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11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-2

11月27日       11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-2
                 歴史探訪の会 11月例会
コロナ禍の中で今年3回目の歴史探訪の会、参加者15名を7名と8名の2班編成で三密を
避けてコロナ感染防止対策、勿論参加者全員マスク着用、受付で検温、手指消毒して
生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さんのお世話で有意義な例会となりました。
生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さん、お世話になり有難う御座いました。
此の日の私の万歩計は、15617歩で約9.3㎞歩いたことに・・・
「南生駒の石の文化財巡り」
今でも村落の出入り口に結界の残る新子いう信仰心の厚い生駒地区、中でも南生駒地
区に今でも残る石の文化財を巡り、当時の人々が仏教を信仰していたのか?思いを馳
せながら今に残された石仏と自然をみつめてまわる歴史探訪の会にしました。
コース
萩の台駅~石福寺~応願寺~円福寺~興融寺~竹林寺・忍性菩薩墓・神變大菩薩行者
堂・庫裡で昼食休憩・竹林寺本堂・行基菩薩墓~竹林寺古墳~観泉寺~菊司醸造(お
酒各種試飲・お買い物)解散~南生駒駅  以上。
志都美駅~萩の台駅
萩の台駅
萩の台駅前広場にて検温、手指消毒、参加者15名。3密を避ける為に2班編成で生駒
市観光ボランティアガイドの会の皆さんと巡りました。
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萩の台駅~石福寺へ向かう
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文化財保存館
※乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商(造り酒屋)だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り
入れようと、村人に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。
平成19年(2007)には「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財
に指定。生駒市萩の台の石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなく
なってしまった「村芝居」の資料が展示・保存されている。
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石福寺・・・正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
大阪平野の大念仏寺で行われる25菩薩お練り行に毎年参列する信心深い地域という。
逆修の十三仏板碑
境内前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)の
もので歴史が感じられる。
※逆修                        
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈る為の仏事をする事。その為に
建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修。
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石福寺~応願寺へ向かう
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応願寺・・・祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月
11日の銘有り、伊派(伊行末が創始)の石工伊行氏の作と考えられている。
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※伊行末(いぎょうまつ)
伊行末(いぎょうまつ、い の ゆきすえ? - 文応元年7月11日(1260年8月19日))は、
鎌倉時代の石工。           
南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、鎌倉時代初頭に来日し南都焼討後の
東大寺復興にあたった。                  
我が国の石工集団「伊派」の創始者であり、彼の子孫は「伊」「猪」「井」を冠する
苗字を名乗り(例えば伊野、猪野、井野)、日本各地にその足跡を残している。
代表的な作品
• 新大仏寺本尊石造台座、建仁2年(1202年)重要文化財
• 大野弥勒磨崖仏、承元2年(1208年)史跡
• 大蔵寺十三重石塔、延応2年(1240年)奈良県指定文化財
• 般若寺十三重石塔、建長5年(1253年)
今回のコースでは、長い坂道が続くので石仏寺には行きませんでしたが(参考迄)

※石仏寺・・・岩生山 石仏寺
奈良県生駒市藤尾町 石仏寺。暗越え奈良街道の西、藤尾峠に在る石仏寺。本尊は伊派
(創始者は伊行末)の石工伊行氏作で光背部に観音・勢至菩薩を浮き彫りにして阿弥
陀三尊としています。

応願寺~円福寺へ向かう
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円福寺・・・龍華山 円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿革は
明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが残る。

重要文化財の本堂
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2)
-入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書「応安4年
(1371年)」から当時の建立とみられる。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。
北側の塔(写真左)は初重に四仏の「種字」を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。
南側の塔は初重に四仏の像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
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興融寺・・・慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。沿革は不明ですが、安永3年
(1774)『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には阿弥陀堂と記載されています。興融寺は生駒市
青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れているため、石仏ファンで
もない限り訪れる人は少ない。しかも、ちょっと分かり難い場所にお寺が立っています。
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興融寺~竹林寺・忍性菩薩墓~へ向かう
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竹林寺・忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)
で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をし
ました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業を展開します。
忍性は行基の大ファン?

