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11月14日の菜畑駅~往馬大社~竹林寺~菊司酒造へ―2

11月17日    11月14日の菜畑駅~往馬大社~竹林寺~菊司酒造へ―2
          2020年1月28日往馬大社初詣で コース下見
此の日は、歩こう会の世話人・M吉さん・K場さんと3名で生駒市観光ボランティア
ガイドの・I 西さん・K峰さんお二人の案内でコース下見をして来ました・・・
コースは  近鉄生駒線菜畑駅(10時集合・スタート)で約9㎞を下見
近鉄生駒線菜畑駅(10時集合・スタート)~20分 往馬大社(宮司さんと会う)~
竹林寺・竹林寺古墳・行基墓・忍性墓~寺~興融時~円福寺~公園で昼食~往生院
~大福寺~藤尾の石造阿弥陀如来立像~石佛寺~宝憧寺~観泉寺~菊司酒造・試飲
・買い物~南生駒駅(ゴール)下戸の私はほろ酔い気分、南生駒駅スタンプ貰った
(志都美駅8:54 王寺駅9:00 乗換 近鉄王寺駅9:15   菜畑9:38着)
此の日の私の万歩計は、21066歩で約12.6㎞歩いた事に・・・
今日、フルコースを歩かせて貰ったので28日に予定していた2回目の下見は無しに
して、初詣でのコース&その他の段取りも全てを決める事が出来た・・・
志都美駅~菜畑駅
菜畑駅
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往馬大社(いこまたいしゃ)
生駒山をご神体とした古社です。広さ3ヘクタールにおよぶ鎮守の森は、奈良県の
天然記念物として指定されているほか、伝統行事の火祭りは県の無形民俗文化財
として指定されています。
奈良県生駒市にある神社である。式内社で、旧社格は県社。生駒神社(いこまじん
じゃ)と通称される。
生駒山の神である伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神、および氣長足比賣命(神功
皇后)・足仲津比古命(仲哀天皇)・譽田別命(応神天皇)・ 葛城高額姫命(神
功皇后の母)・息長宿禰王(神功皇后の父)を祀る。
伊古麻都比古神・伊古麻都比賣神は古代より火を司る神として信仰されている。
大嘗祭で用いられる浄火を起こす道具である火燧木は代々当社が献上することと
なっており、今上天皇の大嘗祭においても当社の火燧木が使用された。『北山抄』
『元要記』『亀相記』などには当社の神が「火燧木神(ひきりぎのかみ)」と書
かれている。10月第2日曜日(元は10月10日)の例祭は「火神祭」と呼ばれ、龍
田大社の風神祭、廣瀬大社の水神祭とともに古来より朝廷の崇敬を受けてきた。
創建の年代は不詳であるが、古代、当地に住みついた人々が生駒山を神体山とし
て祀ったのを起源とするものとみられる。文献での最も古い記述は、『総国風土
記』の雄略天皇3年(458年)条に「伊古麻都比古神社」とあるものである。延喜
式神名帳では大和国平群郡「往馬坐伊古麻都比古神社二座」と記載され、大社に
列し、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。
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観音堂
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石灯篭に象形文字?馬の代りに馬の絵
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竹林寺へ向かう
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竹林寺入口
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竹林寺古墳
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒
谷)における唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していない
ことから、この地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる
文殊山竹林寺境内にある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴
輪の特徴から、古墳時代前期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円
部の一部が失われ、後円部は墳頂に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による
損傷が生じている。その他の部分は雑木林に覆われ、開墾による削平(さくへい)
を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺へ
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竹林寺
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。
山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。
奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあっ
た僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされ
たものと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五
台山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管
理していたが、20世紀末から境内の整備が進められている。
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竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられてい
ます。行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え
生駒山で火葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、
左手の墓地に忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩
薩と行基を強く尊敬しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺
言により遺骨は竹林寺・極楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されて
います。
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行基菩薩墓
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇など
の教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業
に活動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、
入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のもの
となっていた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行った
とされている。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそう
だ。その後、聖武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で
人生を終えると母親の近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。行基(ぎょ
うき/ぎょうぎ)668年~749年は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷
が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を
中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困
窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷から
は度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳
ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として
聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された。この功績によ
り東大寺の「四聖」の一人に数えられている。東大寺では大仏創建に力のあった良
弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んで いる。
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忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅
町)で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師
として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しま
ぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がう
かがえます。後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業
を展開します。忍性は行基の大ファン?16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)
に入った。忍性は19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に
竹林寺で行基の舎利が発見された。行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業な
どの社会事業を行い、大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩
薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済
