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1月22の達磨寺初詣と座禅体験&王寺町史跡巡り

1月29日       1月22の達磨寺初詣と座禅体験&王寺町史跡巡り
                  歩こう会初詣ウオーク 歩程約6km
此の日は、歩こう会の初詣ウオーク、私が歩こう会に入会して昨年迄ずーっと神社への
初詣ウオークだったが、今年は会員の皆さんに座禅体験をして貰いたくて私の住む隣り
町の王寺町にある達磨寺発祥の達磨寺へ初詣ウオーク、年始法要と座禅体験をする事
にして、王寺町観光ボランティアガイドの会にお世話になり、有難う御座いました。
コースは、JR王寺駅1F雪丸像の前に9:55迄に集合・10時スタートで80名が参加した・・
JR王寺駅1F雪丸像前~達磨寺・祈祷・座禅体験~門前中町公民館・昼食~片岡神社・
片岡王寺・放光寺~芦田池~親殿神社~孝霊天皇陵~JR王寺駅(ゴール・解散)
此の日の私の万歩計は、14681歩で約10.9kmあるいた事に・・・
志都美駅 
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和歌山線の古い車両
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王寺駅1Fの雪丸像
此処で集合して達磨寺へスタート
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達磨寺へ到着
全員出年始法要祈祷、祈祷後は2班に分かれて座禅体験
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達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。

祈祷、座禅体験を終わって
達磨寺境内案内、一夜竹、雪丸のお墓、松永弾正のお墓、問答石、古墳等
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問答石
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古墳
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門前中町の公民館で昼食
次回2月5日野案内&2018年皆勤賞者表彰・賞品手渡し

昼食後の午後のスタート前に
達磨寺の境内へ戻って集合写真撮影
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片岡神社
片岡神社は八幡大神、住吉大神、豊受大神、清滝大神、天照大神が祀られ、放光寺の
鎮守社であるとされている。延喜式の神名帳には片岡坐神社(かたおかにいますじん
じゃ)とあり、古人は雨の神として尊信していたと言われている。なお、旧社地は現在地
よりも北西であったとされる。記録によると正暦5年(994年)疫病や天変地異が続いた
ため、中臣氏が救済を祈願して奉納したと言われている。
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片岡王寺・放光寺
この片岡王寺が、現王寺町の町名の起源と考えられている。その遺跡は現在の王寺小
学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていた。それは南向きの
四天王寺式伽藍配置で、7世紀前半に敏達天皇の系統の王族が創建したと言われてい
る。片岡王寺の伽藍は永承元年(1046年)の雷火による焼失を契機に衰退し、現在では
放光寺として存続している。放光寺は第30代敏達天皇の皇女片岡姫による創建といわ
れ、聖徳太子が建立した四十六院の一つにも数えられている。しかし、永承年間の雷火
と元亀年間の兵火でほとんどが焼失。その後、延宝・元禄の頃に再建された。2004年
には、国道168号線改良事業に伴って、王寺小学校グランド部分で発掘調査を行なっ
たところ、片岡王寺に関わる奈良時代の掘っ立て柱塀と石積み溝が検出され、平城宮の
ものと同じ文様をもつ鬼瓦が出土した。
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芦田池
片岡山の南側のすそ野、芦田池周辺の一帯は、昔から葦田といわれており、かつては
一帯に葦が繁茂していたため葦田原とも呼ばれていました。それが葦田の原と歌に詠
まれる歌名所となったのです。
歌聖・柿本人麿も、
「明日からは若菜つまむと片岡のあしたの原はけふぞやくめる」と歌っています。
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親殿神社へ向う
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親殿神社
中世、片岡武士集団の守り神として信仰を集めていたそうです。
室町時代の文明2年(1470)、片岡弥五郎道春が春日若宮社の神を勧請して祀ったのが
始まりと伝わります。中世、武士達は神殿で戦勝祈願や社を中心に団結をはかり、共同
防衛軍議をするのが常であったそうです。それゆえ拝殿には、天保10年(1829)8月25日
の武者絵、嘉永2年(1849)の平敦盛と熊谷直実の図、安政2年(1855)8月25日の武者
絵、慶応元年(1865)の敦盛、直実の図など戦勝にかかる絵馬が多く奉納されています。
祭神;春日明神(経津主神・武雷神・天児屋根命・比売神) 摂社;高倉大明神
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親殿神社に奉納された絵馬を見る
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孝霊天皇陵へ向う
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孝霊天皇陵
孝霊天皇は日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。孝安
天皇の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』で
は同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。父帝が崩御した年の12月、
黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。其れまでの山裾にあった宮と異なり大和
盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の
娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香
媛らを妃にしている。倭国香媛との間には崇神天皇の時代に四道将軍となった彦五十狭芹
彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、
128才で崩御。 『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人
に数えられる。『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔
に書かれている。此れが後の桃太郎伝説になる。
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孝霊天皇陵から田原本町法楽寺方面&天理方面を見る・・・
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王寺駅へ向かう
葛下川の堤防道路で信貴山を・・・
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1月19日の冬枯れの馬見丘陵公園散策-2

1月27日          1月19日の冬枯れの馬見丘陵公園散策-2
                  冬枯れの馬見丘陵へ家内と二人で
此の日は、家内と二人で冬枯れの馬見丘陵公園へ、運動不足解消への御付き合いに
行って来ました、此の日の私の万歩計は、7924歩で約5.8km歩いたことに・・・
馬見丘陵公園
馬見丘陵は、香芝市・広陵町・河合町など2市3町に跨る標高70m程度の東西約3km、
南北約7kmに及ぶ低い丘陵地で、この丘陵は馬見古墳群のエリアと一致し、古墳の集
積地となっています。
昭和40年代後半より丘陵西部では真美ヶ丘や西大和ニュータウンなどの大規模宅地
開発が始まりましたが、丘陵東部に位置する馬見丘陵公園は、これらの開発から自然
や古墳群を保全するため、「歴史と自然に囲まれた憩いの空間」を目指して、昭和59年
8月に都市公園(広域公園)として都市計画決定し、同年より公園事業に着手しました。
平成22年9月18日から11月14日の間は「第27回 全国都市緑化ならフェア やまと花ご
よみ2010」のメイン会場となり、多くの方に来園いただきました。
平成24年6月、馬見丘陵公園は中央エリア及び南エリアの一部を開園し、全面開園し
ました。
広陵町・河合町にまたがる馬見丘陵の歴史的遺産(馬見丘陵古墳群4~5世紀築造)と
豊かな自然環境を 保全・活用するために、奈良公園に次いで県下2番目の広域公園と
して昭和59年度に都市計画決定を受け 事業に着手しました、計画面積は65.3haです。

