エノキの巨樹
幹周334.0cm、樹高約25m。平成8年3月12日に香芝市の天然記念物に指定される。
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この辺を見ると未だ生きている
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鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴
重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
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知人二人と此処から別行動、二人は近鉄下田駅へ
私はJR香芝駅へ
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香芝駅ホームから王寺駅方面
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12月4日の馬見丘陵公園散策-2

12月10日        12月4日の馬見丘陵公園散策-2
              近所の公園散策
未だ残っているのだろうか?皇帝ダリアと紅葉はどうなってるの?池の亀は?
家内と一緒に買い物にでかけた帰りに馬見丘陵公園の中央駐車場に車を停めて、
中央エリア~北エリア~中央エリアへ一回り、万歩計は、6228歩で約3.7㎞・・
中央エリア
チャイニーズイエローバナナ
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北エリアへの連絡隧道
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皇帝ダリア
盛りを過ぎて元気がない?
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色々なGrが作成した花壇
ハボタンのハート
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ジープ
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風車
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集いの丘
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皇帝ダリア
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晩秋の紅葉
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此処までは、
12月4日の馬見丘陵公園散策-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
    https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-09-1
此処では、続きの 集いの丘~ についての詳細を掲載致します。
集いの丘
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中央エリアへ向かう
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連絡隧道を潜って
中央エリアのバラ園
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菖蒲園
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山茶花
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下池の亀は既に冬眠?
亀の代りに水鳥が休憩中
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古墳の丘の落ち葉&苔&紅葉
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古墳の丘への裏道
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中央公園館
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中央公園館前の
鉢植えのホックスフェース
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12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2

12月8日     12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2
           近鉄駅フリーハイキング 8㎞ 
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ

私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅
JR奈良駅のセント君
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旧奈良駅駅舎(奈良市総合観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用さ
れていました。 日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、
その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の
荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそ
うです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが
平成13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったこ
とにより、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的
価値を踏まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと鉄
の棒(ころ)による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年に
観光案内所として生まれ変わったのです。
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三条通り
JR奈良駅前~猿沢池迄・・・
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の
第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる
「欠史八代」の1人に数えられる。
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浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延
と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年
(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がなかっ
たが、楠木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授
かり、第7世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるよう
になったという。また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った。
11世行心の代、享禄3年(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、
また永禄2年(1559年)12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという。
この頃より九条山と号するようになった。また天正19年(1591年)、行春は石山合
戦の際の忠節を顕如上人から讃えられ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本
山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、
現在地へ移転した。
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漢國神社(林神社) かんごうじんじゃ(りんじんじゃ)・源九郎稲荷神社
園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を
祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓
神社は当社からの勧請であると社伝では伝えるが、平安京の園神社・韓神社の社伝
とは矛盾している。

