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11月23日の土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策-2

11月28日    11月23日の土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策-2
           近鉄駅フリーハイキング 歩程約9㎞ 
此の日は、知人の・K場さん・Y田さん・I 田さんと4名で「阿波野青畝句碑巡り
と高取城祭り 7㎞」の予定を、急遽、高取城跡の紅葉狩りに変更して楽しんだ。
駅前~タクシーに乗り、壺坂寺の上の駐車場迄行き、そこから紅葉を愛でながら
歩いて高取城跡へ登り、帰りは宗泉寺~砂防ダム公園へ降りるコースで歩いてみ
る事にした。先に高取城跡の紅葉狩りについては、綺麗で清々しい気持ちになっ
たので別途UPした。此の日の私の万歩計は、22085歩で約13.2㎞歩いた事に・・
当初予定は、阿波野青畝句碑巡りと高取城祭り、と言う事だったが大幅に変えて
タイトルも 土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策 と変えてみました。
壺阪山駅(10:05)~タクシーで壺阪寺駐車場(1500円)~高取城跡(昼食)~
国見櫓~猿石~宗泉寺~上子島砂防ダム公園・阿波野青畝句碑~阿波野青畝生家
~植村家長屋門~高取児童公園・城祭り会場~土佐恵比寿神社~壺坂山駅
志都美駅~香芝駅~近鉄下田駅乗換
香芝駅~鹿島神社
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重
な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
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壺坂山駅前~タクシーで壺阪寺駐車場へ
壺阪寺駐車場でタクシーを降りてスタート
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※壺坂寺・・・HPより
創建は寺蔵の『南法花寺古老伝』によると、大宝3年(703)年に元興寺の僧、弁基上
人がこの山で修行していたところ、愛用の水晶の壺を坂の上の庵に納め、感得した観
音像を刻んでまつったのが始まりといわれる。境内からは当時の藤原宮の時期の瓦が
多数出土している。その後、元正天皇に奏じて御祈願寺となった。
平安期には、長谷寺とともに定額寺に列せられ(847年)、平安貴族達の参拝も盛んに
なり、ことに清少納言は「枕草子」のなかで「寺は壷坂、笠置、法輪・・・」と霊験
の寺として、筆頭に挙げている。また、左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿
泊したという記録も残っている(1007年)。
この頃、子島寺の真興上人が壷阪寺の復興にあたり、真言宗子島法流(壷坂法流)の
一大道場となり、三十三所の観音霊場信仰とともに、寺門は大いに栄えていった。
その後数度の火災にあうが、その度に山僧の合力により再建がなされてきた。
しかし、南北朝や戦国の動乱に巻き込まれ、当時庇護を受けていた越智氏の滅亡とと
もに壷阪寺も衰退していく。一時は山内に三十六堂、六十余坊の大伽藍を配していた
が、境内には三重塔と僅かな諸坊を残すだけとなった。
近世の壷阪寺は豊臣秀吉の弟秀長の家来本多利久が高取城主となり、本多氏とその後
明治の廃藩置県まで続く藩主植村氏の庇護を受け復興していった。明治の初め、盲目
の夫沢市とその妻お里の夫婦の物語、人形浄瑠璃『壺坂霊験記』が初演され、歌舞伎、
講談、浪曲となり壷阪寺の名は大きく世に広まっていった。(壺坂霊験記)
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壺阪寺を越えて
高取城跡へ向かう 二上山が見える
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500羅漢石仏への入り口
道路が封鎖されて通れないと言う
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高取城跡迄約2.2㎞
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入口に来た
高取城跡迄 1.3㎞
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壺阪口門跡
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本丸へ200m迄来た
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石垣の苔が良い
大手門跡
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十三間多門跡~本丸へ向かう
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此処の石垣も良い
日本三大山城の説明看板が・・・
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十五間多門跡
見事な大木と石垣
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此処を曲がると
「本丸」の看板をクマが持っている
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本丸広場を横目に
先ず天守跡(三等三角点584m)へ登る
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流石に
眺めが良い
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天守跡を降りると
本丸広場、井戸跡も・・・
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此処、高取城跡 本丸広場で(昼食)
高取城
高取城(たかとりじょう)は、奈良県高市郡高取町高取にあった日本の城である。
別名、高取山城。江戸時代は高取藩の藩庁であった。国の史跡に指定されている。
城は、高取町から4キロメートル程南東にある、標高583メートル、比高350メートル
の高取山山上に築かれた山城である。山上に白漆喰塗りの天守や櫓が29棟建て
並べられ、城下町より望む姿は「巽高取雪かと見れば、雪ではござらぬ土佐の城」
と謡われた。なお、土佐とは高取の旧名である。
曲輪の連なった連郭式の山城で、城内の面積は約10,000平方メートル、周囲は約
3キロメートル、城郭全域の総面積約60,000平方メートル、周囲約30キロメートルに
及ぶ。日本国内では最大規模の山城で、備中松山城(岡山県)・岩村城(岐阜県)と
ともに日本三大山城の一つに数えられる。元和元年(1615年)の一国一城令の際
も重要な山城として破却を免れ、現在に至るまで石垣や石塁が残されている。
歴史
南北朝時代、南朝方であった越智邦澄が元弘2年(正慶元年、1332年)に築城した
のが始まりと伝えられている。当初は越智氏の本城である貝吹山城の支城として
機能していた。越智氏の支配が長く続き、戦国時代には高取城が越智氏の本城と
なっていたようである。貴重な城郭資料として昭和28年(1953年)3月31日に国の
史跡に指定された。平成18年(2006年)に、日本100名城に選定された。
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昼食後本丸広場を散策して大手門へ
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此処までは、
11月23日の土佐街道~日本最強の高取城跡紅葉散策-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-27
此処では、続きの 高取城大手門跡~帰り道についての詳細を掲載します。
土佐街道 壺阪山駅方面へ
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松ノ門跡
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国見櫓へ120mの表示、
行って見る事に・・・景色が良い
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帰ってくると80mの表示
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二の門跡には池が・・・
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猿石が鎮座・・・明日香村からの登山道と交差、我々は土佐街道へ
猿石
高取城二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり。制作は、飛鳥
時代の斉明朝あたりと推定される。高取城築城の際、石垣に転用するために明
日香村から運ばれたと言われている。 明日香村檜隈(ひのくま)の吉備姫王
(きびのひめみこ)の墓の域内にある石仏像と同類のものである。 郭内と城
内の境目を示す「結界石」とした説もある。
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其処から少し下ると
史跡 高取城址の大きな石碑が
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其処から更に下ると聖天さんの所で左に入ると宗泉寺への入り口が・・・・
島流社(聖天さん)の祠?
商売繁盛の守り本尊として信仰されている。生駒聖天の元宮との説も?
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聖天さんを左へ入ると宗泉寺
宗泉寺
高取藩主植村氏の菩提寺である。もともとは植村家政の下屋敷であった。
元禄11年(1698年)に寺として創設。植村氏累代の墓碑がある。
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上子島砂防ダム公園・阿波野青畝句碑
上子島砂防ダム公園
高取川の上流、ちょうど高取城への入口に当るところに上子嶋砂防公園があります。
ハイキングシーズンには、たくさんの方々が、高取城へ上る際の最初の休憩地点と
して休憩されています。
この砂防公園は、地元の保全ボランティアの皆様の活躍により、梅、桜、あじさい
等、通年様々な花々が我々を迎えてくれます。また、水が綺麗なため、6月中旬頃
には、ほたるも見頃になります。
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阿波野青畝句碑
「満山の つぼみのまゝの 躑躅かな」
(まんざんの つぼみのままの つつじかな)
            これから躑躅の花が、一杯に咲こうとしています。
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水車小屋
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阿波野青畝生家
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植村家長屋門
旧大手門の通りに面しており、旧高取藩の筆頭家老屋敷。県重要文化財に指定
されており、なまこ壁が城下町の雰囲気を漂わせる。
江戸末期、文政9年(1826年)の建立で、門口39.1m、奥行4m、むね高5mの規
模で一重入母屋瓦葺き造り、腰板張りの部分はなまこ壁。近代武家屋敷表門の
遺構を残している貴重な建物。(現在も居宅として利用されている)
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※高取町の土佐街道
高取町では壺坂寺まで通じる長い長い町並みが続く。そのうち「札の辻」の交差
点までの道を地元では土佐街道と呼んでいる。明日香に都があったころ、土佐
の国から都造営のために連れてこられて故郷へ帰れなくなった人たちが、望郷
の思いからこの地を「土佐」と呼ぶようになったといわれる。両側に水路がある
狭い道に沿って、高取城の城下町に由来する古い町並みが続いている。
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高取児童公園・城祭り会場
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※土佐街道の敷石
阪神電鉄国道線の敷石については、意外に神社仏閣で再利用されたという話題があり
ません。それもそのはず、大部分は線路の撤去を行わないままその上にアスファルト
を被せてしまったためのようです。ところが1995(平成7)年の阪神大震災で国道2
号線の路盤が大きく損傷し、これを改修する際に軌道敷のレールと敷石が掘り出され
ました。そして、その一部が壷坂寺で有名な奈良県高取町に引き取られ、街中の土佐
街道に敷設されました。近鉄壷坂山駅近くの土佐街道2キロほどの道路の路肩部に阪
神電鉄国道線の敷石が2列で敷設されて、良い景観となっています。

土佐 恵比須神社
土佐街道に「土佐町の由来」と題する案内板があり、そこにはこう書かれています。
六世紀の始め頃、大和朝廷の都造りの労役で古里土佐国を離れこの地に召し出され
たものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に
住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。故郷を離れて生きていく生
活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意思は古里の名を今の場所につける
ことであった。
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壺坂山駅
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近鉄の特急車両 青のシンホニー
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樫原神宮前駅で
近鉄の特急車両
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11月23日の日本一の山城 高取城跡の紅葉狩り

11月27日      11月23日の日本一の山城 高取城跡の紅葉狩り
            高取城跡への往復の道のりは後で・・  
11月23日の高取城跡の紅葉は素晴らしかったの一言です、登り下りは大汗かいた
が、山頂の紅葉がとても綺麗で清々しい気持ちになった。これは別途UPします。
壺阪山駅~4名で壺坂寺の駐車場迄行き、そこから歩いて高取城跡へ登り、帰りは
猿石見て~宗泉時~砂防公園~植村家長屋門~壺阪山駅へ戻りました。
23日の高取城跡の紅葉狩り
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11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-2