中央エリア駐車場へ車を入れて先ず北エリアへ向かいました。
バラ園を通り
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北エリアへの連絡道路(トンネル)を通り北エリアへ向かう
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北エリア藻殆ど花が無い
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花サポータ花壇
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集いの丘も人はいない
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大型テント
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池部駅への連絡道を少し歩いてみる
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集いの丘へ戻ると人影が数名・・・
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馬見花苑にはパンジーが・・・
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ダリア園には何もない
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連絡道(トンネル)を戻り、
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ススキの丘を乙女山古墳の横を通り
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はなももの丘の紅梅&白梅の木を・・・
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はなももの丘を下池へ
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ムクロジの大木にカラスが羽を休めて
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ムクロジの実が・・・
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何時もの亀エリアには、今日は鴨たちが・・・
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此処までは、
1月19日の冬枯れの見丘陵公園散策-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
     https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-27
此処では、続きの下池の亀エリア~古墳の丘の前~ の詳細を掲載します。  
古墳の丘の前から下池を
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古墳の丘
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下池のウッドテラス
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一本松古墳
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倉塚古墳
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梅林へ向かう
古墳休憩所・・・北今市1号墳 2号墳
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梅林は紅梅がチラホラ
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帆立貝式古墳
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上池
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ウッドデッキへ向かう
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ウッドデッキ
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ウイルソン株?
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カエル
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ナガレ山古墳
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結びの広場
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公園館へ向かう
サンシュユの実が綺麗
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公園館
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芝生の丘
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駐車場へ
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1月18日のてくてく龍田大社から竜田古道を河内へ-2

1月25日       1月18日のてくてく龍田大社から竜田古道を河内へ-2
                昼飲み会&ハイキング(てくてくマップ大阪
此の日は、自然の多い所を歩こう!とのリクエストで知人の・S藤さん・M村さん・K場さん
・M吉さん・R得さんと6名で、近鉄ハイキングの(てくてくマップ大阪⑯の河内から竜田へ
竜田古道を歩くコースを逆方向に信貴山下駅~竜田古道を河内へ向けて歩いた・・・
コース  てくてくマップ大阪⑯を逆に 信貴山下駅 10:12着・スタートで
信貴山下駅(集合)~龍田大社~峠八幡神社~亀の瀬地すべり対策所~里の山公園~
金山媛神社~金山彦神社~河内堅上駅  河内堅上駅→天王寺駅~湯処・あべの橋
湯処・あべの橋で一風呂浴びてミオパレス4Fの居酒屋で4名と合流して新年会開催・・・
素晴らしいハイキング日和に、私の万歩計は、21608歩で約15.9km歩いたことに・・・
志都美駅
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信貴山下駅前公園
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龍田大社・・・HPより
龍田大社(奈良県生駒郡三郷町)は「風の神様」として古くから多くの方に親しまれており、
天地宇宙の万物生成の中心となる「気」でお守護(まも)りくださる、幅広いお力のある神
様です。歴史はとても古く、今から約2100年前、第10代崇神天皇の時代、国内が凶作や
疫病の流行に騒然としていたさなか、天皇の御夢に現れた大神様のお告げ通りにお社を
造営されると、作物は豊作に、疫病は退散したと伝えられており、それが当社の創建とさ
れています。また陰陽五行では「風の神様」は木気にあたることを示しており、「木」偏に
「風」と書く【楓】で四方八方(東西南北とその間の四方)を風の神様の清々しい「気」が行
きわたる様にと【八重の楓】をご神紋として用いております。
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神奈備神社
神奈備とは、神の住む森という意味で、三輪山の神の分身をこの地に祀り(御祭神は須
佐之男命とも云われる)、この付近一帯を神奈備と呼んでいました。
鎮座地 立野(たつの)について
古くは、「たちの」とも称した。大和川右岸、生駒山地の東麓に位置する。信貴山を背に、
東と南は大和川に面し、西は河内に接する地で、中央に「竜田大社」が鎮座する。地名
の由来は、イタドリの花のタチヒ野、あるいは秋立つ紅葉の名所によるともいうが、立は
竜田の竜と同根で、タチ(丹治・多遅・丹比)とされる。
神奈備神社の案内板には、「立野の神奈備は飛鳥の神奈備と共に有名であり万葉集に
も十首以上詠まれている」と書いてある。
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岩瀬の杜
三郷駅の少し南側にある「磐瀬の杜」
「神奈備の磐瀬の社の呼子鳥(よびこどり)痛くな鳴きそ 吾が恋まさる」
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関地蔵
「天武天皇(673~686年)の頃、大和を中心にして4つの関所が設けられた。東国へは
「不破の関」(岐阜)、中国へは「吉備の関」(岡山)、山陰へは「石見の関」(島根)、そし
てこの「竜田関」(奈良)が設けられた。日本書紀によると、ここがその関所跡と推定さ
れる。この石仏は通称「関の地蔵さん」と呼ばれていて、流出の際にご面相が破壊され
ている。水害や工事の為、何回か移転なさったと思われるが、大体このあたりだったと
思われる。・・・・」(三郷町教育委員会の説明板から)
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峠八幡神社へ向う
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峠八幡神社
大阪府柏原市峠に鎮座する【峠八幡神社】(とうげはちまんじんじゃ)です。延命地蔵尊(畑
地蔵尊)が石段の横にあります。石段をあがって鳥居を抜けると正面には本殿が見えます。
参道石段脇に設置された柏原市教育委員会の説明板によると、神社前の道が江戸時代の
亀瀬越奈良街道であると書かれていました。この神社についての由緒等は不明です。延命
地蔵尊は格子戸が施錠されていましたが、中のお地蔵さんに御簾や涎かけはありません。
左手に宝珠を持ち、半跏趺坐された地蔵菩薩はとても珍しい。説明板によると鎌倉時代末
期~室町期の造立と考えられているようです。
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亀の瀬へ向かう
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亀の瀬地すべり対策井戸52号
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9号井戸
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今も工事中?
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34号井戸
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地滑り対策案内板設置場所へ向かう
此処までは、
1月18日のてくてく龍田大社から竜田古道を河内へ-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-25 
此処では、続きの亀の瀬地すべり案内板~ の詳細を掲載します。
亀の瀬地すべり案内板
亀の瀬地すべり(かめのせじすべり)とは、大阪府柏原市峠地区・雁多尾畑地区一帯で過去
に起こった地すべりのこと。特に1931年(昭和6年)から翌年にかけて起こった地すべりは、
規模・被害が大きくなったことで知られる。亀の瀬地すべりは、推定移動土塊量約1,500万
m3に及ぶ大規模な地すべり土塊を有しており、降雨等で地下水位が上昇すると斜面が不
安定となり地すべり発生の危険性が高まる。地すべり対策事業では、斜面の安定化を確保
するための対策工を実施。柏原市峠地区の大半と雁多尾畑地区の一部(トメショ山から清水
谷地区あたり)では一帯古くからたびたび地すべりが起こっていた。明治以前に関しては記
録は残っていないものの過去の調査から4万年前より以前からあったと考えられている。明
治以降では主に1903年(明治36年)、1931・1932年(昭和6・7年)、1967年(昭和42年)に
発生してる。
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此処にも井戸
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地滑り対策
当地の地質は、二上山周辺一帯に分布する二上層群の一部であり、昭和6年、7年の大規
模地すべりを契機に初めて本格的な調査が行われた。昭和50年代以降のボーリング、トン
ネル調査坑等により地すべり機構は概ね解明された。度重なる火山活動と地殻変動により
堆積された地層において、第三紀鮮新世に堆積したドロコロ熔岩層など水を通しにくい粘土
質層とその下層にある第三紀中新世に堆積したレキ・火山灰層といった水を通しやすい層
の間にすべり面が形成された。正確にはすべり面上部は安山岩・花崗岩細礫を含んだ暗灰
色粘土層、下部は黒雲母等の火山灰を含んだ砂質粘土層ですべり面深度は地表から約30
から80 mである。上部粘土層の含水量が多くなって軟弱化することが地すべりの主要因と
考えられている。
すべり面は柏原市峠地区の広い範囲に広がり、南側は大和川の下をくぐり、国道25号線の
少し南付近まで続いている。さらに北部のトメショ山一帯にもすべり面が確認されている。な
お、大和川南岸の関西本線が通るあたりは原川累層と呼ばれる古い安定した地層である。
峠地区におけるすべり面の標高差は約100mあり、大和川直下付近がすべり面の一番低い
位置にあたる。すべり面が軟弱化することにより上部層が標高の低い方(北~南)へ滑落し、
結果的に大和川流域一帯の地表を押し上げることになる。