推古元(593)年創建の古刹。藤原氏に崇敬された。本殿は三間社流造になっている。
社宝に徳川家康奉納と伝えられる鎧があるが、現在は奈良国立博物館に委託されて
いる。境内の林神社には、室町時代に中国から渡来し、饅頭の製法を伝えた林浄因
が祀られている。春の大祭には、全国の菓子業者が集まる。また、林家から出た碩
学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点として9月15日、
印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、巨石を伏せた
饅頭塚もある。
源九郎稲荷神社-祭神:宇賀御魂神。1924年(大正13年)に山の寺から勧請した。
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近鉄奈良駅で知人と合流して興福寺へ向かう
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興福寺・五重塔・南円堂・額塚・中金堂
興福寺
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さら
にさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」(やましな寺)が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である
鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営
したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われ
ています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移
建され、その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとと
もに、「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、
奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北
家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌
倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、
徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れ
ましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその
歴史を刻み続けています。
五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三
間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特
別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭
和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の
塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の
木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い。
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南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建
てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開
珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げた
ことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだ
いしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.
4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はき
わめて古様です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろく
そざぞう)、四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
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額塚
興福寺には山号がありません。南都七大寺には不思議と山号がないため今まで気に
も留めていなかったのですが、興福寺にはそれなりの理由があるようです。比叡山
延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところです。奈良の興
福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。
そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれる額塚です。
興福寺の山号額は南大門に掲げられていました。
天平宝字8年の5月、興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来た
そうです。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態
なのに樹木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、
とある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水
に縁のあるものであるから、水が出る。これを取り下ろせば良いのではということ
になり、山号額を取り外すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収
まり、その発端となった山号額は茶臼山に埋められたという逸話です。
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中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・
東金堂の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺におい
て、その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来
像をその中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観
音菩薩像を置き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺
においても東大寺大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとさ
れています。奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に
初代中金堂が焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。
中金堂は6回目の焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の
享保2年(1717年)に7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(18
19年)に再建されたものも「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造
上も弱く、平成12年(2000年)には取り壊しが行われ、その後創建当初のスケール
を持つ中金堂を復興することになり平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の
計画で中金堂の再建が進められることになりました。再建された中金堂は、興福寺
に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考に復元されたものであり、
東西の間口は約37m、南北の奥行きは約23m、高さは約20mの規模となっており、
東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬師寺大講堂に匹敵、もしくは少し
上回るような規模を有しており、平成の世において建造された最大規模の木造建築
物となっています。
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南大門跡
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猿沢池
猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360mの池。興福寺五重塔が周囲の
柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつと
なっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造ら
れた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を
野に放つ宗教儀式である。
猿沢池七不思議
・澄まず・濁らず・出ず・入らず・蛙はわかず・藻は生えず・魚が七分に水三分
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川は
なくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいる
が、なぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増
える一方であるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くて
もおかしくないような池。
猿沢池にちなんだ言い伝え
・猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを
 嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという。
・芥川龍之介の小説「龍」は、猿沢池から雲を呼び雨を降らせながら龍が天に昇っ
 たという伝説を素材にしている。
・猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国の猴池(びこういけ)から
 来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている。
・奈良県大淀町には、興福寺の僧に恋をした娘おいのが身を投げたといわれる
 「おいの池」がある。伝説ではおいの池と猿沢池は地中でつながっており、身を
 投げたおいのの笠が猿沢池に浮かんでいたという。
・1959年に、七不思議に反して池の水が赤くなった時には、「この世の終わりだ」
 と騒がれたという。
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ならまち・元興寺へ向かう
元興寺・・・世界文化遺産、古都奈良の文化財
日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺
から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺。(佛法元興の場、聖教最
初の地)です。
元興寺の名称は