11月26日      11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-2
            12月17日の歩こう会納会ビールで乾杯
12月17日の工場見学の予約は既に取得済だったが、周辺の散策場所も含めて最終
確認の為・M吉さん・K場さんと3名で集合場所の確認や吹田市役所訪問し当日の
トイレ使用やパンフレットの調達、泉殿神社等も訪問して色々お願いして・・・
アサヒビール工場見学・ビールでほろ酔い気分&17日段取り等確認してJR吹田駅
近くの食堂で昼食休憩して此の日の私の万歩計は、14196歩で約8.5㎞歩いた・・ 
阪急吹田駅西口前
像の親子が見守る公園・・安心安全見守るゾウ
集合場所候補、トイレは市役所1Fのトイレを借りるなど
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市役所訪問
観光パンフレットを頂く、当日トイレを貸して貰うお願い

線路の下、地下道を潜って
泉殿宮(いづどのぐう)・・・HPより
昔から吹田の氏神さまとして農耕の神をお祀(まつ)りしていました。
貞観11年(869)干ばつ続きで、苦しんでいた処、新たに須佐之男大神に祈る
と境内から泉が湧き出て難を逃れたことから厄除開運の御利益がございます。
                 泉殿霊泉
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詳細は
当宮往古は、次田ノ社と称え奉り、河内の次田連の祖神 天香山命を氏神として、
五穀の神「宇迦之御魂大神(うがのみたまのおおかみ)」[伏見稲荷大社の御祭
神]を祀(まつ)る。第56代清和天皇貞観(じょうがん)11年(西暦869年)
当地久しく旱魃(かんばつ)、草木は色を変じ、大河の流れも通わず、天下疫病
流行し、諸民悉(ことごと)く枯渇(こかつ)に苦しむ。播磨(姫路)の広峯神
社より王城鎮護(おうじょうちんご)の守り神として[祇園八坂神社]の御祭神と
して迎えられる「建速須佐之男大神」(たけはや すさのお の おおかみ)]の御神
輿が、しばらく当宮にお立ち寄りになられた。大神に祝詞を奏上し、獅子頭を激
しく振り、歎きを告げ、篤(あつ)く雨を祈ると、忽然と清泉土中より湧漲(ゆ
うちょう)した。立ち処に、里人渇(かつ)を免(まぬ)がれ、田畑隈(くま)
なく潅水(かんすい)した。よって、建速須佐之男大神を勧請し相殿として斎き
祀る。この雨乞いの状と雨を喜ぶ童子の姿は、吹田市地域無形民俗文化財の「泉
殿宮神楽獅子(いづどのぐうかぐらじし)」の所作となっている。
明治22年(西暦1889年)、「泉殿霊泉」をドイツのミュンヘンに送り、これビー
ル醸造(じょうぞう)に適水との保証を得、当宮隣接地に同水系の湧水を以って、
東洋初のビール醸造工場(現、アサヒビール㈱吹田工場)建設の逸話がある。そ
の後、近隣の都市化に伴い上水道は普及し、又、かつての広々とした水田が殆ど
姿を消したのを見届けるかのように、霊泉は地中奥深くに水脈を移し、今は、湧
水していない。
当宮は、国家権力の保護を求めない庶民信仰に支えられたる諸社にして、創祀以
来、氏子の信倚のもと、代々藤原姓南家「宮脇家」祀職を奉仕するところ、天保
8年(西暦1837年)大塩平八郎義兵の挙あり、当宮第32代宮司・宮脇志摩は、大
塩平八郎の叔父に当たり、乱の主謀者として寺社方捕手役人の囲みに、この地に
て切腹。課刑峻烈(かけいしゅんれつ)にして、男児悉く遠島、家門闕所となり、
社運も傾くかに見えたが、明治維新と共にその義挙を認められ、流刑地に生存の
遺児総て赦免・出島仰せ付けられ、家門再興、宮脇志津摩(しづま)・泉殿宮第
33代宮司を嗣(つ)ぎ、社運再び赫赫(かくかく)として今に到る。
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昭和45年「人類の進歩と調和」をテーマに開催された日本万国博覧会会場建設の地
鎮祭(じちんさい)・立柱祭(りっちゅうさい)等、一連の祭典は、当宮宮司が斎
主(さいしゅ)をお仕え申し上げた。祭儀に使用された元柱(もとつはしら)[木曽
50年杉]は、当宮に奉建され無事成功を祈念してきた。 日本万国博が掲げた「科
学の進歩と人間尊重の精神」が、永く受け継がれるよう、境内に祀られている。
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泉殿宮の並びにアサヒビール工場はあるのだが
道路を渡って対面に鎮座する片山神社へ行って見る
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片山神社・豊川稲荷&干支稲荷
片山神社(かたやまじんじゃ)・・・HPより
大和時代から平安時代にかける、その昔、この地より千里に至る一帯が丘陵地に
なっており、良質の粘土が多量に出土し、その頃の人達は「須恵器」や「瓦」を
作り、生計をたてていた。
この窯焼きは大陸文化によるもので、大和朝廷(4世紀・西暦300年頃)が誕生
の頃から食器類や屋根瓦の需要が高まり、その時代の成長産業であった。
この地で生産される須恵器は、質の良さから生産も相当なものであったらしい、
そして平安京(8世紀・西暦800年頃)が遷都された頃には屋根瓦も需要も最高に
達し活気あふれる産業地域であった。しかし、平安時代が過ぎると、これらの産
業も斜陽の一途をたどり、ついには廃窯となり以後、この地は農耕へと移行して
いった。この歴史を実証する50基余の《登窯》が発掘されている。
その頃、この地で焼き物に携わる人達が【陶芸の祖神】であり、方除け・災難除け
・火防の守護神である素盞烏尊(すさのおのみこと)を祀り崇敬を集めていたのが、
当神社の創始と思われる。当神社は、天正の御代(室町・安土桃山時代 西暦150
0年頃)の兵火と大正3年の2回、建造物一切が焼失され、古文書等が存在していな
ので、建立ならび由緒等については不明である。
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11時~アサヒビール吹田工場の
見学を予約してるので道路を渡って工場へ
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アサヒビール吹田工場
アサヒビール発祥の地として、100年以上の歴史を持つ吹田工場では、近畿エリア
にお届けするビールを作っています。工場見学は無料でお楽しみいただけ、できた
ての生ビールも3杯まで試飲出来ます。
工場に入るとアサヒビール吹田工場のシンボリックな存在である煉瓦壁が現れます。
明治22年(1889年)にアサヒビールの前身である大阪麦酒会社が創立され、明治2
4年に吹田村醸造所が完成したそうで、なんと平成元年(1989年)までの100年間
にわたり現存していた同工場ですが、こうして外壁の一部が移築保存されています。
アサヒビールの歴史そのものであるこのレンガの壁をぜひご覧ください!!
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工場の建物の中へ入る
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さー
工場見学へ
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工場見学途中
此処までは、
11月21日の吹田アサヒビール工場見学下見-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-26
此処では、続きの工場見学途中
(アサヒビールの誕生 パネル展示)~ についての詳細を掲載します。
工場見学途中(アサヒビールの誕生 パネル展示)
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世界各国のビール缶やビール瓶コレクションを見た後
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試飲会場です。
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一杯目は氷点下(—2.2度)スーパードライ
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二敗目は黒ビール
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試飲会場を後に
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12月17日の段取りを打ち合わせて
ショップでお土産を購入して外へ
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JR吹田駅へ向かう
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JR吹田駅
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11月20日の紅葉の美しい加茂の里へ石仏を見に-2

