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1月14日の新春!奈良の初歩き-2

1月20日        1月14日の新春!奈良の初歩き-2
             近鉄駅フリーハイキング 歩程約7㎞
此の日は知人と3人で参加、私はJR奈良駅から歩いて15分、近鉄奈良駅東改札口
へまわり、知人2人と10時に合流して、奈良の初歩きへスタート・・・
コース  近鉄駅フリーハイキング 近鉄奈良駅東改札 受付 9時半~11時
近鉄奈良駅(受付)~漢国神社&林神社~率川神社~猿田彦神社~御霊神社~十
輪院~瑜伽神社~天神社~鷺池&浮見堂~高畑駐車場(トイレ休憩)~若宮十五社
巡り(紀伊神社・元春日枚岡神社遥拝所・伊勢神宮遥拝所・雨宮神社・宗像神社・
春日明神・金龍神社・夫婦大国社・若宮社等)~春日大社~奈良公園~氷室神社~
奈良県庁屋上(昼食)&コーヒー~近鉄奈良駅(ゴール)⇒バスでJR奈良駅へ戻っ
た。此の日は天気も良く、私の万歩計は、21179歩で約15.6km歩いたことに・・・
JR奈良駅
旧奈良駅駅舎(観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用
されていました。  日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣
工され、その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた
和洋折衷の荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考し
て考案したそうです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重
です。ところが平成13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が
新駅に移ったことにより、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を
望む声や、文化的価値を踏まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。
駅舎をレールと鉄の棒(ころ)による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平
成21年(2009)年に観光案内所として生まれ変わったのです。.
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浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行
延と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元
2年(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がな
かったが、楠木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法
名を授かり、第7世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用い
るようになったという。また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜
った。11世行心の代、享禄3年(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村
に移転し、また永禄2年(1559年)12世行春の際に、しばらく九条の里に移ってい
たという。この頃より九条山と号するようになった。また天正19年(1591年)、
行春は石山合戦の際の忠節を顕如上人から讃えられ、御染筆にて「淨教寺」の号を
賜り、石山本山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、現
在地へ移転した。
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近鉄奈良駅(受付)~
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漢國神社(かんごうじんじゃ)&林神社
漢國神社は、式内小社(論社)、旧社格は県社。祭神は、園神(そのかみ)として
大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。延喜式神名帳で宮
中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請で
あると社伝では伝える。推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤
(オオミワノキミ シラツツミ)が園神を祀ったのに始まると伝える。その後、養
老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神二座を相殿として合祀したという。
かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称していたが、韓神の韓が漢に、
園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。貞観元年(85