に捧げたのは、行基を範とするとするところが大きいと云われる。忍性は、鎌倉・
極楽寺で87歳で臨終を迎えた。
遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に
努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈した。
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忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事
に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、
病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老
いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿
が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期
以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識さ
れており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。
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興融寺へ向かう
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興融寺・・・融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)
本尊は阿弥陀如来立像(あみだにょらいりゅうぞう)
沿革は不明ですが、安永3年(1774)『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には阿弥陀堂と記載
されています。
興融寺は生駒市青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れているた
め、石仏ファンでもない限り訪れる人は少ない。しかも、ちょっと分かり難い場所に
お寺が立っています。
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円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿革
は明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが
残る。
重要文化財
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2) -
入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書から応安4年
(1371年)の建立とみられる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。北側の塔(写真左)
は初重に四仏の種子を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。南側の塔は初重に四
仏の像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
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興山墓地・往生院へ向かう
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公園で昼食
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興山墓地・往生院
輿山古墓群の中にあり、奈良時代の僧行基〔ぎょうき〕が天平21年(749)に没し
た時火葬された生駒山の東陵にあたると伝えられています。本尊は行基菩薩坐像で、
境内には宝篋印塔(重要文化財)などが残っています。
竹林寺の奥の院と云われます。(華厳宗) 輿山「往生院」です。行基の遺言により
彼の遺体を焼き遺骨の一部を葬ったのがこの地であったと伝えられます。中世以降、
生駒谷10郷の惣墓となっています。本堂裏にある五輪塔「行基供養塔」は南北朝時
代のもので高さ187cm。境内にある宝篋印塔は正元元年(1259)銘があり県内最
古として知られます。
大仏造営中の749年、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅、生馬市の往生院で火葬後竹
林寺に遺骨が納められ多宝塔を立て墓所とした。また、喜光寺(菅原寺)から往生
院までの道のりを行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の
墓地地帯は別名、輿山と呼ばれるようになった。
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大福寺へ向かう
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此処までは、
11月14日の菜畑駅~往馬大社~竹林寺~菊司酒造へ―1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-16 
此処では、未だ続く 大福寺へ向かう~ についての詳細を掲載します。
未だ続く 大福寺へ向かう
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大福寺
生駒市大門町の大福寺は黄檗宗の禅寺で、周囲はのどかな棚田風景が広がっていま
す。お目当ての十三仏板碑(室町期)はお寺の塀越しに見えていました。
瀟洒な山門の小さな境内、民家と変わらない小さな本堂傍らに六字名号板に挟まれ
る様に十三仏板碑が立っている。
上部を欠損した舟形石に定型四段三列、上部虚空蔵の中肉彫り。
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藤尾石仏へ向かう
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藤尾石仏
線刻阿弥陀如来立像(せんこくあみだにょらいりゅうぞう)
総高(残存値)136.0cm 像高107.5cm 石造 上部欠損 鎌倉時代 文永7年(1270)
造立。
藤尾町内の暗越奈良街道(くらがりごえならかいどう)沿いにあります。自然石に
線刻された像で、面相、衣文、蓮華座れんげざが明瞭に表されています。
銘「南無阿弥陀仏 文永七年庚午六月日為西仏過去也」
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ツツジが?
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すげー下り坂・・・
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石佛寺
奈良県生駒市藤尾町 石佛寺。暗越え奈良街道の西、藤尾峠に在る石佛寺
本尊は伊派の石工伊行氏作で光背部に観音・勢至菩薩を浮き彫りにして阿弥陀三尊
としています。
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宝幢寺へ向かう
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宝幢寺(ほうどうじ)
宝幢寺は奈良県生駒市にある融通念仏宗の寺院。山号は龍護山。本尊は地蔵菩薩。
この寺の創建年代等については不詳であるが、奈良時代の僧行基によって創建され
たと伝えられる。当初は真言宗の寺院であったが、江戸時代後期の文政年間(1818
年 - 1830年)融通念仏宗に改められた。
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観泉寺へ向かう
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観泉寺
寺伝によれば、元禄六年(1693) 僧龍峯により開かれた融通念仏宗の寺院。
境内には、石造美術品が数多くある。
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菊司酒造へ向かう
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菊司酒造(試飲・買い物)
大阪と奈良を結ぶ奈良街道の宿場町であった小瀬の地で、江戸時代の1705年
(宝永2年)より伝統の酒造りを続けている蔵元。総業300有余年。自然と伝統が
織りなす名酒の数々を造り続けています。生駒山系の天然水である井戸水を、
無濾過で仕込水に使用しています。やや硬水で、水自体に味わいがあり、そこか
ら醸し出される味がお酒にも表れています。平成10年より発売銘柄「往馬」は特
定名称酒の限定流通商品です。また、造り酒屋ならではの純正酒粕をふんだん
に使った奈良漬けの製造・販売もしています。美味しいお酒を試飲させて頂き有
難う御座いました。スイカと胡瓜の奈良漬もとても美味しかったです・・・
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試飲ボトル
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※美努岡萬墓(みののおかまろのはか)・・・今回は行かなかったが本番では?
奈良県指定史跡。奈良時代の官人であった美努岡萬の墳墓です。1872(明治5)年
に土取り中に偶然、墓誌が発見さました。墓誌は長方形の銅板で銘文を陰刻してあ
ります。銘文から美努岡萬のものであることが明らかとなりました。現在は住宅地
の中ですが、かつては山林の中にありました。古代の人物の墓所が明らかとなる例
は県内でも少なく貴重なものです。
美努岡萬連墓誌 (みののおかまろむらじのぼし)重要文化財
東京国立博物館所蔵
墓誌は、1872(明治5)年に土取り中に偶然、発見しました。縦29.4cm、横20.6cm、
厚さ0.3cmの銅板に銘文を陰刻してあります。銅板の一面に、縦横に罫線を刻み、
11行にわたって176字が記されています。
それによると、岡萬は天武天皇13年(684)に連の姓を賜っています。大宝元年(701)
に遣唐使の一員として渡唐し、帰国しています。従五位下を授かり、主殿寮の頭を
任じられ、神亀5年(728)に67歳で没しています。岡萬は『続日本紀』にもその名が
みえ、奈良時代に活躍した官人のようです。

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