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2019年  2月2日の酒蔵みてある記、奈良豊澤酒造「豊祝」

2019年2月5日    2月2日の酒蔵みてある記、奈良豊澤酒造「豊祝」
              近鉄ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、知人のY田さん・K場さん・I田さん・M吉さん・O村さんと6名で酒蔵みてある記
に参加、南都参加者が2144名と大変多くの人で賑わってて酒蔵で試飲も大変な混み合い、
受付での人の多さ、此の日の私の万歩計は、21915歩で約16.2km歩いたことに・・・
コースは 平城宮跡資料館前受付 10時半
大和西大寺駅(北改札)~徒歩15分~平城宮跡資料館前(受付・スタート)~平城宮跡・大
極殿・朱雀門~左京三条二坊宮跡庭園~大安寺~八幡神社~大安寺搭跡広場(昼食)~
奈良豊澤酒造・豊祝試飲・甘酒ふるまい・ワンカップ豊祝お土産(解散)~帯解駅Or上三橋
バス停
Y田さん・I 田さん・O村さんの3名は上三橋のバス停へ、K場さん・M吉さんと私は帯解駅
へ別れて帰りました。私は1452番、6名共くじ運は無く抽選には外れて・・・
志都美駅
大和西大寺駅(北改札)~徒歩15分
平城宮跡資料館前(受付・スタート)
一度は見て見たいものです。入館無料。奈良文化財研究所によるこれまでの発掘調査・
研究の成果をもとに、土器や瓦、木簡をはじめ、建物模型や航空写真、発掘のジオラマ
模型などで平城宮を分かりやすく展示しています。
又、奈良文化財研究所 平城宮跡資料館の展示をインターネット上のGoogleストリート
ビューで見ることができるようになっています。
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平城宮跡・大極殿
今回は遠目に見るだけのコースでした。
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朱雀門へ向かう
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平城宮跡・朱雀門
朱雀門を通り抜けて、平城京左京三条二坊宮跡庭園へ
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左京三条二坊宮跡庭園
平城京左京三条二坊宮跡庭園
(へいじょうきょうさきょうさんじょうにぼうみやあとていえん)
昭和50年の発掘調査により発見された、園池を中心とする奈良時代の庭園遺跡です。
日本古代の庭園の姿を伝える数少ない庭園であることから、国の特別史跡・特別名勝
に指定されています。
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警察署の跡地?
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佐保川堤防を歩く
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大安寺へ向かう
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大安寺(だいあんじ)
大安寺は、奈良市中心部にある高野山真言宗の仏教寺院。本尊は十一面観音。開基
(創立者)は聖徳太子と伝える。南都七大寺の1つで、奈良時代(平城京)から平安時代
前半までは、東大寺や興福寺と並ぶ大寺であった。
縁起によれば、聖徳太子の建てた「熊凝精舎」(くまごりしょうじゃ、「熊凝道場」とも)が
官寺となり、その後に移転や改称を繰り返したとされる。平城京に移って大安寺を称し
た時の伽藍は東大寺、興福寺と並んで壮大であり、東西に2基の七重塔が立ち(七重
塔を持つ南都七大寺は他には東大寺のみ)、「南大寺」の別名があった。この時代、東
大寺大仏開眼の導師を務めたインド僧・菩提僊那をはじめとする歴史上著名な僧が在
籍し、日本仏教史上重要な役割を果たしてきた。
平安時代以後は徐々に衰退し、寛仁元年(1017年)の火災で主要堂塔を焼失して以後
は、かつての隆盛を回復することはなかった。現存する大安寺の堂宇はいずれも近世
末〜近代の再建であり、規模も著しく縮小している。奈良時代にさかのぼる遺品として
は、8世紀末頃の制作と思われる木彫仏9体が残るのみである。
現代は癌封じなどに利益(りやく)がある寺と自らを位置付けている。参拝者が、竹筒に
入れて温めた日本酒を飲んで健康を祈る「笹酒祭り」は、奈良時代末期の光仁天皇の
故事にちなむと伝承されている。    
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八幡神社
元石清水八幡宮は、807年(大同2年)8月17日 奈良 南都七大寺の一つである大安寺の
鎮守として建立されました。
最澄・空海も修行したと記録される大安寺の僧 行教和尚が遣唐使としての帰途、大分県
宇佐神宮の第一祭神 八幡大神(応神天皇)からのお告げで、宇佐神宮より南部大安寺本
房第七院石清水房に勧請いたしました。
ほんの一時期を経て、八幡大神は平城天皇の勅命により 現在の位置に祀られたと言われ
ておりますが、その際、手を洗うための水がなかったため、行教和尚が松林の中の磐座を
法具で叩いたところ、美しい清水が湧き出し 池を作ったと伝えられております。現在の御
霊神社の龍池です。
その後のある日、行教和尚は夢の中で 京都の男山に八幡大神(応神天皇)を祀れという
ご神託を受け、859年(貞観元年)京都府八幡市に山城石清水八幡宮(男山八幡宮)が建
立されます。
この件については、行教和尚が 改めて宇佐神宮へ出向き 男山に八幡大神をお招きした
という説と、大安寺より分神したという二説が語り継がれております。
1113年(天永4年)4月、奈良 興福寺大衆が 当時の習慣に則り、神輿を出して天皇に直
訴するが、男山八幡宮は奈良の大安寺から遷座したものだから 共に参加するようにと呼
びかけたところ、男山衆は 男山の八幡大神は宇佐神宮から直接 お招きしたもので、大
安寺とは関係ない と「本社」を名乗って譲らなかったそうです。
石清水の名前は以前から男山にあったというのが 男山衆の主張なので、その主張と分け
るために 元石清水八幡宮の名前が生まれたと言われております。石清水の湧き出したと
される井戸は、現在も大安寺の北方御霊神社境内に保存されております。
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大安寺搭跡広場(昼食)
大安寺塔跡は、癌封じ「笹酒まつり」などで有名な「大安寺」がかつて巨大寺院であった
時代に存在したとされる東西2つの巨大な七重塔の遺跡です。
大正時代から史跡として指定されてきた塔跡は、現在は遺跡らしさを体感できる広場と
して整備されており、礎石は全て失われていたものの、残された土檀の形をもとに塔の
基壇(塔の基礎となっている四角い石造りの部分)も復元されています。なお、西塔跡
には心礎と呼ばれる最も重要な礎石が残されていますが、西塔跡は東塔跡のように広
場として整備されているわけではありませんので、立ち入ることが出来ません。
天平神護2年(766年)には東塔に雷が落ち初の焼失を経験します。また平安時代の天
暦3年(949年)になると今度は西塔が落雷を受け焼失してしまいます。その後東塔は平
安時代後期の寛治4年(1090年)に金堂などの復興と合わせ、七重塔として再建される
ことになりますが、江戸時代に入る直前の慶長元年(1596年)に起きた大地震で東塔は
倒壊し、そこからは再建されることはありませんでした。
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奈良豊澤酒造
豊祝試飲・甘酒ふるまい・ワンカップ豊祝お土産(解散)
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上三橋バス停と帯解駅へ別れて・・・
Y田さん・I 田さん・O村さんの3名は上三橋バス停へ、K場さん・M吉さんと私は帯解駅
へ別れて帰りました。

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