9年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神としたと
社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾している。
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境内社として林神社がある
境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)
に中国から来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、
饅頭の祖・林浄因が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖
神の田道間守を合祀し、饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。
林浄因の命日である4月19日には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」
が行われ、全国各地の菓子業者が神前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝
者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわれる。また、林家から出た碩学、林宗二
の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点として9月15日、印刷・出
版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、巨石を伏せた饅頭
塚もある。
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率川神社(いさがわじんじゃ)
率川神社は、大神神社の境外摂社で、正式名称を率川坐大神御子神社といい、また子
守明神とも呼ばれる。『延喜式神名帳』に「率川坐大神神御子神社 三座」と記載され
る式内小社。推古天皇元年(593年)2月3日、大三輪君白堤が勅命により奉斎したと
され、奈良市最古の神社という。仁寿2年(852年)、文徳天皇の代に従五位下を授け
られ、神封6戸(左京4戸、丹後国2戸)を与えられている。治承4年(1180年)12月、
平重衡の乱によって社殿が消失。中世以降は春日若宮神官により管理され、興福寺と
のつながりが大きかった。そのため、中世期の遷宮記録などは、『大乗院寺社雑事
記』に度々記録されている。近世には春日大社の大宮外院11社の中にあったが、18
77年(明治10年)3月、内務省達により大神神社摂社率川坐大神御子神社と定められ
た。本殿中央に御子神(媛蹈韛五十鈴姫命)が祀られ、父母神(西に御父神・狭井
大神、東に御母神・玉櫛姫命)が両脇によりそうような姿で鎮座していることより、
古くから「子守明神」とたたえられ、安産、育児等の神として篤い信仰がよせられ
ている。南辺を流れる率川は、よって子守川との俗称もある。
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猿田彦神社(道祖神社)
猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)は、道祖神社とも呼ばれる。
平城天皇の御代に元興寺境内に創祀されたと伝わる。宝徳2年(1450年)元興寺の
大火後、再々の火難に類焼し、現在の小祠となった。一説には、橘奈良麻呂の乱で
無実の罪で獄死した道祖王の怨霊を恐れ、祀られたのが始めともいう。往古より道
祖神、賽神・妻神、開運の神として近在の信仰を集め、商売繁盛、開運招福、良縁
・安産の神として名高い。古歌に、本社に願をかけた『村のよめ 道祖神に 願をか
け』(明和年間)というものがある。
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御霊神社
御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。南都御霊神
社・木比御霊とも呼ばれる。元興寺五重塔跡の南西に鎮座し、井上皇后・他戸親王
等八所大神を祀っている。西紀寺町の崇道天皇社とともに南都二大御霊社とされる。
現五條市の宇智郡霊安寺から延暦19年(800年)に勧請され、御霊会が行われてい
た。かつては元興寺南大門前にあり、その門前は井上町と呼ばれる。 元興寺古図に
は南大門脇に神輿舎が描かれている。『大乗院寺社雑事記』では元興寺御霊社と記
され、文明15年(1483年)9月13日の条には、『今日元興寺御霊祭也、頭人高畠郷
ニ在之云々、此社ハ御霊八所之内、藤原之左上臣時平公云々』とみえる。 『南都
名所集には吉備真備以下の八所御霊を祀ると記され、「八重桜」にも元興寺鎮守と
して吉備大臣を祀ったとある。
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※崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)は、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
紀寺天王とも呼ばれ、かつては璉珹寺(紀寺)の鎮守として祀られた。同寺東
北に鎮座。薬師堂町の御霊神社とともに南都二大御霊社とされる。平城天皇の