地すべり対策事業・・・亀瀬排水トンネル
現在、地すべりを起こした斜面の崩落を防ぐために対策事業を行っている。1959年(昭和34
年)10月に地すべり防止区域に指定され、さらには1962年(昭和37年)に直轄施工区域に指
定され、直轄工事が開始された。ひとたび地すべりが発生すると川がせき止められ、二次災
害に繋がりかねないため、国土交通省近畿地方整備局 大和川河川事務所の管轄のもと、
大規模な対策事業と監視活動がおこなわれている。内容としては、峠地区を中心に6つの排
水トンネル、26基の集水井および多数の排水口による表面排水路・暗渠排水路が整備され、
粘土層の含水量を抑制する対策が行われた。また、約300本にのぼる鋼管杭の設置などが
行われ、地すべり滑動を抑制する対策が行われた。 なお、対策地域内に「亀の瀬地すべり資
料室」が設置され、亀の瀬地すべりに関する資料の展示、対策地域の設備の見学会等が行わ
れ、啓蒙活動が行われている。

桜の里山公園へ向かう
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桜の里山公園に到着
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竜田古道の里山公園で昼食・・・大王松の松ぼっくり
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竜田古道の里山公園
竜田古道の里山公園は、柏原市が「市民の健康づくりやアウトドアレクリエーションの
ために開設した公園施設」です。
自然体験学習施設(セミナーハウス・キャンプ場)では、デイキャンプやオーバーナイト
キャンプをお楽しみいただけます。併せて、バーベキューパーティやダッチオーブン料
理などお楽しみください。
また、「森のがっこう」「森のようちえん」などお一人でも参加いただける主催事業やご
家族で参加いただける日帰りの行事等年間にわたり開催しています。
ご利用に際しては、施設の指導員やリーダーがお手伝いしますので、なんなりとご相
談ください。

御座峰(龍田神社本宮跡)へは行かず河内片上へ下る
金山媛神社
当神社はおよそ千年前の、平安時代に制定された、延喜式神名帳に登載された式内社で
あります。御祭神金山毘売神は、千二百余年前に書かれた、古事記によりますと、伊邪那
岐命・伊邪那美命、二柱の神様よりお生まれになったと記されてあります。
この神様は古代には、場所は定かでありませんが、雁多小畑の東南、獄山の嶺に奉祀さ
れておりましたが、中世時代に今の地に遷座されました。その間、八大金剛童子社、俗に
山王さん、天王さんなどと称されておりましたが、明治八年に今の社名に改められました。
当地は古代には、鉱工業の栄えた所と思われ、その守護神として祀られたのがはじめでは
ないかと思われます。御祭神金山の神一族は、獄山の峰に天降りまして、獄山、龍田山を
中心とする最適の場所に、鉄鋼の業を導き給ひ、周近には金吹山、焼あと等、当時を偲ば
せる地名もあり、遺物も発見されて居ります。集落北方の高地には、古代製鉄を営むには
風を必要とし風神をお祀りしたと思われる、風神降臨の聖地、御座峰が伝承されて居ます。
又この地方の製鉄は文化発展の上において、鉄の重要性が増してきた弥生後期より応神
河内玉朝に至るまで続けられ、多くの富を人々にお授け下さった御神徳は偉大であります。
又この神様は火の神様との御関係深く炊事を司る婦人の健康と安全を、又金属業、農土木
産業、並に火に携わる諸事の安全をお守り下さる神様であります。
今も尚、当地氏子の守護神として、その信仰は脈々と伝えられ又鉄工の守護神として金属
業を営む火と、又金融業を営む人達や、御神名、金山の名の通り黄金の山の如き富をお
授け下さる神様である事を信じ、各地より参詣する人々も多く、毎年の例大祭には町内御
旅所へと、御神幸在らせられ華やかな賑わいを見せております。
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金山彦神社へ向う
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金山彦神社
金山毘古神社はおよそ千数百年前(醍醐天皇延長五年)の平安時代に制定された延喜式
神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)に登載された式内社です。御祭神の金山毘古神は、
およそ千三百年前(元明天王和銅五年)に太安万呂によって書かれた古事記によりますと、
伊邪那岐いざなぎ(伊弉諾神)・伊邪那美いざなみ(伊弉冉神)二柱の神様よりお生れになっ
たと記されてあります。この神様は火の神様と御関係が深く、炊事を司る婦人の健康と安
全を、加えて近年では鉄工、金属業、農土木産業、金融業や火に携る諸事の安全と繁栄を
お守り下さる神様です。御祭神は、金山毘古神(かなやまひこのかみ)
金山彦神(かなやまひこのかみ)は、日本神話に登場する神。『古事記』では金山毘古神、
『日本書紀』では金山彦神と表記する。金山毘売神(かなやまびめのかみ、金山姫神)とと
もに鉱山の神として信仰されている。
神産みにおいて、イザナミが火の神カグツチを産んで火傷をし病み苦しんでいるときに、そ
の嘔吐物(たぐり)から化生した神である。『古事記』では金山毘古神・金山毘売神の二神、
『日本書紀』の第三の一書では金山彦神のみが化生している。
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河内堅上駅
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ホームへ渡る陸橋から大和川が・・・
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名  龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質  ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!ほんまに。
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居酒屋 甘太郎
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おまけ
王寺駅前のイルミネーション
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1月16日の道明寺天満宮から古市古墳群を巡り葛井寺へ-2

1月22日      1月16日の道明寺天満宮から古市古墳群を巡り葛井寺へ-2
                  歴史探訪の会の年始ウオ-ク
此の日は、参加者20名で昨年10月に下見して決めたハイキングコースを藤井寺市観光
協会のボランティアガイドのお力をお借りし、楽しい素晴らしいハイキングとなりました。
コースは
道明寺駅(スタート)~道明寺天満宮~道明寺~土師ノ里駅前~鍋塚古墳~仲姫命陵古
墳~古室山古墳~赤面山古墳~大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~サンド山古墳~シュラ
ホール~辛国神社~葛井寺~藤本酒造醸・試飲等(解散)~藤井寺駅 
此の日の私の万歩計は、15475歩で約11.4kmあるいたことに・・・
自宅~志都美駅へ向かう
志都美駅近くの着物病院?
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志都美駅
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柏原駅で近鉄に乗り換え
近鉄のホームから
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道明寺駅(スタート)・・・道明寺駅の歴史(近鉄電車発祥の駅として知られる)
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。
道明寺駅ホームから・・・
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道明寺駅の外
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道明寺天満宮へむかう
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道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる
野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。
仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願によ
り土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺には菅原道真公のお
ばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」
と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿
尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点
が国宝の指定を受けている。
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修羅
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梅もちらほら
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古代道明寺五重塔跡 礎石
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木槵樹(もくげんじゅ)
菅原道真公が40歳の時に古代道明寺で大乗経典のお経を写経し、それを納めた
ところから生えた木が木槵樹だそう。木槵樹の起源は古く、お釈迦様の時代からあり、
「木槵子経」というお経があるのだそうです。実の中が巻物の様になってるそうです。
此処は入れないが、現道明寺の境内にも木槵樹が植えて有り、実が拾えるそうです。
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道明寺(どうみょうじ)・・・ 道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺
は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂伽
藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真
がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁
もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の
『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改めら
れるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
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土師ノ里駅前
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鍋塚古墳
仲津山古墳(伝仲姫命陵)の後円部に近接して築造された、一辺50m、高さ7mの方墳であ
り、濠があった可能性がある。内部構造は明らかでないが葺石と埴輪列が確認されている。
円筒埴輪の他、家、盾、靫、蓋(きぬがさ)形の形象埴輪が用いられている。円筒埴輪には
黒斑を有し、類似の埴輪が出土している仲津山古墳との関係がうかがえる。1956年に国の
史跡に指定された。なお、2001年に史跡の追加・統合指定が行われ、本古墳を含む14基
の古墳が「古市古墳群」の名称であらためて国の史跡に指定されている。
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知人の家の前を通り、仲姫命陵古墳へ向かう
※澤田八幡神社・・・境内に電車が通っている全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社
が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を
勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八
幡神社の四社です。とある・・・・

仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群では応神
天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考られる鍋塚古
墳があります。
仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命
に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田
屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちな
みに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年
1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
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古室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置していま
す。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしいものがあり
ます。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせます。これら
はいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150mで、古市古墳群
の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたのは4世紀末から5世
紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期にあたり、同古墳群中
で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
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※赤面山古墳
西名阪自動車道の高架下に赤面山古墳がある。大鳥塚古墳の後円部に接するように
位置するこの高まりが赤面山古墳です。現状からすると、墳丘の一辺が15メートルの
方墳と考えられます。人を葬った施設などは分かっていません。赤面山古墳が造られ
たのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期でした。そして、赤面山古墳の被葬者
は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、葬
られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたのです。
此処までは、
1月16日の道明寺天満宮から古市古墳群を巡り葛井寺へ-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
           https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-22
此処では、続きの大鳥塚古墳~ の詳細を掲載します。
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中では中
形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏
み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の斜面には石が
葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分かってい
ません。
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応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで百舌鳥
古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143万立法mで仁
徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大と言われる。 
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第
15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわ
けのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。
誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにまし
ますすめらみこと)とも称される。
学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の
高い天皇と見られている。宮内庁によれば、在位270-310年とされている。御名に装飾
性がなく『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合する部
分も窺えることから、「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている。また中国
の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「讃」に比定する説も
ある。
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かごの屋で昼食 和み弁当
皆さんご満足のご様子でした・・・
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サンド山古墳
近くに応仁天皇陵が存在するため、宮内庁から応神天皇陵(恵我藻伏岡陵)へ号陪塚と
されていますが、恐らく独立した古墳群と考えられています。5世紀~6世紀前半に造られ
たとされ、現在の規模は長さ30m、高さ3m程です。墳形が崩れ原型を留めていないため、
実際にどのような古墳だったのかは分かっていません。サンド山古墳は藤井寺市藤が丘
にある「藤ヶ丘 山道ポケットパーク」に内にあります。サンド山古墳も蕃所山古墳と同様
に住宅街の真っ只中に存在する古墳ですが、蕃所山古墳のように墳形が保たれておら
ず案内板もないのでただの土山にしか見えません。「サンド山古墳」の特徴として ・墳形
が崩れてなにかわからない ・発掘したのかどうかもわからないから情報がない ・宮内庁
管理なので中にも入れない ・エピソードもない と、古墳巡り泣かせな古墳です。
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アイセル・シュラホール
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン ターの
愛称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
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辛国神社(からくにじんじゃ)
今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社と なり、
式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。日本書紀には、『雄略十三年春三月、
餌香長野邑を物部大連に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われ
る。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、
辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。三代実録には、清和天皇『貞
観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る』とあります。元の神社は恵
美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が
社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神・天
児屋根命を合祀したと伝えられている。 明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合
祀して現在に至っている。御神徳・饒速日命・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神。 天孫降
臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけて河内国
哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三四五六七八
九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死人も行き反えらん』と教え諭さ
れた。故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信仰されている。祭神は、
天児屋根命・藤原氏の祖神。素盞鳴命・天照大神の弟神。 品陀別命・応神天皇。市杵
島姫命・素盞鳴命の子。
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葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立され
ました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡 礼者が
訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏で、毎月
18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指
定の重要文化財となっています。
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藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々からの
水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいをいう重治郎の願いは「冨士正宗」という銘柄
に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
重治郎から経営は昇治に引き継がれ更に雅一(ただひと)に引き継がれ現在に至っ
ています。当蔵では、製造した年に販売せず、蔵で数年間貯蔵します。本来は最低
でも2~3年は貯蔵した物を販売しています。      
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利き酒&試飲
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1月14日の歩き初め、年始は住吉大社詣りから-2