11月24日      11月20日の紅葉の美しい加茂の里へ石仏を見に-2
            11月度 歴史探訪の会例会 参加費1500円
今回はJR加茂駅からバスで岩船寺迄行き、石仏を巡り昼食休憩、浄瑠璃寺から更に
石仏を巡り加茂山の家・バス停までの歴史探訪の会に参加者21名、地元ボランティ
アガイドさん3名に引率?されて、天気も良く気持ちいい素晴らしいハイキング。
コースは  JR加茂駅東口(10:00集合)  参加費1500円 (バス費用、拝観費用)
JR加茂駅東口(10:00)~10:14バス~岩船寺~不動明王立像~笑い仏~カラスの壺
二尊~随願寺跡~藪の中三尊磨崖仏~浄瑠璃寺前(昼食)~浄瑠璃寺~大門石仏群
~仏谷阿弥陀磨崖仏~加茂山の家・バス停(解散)~バス~JR加茂駅へ
紅葉の綺麗な山の中、此の日の私の万歩計は、13636歩で約8.1㎞歩いたことに・・・
志都美駅~加茂駅
加茂駅前で朝礼
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加茂駅前~バス~岩船寺
岩船寺
加茂町南部、南当尾一帯は古く「小田原」とよばれ、仏教文化が花開いたところで
した。その中でも、当寺は平安時代を代表する寺院です。行基開基を伝え、行基が
鳴川に建立した阿弥陀堂がそのはじまりとされ、弘安2年に至って鳴川山寺の東禅
院潅頂堂を岩船に移し、同8年に供養したといわれていますが定かではありません
(『岩船寺縁起』)。本尊は阿弥陀如来像で10世紀を代表する仏像として知られ
ています。三重塔(室町時代)は中世後期の代表作ともいわれており、重要文化
財に指定されています。
奈良県と京都府の県境にある南山城にある寺院で、紫陽花寺として知られます。
南山城の地域は南都仏教の聖地として奈良文化の影響を強く受けています。境内
の三重塔や本尊阿弥陀如来像は重要文化財に指定されています。
梅、椿、桜、睡蓮、百日紅、紅葉など、四季折々の草花が豊かです。門前には鎌
倉時代といわれる石風呂があります。
寺伝によると、729年に聖武天皇が夢想によって奈良市東鳴川町の善根寺に籠居
していた行基に一宇の阿弥陀堂を建立させ、のちに弘法大師とその甥である智泉
大徳が伝法灌頂を修し灌頂堂として新たに報恩院を建立したのが草創の始まりと
されています。弘安2年に至って鳴川山寺の東禅院潅頂堂を岩船に移し、同8年に
供養したといわれていますが定かではありません。
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岩船寺 三重塔(重要文化財)高さ:17.56m、室町時代
寺伝によると智泉大徳入滅のあと十年が過ぎて、承和年間(834~847年)に仁明
天皇が智泉の遺徳を偲んで宝塔を建立したと伝わすが、昭和十八年(1943年)の
解体修理の際に丸桁に刻まれている「嘉吉二年(1442年)五月廿日」の銘文が発見
され、寺伝でも承久三年(1221年)の承久の乱で兵火を被ったとの記録があるこ
とから、現存する塔は室町時代の建立とも考えられています。仏塔古寺十八尊霊
場の一つでもあります。
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十三重石塔(重要文化財)
阿字池の左側に建つ花崗岩で造られた十三重石塔。正和三年(1314年)妙空僧正
の建立と伝える。高さ5.5mで、壇上積の基壇の上に設けられ、初重から相輪に至
るまで大きさが整い、軒反りも緩やかで、初重の塔身の四面には金剛界四仏の梵
字、東面にはウン(阿?如来 、南面タラク(宝生如来)、西面キリク(阿弥陀如
来)、北面アク(不空成就如来)が薬研彫りで刻まれている。昭和十八年(1943
年)の石塔積み直し修理の際、軸石のくぼみの中に水晶の五輪舎利塔が発見された。
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五輪石塔(重要文化財)
厄除け地蔵堂の少し左に建つ、鎌倉時代作の2m余りの五輪石塔。寺伝では東大寺別
当平智僧都の墓と伝えている。以前は岩船村落の北谷墓地にあったが、昭和十二年
(1937年)頃に当地へ移された。 地輪(じりん)下には返花座(かえりばなざ)が
あるが、これは大和式と呼ばれる五輪塔の様式で、ここ南山城から大和地方にかけ
ての特徴であり、この五輪石塔はその代表的なものである。
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三つ又に蕾が・・
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石室不動明王(重要文化財)
十三重石塔から少し離れた山の斜面に石室がある。花崗岩製で前面二本の角材柱を
立て、その上に寄棟造りの一枚岩の屋根をかけた珍しい様式となっている。奥壁の
一枚岩には薄肉彫りの不動明王像と、像に向かって右左には「応長第二初夏六日」
「願主盛現」と線刻された銘文が残されている。この銘文から応長二年(1312年)
四月六日の造立されるが、この年の三月二十日には改元されて正和元年となって
おり、恐らくそれ以前に制作されて四月六日に開眼法要を予定していたため先に
刻んでおいたのではないかと思われる。
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一願不動へ向かう
皇帝ダリアが咲いて・・・
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一願不動(当尾磨崖仏不動明王立像)
高さ約1.2mのお不動さん。願い事を1つだけ一心に祈れば叶えてくれるという。
弘安10年(1287年)の銘がある。
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笑い仏へ向かう
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笑い仏(岩船阿弥陀三尊磨崖仏)
少し左に傾いた岩に彫られた穏やかにほほえむ阿弥陀三尊像。高さ約80cmの
阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩が刻まれる。
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浄瑠璃寺へ向かう
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吊り店発祥の地だとか
今は使われていないが当時のお金を受け取る箱
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此処までは、
11月20日の紅葉の美しい加茂の里へ石仏を見に-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-24
此処では、続きの カラスの壺二尊~ についての詳細を掲載します。
カラスの壺二尊(阿弥陀地蔵磨崖仏)
一つの岩に阿弥陀如来坐像と、地蔵菩薩立像が彫られている。阿弥陀如来坐像
の横の線彫灯籠は火袋を彫り込み、そこへ灯明が供えられる。
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浄瑠璃寺へ向かう
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随願寺跡
浄瑠璃寺を「西小田原寺」と呼び、こちらは「東小田原寺」とも呼ばれました。
今は立ち入り禁止となっています。
「大乗院自社雑事記」では、「明応二年から二百余年以前に大きな火災にみま
われた。さらに随願寺には三重塔もあったがそれもすでに倒壊した」と伝えて
おり、浄瑠璃寺に匹敵する大寺院であったことを彷彿とさせます。随願寺で造
立されたとされる「愛染明王坐像」は奈良国立博物館に所蔵されています。
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浄瑠璃寺へ向かう
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藪の中三尊磨崖仏
向かって左端に一体だけ、浄瑠璃寺の方を向いておられるのが、「阿弥陀
如来座像」。こちらを向いた二体は、「地蔵菩薩」と「十一面観世音菩薩」です。
いずれもかなり厚肉彫りで、1262年(弘長2年)、鎌倉時代の中頃の作です。
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浄瑠璃寺前(昼食)
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浄瑠璃寺へむかう
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浄瑠璃寺
詳しい創建年は不明ですが、一説には行基によって開基された説や、永承2年
(1047年)に義明上人が薬師如来を本尊として小さな堂を建てたのが浄瑠璃寺の
始まりとする説があります。寺名は創建時の本尊である薬師如来の浄土である
浄瑠璃世界から付けられました。
浄瑠璃寺の伽藍配置は、池を中央にして東に薬師如来を祀る三重塔、西には阿
弥陀如来九体を祀る本堂があります。古い寺院の金堂(本堂)や都の大極殿で
は南面が原則ですが、平安時代の中頃から、阿弥陀如来を東面に祀りその前に
池を造る型が出てきました。例)平等院
九体阿弥陀如来像(国宝)
寄木造 像高:224.0cm(中尊)、139cm〜145cm(脇仏8体)藤原時代
現在の本尊で古くから残る九体佛は日本で唯一のものです。「観無量寿経」に
ある上品〜下品までの九品往生の考えから九体祀っています。中尊だけ丈六仏、
脇仏8体は一回り小さく半丈六仏となっています。中尊の仏像の特徴が平等院
鳳凰堂に安置される定朝作の阿弥陀如来像と酷似していることからこちらの阿
弥陀如来像も定朝の作とされていますが、正しいことは不明です。
11月20日現在、2体修復中につき九体佛全ては見れませんでした。
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吉祥天女立像(重要文化財)檜材割矧ぎ造 像高90cm、鎌倉時代
11月20日はちょうど公開中で秘仏を見る事が出来ました。
九体佛と並ぶ浄瑠璃寺の人気仏像がこの吉祥天女立像です。薬師寺の吉祥天と並
ぶ最高傑作の吉祥天像として知られます。本堂に安置されていますが、基本的に
秘仏であるため滅多に見ることができません。しかし秘仏であったため保存状態
は良く、色彩がはっきり見えます。
吉祥天とは豊かな暮らしと平和を授ける幸福の女神です。南都の寺々では正月に
そういう祈願の法要をする伝統があり、吉祥天のの仏像が多く祀られています。
この吉祥天は造立時などの記録はなく、1212年に本堂へ祀られた記録しか残っ
ていないなど謎の多い仏像です。
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浄瑠璃寺の庭園
池を中心とした浄瑠璃寺の庭園は興福寺の僧であった伊豆僧正恵心が1150年に
入寺し、伽藍の整備にあたった頃に造られました。鎌倉時代のはじめに石を立
てるなどの補強はあったものの、その後はほとんど手を加えられていないほぼ
当時の姿をしています。
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三重塔(国宝)高さ:約16m、藤原時代
本堂から宝池を挟んだ対岸に建つのが三重塔です。寺伝によると治承二年(1178)
に京都一条大宮から移されてきたものです。初層内は扉の釈迦八相、四隅の十六
羅漢図(重文)など、装飾文様で壁面が埋められています。かつては仏舎利を納
めていたと考えられているが、当寺に移築後は秘仏薬師如来像を安置しています。
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浄瑠璃寺を後に
大門石仏群へ向かう
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大門石仏群
大門の阿弥陀寺跡や鎮守社近くの現石像群近くにあったせきぶつ、石塔などを
集めて安置し直したもの。
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大門仏谷へ向かう
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大門仏谷(如来形磨崖仏)大磨崖仏
当尾の石仏では最大の2.8mの如来形坐像が、谷向かいの6mを超える巨大な
花崗岩に彫られている。
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加茂山の家・バス停へ向かう
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加茂山の家・バス停(解散)~バス~JR加茂駅へ
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11月19日の今日からパソコン同好会に

11月19日        11月19日の今日からパソコン同好会に
              社友会の同好会 3つ目に入会
今日、11月19日から社友会のパソコン同好会に参加、私にとって4つ目の同好会、
現在参加して活動してるのは「歩こう会」と「歴史探訪の会」、そして11月から
入会して今日初参加したのが「パソコン同好会」、此れまでの3つ目の同好会は、
「絵手紙クラブ」だったが此れを辞めて、「パソコン同好会」に入会した・・・
パソコン同好会12:30~16:00迄だが、10:30~入場可能と言うので今日は10:45に、
今日は、新入会員が私を含めて2名、オープン参加2名(ご夫妻)全20名くらい?
社友会のカルチャー教室で2度お世話になって、やっぱり入会して学ぶ事にした。
その為に、11インチのノートパソコンも購入してやる気は人一倍、万満です・・
さー 頑張るぞ!!
志都美駅
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久宝寺駅~社友会事務所へ
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帰りに王寺駅のイルミネーション
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11月16日の世界遺産・ここが凄い“古市古墳群”巡り-2

11月18日    11月16日の世界遺産・ここが凄い“古市古墳群”巡り-2
            藤井寺市観光協会主催 参加費@200円
此の日は、知人の・K場さん・O村さんと3名で藤井寺市観光協会主催のハイキングに
参加、ボランティアガイドノ先導世界遺産~古市古墳群巡り~をして来ました。
コースは 道明寺天満宮受付9:00~9:40  藤井寺市観光協会主催 参加費@200円 
道明寺駅~道明寺天満宮(受付・スタート)~道明寺前~仲姫命陵古墳~小室山古墳~
大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~番所山古墳~シュラホール・ビューポイント~ 仲哀天
皇陵古墳~アイセル・シュラホール(復元・藤の森古墳石室)・抽選会・記念スタンプ
・シュラホール見学~ボランティアガイド先導で希望者は藤本酒蔵(試飲・買い物)
解散~葛井寺~商店街で昼食休憩~藤井寺駅  天気に恵まれたハイキングでした。
此の日の私の万歩計は、17004歩で約10.2㎞歩いたことに・・・ 
志都美駅~柏原駅乗換~道明寺駅
柏原駅で乗換
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道明寺駅・・・道明寺駅の歴史(近鉄電車発祥の駅として知られる)
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。
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道明寺天満宮へ向かう
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道明寺天満宮斜面の復元登り窯
道明寺天満宮から三ツ塚古墳(八島塚古墳・中山塚古墳・助太刀山古墳)にかけて
の斜面には埴輪をを焼いた登り窯が有った。
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道明寺駅~道明寺天満宮(受付・スタート)
道明寺天満宮(受付・スタート)
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道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当た
る野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。
仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願によ
り土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺には菅原道真公のお
ばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺の事を「故郷」
と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿
尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点
が国宝の指定を受けている。
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道明寺前
※道明寺(どうみょうじ)・・・ 道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺
は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂
伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道
真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里
の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・
歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は
道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
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※澤田八幡神社・・・境内に電車が通っている全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社
が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を
勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂
八幡神社の四社です。とある・・・・

仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群では応神
天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考られる鍋
塚古墳があります。
仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売
命に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田
屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。
ちなみに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年
1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
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小室山八幡神社
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社
が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を
勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂
八幡神社の四社です。とあると言う・・・
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仲姫命陵古墳拝所
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小室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置していま
す。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしいものがあり
ます。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせます。これ
らはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150mで、古市古墳
群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたのは4世紀末から5世
紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期にあたり、同古墳群
中で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
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西名阪自動車道の下に有る赤面山古墳の横を通り
※赤面山古墳
西名阪自動車道の高架下に赤面山古墳がある。大鳥塚古墳の後円部に接するように
位置するこの高まりが赤面山古墳です。現状からすると、墳丘の一辺が15mの方墳
と考えられます。人を葬った施設などは分かっていません。赤面山古墳が造られ
たのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期でした。そして、赤面山古墳の被葬
者は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、
葬られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたのです。

大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110mの前方後円墳です。古市古墳群の中では中形で、
前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏み
入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の斜面には
石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分
かっていません。
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此処までは、
11月16日の世界遺産・ここが凄い“古市古墳群”巡り-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-18
此処では、続きの 応神天皇陵古墳~ についての詳細を掲載します。 
応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで百舌
鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143万立法
mで仁徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大と言われる。 
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第
15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわ
けのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。
誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにま
しますすめらみこと)とも称される。
学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の
高い天皇と見られている。宮内庁によれば、在位270-310年とされている。御名に装
飾性がなく『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合す
る部分も窺えることから、「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている。
また中国の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「讃」
に比定する説もある。
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横へ廻って
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番所山古墳
藤井寺市の南部、藤ケ丘2丁目の住宅街の中に、まわりを道路で円形に囲まれ
た小さな山があります。これが蕃所山古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。
この古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されま
した。直径22m、高さ3mの円墳ですが、本来はもう少し大きかったと思われ
ます。墳丘のまわりに濠があったかどうかは分かりません。隣接する道路の一
部に深い掘り込みがあったことが立会調査で確認されています。あるいはこの
掘り込みが濠の一部である可能性も考えられますが、断言はできません。埴輪
や葺石は確認されていません。
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アイセル・シュラホール・ビューポイント
アイセル・シュラホール
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン ター
の名称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
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お世話になっています。
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仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳)・・・藤井寺市観光協会HPより
岡ミサンザイ”と呼ばれる墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭
い堤をもつ古市古墳群で3番目に大きい古墳です。5世紀末~6世紀初頭の築造と
考えられています。墳丘からは城の跡も見つかっています。周濠は水を貯え、冬に
はマガモが飛来し、市民の憩いの場として親しまれています。
※仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、成務天皇18年? - 仲哀天皇9年2月6日)は、
『古事記』『日本書紀』に記される第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日
- 同9年2月6日)。足仲彦天皇(たらしなかつひこのすめらみこと)、帯中日子
天皇(古事記)。「タラシヒコ」という称号は12代景行、13代成務、14代仲哀
の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、
35代皇極の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半
のものであり、12、13、14代の称号は後世の造作ということになり、仲哀天皇
の実在性には疑問が出されている(仲哀天皇架空説)。 容姿端正、身長一丈。
神功皇后の夫で、応神天皇の父とされるが、実在性を含めて諸事績の史実性
には疑いが持たれる。   (身長一丈=約3m)
日本武尊の第2子、母は垂仁天皇の皇女・両道入姫命(ふたじいりひめのみこと)。
皇后:気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと、神功皇后。息長宿禰王の女)
誉田別命(ほむたわけのみこと、応神天皇)
妃:大中姫命(おおなかつひめのみこと。彦人大兄の女) 麛坂皇子(かごさかの
みこ、香坂王)忍熊皇子(おしくまのみこ)
妃:弟媛(おとひめ。来熊田造の祖・大酒主の女) 誉屋別皇子(ほむやわけのみこ、
古事記では神功皇后所生)
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アイセル・シュラホール(復元・藤の森古墳石室)・抽選会・スタンプ
アイセル・シュラホールへ戻って
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(復元・藤の森古墳石室)
藤の森古墳(ふじのもりこふん)は、大阪府藤井寺市野中にあった古墳。形状は
円墳。古市古墳群を構成した古墳の1つ。
畿内の横穴式石室としては最古級の例として知られるが、現在では墳丘は失われ
ている。
藤の森古墳は、古墳時代中期の5世紀後半(または5世紀中葉[2])頃の築造と推定
される。古墳自体は小規模であるが、石室の様相としては横穴式石室の初現期を
示し、畿内では最古級の横穴式石室である点で重要視される古墳である。
石室は、現在、アイセル・シュラホールの敷地に移転・復元されている。
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シュラホール見学~ボランティアガイド先導で藤本酒蔵(試飲・買い物)
藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々から
の水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいをいう重治郎の願いは「冨士正宗」という銘
柄に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
重治郎から経営は昇治に引き継がれ更に雅一(ただひと)に引き継がれ現在に至っ
ています。当蔵では、製造した年に販売せず、蔵で数年間貯蔵します。本来は最低
でも2~3年は貯蔵した物を販売しています。
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解散~葛井寺
葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立さ
れました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡 礼
者が訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏で、毎
月18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、
国指定の重要文化財となっています。
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藤井寺商店街
カフェで昼食休憩
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王寺駅~自宅へ バスで途中下車
紅葉をおまけに・・・
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自宅で
鉢植えの琉球朝顔に漸く花芽が・・・
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11月14日の菜畑駅~往馬大社~竹林寺~菊司酒造へ―2

