2月16日のごきげんさん富田林ごりやくハイキング
2月21日 2月16日のごきげんさん富田林ごりやくハイキング
近鉄ハイキング 歩程約6㎞
此の日は、知人のM吉さん・K場さん・Y田さん・I 田さん達と5名で参加しました・・・
コースは 近鉄富田林駅(南改札前)集合してスタート
富田林駅(南改札前)~歯痛観音~清水大師堂~新堂役行者~桜井弘法井戸~
木戸山役行者~喜志駅迄の6kmコース&プラスアルファーで道明寺天満宮へ
此の日の私の万歩計は、14632歩で約8.7km歩いたことに・・・
志都美駅
柏原駅で近鉄道明寺線に乗り換え
柏原駅ホームから
富田林駅南改札前うスタート
歯痛観音・・・西国三十三度(行者)満願供養塔」の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
近鉄 富田林駅からほど近い、昔からある巡礼街道沿いに、祠(ほこら)に祀(まつ)られ
た宝篋印塔(ほうきょういんとう)の塔身の部分に観音像(弥勒菩薩かも知れません?)
が刻まれています。
歯が痛くて頬(ほほ)をさすっておられるようにも見えますので、「歯神(はがみ)さん」とか
「歯痛の観音さん」とか、近在の方々に慕われて呼ばれています。
はこの宝篋印塔、今から250年ほど前の、安永三年(1774)に「新堂村 酒屋忠兵衛」
さんにより、西国三十三度巡礼行者 玄教さんの満願を記念して建てられた供養塔なの
です。
塔身の観音さま(弥勒菩薩かも?)が半跏思惟(はんかし(ゆ)い)=台座に腰掛けて左
足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘
をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿をされているので、どうも歯
が痛くて頬(ほほ)をさすっておれれるようにもみえますので、「歯痛の神さん」になったん
だと思います。
清水大師堂へ向かう
清水大師堂
弘法大師ゆかりの井戸と伝わり、今も井戸の水がこんこんと湧いています。
富田林市には弘法大師ゆかりの井戸が5つ以上もあります。
水量豊か、枯れたことがない。いまもポリタンクで汲みに来られる方が多い。井戸と
大師堂が一緒になっています。飲用には煮沸が必要です。旧新堂村大工町の河岸
段丘崖にあります。
弘法大師が新堂本郷大工村の住人のために開発したという、石川河畔にある現役
の井戸です。大師を祭る祠堂がありきれいに祭られています。
新堂役行者
役行者(えんのぎょうじゃ)とは
飛鳥時代に活躍した修験道の開祖です。空を飛べたり、鬼を説教して部下にしたり。
ゆかりの地、ここ富田林では、役行者の像が案外街角や民家の横に鎮座しております。
桜井弘法井戸へ向かう
お地蔵さん
お地蔵さん
防火水槽
西徳寺
真宗佛光寺派 光照山 西徳寺
正受寺
真宗大谷派 正受寺
お地蔵さん
桜井の弘法井戸へ向かう
神社?
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の鳥居だけが・・・
※美具久留御魂神社は、大阪府富田林市にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。
今回は本殿へはいけなかったが次回は? 是非行って見たい・・・
※美具久留御魂神社は大阪みどりの百選に選定されている。
美具久留御魂大神(大国主命)を主祭神とし、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、
弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理
比売命(すせりひめのみこと)を配祀する。左右殿に同じ神を祀る建水分神社を上水分社
と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも称された。
社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、天
皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、出雲振根に杵築大
社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。崇神
天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。出雲
人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。押羽振甘美御
神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。山河之水泳御魂(や
まがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主也(そこた
からみたからぬしなり)」と宣託した。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)
を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀
したという。
朝廷から厚く崇敬を受け、嘉祥3年(850年)には従五位上の神階が授けられた。延喜式
神名帳には「河内国石川郡 美具久留御玉神社」として記載され、河内国二宮、石川郡総
社とも称された。
楠木正成は、建水分神社(上水分社)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として
崇敬し、社領の寄進や社殿造営を行った。
桜井弘法井戸・・・桜井町の町名の由来
桜井町の西側、東高野街道沿いにある櫻井という井戸を地名の由来とする。
「河内名所図会」にも記載されている弘法大師祈願の井戸。聖徳太子の伝説もあり。
江戸時代は冷たく甘味があったため、茶道の水に利用され、遠方より汲みに来たらし
いですが、今は湧いてなく飲用不可。
桜井の井戸は、『大阪府誌』は弘法大師の祈願によるものとし、『和漢三才図会』は聖徳