『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元
興寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと
伝えられています。飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてき
ました。建初寺=桜井道場、建通寺=向原寺、法満寺=飛鳥寺の歴史を示している
のでしょうか、朝廷および天皇家が仏教を容認し、唐式の仏教政策を取り入れてか
ら、遡って意味付けされたのだといえます。因みに、法興寺は『佛法興隆』の言葉
からきており、法隆寺とは対の名称といえるでしょう。
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瑜伽神社へ向かう
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今西酒造
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瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)
社伝によると飛鳥神奈備が平城奠都とともにこの地に移り、この山を平城の飛鳥山
と呼んだという。もとは元興寺禅定院の鬼門除鎮守の社で、後に興福寺大乗院が山
麓に建つに及び、その守護神として藤原氏等の崇敬を受けた。
飛鳥の元宮に対し今宮と呼ばれた。『大乗院寺社雑事記』明応3年(1494年)12月
30日の条に、「一後智恵光院殿御建立之分(中略)今宮殿御殿 同拝殿仮葺也」とあ
る。瑜伽神社と称するようになったのは比較的最近のこととしている。
この辺りは中世の瑜伽山城あるいは西方院山城・鬼薗山城の跡とみられており、西
隣の奈良ホテルが建つ山を鬼薗山、東の瑜伽山一帯を西方院山と呼ぶのが一般的で
ある。いまも広い台地と濠の跡が残っている。境内には奈良時代大伴坂上郎女(お
おとものさかのうえのいらつめ)が元興寺の里をながめてよんだ歌碑があります。
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天神社へ向かう
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天神社
天神社(てんじんしゃ)は、奈良県奈良市高畑町にある神社。奈良町天神社とも呼
ばれる。北天満の天神社で、境内地は約1,000平方m。
略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、
興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天
神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。
後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀
られたのは平安時代、白河天皇の御世であったという。
嘉吉元年(1441年)5月6日、猿楽が執り行われた。享保五年(1720年)10月24日夜、
天満宮が焼失し、同6年5月に造替されている。
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鷺池へ向かう
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鷺池・浮見堂・洞水門(水琴窟)
浮見堂
鷺池に浮かぶ六角形のお堂は池の水面に映る姿が美しく、憩いの場としても人気です。
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洞水門(水琴窟)
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奈良公園
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春日大社参道
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此の続きは、
12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、春日大社~
春日大社
春日大社は神護景雲2年(768)、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建
された神社です。 春日山原始林に続く御蓋山の西麓に鎮座する藤原氏の氏神を祀っ
ています。神様が白鹿に乗って 奈良の地においでになって以来、鹿は神様の使いと
されています。 平成10年(1998)、古都奈良の文化財として春日大社と春日山原始
林が世界遺産として登録されました。
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春日大社・酒殿・・・初登場
酒殿(さけどの)は、春日大社の境内地、本殿等を取り囲む「回廊」の西側に隣接す
る形で「竈殿」と南北に並ぶ重厚な檜皮葺の建築(重要文化財)です。隣接する「竃
殿」、そしてこの「酒殿」はいずれの建築も平安時代の貞観元年(859年)に建立さ
れた相当な歴史を有するものであり、途中建て替え、再建されてきたとは言え現在も
伝統的な様式を守った端正な佇まいを見せています。また、それぞれに祭神がお祀り
されており、酒殿には「酒弥豆彦神(さかみずおのかみ)」・「酒弥豆売神(さかみ
ずめのかみ)」 という神様がお祀りされています。
なお「酒殿」というその名の通り、この建物は神前にお供えする「お酒」を醸造する
「酒造場」というユニークな施設となっており、お酒をつくるにあたっては市内の酒
造業者に委託が行われ、実際にこの春日大社の地でお供えなどに使用する日本酒が醸
造されています。
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水谷神社へ向かう
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の
下社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時
代から幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛
頭天王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮
花祭」として親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平
癒や子授けを祈る人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、
幹周6.55m、樹高12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる水谷川
の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗として改装
し、現在の姿に至っております。
店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎが暑さを忘れさせ、秋に
は紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ね
の山、若草山です。若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われ
た山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年
1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典という
のにふさわしい行事です。
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手向山神社
手向け山八幡宮・校倉造
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
手向山八幡宮は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。奈良市街東部の
手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が
「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)
がある。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大
寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏
殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建
長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所
在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡と
もいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の
際に東大寺から独立した。
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校倉造り2棟
校倉造 宝庫(重要文化財)
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式と
も類似した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
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校倉造 経庫(重要文化財)
「東大寺法華堂経庫」- 奈良時代、校倉造。すぐ南には規模・形式とも類似した、
もとは、東大寺油倉の上司倉の「手向山八幡宮の宝庫」が建つ。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月
堂や三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂け
る「上院」エリアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接す
る位置にある建物(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立
は奈良時代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、
奈良時代周辺に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂
(後に大規模な改築を受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高
くないものの貴重な建築と言える存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並
び立つなお経庫は、かつては「校倉造」の代表建築である正倉院の近くに設置されて
いましたが、鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした後、江戸時代の元禄期にな
ると現在の位置に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経歴を有していま
す。その後はしばらく手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折に、
再び東大寺に帰属する建物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど
南側の位置には、手向山八幡宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じよう
な建築様式で、やはり奈良時代頃に創建されたものと考えられています。