大同元年(806年)の草創と伝わる。祭神の早良親王は、天応元年(781年)皇
太子となったが、藤原種継暗殺に連座した疑いを受け延暦4年(785年)に廃嫡
された。淡路国に配流の途上、49歳で薨去。淡路国にて葬られたが、怨霊を鎮
めるために崇道天皇の諡号を追贈し、御骨は大和国八島陵に改葬し、また本社
の祭神として祀ったとされる。五條市の藤井家に蔵される長禄2年(1458年)
の「霊安寺御霊大明神略縁起私記」によると、『又奈良ノ南里ノ紀寺ノ天王ト
申スモ、崇道天皇ニテマシマスナリ』とあり、怨霊を鎮める為に祀った御霊神
社の一つである。南都八所御霊の一座として御霊会が行われる。「大乗院寺社
雑事記」の応仁2年(1468年)10月15日の条には、春日大社の末社であり本地
は弥勒菩薩であると記されている。

十輪院(じゅうりんいん)
十輪院は、奈良市十輪院町にある真言宗醍醐派の寺院である。山号は雨宝山。
本尊は石造の地蔵菩薩。開基(創立者)は朝野魚養と伝える。江戸・明治期の
町並みが残る奈良町の一角に位置する。元は大寺院だった元興寺の別院とされ、
寺伝によると奈良時代に右大臣・吉備真備の長男で日中の混血 児とされる朝
野宿禰魚養(あさののすくねなかい)が、元正天皇の旧殿を拝領し創建したと
伝わる。その後、弘仁年間には弘法大師が留錫したという。朝野魚養は能書
(書道の名人)とされ、空海の書の師ともいうが、伝記のはっきりしない人
物である。十輪院については、『大和名所記(和州旧跡幽考)』のような近
世の地誌類には弘法大師(空海)の創建とも伝え、創建の正確な時期や事情
については不明である。
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瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)
平城遷都により明日香の地より遷座の地。元宮(明日香)に対して今宮(平城)
と言う。飛鳥坐神社は『出雲国造神賀詞』によれば、飛鳥の神奈備に祭られて
いた大己貴命の娘の賀夜奈留美命を祭神としている。従って当所の祭神は賀夜
奈留美命であった。現在は摂社として飛鳥神並社が鎮座。
摂社飛鳥神並社 瑜伽大神の和魂を祀る。次に、興福寺の大乗院の発議で、備
前国(岡山県)から瑜伽第権現を勧請し、手置帆負神と彦狹知神を祭った。そ
の後、再度の興福寺の大乗院の発議を以て、宇迦御魂大神を祀ることになった。
奈良十六景の中の「瑜伽山の桜」「瑜伽山の紅葉」と二ヶ所も選ばれている。
鎮座している山を瑜伽山と言うようだ。拝殿まで石段を相当数登ると大和国中
を見渡せる遮るもののない景色が現れる。飛鳥まで見えるかどうかは別。神社
の名前が特徴的である。「瑜伽」とは仏教用語で、「中世呼吸と精神の合一を
はかる「ヨガ」の語源ともいわれ、平安後期に興福寺の大乗院が創建され、そ
の守護神として篤く信仰されて、この名前がついたという。境内には2つの歌
碑がある。階段の中腹にあるのが、江戸時代に藤原良材が詠んだ歌の桜楓歌碑。
  春は又花にとひこん瑜伽の山 けふのもみぢのかへさ惜しみて
古来この地は桜と紅葉の名所であったそうだ。紅葉狩りに来た作者は見事な紅
葉を惜しみつつ、春にまた来て花見をしたいと詠んでいる。
階段を上りきり、本殿の右側にある歌碑は、大伴坂上郎女の歌が刻まれた万葉
歌碑である。ふる里の飛鳥はあれど青丹よし 平城の明日香を見らくしよしも
1300年の昔、平城遷都で奈良にやってきた官人たちは、昔の都である飛鳥に望
郷の感を抱いていた。当時の元興寺周辺(今の高畑町の辺り)の雰囲気が飛鳥
に似ていたという。そこでこの辺りは「平城(なら)の飛鳥」と呼ばれるよう
になったそうだ。今も小学校の名前など地名にその名残を残している。
万葉歌碑の横には「飛鳥の御井」と呼ばれる井戸があり、これまで一度も水が
枯れたことがないという。この辺りは水のきれいな土地で近くには酒蔵もある。
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天神社
略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮
護の社、興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、
この神は手間天神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にて
まてんじんと呼ばれた。後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようにな
った。社伝によると、道真が祀られたのは平安時代、白河天皇の御世であった
という。嘉吉元年(1441年)5月6日、猿楽が執り行われた。享保五年(1720
年)10月24日夜、天満宮が焼失し、同6年5月に造替されている。
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浮見堂へ向かう
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鷺池&浮見堂
浮見堂
奈良公園・鷺池に浮かぶ檜皮葺き(ひわだぶき)、八角堂形式(六角形)のお堂 です。
水面に写る姿が美しく、水辺の憩いの場となっています。現在の浮見堂は、旧
浮見堂が老朽化したために、平成3年から平成6年にかけての3年間の修復工
事 によって、その美しさを今によみがえらせました。 ...