太子の遺跡とする。『郷土史の研究』は、古老の言として、聖徳太子が馬上にて鞭を振っ
て地面を掘ったところ清水が湧き、太子が馬に「ちやくらへ(茶食らえ)」と言ったとし、ちや
くらへ井が転じて櫻井になったという伝承を載せている。
水は極めて清く、茶を飲むにも美味であり、遠方から水を汲みに訪れる人もいたという。
『富田林市史 第一巻』が刊行された1985年当時、全く忘れさられ、水田脇の野井戸のよ
うな状態であった。現在は整備され、脇に説明板が立っている。
お地蔵さん
明尊寺・・・浄土真宗本願寺派歸命山明尊寺
明尊寺は親鸞が叡福寺を訪れた際に一泊し、了智という坊号を授けられたという。文永
10年に建立され、文明4年より明尊寺と称する。かつては河内十二坊のひとつであった
とされる。2014年(平成26年)に元禄年間以来となる大改修が行われた。
お地蔵さん
木戸山役行者(神変行者大菩薩)
豪快な役行者さん。石川の上流から村に流れ着いたと言い伝えられています。
それから村のお寺(極楽寺)の脇の祠に大事に祀られています。「
喜志駅へ向かう
喜志駅
喜志駅 → 道明寺駅
道明寺駅
道明寺天満宮へ向かう
道明寺天満宮・・・境内の梅を見て梅林へは入らず
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじの
おみ)の姓とこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖で
ある天穂日命を祀る土師神社を建立した。仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が
土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。伝承では聖徳太子の発願により
土師八島がその邸を寄進して寺としたという。この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏
が分流していく。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この
寺を訪れている。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。901年(延喜元年)、道真は大
宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ。道真遺愛の品
と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。947年(天暦元
年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺(真言宗御室派の尼
寺)と改称(道真の号である「道明」に由来)し、土師神社内に天満宮も創建された。時代
が下ると道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようにな
っていき、土師神社も天満宮が中心となっていった。
喜志駅迄の6kmコース、昼食を摂る間も無く終わってしまったので道明寺天満宮
へ梅でも見ながら昼食を食べる場所が無いかと行ってみたが風が冷たくて昼食は
道明寺商店街の中華料理屋で半ちゃんラーメン、食後は喫茶店でコーヒーを・・・
近鉄ハイキング 歩程約6㎞
此の日は、知人のM吉さん・K場さん・Y田さん・I 田さん達と5名で参加しました・・・
コースは 近鉄富田林駅(南改札前)集合してスタート
富田林駅(南改札前)~歯痛観音~清水大師堂~新堂役行者~桜井弘法井戸~
木戸山役行者~喜志駅迄の6kmコース&プラスアルファーで道明寺天満宮へ
此の日の私の万歩計は、14632歩で約8.7km歩いたことに・・・
志都美駅
柏原駅で近鉄道明寺線に乗り換え
柏原駅ホームから
富田林駅南改札前うスタート
歯痛観音・・・西国三十三度(行者)満願供養塔」の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
近鉄 富田林駅からほど近い、昔からある巡礼街道沿いに、祠(ほこら)に祀(まつ)られ
た宝篋印塔(ほうきょういんとう)の塔身の部分に観音像(弥勒菩薩かも知れません?)
が刻まれています。
歯が痛くて頬(ほほ)をさすっておられるようにも見えますので、「歯神(はがみ)さん」とか
「歯痛の観音さん」とか、近在の方々に慕われて呼ばれています。
はこの宝篋印塔、今から250年ほど前の、安永三年(1774)に「新堂村 酒屋忠兵衛」
さんにより、西国三十三度巡礼行者 玄教さんの満願を記念して建てられた供養塔なの
です。
塔身の観音さま(弥勒菩薩かも?)が半跏思惟(はんかし(ゆ)い)=台座に腰掛けて左
足を下げ、右足先を左大腿部にのせて足を組み(半跏)、折り曲げた右膝頭の上に右肘
をつき、右手の指先を軽く右頰にふれて思索する(思惟)姿をされているので、どうも歯
が痛くて頬(ほほ)をさすっておれれるようにもみえますので、「歯痛の神さん」になったん
だと思います。
清水大師堂へ向かう
清水大師堂
弘法大師ゆかりの井戸と伝わり、今も井戸の水がこんこんと湧いています。
富田林市には弘法大師ゆかりの井戸が5つ以上もあります。
水量豊か、枯れたことがない。いまもポリタンクで汲みに来られる方が多い。井戸と
大師堂が一緒になっています。飲用には煮沸が必要です。旧新堂村大工町の河岸
段丘崖にあります。
弘法大師が新堂本郷大工村の住人のために開発したという、石川河畔にある現役
の井戸です。大師を祭る祠堂がありきれいに祭られています。
新堂役行者
役行者(えんのぎょうじゃ)とは
飛鳥時代に活躍した修験道の開祖です。空を飛べたり、鬼を説教して部下にしたり。
ゆかりの地、ここ富田林では、役行者の像が案外街角や民家の横に鎮座しております。
桜井弘法井戸へ向かう
お地蔵さん
お地蔵さん
防火水槽
西徳寺
真宗佛光寺派 光照山 西徳寺
正受寺
真宗大谷派 正受寺
お地蔵さん
桜井の弘法井戸へ向かう
神社?
