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2月20日の飲み会&奈良の史跡&奈良公園を歩く-2

2月26日        2月20日の飲み会&奈良の史跡&公園を歩く-2
                   昼飲み会ハイキング 8㎞
此の日は知人のS藤さん・M吉さん・K場さんと4名で昼飲み会ハイキングに奈良公園
を選んで、近鉄奈良駅であみま倶楽部手帳に改札印スタンプを貰ってスタートした・・・
此の日の私の万歩計は、21576歩で約12.9km歩いたことに・・・
コースは  近鉄奈良駅東改札前に集合
近鉄奈良駅東改札前(集合・スタート)~商店街~額塚~南円堂~中金堂~五重塔~
春日神社一の鳥居~影向の松~浮見堂~片岡梅林・円窓亭・浅茅が原~浮雲園地~
春日野園地~水谷茶屋~若草山山麓~手向け山八幡宮・校倉造~三月堂・校倉造経
庫~※四月堂~二月堂~若狭井~万博古河館七重搭双輪レプリカ~東大寺・鏡池・東
大寺ミュージアム・南大門~県庁前(昼食)・県庁屋上展望台~奈良公園~氷室神社~
韓国神社・林神社(饅頭神社)~JR奈良駅前観光案内所
JR奈良駅(13:17)  天王寺駅(13:50) 湯処・あべの梅
☆2月20日・昼飲み会 15:00~ 会費@2600円 参加メンバー6名
近鉄奈良駅東改札前(集合・スタート)~商店街
額塚
興福寺には山号がありません。南都七大寺には不思議と山号がないため今まで気に
も留めていなかったのですが、興福寺にはそれなりの理由があるようです。比叡山延
暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところです。奈良の興福寺
にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。
そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれる額塚です。
興福寺の山号額は南大門に掲げられていました。
天平宝字8年の5月、興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来たそう
です。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態なのに樹
木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、とある僧の霊
夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水に縁のあるもので
あるから、水が出る。これを取り下ろせば良いのではということになり、山号額を取り外
すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収まり、その発端となった山号額
は茶臼山に埋められたという逸話です。
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※興福寺の南大門
興福寺の正面玄関にあたる南大門は、創建後、中金堂とともに6度の焼失と再建を繰り
返してきたが、1717年(享保2年)に焼失した後は再建されなかった。
南大門は重層建築だったとされ、その規模は平城宮の朱雀門級だったという。復元され
た基壇は、高さ約1.5メートル、東西約30.8メートル、南北約16.6メートル。
基壇上の平面部には、南大門の礎石跡や金剛力士像(仁王像)が立っていたとみられ
る方形の基礎跡も再現されている。

南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4
m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古
様です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろくそざぞう)、
四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
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中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・東金堂
の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺において、
その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来像をその
中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置
き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺においても東大寺
大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとされています。
奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に初代中金堂が
焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。中金堂は6回目の
焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の享保2年(1717年)に
7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(1819年)に再建されたもの
も「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造上も弱く、平成12年(2000年)に
は取り壊しが行われ、その後創建当初のスケールを持つ中金堂を復興することになり、
平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の計画で中金堂の再建が進められることに
なりました。
再建された中金堂は、興福寺に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考
に復元されたものであり、東西の間口は約37メートル、南北の奥行きは約23メートル、高
さは約20メートルの規模となっており、東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬
師寺大講堂に匹敵、もしくは少し上回るような規模を有しており、平成の世において建造
された最大規模の木造建築物となっています。
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五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五
重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建
造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、
文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、
応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔として
は、東寺五重塔に次いで高い。
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春日神社一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもの
である。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社
と興福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。
3月の春日祭や12月の春日若宮おん祭の際には大きな榊が立てられています。
第60次式年造替の事始めに大規模な修理が施されました。
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影向の松(ようごうのまつ)
影向の松は、奈良県奈良市の春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育
しているクロマツである。延慶2年(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木で
あったが、1995年(平成7年)に枯れたため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若
木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓
抄によると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡
板に描かれている老松の絵のルーツとされている。
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浮見堂
鷺池に浮かぶ六角形のお堂は池の水面に映る姿が美しく、憩いの場としても人気です。
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片岡梅林
梅の木が約250本ほど植えられています。中に奈良地方気象台の植物季節観測用
(ウメ)の標本木も有るそうです。
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円窓亭(重要文化財)
円形の窓が特徴の円窓亭(重要文化財)。元は春日大社の経蔵が改造、移築された。
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片岡梅林・浅茅が原地
浅茅ヶ原園地に「片岡梅林」というところが有ります。
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浮雲園地へ向かう
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浮雲園地
奈良公園の中心部にあります。大仏殿交差点と奈良春日野国際フォーラム甍の間
をゆったりと歩ける園路があります。イベントにも利用されます。
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春日野園地
奈良公園の中で最も広い多目的広場です。東に若草山、北西に東大寺大仏殿、西に
東大寺南大門を望むぜいたくな空間です。イベントにも利用されます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる
水谷川の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗
として改装し、現在の姿に至っております。
店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎが暑さを忘れさせ、
秋には紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ね
の山、若草山です。若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われ
た山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年
1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのに
ふさわしい行事です。
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手向け山八幡宮・校倉造
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
手向山八幡宮は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。奈良市街東部
の手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真
が「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)
がある。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大
寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏
殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建
長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所
在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡と
もいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の
際に東大寺から独立した。
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宝庫(重要文化財)
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式とも類似
した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
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此処までは、
2月20日の飲み会&奈良の史跡&奈良公園を歩く-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-02-26
此処では、続きの三月堂・校倉造 経庫(重要文化財)~の詳細を掲載します。
三月堂・校倉造 経庫(重要文化財)
「東大寺法華堂経庫」- 奈良時代、校倉造。すぐ南には規模・形式とも類似した、
もとは、東大寺油倉の上司倉の「手向山八幡宮の宝庫」が建つ。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月
堂や三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂ける
「上院」エリアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接する位置
にある建物(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立は奈
良時代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、奈良
時代周辺に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂(後に大
規模な改築を受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高くないものの
貴重な建築と言える存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並び立つ
なお経庫は、かつては「校倉造」の代表建築である正倉院の近くに設置されていましたが、
鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした後、江戸時代の元禄期になると現在の位置
に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経歴を有しています。その後はしばらく
手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折に、再び東大寺に帰属する建
物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど南側の位置には、手向山八幡
宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じような建築様式で、やはり奈良時代頃に
創建されたものと考えられています。