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高畑駐車場(トイレ)~
此処までは、
1月14日の新春!奈良の初歩き-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-01-20
此の続きは、紀伊神社へ向う~
紀伊神社へ向う
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紀伊神社・・・
近世「奥の院」と称されていたこの御社の主祭神五十猛命様は素盞鳴命様の御
子神で、紀伊の国へ樹木の種をもたらした樹神とされています。また境内の南
端に御鎮座する当社の手前には、二つに割れた大石があります。これは鎌倉時
代の記録にも見られる「伊勢遥拝石」で、この間に向けばちょうど伊勢の神宮
の方角にあたることから、遥かにお伊勢様をお参りする場所であります。 鎌倉
以降盛んになる伊勢信仰の名残と思われますが、もともとは磐座の一つとも考
えられています。
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伊勢神宮遥拝所
御祭神: 天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおかみ)様(内宮)、豊受
大御神(とようけのおおみかみ)様(外宮)天地の恵みに感謝する所
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宗像神社
御祭神: 市杵島姫命(いちきしまひめみこと)様
諸芸発達をお守りくださる、七福神の弁天様とも伝えられる神様で天河弁財天
と伝えられています
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元春日 枚岡神社遥拝所
御祭神: 天児屋根命(あめのこやねのみこと)様、 比売神(ひめがみ)様
延命長寿の神様
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金龍神社
御祭神: 金龍大神(きんりゅうおおかみ)様
開運財運をお守りくださる神様。後醍醐天皇ゆかりのお宮です。
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佐良気神社(さらけじんじゃ)
御祭神: 蛭子(ひるこのかみ)神様(えびす神様)
商売繁盛、交渉成立をお守りくださる神様
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三十八所神社(さんじゅうはっしょじんじゃ)
御祭神:伊弉諾尊(いざなぎのみこと)様、伊弉冊尊(いざなみのみこと)様、
神日本磐余彦命(かむやまといわれひこのみこと)様
正しい勇気と力をお授けくださる神様
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若宮15社めぐり
若宮15社巡りは、若宮神社を中心とする春日大社の摂社・末社の15社に
祈願するもの。夫婦大國社で受付をして玉串札を受取り、15社に札を納め
ながら巡ります。 春日大社若宮神社、第1番・若宮神社、第2番・三輪神社、
第3番・兵主神社、第4番・南宮神社、第5番・広瀬神社、第6番・葛城神
社、第7番・三十八所神社、第8番・佐良気神社、第9番・春日明神遥拝所、
第10番・宗像神社、第11番・紀伊神社、第12番・伊勢神宮 遥拝所、
第13番・元春日牧岡神社遥拝所、第14番・金龍神社、第15番・夫婦大
國社。
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夫婦大国社
夫婦大國社(めおとだいこくしゃ)の祭神は、大国主命(おおくにぬしのみこと)
と、その妻・須勢理姫命( すせりひめのみこと)。夫婦円満、良縁、福運の御利
益で知られている。若宮15社めぐりの15番納札社。
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若宮神社
若宮神社の祭神「天押雲根命」(あめのおしくもねのみこと)は、春日大社の
第三殿天児屋根命と第四殿比売神の御子神。本殿は1135年(保延元年)の
創建で重要文化財。若宮15社めぐりの1番納札社。正しい知恵をお授けくだ
さる神様
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春日大社へ向かう
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春日大社
奈良時代の初め、平城京鎮護のために茨城県鹿島神宮の武甕槌命を御蓋山の山頂
に祀ったのが起こりとされています。神護景雲2年(768)称徳天皇の勅命に
より、現在の場所に社殿を造営し千葉県香取神宮から経津主命、大阪府枚岡神社
から天児屋根命、比売神をあわせて祀りました。平安時代になると皇族や貴族の
春日詣もさかんとなり、20年ごとの式年造替の確立に伴い、本殿以下各社殿は
現在のような規模になりました。また中世以降になると武家や庶民にも信仰がひ
ろまり、全国各地に3000社を超える分社がつくられるまでになりました。
“万燈籠”で知られるさまざまな形の釣燈籠、石燈籠の多くは庶民の寄進によるも
のだということからも、庶民信仰の深さを伺い知ることができます。毎年2月
節分の日と8月14・15日にすべての燈籠に火を入れる“万燈籠”の行事が行な
われ、その幻想的な美しさに、多くの参拝客が訪れます。
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参道
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奈良公園
ムクロジの大木の中に竹が今年は6本に・・・
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氷室神社(ひむろじんじゃ)
氷室神社は、奈良市にある神社。式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料
供進社。祭神は、闘鶏稲置大山主命・大鷦鷯命・額田大仲彦命。
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』に
も散見される。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐
に氷神を奉祀し(下津岩根社)、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平
城京へ献氷させる制度が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の
勅祭が興され、以降毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を納めた。
奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続したが、平安遷都後は廃止され、貞
観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地に奉遷され、左右2神を併
せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)とされている。
以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、興福寺
の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われた
が、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される
形になっている。
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奈良県庁屋上(昼食)
屋上庭園のツワブキ&屋上から五重の搭
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コーヒータイム~近鉄奈良駅

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