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6月21日の今城塚古墳~ハニワ工場公園へ-2 他

6月29日          6月21日の今城塚古墳~ハニワ工場へ-2 他
                  7月度歩こう会 特別企画コース下見
JR摂津富田駅に9時半集合で 7月度歩こう会 特別企画コースの下見に行った・・・
18日の大坂北部を震源とする関西大地震で被害の大きかった地域と言う事も有り、
行く先々で処所に被害の爪痕が見られた・・・
此の日の私の万歩計は、21464歩で約15.8km歩いたことに・・・とても暑いだった
コース
JR摂津富田駅~今城塚古墳前で高槻文化財スタッフの会(I籐様)と待ち合わせ~今日
のコースの打ち合わせ(今城塚古代歴史館)後~今城塚古墳~前塚古墳~郡家車塚古
墳~弁天池・弁財天~観音寺跡地~闘鶏野(つげの)神社~八幡神社~蕃山古墳~土
室(はむろ)遺跡~新池ハニワ工場公園~継体天皇陵~JR摂津富田駅
JR摂津富田駅・・・9時11分着
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今城塚古墳前へ向かう
此の女瀬川沿いを妙見橋迄・・・
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今城塚古墳
今城塚古墳(いましろづかこふん)は、大阪府高槻市郡家新町(ぐんげしんまち)にある
前方後円墳。国の史跡に指定されている。
造営時の6世紀前半では最大級の古墳である。宮内庁の治定は受けていないが第26
代継体天皇の真の陵とする説が有力で、発掘調査が可能な大王陵になる。
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今城塚古墳前で高槻文化財スタッフの会(I籐様)と出会い
今城塚古代歴史館でコースの打ち合わせ
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今城塚古墳からスタート
摂津北部、三島(みしま)平野の中央部に位置し、古墳時代後期の6世紀前半に築造さ
れた前方後円墳である。三島野古墳群に属する。墳丘の長さ190メートル、二重の濠が
めぐっており、内濠、外濠を含めた兆域(ちょういき)は340メートル×350メートルの釣鐘
状の区画を呈し、淀川流域では最大規模の墳墓となっている。
古墳の被葬者は、形状や埴輪等の年代的特徴、また『古事記』『日本書紀』『延喜式』な
ど文献資料の検討から、6世紀のヤマト政権の大王墓と推定され、6世紀前半に没した
継体天皇とするのが学界の定説になっている。また、埴輪工房跡と目される生産遺跡新
池遺跡との深い関連が指摘される古墳である。
真の継体天皇陵である可能性が高いことから、戦前《1935年-1944年(昭和10年-昭和
19年)》に設けられた臨時陵墓調査委員会においても、この古墳を「陵墓参考地に編入
すべし」との答申が行われた。しかし、宮内庁は今城塚古墳の陵墓参考地指定について
は現在も難色を示しており、今城塚古墳から1.3キロメートル西にある大阪府茨木市の
太田茶臼山古墳を継体天皇陵に治定している。太田茶臼山古墳の築造は5世紀中葉と
考えられており、継体天皇が没したとされる年代よりも古い時代の古墳と考えられる。
この大王墓が、6世紀にいたって畿内北部の淀川水系にはじめて出現することは、それ
までずっと南部の大和川水系の大和・河内にあった勢力から王権の主導権が移ったこと
を意味するとも考えられる。
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墳丘に上がり散策
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堀も立派
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今城塚古墳を後に
前塚古墳へ向かう
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前塚古墳
前塚古墳(まえづかこふん)は、大阪府高槻市岡本町にある古墳。形状は帆立貝形古
墳。史跡指定はされていない。
前塚古墳は、出土埴輪・出土石棺から古墳時代中期の5世紀頃(5世紀初頭頃または
5世紀中葉-後半頃)の築造と推定される。かつては近在の今城塚古墳の陪塚とする
説もあったが、現在は先行古墳に位置づけられる。
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※三島古墳群(みしまこふんぐん)
淀川北岸、桧尾川流域から茨木川流域にあり、大阪府高槻市と茨木市(旧三島郡)に
かけて広がる古墳と遺跡の総称。
淀川右岸地域、北摂山地の山腹部から丘陵部にかけて広がり、古墳だけでも大小500
基以上を数える。古代三島地方の中心地であったこの地には、古墳時代初期から終末
期までの各時代を代表する古墳が含まれ、羽曳野・藤井寺周辺の古市古墳群、堺周辺
の百舌鳥古墳群と並ぶ規模を誇る、日本有数の古墳地帯である。

郡家車塚古墳
4世紀末、古墳時代前期の古墳。三島地方の王墓。全長が約85.6m、後円部径約51.3m
の前方後円墳。
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観音寺跡地へ向かう
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弁天池・弁財天
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此処までは、
6月21日の今城塚古墳~ハニワ工場公園へ-1 他 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-28
此処では続きの詳細を、観音寺跡地~
観音寺跡地
観音寺は氷室山と号し、真言宗の高野山金剛頂院の末寺で、元禄二(1689)年には高槻
藩永井家三代藩主直種が護摩堂、法具などを寄進し、ながらく永井家の祈祷所でした。
ところが明治初年の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きのなかで廃寺となり、氷室の人々
が護摩堂と堂内の仏像・仏具を守ってきました。
その後平成26年になって、これらの貴重な仏像は本市しろあと歴史館に寄贈されて恒久
的保存が図られることとなり、翌年、老朽化した護摩堂は解体され、荒れていた境内は広
場となりました。その整地作業に際して、繁茂していた背丈を超える草木が一掃され、ピン
ク石が露見したということです。
ピンク石の正式名称は阿蘇溶結凝灰岩といい、熊本県の宇土半島で産出するもので、古
代歴史館では今城塚古墳出土の同種の石棺材をもとに復元した石棺を展示しています。
※氷室町の古老のお話によると、石材は氷室集落の共同井戸の脇を流れる水路に架け
てあった石橋だったが、井戸の洗い場へ行く村のおばさんたちがしょっちゅう足を滑らせ
て怪我をするので、かつて石材を運びだしてきた古墳の祟りではないかと、昭和30年頃
になって観音寺に祀ることにした、ということでした。じっさいに寺の境内では石碑のごと
く立て置かれ、賽銭があげられていました。
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闘鶏野(つげの)神社
鳥居に地震被害有り横の観音寺跡地から入る
本殿横の燈籠や狛犬に地震被害
氷室地区の氏神。闘鶏を「ツゲ」と読むのは、鶏鳴が神託を「告げる」ことに由来するとい
われる。名神高速道路にかかる陸橋が参道となっており、北面の丘陵には闘鶏山古墳と
呼ばれている前方後円墳がある。
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18日の地震被害がすさまじい
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※闘鶏山古墳
北面の丘陵には闘鶏山古墳(全長86.4m/前方後円墳)があり、平成14年(2002年)の
確認調査では後円部から未盗掘の竪穴式石室2基が発見され話題となりました。石室内
部のファイバースコープ調査では三角縁神獣鏡や石製の腕飾り、木棺の一部などが確認
され、4世紀前半の三島の王墓と考えられています。

八幡大神宮
地震被害で鳥居が見えない
創建は不詳だが、洪水により応神天皇の像と白羽矢がこの地に流れ着き、それを祀った
のが起こりという。江戸時代初期の高槻城主・松平家信は、社領を寄進するほど厚く敬い、
その後も高槻城の守護神として歴代城主の信仰が厚かった。戦国期にはキリシタンの高
山氏の兵火で焼失したこともある。
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蕃山古墳
後円部と外堤の輪郭のみが確認される。5世紀末頃の築造と考えられているが、
内部構造は不明。
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土室(はむろ)遺跡
高槻市の西部、土室(はむろ)の丘陵上に、古代の埴輪工場(はにわこうば)跡・新池埴輪
製作遺跡があります。この工場が操業していたのは、5世紀中ごろから6世紀中ごろまで
の約100年間。発掘調査によって、埴輪窯18基、大形工房3棟、さらに竪穴住居14棟か
らなる工人集落などがあったことも明らかになっています。
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新池ハニワ工場公園
ハニワ工場が開かれたきっかけは、太田茶臼山古墳(茨木市)の造営とみられています。
大量の埴輪を古墳に立て並べるため、古墳の近くで埴輪づくりに適した場所、窯を築く斜
面地があり、材料の粘土と砂と水、そして燃料にする薪が手近にある場所を探し、ここを
埴輪工場と定めたのでしょう。 工人集落からは東海地方の土器が出土しており、工人の
なかには遠方から来た研修生?もいたようです。
その後、530年ごろに新たに6基ほどの窯が築かれ、今城塚古墳の埴輪が大量につくら
れました。この時期の埴輪づくりは、以前のような畳80畳敷きもの広さの大形工房ではな
く、一辺が5~6メートルの竪穴住居でつくっていたことがわかっています。まさに職住一致、
寝てもさめても埴輪をつくっていたのかもしれません。
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復元された釜
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復元された工房
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継体天皇陵へ向かう
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継体天皇陵
陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府茨木市太田3丁目にある三嶋藍野陵(みしまのあ
いののみささぎ:三島藍野陵)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名
は「太田茶臼山古墳」で、墳丘長227メートルの前方後円墳である。
本古墳の築造時期は5世紀の中頃とみられている。一方、大阪府高槻市郡家新町の今
城塚古墳(前方後円墳、墳丘長190m)から埴輪群が発掘され、6世紀前半の築造と考え
られることから、同古墳を真の継体天皇陵とするのが定説になっている。宮内庁による
治定の変更は行われていないため、今城塚古墳には一般市民も立ち入ることができる。
2011年4月1日に高槻市教育委員会にて史跡公園として整備され、埴輪祭祀場等には
埴輪がレプリカにて復元された。隣接する今城塚古代歴史館では、日本最大級の家型
埴輪等が復元展示されている。
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※継体天皇(けいたいてんのう)
継体天皇(允恭天皇39年(450年?) - 継体天皇25年2月7日(531年3月10日?))は、
日本の第26代天皇。在位は507年3月3日? - 531年3月10日?。
戦後、現皇室は継体天皇を初代として樹立されたとする新王朝論が盛んになった。
それ以前のヤマト王権との血縁関係については現在も議論が続いている。
『日本書紀』によれば、506年に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連・大伴
金村、物部麁鹿火、大臣巨勢男人らが協議した。まず丹波国にいた仲哀天皇の5世の
孫である倭彦王(やまとひこおおきみ)を抜擢したが、迎えの兵士をみて恐れをなして、
倭彦王は山の中に隠れて行方不明となってしまった。そこで、次に越前にいた応神天
皇の5世の孫の男大迹王にお迎えを出した。男大迹王は心の中で疑いを抱き、河内馬
飼首荒籠(かわちのうまかいのおびとあらこ)に使いを出し、大連大臣らの本意を確か
めて即位の決心をした。翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)において即位し、
武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女を皇后とした。
継体は、ようやく即位19年後の526年、大倭(後の大和国)に都を定めることができたが、
その直後に百済から請われて救援の軍を九州北部に送った。しかし新羅と結んだ磐井
によって九州北部で磐井の乱が勃発して、その平定に苦心している(磐井の乱について
は諸説ある)。日本書紀の記述では継体が507年に即位してから大和に都をおくまで約
20年もかかっており、皇室(実態はヤマト王権)内部もしくは地域国家間との大王位をめ
ぐる混乱があったこと、また、継体(ヤマト王権)は九州北部の地域国家の豪族を掌握で
きていなかったことを示唆している。

