2月11日の水神に五穀豊穣を願う砂かけ祭り
2月15日 2月11日の水神に五穀豊穣を願う砂かけ祭り
近鉄駅フリーハイキング 砂合戦 7㎞
此の日はとても寒い一日、時雨や雪にも降られつつ知人のO村さん・K場さん・M吉さ
ん・I 田さんと5名で参加、砂かけ祭りを待つ間にK地さんが写真撮影に来られてて・・
隣の町の祭りなのに、大和の奇祭の一つとして有名な「砂かけ祭り」に初めて参加出
来た事に意義有り、此の日の私の万歩計は、18345歩で約13.5km歩いたことに・・・
コース 近鉄生駒線・王寺駅(受付・スタート)
王寺駅(受付・スタート)~大和川・竜田川合流地点~沈下橋~高山二号墳~中良塚
古墳~※大塚山古墳~公園(昼食)~廣瀬大社~定林寺~水分神社~廣瀬大社・砂
合戦~春日神社~黒土沿いの果物屋~天神社~穴地蔵~近鉄田原本線・池部駅へ
志都美駅
王寺駅(10:53)~沈下橋へ向かう
竜田川がそそぐ大和川
沈下橋
奈良県内を東西に横切る「大和川」。河合町1丁目の辺りで「佐味田川」(さみだがわ)
が合流したすぐ西側に、奈良県で唯一の「沈下橋(ちんかばし)」があります。
奈良県で唯一の沈下橋『大城橋』(沈み橋・潜水橋)は、大和川に架かっています。
橋の長さは約50m。幅は約2m。もちろん車ですれ違ったりできませんので、対向車
が見えたら、かなり遠くで待つことになります
橋げたのところに出っ張りがあり、車が来たら歩行者はそこへ避けることができま
すが此れも怖い。橋げたの写真が残っていないのが残念、車がきて逃げて来た。
沈下橋とは、橋の欄干や手すりがなく、川が増水すると水面下に沈んでしまう橋のこ
とで地域によって、潜水橋、沈み橋、潜り橋など、さまざまな呼び方があるのだとか。
高知県・四万十川のものが有名ですが、数は少ないながらも、まだ全国各地に残っ
ているそうです。
沈下橋~大和川上流を撮る
高山二号墳
中良塚古墳へ向かう
中良塚古墳
大塚山古墳郡に属する小規模な前方後円墳です。全長約88m、後円部径約45m、
同高6.5m、前方部幅約50m、同高6.5m、葺石・埴輪列はあったようですが墳丘は
畑に開墾されていたそうで、後円部の一部が破壊されています。埋葬施設は未調
査で不明
※大塚山古墳
墳丘:前方後円墳(全長215m、後円部径108m、高さ15.8m、前方部幅123m高さ
16.9m)3段築成で前方部を南に向ける。周囲には盾形周濠の痕跡が明確に残っ
ている。葺石及び埴輪あり。
古墳は県内の河川が集中し大和川となる平坦地の周辺に位置し河川交通の管理
権を掌握していた集団の長の墳墓とする考えが多い。墳形は後円部径が108mに
対し前方部幅が123mとかなり拡がる。標高42mの平坦地に作られた大型古墳でこ
の時期としては最大級の大きさを誇ります。見所は後円部側で32m、前方部側で4
0mある盾形の周濠跡で今も大変良好な状態で遺存しており県下の空濠のある古
墳の中では御所市の掖上鑵子塚古墳と並び屈指の美しさを誇っています。墳丘部
には東側クビレ部付近から比較的簡単に登れますが眺望はききません。しかしなが
ら200m級古墳で登れるものは意外と少ないので是非登ってその大きさを実感され
るといいでしょう。
(大塚山古墳群として大塚山古墳、中良塚古墳(高山塚1号墳)、城山古墳の3基の
前方後円墳と丸山古墳という帆立貝式古墳、高山塚2~4号墳、九僧塚古墳の円墳
や方墳で構成される。)
公園で昼食・梅が咲いて
廣瀬大社(ひろせたいしゃ、広瀬大社)
廣瀬大社は、奈良県北葛城郡河合町川合にある神社。式内社(名神大社)、二十二
社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「廣瀬神社(ひろせじんじゃ、広瀬神社)」。
主祭神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと) 「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのか
み)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神
と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。鎮座地は、高田川と一
緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流す
る地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長
の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化しタチバナ
が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに
始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀』天武天皇
4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述
があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に「広瀬坐和加宇加乃売
命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列すると
ともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。永保元年(1081
年)に最高位の正一位の神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。
明治4年、官幣大社に列格した。第二次大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。
2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿
前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮した
ひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。
まだまだ長い参道
テレビ局が宮司さんにインタビュー中?