三月堂(法華堂)
東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)は、奈良市の東大寺にある奈良時代(8世紀)
建立の仏堂である。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる。日本の国宝に指
定されている。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する
10体の仏像も奈良時代の作である。「三月堂」の通称で知られる法華堂は、東大寺境
内東方の丘陵部に位置する、不空羂索観音立像を本尊とする仏堂である。東大寺は広
大な境内を有するが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょ
ういん)と称し、法華堂のほか、「お水取り」で知られる二月堂、東大寺開山の良弁
の像を祀る開山堂など、多くの建物がある。この付近は大仏開眼(752年)以前から、
東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つであった。
法華堂は、不空羂索観音を本尊とすることから、古くは「羂索堂」と称し、周囲の付
属建物を含めて「羂索院」と称された。『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」
は天平5年(733年)良弁が不空羂索観音を本尊として創建したものであると記されて
いる。実際の創建時期については、かつては天平年間の後半(740年代)とされてい
たが、年輪年代調査の進展等により、『東大寺要録』のいう天平5年(733年)に近い
頃の建立とする説もある。
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四月堂
東大寺四月堂(三昧堂)は、東大寺の奥行き、風情を最も強く体感できるエリアとして
有名な二月堂や三月堂(法華堂)の位置する「上院」エリアにあるごく小さなお堂です。
名前の由来としては、本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると
法華三昧会(ほっけさんまいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四
月堂」という通称で呼ばれるようにもなっていきました。
二月堂由来の十一面観音菩薩がご本尊
お堂の創建時期は、東大寺境内の諸堂と比較すると新しく、平安時代の1021年(治安3
年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられています。また、現在の建物
は江戸時代の1681年(延宝9年)の墨書銘があることから、途中で建て直しが行われた
とも推定されます。堂内にはかつては脚が短く独特の佇まいを見せる「千手観音菩薩立
像」が本尊として祀られていましたが、現在は新たな観光スポットとして整備された
「東大寺ミュージアム」の展示物として移転され、その代わりに二月堂から十一面観音
菩薩立像が招かれ、本尊として安置されています。ちなみにこの十一面観音立像は、奈
良市山間部にあった「桃尾寺」の本尊であり、廃寺に伴い二月堂にお祀りされるように
なった存在とされています。なお、現在はお堂の中で副次的な存在として安置されてい
る「普賢菩薩」さまに関してもかつては本尊として祀られていたようです。すなわち時
代によって本尊が比較的頻繁に代替わりしてきたのがこのお堂の特徴となっているので
す。知名度は低いけど、穴場の「仏像スポット」です。三月堂や二月堂といった圧倒的
な存在感を放つ建物の真横にあるため、近くを通行する際もごく小さなお堂として見過
ごしてしまう場合も多いですが、東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに
常駐しておられる上に、無料で拝観することが可能なお堂となっています。三月堂(法
華堂)や二月堂にお越しの際は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
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二月堂・・・東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存
する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩であ
る「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二
会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用
の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗
ともども中世の雰囲気を色濃く残している。
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下から眺める
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大湯屋へ向かう
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水路の中に・・・
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大湯屋
東大寺大湯屋(おおゆや)は、東大寺大仏殿の北側、二月堂の西側に伸びる「二月堂
裏参道」近くに位置する比較的大きな建物です。「おおゆや」と呼ばれるその建物は
「湯」という文字が表しているように、簡単に言うと昔の「お風呂」がある施設とな
っており、かつての東大寺の僧侶たちがここで仏道に励むために「身を清める」ため
の沐浴を行っていたとされています。
大湯屋の歴史は大変古く、この建物の元となる施設は奈良時代から存在(創建年代は
不詳)していましたが、平安末期の平重衡による南都焼討で焼失してしまい、現在残
っている大湯屋はその後鎌倉時代に入ってから再建されたものとなっています。 …
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大仏殿・鏡池へ向かう
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルとい
われる高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・
東大寺の大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で
再現したもので、当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえよ
うとの意味がこめられていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有るこの
相輪部だけでも23mもある。七重塔がいかに巨大なものだったかがわかる。
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東大寺大仏殿・鏡池
東大寺
聖武天皇が発願され、平城京の東に建立されました。大仏開眼は天平勝宝4年(752年)。
2度の兵火に見舞われ当初の規模は有りませんが、それでも世界最大の木造建築、大仏
殿を始めスケール、寺宝の豊富さとも、天平文化を代表する大寺です。
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東大寺・鏡池
東大寺は728年に聖武天皇が建立した金鐘寺を始まりとする。 741年に聖武天皇自身が
各地に国分寺の建立を命じた際、 金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。745年
に大仏をはじめ伽藍の造園が開始された時期に東大寺という名称になる。東大寺の「東
塔」と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。東塔」は11
80年の平氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年に落雷で再び消
失した。「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみが残っている。
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南大門
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東大寺を出て氷室神社へ
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氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見
される。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀
し(下津岩根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度
が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1
日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続し
たが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地
に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)と
されている。以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、
興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われた
が、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形にな
っている。
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氷室神社~依水園へ
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依水園(美術館含む入園料 @900円)・・・入りませんでした。
依水園(いすいえん)は古都奈良にある、四季の花々に彩られた美しい日本庭園です。大
仏殿を有する東大寺と興福寺の間に位置していながらも静かなひと時をお過ごしいただ
ける歴史ある空間です。 .ネットのフォトギャラリーで四季折々の画像が鑑賞出来ます。