JR摂津富田駅へ戻る

おまけ 6月22日
社友会の旅行会の打ち合わせの後、あべのベルタへ
志都美駅~久宝寺駅
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あべの
キューズモール~ベルタへ、知人の楽画喜展を鑑賞に・・・
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6月9日の唐子・鍵遺跡史跡公園を歩く-2

6月13日        6月9日の唐子・鍵遺跡史跡公園を歩く-2
               近鉄漫歩ハイキング 歩程約14km
此の日は、久し振りの近鉄ハイキングに知人のK場さんI田さんO村さんM村さんと5名で
参加、私にとっても5月28日以来のハイキング、久し振りに歩き疲れるほど歩きました・・・
此の日の私の万歩計は、26835歩で約19.8km歩いたことに 
コース  近鉄万歩ハイキング  田原本駅西改札口前 9時半~10時  Kipsポイント
田原本駅(受付)~春日神社~孝霊神社~黒田駅~黒田大塚古墳~法楽寺~但馬駅~
三宅町中央公園(昼食)・古墳~忍性菩薩誕生地碑~屏風杵築神社~白山神社~結崎面
塚公園~石見鏡作神社~太神社~道の駅レスティ唐子・鍵(抽選)~唐子・鍵遺跡史跡公
園~コースを変えてショートカットして石見駅へ
田原本駅(受付)~
春日神社(宮古)
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孝霊神社
祭神
孝霊天皇(大日本根子彦太瓊尊)おおやまとねこひこふとにのみこと
彦五十狭彦命 ひこいさせりひこのみこと(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)
稚武彦命 わかたけひこのみこと。他三神
由緒・・・境内の看板より】
もと法楽寺の鎮守社であったが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神
として引き継がれた。旧地より移したものに「明和七年」の紀年銘をもつ石燈籠一対が
ある。岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、古事記・日本
書紀に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来
するものである。第七代孝霊天皇の黒田廬戸宮は、田原本町宮古(「都」の意)からこ
の黒田のあたりを指し、この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。孝霊神社の
周辺には、弥生時代の黒田遺跡や、古墳時代の前方後円墳・黒田大塚古墳がある。
この前の道は、聖徳太子が通ったとの伝承をもつ太子道である。
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黒田駅
黒田大塚古墳
古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は86メートルであるが、
後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。 周濠の発掘調査では埴
輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたものと考えられる。葺石は認
められない。 出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
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法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基
にかかるものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応
元年(1222年)に再建がなされた。
長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の伽藍坊院が描
かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在残るのは
1坊のみである。本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後期)な
どの古い仏像も所蔵する。
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但馬駅
三宅町中央公園へ向かう
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三宅町中央公園(昼食)
瓢箪山古墳へ向かう
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瓢箪山古墳・・・三宅古墳群
前方後円墳(調査の結果、全長約40m、後円部径約26m、6~12mの周濠を持つ
前方後円墳であると復元された)前方部を南西方向に向ける。埋葬施設は、未調
査(横穴式石室の可能性は低い) 周濠埋土より、円筒、人物(女性)・犬:盾など
の埴輪片、須恵器が出土。築造年代は、6世紀前半とみられる(出土資料より)
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※三宅古墳群
三宅古墳群は三宅町、川西町、田原本町にまたがる古墳群で、計17基の古墳が
確認され、全長約50メートル規模の前方後円墳が中心。最大の古墳は川西町に
ある島の山古墳(全長190メートル)で、石製品が大量に見つかっている。

忍性菩薩誕生之地石碑へ向かう
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忍性菩薩誕生之地石碑
良寛坊忍性上人は鎌倉時代の律僧です。
建保5年(1217)7月16日、ここ城下郡屏風里(磯城郡三宅町)で誕生しました。
嘉元元年(1303)鎌倉の「極楽寺」で87歳の生涯を閉じ嘉歴3年(1328)に後醍
醐天皇より「菩薩」号を与えられました。
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此処までは、
6月9日の唐子・鍵遺跡史跡公園を歩く-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13
此処では、続きの屏風杵築神社~
屏風杵築神社
素戔鳴命(須佐男命)を祀る旧村社で、境内には  牛頭天王社と刻まれた石燈籠が
ある。拝殿にかけられている「伊勢太神宮へのおかげまいり」の絵馬は、慶応四辰九
月吉祥日に屏風の里氏子たちが奉納している。
太神宮の旗を立て、40人ほどの人たちが三味線などにあわせて踊り行く姿は、当時
のおかげまいりを偲ぶよい資料である。
この杵築神社には「伊勢太神宮へのおかげまいり」の絵馬の他にも、聖徳太子が駒
をとめて、この地に休息された故事を描いた絵馬がある。このゆかりの石が向いの
白山神社の境内にある。
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あざさ・・・万葉歌の花
沼地に生じ地下茎から葉を出し水面に浮かべ、夏期、黄色の花をつける。
5月~10月の間、磯城郡三宅町では、「三宅の原」の地名と共に奈良盆地の平坦部
で唯一万葉歌に詠まれた幻の花「あざさ」が町内の至るところで咲き誇ります。可憐
な黄色の花を咲かせる「あざさ」は愛の花であるため、「恋人の聖地」でもある三宅町。
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屏風の清水・・・境内にある、聖徳太子ゆかりの古跡。
聖徳太子がこの地で休息され、従者の持つ弓をとって   この地を打ち掘られると、
冷水がこんこんと湧き出た。
以降、太子がこの地をお通りになるときは、この水を愛飲されたと言い伝えられて
いる。 (屏風の里古跡より)
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白山神社
この神社は、法隆寺に通じる道路と川を挟んで杵築神社と相対する位置にある。
境内に表面扁平な大きい石が半分ほど地下に埋もれたものがある。これが伝説に
いう聖徳太子が橘寺から法隆寺への道中、ここで小休されたと伝える「腰掛石」で
ある。向いの杵築神社には、その情景を描いた絵馬が奉掛されている。
腰掛石
聖徳太子は飛鳥の里から、宮古・伴堂を経て屏風を通り唐院を過ぎ法隆寺に通っ
ておられたとき、屏風の里の白山神社で駒を止め、柳につなぎ「腰掛石」に腰かけ
られたといいつたえられている
聖徳太子が駒をとめて、この地に休息されたゆかりの石が境内にある。
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腰掛石
聖徳太子が駒をとめて、この地に休息されたゆかりの石が境内にある。
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結崎面塚公園
「室町時代のある日のこと、一天にわかにかき曇り、空中から異様な怪音とともに寺川
のほとりに落下物があった。この落下物は、一個の翁の面と一束の葱で、村人は能面
をその場にねんごろに葬り、葱はその地に植えたところ見事に生育し、戦前までに『結
崎ネブカ』として名物になりました。
観世の発祥は、観阿弥三郎清次が、大和の国の山田猿楽(現在の桜井市山田)から、
大和猿楽四座の一つ「結崎座」に加わり、一般大衆にもわかりやすい芸能に変化させ、
座名も「結崎座」から「観世座」となりました。
その後、観阿弥は、結崎に居を定め、世阿弥の出生とともに猿楽から能楽に移行する
中で、室町将軍の庇護のもと、不抜の基礎を築き、特に世阿弥が天才的な芸風を持ち、
三代将軍義満の寵愛を受けました。観世座は観阿弥、世阿弥親子二代の出現によって
能楽完成に偉大な功績を残し、現在の繁栄につながっているといえます。
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道の駅レスティ唐子・鍵へ向かう
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石見鏡作神社
御祭神は、石凝姥命、白鬚神社「白鬚明神」
この地に居住した鏡の鋳造を業とした鏡作部の氏神である。
城下郡の鏡作鄕と黒田鄕にまたがる地域には五つの鏡作神社があり鏡作部の本拠
地でした。そのうち鏡作坐天照御魂神社、鏡作麻気神社、鏡作伊多神社の三社が式
内社として登録されていますが、石見鏡作神社だけは式内社ではありません。
しかし石見鏡作神社は全部の鏡作神社の元社との説もある重要な神社です。
祭神の石凝姥命は天照大神が天岩戸に隠れたとき、天照大神を誘い出すために鏡
を作りました。石凝姥命は瓊瓊杵尊の天孫降臨では、五伴緒の一神として随伴しまし
た。五伴緒とは天児屋命、天太玉命、天鈿女命、玉祖命、石凝姥命のことです。
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石見鏡作神社に隣接する
太神社
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道の駅レスティ唐子・鍵へ向かう
寺川
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道の駅レスティ唐子・鍵(抽選)
道の駅「レスティ唐古・鍵」
田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベントの開催とともに、田原本町
内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多数販売します。また、
1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを
販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメイ
ンに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意しています。
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3Fテラスから見る
唐子・鍵遺跡史跡公園、国道を渡ると直ぐ
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抽選には5名全員が外れ、カフェで休憩して
唐子・鍵遺跡史跡公園へ向かう