16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。忍性は19歳から6年間毎月竹
林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺で行基の舎利が発見された。行基は
奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、大仏建立にも尽力した
ことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣
し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範とするとするところが
大きいと云われる。忍性は、鎌倉・極楽寺で87歳で臨終を迎えた。遺言により遺骨は
三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に努めた忍性に、後醍
醐天皇は「菩薩」号を追贈した。

忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事
に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、
病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老
いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿
が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期
以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識さ
れており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。
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竹林寺・神變大菩薩行者堂・・神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役小角(えんのおづの/おづぬ/おつの)、舒明天皇6年(634年)
伝–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。
修験道 の開祖とされている。
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竹林寺・庫裡で昼食休憩
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此処までは、
11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-27-1
此処では、続きの 竹林寺本堂~ についての詳細を掲載致します。
竹林寺本堂
竹林寺・・・生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定されるが
詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所から舎
利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。
山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。
奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった
僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたも
のと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台
山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理し
ていたが、20世紀末から境内の整備が進められている。
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※行基菩薩
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇などの
教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐
して玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のものとなっ
ていた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行ったとされて
いる。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそうだ。その後、
聖武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で人生を終えると母
親の近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ/668年~749年)は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機
関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り
畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬さ
れた。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、
困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷から
は度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね
返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武
天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大
寺の「四聖」の一人に数えられている。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武
天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んで いる。

竹林寺・行基菩薩墓・・・大正10年に当時の内務省によって国指定史跡に
竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられています。
行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え生駒山で火
葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、左手の墓地に
忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩薩と行基を強く尊
敬しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺言により遺骨は竹林寺
・極楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されています。
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竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒谷)に
おける唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していないことから、こ
の地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる文殊山竹林寺境内に
ある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴輪の特徴から、古墳時代前
期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円部の一部が失われ、後円部は墳頂
に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による損傷が生じている。その他の部分は雑木
林に覆われ、開墾による削平(さくへい)を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺を後に観泉寺に向かう
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観泉寺・・・青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯に
より開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった方々
の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種字十三仏板碑など」が数多くある。
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境内に西国三十三か所巡りがある。
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神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
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菊司醸造(お酒各種試飲・お買い物)解散
菊司醸造
敷地の一画に建つのは酒の神を祀る石碑(右)。今も蔵を見守る。隣には親戚縁者だ
と言う名高い俳人、阿波野青畝の 「和を以って 尊ぶために 菊の酒」 との句碑、
親戚縁者だと言う。
※阿波野青畝
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月 - 1992年(平成4年)12月)は
奈良県出身の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期
に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称され「ホトトギ
ス」の黄金時代を築くのに貢献した。
奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取
支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学校
(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。1915年「ホトトギス」を知り、県立郡山中学
校で教師をしていた「ホトトギス」同人の原田浜人のもとで俳句を学んだ。
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菊司醸造様 奈良漬と美味しいお酒の試飲、有難う御座いました。

南生駒駅 
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mamu7010

 今年最後の歴史探訪の会?
皆さんも、公共の交通機関を使うのはちょっと?でしょうネ。
でもそれにしても良い所ですし、菊司醸造さんも頑張ってますね。
まだ当分ご近所散歩で我慢ですが、。

by mamu7010 (2020-12-01 08:32) 

taharas

mamu7010 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
昨日は足の衰えにびっくりしました。公道を往復4.4㎞歩いたが
家を出て最初の数百mは何となく身体のバランスが悪かった様な
気がする。家内が買い物に行ってる近所のスーパーに荷物持ちに
行っただけでショック?2㎏前後の荷を下げて歩いて来た・・・
by taharas (2020-12-02 11:42) 

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