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5月24日のレトロビル巡りと中之島バラ園-2

6月6日     5月24日のレトロビル巡りと中之島バラ園-2
              近鉄ハイキング 歩程約10㎞
此の日は、久し振りに大人数での参加になった、K場さんM村さんO村さんM吉さんと
5人でワイワイガヤガヤあるいた。
コース  近鉄駅フリーハイキング  大阪上本町駅地上コンコース 9時半~11時
上本町駅~法善寺~千日前~道頓堀~難波神社(なんばじんじゃ)~南御堂~北御
堂~大阪ガスビル~芝川ビル~日本基督教団 浪花教会ビル~栴檀木橋~中央公
会堂~中之島バラ園~難波橋(ライオン橋)~北浜 レトロビル~大阪証券取引所~
伏見ビル~少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)~旧小西家住宅~生駒ビル~此処か
ら1人先に帰り、4名でコメダコーヒで休憩~途中で見逃した新井ビルを見て~コース
を変えて淀屋橋へ、鶏飯電車で1人かえり、3人が地下鉄淀屋橋駅へ。 
此の日の私の万歩計は、21935歩で約16.2km歩いたことに。
志都美駅
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鹿島神社
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下田駅
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上本町駅
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真田幸村緒戦勝利之碑・・・あべの新聞
上本町が大阪冬の陣で真田幸村が緒戦勝利した場所として伝えられている
ことから、「真田幸村緒戦勝利之碑」の石碑を建立した。(2014-10-26)
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千日前
法善寺へ向かう
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法善寺
法善寺(ほうぜんじ)は、大阪市中央区難波にある浄土宗の寺院。
山号は天龍山。本尊は阿弥陀如来。そのほか水掛不動(西向不動尊)や金毘羅堂
などがあり、特に水掛不動は有名である。当寺院は千日念仏を行ったことから俗に
千日寺と呼ばれ、千日前は当寺院の門前に由来する。
1637年(寛永14年)に山城国宇治郡北山村より現在地に移り、琴雲の開山により
建立された。
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法善寺横丁
法善寺の北側にある細い通り。もとは境内だったことから法善寺裏、法善寺露地など
と呼ばれていた。昭和初期に小説『夫婦善哉』や『法善寺横丁』に登場して有名になり、
横丁の名が定着した。
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千日前~道頓堀
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御堂筋を
5名で歩く
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ビヨウヤナギ(未央柳、美容柳)・・・中国では金糸桃
オトギリソウ科の半落葉低木。別名マルバビヨウヤナギ。ビョウヤナギとも通称する。
中国原産。約300年前に日本に渡来した。半常緑性の小低木で、よく栽培されている。
花期は5-7月頃で、直径5センチ程度の黄色の5枚の花弁のある花を咲かせる。キンシ
バイにも似るが、特に雄蕊が長く多数あり、よく目立つ。雄蕊の基部は5つの束になっ
ている。葉は十字対生する。枝先がやや垂れ下がり葉がヤナギに似ているので、ビヨ
ウヤナギと呼ばれるが、ヤナギの仲間ではない。中国では金糸桃と呼ばれている。
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難波神社(なんばじんじゃ)
摂津国総社として「難波大宮」または「平野神社」と呼ばれていたという。
創建は反正天皇と伝えられ、当初は現在の大阪府松原市に鎮座していた。
天慶6年(943年)に現在の天王寺区上本町に遷座。
慶長2年(1597年) 現在地に遷座。
昭和20年(1945年) 空襲により全焼、昭和49年(1974年)に再建され現在に至る。
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南御堂
難波別院(南御堂)の創建は、今から400年以上前の安土桃山時代の末、1595年