唐子・鍵遺跡
唐古・鍵遺跡(からこ・かぎいせき)は、奈良盆地中央部、標高約48メートル前後の沖積
地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡。
現段階の調査で認知されている遺跡面積は約30万平方メートル。規模の大きさのみな
らず、大型建物の跡地や青銅器鋳造炉など工房の跡地が発見され、話題となった。
全国からヒスイや土器などが集まる一方、銅鐸の主要な製造地でもあったと見られ、弥生
時代の日本列島内でも重要な勢力の拠点があった集落ではないかと見られている。
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遠目に楼閣を見て
コースを変えてショートカットして一番近い石見駅へ向かう、歩き疲れた・・・
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馬見丘陵公園の花菖蒲園&紫陽花園-2

6月11日        6月8日・馬見丘陵公園の花菖蒲園&紫陽花園-2
                 馬見丘陵・花菖蒲祭りの始まる前日に
馬見の花菖蒲園で花菖蒲祭りが6月9日~16日開催される、花菖蒲祭りの始まる前日の
朝に家内を連れて行った。考える事は皆一緒か?結構な人出だったが雨の降る前に・・・
花菖蒲園は既に見頃を迎えていた、紫陽花園へも廻って、此処も粗見頃で良かった。
2813歩で約2km歩いて花菖蒲園~下池の亀達~紫陽花園&睡蓮池を見て満足した・・・
花菖蒲園
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菖蒲園の周囲にはキンシバイが咲いて
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此処までは、
馬見丘陵公園の花菖蒲園&紫陽花園-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-11
此処では、続きの もう少し花菖蒲園をみて~
花菖蒲園の残り
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明日9日からの花祭りの準備が続いている・・・
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下池の亀達を見に
下池の亀達
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紫陽花園へ向かう
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コクチナシ
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結びの広場の紫陽花
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紫陽花園
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睡蓮池
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此れで9日~16日の花菖蒲祭りの混雑時に来なくても良い
コクチナシ
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5月28日の大阪の凸凹を歩く-2

6月10日          5月28日の大阪の凸凹を歩く-2
             JRふれあいハイキング 歩程約13㎞
此の日のJRふれあいハイキングには、K場さんと2人で参加し、初めてのパーティー。
コース  JRふれあいハイキング  河内長野歩こう会主催   参加費500円
大阪城公園駅(集合9:45)~寝屋川橋東詰~大阪医療センター~クリスタ長堀~空堀
商店街~空堀どーる商店街~上本町3交差点~真田山公園~天王寺駅(解散15:00)
真田山公園~コース変更して 玉造駅~電車で→ 桃谷駅~コリアタウンへ
つるのはし跡~コリアタウン~御幸森神社~コリアタウン~彌栄神社~桃谷駅へ
此の日の私の万歩計は、コリアタウン入口間違えて26284歩で約19.4km歩いた事に・・ 
大阪城公園駅(集合9:45・スタート)
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城ホール横を通り、京橋口を出て
寝屋川橋東詰
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北大江公園で休憩
大阪医療センター横を通り
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末吉橋西詰から
クリスタ長堀へ入りトイレ休憩
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クリス他長堀を出て末吉橋戻り
空堀商店街へ
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まちゃまち(松屋町)筋
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空堀商店街~空堀どーる商店街へ
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空堀どーる商店街から
上本町3交差点を渡り真田山公園へ
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真田山公園で昼食
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此処までは、
5月28日の大阪の凸凹を歩く-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-10 
続きは、真田山公園~コース変更して 
真田山公園(解散?)
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真田山公園~コース変更して 
玉造駅~電車で→ 桃谷駅へ
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桃谷駅~コリアタウンへ
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つるのはし跡
『日本書紀』仁徳天皇14年の条に、猪甘津(いかいのつ)に小橋(おはし)を作った
記事が見える。記録に残る日本最古の橋で、それは平野川(旧大和川)に架けられ
たものである。名の由来は、鶴が多く集まっていたからとも言われた。また、「津の
橋」がなまったからとも言われている。明治7年、平野川浚渫のとき木橋から石橋に
架け替えられた。そのときの親柱を記念に残し大きな橋跡の碑が建てられた。
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コリアタウン
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御幸森天神宮(みゆきのもりてんじんぐう)
御幸森天神宮は、大阪市生野区(旧摂津国東生郡猪飼野村)にある神社である。
仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命を祀る、猪飼野村の氏神である。
伝承によれば、仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々こ
の地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる。仁徳天皇
崩御の後の反正天皇2年(406年)、天皇の神霊を祀る社が建立され、御幸の祠や
御幸宮と称されたと伝えられている。
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生野コリアタウン(いくのコリアタウン)
生野コリアタウンは大阪市生野区の桃谷にある「御幸通商店街」(御幸通東商店街、
御幸通中央商店会、御幸通商店街の3商店街)とその周辺の通称。公式サイトでも
この呼称が用いられている。「大阪コリアタウン」「猪飼野コリアタウン」「桃谷コリアタ
ウン」などとも呼ばれる。
もともと古代からこの地は渡来人が多数住みついており、旧地名である「猪飼野」の
起源となっている。1910年の日韓併合を経て、1923年に済州島と大阪をつなぐ直行
便「君が代丸」の就航をきっかけに、多くの朝鮮人が労働のために日本へ渡航し、当
時工業地化しつつあった猪飼野周辺に集まってきた。こうして自然と朝鮮市場が誕生
し、それを核に商店街としてスタートしたのもこの頃である。
日本の敗戦後、国に帰る韓国・朝鮮人、新たにやってくる韓国・朝鮮人と入れ替わり
はあるが、この市場を中心に生活し日本最大の在日韓国・朝鮮人の集住地になった。
「コリアタウン」にくれば韓国・朝鮮人にとって必要なものが揃う「地域に密着した商店
街」として発展した。
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彌栄神社
弥栄神社、彌栄神社(いやさかじんじゃ、やえじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオ
を祭神とする祇園信仰の神社。御祭神:素戔嗚尊、仁徳天皇
神祖素盞嗚命を文録年間に熊野巫神社(旧出雲国意宇郡)より分霊奉還した
のがはじまりと旧記にあります。
その当時は牛頭天王社と呼ばれ、創立以来旧木野(この)村の鎮守として崇敬
厚く宮座を設けて奉仕し、明治5(1872)年村社に列せられ、社号もこの時に彌
栄神社と改められました。
明治43(1910)年、氏子協議のうえ大字岡村(現勝山北4丁目)の御館神社を合
祀しました。その御館神社は、旧岡村の生土神でいばらの神と呼ばれ、仁徳天
皇の的殿(まとどの)の旧跡で、現在は彌栄神社の御旅所となっています。
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桃谷駅へ
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5月27日・奥吉野 大滝ダム大雨体験~抜粋編~

6月8日        5月27日・奥吉野 大滝ダム大雨体験~抜粋編~
               自治会 防災訓練(大雨体験)
自治会の会長、副会長含む19名8:50に服部消防支部前に集合して大滝ダムへ向かう、
町のマイクロバスで出発、途中の道の駅、大淀センターでトイレ休憩、
自治会の防災訓練の一貫で大滝ダムの役割と大雨体験を学ぶ&地域住民の懇親の為。
1時間半のバス旅で大滝ダムに到着
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高齢者に交じって
若いお母さんと小学生が2組参加
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大滝ダム ミズモリノヤカタ
メインエベントは、此処で大雨体験をする事
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長靴に履きかえて
カッパを着て、大雨体験
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大雨体験の後は
大滝ダムのビデオを見て、館長さんの話を聞く
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ミズモリヤカタを後にして
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ホテル杉の湯で昼食&温泉
自由時間に大滝ダム周辺散策
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全ての行事?を終えてバスに乗り、演歌を聞きながら帰る
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途中の道の駅でトイレ休憩、演歌を聞きながら約1時間半の楽しいバス旅でした。

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5月26日の西大寺・秋篠寺~平城宮跡へ-2

6月7日      5月26日の西大寺・秋篠寺~平城宮跡へ-2
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約8㎞
此の日は、K場さんS藤さんと3名で参加、おまけとして歩いた平城宮跡朱雀門前広場
で大先輩のN山さん(ボランティアガイドをしている)に偶然に?バッタリ出会った。
コース  近鉄駅フリーハイキング  大和西大寺駅受 付9時半~11時
大和西大寺駅(受付)~西大寺~八幡神社~八所御霊神社~秋篠寺~山稜八幡神社
~神功皇后陵~福松大神~称徳(孝謙)天皇陵~成務天皇陵~日葉酢媛命陵~佐紀
瓢箪山古墳~山上八幡神社~横田福栄堂~平城宮跡・第一次大極殿~コースを変え
て~平城宮跡・東院庭園~朱雀門~朱雀門前広場・いざない館・遣唐使船展示~バス
でJR奈良駅へ。 此の日の私の万歩計は、27154歩で約20km歩いたことに・・・
大和西大寺駅(受付)
知人2名と合流、3名でスタート
西大寺(さいだいじ)
西大寺は、奈良市西大寺芝町にある真言律宗総本山の寺院。奈良時代に孝謙上皇(重
祚して称徳天皇)の発願により、僧・常騰を開山(初代住職)として建立された。南都七大
寺の1つとして奈良時代には壮大な伽藍を誇ったが、平安時代に一時衰退し、鎌倉時代
に叡尊によって復興された。山号は勝宝山[1]。現在の本尊は釈迦如来である。
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八幡神社
もとは、西大寺の鎮守で明治維新の神仏分離によって独立。長承三年(1134)の南寺敷
地図帳案(西大寺文書)には、一条四坊四坪に「西大寺八幡宮供田西小一反山」、五坪に
「八幡宮敷地」とあるので、それ以前から祀られていた。叡尊入寺後の弘安八年(1285)
11月17日に神体を安置(感身学正記)。本殿は室町時代の建物で、国指定重要文化財。
三間社流造。本殿内部の前机三脚にはそれぞれ阿弥陀仏三尊の種子を記し、永禄九年
(1566)の墨書銘がある。
西大寺の行事として知られる大茶盛は延応元年(1239)の正月修正会後に鎮守の八幡
社で叡尊が献茶を参詣人にも振舞ったことに始まるといわれる。
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八所御霊神社へ向う
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八所御霊神社
御祭神:御霊八柱(崇道天皇、伊豫親王、藤原吉子、橘逸勢、文屋宮田麻呂、藤原広嗣、
            吉備大臣、火雷神)
宝亀11年(780)に創建と伝わります。秋篠寺南門の外にあり、早良親王など八柱を祀る。
本殿は宝亀十一年(780)に創建され、保延元年(1135)類焼の厄にあったが、同年再
建された。当初御霊神社と称したが、貞観年間(859~877)八所御霊神社と改称した。
秋篠寺は、称徳天皇の崩御によって即位した光仁天皇によって創建されました。
そしてその後、桓武天皇の手によって七堂伽藍を整えた官寺・秋篠寺が完成されたと考
えられています。
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※「扶桑略記」
「秋篠寺の僧・善珠が、早良親王の亡霊が安殿親王を悩ました時に、般若を転読して其
の病を除いた。善珠はこの功によって延暦16年(797)に僧正に任じられた」
そして、善珠が、この4カ月後の4月に没した時に「皇太子安殿親王後の平城天皇)は善
珠の像を秋篠寺に安置した」という。

