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11月5日の石清水八幡宮から京阪郡津(こうず)駅へ-2

11月6日        11月5日の石清水八幡宮から京阪郡津(こうず)駅へ-2
                 歩こう会特別企画 東高野街道を歩く 12㎞
東高野街道を京阪石清水八幡宮駅から京阪交野線郡津(こうず)駅までの約12Kmを歩く。
此の日は、歩こう会の特別企画で東高野街道を歩く、長い東高野街道ウオークのスタート。
コース 石清水八幡宮駅(10:30スタート)~郡津(こうず)駅までの約12Km 参加者33名
京阪石清水八幡宮駅前(10:30スタート)~エジソン胸像~石清水八幡宮一の鳥居~頓
宮(朝礼&準備体操)~安居橋~八幡橋前~安心院・正法寺~松花堂公園(昼食)~円
福寺~洞ヶ峠~国道1号線沿い~舟橋川・新大池~山田池公園~出屋敷の旧道・円通寺
~東高野街道案内板~郡津駅へ向かう~郡津駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、26527歩で約15.9kmだった、もっと歩いた様な気がしたが・・
志都美駅~京橋駅 京阪京橋駅へ乗換
京阪京橋駅
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石清水八幡宮駅(旧八幡市駅)
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駅前のモニュメントは竹とエジソン胸像&東高野街道碑
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石清水八幡宮一の鳥居
表参道入口に立つ、石清水八幡宮の山麓の顔「一ノ鳥居」は、高さ約9m、最大幅約
11mの花崗岩製。最初は木製でしたが、寛永13(1636)年に松花堂昭乗(1548~1639)の
発案により石鳥居に造り替えられました。
この鳥居に掛かる、紺地に金文字で「八幡宮」と書かれた額は、元は、一条天皇(980
~1011)の勅額で、長徳年間(995~999)に小野道風・藤原佐理とともに平安の三蹟と称
えられる藤原行成(972~1027)が天皇の勅を奉じて筆を執ったものでしたが、現在の額
は寛永の三筆と称された松花堂昭乗が元和5(1619)年、行成筆跡の通りに書写したも
のです。特に「八」の字は、八幡大神様の神使である鳩が一対向かい合い顔だけを外
に向けた独特のデザインとなっています。
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※石清水八幡宮・・・当宮HPより
御祭神は
中御前 - 応神天皇(おうじんてんのう)(第15代) 誉田別尊(ほんだわけのみこと〕
西御前 - 比咩大神(ひめおおかみ) 〔多紀理毘賣命(たぎりびめのみこと)・市寸島
姫命(いちきしまひめのみこと)・多岐津比賣命(たぎつひめのみこと)〕
東御前 - 神功皇后(じんぐうこうごう) 息長帯比賣命(おきながたらしひめのみこと)〕
”やわたのはちまんさん”と親しまれる当宮が御鎮座する八幡市・男山は、木津川・宇治川
・桂川の三川が合流し淀川となる地点を挟んで天王山と対峙する位置にあり、京・難波
間の交通の要地であります。また、南北朝時代の大小様々な戦い、羽柴秀吉と明智光秀
の天王山の合戦などで知られる政治上の重要な拠点でもありました。
男山は都からみて裏鬼門(南西の方角)に位置し、鬼門(北東の方角)に位置する比叡山
延暦寺とともに都の守護、国家鎮護の社として篤い崇敬を受けてきました。
この経済上、政治上、そして信仰上の要の地に御鎮座され、日本を平和と繁栄に導く
神として多くの人々に崇敬され、八幡大神様を祀る神社は全国津々浦々に数万社ある
ともいわれています。
当宮の御祭神は御本殿中央に応神天皇様、西に比咩大神様、東に神功皇后様をお祀り
しています。この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して八幡三所大神(八幡大神)様
と申し上げます。
平安時代始め、清和天皇の貞観元(859)年、南都大安寺の僧・行教和尚は豊前国(現・大
分県)宇佐八幡宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座
して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたの
が当宮の起源です。そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社
殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されました。
天慶2(939)年に起こった平将門・藤原純友の乱の折には、朝廷よりご請願があり八幡
大神様の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の御崇敬
は益々厚いものとなり、 天皇の行幸や上皇の御幸は、円融天皇(第64代)の行幸以来、
実に240余度にも及び、伊勢の神宮に次ぐ第二の宗廟とも称されました。
明治の初めには官幣大社に列せられ、「男山八幡宮」と改称されましたが、「石清水」
の社号は創建以来の由緒深い社号であるため、大正7年には再び「石清水八幡宮」と
改称され現在に至ります。