11月17日    11月14日の菜畑駅~往馬大社~竹林寺~菊司酒造へ―2
          2020年1月28日往馬大社初詣で コース下見
此の日は、歩こう会の世話人・M吉さん・K場さんと3名で生駒市観光ボランティア
ガイドの・I 西さん・K峰さんお二人の案内でコース下見をして来ました・・・
コースは  近鉄生駒線菜畑駅(10時集合・スタート)で約9㎞を下見
近鉄生駒線菜畑駅(10時集合・スタート)~20分 往馬大社(宮司さんと会う)~
竹林寺・竹林寺古墳・行基墓・忍性墓~寺~興融時~円福寺~公園で昼食~往生院
~大福寺~藤尾の石造阿弥陀如来立像~石佛寺~宝憧寺~観泉寺~菊司酒造・試飲
・買い物~南生駒駅(ゴール)下戸の私はほろ酔い気分、南生駒駅スタンプ貰った
(志都美駅8:54 王寺駅9:00 乗換 近鉄王寺駅9:15   菜畑9:38着)
此の日の私の万歩計は、21066歩で約12.6㎞歩いた事に・・・
今日、フルコースを歩かせて貰ったので28日に予定していた2回目の下見は無しに
して、初詣でのコース&その他の段取りも全てを決める事が出来た・・・
志都美駅~菜畑駅
菜畑駅
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往馬大社(いこまたいしゃ)
生駒山をご神体とした古社です。広さ3ヘクタールにおよぶ鎮守の森は、奈良県の
天然記念物として指定されているほか、伝統行事の火祭りは県の無形民俗文化財
として指定されています。
奈良県生駒市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。生駒神社(いこまじん
じゃ)と通称される。
生駒山の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神、および氣長足比賣命(神功
皇后)・足仲津比古命(仲哀天皇)・譽田別命(応神天皇)・ 葛城高額姫命(神
功皇后の母)・息長宿禰王(神功皇后の父)を祀る。
伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司る神として信仰されている。
大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々当社が献上することと
なっており、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木が使用された。『北山抄』
『元要記』『亀相記』などには当社の神が「火燧木神(ひきりぎのかみ)」と書
かれている。10月第2日曜日(元は10月10日)の例祭は「火神祭」と呼ばれ、龍
田大社の風神祭、廣瀬大社の水神祭とともに古来より朝廷の崇敬を受けてきた。
創建の年代は不詳であるが、古代、当地に住みついた人々が生駒山を神体山とし
て祀ったのを起源とするものとみられる。文献での最も古い記述は、『総国風土
記』の雄略天皇3年(458年)条に「伊古麻都比古神社」とあるものである。延喜
式神名帳では大和国平群郡「往馬坐伊古麻都比古神社二座」と記載され、大社に
列し、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。
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観音堂
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石灯篭に象形文字?馬の代りに馬の絵
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竹林寺へ向かう
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竹林寺入口
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竹林寺古墳
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒
谷)における唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していない
ことから、この地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる
文殊山竹林寺境内にある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴
輪の特徴から、古墳時代前期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円
部の一部が失われ、後円部は墳頂に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による
損傷が生じている。その他の部分は雑木林に覆われ、開墾による削平(さくへい)
を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺へ
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竹林寺
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。
山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。
奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあっ
た僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされ
たものと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五
台山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管
理していたが、20世紀末から境内の整備が進められている。
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竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられてい
ます。行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え
生駒山で火葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、
左手の墓地に忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩
薩と行基を強く尊敬しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺
言により遺骨は竹林寺・極楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されて
います。
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行基菩薩墓
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇など
の教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業
に活動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、
入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のもの
となっていた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行った
とされている。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそう
だ。その後、聖武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で
人生を終えると母親の近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。行基(ぎょ
うき/ぎょうぎ)668年~749年は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷
が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を
中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困
窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷から
は度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳
ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として
聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された。この功績によ
り東大寺の「四聖」の一人に数えられている。東大寺では大仏創建に力のあった良
弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んで いる。
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忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅
町)で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師
として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しま
ぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がう
かがえます。後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業
を展開します。忍性は行基の大ファン?16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)
に入った。忍性は19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に
竹林寺で行基の舎利が発見された。行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業な
どの社会事業を行い、大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩
薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済
に捧げたのは、行基を範とするとするところが大きいと云われる。忍性は、鎌倉・
極楽寺で87歳で臨終を迎えた。
遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に
努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈した。
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忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事
に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、
病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老
いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿
が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期
以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識さ
れており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。
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興融寺へ向かう
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興融寺・・・融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)
本尊は阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)
沿革は不明ですが、安永3年(1774)『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には阿弥陀堂と記載
されています。
興融寺は生駒市青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れているた
め、石仏ファンでもない限り訪れる人は少ない。しかも、ちょっと分かり難い場所に
お寺が立っています。
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円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿革
は明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが
残る。
重要文化財
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2) -
入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書から応安4年
(1371年)の建立とみられる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。北側の塔(写真左)
は初重に四仏の種子を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。南側の塔は初重に四
仏の像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
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興山墓地・往生院へ向かう
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公園で昼食
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興山墓地・往生院
輿山古墓群の中にあり、奈良時代の僧行基〔ぎょうき〕が天平21年(749)に没し
た時火葬された生駒山の東陵にあたると伝えられています。本尊は行基菩薩坐像で、
境内には宝篋印塔(重要文化財)などが残っています。
竹林寺の奥の院と云われます。(華厳宗) 輿山「往生院」です。行基の遺言により
彼の遺体を焼き遺骨の一部を葬ったのがこの地であったと伝えられます。中世以降、
生駒谷10郷の惣墓となっています。本堂裏にある五輪塔「行基供養塔」は南北朝時
代のもので高さ187cm。境内にある宝篋印塔は正元元年(1259)銘があり県内最
古として知られます。
大仏造営中の749年、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅、生馬市の往生院で火葬後竹
林寺に遺骨が納められ多宝塔を立て墓所とした。また、喜光寺(菅原寺)から往生
院までの道のりを行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の
墓地地帯は別名、輿山と呼ばれるようになった。
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大福寺へ向かう
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此処までは、
11月14日の菜畑駅~往馬大社~竹林寺~菊司酒造へ―1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-16 
此処では、未だ続く 大福寺へ向かう~ についての詳細を掲載します。
未だ続く 大福寺へ向かう
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大福寺
生駒市大門町の大福寺は黄檗宗の禅寺で、周囲はのどかな棚田風景が広がっていま
す。お目当ての十三仏板碑(室町期)はお寺の塀越しに見えていました。
瀟洒な山門の小さな境内、民家と変わらない小さな本堂傍らに六字名号板に挟まれ
る様に十三仏板碑が立っている。
上部を欠損した舟形石に定型四段三列、上部虚空蔵の中肉彫り。
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藤尾石仏へ向かう
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藤尾石仏
線刻阿弥陀如来立像(せんこくあみだにょらいりゅうぞう)
総高(残存値)136.0cm 像高107.5cm 石造 上部欠損 鎌倉時代 文永7年(1270)
造立。
藤尾町内の暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)沿いにあります。自然石に
線刻された像で、面相、衣文、蓮華座れんげざが明瞭に表されています。
銘「南無阿弥陀仏 文永七年庚午六月日為西仏過去也」
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ツツジが?
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すげー下り坂・・・
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石佛寺
奈良県生駒市藤尾町 石佛寺。暗越え奈良街道の西、藤尾峠に在る石佛寺
本尊は伊派の石工伊行氏作で光背部に観音・勢至菩薩を浮き彫りにして阿弥陀三尊
としています。
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宝幢寺へ向かう
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宝幢寺(ほうどうじ)
宝幢寺は奈良県生駒市にある融通念仏宗の寺院。山号は龍護山。本尊は地蔵菩薩。
この寺の創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基によって創建され
たと伝えられる。当初は真言宗の寺院であったが、江戸時代後期の文政年間(1818
年 - 1830年)融通念仏宗に改められた。
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観泉寺へ向かう
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観泉寺
寺伝によれば、元禄六年(1693) 僧龍峯により開かれた融通念仏宗の寺院。
境内には、石造美術品が数多くある。
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菊司酒造へ向かう
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菊司酒造(試飲・買い物)
大阪と奈良を結ぶ奈良街道の宿場町であった小瀬の地で、江戸時代の1705年
(宝永2年)より伝統の酒造りを続けている蔵元。総業300有余年。自然と伝統が
織りなす名酒の数々を造り続けています。生駒山系の天然水である井戸水を、
無濾過で仕込水に使用しています。やや硬水で、水自体に味わいがあり、そこか
ら醸し出される味がお酒にも表れています。平成10年より発売銘柄「往馬」は特
定名称酒の限定流通商品です。また、造り酒屋ならではの純正酒粕をふんだん
に使った奈良漬けの製造・販売もしています。美味しいお酒を試飲させて頂き有
難う御座いました。スイカと胡瓜の奈良漬もとても美味しかったです・・・
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試飲ボトル
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※美努岡萬墓(みののおかまろのはか)・・・今回は行かなかったが本番では?
奈良県指定史跡。奈良時代の官人であった美努岡萬の墳墓です。1872(明治5)年
に土取り中に偶然、墓誌が発見さました。墓誌は長方形の銅板で銘文を陰刻してあ
ります。銘文から美努岡萬のものであることが明らかとなりました。現在は住宅地
の中ですが、かつては山林の中にありました。古代の人物の墓所が明らかとなる例
は県内でも少なく貴重なものです。
美努岡萬連墓誌 (みののおかまろむらじのぼし)重要文化財
東京国立博物館所蔵
墓誌は、1872(明治5)年に土取り中に偶然、発見しました。縦29.4cm、横20.6cm、
厚さ0.3cmの銅板に銘文を陰刻してあります。銅板の一面に、縦横に罫線を刻み、
11行にわたって176字が記されています。
それによると、岡萬は天武天皇13年(684)に連の姓を賜っています。大宝元年(701)
に遣唐使の一員として渡唐し、帰国しています。従五位下を授かり、主殿寮の頭を
任じられ、神亀5年(728)に67歳で没しています。岡萬は『続日本紀』にもその名が
みえ、奈良時代に活躍した官人のようです。

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11月10日の枚方八景・山田池~枚方宿を経て枚方パークへ―2

11月12日     11月10日の枚方八景・山田池~枚方宿を経て枚方パークへ―2
           5私鉄リレーウオーク京阪牧野駅~枚方公園駅 12㎞ 
此の日は、素晴らしいハイキング日和にK場さん・I 田さんと3名で朝日・5私鉄リレーウ
オークに参加、途中の山田池公園手前でM崎さん(山田池で食事休憩の後足痛でバスに)
にも出会い山田池公園のもみじ谷では綺麗な紅葉も見る事が出来て楽しいハイキングに。
コースは  京阪牧野駅~歩10分~阪今池公園(10時受付・スタート)
京阪牧野駅~歩10分~阪今池公園(10時受付)~こぐま緑道~牧野車塚古墳~しまうま
緑道~交北公園~公園手前で弁当購入に国道1号線を京都方面へ迂回、M崎さんに出会う
~山田池公園(昼食休憩)公園散策~枚方市総合体育館横~百済寺跡公園・百済王神社・
宮之阪北~天の川沿い~淀川河川公園枚方地区~京街道枚方宿~御茶屋御殿跡展望広場・
意賀美神社~枚方パーク前(ゴール・抽選会場)~お茶休憩~枚方公園駅へ
参加者多く山田池公園手前迄渋滞?私は2711番だったが枚パー前の抽選会場で3336番の
当選番号も掲載されてたので少なくても 3336名以上の参加者だった様です??
此の日の私の万歩計は、29567歩で約17.7㎞歩いた事に、新しい靴で足痛かった・・・
駅前商店街で「くらわんか餅」お土産購入予定してたのに開店は粉門屋のみでがっかり。
志都美駅~京橋駅で京阪電車に乗換え
京阪牧野駅~歩10分~阪今池公園(10時受付)
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阪今池公園へ向かう
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阪今池公園(10時受付)
「さかいまいけこうえん」が正解
片埜神社の境内の御池跡。京街道と穂谷川と片野神社の表参道に囲まれた三角地
である。
参加者が順番待ちで凄い並んでる
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こぐま緑道
阪今池公園から穂谷川左岸堤防下、特別高圧送電線下を二千年橋まで続く。
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牧野車塚古墳
現地案内板より
牧野車塚古墳(マキノクルマヅカコフン)(国指定史跡)
穂谷川左岸に臨む交野大地上の標高約22m付近に立地する前方後円墳です。墳丘は
2段築成で、全長107.5m、後円部54.5m、前方部幅44mを測ります。主軸をほぼ東西
にとり、前方部を東に向けています。周囲には、幅10mほどの空堀をめぐらせ、さ
らに西側から南側にかけて外堤が設けられています。葺石(フキイシ)は認められず、か
っては、埴輪が散乱していたようですが、今は見られません。
昭和53年の後円部側外西側の発掘調査で、幅4~5m、深さ20~30cmの濠の痕跡が確
認され、築造当初には、二重濠であったことが判明しました。また、濠内から2本の
円筒埴輪も検出されました。
主体部の構造や副葬品の内容は不明ですが、墳丘の形状から5世紀前半代の築造と考
えられます。
なお、付近には、赤塚・権現塚・子供塚・ショーガ塚等の地名が知られており、かっ
ては牧野塚を盟主墳とする古墳群が形成されていたと思われます。
2004年3月 枚方市教育委員会
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しまうま緑道へ向かう
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しまうま緑道
交北公園の北西に隣接し、特別高圧送電線の下を北上して交北小学校に至る遊歩道。
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交北公園・・・ビオトープと防災機能を備えた公園
さまざまな動植物が生息するビオトープ
円形広場のエントランスエリア・多目的広場があるグラウンドエリア・緑豊かな山の
エリア、ストレッチ健康遊具・ランニングコースなど子どもも大人も楽しめ、防災機
能を備えた公園です。
防災公園とは、震災時における「避難場所」や「活動拠点」として活用され、皆さん
を守る貴重な場所となっています。
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山田池公園へ向かう
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弁当調達に国道を左折、京都方向に回転寿司屋へ
弁当を調達してコースへ戻る、偶然ににもコンビニで弁当調達して来た知人に出会う。
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山田池公園
山田池公園の中心となる山田池は1200年前の築造といわれ、深刻な水争いの記録も残さ
れているような歴史的にも貴重なため池であった。また、春日山には神社(春日社)が
建てられ、地元の豊作祈願の信仰の場でもあった。現在は社跡の石碑のみとなっている)
近年まで、人々の暮らしに役立つクリ、ウメ、茶などの栽培もおこなわれ、里山的な利
用をされてきた。こういった山田池の歴史性から、都市公園法施行50周年記念事業によ
る「日本の歴史公園100選」に選定された(平成18年度)
また、山田池の水面に映る月は格別な趣があり、「山田池の月」として枚方八景のひと
つに選ばれています。
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昼食を終えて公園を散策コースへ
橋の上から池に泳ぐ特定外来生物のヌートリアを発見・・・
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山田池公園の売店
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此処までは、
11月10日の枚方八景・山田池~枚方宿を経て枚方パークへー1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-12
此処では、続きも未だ未だ山田池公園~ についての詳細を掲載します。
山田池公園 もみじ谷へ向かう
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もみじ谷~パークセンター
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山田池公園を出て
市立総合体育観横を百済神社へ向かう
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百済寺跡・百済神社
「特別史跡 百済寺跡」の銅版表示から
ここに寺跡をとどめる百済寺については、興福寺官務○○という末寺帳に、岡寺の長淵
僧正の弟子で奈良時代に活躍した宣教大師の開基したものであることが記されている。
寺跡の西隣に百済王神社があり百済寺と称したことから、百済王氏一族の氏寺であと
考えられる。従ってその一族が天平勝宝2年における百済王敬福の宮内卿件河内の守任
官を契機に、摂津国百済郡の故地を離れ、ここ交野郡の土地を賜って移住し、氏神百
済王神社と氏寺百済寺を建立したものと思われる。
その後一族から優秀な人達を輩出し、また、桓武天皇朝にはその外威として繁栄し、当
寺もこの氏族と盛衰をともにした。後には、奈良興福寺も末寺として室町時代までその
命脈をつないだようにおもわれる。現百済王神社本殿が、興福寺と一体的なものであっ
た春日大社関係の社殿を移建したものと認められることもこれを裏付けている。
昭和40年投じの市長寺嶋宗一郎ほか地元の有志は、それまで雑草の繁茂にゆだねられて
いたこの寺跡を市民の親しみうる場所とするための環境整備事業を発起し、大阪府教育
委員会はその概要を知るために全面的な発掘調査を実施し、ついで枚方市が国及び府の
補助金を得て、わが国で初めての史跡公園を完成したものである。この調査の結果、一
辺長1町半、約160mを占める方形寺地の中心線上に伽藍を配し、寺地南限の南門を入る
とさらに中門があり、その両脇から延びた回廊が東西両を包含し金堂両脇に取付くもの
で、新羅の感恩寺と同形式であることがわかる。またこの伽藍成立以前の奈良時代前期
にも仏舎の営まれていたことが、出土川原から考えられに至った。
さらに寺地東南隅角に、東院とも呼ぶべき一郭があり、うちに一堂宇を配していたこと
も判明した。ともかくこの寺跡は、寺地全体とともに主要堂塔の大部分を遺存する稀有
なものであり、また、その伽藍の配置形式は、その歴史的背景とあいまって古代日韓文
化交流の史実を微証する価値が高い史跡である。
昭和27年3月27日 文化財保護法の規定により特別史跡の指定を受ける。
昭和60年3月 文化庁 大阪府教育委員会
 