(文禄4)に、本願寺第12代・教如上人(1558~1614)が大坂渡辺の地に「大谷本
願寺」を建立したことに始まります。創建から2年後の1598年(慶長3)に、豊臣秀吉
による大阪城の拡張と、城下の町制改革でなどにより、大谷本願寺は現在の難波別
院のある地へと移転します。また、1602年(慶長7)には、関ヶ原の合戦に勝った徳
川家康によって京都・烏丸七條の地が寄進され、教如上人は大坂から京都へと寺基
を移されます。
教如上人は東本願寺(真宗大谷派の本山・真宗本廟)の建立と共に、大阪の大谷本
願寺の地を「難波御堂(難波別院)」とし、大阪における念仏の中心的な道場とします。
その後も上人はたびたび大阪の地に赴き、お念仏の教えを説き広め、上人亡き後も
難波別院は、宗祖親鸞聖人のみ教えを伝えていく上において今日まで大きな役割を
果たしてきました。
難波別院の境内には、開基である教如上人が大谷本願寺を創建された際、1596
年(文禄5)に鋳造された「大谷本願寺」銘の梵鐘が今も残り、教如上人のご苦労と
その遺徳を伝えています。
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御堂筋を歩く
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北御堂
大阪と本願寺の関係は、発祥から現在に至るまで、切っても切れない相関関係の上
で成立し、発展してきました。そもそも大阪の発祥は、1496(明応5)年に本願寺第
8代蓮如上人(れんにょしょうにん)が、今の大阪城付近に一宇の坊舎(大坂御坊(おお
さかごぼう)を建立されたことに始まり、この大坂御坊を中心に多くの門徒が集まり、
寺内町(じないまち)を形成したことに由来します。
また、「大坂」という地名が世に初めて出る最古の文献は、1498(明応7)年に蓮如
上人が著述された『御文章(ごぶんしょう)』(全国の門弟宛に送られたお手紙)の『大
坂建立章(おおざかこんりゅうしょう)』で、その中に「そもそも、当国摂州東成郡生玉
(とうごくせっしゅうひがしなりのこおりいくたま)の庄内大坂(しょうないおおざか)という
在所(ざいしょ)は…」とあります。
蓮如上人の子、実悟師の『拾塵記』によると当時の大坂は、「虎狼のすみかなり、家
の一もなく畠ばかりなりし所なり」とあり、全く未開の地であったのが、織田信長の『信
長公記』には、「大坂は凡日本一の境地なり、西は蒼海漫々として、日本の地は申す
に及ばず、唐土高麗南蛮の舟、海上に出入りし、五畿七道を集めて、売買利潤富貴
の湊なり」とあり、絶賛するほどの変貌が窺えます。
1532(天文元) 年に本願寺は、細川晴元と交戦し、六角勢(六角定頼)、京勢(日蓮
宗徒)、約3.4万人の攻撃を受け、山科本願寺が焼失されるに至り、翌1533(天文
2)年に御真影様が大坂御坊に御遷座(ごせんざ)(お移り)になり、大坂御坊は本山と
して、「大坂(石山)本願寺」と呼ばれ、その寺内町は10町余りを有した独立した自治
的宗教都市の様相を呈し大いに発展していきました。
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レトロビル
大阪ガスビルディング
巨大な客船を思わせる白亜のガスビルが、御堂筋に面して完成したのは昭和8年3月
の事。その2ヶ月後の5月には、梅田ー心斎橋間に大阪初の地下鉄が開通しました。
瓦屋根の家並みの中に浮かび上がってた時代から、ビルが立ち並ぶビジネス街に大
きく変貌しても、ガスビルは常に御堂筋のランドマークとして多くの人々に愛されて来
ました。平成15編に登録有形文化財に指定されました。
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芝川ビル
NHK連続テレビ小説「マッサン」のエリー達がクラス家の家主「野々村 茂」のモデルと
なった芝川 又四朗氏が建てたビルです。芝川家は江戸時代、唐物貿易の豪商として
知られており、このビルにも竜山石を用いたマヤ・インカ文明を思わせる装飾が施され
ています。平成18年、登録有形文化財に指定されました。
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浪速教会・・・日本基督教団 浪花教会
1877年に設立されたプロテスタント(新教)の教会のひとつです。現在は1941年に
合同した「日本基督教団(にほんきりすときょうだん)」に属しています。日本基督教団
と関係する学校は関西では、同志社、同志社女子、関西学院、神戸女学院、大阪女
学院、梅花学園、清教学園などです。
1877年1月20日に松村診療所で澤山保羅(さわやまぽうろ)と11人の信徒が浪花