光仁天皇が終生、悩まされ続けたのではないかと思える井上内親王と他戸親王の怨霊
の存在です。晩年を向かえ、ますます膨張する祟りへの恐怖、これが秋篠寺建立に駆り
立てたのではないかというものです。
光仁天皇が創建した秋篠寺は桓武天皇に引き継がれますが、引き継いだ桓武天皇も光
仁天皇と同じように怨霊に悩まされ秋篠寺に頼ることになります。
秋篠寺が桓武天皇の怨霊鎮魂に重要な役割を果たしていることが伺え、延暦13年(794)
に平安京遷都が行われ桓武天皇が主導した秋篠寺の伽藍整備がこの頃に完了している。

秋篠寺(あきしのでら)
秋篠寺は、奈良市秋篠町にある寺院。本尊は薬師如来。開基(創立者)は奈良時代の
法相宗の僧・善珠とされている。山号はなし。宗派はもと法相宗と真言宗を兼学し、浄土
宗に属した時期もあるが、現在は単立である。伎芸天像と国宝の本堂で知られる。
寺は奈良市街地の北西、西大寺の北方に位置する。奈良時代の法相宗の僧・善珠の創
建とされ、地元の豪族秋篠氏の氏寺とも言われているが、創建の正確な時期や事情は
わかっていない。宝亀7年(776年)、光仁天皇の勅願により善珠が創建したともいう。
『日本後紀』によれば、延暦25年(806年)に崩御した桓武天皇の五七忌が秋篠寺で行
われたことが見え、天皇家とも関連の深い寺院であったことがわかる。
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山稜八幡神社
御祭神は気長足媛命、品陀和気命、玉依媛命。つまり、神功皇后、応神天皇、玉依媛命。
創建やご由緒は不明ですが、もちろん、明らかに神功皇后陵を意識して創設された神社
です。ここでは、神功皇后は武芸の神、応神天皇は厄除け開運の神、玉依媛命は育児の
神と明確に規定されています。
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神功皇后陵(じんぐうこうごうりょう)・・・五社神古墳(ごさしこふん)
五社神古墳は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾
列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池上陵(さきのたたなみのいけ
のえのみささぎ、狹城盾列池上陵)」として第14代仲哀天皇皇后の神功皇后の陵に治定
されている。
全国では第12位の規模の古墳で、4世紀末(古墳時代中期初頭)頃の築造と推定される。
文久3-4年(1863-1864年)、文久の修陵および神功皇后陵に治定(それ以前は主に日葉
酢媛命陵と伝承)
※盾列陵で奇異
承和10年(843年)、盾列陵で奇異があり、調査の結果、神功皇后陵と成務天皇陵を混同
していたことがわかったという記事が『続日本後紀』にある。後に、「御陵山」と呼ばれてい
た佐紀陵山古墳(現 日葉酢媛陵)が神功皇后陵とみなされるようになり、神功皇后の神話
での事績から安産祈願に霊験ありとして多くの人が参拝していた。
その後、西大寺で「京北班田図」が発見され、これにより神功皇后陵が五社神古墳とされ、
文久3年(1863年)に五社神古墳が神功皇后陵に治定され、現在に踏襲されている。
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※神功皇后(じんぐうこうごう)
神功皇后は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊(おきながたらしひめのみこ
と)・『古事記』では息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)・大帯比売命(おおたら
しひめのみこと)・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛(あめ
のひぼこ)裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母(しょうも)とも呼ばれる。
弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。三韓征伐を指揮した逸話で知られる。

福松大神
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称徳(孝謙)天皇陵・・・佐紀高塚古墳(さきたかつかこふん)
佐紀高塚古墳は、奈良市山陵町(みささぎちょう)にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀
盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「高野陵(たかののみささぎ)」として第48
代称徳天皇(第46代孝謙天皇重祚)の陵に治定されている。
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※第48代称徳天皇(第46代孝謙天皇)
孝謙天皇は、大仏建立に関わった聖武天皇と光明皇后の皇女であり、天平勝宝元年(7
49年)に「孝謙天皇」として即位した後、天平宝字2年(758年)に一度母である光明皇后
の看病を理由に退位して上皇となりますが、その後は藤原仲麻呂の乱に伴い流刑となっ
た淳仁天皇に代わりに重祚することになり、天平宝字8年(764年)から6年程再び「称徳
天皇」として二度在位した経歴を持つ女帝として知られています。
在位中には孝謙天皇時代には藤原仲麻呂を重用しつつ、上皇となって以降、仲麻呂との
対立に伴い道鏡らを重用するようになったことで知られるほか、再び称徳天皇として即位
するきっかけとなった藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)の際には四天王像の造立を発願、
また現在も一大観光スポットとして知られる「西大寺」を創建し、仏教重視の政策を推し進
めたしても知られています。

成務天皇陵(せいむてんのうりょう)・・・佐紀石塚山古墳(さきいしづかやまこふん)
佐紀石塚山古墳は、奈良市山陵町字御陵前にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀
盾列古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭城盾列池後陵(さきのたたなみの
いけじりのみささぎ、狹城盾列池後陵)」として第13代成務天皇の陵に治定されている。
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※成務天皇(せいむてんのう)、
成務天皇は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇。和風諡号は稚足彦尊
(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみ
こと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命
したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。

日葉酢媛命陵(ひばすひめのみことりょう)・・・佐紀陵山古墳(さきみささぎやまこふん)
佐紀陵山古墳は、奈良市山陵町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群を
構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「狭木之寺間陵(さきのてらまのみささ
ぎ、狹木之寺間陵)」として第11代垂仁天皇皇后の日葉酢媛命の陵に治定されている。
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※日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)
日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后である。「日葉酢媛」は『日本書紀』での記述であるが、
同書は「日葉酢根命」、「日葉洲媛命」にも作り、また『古事記』は「氷羽州比売命」、
「比婆須比売命」に作る。父は丹波道主王、母は丹波之河上之麻須郎女。垂仁天皇
との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産む。
『日本書紀』によれば、垂仁天皇の皇后狭穂姫命が同天皇5年に薨じた後、その遺
志により同15年2月甲子(10日)に丹波(後の丹後国を含む広義の丹波国)から後宮
に迎えられ、同年8月壬午(1日)に立后、同32年7月己卯(6日)に薨じたとされる。
またその葬儀に際しては、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群
卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように
進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲さ
れるようになったという。

瓢箪山古墳へ向かう
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佐紀瓢箪山古墳
4世紀後半~5世紀初頭築造の全長96mの前方後円墳。 国指定史跡。佐紀盾列
古墳群に属する。前方部に粘土槨が発見され、琴柱形石製品が出土した。 後円部
の埋葬施設は不明。
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古墳を一周して
此処で昼食を済ませる
此処までは、
5月26日の西大寺・秋篠寺~平城宮跡へ-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-07
此処では、続きの山上八幡神社へ向う~
山上八幡神社へ向う
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山上八幡神社
御祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・八幡大明神(やはたのだいみょう
じん)・春日大明神(かすがのだいみょうじん)
神社の創建自体は、江戸時代に入ってからの延宝5年(1677年)とも言われています
が、その詳しい由来については不詳となっています。しかしながら神社の周辺には中
世に反映した寺院である「超昇寺」、またその周辺を戦国時代にかけて陣地とした藤
原鎌足の末裔とも言われる超昇寺氏の城郭があったことで知られており、超昇寺氏
の信仰を受けていた神社としても知られています。
また境内の北側、社殿左後方にそびえる杉の木は、神社の創建時期とは前後します
が、 天正19年(1591年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵に際してその成功を祈り手植えした
実に由緒ある神木であるとされています。
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横田福栄堂
奈良時代に中国から奈良の都に伝えられた味噌。儒教で言う五徳と言う言葉にな
ぞらえ名付けられた五徳味噌を使い、丁寧に手造りされた奈良銘菓 みそせんべ
いや奈良特産の吉野葛を利用した葛餅など、奈良の素材にこだわった和菓子を作
り続けています。
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平城宮跡へ向かう
此処は佐紀池、この奥、北側に御前池があり・・・さきいけ!おまえいけ! と話題に?
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平城宮跡(第一次大極殿正殿)
朱雀門の真北約800mに堂々とそびえる「大極殿」。正面約44m、側面約20m、地面
より高さ約27m。直径70cmの朱色の柱44本、屋根瓦約9万7000枚を使った平城宮
最大の宮殿であり、その建物は奈良時代の中頃に、一時都とした恭仁(くに)宮に移
築され、山城国の国分寺金堂になりました。当時、天皇の即位式や外国使節との面
会など、国のもっとも重要な儀式のために使われていました。
大極殿復原に際して大きなハードルだったのが、当時の設計図や参考になるような
絵画などが残っていないことでした。そのため、発掘調査で判明している基壇や恭
仁宮の大極殿(国分寺金堂)の跡に残る礎石の状態などから大極殿の大きさ、形を
推定しました。わずかに残る文献や法隆寺金堂、薬師寺東塔など、同時代の寺院建
築も参考にされています。
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コースを変えて
平城宮跡・東院庭園
平城宮は他の日本古代都城の宮殿地区には例のない東の張出し部を持ちます。この
南半は皇太子の宮殿があった場所で、「東宮」あるいは「東院」と呼ばれていました。
その南東端に東西60m、南北60mの池があり、これを中心に構成されている区画が東
院庭園です。
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※朱雀門
平城宮の正門・朱雀門。その前では外国使節の送迎を行ったり、大勢の人達が集まっ
て歌垣などを行ったりし、正月には天皇がこの門まで出向き、新年のお祝いをすること
もありました。朱雀門の左右には高さ5.5mの築地がめぐり、130haの広さの宮城を取り
囲んでいました。