石清水八幡宮・頓宮(朝礼&準備体操)
年に一度、勅祭石清水祭において山上の御本殿より御神霊が御遷しされる頓宮殿は重儀
が斎行される重要な社殿です。 幕末の鳥羽伏見の戦いで焼失ののち、男山四十八坊の一
つ「岩本坊」の神殿を移築し、仮宮としていましたが、現在の社殿は大正4年に造営さ
れたもので、平成22年から同23年にかけて修復工事が行われ、昭和24年以来、実
に62年ぶりの屋根の葺き替えとなり、桧皮葺であった屋根から、より耐久性のある銅
板葺に葺き替えられました。
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安居橋~八幡橋前~正法寺へ向かう
安居橋(あんごばし)・・・橋の袂にある蔵が工事中でした??
安居橋は京都府八幡市にある橋で石清水八幡宮の東側を流れる放生川に架かる橋です。
橋の中央部分が盛り上がっているアーチ形の橋で、歩行者と自転車の専用橋となっていま
す。八幡八景に登録され「たいこ橋」として市民に親しまれています。
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安心院・正法寺
正法寺(しょうぼうじ)は、京都府八幡市にある浄土宗の寺院。山号は徳迎山。本尊
は阿弥陀三尊。
この寺は、源頼朝の御家人で石清水八幡宮の社家志水氏の祖となった高田忠国が開基と
なり、建久2年(1191年)創建した寺と伝えられる。以後この寺は志水氏の菩提所とな
った。天文15年(1546年)には後奈良天皇の祈願所となっている。また、徳川家康の
側室お亀の方(尾張徳川家の祖徳川義直の生母)は志水氏の出身であることから、江
戸幕府から朱印状を得た。現在の伽藍はお亀の方の寄進により寛永6年(1626年)頃
に建立された。
八角堂・・・修復された八角堂が2019年4月に公開された
八幡市八幡大芝にある珍しい隅切り八角形の八角堂は現在正法寺の境外仏堂となってい
るが、そもそもは建保年間(1213年~1219年)石清水八幡宮の社家善法寺祐清が石清水
八幡宮の境内に阿弥陀如来を本尊として建立したものである。のちに大破して慶長12年
(1607年)、豊臣秀頼によって再建された。しかし、明治維新の神仏分離に伴い撤去さ
れることが決まると、1870年(明治3年)に正法寺住職志水円阿が貰い受け、所有地で
あった西車塚古墳の後円部上に移築した。
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松花堂公園へ向かう
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松花堂庭園前
松花堂公園(昼食)・・・石清水八幡宮から2.5kmの東高野街道の碑
此処で東高野街道の碑を囲んで班毎の集合写真を撮影した
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洞ヶ峠越えへ向かう
※洞ヶ峠  所在地:八幡市八幡南山
南峠ともいう。京都府南部、八幡市と大阪府枚方市の境にある峠。標高約 70m。元来
は東高野街道の峠であったが、現在は北側を国道1号線が越える。天正 10 (1582) 年
山崎の戦いの際、大和郡山城主筒井順慶がこの峠に布陣し、豊臣方と明智方の合戦の
なりゆきを観望、形勢有利と判断した豊臣方に加わったという俗説で知られ、以後峠
の名は「日和見」の代名詞のように用いられている。
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※八幡の伝説
「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」といえば、日和見の代名詞となっていますが、
その舞台となったのが国道1号が追加する八幡市の西部丘陵「洞ヶ峠」での逸話で、
その人物が筒井順慶(1549~1584)です。
順慶は、大和守護代筒井順昭を父に、摂家九条氏養女を母にして生まれますが、3歳
の時に父の順昭を失います。このとき、順昭と声がよく似た「木阿弥」という琵琶弾
き僧を、順昭にしたてて死亡を隠したところから「元の木阿弥」との語が生まれたと
もいわれています。順慶は、天文19年に家督を相続。興福寺の衆徒の棟梁としてその
勢威は大和一円に及びましたが、松永久秀の台頭により一時苦境に立たされました。
その後、織田信長に臣従し、久秀失脚後、大和1国を与えられて郡山城に住みました。
信長の重臣明智光秀に仕えて各地を転戦するのですが、やがて光秀は信長を討ち、羽
柴秀吉と争うことになります。
光秀は、山崎の合戦で恩顧をかけていた順慶に協力を求めますが、順慶はこれを断り、
光秀は合戦に敗れてしまいます。このとき、順慶は山城、摂津、河内の国を見おろす
洞ヶ峠に駐屯して戦局を傍観、秀吉勝利と見るや直ちに峠を下り、秀吉に味方したこ
とから、日和見の代名詞「洞ヶ峠を決め込む」の語を生みました。しかし、実際には、
順慶は洞ヶ峠には出陣していないというのが真相のようです。その後、秀吉の配下と
なりますが、1584年8月11日、36歳という若さで肺結核で亡くなりました。その順慶
は、茶の湯、謡曲などに優れた教養高い武将であったといいます。
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円福寺(達磨堂)
天明3年(1783)、臨済宗最初の専門道場、江湖道場として建立された。重要文化財で
日本最古と伝えられる達磨大師坐像が坐禅堂の聖僧として安置されているので「達磨堂」
とも呼ばれている。
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※【日本最古の木造達磨古尊像】
かつて聖徳太子と達磨大師との片岡山ご奇遇の因縁によって大師ご自作と伝えられた達
磨の尊像が、その遺跡として建立された大和達磨寺に奉安されていましたが、奈良興福
寺の衆徒によって同達磨寺が焼却され、ただ「王寺」の名と達磨の墳塋のみが残りまし
た。足利義持の時代この寺の再興を企図した際に、この古尊像の行方を探しましたが所
在判明せず、別に足利義教時代に之を再刻して達磨寺に奉安しました。その後達磨寺が
火災に遭った時にこの達磨像は幸い災火を逃れ、王寺の守護片岡家に安置されることと
なりました。のちに片岡家一族分散の際に片岡氏はこの達磨像を背負って潜伏浪士の身
となり各地を転々とし、この古尊像を奉安守護されていましたが、寛正の頃(1461~146
6年。足利義教時代)になって片岡新介春利(片岡大和守光次)は八幡の地に至り、この達
磨像を石清水八幡宮別当田中家に託しました。
後年、田中家延焼の際にも この像のみ災難を逃れたといい、何度も災厄を逃れたその
霊験から、田中家はこの尊像を、天明3年(1783年)円福寺創建に際して境内の堂中に安
置しました。 昭和2年、国宝に指定。現在、重要文化財。
目を大きく見開いた気迫みなぎる坐相は雲水衆の参禅学道のための象徴として、また
萬人講参拝者の心の拠り所として古くから信仰を集めています。