依水園~吉城園~奈良駅へ については、別途
     12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ として
          12月7日に下記へ投稿済です。
     https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2019-12-07
※※
吉城園(よしきえん)入園料@250円 但し外国人、65才以上、中学生以下は無料
吉城園は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある美しい庭園です。
奈良県庁から東へ徒歩約3分のところにあります。
吉城園の園内は「池の庭」「苔の庭(離れ茶室)」「茶花の庭」の3つの庭からなって
います。・・・紅葉も苔も茶室のある風景もとても素晴らしくて大大感動しました。
説明看板より抜粋
当園は、名勝奈良公園の一角に位置し、万葉集にも詠まれた吉城川に隣接する明治・
大正時代に造られた庭園です。この地は、かつて興福寺子院の摩尼珠院があったとこ
ろとされています。奈良県が昭和59年に取得し、庭園鑑賞や茶会等に広く利用して頂
く施設として整備を進め、平成元年4月1日に開園致しました。
入園料も記載されていました。パスポートや免許書等年齢証明するもの必要です。

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12月1日の晩秋の奈良公園 紅葉あれこれ抜粋遍

12月7日       12月1日の晩秋の奈良公園 紅葉あれこれ抜粋遍
              近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ
私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅

此処では全体のハイキングは置いといて、紅葉だけを抜粋して掲載します。
奈良公園
興福寺・南円堂・南大門跡~猿沢池
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瑜伽神社~天神社~鷺池・浮見堂~春日大社~水谷茶
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水谷茶屋
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若草山麓~手向山八幡宮
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手向山八幡宮
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大湯屋へ向かう
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大湯屋
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大仏殿へ向かう
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大仏殿・鏡池
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依水園~吉城園~奈良駅へ については、別途
     12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ として
          12月7日に下記へ投稿済です。
     https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2019-12-07

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12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ

12月7日    12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ
          近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ

私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅

此処では、今回初めて訪れた吉城園~JR奈良駅へ、のみを掲載します。
依水園~吉城園~近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅へ
依水園・吉城園へ向かう
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依水園はパス
依水園(美術館含む入園料 @900円)・・・入りませんでした。
依水園(いすいえん)は古都奈良にある、四季の花々に彩られた美しい日本庭園です。大
仏殿を有する東大寺と興福寺の間に位置していながらも静かなひと時をお過ごしいただ
ける歴史ある空間です。 .ネットのフォトギャラリーで四季折々の画像が鑑賞出来ます。