棚田嘉十郎像・・・朱雀門近くに銅像が、旧跡を見守るようにして立っている。
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう)
日本の植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて平城宮の保存
活動を行った。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた。
江戸時代に幕府の役人北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年に奈良県
技官で東京大学名誉教授の関野貞・同奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された。
棚田は、観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、場所を知らず答えることが出来な
かった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡の保存と顕彰に
一生をかけることを決意した。
1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積みに
なっている有様を見て、次のように言って涙を流したという。

「 実に見る影もなき有様。之れを皇居の址と云はれ様か。 」

これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込んでいった。平城宮の啓発のため
に宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした。
また、1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織したほか、1912年3月には
当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。
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朱雀門前広場・いざない館で涼みながら見学・・・
ボランティアガイドをしてる大先輩に出会った。

展示されている遣唐使船を縁覚してバスでJR奈良駅へ向かった
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5月24日のレトロビル巡りと中之島バラ園-2

6月6日     5月24日のレトロビル巡りと中之島バラ園-2
              近鉄ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、久し振りに大人数での参加になった、K場さんM村さんO村さんM吉さんと
5人でワイワイガヤガヤあるいた。
コース  近鉄駅フリーハイキング  大阪上本町駅地上コンコース 9時半~11時
上本町駅~法善寺~千日前~道頓堀~難波神社(なんばじんじゃ)~南御堂~北御
堂~大阪ガスビル~芝川ビル~日本基督教団 浪花教会ビル~栴檀木橋~中央公
会堂~中之島バラ園~難波橋(ライオン橋)~北浜 レトロビル~大阪証券取引所~
伏見ビル~少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)~旧小西家住宅~生駒ビル~此処か
ら1人先に帰り、4名でコメダコーヒで休憩~途中で見逃した新井ビルを見て~コース
を変えて淀屋橋へ、鶏飯電車で1人かえり、3人が地下鉄淀屋橋駅へ。 
此の日の私の万歩計は、21935歩で約16.2km歩いたことに。
志都美駅
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鹿島神社
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下田駅
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上本町駅
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真田幸村緒戦勝利之碑・・・あべの新聞
上本町が大阪冬の陣で真田幸村が緒戦勝利した場所として伝えられている
ことから、「真田幸村緒戦勝利之碑」の石碑を建立した。(2014-10-26)
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千日前
法善寺へ向かう
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法善寺
法善寺(ほうぜんじ)は、大阪市中央区難波にある浄土宗の寺院。
山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂
などがあり、特に水掛不動は有名である。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に
千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来する。
1637年(寛永14年)に山城国宇治郡北山村より現在地に移り、琴雲の開山により
建立された。
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法善寺横丁
法善寺の北側にある細い通り。もとは境内だったことから法善寺裏、法善寺露地など
と呼ばれていた。昭和初期に小説『夫婦善哉』や『法善寺横丁』に登場して有名になり、
横丁の名が定着した。
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千日前~道頓堀
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御堂筋を
5名で歩く
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ビヨウヤナギ(未央柳、美容柳)・・・中国では金糸桃
オトギリソウ科の半落葉低木。別名マルバビヨウヤナギ。ビョウヤナギとも通称する。
中国原産。約300年前に日本に渡来した。半常緑性の小低木で、よく栽培されている。
花期は5-7月頃で、直径5センチ程度の黄色の5枚の花弁のある花を咲かせる。キンシ
バイにも似るが、特に雄蕊が長く多数あり、よく目立つ。雄蕊の基部は5つの束になっ
ている。葉は十字対生する。枝先がやや垂れ下がり葉がヤナギに似ているので、ビヨ
ウヤナギと呼ばれるが、ヤナギの仲間ではない。中国では金糸桃と呼ばれている。
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難波神社(なんばじんじゃ)
摂津国総社として「難波大宮」または「平野神社」と呼ばれていたという。
創建は反正天皇と伝えられ、当初は現在の大阪府松原市に鎮座していた。
天慶6年(943年)に現在の天王寺区上本町に遷座。
慶長2年(1597年) 現在地に遷座。
昭和20年(1945年) 空襲により全焼、昭和49年(1974年)に再建され現在に至る。
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南御堂
難波別院(南御堂)の創建は、今から400年以上前の安土桃山時代の末、1595年
(文禄4)に、本願寺第12代・教如上人(1558~1614)が大坂渡辺の地に「大谷本
願寺」を建立したことに始まります。創建から2年後の1598年(慶長3)に、豊臣秀吉
による大阪城の拡張と、城下の町制改革でなどにより、大谷本願寺は現在の難波別
院のある地へと移転します。また、1602年(慶長7)には、関ヶ原の合戦に勝った徳
川家康によって京都・烏丸七條の地が寄進され、教如上人は大坂から京都へと寺基
を移されます。
教如上人は東本願寺(真宗大谷派の本山・真宗本廟)の建立と共に、大阪の大谷本
願寺の地を「難波御堂(難波別院)」とし、大阪における念仏の中心的な道場とします。
その後も上人はたびたび大阪の地に赴き、お念仏の教えを説き広め、上人亡き後も
難波別院は、宗祖親鸞聖人のみ教えを伝えていく上において今日まで大きな役割を
果たしてきました。
難波別院の境内には、開基である教如上人が大谷本願寺を創建された際、1596
年(文禄5)に鋳造された「大谷本願寺」銘の梵鐘が今も残り、教如上人のご苦労と
その遺徳を伝えています。
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御堂筋を歩く
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北御堂
大阪と本願寺の関係は、発祥から現在に至るまで、切っても切れない相関関係の上
で成立し、発展してきました。そもそも大阪の発祥は、1496(明応5)年に本願寺第
8代蓮如上人(れんにょしょうにん)が、今の大阪城付近に一宇の坊舎(大坂御坊(おお
さかごぼう)を建立されたことに始まり、この大坂御坊を中心に多くの門徒が集まり、
寺内町(じないまち)を形成したことに由来します。
また、「大坂」という地名が世に初めて出る最古の文献は、1498(明応7)年に蓮如
上人が著述された『御文章(ごぶんしょう)』(全国の門弟宛に送られたお手紙)の『大
坂建立章(おおざかこんりゅうしょう)』で、その中に「そもそも、当国摂州東成郡生玉
(とうごくせっしゅうひがしなりのこおりいくたま)の庄内大坂(しょうないおおざか)という
在所(ざいしょ)は…」とあります。
蓮如上人の子、実悟師の『拾塵記』によると当時の大坂は、「虎狼のすみかなり、家
の一もなく畠ばかりなりし所なり」とあり、全く未開の地であったのが、織田信長の『信
長公記』には、「大坂は凡日本一の境地なり、西は蒼海漫々として、日本の地は申す
に及ばず、唐土高麗南蛮の舟、海上に出入りし、五畿七道を集めて、売買利潤富貴
の湊なり」とあり、絶賛するほどの変貌が窺えます。
1532(天文元) 年に本願寺は、細川晴元と交戦し、六角勢(六角定頼)、京勢(日蓮
宗徒)、約3.4万人の攻撃を受け、山科本願寺が焼失されるに至り、翌1533(天文
2)年に御真影様が大坂御坊に御遷座(ごせんざ)(お移り)になり、大坂御坊は本山と
して、「大坂(石山)本願寺」と呼ばれ、その寺内町は10町余りを有した独立した自治
的宗教都市の様相を呈し大いに発展していきました。
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レトロビル
大阪ガスビルディング
巨大な客船を思わせる白亜のガスビルが、御堂筋に面して完成したのは昭和8年3月
の事。その2ヶ月後の5月には、梅田ー心斎橋間に大阪初の地下鉄が開通しました。
瓦屋根の家並みの中に浮かび上がってた時代から、ビルが立ち並ぶビジネス街に大
きく変貌しても、ガスビルは常に御堂筋のランドマークとして多くの人々に愛されて来
ました。平成15編に登録有形文化財に指定されました。
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芝川ビル
NHK連続テレビ小説「マッサン」のエリー達がクラス家の家主「野々村 茂」のモデルと
なった芝川 又四朗氏が建てたビルです。芝川家は江戸時代、唐物貿易の豪商として
知られており、このビルにも竜山石を用いたマヤ・インカ文明を思わせる装飾が施され
ています。平成18年、登録有形文化財に指定されました。
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浪速教会・・・日本基督教団 浪花教会
1877年に設立されたプロテスタント(新教)の教会のひとつです。現在は1941年に
合同した「日本基督教団(にほんきりすときょうだん)」に属しています。日本基督教団
と関係する学校は関西では、同志社、同志社女子、関西学院、神戸女学院、大阪女
学院、梅花学園、清教学園などです。
1877年1月20日に松村診療所で澤山保羅(さわやまぽうろ)と11人の信徒が浪花
公会を設立しました。その当時は教会ではなく、公会という言葉が用いられていまし
た。当日、新島襄牧師などが出席し、日本で最初の按手礼(牧師になる儀式)が澤山
保羅に対して行われました。
初代牧師の澤山保羅(幼名:馬之進)は、1852年に長州吉敷(現・山口市吉敷)に生
まれました。英語を学ぶために神戸に出て、宣教師のダニエル・クロスビー・グリーン
(DCグリーン)と出会います。1872年にアメリカのイリノイ州にあるノースウエスタン
大学予科に留学し、パッカード牧師に神学を学び、1876年に帰国し、松村診療所で
通訳として働きながら、キリスト教伝道の準備をしました。そして、日本で最初の海外
からの援助を受けない「自給」教会が誕生しました。
教会設立の翌年1878年、成瀬仁蔵らと梅花女学校を設立しました。梅本町公会と浪
花公会の信徒の支えによって出来た学校ですので、「梅花」という名前になりました。
教会も学校も、海外の教会からの援助なしに、教会の信徒によって創立する、というこ
とに重きが置かれました。現在もその精神は受け継がれています。
建物は、日本基督教団が設立される(1941年)よりも前から、日本組合教会浪花教会
は存在しており、会衆主義、組合教会の伝統を持っています。  現在の建物は、ヴォー
リズ建築事務所が指導し、竹中工務店が設計・施工したものです。ステンドグラスを通し
て柔らかな光があふれる礼拝堂です。
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栴檀木橋(せんだんきばし)&土佐堀川
栴檀木橋は、大阪市の土佐堀川に架かる、北区中之島と中央区北浜を結ぶ橋。浪速の
名橋50選選定橋。
現在は、1985年(昭和60年)完成の 5径間連続桁橋(ラーメン式鉄筋コンクリート構造)
江戸時代の初期、蔵屋敷のあった中之島と船場の行き来のために架けられたと考えら
れている。明治18年の淀川大洪水で流されてしまい、再び架けられたのは大正3年。
昭和10年に架け替えられ、更に昭和60年に再び架け替えられ、現在に至る。
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此処までは、
5月24日のレトロビル巡りと中之島バラ園-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06
此処では、続きの中央公会堂~
中央公会堂
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※屋根の上の像
屋根には、ローマ神話に登場する商売の神と科学・工芸の神の像があったが、
戦争で供出のため一度なくなり、其の後の復元工事が'99年に始まり2002年9
月に完成し復活、2体の像は、右側がミネルヴァという学問や芸術の女神で、
左はメルキュールという商業の神です。
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中之島バラ園へ入る
手前の木陰で先に昼食を済ませて・・・
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中之島バラ園
都会のオアシスとして親しまれている大阪有数のバラの名所。公園内の240m
の散歩道「バラの小径」やバラ園などに約310品種・3700株のバラが咲き誇り
ます。園内中央には年代を記したプレートと共に1800年代から2000年代迄の
10年ごとに区切られた「パッチワーク花壇」があり、流行の変遷を歩いて知るこ
とが出来ます。
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ライオン橋・・・難波橋
難波橋(なにわばし)は、大阪市の大川に架かる橋。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたとい
われている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置す
る。「浪華橋」とも表記され[2]、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっ
ており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛
文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。
1766年(明和3年)、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋
立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われた。1876年(明治9年)に鉄橋に架
け替えられたが、このときに中之島が上流へ拡張されたため、以降の難波橋は中
之島を跨ぐかたちとなっている。なお、1891年(明治24年)に山崎ノ鼻を含む東端は
中之島公園となった。老朽化が目立ち始めた1975年(昭和50年)に大阪市によって
大改修が施され、現在に至る。
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大阪証券取引所
五代友厚像
大阪証券取引所に建っている五代友厚像は、2004年12月1日、大阪証券取引所の
新ビル完成時に、除幕されたもの。
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の
武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生
まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)の
あった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
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北浜レトロビルディング
明治45年に株仲買商の商館として建造され、第二次世界大戦後は桂隆産業株式
会社の本社社屋として使用されて来ました。平成9年の大規模な保存改修工事を
経て、現在は本格的英国風喫茶室「北浜レトロ」として再生されています。
平成9年、登録有形文化財に指定されました。
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伏見ビル
大正12年竣工当初は澤野ビルジングと称されており、ホテルとして使われていまし
たが、現在はテナントビルとして使用されています。平成14年ににはっ国の登録有
形文化財に登録されました。
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少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
旧社格は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さん、神農さん。
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬
の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者など
の信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を
願う参詣者も多い。
1780年(安永9年)10月、薬種中買仲間の団体組織である伊勢講が、薬の安全と
薬業の繁栄を願うために、京都の五條天神社より少名彦命の分霊を道修町にあっ
た仲間会所(現在の少名彦神社所在地)に勧請し、すでに仲間会所に祀ってあった
神農氏とともに祀ったことを起源とする。
1837年(天保8年)、大塩平八郎の乱で仲間会所が焼失したため、1837年(天保
11年)、仲間会所内に祠堂を設けて祭神を遷座した。
1906年(明治39年)、大阪府より、近隣の神社に祭神を合祀するか、独立した神社
として継続させるかの判断を求める旨の訓令を受け、独立した神社として祭神を護
持していくことに決した。そのときに境内地の拡充、社殿・社務所を新築し、1910年
(明治43年)、正遷宮を斎行するに至った。
1980年(昭和55年)10月、「少彦名神社 鎮座200年」を記念して拝殿・本殿を修復、
社務所を新築し、11月22日に「二百年祭」を斎行した。
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旧小西家住宅
1900年代に建てられた和風の商家であり、その大部分が重要文化財に指定されて
いる。1996年12月20日に主屋、衣装蔵、二階蔵、三階蔵が登録有形文化財に登録
された[2]。また2001年6月15日には、主屋、衣装蔵、二階蔵及び宅地が重要文化財
に指定された。[
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生駒ビルヂング(いこまびるぢんぐ)
生駒ビルヂングは、生駒時計店のビルとして1930年に竣工した。大阪建築界の重鎮・
宗兵蔵の事務所による設計で、スクラッチタイル張りのアール・デコスタイル。 東面の
時計台の下の出窓と丸窓は振り子を模したもの。
平成9年6月12日に登録有形文化財に指定される。
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新井ビル
大正11年に銀行としてこの地に建てられた新井ビルは、現在もテナントビルとして使用
されています。銀行建築らしい正面中央に別柱を配しシンメトリー(左右対称)な古典様
式を残しつつ、モダンで軽やかな雰囲気の佇まいには定評があり、大大阪時代を今に
伝える近代建築のひとつとして、今も多くの人々に愛されています。平成9年には国の
登録有形文化財として指定されました。
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見たことのない
大きな葉のツワブキ
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5月22日の歩こう会・洛西竹林公園散策他-2