現地案内板より
特別史跡 百済寺跡
百済が新羅と唐の連合軍によって滅ばされた860年に百済王の一族がわが国に亡命し
てきたのち百済王の姓を得た。奈良時代から平安時代初期にかけて百済王氏一族は政治
的にも重く用いられ、ことに陸奥国の経営には貢献するところ大であった。
百済王敬福は、聖武天皇の東大寺大仏鋳造に際し、陸奥国で採れた金を塗装用として献
上した功により、河内守に任じられた。
そのため一族は中宮の地に住み、奈良時代の中頃に氏寺として百済寺を建立したものと
考えられる。伽藍配置は、わが国では例をみないもので、新羅の感恩寺跡(韓国慶尚北
道)とよく似た型式である。
百済寺跡公園は、昭和43年(1968)に全国で初めての史跡公園として整備された。
1993年 文化庁   大阪府教育委員会   枚方市教育委員会

百済王一族の日本への渡来。
百済国は、朝鮮半島の三国時代(高句麗・新羅・百済)の対立で660年(日本と密接な
関係にあった)百済が新羅と唐の連合軍により滅亡。多くの百済人が日本に亡命・帰化
し、軍務や実務で朝廷に貢献。百済国王の禅広は、やがて朝廷に仕えることとなり、百
済王氏(クダラノコニシキ)氏という姓を賜り難波の地に居住した。
陸奥守百済王敬福(キョウフク)は、天平21年(749)に陸奥国で採れた黄金900両を聖武
天皇に献上し、東大寺・大仏の建立に貢献。敬福はその功により天平勝宝2年に従五位
から従三位宮内卿兼河内守に任命され中宮の地に住む。氏寺として百済寺を、氏神とし
て百済王神社を建立。1町半(約160㍍)四方の規模に七堂伽藍を建立。桓武天皇朝に
は外威として繁栄し、後には、奈良興福寺の末寺として室町時代まで命脈をつないだ。
百済王は平安中期に藤原氏の勢力に押され衰退→寺の焼失。
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百済王神社
現地説明板より
祭神は百済王・須佐乃男命の尊(牛頭(ゴズ)天王)。
百済国王の禅広は、新羅・唐連合軍によって祖国が滅亡した際、日本に亡命してきた。
やがて朝廷に仕えることとなり、百済王氏(クダラノコニキシ)氏という姓を賜り難波の地に居
住した。陸奥守百済王敬福(キョウフク)は、749年陸奥国小田郡で黄金900両を発見し、
聖武天皇の東大寺大仏鋳造に献上した。その功により敬福は従三位宮内卿・河内守に
任ぜられた。敬福は中宮の地を賜り氏寺として百済寺、氏神として百済王神社を造営し、
一族ともども百済王氏の居館を難波から河内に移し、この地に住みついたと考えられて
いる。その子の南典が死去した時、朝廷は百済王の祀廟を建立させた。
やがて、百済王一族は、皇室や、高級貴族と姻戚関係をもち、朝廷内での地位を高めて
いった。特に桓武天皇は交野ケ原の地をしばしば訪れ、百済王氏と親交を深めた。
その後、度重なる火災により壮大な伽藍は灰燼に帰し衰退した。やがて奈良興福寺の支
配を受け、興福寺と関係が深い春日大社の本殿を移築したものである。
なお、拝殿にかかる「百済国王 牛頭天王」の木版額は、当社が百済王氏の祖霊を祀る神社
であることを明らかにする。  2000年3月 枚方市教育委員会
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宮之阪3~天の川
此の近くに従妹が住んでいる
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淀川河川公園枚方地区
淀川河川公園
広大で自然豊かな淀川の河川沿いに広がる当公園では、野球やサッカーなどの運動施設、
器材等お持ち込みで楽しんでいただくバーベキュー広場があり、ジョギング、サイクリ
ングなど幅広くみなさまにご利用いただいております。
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※京街道枚方宿
京街道・枚方宿は、岡新町、岡、三矢、泥町の4ヶ村によって構成されていました。宿場
は東西13町17間(1447m)道幅平均2間半の1本往還筋を中心に出来ていました。枚方宿
からは京都へ六里、江戸へ百二十八里、大坂へ五里の位置にある。文禄3年(1594年)に発
せられた豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が文禄5年大坂京橋
から京都伏見へ向かう京街道(大坂街道)として用いられるようになった。
宿人馬継合で困窮いたし、人馬役のもの多分に宿方退散し、継合に差支、比段、寺沢藤右
衛門へ申出、追って退散のもの帰住致す」(天正年間(1573年~1591年頃)という記録に
より、この頃にはすでに宿場としての起源があった。
慶長6年(1601年)徳川家康がこの京街道を東海道の延伸部とし整備。元和2年(1616)
守口宿の存在が古文書で見受けられる事から同じ頃枚方宿が成立したのではないかと考え
られる。享保3年(1803)枚方宿明細帳によると、宿高642石3斗9合 人口1664人(男743
人、女921人)本陣1軒、脇本陣2軒、家老専用本陣1軒、人馬継立問屋場2ヶ所、旅籠屋
55軒(大17・中180・小20)その他高札場3ヵ所、郷蔵4ヵ所、船番所2ヶ所、7里飛脚小
屋、町飛脚などがありました。また、間屋場では人足100人、馬100頭が常備され、民
家は378軒ありました。

御茶屋御殿跡展望広場へ向かう
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御茶屋御殿跡展望広場・意賀美神社
御茶屋御殿跡展望広場・・・豊臣秀吉の御茶屋御殿
京・大坂間を結ぶ交通の大動脈、淀川と京街道を見下ろすこの地に豊臣秀吉が御茶屋御殿
(おちゃやごてん)を建てたのは文禄4年(1595)のことです。伝承では、秀吉の家臣であ
る枚方城主本多内膳正政康の娘「乙御前」をここに住まわせたとも言われています。京都
伏見と大坂に拠点を置いた秀吉は、この間をしばしば行き来していました。
文禄五年(1596)の淀川堤防修築に際しては、対岸の大塚から枚方の工事の様子を上機嫌
で眺めたとの話も残っています。元和9年(1623)には2代将軍徳川秀忠が、寛永3年
(1626)には3代将軍家光が逗留したと記録に残されています。延宝7年(1679)7月1日に
起こった枚方宿の火事によって全焼し、以後再建されることはありませんでした。
此の日はイベントで入らず意賀美神社の梅林から
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意賀美神社・・・万年寺山・意賀美神社林
淀川沿いに細長くのびる旧枚方宿の町並みを眼下に見おろし、こんもりと突き出た丘が万
年寺山です。摂津・丹波の山々や、豊かな淀川を一望に見渡せる風光明媚なこの丘は、京
阪二都のちょうど中間にあり、数々の歴史の舞台となってきました。この丘の上にある意
賀美(おかみ)神社の境内には、古墳時代前期の万年寺山古墳があり、青銅鏡が八面出土し
ました。言い伝えによると、推古天皇(592~628)の時代、高麗(高句麗)の僧・恵灌(けい
かん)が、この地の風景を愛で、眺めが唐の林岸江(りんがんこう)に似ているとして、
草庵を営んだのが万年寺のはじまりです。
一千年余の法灯を伝え、夕暮れを告げる晩鐘は人々に親しまれてきましたが、明治の神仏
分離令により廃寺となり、仏像等は三矢(みつや)の浄念寺に移されました。参道の石段横
には、今も「長松山萬年寺」と刻んだ石柱や十三重の石塔が苔むしており、往時をしのば
せてくれます。近年、境内に植えられた多くの紅白梅が大きくなり、観梅の名所になって
います。梅林の西にある豊臣秀吉の御茶屋御殿跡は、展望広場として整備された眺望の素
晴らしいところです。
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田中家のムクノキ
大阪府指定天然記念樹
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田中家鋳物工場跡
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枚方パーク前
枚方パーク
ひらかたパーク(通称:ひらパー)は、各種アトラクションやイベントのほか、夏はプー
ル、秋はイルミネーション、冬はスケートなど、小さなお子さまから大人まで一年中楽し
めるテーマパークです。
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枚方公園駅
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11月5日の石清水八幡宮から京阪郡津(こうず)駅へ-2