1月19日       1月14日の歩き初め、年始は住吉大社詣りから-2
                近鉄ハイキング  歩程約10㎞
此の日は知人の・I 田さん・O村さんと3名で参加、住吉大社からコースを変えて天王寺へ
戻りアベ地下のカフェでグダグダ・・・此の日の万歩計は、26798歩で約19.8km歩いた・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪阿部野橋駅地下東改札 10時集合  
大阪阿部野橋駅(受付・スタート)~安倍寺跡~丸山古墳跡~聖天山公園~聖天山正圓
寺~天神ノ森天満宮(天下茶屋天満宮)~天下茶屋跡~阿部野神社~万代池公園~初
辰さん~住吉大社~阿倍野神社~天神ノ森天満宮~丸山古墳跡~天王寺(アベ地下)
志都美駅
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大阪阿部野橋駅(受付・スタート)
大阪阿部野橋駅地下東改札から地上へ出てあべのハルカス
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安倍寺跡推定地
阿部氏の氏寺と考えられている。一族には藤原鎌足(かまたり)らと大化の改新を推進した、
左大臣阿部内麻呂がいる。当寺の塔心礎(現在、石の鳥居をもつ松長大明神(松崎町三
丁目6-50)があり、その北側にあった。)から、相当規模の堂塔伽藍が存在していたと思わ
れ、かつてこの付近から白鳳、奈良時代の重弧文軒瓦(じゅうこもんのきがわら)や鬼瓦が
出土している。現在の地名、阿倍野の由来にも阿部氏による説がある。
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丸山古墳跡
丸山古墳が在ったとされるこの辺りは現在では住宅地になっており、その面影は全くない。
丸山古墳は1796年(寛政8年)に刊行された『摂津名所図会』では「兼好古墳」とあり、
兼好法師がこの地に隠棲していたとの言い伝えが古くからあったと思われる。
阿倍野区役所のホームページには、その昔には、「円形の古墳の頂きには長方形と宝冠
杉の石塔2基が安置されていたと伝え、一見して貴人の墳墓であることが見取られ、その
形状から丸山古墳と呼ばれていたが、1923年(大正12年)、古墳の表土が鋳物用に好
適の土であるということから採掘され、その折、石棺、香炉など多くの埋葬物が発見され
た、という。しかし、「今日の ように考古学が発達していない時代のこと、調査研究等一切
行われず、丸山古墳はその出土品とともに姿を消してしまった」ということである。
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聖天山公園・・・阿倍野区松虫通3丁目の聖天山。
聖天山公園といわれる公園になっています。上町台地の端っこにあたり、小高い丘になっ
ていて、聖天山古墳といわれる古墳だったようです。
聖天山は大阪市内にある「大阪五低山」の一つとされています。聖天山・帝塚山・御勝山・
天保山・茶臼山が「大阪五低山」に指定されているということ。
山頂の碑は、公園に隣接する正圓寺(天下茶屋の聖天さん)の中にありました。
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聖天山正圓寺(しょうえんじ)・・・通称「天下茶屋の聖天さん。
正圓寺は、大阪府大阪市阿倍野区にある仏教寺院。通称「天下茶屋の聖天さん」。天慶
2年(939年)光道和尚により開基。当時は、現在地より東に500mのところにあった般若
山阿部寺の一坊でしたが、元禄時代(1688年-1703年)に義道見明和尚が寺を移転し、
海照山正圓寺と改めました。 本尊は木彫の大聖歓喜双身天王で、これは日本最大です。
また、2000年頃までは、大相撲春場所開催のさい相撲部屋の宿舎となっていました。 
境内には鎮守の神を祭る奥之院と呼ばれる場所があり、鎮守堂(荼枳尼天)、寄松塚(八
本松竜王)、石切社分祠、浪切不動明王、弁才天祠などが祭られています。また、「兼好
法師の藁打石」と「兼好法師隠棲庵跡」の碑が境内東側に建っています。吉田兼好は南
北朝時代にこの付近に移り住み、清貧自適な暮らしを営んでいたと言われています。
また、この山は聖天山古墳と呼ばれる古墳であることが分かっています。摂津国八十八
箇所第32番。おおさか十三仏霊場2番。
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天神ノ森天満宮(てんじんのもりてんまんぐう)別名天下茶屋天満宮
天神ノ森天満宮は、大阪府大阪市西成区にある神社。単に天満宮と言う場合もある。
応永年間(1394年 - 1428年)に北野天満宮の分霊を奉斎。現在の本殿は、1937年
(昭和12年)に落成したものであるが、元は1702年(元禄15年)に建設されたもので
ある。
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天下茶屋跡
当地にあった芽木家の跡の一部である。豊臣秀吉が住吉大社や堺に行く途中、紀州
街道(住吉街道)沿いにあったこの屋敷で茶会を催したという故事から、天下茶屋とい
う名前が付いた。
江戸時代にはこの屋敷に、紀州藩主をはじめとした諸大名も宿泊したと伝えられる。
明治天皇も、住吉行幸の途中立ち寄っている。 約5000平方メートルの敷地に、屋敷
や茶室・井戸・池などを備えていたといわれる。しかし1945年の大阪大空襲で焼失し
た。そのため現在は、屋敷敷地の北西角にあった土蔵などが残るのみとなり、敷地の
大半はマンションや住宅になっている。
大阪市は芽木家から土地の一角の提供を受け、顕彰史跡天下茶屋跡として整備した。
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阿部野神社
阿部野神社(あべのじんじゃ)は、大阪市阿倍野区北畠にある神社である。南朝方につ
いて各地を転戦した北畠顕家と、その父の北畠親房を祀る。建武中興十五社の一社で、
旧社格は別格官幣社である。延元3年(1338年)に顕家が足利方に敗れて亡くなったと
伝承される地に1875年(明治8年)地元の有志が顕家を祀る祠を建立したのに始まる。
1878年(明治11年)2月27日[1]、東城兎幾雄・松本楚文ら15人が東成郡阿部野村にあ
る北畠顕家の墓を修繕し、社殿を造営したいと願い出た。
大阪府は、北畠顕家の忠誠は楠木正成・新田義貞・名和長年・菊池武時らと同じだから、
顕家を祭る神社にもしかるべき社格を定めるべきではないか、という内容の伺を同じ年
の11月20日に内務省に出した。内務省は3年後の1881年(明治14年)11月16日に北畠
顕家と北畠親房の二人を祭神とする別格官幣社の阿部野神社を阿部野村に創建する
方針を固め、それが1882年(明治15年)1月24日に太政官の正式決定となった。これに
より、社格と名称が定まった。墓所に記念碑をたてる案は取り止めになった。
その後、住吉郡住吉村藪山への変更を内務省に上申した。翌1883年(明治16年)、内
務省は阿部野神社の宮司と東京で面談した上で、人民の願い通りにするのがよかろう
と賛成し、3月7日に太政官が変更を決定した。
社殿は1887年(明治20年)3月に完成し、鎮座祭は1893年(明治23年)3月に斎行された。
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阿倍野神社境内
此処までは、
1月14日の歩き初め、年始は住吉大社詣りから-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-19
此処では、続きの阿倍野神社境内~ の詳細を掲載します。
阿倍野神社境内
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阿倍野神社を後に
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万代池公園へ向かう
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万代池公園で昼食
万代池(まんだいいけ)は、大阪市住吉区にある池。池の周辺は万代池公園(まんだいい
けこうえん)として整備されている。
池の周囲は約700メートル。歴史ははっきりしないが、上町台地の浸食した谷をせき止め
て作られたといわれている。「聖徳太子が曼陀羅経をあげて、池に棲む魔物を鎮めた」と
いう言い伝えから、「まんだら池」が転じて万代池という名称になったと伝えられている。
明治時代までは灌漑池として利用されていた。大正期、昭和初期には東側に「共楽園」と
いう遊園地があった。
大阪市は池とその周辺4.4ヘクタールを整備し、1940年6月1日に万代池公園として開園
させた。池を取り囲むようにサクラの木が植えられている。万代池公園のサクラは、近隣
では花見の名所として知られている。
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万代池公園~住吉大社へ向かう
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住吉大社の境内の後ろ最奥の”初辰さん”から入った
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住吉大社といえば初辰さん(はったつさん) =商売発達=
住吉大社を代表するお祭りといえば御田植神事と夏祭りそして毎月の初辰の日の初辰
まいりです。初辰まいりの日には商売発達のために遠方から訪れる人も多く、早朝から
大勢の参拝客でたいへんにぎわいます。種貸社、楠くん社、浅沢社、大歳社の四社を
それぞれにお参りするのが慣わしとなっています。
初辰まいりとは
初辰とは、毎月最初の辰の日のことです。この日に参拝すれば、より一層力を与えて守
り助けてくれると信仰されてきました。そして4年を一区切りとして、48回参拝すれば、満
願成就となります。これは、四十八辰、つまり始終発達するという意味からきたものです。

初辰まいり順路
種貸社(たねかししゃ) 資金調達・子宝安産
昔は、稲種を授かって豊作を祈るという信仰がありました。その後、神から授かった「お
種銭」を資本に加えて商売すれば増殖繁栄すると、大阪商人に親しまれ、多くの参拝客
が訪れるようになっています。

楠くん社(なんくんしゃ) 商売発達・家内安全
お稲荷さんです。境内の奥には、樹齢千年を超える楠(くすのき) の大樹があり、江戸時
代、人々は楠の神秘的な霊力に祈りを捧げていました。その後、根元に設けられていた
社にお稲荷さんを祭るようになったといわれています。
楠くん社の招福猫
楠くん社で親しまれているのは、羽織りを着た愛嬌のある土人形の招き猫です。
偶数月には右手を、奇数月は左手を挙げたものを毎月集め48体そろうと、満願成就の
証として納めていただきます。そして新たに大きな招福猫と交換してもらい、今後のご繁
栄を祈願します。
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浅沢社(あさざわしゃ) 芸能美容・女性守護
弁天さんともいわれ、女神として、また芸能・美容の神として親しまれています。住吉に
参拝する女性は、必ず訪れる慣わしがあり、カキツバタの名所でもあります。