吉城園・・・とても良かった
吉城園(よしきえん)入園料@250円 但し外国人、65才以上、中学生以下は無料
吉城園は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある美しい庭園です。
奈良県庁から東へ徒歩約3分のところにあります。
吉城園の園内は「池の庭」「苔の庭(離れ茶室)」「茶花の庭」の3つの庭からなって
います。・・・紅葉も苔も茶室のある風景もとても素晴らしくて大大感動しました。
説明看板より抜粋
当園は、名勝奈良公園の一角に位置し、万葉集にも詠まれた吉城川に隣接する明治・
大正時代に造られた庭園です。この地は、かつて興福寺子院の摩尼珠院があったとこ
ろとされています。奈良県が昭和59年に取得し、庭園鑑賞や茶会等に広く利用して頂
く施設として整備を進め、平成元年4月1日に開園致しました。
入園料も記載されていました。パスポートや免許書等年齢証明するもの必要です。
趣のある吉城園の入り口
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順路⇒
池の庭
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離れ茶室
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苔の庭
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茶花の庭
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梅もどき
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出口へ向かう
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吉城園を出て近鉄奈良駅へ向かう
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近鉄奈良駅で解散して JR奈良駅へ向かう
南都銀行 レトロビル
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三条通りを JR奈良駅へ向かう
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11月29日の昼飲み会ハイク今里駅~コリアタウン他ー2

12月4日    11月29日の昼飲み会ハイク今里駅~コリアタウン他ー2
            近鉄駅フリーハイキング 10㎞ 
此の日は昼飲み会に引っ掛けて近鉄ハイキングをショートカットコースに変更して
M吉さん・K場さん・S藤さん・M村さん・途中からS本さんも参加して6名で・・・
コース 今里駅(受付10:05)集合で生野本通り&鶴橋本通り商店街をパス
近鉄今里駅(受付10:05)~末廣稲荷神社~平野川~コリアタウン~御幸森天神宮
~つるの橋~彌栄神社~茨福祉会館・弥栄神社岡御旅所~御勝山古墳~御勝山南公
園~桃谷駅~電車~天王寺駅~湯処・あべの橋 ⇒ ミオパレス4F 居酒屋へ
此の日の私の万歩計は、16687歩で約10㎞歩いたことに・・・
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
下田駅への途中に鹿島神社が有るので通りすがりにパチリ!
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重
な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
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今里駅(受付10:05)5名集合してスタート
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コリアタウンへ向かう
途中で神社を見つけて立ち寄って
末廣稲荷神社(すえひろいなりじんじゃ )
大阪市生野区 この神社は、東大阪市の新今里公園の北東角に鎮座します。公園内
では立派な鳥居が目立ちます。この神社の由緒等については不明です。祭神であ
る「末廣大明神」以外にも「石切釼大明神」も鎮座されていて、神木と祠があり
ます。この裏手には北向地蔵様もある様ですが今回は見ていません。
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御神木
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コリアタウンへ向かう
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平野川を渡ればコリアタウン
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コリアタウン
生野コリアタウンは大阪市生野区の桃谷にある「御幸通商店街」(御幸通東商店街、
御幸通中央商店会、御幸通商店街の3商店街)とその周辺の通称。公式サイトでもこ
の呼称が用いられている。「大阪コリアタウン」「猪飼野コリアタウン」「桃谷コ
リアタウン」などとも呼ばれる。もともと古代からこの地は渡来人が多数住みつい
ており、旧地名である「猪飼野」の起源となっている。1910年の日韓併合を経て、
1923年に済州島と大阪をつなぐ直行便「君が代丸」の就航をきっかけに、多くの朝
鮮人が労働のために日本へ渡航し、当時工業地化しつつあった猪飼野周辺に集まっ
てきた。こうして自然と朝鮮市場が誕生し、それを核に商店街としてスタートした
のもこの頃である。 日本の敗戦後、国に帰る韓国・朝鮮人、新たにやってくる韓国
・朝鮮人と入れ替わりはあるが、この市場を中心に生活し日本最大の在日韓国・朝
鮮人の集住地になった。現在も大阪市生野区の総人口の五分の一は外国人である。
「コリアタウン」にくれば韓国・朝鮮人にとって必要なものが揃う「地域に密着し
た商店街」として発展した。
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美味しそうな豚足
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まだまだ続くコリアタウン
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御幸森天神宮
御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)は、大阪府大阪市生野区(旧摂津国東生
郡猪飼野村)にある神社である。 仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村
の氏神である。
御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいの
つ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する。猪甘津は日本書紀仁徳天皇十四
年の条に記され、猪甘部(いかいべ)と呼ばれる官職を務める者が住んでいた。猪甘
部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていた。また付近は百済野と呼ばれ
百済からの渡来人が多く住んでいた。水鳥が集まる景勝地であったとも伝えられてい
る。伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々
この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。仁徳天皇
崩御の後の反正天皇2年406年、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や御幸
宮と称されたと伝えられている。
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此処までは、
11月29日の昼飲み会ハイク今里駅~コリアタウン他ー1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-04  
此処では、続きの つるの橋跡~ についての詳細を掲載します。   
つるの橋跡
『日本書紀』仁徳天皇14年の条に、猪甘津(いかいのつ)に小橋(おはし)を
作った記事が見える。記録に残る日本最古の橋で、それは平野川(旧大和川)に
架けられたものである。名の由来は、鶴が多く集まっていたからとも言われた。
また、「津の橋」がなまったからとも言われている。明治7年、平野川浚渫の
とき木橋から石橋に架け替えられた。
そのときの親柱を記念に残した。つるのはし跡公園の小野小町の歌碑が有る。
「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」。
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※亀の橋址・・・以前に撮ったもの
亀の橋はかつて東小橋村と猪飼野村との境を流れていた旧平野川に架けられて
いました。旧平野川は昭和15年(1940)に埋め立てられ、長さ9m・幅3.6mの
この石橋は廃橋となり、現在住宅前に親柱の1本が残されています。
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彌栄神社
弥栄神社、彌榮神社、彌栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじん
じゃ、や えいじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。
彌榮(やえい)神社は、文禄年間(1592年~1595年)に島根県八束郡(旧出雲
國意宇郡)の旧國幣大社熊野神社より御分霊を移して御祭りしたと旧記にありま
す。創立以来、旧木野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕してい
ました。明治5年村社に列せられ、神職を置き奉仕し、また社号もこの時に彌榮
神社と改めました。
弥栄神社は、御幸森天神宮と並んで、コリアンタウンに鎮座する仁徳天皇と大変
縁の深い神社として有名です。弥栄神社は古くから地元の氏神様として、鶴橋・
桃谷の人々に篤い信仰を集めている歴史ある神社。特にこの界隈は、商店街通り
として、個人商店が多く立ち並ぶので、商売繁盛の神としてお稲荷さんにお参り
する人も多く、お参りが絶えない神社として、地元の人たちに愛されています。
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本殿は工事中の為、横のお稲荷さん
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御勝山古墳へ向かう
此処らあたりでS本さんが加わる
弥栄神社 岡御旅所 (茨稲荷神社)
茨福祉会館の横にひっそりと残る弥栄神社岡御旅所跡
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御勝山(おかちやま)古墳・御勝山公園
もとは岡山と呼ばれ、元和元(1615)年夏の陣の大坂落城のとき、徳川秀忠が此
処で戦勝の宴を催したことから御勝山の名で知られるようになりました。
南北112m、東西55m、高さ約8mの前方後円墳で現在は前方部が道路(勝山通)
と御勝山南公園になっており、後円部を残すのみです。
市内では、茶臼山古墳(天王寺区)と帝塚山古墳(住吉区)と並んで重要な史
跡の一つです。中臣氏の祖『大小橋命(おおおはせのみこと)』の墓であると
いわれていますが明らかではありません。
御勝山の由来は、大阪の陣で徳川秀忠の陣所が置かれて勝利したため、御勝山の
名があり、勝山通の勝山もこの御勝山からだと言われています。
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陸橋へ上ってみると
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陸橋を渡って
御勝山南公園(此処で昼食休憩)
5世紀前半につくられた御勝山古墳の前方部分が開墾されて今は御勝山南公園で
すが、ここに大阪管区気象台があったことを示す記念碑が立っています。
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紅葉も綺麗
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S本さんと別れて 桃谷駅前へ 
桃谷商店街
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桃谷駅~電車~天王寺駅~湯処・あべの橋・・・
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※桃谷駅
江戸、明治時代に桃畑が続き「桃山」「桃谷」と呼ばれた事が駅名の由来です。
当初は桃山駅でしたが、明治38年(1905)に伏見桃山駅と混同するので改名
しました。太古の昔は此の辺りは河内湖が広がって大陸の交易船が行き交った
といいます。桃も中国の舶来植物ですが、大陸文化の香りを感じる駅名です。