6月4日       5月22日の歩こう会・洛西竹林公園散策他-2
               5月度 社友会役員海&歩こう会
5月21日 社友会 役員会
志都美駅
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久宝寺駅~八尾事業所
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役員会を終えて久宝寺駅へ
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5月22日 歩こう会
天気良かったにも係らず参加者は67名と低調、JRのダイヤ乱れの影響??
コ-ス  JR桂川駅  10時半集合  今月から又、桜ライン寄付金集める
JR桂川駅(受付・スタート)~洛西口駅(合流)~竹の径~洛西竹林公園・子供の
広場(昼食+散策)・竹の資料館~寺戸大塚古墳~桓武天皇皇后陵高畠陵~向
日市文化資料館見学(解散)~解散後 阪急東向日駅
此の日の私の万歩計は、17549歩で約12.9km歩いたことに・・・
阪急梅田駅~JR大阪駅乗り換え、一緒に電車乗ってた3名で梅田で反省会?
JR桂川駅
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阪急洛西口駅へ向かう
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阪急洛西口駅前で
合流
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竹の径へ向かう
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竹の径
風がおこす笹音や小鳥のさえずりをBGMに、木もれ日や香りを楽しむ「癒しの散策路」
として親しまれている「竹の径」は、向日市の特産品である良質の筍を生産している向
日丘陵にあります。付近一帯の景観保全等の環境整備を進めるとともに、新たな観光
資源を創造することを目的に、平成12年度から整備を始め、現在総延長は約1,800mに
なります。
道の両脇に立つ竹垣には、竹の枝を約1.5mの高さで束ねて並べた「竹穂垣」を始め、
「古墳垣」「寺戸垣」「物集女垣」「かぐや垣」「来迎寺垣」「深田垣」「海道垣」と計8種類
によって構成されています。その情景は、見わたすかぎり真っ青に澄みきった空に、
竹が割り込むかのようにそそり立ち、いっとき、喧噪からのがれて、はんなりとした時を
過ごせます。
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洛西竹林公園・子供の広場(昼食+散策)
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竹の資料館
庭園&竹林散策、集合写真撮影
京都市洛西竹林公園内にある「竹の資料館」は、和風仕上げの趣ある雰囲気が特徴的
で、京都の伝統的な竹製品を見学できます。展示室・研修室・茶室を備えており、発明王
「エジソン」が約100年前にマダケを利用して作った電球の復元模型や海外の竹、茶筅、
尺八など竹に関する資料がたくさん展示されています。園内には子供の遊び場もあるの
で、小さなお子さま連れでも楽しめます。
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此処までは、
5月22日の歩こう会・洛西竹林公園散策他-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-04
此処では、続きの資料館の庭へ出る~
資料館の庭へ出る
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桓武天皇皇后陵へ向かう
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寺戸大塚古墳(てらどおおつかこふん)
京都府向日市寺戸町芝山にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている
(史跡「乙訓古墳群」のうち)。
向日丘陵古墳群中の1基。築造時期は古墳時代前期中葉とみられている。やや西に傾い
ており、前方、後円ともに竪穴式石室をもつ。
出土した三角縁神獣鏡が椿井大塚山古墳のものと同氾関係にあると見られ、椿井大塚山
古墳の被葬者の支配下にあった者の墓ではないかと言われている。
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桓武天皇皇后陵へ向かう
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桓武天皇皇后陵高畠陵
桓武天皇皇后
藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)は、奈良時代末期の皇妃。第50代桓武天皇の皇后、
第51代平城天皇・第52代嵯峨天皇の生母となった。
父は藤原式家の藤原良継、母は阿倍粳蟲の娘で尚侍兼尚蔵・阿倍古美奈。山部親王の
許に入内し、宝亀5年(774年)8月に小殿親王(後に改名して安殿)を産んだ。
天応元年(781年)4月15日には山部親王が即位して桓武天皇となり、延暦2年(783年)2
月5日には無位から正三位に叙される。2月7日には夫人(ぶにん)となり、4月には皇后に
立てられる。同4年(785年)には安殿親王(後の平城天皇)が立太子される。
延暦5年(786年)には神野親王(後の嵯峨天皇)を産む。同8年(789年)には高志内親王
を産む。同9年(790年)閏3月10日に31歳で崩御し、高畠陵(長岡陵、京都府向日市)に
葬られた。大同元年(806年)には即位した平城天皇により、皇太后を追贈された。『続日
本紀』によると、「后性柔婉にして美姿あり。儀、女則に閑って母儀之徳有り」と記されてお
り、「乙牟漏皇后は美しい方で、温和なお人柄であられた。礼儀正しく、良き母であられた」
という意味である。
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向日市文化資料館へ向かう
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向日市文化資料館見学(解散)
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阪急東向日駅
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5月19日のSGC若草山グリーンキャンペーンー2