公会を設立しました。その当時は教会ではなく、公会という言葉が用いられていまし
た。当日、新島襄牧師などが出席し、日本で最初の按手礼(牧師になる儀式)が澤山
保羅に対して行われました。
初代牧師の澤山保羅(幼名:馬之進)は、1852年に長州吉敷(現・山口市吉敷)に生
まれました。英語を学ぶために神戸に出て、宣教師のダニエル・クロスビー・グリーン
(DCグリーン)と出会います。1872年にアメリカのイリノイ州にあるノースウエスタン
大学予科に留学し、パッカード牧師に神学を学び、1876年に帰国し、松村診療所で
通訳として働きながら、キリスト教伝道の準備をしました。そして、日本で最初の海外
からの援助を受けない「自給」教会が誕生しました。
教会設立の翌年1878年、成瀬仁蔵らと梅花女学校を設立しました。梅本町公会と浪
花公会の信徒の支えによって出来た学校ですので、「梅花」という名前になりました。
教会も学校も、海外の教会からの援助なしに、教会の信徒によって創立する、というこ
とに重きが置かれました。現在もその精神は受け継がれています。
建物は、日本基督教団が設立される(1941年)よりも前から、日本組合教会浪花教会
は存在しており、会衆主義、組合教会の伝統を持っています。  現在の建物は、ヴォー
リズ建築事務所が指導し、竹中工務店が設計・施工したものです。ステンドグラスを通し
て柔らかな光があふれる礼拝堂です。
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栴檀木橋(せんだんきばし)&土佐堀川
栴檀木橋は、大阪市の土佐堀川に架かる、北区中之島と中央区北浜を結ぶ橋。浪速の
名橋50選選定橋。
現在は、1985年(昭和60年)完成の 5径間連続桁橋(ラーメン式鉄筋コンクリート構造)
江戸時代の初期、蔵屋敷のあった中之島と船場の行き来のために架けられたと考えら
れている。明治18年の淀川大洪水で流されてしまい、再び架けられたのは大正3年。
昭和10年に架け替えられ、更に昭和60年に再び架け替えられ、現在に至る。
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此処までは、
5月24日のレトロビル巡りと中之島バラ園-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-06-06
此処では、続きの中央公会堂~
中央公会堂
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※屋根の上の像
屋根には、ローマ神話に登場する商売の神と科学・工芸の神の像があったが、
戦争で供出のため一度なくなり、其の後の復元工事が'99年に始まり2002年9
月に完成し復活、2体の像は、右側がミネルヴァという学問や芸術の女神で、
左はメルキュールという商業の神です。
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中之島バラ園へ入る
手前の木陰で先に昼食を済ませて・・・
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中之島バラ園
都会のオアシスとして親しまれている大阪有数のバラの名所。公園内の240m
の散歩道「バラの小径」やバラ園などに約310品種・3700株のバラが咲き誇り
ます。園内中央には年代を記したプレートと共に1800年代から2000年代迄の
10年ごとに区切られた「パッチワーク花壇」があり、流行の変遷を歩いて知るこ
とが出来ます。
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ライオン橋・・・難波橋
難波橋(なにわばし)は、大阪市の大川に架かる橋。
難波橋辺りの最初の橋は、元をたどると704年ごろに行基によって架けられたとい
われている。天神橋、天満橋と共に浪華三大橋と称され、最も西(下流)に位置す
る。「浪華橋」とも表記され[2]、明治末期まで堺筋の一筋西の難波橋筋に架かっ
ており、橋の長さが108間(約207m)もの大型の反り橋だったという。1661年(寛
文元年)天神橋とともに幕府が管理する公儀橋とされた。
1766年(明和3年)、山崎ノ鼻と呼ばれる中之島東端の新地が難波橋の近くまで埋
立造成され、難波橋からの眺めは絶景と言われた。1876年(明治9年)に鉄橋に架
け替えられたが、このときに中之島が上流へ拡張されたため、以降の難波橋は中
之島を跨ぐかたちとなっている。なお、1891年(明治24年)に山崎ノ鼻を含む東端は
中之島公園となった。老朽化が目立ち始めた1975年(昭和50年)に大阪市によって
大改修が施され、現在に至る。