美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)の鳥居だけが・・・
※美具久留御魂神社は、大阪府富田林市にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。
今回は本殿へはいけなかったが次回は? 是非行って見たい・・・
※美具久留御魂神社は大阪みどりの百選に選定されている。
美具久留御魂大神(大国主命)を主祭神とし、左殿に天水分神(あめのみくまりのかみ)、
弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、右殿に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理
比売命(すせりひめのみこと)を配祀する。左右殿に同じ神を祀る建水分神社を上水分社
と呼ぶのに対し、当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも称された。
社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)、この地にしばしば大蛇が出没したので、天
皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」と言い、出雲振根に杵築大
社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として祀らせたのに始まるという。崇神
天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。出雲
人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。押羽振甘美御
神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。山河之水泳御魂(や
まがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主也(そこた
からみたからぬしなり)」と宣託した。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)
を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀
したという。
朝廷から厚く崇敬を受け、嘉祥3年(850年)には従五位上の神階が授けられた。延喜式
神名帳には「河内国石川郡 美具久留御玉神社」として記載され、河内国二宮、石川郡総
社とも称された。
楠木正成は、建水分神社(上水分社)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として
崇敬し、社領の寄進や社殿造営を行った。
桜井弘法井戸・・・桜井町の町名の由来
桜井町の西側、東高野街道沿いにある櫻井という井戸を地名の由来とする。
「河内名所図会」にも記載されている弘法大師祈願の井戸。聖徳太子の伝説もあり。
江戸時代は冷たく甘味があったため、茶道の水に利用され、遠方より汲みに来たらし
いですが、今は湧いてなく飲用不可。
桜井の井戸は、『大阪府誌』は弘法大師の祈願によるものとし、『和漢三才図会』は聖徳
太子の遺跡とする。『郷土史の研究』は、古老の言として、聖徳太子が馬上にて鞭を振っ
て地面を掘ったところ清水が湧き、太子が馬に「ちやくらへ(茶食らえ)」と言ったとし、ちや
くらへ井が転じて櫻井になったという伝承を載せている。
水は極めて清く、茶を飲むにも美味であり、遠方から水を汲みに訪れる人もいたという。
『富田林市史 第一巻』が刊行された1985年当時、全く忘れさられ、水田脇の野井戸のよ
うな状態であった。現在は整備され、脇に説明板が立っている。
お地蔵さん
明尊寺・・・浄土真宗本願寺派歸命山明尊寺
明尊寺は親鸞が叡福寺を訪れた際に一泊し、了智という坊号を授けられたという。文永
10年に建立され、文明4年より明尊寺と称する。かつては河内十二坊のひとつであった
とされる。2014年(平成26年)に元禄年間以来となる大改修が行われた。
お地蔵さん
木戸山役行者(神変行者大菩薩)
豪快な役行者さん。石川の上流から村に流れ着いたと言い伝えられています。
それから村のお寺(極楽寺)の脇の祠に大事に祀られています。「
喜志駅へ向かう
喜志駅
喜志駅 → 道明寺駅
道明寺駅
道明寺天満宮へ向かう
道明寺天満宮・・・境内の梅を見て梅林へは入らず
埴輪を作って殉死の風習を変えた功績で、垂仁天皇32年に野見宿禰は土師臣(はじの
おみ)の姓とこの地を与えられた。そして、その子孫である土師氏は野見宿禰の遠祖で
ある天穂日命を祀る土師神社を建立した。仏教伝来後に土師氏の氏寺である土師寺が
土師神社の南側に建立され、やがて神宮寺となった。伝承では聖徳太子の発願により
土師八島がその邸を寄進して寺としたという。この土師氏からはやがて菅原氏や大江氏
が分流していく。
平安時代、土師寺には菅原道真のおばに当たる覚寿尼が住んでおり、道真も時々この
寺を訪れている。この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。901年(延喜元年)、道真は大
宰府に左遷される途中に当社に立ち寄って、覚寿尼との別れを惜しんだ。道真遺愛の品
と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。947年(天暦元
年)には道真自刻と伝える十一面観音像を祀って土師寺を道明寺(真言宗御室派の尼
寺)と改称(道真の号である「道明」に由来)し、土師神社内に天満宮も創建された。時代
が下ると道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようにな
っていき、土師神社も天満宮が中心となっていった。
喜志駅迄の6kmコース、昼食を摂る間も無く終わってしまったので道明寺天満宮
へ梅でも見ながら昼食を食べる場所が無いかと行ってみたが風が冷たくて昼食は
道明寺商店街の中華料理屋で半ちゃんラーメン、食後は喫茶店でコーヒーを・・・