三月堂
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※四月堂
東大寺四月堂(三昧堂)は、東大寺の奥行き、風情を最も強く体感できるエリアとして有
名な二月堂や三月堂(法華堂)の位置する「上院」エリアにあるごく小さなお堂です。
名前の由来としては、本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると
法華三昧会(ほっけさんまいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四月
堂」という通称で呼ばれるようにもなっていきました。
二月堂由来の十一面観音菩薩がご本尊
お堂の創建時期は、東大寺境内の諸堂と比較すると新しく、平安時代の1021年(治安
3年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられています。また、現在の建物は
江戸時代の1681年(延宝9年)の墨書銘があることから、途中で建て直しが行われたと
も推定されます。堂内にはかつては脚が短く独特の佇まいを見せる「千手観音菩薩立像」
が本尊として祀られていましたが、現在は新たな観光スポットとして整備された「東大寺
ミュージアム」の展示物として移転され、その代わりに二月堂から十一面観音菩薩立像が
招かれ、本尊として安置されています。ちなみにこの十一面観音立像は、奈良市山間部
にあった「桃尾寺」の本尊であり、廃寺に伴い二月堂にお祀りされるようになった存在とさ
れています。なお、現在はお堂の中で副次的な存在として安置されている「普賢菩薩」さ
まに関してもかつては本尊として祀られていたようです。すなわち時代によって本尊が比
較的頻繁に代替わりしてきたのがこのお堂の特徴となっているのです。
知名度は低いけど、穴場の「仏像スポット」です。三月堂や二月堂といった圧倒的な存在
感を放つ建物の真横にあるため、近くを通行する際もごく小さなお堂として見過ごしてしま
う場合も多いですが、東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに常駐しておられ
る上に、無料で拝観することが可能なお堂となっています。
三月堂(法華堂)や二月堂にお越しの際は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。

二月堂・・・東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存
する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩であ
る「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二会とい
い、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用の建物
に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗ともども、
中世の雰囲気を色濃く残している。
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若狭井
閼伽井屋(重要文化財) - 霊水の湧く「若狭井」の覆屋。切妻造の簡素な建物で鎌倉
時代の建立。榊と注連縄で厳重に結界されており、一般人の立ち入りはできない。
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東大寺大仏殿へ向う
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルといわれ
る高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・東大寺の
大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で再現したもので、
当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえようとの意味がこめら
れていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有る
この相輪部だけでも23mもある。七重塔がいかに巨大なものだったかがわかる。
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東大寺・鏡池
東大寺は728年に聖武天皇が建立した金鐘寺を始まりとする。 741年に聖武天皇自身が
各地に国分寺の建立を命じた際、 金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。745年に
大仏をはじめ伽藍の造園が開始された時期に東大寺という名称になる。東大寺の「東塔」
と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。東塔」は1180年の平
氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年に落雷で再び消失した。
「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみが残っている。
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東大寺ミュージアム
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南大門
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県庁へ向かう
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奈良公園~氷室神社
氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見される。
和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀し(下津岩
根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度が創始され
た。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月
30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平
安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷さ
れ、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺の朱
印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われたが、明治
以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形になっている。
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県庁前(昼食)・県庁屋上展望台
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漢國神社(かんごうじんじゃ)・林神社(饅頭神社)
漢國神社は、奈良県奈良市にある神社である。式内小社(論社)、旧社格は県社。推古
天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミシラツツミ)が園神を
祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神
二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称し
ていたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝
える。貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の
守護神としたと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾して
いる。治承4年(1180年)兵火にかかり炎上。文治4年(1188年)に興福寺一乗院覚昭大
僧正の奏聞により、率川・坂岡両所の造営があった。慶長年間になって、徳川家康より
法蓮村において知行田5反余りを寄付され、社殿の修理を加えた。
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境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国
から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄
因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合祀し、
饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
林浄因の命日である4月19日には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行わ
れ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも
無料で饅頭と抹茶がふるまわれる。
また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点
として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。
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JR奈良駅前観光案内所
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湯処・あべの橋
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
    ・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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あべのハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪阿
部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテルな
ど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶景ととも
に堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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居酒屋へ向かう
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甘太郎
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