洞ヶ峠を越えると枚方市
国道1号線へ向かう
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国道1号線沿い
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国道1号線沿い~ニトリモール枚方店前
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此処までは、
11月5日の石清水八幡宮から京阪郡津(こうず)駅へ-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
          https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-06
此処では、続きの 国道1号沿い・ニトリモール枚方店前~ からの詳細を掲載します。
ニトリモール枚方店前
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舟橋川・新大池~山田池公園へ向かう
舟橋川
大阪府枚方市を流れる、淀川の一次支流。
枚方市杉北町の丘陵に発し北西流、枚方市東部を貫流し淀川左岸に注ぐ。
一級河川の起点は枚方市長尾。
丘陵地を出て国道一号線と交差する此の付近から著しい天井川となる様です。
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山田池公園へ向かう
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山田池公園(トイレ休憩&集合写真撮影)
山田池公園の中心となる山田池は1200年前の築造といわれ、深刻な水争いの記録も残さ
れているような歴史的にも貴重なため池であった。また、春日山には神社(春日社)が
建てられ、地元の豊作祈願の信仰の場でもあった。(現在は社跡の石碑のみとなってい
る)近年まで、人々の暮らしに役立つクリ、ウメ、茶などの栽培もおこなわれ、里山的
な利用をされてきた。こういった山田池の歴史性から、都市公園法施行50周年記念事業
による「日本の歴史公園100選」に選定された(平成18年度)また、山田池の水面に映
る月は格別な趣があり、「山田池の月」として枚方八景のひとつに選ばれています。
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山田池へ向かう
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山田池
水面をバックに集合写真撮影
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出屋敷の旧道へ向かう
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出屋敷の旧道・円通寺~東高野街道案内板
※出屋敷の町並
出屋敷は枚方市内で東高野街道が集落内を通過する唯一の集落で、伝統的な外観を
持つ民家が点在しています。街道とともに歴史的な佇まいをうかがうことができます。

※円通寺
創建時期は明らかではありませんが、延宝3年(1675)には本堂を再興し、浄土宗専
念寺末寺円通寺と称しました。本堂の正面には、江戸時代に宇治の黄檗山万福寺を創
建し隠元隆琦筆の扁額が掲げられています。
かつて境内には、「楠木松」と呼ばれる大きな松がありました。その松の下には、貞
和4年(1348)四條畷の戦いで敗死した楠木正行の従兄弟である和田賢秀の胴体が葬
られたと伝えられています。

東高野街道案内板
国道に出るあたりの右側に看板が設置津された休憩場所が有りました。
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郡津駅へ向かう
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畑に皇帝ダリアの蕾が・・・
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郡津駅(ゴール)
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郡津駅 →枚方市駅 →京橋駅 JR京橋駅へ乗換
大和路線で王寺駅~バス、バス停~自宅へ
(西名阪自動車道)高速道路の裏道で
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