大歳社(おおとししゃ) 集金満足・心願成就
稲の収穫の守護神です。大阪商人の間では、特に集金の守護神として信仰されてきま
した。また家の安全、幸福の守護神でもあります。また、境内のおいとぼし社には「おも
かる石」と呼ばれる不可思議な石があります。

住吉大社(すみよしたいしゃ)
住吉大社は、大阪府大阪市住吉区住吉にある神社。式内社(名神大社)、摂津国一宮、
二十二社(中七社)の1つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある住吉神社の総本社である。本殿4棟は国宝に指定されている。
大阪市南部、上町台地基部西端において大阪湾の方角に西面して鎮座する。海の神で
ある筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波
津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。古代には遣唐使船にも祀ら
れる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴
族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。摂津国の一宮と
して大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の
1つである。
『日本書紀』神功皇后摂政前紀によれば、住吉三神(筒男三神)は神功皇后の新羅征討に
おいて皇后に託宣を下し、その征討を成功に導いた。そして神功皇后摂政元年[原 4]、皇
后は大和への帰還中に麛坂皇子・忍熊皇子の反乱に遭い、さらに難波へ向かうも船が進
まなくなったため、務古水門(むこのみなと:兵庫県尼崎市の武庫川河口東岸に比定)で占
うと住吉三神が三神の和魂を「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」で祀るよ
うに託宣を下した。そこで皇后が神の教えのままに鎮祭すると、無事海を渡れるようになっ
たという。通説ではこの「大津渟中倉之長峡」が住吉大社の地に比定され、この記事をもっ
て住吉大社の鎮座とされる。『日本書紀』では創祀年を明らかとしないが、『帝王編年記』
では神功皇后摂政11年辛卯としており、現在の住吉大社でもこの年をもって鎮祭とする。
歴史考証上では、神功皇后の伝説的記事は別としても、実際にもかなり早い時期の創祀
とされる。前述のように、上古に関しては住吉津の地主神からヤマト王権の外港守護神に
発展したとする説が挙げられるが、そのヤマト王権の崇敬を背景として神功皇后伝説と住
吉神とが結びつけられたとする説がある。なお「大津渟中倉之長峡」には異説として、本居
宣長が『古事記伝』で摂津国菟原郡住吉郷(現在の神戸市東灘区)に比定した説が知られ
る。この説では、『古事記』仁徳天皇段の「墨江之津を定む」の際に住吉神も菟原郡から住
吉郡に移されたとし、同地の本住吉神社も同様の創建社伝を残すが、現在の通説では住
吉大社の地に比定する見解が有力視される。
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チンチン電車道を阿倍野(天王寺)へ向かって歩く
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阿倍野神社~天下茶屋天満宮~聖天山~丸山古墳跡~阿倍野警察署~キューズモール
IMG_4865.JPG~JR天王寺駅~アベ地下へ
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1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー2

2019年1月17日      1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー2
                    近鉄駅フリーハイキング 歩程約 8㎞
布施戎へ3年連続で参加、此の日は知人の・K場さん・M吉さん・M村さん・S藤さん・O村
さんと6名で参加、此の日の私の万歩計は、19428歩で約14.3km歩いたことに・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪線布施駅コンコース 10時3分集合
布施駅(受付・スタート)~布施戎神社~都留弥神社~子守神社跡~司馬遼太郎記念館
~石田神社~吉田春日神社(ラグビー神社)~花園ラグビー場(昼食)~東花園駅 
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
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下田駅
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布施駅(受付・スタート)
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本町通り商店街
布施駅前通りから西側の通りにあり、50店舗、約350mの両側に面し、商店街入り口に
は、足代のだんじり小屋を設置されており近くには商売繁盛の神様、布施戎神社があり
ます。地域に密着した、昭和の始めよりの老舗の物品販売、各種飲食店、食料品販売、
医院、銀行等が有ります。
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布施戎神社・・・近鉄ハイキング参加者先着500名に記念のお守り
足代(あじろ)にあった神社で元の名は都留彌(つるみ)神社でしたが大正3年に統合され
荒川に移転し、その神社跡に昭和20年初期に布施戎神社と改名し、現在は、「布施の戎
さん」として親しまれています。又「福娘コンテスト」も実施されており、選ばれた福娘も戎っ
さんに参加し毎年1月9日~11日は賑わいを増しています。
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本町通り商店街
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都留弥神社(つるみじんじゃ)
延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 都留彌神社』とある式内社。曾ては“都留美”とも記した
が、大正5年(1916)古称・都留彌に戻ったという。
創建年代・由緒は不詳だが、当社由緒略記には「当神社の創祀は頗る古く、今より千百年
以前に、仁和2年(886)第58代光孝天皇の御代の国史所載の由緒深き式内社」とある。
国史所載とは、三代実録(901撰上)の光孝天皇・仁和2年条に記す、「授河内国従五位下
垂水水神二前従五位上」との記事を指すというが、疑義もある。
社名・都留彌(都留弥・ツルミ)の意味不明。式内社の研究(1977)には、「川中島の多いな
かで目出度い一対をなす島があったので、この神名となり豊漁を祈ったのであろう」とある
が、推測の域を出ない。
由緒略記には「醍醐天皇の延喜10年(910)、春から続く大旱魃で田植えができず百姓が
困っていた。それを聞いた天皇が、河内国の12社に勅使を遣わし雨乞いを祈願された。
これにより大雨が降り伝畑を潤し喜びの声が国々に満ち、その後も順雨が続き連年豊作
が続いた。この奇瑞に感動した天皇が親しく当社に参詣され、都留彌神社の社号を賜り、
従五位上を贈られた」(大意)とある。
これは、社名および神階授与の記事であって創建由緒ではなく、また、これを証する史料
はないという。ただ、祈雨祈願した河内12社の中の一社であることから、10世紀当初以前
からあった神社とはいえる。
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子守神社跡へ向かう
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子守神社跡
永和の街中に有り、此処は明治時代には横沼と呼ばれ、横沼の氏神神社でした。
現在は地蔵堂が残され、傍らに神社跡を示す大きな石碑と寛保2年造立の石燈籠
が見られます。
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公民館&公園で小休止
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司馬遼太郎記念館へ向かう
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玉川橋を渡り石田神社へ向う
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此処までは、
1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-17/ 
此処では、続きの石田神社~についての詳細を掲載します。
石田神社
御祭神:誉田別尊(応神天皇)、足仲彦尊(仲哀天皇)、息長足姫尊(神功皇后)
延喜式小社で弘仁式の時からの官社であり「石田神社」又は「石田八幡宮」と称します。
欽明天皇御宇(537~571)この地の田圃の中に岩船があり、その上に三神が降臨したの
で社壇を築き、奉祀したのが創始と伝えられています。
その岩船伝説によると、往古この社の北側の水田の中に直径2m位の円錐形の二つの小
塚があり、東の塚を「幸神塚」、西の塚を「無名塚」と呼んでいました。その塚の間が36mで、
船によく似た岩がありましたた。これは古代大きな石の船がここで難破したものと言われて
います。ある時ここを開拓した者が大磐石があるのを見ましたが、暴風が忽然として起こり
その場に気絶してしまったと言います。明治5年岩田八幡宮から現社名に改称しました。
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若江岩田駅前
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河内花園駅
アーケード商店街
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吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。
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花園ラグビー場(昼食)
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
平成27年4月より「東大阪市花園ラグビー場」に名称が変更され、平成29年から改修工事
が始まり平成30年の9月には工事を終え、新しいスタジアムに生まれ変わりました。
今年は、ラグビーワールドカップ大会が開催されます。
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昼食
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東花園駅へ向かう
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東花園駅 
5名は鶴橋方面へ、私は奈良方面へ向かい生駒駅~王寺駅へ
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布施戎神社のお守り
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1月9日の松尾寺&松尾神社へ初詣