阿倍野ハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿部
野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルなど多
彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景とともに堪
能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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キューズモール
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銭湯「湯処・あべの橋温泉」
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
   ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復
   ・健康増進・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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天王寺ステーションビル
ミオパレス4Fの居酒屋へ向かう
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今日は、14:30~ミオパレス4Fの居酒屋「甘太郎」で7名集まって昼飲み会・・・
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11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り-2

12月2日    11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り-2
            11月度歩こう会例会 参加者84名
此の日は天候にも恵まれてオープン参加者も含め84名が参加し、富田林市ボラン
ティアガイドの皆さんの案内で素晴らしい楽しいハイキングとなりました・・・
コースは  近鉄富田林駅前きらめきファクトリー駐車場(10時スタート)
近鉄富田林駅(10時スタート)~旧杉山家住宅等寺内町巡り(仲村家住宅・木口
家住宅・興正寺・葛原家住宅・越井家住宅・奥谷家住宅)~じないまち交流館
(昼食休憩)~東高野街道~錦織神社~近鉄川西駅(解散)
とても綺麗に整備された環境に整然と旧家が立ち並ぶ、ごみ一つ無い綺麗な町と
言う印象でした。此の日の私の万歩計は、13125歩で約7.8㎞歩いたことに・・・      
志都美駅~柏原駅~道明寺~富田林駅
富田林駅
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富田林寺内町
永禄初年頃(1558~1560年頃)、興正寺門跡証秀上人によって創建された興正寺
別院を中心とした寺内町として誕生し、商売の盛んな在郷街として発展しました。
現在も創建当時の六筋七町(後に八町)の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、
大阪府指定文化財仲村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されてい
ます。また、大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
戦国時代、興正寺別院を中心とした一向宗の自治都市として始まった富田林の寺内
町は、一向一揆の制圧を目論む織田信長との対立関係の中で、生き残りを図る為
信長に従う意思を表明し、破壊を免れます。 17世紀後半に入ると、近郊の農作
物やその加工品などの交易の中心地となり、杉山家をはじめとする豪商たちが出現
するに至ってますます繁栄し、寺内町誕生当時そのままの碁盤の目のような町並み
には、これら豪商の手によって江戸時代中期以降に建てられた個性豊かな町家が軒
を連ねています。 漆喰塗の白壁、格子窓、虫籠窓、煙だしの越屋根など、往時の姿
をそのまま伝える伝統的な町家は、今もこの町の人々の生活の場として活き続けて
おり、大阪の堺や奈良の今井町に残る、「海の堺」に「陸の今井」と謳われた寺内
町同様、極めて貴重で価値の高い文化遺産として並び称されています。