6月2日        5月19日のSGC若草山グリーンキャンペーンー2
                   社友会 社会貢献活動
少し肌寒いがさわやかな天候に恵まれた「若草山グリーンキャンペーン」に参加した。  
今年で16年目となる活動で、今回は約200名が参加、子供もたちも数多く参加した
中で社友会からも13名が参加して気持の良い汗を流しました。
立ち上げ当初は、本社と環境事業本部の主催で、私も在職中で立ち上げ時のメンバー
でロゴ入りの黄色のTシャツ等を準備し事務局として参加した事も有り、退職後も出来
る限り参加しようと考えている自分自身にとって懐かしいイベント。
会社代表者、奈良公園管理事務所の方の挨拶の後、ラジオ体操とストレッチをしてか
らススキのポット苗の入った袋を受け取って若草山の斜面を登り、スコップで掘った穴
にススキを植栽し、ペットボトルの水をかける作業をした。このススキが成長して、来年
の若草山山焼きを美しいものにします。1時間半ほどで作業を終わり、記念写真を撮り
終了。若草山の植栽場所では、振り返れば古都奈良が美しく遠くは葛城山や生駒山も
見えてさわやかな風が吹く中で爽やかな汗を流し、楽しく作業が出来た。
帰りに近鉄奈良駅の商店街で4名で昼食、歓談して更にJR奈良駅へ歩いて帰った・・・ 
JR奈良駅に到着、旧駅舎
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近鉄奈良駅に立ち寄り、若草山へ向かう
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左手に氷室神社
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右手に国立博物館
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左手東大寺、ななめ右手に春日大社
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浮雲園地をもうすぐ若草山
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もうすぐ若草山
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水谷茶屋
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若草山の入口に到着
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受付を済ませて
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主催者の挨拶&ラジオ体操
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此処までは、
5月19日のSGC若草山グリーンキャンペーンー1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-02
此処では、続きの若草山の斜面を登る~
ススキ苗ポットの入ったビニール袋を受け取って
若草山の立ち入り禁止区域のフェンスを目指して斜面を登る
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フェンスの直前で振り返って
古都奈良の街や生駒山葛城山、東大寺の大屋根を撮る
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ススキの植栽
ペットボトルの水をかけて
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植栽班は作業を終えて若草山を下る
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青空になって暑くなって来た
ポットやペットボトル等、ごみの回収
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青空だー
若草山を振り返ると片付け作業が未だ続いている
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作業終わって良かった
皆集まってお疲れ様、この後集合写真撮影で全て完了
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氷室神社の睡蓮、奈良公園の鹿
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社友会仲間
”一条”で昼食歓談
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2018年  5月18日の歴史を感じる大阪七坂めぐり-2

6月1日        5月18日の歴史を感じる大阪七坂めぐり-2
                昼飲み会ハイキング 歩程約6㎞
此の日の近鉄駅フリーハイキングは、知人と3名で参加、途中から1人抜けて用事を
済ませて来てから、又合流して3名で歩くと言う、変則ハイキングとなったが・・・i
コース  近鉄駅フリーハイキング 日本橋駅東改札口 受付
日本橋駅東改札口~真言坂~生圀魂神社~大蓮寺(吉本芸人塚・天王寺高等学校
開校の地碑)~浄国寺(バラ園・法念上人御廟・夕霧太夫之墓)~源聖寺坂~口縄坂
~大江神社~愛染坂~清水坂~天神坂~逢坂へ行かずコース変更・・・
天神坂~コース変えて一心寺~茶臼山~天王寺⇒湯処・あべの橋~居酒屋へ
ハイキングは、K場さんM吉さんと3名で、私の万歩計は、18023歩で約13.3km。
銭湯の後、天王寺駅で合流、K場さんM吉さんN西さんA座さんと5名で昼飲み会。
最近の昼飲み会は15:00~17:00 コストダウンして会費2600円での飲み放題・・・
志都美駅
曇ってて二上山と葛城山がみえない
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生圀魂神社の大鳥居
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天王寺七坂めぐり
真言坂(しんごんさか)
生國魂神社の神宮寺であった法案寺をはじめとする生玉十坊が明治の廃仏毀釈迄神
社周辺で栄えていた。うち、神社の北側には医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・
曼陀羅院の六坊があった。すべて真言宗であったので、この坂は真言坂と呼ばれた。
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生圀魂神社
社伝では、神武天皇(初代天皇)の東征の際、天皇が摂津国難波碕(現在の難波宮跡、
大坂城付近)に生島神・足島神を鎮祭したのが創建という。
大阪市中心部、難波宮跡や大坂城(大阪城)から南西方の生玉町に鎮座する。かつては
現在の大坂城の地に鎮座し、中世にはその社地に近接して石山本願寺も建立され繁栄し
たが、石山合戦後の豊臣秀吉による大坂城築城の際に現在地に遷座されている。
この生國魂神社が祭神とする生島神(いくしまのかみ)・足島神(たるしまのかみ)は、国土
の神霊とされる。両神は平安時代に宮中でも常時奉斎されたほか、新天皇の即位儀礼の
1つである難波での八十島祭(やそしままつり)の際にも主神に祀られた重要な神々で、生
國魂神社自体もそれら宮中祭祀と深い関わりを持つとされる。また、同様に大坂城地から
遷座されたという久太郎町の坐摩神社とともに、難波宮との関わりも推測されている。その
後中世・近世を通じても崇敬を受け、戦前の近代社格制度においては最高位の官幣大社
に位置づけられた、大阪の代表的な古社の1つである。
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大蓮寺
文教と芸能の源流、いのちの営みを結ぶ、大蓮寺の伝統の軌跡です。
なにわの名刹・浄土宗大蓮寺は、いまから450 年前の天文19年(1550年)3月5日、
時の将軍足利義晴の三男坊・晴誉上人によって、足利家の大坂祈願所として創建さ
れました。正式な山号は「浄土宗如意珠應山極楽院大蓮寺」。
当時5千坪を有したといわれる大蓮寺は、その頃から大阪屈指の寺院として名高く、
近世には徳川家の祈願所として愛護され、浄土宗別格寺院としての威容を誇りまし
た。境内は東西五町南北四町、塔頭8ヶ寺、直末75ヶ寺を有したといわれます。
明治45年、大阪大火によって境内の一部を焼失。昭和20年3月14日大阪大空襲に
より伽藍を焼失して、戦後再建されました。寛永期造立された梵鐘は総高206cm、市
中第一といわれましたが、戦時中に供出されました。
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浄國寺・・・無衰山淨國寺
浄國寺は、永禄3年(1560)寂蓮社円誉上人が創建した、450年の歴史ある寺院です。
浄土宗の元祖法然上人の御分骨を納めたと伝わる御廟があるほか、江戸後期の俳
人・升屋六兵衛(升六)の墓所、歴史に名を刻む美人「夕霧太夫」の墓所があります。
大阪の名所旧跡・時事・風俗などを記した『浪華百事談』に「順慶町通りより御堂筋の
西を浄國寺町と呼べり」とあり、もとは西区新町、淨國寺町と呼ばれた所に在したお
寺で創建よりほどなくして現在の松屋町沿いの下寺町にうつりました。
本尊の阿弥陀如来像は江戸初期の作と伝わり、説法印といわれる独特の印を結ぶ
仏像は、浄土宗寺院でも珍しいお姿の仏様であります。
境内の裏に広がる森は生魂神社の鎮守の森と合わさり、大阪ミナミの都会のすぐ近
くという立地ながら、背景に豊かな緑を形成しております。
桜をはじめとして多くの花木が植えられ、四季折々の花々が咲く、バラが綺麗でした。
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源聖寺
阿弥陀様をお護りし、法然上人様のみ教えを広めてゆく浄土宗寺院で、創建 されて
より約420年が経ちます。
当寺を建立(こんりゅう)された初代は、深蓮社遠誉上人荷公和尚とおっしゃって、奥州
衣川(岩手県)の出身で、継母の妬みにあい、父の勧めによって常陸国瓜連〈茨城県〉
浄福寺にて出家し、六十歳の時、慶長元年春、諸国行脚に出られ、西成郡寺嶋〈現在
の大阪西区九条あたり〉に草庵を結ばれました。従って、東国より来て行業(ぎょうごう)
〈仏道の修行〉を西海の岸に営んだ故に、その寺名を東営山西岸寺(とうえいざんさい
がんじ)と名付けられました。
初代遠誉上人は、源空上人浄土宗開祖法然上人のみ教えを源とし、吉水の流れを汲
む聖ということから、寺名を「東営山西岸院源聖寺」と改められました。
本堂の外に、救世観音菩薩、法隆寺の夢殿救世観音菩薩を模して造られたそうです。
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源聖寺坂(げんしょうじさか)
天王寺七坂と呼ばれる坂の一つで、坂の名は、坂の上り口北側に源聖寺があることに
由来する。 西側の上り口は下寺町の松屋町筋に通じ、坂を上りきると生國魂神社正門
の少し南、齢延寺と銀山寺の間を通る。道筋は上町台地上で水平となり、東は谷町筋・
生玉南交差点の一つ南の辻へと至る。上り口から途中までは石畳となっているが、途
中から階段状になり、少し東南東に向きを変える。
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齢延寺(れいえんじ)・・・生魂山 齢延寺
天王寺七坂のひとつ源聖寺坂の降り口に、銀山寺と向かい合って建つ寺院です。阿吽
2体の仁王像を納める楼門が見事な寺院で、藤田東湖らの墓所もあるようです。本尊は
大阪市の有形文化財に指定されている定朝様の聖観音像です。
曹洞宗のお寺です。立派な山門に驚きました。柱が何本もあるような門、彫刻も施されて
いて見事な楼門に吸い込まれる様に入りました。バナナに似た植物が気になり和尚さん
に聞いたところバナナだと言う事でした。
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バナナ
花が上向きのバナナを初めて見た
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※地湧金蓮(チヨウキンレン)チャイニーズイエローバナナ、たぶん此れだと思う
地湧金蓮(チヨウキンレン) はバショウ科ムセラ属の常緑多年草である。ムセラ属は
バショウ属から分離したもので、1属1種である。 中国の雲南省からインドシナ半島に
かけて分布し、高山に生える。 名は「地から湧き出た金色の蓮」という意味になる。
漢字では「地涌金蓮」とも書く。 読み方は「チユウキンレン」とするものもあるが、正式名
は「チヨウキンレン」である。 英名はチャイニーズイエローバナナである。
草丈は60~100センチくらいである。 葉は長い楕円形で、芭蕉(バショウ)やバナナに
似ている。花の構造も芭蕉(バショウ)やバナナと同じだが、鮮やかな黄色い苞(花序全
体を包む葉の変形したもの)に特色がある。開花時期はは6~10月くらいである。

