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11月3日の秋深まる名所散策と「四天王寺ワッソ」ー2

11月4日         11月3日の秋深まる名所散策と「四天王寺ワッソ」ー2
                 近鉄駅フリーハイキング 9㎞ 
此の日は、知人のK場さん・I 田さんと3名で近鉄ハイキングへの参加と竹之内街道・横
大路スタンプラリーへも参加、M吉さんと上本町駅で出会う・・・
コースは  近鉄駅フリーハイキング 大阪上本町駅地上コンコース 10時集合
大阪上本町駅(地上コンコース10時集合)~産湯稲荷神社~三光神社~玉造稲荷神社~
大阪城公園(昼食)~難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)・竹之内街道スタンプラリー~
円珠庵(釜八幡)~大阪上本町駅(ゴール)のコース予定を最初から何処かでショート
カットしてコース短縮しようと?考えてて・・・
実際に歩いたコースは・・・
大阪上本町駅(地上コンコース10時集合)~産湯稲荷神社~彌榮神社~真田丸顕彰碑~
興徳寺~旧真田山陸軍墓地~三光神社~玉造稲荷神社~森ノ宮キューズモールエアート
ラック~大阪城公園・太陽の広場へ地車(だんじり)集合(昼食)・青屋門・極楽橋・
天守閣・桜門・大手門~難波宮跡(四天王寺ワッソ会場)・竹之内街道スタンプラリ~
玉造駅へ
ショートカットコースで約1km短縮? 此の日の私の万歩計は、19527歩で約11.7㎞歩
いたことに・・・
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団
(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわ
たる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書
がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしま
じんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良
国立博物館で保管されている。
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下田駅~大阪上本町駅
大阪上本町駅(集合・スタート)
産湯稲荷神社へ左折する
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産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみ
こと)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ
味原郷に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を
「産湯」という。父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の
長男である」としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の
先祖に当る人である。この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社
の近くにある。また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、
この地には大小橋命に関わる伝承は多い。
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彌榮神社・・・生野区桃谷に有る彌榮神社の御旅所
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※生野区桃谷に有る彌榮神社
弥栄神社、彌榮神社、彌栄神社(いやさかじんじゃ、やさかじんじゃ、やえじんじゃ、
や えいじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。
彌榮(やえい)神社は、文禄年間(1592年~1595年)に島根県八束郡(旧出雲國意
宇郡)の旧國幣大社熊野神社より御分霊を移して御祭りしたと旧記にあります。創立
以来、旧木野村の鎮守として崇敬厚く、宮座を設けて祭事を奉仕していました。明治
5年村社に列せられ、神職を置き奉仕し、また社号もこの時に彌榮神社と改めました。
弥栄神社は、御幸森天神宮と並んで、コリアンタウンに鎮座する仁徳天皇と大変縁の
深い神社として有名です。弥栄神社は古くから地元の氏神様として、鶴橋・桃谷の
人々に篤い信仰を集めている歴史ある神社。特にこの界隈は、商店街通りとして、個
人商店が多く立ち並ぶので、商売繁盛の神としてお稲荷さんにお参りする人も多く、
お参りが絶えない神社として、地元の人たちに愛されています。

真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催の
除幕式が行われました。 碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大坂三郷
町絵図」と、「大坂冬夏 陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
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興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺
院。天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の
火災で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
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興徳寺の横~旧真田山陸軍墓地を通り三光神社へ
※旧真田山陸軍墓地
ここは明治4(1871)年に作られた、現存している軍墓地の中では日本最古の集団墓地
の跡です。旧陸軍墓地は、福岡や広島など大小合わせて全国にいくつか残っているの
ですが、ここ真田山は最大の規模となります。明治4年とくれば、同じ年に日本に徴
兵制が敷かれたのですが、それと同時に出来たらしい。
集団での墓標は、明治10年に起こった西南戦争、西郷隆盛が政府に対し鹿児島で反
旗を翻した、あの戦争の戦死者を葬った兵士の墓や明治27年とか28年は、西暦に
直すと1894年とか1895年の日清戦争。兵隊クラスで個人での墓標があるんはこの日
清戦争まで。日露戦争になったら戦死や戦病死が多すぎて墓を作る土地がなかったの
か、合葬碑として省略されてしまっております。「明治三十七八年戦役」(明治37年
=1904年)とはまさしく日露戦争のことです。後の満州事変も「省略」されて合葬碑
となってる様です。
また、ここに埋葬されているのは日本人だけではなく外国人墓も有るそうです。
日清戦争や第一次世界大戦で捕虜になり日本で死亡したと思われる、中国人やドイツ
人捕虜の墓もあり、真田山の方も、ドイツと中国の領事館に慰霊祭の参加を呼び掛け
ています。ドイツは毎回参加しているものの、中国は「清国と中華人民共和国は関係
ない」と参加を渋っているようです。
私は、つい最近まで日露戦争のロシア人捕虜の墓も此方に有るものと思っていました
が、今年10月に浜寺公園へハイキングした際にロシア人捕虜収容所と亡くなった捕虜
の墓の事を知りました。(浜寺のロシア人捕虜収容所と泉佐野市にあるロシア人捕虜
の墓)