2019年1月15日        2019年1月9日の松尾寺&松尾神社へ初詣
                      近所に住む2女と3名で初詣
同じ町内に住んでる2女が初詣に行きたいと言うので家内と3名で何時もの松尾山へ・・・
厄除けの松尾寺と松尾神社へ例年よりも早い初詣に行って来ました。
例年は鏡開きが終わってから小正月の間、11日~15日の間に行くのが我が家の慣習?
松尾寺へ行ってみて驚いたのは年男の私の年齢が厄年になってた事、厄年は61才迄で
終了して73才~はお祝いの年だとばかり思ってたので、、まーその考え方で良いやと・・・
此の日は奈良で初雪を観察したとのニュースが流れた日、此れを聞いてて出かけ、古札
を返納して、蝋燭と線香を灯して松尾寺へお詣りを済ませて、山の上の松尾神社へお詣
りに向かうと、丁度登り口の3重搭前で小雪がチラホラ、此れは?と思ったが直ぐ止んで
無事に3名で松尾神社へのお詣りも済ませて、松尾寺で例年の様に家内と娘はお守りを
我が家の為には熊手と縁起物の笹飾り授かり、と言っても購入だが、購入して帰った・・・
駐車場に車を置いて北惣門から入ります。
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手と口を清めて
松尾寺本殿へ階段を上る
本堂(重文)
中世の真言宗本堂の典型的なもので、入母屋造り本瓦葺。本尊千手千眼観世音菩薩
(やくよけ観音)は秘仏で、年に一度11月3日に開扉されます(9:00~16:00)。内陣で
は、毎日厄除のご祈祷が行われ、厄年をはじめすべてのやくよけのご祈祷が厳修され
ます。
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階段途中の閼伽井
閼伽井屋
1300年の昔から、当山のご本尊厄除観音様にお供えする閼伽水で自然湧水。この水は昔
から松尾水(まつのおのみず)と呼ばれ、不老長寿、健康のために良いと言われています。
また古来、醸造に適した水として知られ、今も境内の鎮守社「松尾山神社」の社頭には宝暦
8年(1758年)銘の石灯籠に南都で栄えた酒屋の杜氏たちの寄進名が彫られ残っています。
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階段を上りきると
又、手水舎が
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松尾寺・・・松尾山縁起(天平古記録)
松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、勅命による日本書紀編纂の折、
42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立された日本最
古の厄除霊場です。 親王が松尾山に参詣修行し、ご祈願の養老2年2月初めの午の日、
東の山に紫の雲たなびき(瑞雲)、千手千眼観世音菩薩が天降りご出現なされたという「松
尾山縁起」により、国運隆昌・国体安穏を祈祷申し上げる勅願寺として、歴代皇室の御叡
信厚く、後水尾天皇も御持仏の如意輪観音を下された由緒ある寺です。
ご本尊厄除け観音― 千手千眼観世音菩薩(秘仏)、ご本尊の厄除け観音は、千の手、千
の目をお持ちになる千手千眼観世音菩薩(秘仏)で、図り知ることの出来ない広大な慈悲
の力を備えられ、殊に霊験あらたかと伝わります。
・千手千眼観世音菩薩立像・十一面観世音菩薩立像・日本唯一の舎人親王坐像
・日本で最大の役行者像
北惣門
小泉方面からの参道。一間の薬医門で、108段の石段を登れば本堂。手水は閼伽井から
の霊泉で“大和の名水100選”に選ばれ、参詣者をはじめ、ハイカーの喉も潤しています。

蝋燭と線香で松尾寺にお詣り
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古札返納所の
横の階段の上に三重搭が有る
三重塔・・・ 承和2年(835)創建(寺伝)。
明治の再建説もありますが、鬼瓦に正徳三年(1713)の銘があり、旧材も一部に再用さ
れています。後水尾天皇持仏であった如意輪観世音菩薩が寄進され、祀られています。
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松尾神社へ登る
先ず階段を上り三重搭前へ、小雪がチラついてきた
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三重搭を過ぎると神社の鳥居が見える
鳥居の方から神社へ上る
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松尾神社・・・松尾山神社(奈良時代)
春日造り桧皮葺の三社殿が並び、これに拝殿と神楽殿が配置されています。松尾大明神
を本社、清滝権現・牛頭天皇を脇社として三社斎祀しています。元観音堂跡と言われ、昭
和52年に発掘された奈良時代の鎧瓦などが宝蔵殿に展示されています。
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山野上方を見ると
アンテナが・・・
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帰りは鳥居の無い方を通り三重搭の後ろを通り、階段へ降りる
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三重搭の横に到着
本殿を見下ろす位置に
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階段を下りて
例年通り熊手と笹飾りを授かる
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良い天気になって来た
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娘と家内はお守りを授かる
帰りに鐘楼で鐘を一突きして帰る慣わし??
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帰りは
山門の横に出る
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1月8日の初歩き 開運松原六社参り-2