11月6日        11月5日の石清水八幡宮から京阪郡津(こうず)駅へ-2
                 歩こう会特別企画 東高野街道を歩く 12㎞
東高野街道を京阪石清水八幡宮駅から京阪交野線郡津(こうず)駅までの約12Kmを歩く。
此の日は、歩こう会の特別企画で東高野街道を歩く、長い東高野街道ウオークのスタート。
コース 石清水八幡宮駅(10:30スタート)~郡津(こうず)駅までの約12Km 参加者33名
京阪石清水八幡宮駅前(10:30スタート)~エジソン胸像~石清水八幡宮一の鳥居~頓
宮(朝礼&準備体操)~安居橋~八幡橋前~安心院・正法寺~松花堂公園(昼食)~円
福寺~洞ヶ峠~国道1号線沿い~舟橋川・新大池~山田池公園~出屋敷の旧道・円通寺
~東高野街道案内板~郡津駅へ向かう~郡津駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、26527歩で約15.9kmだった、もっと歩いた様な気がしたが・・
志都美駅~京橋駅 京阪京橋駅へ乗換
京阪京橋駅
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石清水八幡宮駅(旧八幡市駅)
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駅前のモニュメントは竹とエジソン胸像&東高野街道碑
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石清水八幡宮一の鳥居
表参道入口に立つ、石清水八幡宮の山麓の顔「一ノ鳥居」は、高さ約9m、最大幅約
11mの花崗岩製。最初は木製でしたが、寛永13(1636)年に松花堂昭乗(1548~1639)の
発案により石鳥居に造り替えられました。
この鳥居に掛かる、紺地に金文字で「八幡宮」と書かれた額は、元は、一条天皇(980
~1011)の勅額で、長徳年間(995~999)に小野道風・藤原佐理とともに平安の三蹟と称
えられる藤原行成(972~1027)が天皇の勅を奉じて筆を執ったものでしたが、現在の額
は寛永の三筆と称された松花堂昭乗が元和5(1619)年、行成筆跡の通りに書写したも
のです。特に「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外
に向けた独特のデザインとなっています。
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※石清水八幡宮・・・当宮HPより
御祭神は
中御前 - 応神天皇(おうじんてんのう)(第15代) 誉田別尊(ほんだわけのみこと〕
西御前 - 比咩大神(ひめおおかみ) 〔多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)・市寸島
姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)〕
東御前 - 神功皇后(じんぐうこうごう) 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)〕
”やわたのはちまんさん”と親しまれる当宮が御鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川
・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波
間の交通の要地であります。また、南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀
の天王山の合戦などで知られる政治上の重要な拠点でもありました。
男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山
延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
この経済上、政治上、そして信仰上の要の地に御鎮座され、日本を平和と繁栄に導く
神として多くの人々に崇敬され、八幡大神様を祀る神社は全国津々浦々に数万社ある
ともいわれています。
当宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比咩大神様、東に神功皇后様をお祀り
しています。この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)様
と申し上げます。
平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大
分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座
して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたの
が当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社
殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました。
天慶2(939)年に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷よりご請願があり八幡
大神様の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の御崇敬
は益々厚いものとなり、 天皇の行幸や上皇の御幸は、円融天皇(第64代)の行幸以来、
実に240余度にも及び、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されました。
明治の初めには官幣大社に列せられ、「男山八幡宮」と改称されましたが、「石清水」
の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と
改称され現在に至ります。

石清水八幡宮・頓宮(朝礼&準備体操)
年に一度、勅祭石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる頓宮殿は重儀
が斎行される重要な社殿です。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失ののち、男山四十八坊の一
つ「岩本坊」の神殿を移築し、仮宮としていましたが、現在の社殿は大正4年に造営さ
れたもので、平成22年から同23年にかけて修復工事が行われ、昭和24年以来、実
に62年ぶりの屋根の葺き替えとなり、桧皮葺であった屋根から、より耐久性のある銅
板葺に葺き替えられました。
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安居橋~八幡橋前~正法寺へ向かう
安居橋(あんごばし)・・・橋の袂にある蔵が工事中でした??
安居橋は京都府八幡市にある橋で石清水八幡宮の東側を流れる放生川に架かる橋です。
橋の中央部分が盛り上がっているアーチ形の橋で、歩行者と自転車の専用橋となっていま
す。八幡八景に登録され「たいこ橋」として市民に親しまれています。
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安心院・正法寺
正法寺(しょうぼうじ)は、京都府八幡市にある浄土宗の寺院。山号は徳迎山。本尊
は阿弥陀三尊。
この寺は、源頼朝の御家人で石清水八幡宮の社家志水氏の祖となった高田忠国が開基と
なり、建久2年(1191年)創建した寺と伝えられる。以後この寺は志水氏の菩提所とな
った。天文15年(1546年)には後奈良天皇の祈願所となっている。また、徳川家康の
側室お亀の方(尾張徳川家の祖徳川義直の生母)は志水氏の出身であることから、江
戸幕府から朱印状を得た。現在の伽藍はお亀の方の寄進により寛永6年(1626年)頃
に建立された。
八角堂・・・修復された八角堂が2019年4月に公開された
八幡市八幡大芝にある珍しい隅切り八角形の八角堂は現在正法寺の境外仏堂となってい
るが、そもそもは建保年間(1213年~1219年)石清水八幡宮の社家善法寺祐清が石清水
八幡宮の境内に阿弥陀如来を本尊として建立したものである。のちに大破して慶長12年
(1607年)、豊臣秀頼によって再建された。しかし、明治維新の神仏分離に伴い撤去さ
れることが決まると、1870年(明治3年)に正法寺住職志水円阿が貰い受け、所有地で
あった西車塚古墳の後円部上に移築した。
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松花堂公園へ向かう
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松花堂庭園前
松花堂公園(昼食)・・・石清水八幡宮から2.5kmの東高野街道の碑
此処で東高野街道の碑を囲んで班毎の集合写真を撮影した
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洞ヶ峠越えへ向かう
※洞ヶ峠  所在地:八幡市八幡南山
南峠ともいう。京都府南部、八幡市と大阪府枚方市の境にある峠。標高約 70m。元来
は東高野街道の峠であったが、現在は北側を国道1号線が越える。天正 10 (1582) 年
山崎の戦いの際、大和郡山城主筒井順慶がこの峠に布陣し、豊臣方と明智方の合戦の
なりゆきを観望、形勢有利と判断した豊臣方に加わったという俗説で知られ、以後峠
の名は「日和見」の代名詞のように用いられている。
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※八幡の伝説
「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」といえば、日和見の代名詞となっていますが、
その舞台となったのが国道1号が追加する八幡市の西部丘陵「洞ヶ峠」での逸話で、
その人物が筒井順慶(1549~1584)です。
順慶は、大和守護代筒井順昭を父に、摂家九条氏養女を母にして生まれますが、3歳
の時に父の順昭を失います。このとき、順昭と声がよく似た「木阿弥」という琵琶弾
き僧を、順昭にしたてて死亡を隠したところから「元の木阿弥」との語が生まれたと
もいわれています。順慶は、天文19年に家督を相続。興福寺の衆徒の棟梁としてその
勢威は大和一円に及びましたが、松永久秀の台頭により一時苦境に立たされました。
その後、織田信長に臣従し、久秀失脚後、大和1国を与えられて郡山城に住みました。
信長の重臣明智光秀に仕えて各地を転戦するのですが、やがて光秀は信長を討ち、羽
柴秀吉と争うことになります。
光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた順慶に協力を求めますが、順慶はこれを断り、
光秀は合戦に敗れてしまいます。このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす
洞ヶ峠に駐屯して戦局を傍観、秀吉勝利と見るや直ちに峠を下り、秀吉に味方したこ
とから、日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語を生みました。しかし、実際には、
順慶は洞ヶ峠には出陣していないというのが真相のようです。その後、秀吉の配下と
なりますが、1584年8月11日、36歳という若さで肺結核で亡くなりました。その順慶
は、茶の湯、謡曲などに優れた教養高い武将であったといいます。
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円福寺(達磨堂)
天明3年(1783)、臨済宗最初の専門道場、江湖道場として建立された。重要文化財で
日本最古と伝えられる達磨大師坐像が坐禅堂の聖僧として安置されているので「達磨堂」
とも呼ばれている。
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※【日本最古の木造達磨古尊像】
かつて聖徳太子と達磨大師との片岡山ご奇遇の因縁によって大師ご自作と伝えられた達
磨の尊像が、その遺跡として建立された大和達磨寺に奉安されていましたが、奈良興福
寺の衆徒によって同達磨寺が焼却され、ただ「王寺」の名と達磨の墳塋のみが残りまし
た。足利義持の時代この寺の再興を企図した際に、この古尊像の行方を探しましたが所
在判明せず、別に足利義教時代に之を再刻して達磨寺に奉安しました。その後達磨寺が
火災に遭った時にこの達磨像は幸い災火を逃れ、王寺の守護片岡家に安置されることと
なりました。のちに片岡家一族分散の際に片岡氏はこの達磨像を背負って潜伏浪士の身
となり各地を転々とし、この古尊像を奉安守護されていましたが、寛正の頃(1461~146
6年。足利義教時代)になって片岡新介春利(片岡大和守光次)は八幡の地に至り、この達
磨像を石清水八幡宮別当田中家に託しました。
後年、田中家延焼の際にも この像のみ災難を逃れたといい、何度も災厄を逃れたその
霊験から、田中家はこの尊像を、天明3年(1783年)円福寺創建に際して境内の堂中に安
置しました。 昭和2年、国宝に指定。現在、重要文化財。
目を大きく見開いた気迫みなぎる坐相は雲水衆の参禅学道のための象徴として、また
萬人講参拝者の心の拠り所として古くから信仰を集めています。