三光神社
当神社は大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し昔は姫山神社(大昔の姫の松原の
遺称)と称したが、全国的には真田山の三光の名称の方がよく知られ今では三光神社と
なった。創立は仁徳天皇から三代後人皇十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ創建以後
神職として奉仕された武内宿弥の末裔武川氏(八十六代)にして今に至ると言う。当神
社は古来より日本全国で唯一の中風除の神として広く知られ毎年恒例の神事として六月
一日を祈願の初日と定め七日間往古より今に至るまで変わることなくとり行われ全国各
地からの参拝者が絶えない。
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※真田の抜け穴
大坂城の出城のあった処で慶長元和の大阪合戦の頃真田幸村が此の地に偃月城(えんげ
つじょう)と名付ける塁を定め本城よりここに至るまで地下に暗道を設けたと言い伝え
られ今なおその跡を三光宮鎮座の階下にあり。
真田幸村の像
真田の抜け穴脇に真田幸村公の陣中指揮姿の銅像を建立(昭和62年5月5日)、その
台座に信州上田の真田家の菩提寺である長谷寺より取り出した石(名付けて真田石)が
置かれている。
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玉造稲荷神社へ向う
公園のツワブキ
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玉造稲荷神社
当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年
に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き
「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、
のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。
その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年
に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。大坂の陣で、当地は再び
戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代 内藤紀伊守を始め、
氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を
通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。江戸時代に
は伊勢参りの出発点とされた。
文久3年(1863年)11月の大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に
再建。現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを
作っていた玉作部の居住地であったという伝承がある。
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豊臣家奉納鳥居
慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥居。阪神・淡路大
震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置かれている。
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玉造稲荷神社を後に
森ノ宮キューズモール エアトラック
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大阪城公園・噴水前広場~太陽の広場へ
大阪城公園
大坂城特別史跡地に所在する広大な歴史公園である。
公園内には樹木が多く植えられ、二の丸市正曲輪の梅林、北外曲輪の桃園、西の丸庭
園の桜など、花見シーズンには梅・桃・桜の名所となっている。また、杉山地区は森
林公園となっており、外濠の水辺に集まる野鳥を眺めて家族連れが憩う姿も見られ、
都会のオアシスとして市民から愛されている。
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大阪城公園・太陽の広場へ向かう勇壮なダンジリ
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大阪城公園・太陽の広場へ入る
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此処までは、
11月3日の秋深まる名所散策と「四天王寺ワッソ」ー1 として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-11-04
此処では、続きの大阪城公園・太陽の広場~ についての詳細を掲載します。
大阪城公園・太陽の広場
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大阪城・青屋門前の公園で昼食
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大阪城・青屋門前に粋な計らい
落ち葉で文字が・・・
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極楽橋へ向かう
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極楽橋から御座船
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刻印石広場
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紅葉の穴場?
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天守閣前広場へ
大阪城(おおさかじょう)
大阪城は、安土桃山時代に摂津国東成郡生玉荘大坂に築かれ、江戸時代に修築された
城。現在の大阪府大阪市中央区大阪城に所在する。別称は錦城(きんじょう。金城と
も表記)。「大坂城跡」として国の特別史跡に指定されている。
「太閤はんのお城」と親しみを込めて呼ばれることもあるが、1583年(天正11年)
から1598年(慶長3年)にかけて豊臣秀吉が築いた大坂城(豊臣氏大坂城)の遺構は、
現在全て埋没している。現在地表に見ることのできる大坂城の遺構は、1620年(元
和6年)から1629年(寛永6年)にかけて徳川氏が実質的な新築に相当する修築を施
した大坂城(徳川氏大坂城)の遺構である。1959年(昭和34年)の大阪城総合学術
調査において、城跡に現存する櫓や石垣などもすべて徳川氏、江戸幕府によるもの
であることが確認された。
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桜門~大手門
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大手門~難波宮跡へ
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難波宮跡(四天王寺ワッソ)・竹之内街道スタンプラリー
難波宮(なにわのみや)は、飛鳥時代・奈良時代の難波(現在の大阪市中央区)の上
町台地の先端付近にあった古代宮殿。
前期難波宮
乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年
に完成した。天皇制の始まり、元号の始まりである大化の改新とよばれる革新政治は
この宮でおこなわれた。この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であっ
た。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と
記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。
孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が
没した後655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。
683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都とした
が、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。
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竹之内街道・横大王路(大道)スタンプラリー
2つ目のスタンプをゲットして事務局へ手渡した(63円の切手を貼る手間が省けた)。

四天王寺ワッソ   会場準備中
古代、大阪は“なにわの津”と呼ばれ日本における東アジア交流の拠点でした。とりわけ、
難波の宮は古代の首都あるいは副都であり、渡来の使節団はここから迎賓館的存在で
あった四天王寺へと導かれ、飛鳥へと文化を伝承していきました。
「四天王寺ワッソ」は、当時の国際交流を雅やかに再現するお祭りです。
「ワッソ」とは、現代韓国語で「来た」という意味です。
千数百年以上も前から海を越え、多くの人びとがやってきては繰り広げられた交流を
再現するにあたり、「来た」という言葉を祭りの名称にしたのです。
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ショートカットして玉造駅へ
〆は玉造駅前商店街で美味しいコーヒーを飲んで解散
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