2019年1月10日         1月8日の初歩き 開運松原六社参り-2 
                       近鉄ハイキング 歩程約10㎞
最高のハイキング日和?知人の・K場さん・I 田さん・O村さん・M村さん・M吉さんと6名で
近鉄駅フリーハイキングに参加、此の日の私の万歩計は、22228歩で約16.4km歩いた・・
コース  近鉄駅フリーハイキング 布忍駅 10時集合
南大阪線布忍駅(受付・スタート)~大林寺~布忍神社~我堂八幡宮~善正寺~水みらい
センター公園~阿麻美許曽神社~大和川河川敷(昼食)~中高野街道~屯倉神社(みやけ
神社)~阿保神社(あお神社)~海泉池~柴籬神社(しばがき神社)~コメダコーヒーで休憩
~河内松原駅(ゴール)
志都美駅
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柏原駅で近鉄に乗り換え
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南大阪線布忍駅(受付・スタート)~大林寺
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大林寺・・・融通念仏宗の布忍山大林寺(ふにんざんだいりんじ)
当山はもとは東大饗村(東おわい村:現堺市美原町)にあったが、1878年 (明治11年)
当地に移転した。寺院の西側を流れる西除川の西岸にあった永興寺(ようこうじ:明治6
年に廃寺)の本尊であった十一面観音像や「布忍山永興寺略縁起」、「大般若経600巻」
を蔵する。この「布忍山永興寺略縁起」によると、永興寺は1069年(寛治3年)永興律師
により創建され、弘安年中(1278~88年)に大和西大寺の叡尊が中興したと伝える。
又、近くにある布忍山布忍寺は、この永興寺の塔頭と伝えられ、布忍寺に伝わる「布忍山
東坊縁起」には、東之坊は聖徳太子が薬師如来を本尊として創建。814年(弘仁5年)空
海が再建したが荒廃し、寛治3年に永 興律師が再興し、永興寺と名付けたとあり、平安
後期には大伽藍を誇った寺院が存在していたと思われる。
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西除川を渡って布忍神社へ
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布忍神社
本社の鎮座する「布忍」の地名の由来は日本書紀にもある布忍入姫命(ぬのしいりびめの
みこと、日本武尊の娘のひとり)にあると言われている。本社の創建年については明確で
ない。本殿は府指定有形文化財にも指定されている。主祭神は速須佐男之命(はやすさ
のおのみこと) 厄除け・病気平癒・交通安全の宮、恋みくじが若者に人気・・・
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我堂八幡宮
江戸時代の延宝8年(1680)の「我堂村検地絵図」では社名がなく、鳥居マークだけですが、
延享元年(1744)の「両我堂村明細帳」には「十五社明神」、享和2年(1802)の「東我堂村
明細書上帳」にも「氏神十五社神」と記されています。 明治初年に八幡神社と称した後、
大正2年(1913)に産土神社と改めましたが、いまでは我堂八幡宮の名で信仰されていま
す。堺市の百舌鳥八幡宮の分霊を勧請したもので、品陀別命が祭神です。境内には、江
戸時代から昭和初期にか けて若者が力競べをした力石・八幡石・明治石・龍王石・金剛石
が残っており、 貴重な民俗資料といえるでしょう。お神酒ふるまいが有りました
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善正寺
善正寺(真宗大谷派善正寺)
現在、天美我堂七丁目にある真宗大谷派の善正寺は、もともとは真言宗で摂津の平野
(大阪市)にありましたが、明応年間(一四九二~一五〇一)に浄土真宗に転じ、城連寺村
に移ってきました。文禄二年に住職の順欽が教如に帰依したことから、教如が順欽に「顕
如上人真影」を下したのです。その裏書に「大谷本願寺釋教如(花押) 文禄二癸巳年正
月廿六日 河内国丹北郡天見郷城蓮寺村興正寺門徒 端坊下 願主釋順欽」とあります。
この頃、善正寺の寺号はまだ無く、その上、同じ浄土真宗でも興正寺派に属していたよう
です。 教如は、豊臣秀吉によって、十か月後の文禄二年十月、弟の准如に本願寺宗主を
譲らされ、退隠することになりました。しかし、その後も教如は、本願寺の嫡流を主張します。
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西除川
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今池水みらいセンター公園でトイレ休憩
水処理施設の屋上部を有効利用した多目的広場「風の広場」や遊歩道が設置された「虹
の広場」などがあり、府民の皆様に憩いの場として利用されています。 ≪場内設備≫ 散
策路、あずまや、トイレ、水飲み場、エレベーター 駐車場25台(内2台身障者用)
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※水みらいせんたー
大和川下流流域下水道今池処理区は、大和川に流入する西除川、東除川の下流域を処理
区とした流域下水道です。これらの河川の水質保全と大和川沿いの低地の浸水防除を目的
とし、大阪市・堺市・八尾市・富田林市・松原市・羽曳野市・藤井寺市・大阪狭山市の計8市に
またがり計画されています。本流域下水道は昭和41年度より計画調査を行い、昭和45年度
に事業着手されました。平成25年度末の処理能力は138,000m3/日となっています。

阿麻美許曾神社(あまみこそ神社)
阿麻美許曾神社は式内社であり、社伝によれば、大同年間(大同元年=806年) 創建とされ
ているが、おそらくそれより古いであろうとされている。「許曽」は新羅の言葉に由来するとさ
れ、朝鮮半島からの渡来人が先祖を祀ったのが起こりではないかとされている。手水舎の東
側に「行基菩薩安住之地」という石碑があり、行基がこの地に居住していたという伝承がある。
阿麻美許曾神社は、参道を含め、大阪市東住吉区となる大阪市の神社だが、その名は河内
天美の由来、境内に林立する楠は何れも樹齢500年以上の巨樹である。
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大和川河川敷公園(昼食)
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大和川堤防道を中高野街道へ
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中高野街道
松原市中央部を南北に縦断する街道です。大阪市平野区の大念佛寺付近から発し、大阪狭
山市で下高野街道と合流して高野山へ向かいます。 中世から近世において、商業都市堺や
浪速を中心とした産業の流通や人々の伊勢詣や熊野詣、高野詣などによって発展した街道と
考えれます。長尾街道や竹内街道との交差点付近は、御茶屋などがあって、明治時代まで、
にぎわったそうです。
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此処までは、
1月8日の初歩き 開運松原六社参り-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-10
此処では、続きの屯倉神社~ の詳細について掲載してきます。
屯倉神社(みやけ神社)
当地には古くから土師氏(後の菅原氏)祖神の天穂日命を祀る穂日の社があったという。
言い伝えによれば、大宰権帥に左遷され九州へ向かう途中の菅原道真公は祖先由来の当
地を通り、穂日の社に無実を訴えたとされるが、大阪府内には当地から大きく外れた地にも
道真伝説があり(大阪市東淀川区淡路、服部天神宮など)、真相は明らかではない。
直接現在に連なる由緒としては、天慶5年(942年)、河内国丹北郡依羅三宅郷に道真公を
祀ったのに始まる。三宅天満宮と称していたが、明治の頃より屯倉神社と称するようになる。
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境内の梅がチラホラと咲いていた
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屯倉神社を後に
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中高野街道へ出て、一里塚跡?
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阿保神社(あお神社)
阿保親王とは、平城天皇の第2皇子、母は、葛井宿禰藤子、子に六歌仙であり伊勢物語の
著者、在原業平がいる。平城天皇が上皇のとき弟、嵯峨天皇との権力闘争様である、薬子の
乱に関連して、大宰権師として、九州に左遷される、承知元年(834)に許され、河内国丹北郡
田坐に別荘を造営したと伝える、田坐とは、現在の田井城から阿保あたりになる、承知9年(8
53)51歳で没す。
901年には菅原道真が左遷により大宰府に赴く途中道明寺にいる伯母の覚寿尼に別れを告
げた帰途、阿保の土地を通られて当社で休息されました。その縁起で菅原道真公を祀る神社
になったと伝わります。
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海泉池(かいずみいけ)
海泉池は池底から泉が湧く池で、阿保親王が掘った灌漑池の一つです。阿保の土地は、水利
の便が悪く農民たちが困窮していたため、親王は邸宅の中庭の池を灌漑用に改造して農民に
開放したと伝わります。阿保親王が農業生産を奨励したので、阿保の地は豊かになり、村人は、
邸宅の池を親王池と呼ぶようになったとされます。
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松原商店街
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柴籬神社(しばがき神社)
仁賢天皇の勅命により5世紀後半に創建されたと伝わる。所在地である上田町は18代天皇で
ある反正天皇の都跡(丹比柴籬宮)として伝えられている。 反正天皇の「瑞歯別尊」と呼ばれた
美しい歯並びの伝承により、現在は歯の神様として信仰されている。
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境内の歯神
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絵馬に六社の参拝印を集印して
最後の柴籬神社で「開運干支張子」を授かります・・・・
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コメダコーヒーで休憩~河内松原駅 
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