日露戦争の戦利品
境内への大鳥居
午前の砂合戦が終わって抽選会が
午後の砂合戦までは未だ時間が有るので近隣のお寺へ向かう
定林寺・涅槃図公開
「定林寺」では、涅槃図の特別公開をしていました。
こちらには市場総代の保有となっている4体の仏像(3体は平安時代、不動明王像のみ室
町時代)が安置されています。、内部には多くの仏像が安置されています。そのうちの4体
が平成9年3月26日に町指定文化財に指定されました。
廣瀬神社の3つの神宮寺のうちの一つで、現在の定林寺は廣瀬神社の西側、城山古墳の
北側にあります。廣瀬神社に伝わる古絵図には宮堂遺跡の位置に、聖徳太子が建立した
大伽藍の寺として描かれています。現在の定林寺は江戸時代の建物ですが、河合町に残
る最古級の仏像が、安置されています。
廣瀬大社
摂社・水分神社(水分神)
戻って来て砂かけ祭り待ち
廣瀬大社・砂かけ祭りに突入・・・
2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿
前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮した
ひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。
砂かけられるのが嫌で逃げる
春日神社へ向かう
春日神社
国道沿いの果物やで買い物して天神社、穴地蔵、池部駅へ向う
天神社(池部)
木立の中の参道を50mほど進むと、瓦葺の拝殿があり、本殿は中庭の奥に土塀で囲ま
れ、春日造り桧皮葺です。江戸時代には天満宮と呼ばれていたようです。祭神は国常立
命(クニトコタチノミコト)。
穴地蔵
天神社の隣の穴地蔵は、以前は100mほど北にありました。石屋形の中には、江戸時
代の作と思われる地蔵など小石仏6体が安置されています。
田原本線・池部駅
近鉄駅フリーハイキング 砂合戦 7㎞
此の日はとても寒い一日、時雨や雪にも降られつつ知人のO村さん・K場さん・M吉さ
ん・I 田さんと5名で参加、砂かけ祭りを待つ間にK地さんが写真撮影に来られてて・・
隣の町の祭りなのに、大和の奇祭の一つとして有名な「砂かけ祭り」に初めて参加出
来た事に意義有り、此の日の私の万歩計は、18345歩で約13.5km歩いたことに・・・
コース 近鉄生駒線・王寺駅(受付・スタート)
王寺駅(受付・スタート)~大和川・竜田川合流地点~沈下橋~高山二号墳~中良塚
古墳~※大塚山古墳~公園(昼食)~廣瀬大社~定林寺~水分神社~廣瀬大社・砂
合戦~春日神社~黒土沿いの果物屋~天神社~穴地蔵~近鉄田原本線・池部駅へ
志都美駅
王寺駅(10:53)~沈下橋へ向かう
竜田川がそそぐ大和川
沈下橋
奈良県内を東西に横切る「大和川」。河合町1丁目の辺りで「佐味田川」(さみだがわ)
が合流したすぐ西側に、奈良県で唯一の「沈下橋(ちんかばし)」があります。
奈良県で唯一の沈下橋『大城橋』(沈み橋・潜水橋)は、大和川に架かっています。
橋の長さは約50m。幅は約2m。もちろん車ですれ違ったりできませんので、対向車
が見えたら、かなり遠くで待つことになります
橋げたのところに出っ張りがあり、車が来たら歩行者はそこへ避けることができま
すが此れも怖い。橋げたの写真が残っていないのが残念、車がきて逃げて来た。
沈下橋とは、橋の欄干や手すりがなく、川が増水すると水面下に沈んでしまう橋のこ
とで地域によって、潜水橋、沈み橋、潜り橋など、さまざまな呼び方があるのだとか。
高知県・四万十川のものが有名ですが、数は少ないながらも、まだ全国各地に残っ
ているそうです。
沈下橋~大和川上流を撮る
高山二号墳
中良塚古墳へ向かう
中良塚古墳
大塚山古墳郡に属する小規模な前方後円墳です。全長約88m、後円部径約45m、
同高6.5m、前方部幅約50m、同高6.5m、葺石・埴輪列はあったようですが墳丘は
畑に開墾されていたそうで、後円部の一部が破壊されています。埋葬施設は未調
査で不明
※大塚山古墳
墳丘:前方後円墳(全長215m、後円部径108m、高さ15.8m、前方部幅123m高さ
16.9m)3段築成で前方部を南に向ける。周囲には盾形周濠の痕跡が明確に残っ
ている。葺石及び埴輪あり。
古墳は県内の河川が集中し大和川となる平坦地の周辺に位置し河川交通の管理
権を掌握していた集団の長の墳墓とする考えが多い。墳形は後円部径が108mに
対し前方部幅が123mとかなり拡がる。標高42mの平坦地に作られた大型古墳でこ
の時期としては最大級の大きさを誇ります。見所は後円部側で32m、前方部側で4