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大阪証券取引所
五代友厚像
大阪証券取引所に建っている五代友厚像は、2004年12月1日、大阪証券取引所の
新ビル完成時に、除幕されたもの。
五代 友厚(ごだい ともあつ)は、江戸時代末期から明治時代中期にかけての日本の
武士(薩摩藩士)、実業家。薩摩国鹿児島城下長田町城ヶ谷(現鹿児島市長田町)生
まれ。大阪経済界の重鎮の一人。当時、「まさに瓦解に及ばんとする萌し」(五代)の
あった大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図った。
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北浜レトロビルディング
明治45年に株仲買商の商館として建造され、第二次世界大戦後は桂隆産業株式
会社の本社社屋として使用されて来ました。平成9年の大規模な保存改修工事を
経て、現在は本格的英国風喫茶室「北浜レトロ」として再生されています。
平成9年、登録有形文化財に指定されました。
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伏見ビル
大正12年竣工当初は澤野ビルジングと称されており、ホテルとして使われていまし
たが、現在はテナントビルとして使用されています。平成14年ににはっ国の登録有
形文化財に登録されました。
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少彦名神社(すくなひこなじんじゃ)
旧社格は無格社。別称として、道修町の神農(しんのう)さん、神農さん。
祭神は薬・医療・温泉・国土開発・醸造・交易の神であるが、少彦名神社では、薬
の神として健康増進、交易の神として商売繁盛の神徳があるとされている。
医薬にゆかりのある祭神を祀っていることから、医薬業に携わる会社・関係者など
の信仰を集めている。また、病気平癒・健康祈願や医薬業関連の資格試験合格を
願う参詣者も多い。
1780年(安永9年)10月、薬種中買仲間の団体組織である伊勢講が、薬の安全と
薬業の繁栄を願うために、京都の五條天神社より少名彦命の分霊を道修町にあっ
た仲間会所(現在の少名彦神社所在地)に勧請し、すでに仲間会所に祀ってあった
神農氏とともに祀ったことを起源とする。
1837年(天保8年)、大塩平八郎の乱で仲間会所が焼失したため、1837年(天保
11年)、仲間会所内に祠堂を設けて祭神を遷座した。
1906年(明治39年)、大阪府より、近隣の神社に祭神を合祀するか、独立した神社
として継続させるかの判断を求める旨の訓令を受け、独立した神社として祭神を護
持していくことに決した。そのときに境内地の拡充、社殿・社務所を新築し、1910年
(明治43年)、正遷宮を斎行するに至った。
1980年(昭和55年)10月、「少彦名神社 鎮座200年」を記念して拝殿・本殿を修復、
社務所を新築し、11月22日に「二百年祭」を斎行した。
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旧小西家住宅
1900年代に建てられた和風の商家であり、その大部分が重要文化財に指定されて
いる。1996年12月20日に主屋、衣装蔵、二階蔵、三階蔵が登録有形文化財に登録
された[2]。また2001年6月15日には、主屋、衣装蔵、二階蔵及び宅地が重要文化財
に指定された。[
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生駒ビルヂング(いこまびるぢんぐ)
生駒ビルヂングは、生駒時計店のビルとして1930年に竣工した。大阪建築界の重鎮・
宗兵蔵の事務所による設計で、スクラッチタイル張りのアール・デコスタイル。 東面の
時計台の下の出窓と丸窓は振り子を模したもの。
平成9年6月12日に登録有形文化財に指定される。
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新井ビル
大正11年に銀行としてこの地に建てられた新井ビルは、現在もテナントビルとして使用
されています。銀行建築らしい正面中央に別柱を配しシンメトリー(左右対称)な古典様
式を残しつつ、モダンで軽やかな雰囲気の佇まいには定評があり、大大阪時代を今に
伝える近代建築のひとつとして、今も多くの人々に愛されています。平成9年には国の
登録有形文化財として指定されました。
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見たことのない
大きな葉のツワブキ
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