きらめきファクトリー駐車場に集合・スタート
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旧杉山家住宅へ向かう
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旧杉山家住宅 <国指定重要文化財>
富田林寺内町造営の中心であった八人衆の筆頭年寄であった杉山家は、当初木綿問屋
を営み、その後酒造業を始めた河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。明治の明星派
歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。
寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在
は430坪)を占め、当時の繁栄を見ることができます。
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中庭
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仲村家住宅 <大阪府指定文化財>
富田林寺内町造営に関わった八人衆の一人であった仲村家は屋号を「佐渡屋」といい、
酒造業を営んでいました。造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785)の酒
造米高は、河内国で最高の2135石に達しました。
文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰も訪れております。
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木口家住宅
当家の母屋の遺構は古風な面が多く18世紀中期の築造と推定される。敷地内には江戸
末期の土蔵2棟と明治の離れ座敷と蔵が残っており、かつての繁栄が偲ばれる。
当家は屋号を木綿屋(木綿庄)といいはじめは木綿商を営んでいたといわれるが、四
代前より瀬戸物商に転じている。近くの堺筋沿いで瀬戸物商を開いておられたが、既
に廃業されています。
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壁にベンチ?
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板のすだれ
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※あて曲げの道 (城之門筋)
寺内町は戦国時代の自治・自衛都市の町割をそのまま残しており、直交する2つの道
路(南北が筋、東西が町)をわずかにずらすことで、遠方がまっすぐに見通せない構
造になっている。
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※背割り水路
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興正寺別院
富田林興正寺別院は、富田林町に所在する真宗興正派の寺院で、大阪府内で唯一、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている富田林寺内町の中核寺院です。
戦国時代の後半にあたる永禄初年頃(1558~1561)、浄土真宗の有力寺院であった
京都興正寺第16世 証秀上人は、石川左岸の荒地を購入し、寺内町の開発に着手する
とともに、その中核となる寺院を建設しました。
本堂は寛永15年(1638)に再建された大規模な建築です。浄土真宗寺院の本堂とし
ては大阪府内では最古、近畿でも最古級の建築であり、全体に古式で、住宅風の趣
をよくとどめています。初期の浄土真宗本堂の成立過程を知る事ができる遺構とし
てきわめて重要な建築です。
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日本の道100撰に・・・
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鍾馗様像(しょうき様像)
鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱
瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。
また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾っ
たり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。
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此処までは、
11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り -1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-01
此処では、続きの 葛原家住宅へ向かう~についての詳細を掲載します。「
葛原家住宅へ向かう
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葛原家住宅
富田林寺内町のなかにある三階倉で有名な葛原家の別邸として、大正13年に建てら
れました。コテージ風の外観と内部のセセッション式の意匠は、大正時代の洋風住
宅を知る典型的な建物となっています。(コテージ風住宅は、大正時代、軽井沢な
どで別荘建築として流行しました)
瓦葺で急勾配の切妻屋根がT字形に交差する、三角屋根の瀟洒(しょうしゃ)な住
宅には、よく見ると、窓に薔薇の模様をあしらった、すてきなステンドグラスがは
められています。また、邸内には、池泉やパーゴラ(日陰棚)も残されています。
建物の老朽化にともなって、屋根の葺き替えや、壁の塗り替えなどの修理がおこな
われ、大正時代のモダンでのびやかな雰囲気が甦りました。
近世の風景が色濃く残る富田林寺内町にほど近い場所に建てられたこの住宅は、新
しく夢のある洋風景観を成していて、当時は注目を集めたことと思われます。
※葛原家は、公開していません。
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越井家住宅へ向かう
PLの塔が見える
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越井家住宅
当家は代々「平尾屋庄兵衛」を名乗り、その先祖が平尾村 から当地に移住したと伝え
られる 材木商を営み安政年間(1854-60年)には庄屋を務めた家柄である。母屋
は明治末期の建築で、当家の材木置場跡に建てられたものである。越井家は地元の
素封家で、材木商・越井林業をはじめ広く事業を営み、昭和初期に大鉄電車社長を
務めた。昭和4年古市-久米寺間延長や20m級大型車増備など積極的に大鉄電車の
経営を推進した。
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番外編
ガイドさんのお宅
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奥谷家住宅・・・すだれうだつが有る
当家は北側に面する奥谷家(岩瀬屋)の分家で、本家6代目の時にこの家を興した。
分家の年代は明らかではないが明治時代の前半と推定される。味醂醸造業を営んで
いた。母屋(八棟造)は桁行六間半、梁行五間半 梁行3室並びの整形六間取り居
室である。二階は床棚付2室を設けるなど極度に発展しているが、表側は江戸時代
同様低い2階造となっている。屋根は切妻桟瓦葺で煙だしは設けず後方妻側上部の
窓によって煙を抜くようになっている。このように寺内町には、当家を含め各時代
を代表する建造物が数多く残されており、それらの変遷を見ることによって地域に
おける生活の移り変わりを知ることができる。
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じないまち交流館へ向かう
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じないまち交流館(2Fで昼食休憩)
「じないまち交流館」は、富田林寺内町を訪れる方々に寺内町の歴史・文化につ
いての様々な情報や市民の交流の場、そして来訪者の休憩場所を提供することな
どを目的としています。
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東高野街道を通り
錦織神社へ向かう
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東高野街道
東高野街道は高野山参詣のための街道のひとつで、石清水八幡から生駒山西麓を
南下し、石川を渡り、藤井寺、羽曳野、富田林市域を通り、河内長野市域で西高
野街道と合流し、紀見峠を越えて高野山に向かいます。
江戸時代、富田林市域を通る街道として、南北に通る東高野街道や巡礼街道、東
西に通る富田林街道や廿山(つづやま)街道などがありました。市域を縦断する
街道に、東高野街道と巡礼街道があります。
巡礼街道は、西国巡礼三十三所観音霊場を巡る巡礼の道です。第4番札所槙尾山施
福寺を出て、河内長野市域で東高野街道と合流し、錦郡・新家・甲田を通って富田
林寺内町に入った巡礼街道は、寺内町の北端で東高野街道と分かれ、水路沿いに北
へ進み、宮と平の集落を抜けて羽曳野市域に入り、羽曳野丘陵沿いに第5番札所葛
井寺へ向かいます。
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錦織神社
すばるホールの東側、総合福祉会館に隣接するうっそうとした森に鎮座するの
が錦織神社です。このあたりは、もとは河内国錦部(にしきべ)郡に属し、錦織
の地名も古くからこの地域に居住した百済(くだら)からの渡来人が綾織、錦織
を朝廷に献上したことに由来すると考えられています。
当社は大和川支流の石川の谷に位置するところから、建水分神社(千早赤坂村)、
美具久留御魂神社(富田林市宮町)とともに古くから河内国の三水分(みくまり)社
として広く信仰を集めていました。
南側の大石鳥居からのびる長い参道は、かつて流鏑馬(やぶさめ)の式が行われた
ところで馬場先といい、その奥に本殿と二摂社があり、ともに国の重要文化財
に指定されています。
本殿は室町時代の築造で、唐破風(からはふ)の上に千鳥破風(ちどりはふ)をのせ
た独特のもので、漆塗りの極彩色の華麗な様式は、日光東照宮拝殿などの原型
となっています。
摂社も本殿と同世代の優れた建造物で、これまで修理が繰り返されてきたもの
の痛みが激しいため、今年の3月に桧皮(ひわだ)の葺き替え修理が行われました。
現在では、桧皮は文化財の修理でも手に入りにくい貴重な建築資材となってい
ます。
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天誅組の石碑
天誅組河内勢志士の名が列記、志士だけではなく、その協力者も書かれている。
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※佐幕派の新撰組とは真逆の倒幕を主張した尊王攘夷派(倒幕派に属する)の
人達の一集団が天誅組です。
幕末は、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国
内の政治権力の再編が進む過程で、その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐
藩、肥前藩で、新撰組の上部組織である京都守護職のトップは、このうちの会津
藩主でした。
対して天誅組の盟主は、青年貴族中山忠光(明治天皇の叔父)でした。
天誅組は、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想のもと、朝廷を守護するため
に立ち上がった武士の集団であったはずが、新政府軍の勝利が目前となり、天皇
が大和へと行幸するより先んじてその魁(さきがけ)とならんと先行するも、そ
の頃京都では尊王派と攘夷派が結びついて幕府を立て直し朝廷と協力して政治を
行おうとする「公武合体派勢力」に逆転し、江戸幕府は朝敵ではなくなったこと
で、大和行幸が中止となり、先行独断の謀反人や逆賊となり、幕府から追討を受
ける運命となってしまったのです。
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近鉄川西駅(解散)
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