0mある盾形の周濠跡で今も大変良好な状態で遺存しており県下の空濠のある古
墳の中では御所市の掖上鑵子塚古墳と並び屈指の美しさを誇っています。墳丘部
には東側クビレ部付近から比較的簡単に登れますが眺望はききません。しかしなが
ら200m級古墳で登れるものは意外と少ないので是非登ってその大きさを実感され
るといいでしょう。
(大塚山古墳群として大塚山古墳、中良塚古墳(高山塚1号墳)、城山古墳の3基の
前方後円墳と丸山古墳という帆立貝式古墳、高山塚2~4号墳、九僧塚古墳の円墳
や方墳で構成される。)
公園で昼食・梅が咲いて
廣瀬大社(ひろせたいしゃ、広瀬大社)
廣瀬大社は、奈良県北葛城郡河合町川合にある神社。式内社(名神大社)、二十二
社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
旧称は「廣瀬神社(ひろせじんじゃ、広瀬神社)」。
主祭神は、若宇加能売命(わかうかのめのみこと) 「廣瀬大忌神(ひろせおおいみのか
み)」とも。社伝では伊勢神宮外宮の豊宇気比売大神、伏見稲荷大社の宇加之御魂神
と同神とする。龍田大社の龍田風神とも関係があるとしている。鎮座地は、高田川と一
緒になった曽我川・大和川・飛鳥川など奈良盆地内を流れる河川のほとんどが合流す
る地点であり、このことから水神を祭る。社伝では、崇神天皇9年、広瀬の河合の里長
の廣瀬臣藤時に託宣があり、水足池と呼ばれる沼地が一夜で陸地に変化しタチバナ
が数多く生えたことが天皇に伝わり、その地に大御膳神として社殿を建てて祀ったのに
始まるとしている。龍田の風神・広瀬の水神として並び称された。『日本書紀』天武天皇
4年(675年)4月10日条には風神を龍田立野に、大忌神を広瀬河曲に祀ったとの記述
があり、これが4月・7月に行われる廣瀬大忌祭の起源とされている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では大和国広瀬郡に「広瀬坐和加宇加乃売
命神社(廣瀬坐和加宇加乃売命神社) 名神大 月次新嘗」として、名神大社に列すると
ともに朝廷の月次祭・新嘗祭で幣帛に預かった旨が記載されている。永保元年(1081
年)に最高位の正一位の神階を受けている。後の二十二社の一つともなった。
明治4年、官幣大社に列格した。第二次大戦以降、廣瀬大社と称するようになった。
2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿
前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮した
ひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。
まだまだ長い参道
テレビ局が宮司さんにインタビュー中?
日露戦争の戦利品
境内への大鳥居
午前の砂合戦が終わって抽選会が
午後の砂合戦までは未だ時間が有るので近隣のお寺へ向かう
定林寺・涅槃図公開
「定林寺」では、涅槃図の特別公開をしていました。
こちらには市場総代の保有となっている4体の仏像(3体は平安時代、不動明王像のみ室
町時代)が安置されています。、内部には多くの仏像が安置されています。そのうちの4体
が平成9年3月26日に町指定文化財に指定されました。
廣瀬神社の3つの神宮寺のうちの一つで、現在の定林寺は廣瀬神社の西側、城山古墳の
北側にあります。廣瀬神社に伝わる古絵図には宮堂遺跡の位置に、聖徳太子が建立した
大伽藍の寺として描かれています。現在の定林寺は江戸時代の建物ですが、河合町に残
る最古級の仏像が、安置されています。
廣瀬大社
摂社・水分神社(水分神)
戻って来て砂かけ祭り待ち
廣瀬大社・砂かけ祭りに突入・・・
2月11日 例祭(御田植祭)
大忌祭の御田水口祭礼に由来するもので、砂を雨に見たてた祈雨の神事である。拝殿
前の広場を田に見立てて田植えの所作を行い、それに対して参詣者と田人・牛に扮した
ひとが一斉に砂をかけあうもので、「砂かけ祭」とも呼ばれる。
砂かけられるのが嫌で逃げる
春日神社へ向かう
春日神社
国道沿いの果物やで買い物して天神社、穴地蔵、池部駅へ向う
天神社(池部)
木立の中の参道を50mほど進むと、瓦葺の拝殿があり、本殿は中庭の奥に土塀で囲ま
れ、春日造り桧皮葺です。江戸時代には天満宮と呼ばれていたようです。祭神は国常立
命(クニトコタチノミコト)。
穴地蔵
天神社の隣の穴地蔵は、以前は100mほど北にありました。石屋形の中には、江戸時
代の作と思われる地蔵など小石仏6体が安置されています。
田原本線・池部駅