洞ヶ峠を越えると枚方市
国道1号線へ向かう
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国道1号線沿い
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国道1号線沿い~ニトリモール枚方店前
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此処までは、
11月5日の石清水八幡宮から京阪郡津(こうず)駅へ-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
          https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-06
此処では、続きの 国道1号沿い・ニトリモール枚方店前~ からの詳細を掲載します。
ニトリモール枚方店前
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舟橋川・新大池~山田池公園へ向かう
舟橋川
大阪府枚方市を流れる、淀川の一次支流。
枚方市杉北町の丘陵に発し北西流、枚方市東部を貫流し淀川左岸に注ぐ。
一級河川の起点は枚方市長尾。
丘陵地を出て国道一号線と交差する此の付近から著しい天井川となる様です。
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山田池公園へ向かう
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山田池公園(トイレ休憩&集合写真撮影)
山田池公園の中心となる山田池は1200年前の築造といわれ、深刻な水争いの記録も残さ
れているような歴史的にも貴重なため池であった。また、春日山には神社(春日社)が
建てられ、地元の豊作祈願の信仰の場でもあった。(現在は社跡の石碑のみとなってい
る)近年まで、人々の暮らしに役立つクリ、ウメ、茶などの栽培もおこなわれ、里山的
な利用をされてきた。こういった山田池の歴史性から、都市公園法施行50周年記念事業
による「日本の歴史公園100選」に選定された(平成18年度)また、山田池の水面に映
る月は格別な趣があり、「山田池の月」として枚方八景のひとつに選ばれています。
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山田池へ向かう
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山田池
水面をバックに集合写真撮影
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出屋敷の旧道へ向かう
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出屋敷の旧道・円通寺~東高野街道案内板
※出屋敷の町並
出屋敷は枚方市内で東高野街道が集落内を通過する唯一の集落で、伝統的な外観を
持つ民家が点在しています。街道とともに歴史的な佇まいをうかがうことができます。

※円通寺
創建時期は明らかではありませんが、延宝3年(1675)には本堂を再興し、浄土宗専
念寺末寺円通寺と称しました。本堂の正面には、江戸時代に宇治の黄檗山万福寺を創
建し隠元隆琦筆の扁額が掲げられています。
かつて境内には、「楠木松」と呼ばれる大きな松がありました。その松の下には、貞
和4年(1348)四條畷の戦いで敗死した楠木正行の従兄弟である和田賢秀の胴体が葬
られたと伝えられています。

東高野街道案内板
国道に出るあたりの右側に看板が設置津された休憩場所が有りました。
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郡津駅へ向かう
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畑に皇帝ダリアの蕾が・・・
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郡津駅(ゴール)
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郡津駅 →枚方市駅 →京橋駅 JR京橋駅へ乗換
大和路線で王寺駅~バス、バス停~自宅へ
(西名阪自動車道)高速道路の裏道で
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11月3日の秋深まる名所散策と「四天王寺ワッソ」ー2

11月4日         11月3日の秋深まる名所散策と「四天王寺ワッソ」ー2
                 近鉄駅フリーハイキング 9㎞ 
此の日は、知人のK場さん・I 田さんと3名で近鉄ハイキングへの参加と竹之内街道・横
大路スタンプラリーへも参加、M吉さんと上本町駅で出会う・・・
コースは  近鉄駅フリーハイキング 大阪上本町駅地上コンコース 10時集合
大阪上本町駅(地上コンコース10時集合)~産湯稲荷神社~三光神社~玉造稲荷神社~
大阪城公園(昼食)~難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)・竹之内街道スタンプラリー~
円珠庵(釜八幡)~大阪上本町駅(ゴール)のコース予定を最初から何処かでショート
カットしてコース短縮しようと?考えてて・・・
実際に歩いたコースは・・・
大阪上本町駅(地上コンコース10時集合)~産湯稲荷神社~彌榮神社~真田丸顕彰碑~
興徳寺~旧真田山陸軍墓地~三光神社~玉造稲荷神社~森ノ宮キューズモールエアート
ラック~大阪城公園・太陽の広場へ地車(だんじり)集合(昼食)・青屋門・極楽橋・
天守閣・桜門・大手門~難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)・竹之内街道スタンプラリ~
玉造駅へ
ショートカットコースで約1km短縮? 此の日の私の万歩計は、19527歩で約11.7㎞歩
いたことに・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団
(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわ
たる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書
がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしま
じんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良
国立博物館で保管されている。
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下田駅~大阪上本町駅
大阪上本町駅(集合・スタート)
産湯稲荷神社へ左折する
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみ
こと)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ
味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を
「産湯」という。父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の
長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の
先祖に当る人である。この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社
の近くにある。また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、
この地には大小橋命に関わる伝承は多い。
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彌榮神社・・・生野区桃谷に有る彌榮神社の御旅所
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※生野区桃谷に有る彌榮神社
弥栄神社、彌榮神社、彌栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、
や えいじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。
彌榮(やえい)神社は、文禄年間(1592年~1595年)に島根県八束郡(旧出雲國意
宇郡)の旧國幣大社熊野神社より御分霊を移して御祭りしたと旧記にあります。創立
以来、旧木野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕していました。明治
5年村社に列せられ、神職を置き奉仕し、また社号もこの時に彌榮神社と改めました。
弥栄神社は、御幸森天神宮と並んで、コリアンタウンに鎮座する仁徳天皇と大変縁の
深い神社として有名です。弥栄神社は古くから地元の氏神様として、鶴橋・桃谷の
人々に篤い信仰を集めている歴史ある神社。特にこの界隈は、商店街通りとして、個
人商店が多く立ち並ぶので、商売繁盛の神としてお稲荷さんにお参りする人も多く、
お参りが絶えない神社として、地元の人たちに愛されています。

真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催の
除幕式が行われました。 碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大坂三郷
町絵図」と、「大坂冬夏 陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺
院。天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の
火災で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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興徳寺の横~旧真田山陸軍墓地を通り三光神社へ
※旧真田山陸軍墓地
ここは明治4(1871)年に作られた、現存している軍墓地の中では日本最古の集団墓地
の跡です。旧陸軍墓地は、福岡や広島など大小合わせて全国にいくつか残っているの
ですが、ここ真田山は最大の規模となります。明治4年とくれば、同じ年に日本に徴
兵制が敷かれたのですが、それと同時に出来たらしい。
集団での墓標は、明治10年に起こった西南戦争、西郷隆盛が政府に対し鹿児島で反
旗を翻した、あの戦争の戦死者を葬った兵士の墓や明治27年とか28年は、西暦に
直すと1894年とか1895年の日清戦争。兵隊クラスで個人での墓標があるんはこの日
清戦争まで。日露戦争になったら戦死や戦病死が多すぎて墓を作る土地がなかったの
か、合葬碑として省略されてしまっております。「明治三十七八年戦役」(明治37年
=1904年)とはまさしく日露戦争のことです。後の満州事変も「省略」されて合葬碑
となってる様です。
また、ここに埋葬されているのは日本人だけではなく外国人墓も有るそうです。
日清戦争や第一次世界大戦で捕虜になり日本で死亡したと思われる、中国人やドイツ
人捕虜の墓もあり、真田山の方も、ドイツと中国の領事館に慰霊祭の参加を呼び掛け
ています。ドイツは毎回参加しているものの、中国は「清国と中華人民共和国は関係
ない」と参加を渋っているようです。
私は、つい最近まで日露戦争のロシア人捕虜の墓も此方に有るものと思っていました
が、今年10月に浜寺公園へハイキングした際にロシア人捕虜収容所と亡くなった捕虜
の墓の事を知りました。(浜寺のロシア人捕虜収容所と泉佐野市にあるロシア人捕虜
の墓)

三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の
遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社と
なった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後
神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。当神
社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事として六月
一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ全国各
地からの参拝者が絶えない。
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※真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城(えんげ
つじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝え
られ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、その
台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて真田石)が
置かれている。
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玉造稲荷神社へ向う
公園のツワブキ
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玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年
に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き
「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、
のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年
に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び
戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、
氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を
通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。江戸時代に
は伊勢参りの出発点とされた。
文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に
再建。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを
作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。
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豊臣家奉納鳥居
慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大
震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
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玉造稲荷神社を後に
森ノ宮キューズモール エアトラック
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大阪城公園・噴水前広場~太陽の広場へ
大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西の丸庭
園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山地区は森
林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩う姿も見られ、
都会のオアシスとして市民から愛されている。
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大阪城公園・太陽の広場へ向かう勇壮なダンジリ
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大阪城公園・太陽の広場へ入る
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此処までは、
11月3日の秋深まる名所散策と「四天王寺ワッソ」ー1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-04
此処では、続きの大阪城公園・太陽の広場~ についての詳細を掲載します。
大阪城公園・太陽の広場
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大阪城・青屋門前の公園で昼食
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大阪城・青屋門前に粋な計らい
落ち葉で文字が・・・
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極楽橋へ向かう
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極楽橋から御座船
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刻印石広場
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紅葉の穴場?
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天守閣前広場へ
大阪城(おおさかじょう)
大阪城は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された
城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城と
も表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)
から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元
和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を施
した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術
調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるもの
であることが確認された。
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桜門~大手門
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大手門~難波宮跡へ
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難波宮跡(四天王寺ワッソ)・竹之内街道スタンプラリー
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上
町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年
に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治は
この宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であっ
た。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と
記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が
没した後655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした
が、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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竹之内街道・横大王路(大道)スタンプラリー
2つ目のスタンプをゲットして事務局へ手渡した(63円の切手を貼る手間が省けた)。

四天王寺ワッソ   会場準備中
古代、大阪は“なにわの津”と呼ばれ日本における東アジア交流の拠点でした。とりわけ、
難波の宮は古代の首都あるいは副都であり、渡来の使節団はここから迎賓館的存在で
あった四天王寺へと導かれ、飛鳥へと文化を伝承していきました。
「四天王寺ワッソ」は、当時の国際交流を雅やかに再現するお祭りです。
「ワッソ」とは、現代韓国語で「来た」という意味です。
千数百年以上も前から海を越え、多くの人びとがやってきては繰り広げられた交流を
再現するにあたり、「来た」という言葉を祭りの名称にしたのです。
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ショートカットして玉造駅へ
〆は玉造駅前商店街で美味しいコーヒーを飲んで解散
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