口縄坂(くちなわさか)
天王寺七坂のひとつ。「大阪みどりの百選」に選定されている。
「口縄」とは大阪の古い言葉で「蛇」のことであり、坂の下から道を眺めると、起伏が蛇に似
ていることからそう呼ばれるようになったとされている。
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大江神社鳥居が見える
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大江神社の鳥居よこから始まり登りきったところにも大江神社の鳥居が有る
愛染坂(あいぜんさか)
天王寺七坂のひとつ。坂の上に勝鬘院(愛染堂)と大江神社がある。
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大江神社・パワースポット
当大江神社は、上之宮、小儀、土塔、河堀、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と云われ、
四天王寺の鎮守として聖徳太子が祀られたものと伝えられています。当社は、天王寺北村
の産土神(うぶすながみ)で豊受大神を祭祀しています。いつの頃よりか神仏を混淆して毘
沙門天を祀り、乾の社と称して四天王寺の所管となり、境内に神宮寺を建て祭祀も僧徒(四
天王寺東光院神宮寺の別当)が当っていましたが、明治維新後神仏が分離され、慶應三年
今の社名に改められました。社名は大江岸(おおえのきし)に続いた社地であったところから
大江神社となりました。明治四年郷社に列せられ、明治四十年、大道一丁目字土塔の村社、
土塔神社(祭神素戔嗚尊)、上之宮町字上之宮の村社、上之宮神社(祭神欽明天皇、相殿
に大己貴命、少彦名命)、東区安土町二丁目の無格社、男山八幡神社(祭神応神天皇)、
同四十一年、勝山通一丁目字小儀の村社、小儀神社(祭神素戔嗚尊)を合祀しました。先の
戦争にて絵馬堂と神器庫を残しすべて焼失しましたが、昭和三十八年、氏子崇敬者により
本殿、拝殿が復興されました。千八百坪の広い境内には約百三十本もの榎木、楠木等の樹
木が覆い繁り、大阪市の保存樹林の指定を受けています。
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境内の奥に虎が狛虎?として鎮座
タイガースへの応援スポットが有る
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愛染堂・・・勝鬘院(しょうまんいん)
山号は荒陵山。本尊は愛染明王で、愛染堂とも呼ばれる。四天王寺別院、西国愛染十七
霊場・第一番札所、聖徳太子霊跡・第二十九番札所。真言密教勝鬘流根本道場。
この寺は聖徳太子が開いた施薬院に始まると伝えられ、鎌倉時代には鎌倉幕府5代執権・
北条時頼から寺領を寄進されたという。
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此処までは、
5月18日の歴史を感じる大阪七坂めぐり-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-01
続きは、清水坂へ~
左へ清水寺、右へ下るのが清水坂
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清水坂(きよみずさか)
天王寺七坂のひとつ。有栖山清光院(ありすさん せいこういん )清水寺へ登る坂道。
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清水寺
創建の時期や事情については判然としない。もとは有栖寺(うすじ)と称していた。
寛永17年(1640年)に延海阿闍梨(えんかいあじゃり)により中興された。
宗派は天台系の和宗に属する。山号は有栖山であり、詳名は有栖山清光院清水寺
(ありすさん せいこういん きよみずでら)である。和宗総本山・四天王寺支院。宗教
法人としては清光院で登録されている。
大阪市内唯一の天然の滝とされる「玉出の滝」(たまでのたき)があることでも知られて
いる。京都の清水寺を模して建立されたために、新清水寺(しんきよみずでら)とも呼ば
れる。境内の西側の崖に「清水寺舞台」と称するテラスがあり、京都の清水寺を彷彿と
させるが、現在はテラスだけで堂はない。
「玉出の滝」
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清水寺墓地のテラスへ上がる
あべのハルカスと通天閣
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安井神社・・・・真田幸村・かんしずめの井(安井の清水)
安居天満宮ともいう。安居天神、安居神社とも。
創建年は不詳であるが、当社は少彦名神が祭られており、天慶5年(942年)から菅原
道真が祭られるようになったと伝えられている。菅原道真が大宰府に流されるときに、
風待ちのために休息をとった為にその名がついたという伝承がある。
明治に書かれた『大阪けんぶつ』では、当社は菅原道真ではなく少彦名神を祀る神社で
あり、道真が休んだから「安居」となり、近くに天王寺三名水の井戸があることから「安井」
となったと伝えられるが、考証がないため信じられない、としている。
また、大坂夏の陣で真田信繁(幸村)が当神社境内で戦死したと伝えられ、境内に戦死
跡之碑が、他に古来、名水特に七名水として名を馳せた安居の清水(別名:かんしずめ
の井)の址などがある。
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天神坂(てんじんさか)
天王寺七坂の一つ。安居天神へ通じる坂道なのでこのように呼ばれている。この神社
境内は大坂夏の陣に真田幸村が戦死したところで、本堂脇に「真田幸村戦死跡之碑」
がある。また、同境内すぐ下には七名泉の一つ、安居の清水があり「かんしずめの井」
(癇静め)とも呼ばれよく知られている。
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コースを変えて
一心寺へ向かう
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一心寺(いっしんじ)
一心寺は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺であり、正式名称は坂松山高岳
院一心寺(ばんしょうざん こうがくいん いっしんじ)。骨仏の寺としてよく知られている。
天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、緑の多い広い境内を有している。法
然上人二十五霊跡第七番札所。
1185年(文治元年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王
寺の西門の坂のほとりに、四間四面の草庵を結び、「荒陵の新別所」後に「源空庵」と称し
て住んだという。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修した。
当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったという。1596年
(慶長元年)、三河の僧侶であった本誉存牟上人が法然の旧跡であるこの地で一千日の
念仏修法を行い、寺を再興した。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名
になったといわれる。
又、大坂夏の陣の天王寺・岡山の戦いで最前線に立ち討ち死にした本多忠朝の墓所があ
るが、彼は酒を飲んでいたため冬の陣で敗退し家康に叱責され、見返そうと夏の陣で奮戦
したが討ち死にし、死の間際に「酒のために身をあやまる者を救おう」と遺言したといわれ
ることから「酒封じの神」とされるようになった。今でも墓所には禁酒を誓う人が詣でている。
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6月に咲く
ジャカランダ
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※骨仏の寺
盆の間だけの施餓鬼法要が年中無休でできる寺として知られ、また宗旨に関係なく参詣
や納骨を受け入れる寺でもあったため、全国から多くの納骨が集まった。1851年(嘉永
4年)に遺骨数万体を集めて最初の大きな骨仏(阿弥陀仏)を作り、1887年(明治20年)
以後10年ごとに集まった納骨で骨仏を作っている。
太平洋戦争期の大空襲で戦前の分は焼失したが、戦後1947年(昭和22年)から骨仏作り
を再開(この際、空襲で焼失した戦前分の骨仏の残骸をかきあつめて第七期骨仏として完
成)、現在も年中無休で年2万ほどの法要と納骨を受け入れ、10年分をあわせて骨仏が作
られている。現在は第七期から第十三期(2007年(平成19年)開眼。1997年(平成9年)か
ら2006年(平成18年)末まで)の骨仏が安置されている。

茶臼山・・・茶臼山公園 茶臼山古墳
茶臼山古墳(ちゃうすやまこふん)は、大阪市天王寺区茶臼山町にある前方後円墳。
大阪府指定史跡に指定されている。
古墳の周囲一帯は天王寺公園となっており、この古墳も公園の一部として遊歩道が整備
されている。公園本体との間には河底池(かわぞこいけ・こそこいけ、通称ちゃぶいけとも
言う)があるが、これは788年(延暦7年)に和気清麻呂が、大和川や河内湖の排水と水運
のために上町台地をここで開削しようとして失敗した跡地とも言われる。和気橋もある。
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和気橋・川底池
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てんしば(天王寺公園)で昼食
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湯処・あべの橋へ向かう
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湯処・あべの橋・・・キューズモール裏手にある銭湯
天然温泉浴槽有り・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
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※『天然温泉テルメ龍宮』
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・のこわばり・打ち身
    ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
    ・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病

JR天王寺駅の待ち合わせ場所へ向かう
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居酒屋・甘太郎
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飲み会解散後の
カラオケ無しで早く帰れたので家の近所の・・・
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