8月3日の「のせでん第一木曜ハイキング」・妙見口駅-2
8月7日 8月3日の「のせでん第一木曜ハイキング」・妙見口駅-2
能勢電ハイキング 山歩き 歩程約12㎞
初挑戦!のせでん第一木曜ハイキング 山歩きに挑戦 雨天中止 歩程約12㎞
阪急&のせでんハイキング 能勢電鉄 妙見口駅前スタート 9時半~10時受付
コース
能勢電鉄妙見口駅~黒川公民館~出野三角点~ありなしの道~野間の大けやき
~能勢けやきの里~天王山神社~大堂越~妙見口駅
何時もの街中のハイキングとは異な急な坂道の登り下りで大変だったが風があり、
結構涼しかった?? 此の日の参加者 430人 夏休みのせいかお子さん達も?
標高200mの妙見口駅から標高366mの出野(しゅつの)三角点越えだと思い参加
したがどうしてどうして更に標高450mの大堂越(おおどうこえ)もコースに有った・・
この日の私の万歩計は、25523歩で約17.1km、山歩きは私には向いていない。
もう二度とこの様な山歩きには参加しない、と思うのだが風景の魅力に負け失敗・・
妙見口駅前の広場に参加者が長蛇の列、スタート
観光案内書所~役所前に花折街道の・・・
※能勢妙見山は日蓮宗の霊場、北極星信仰の始まり
その昔、妙見山がまだ為楽山と呼ばれていた頃、星の王様がこの山に降りてきたと
いう言い伝えがあります。時は天平勝宝年中(750年頃)村人達は行基菩薩に請い、
その山頂に北辰星をお祀りしたのが当地の北極星信仰の始まりと伝えられます。
多田満仲公の妙見菩薩像が祀られる
時は下り平安時代。清和源氏の鼻祖 源(多田)満仲公は厚い妙見信仰を持ってお
り、寛和2年(986年)邸宅内にお祀りしていた鎮宅霊符神像(妙見大菩薩像の別称)
を当地へ遷座されたといわれております。
以後、その長子で大江山の鬼退治で有名な頼光はじめ代々に妙見信仰が受け継が
れていきました。頼光の子にあたる頼国の時、長元年中(AD1028〜1037)に能勢に
移住し、以来能勢を氏としたと伝えられ、当地の妙見信仰は能勢氏によって守られて
ゆきました。
本能寺の変 ー そして備前国岡山の城下へ
能勢頼次は名前を三宅助十郎と変えて逃げ、能勢氏の先祖の寄進によって建てられ
た妙勝寺という日蓮宗のお寺に落ち着きます。
関が原の戦いから能勢氏再興へ
ある時、家康が京都の実相寺(現在の南区上鳥羽)という日蓮宗寺院で休憩した時の
こと、実相寺の住職が能勢頼次の弟であったことで、頼次は家康に召し抱えられること
になり、やがて慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで能勢頼次は徳川軍として大きい戦功
を立てて、家康からかつての能勢氏の領地を与えられます。
能勢頼次の日乾上人への帰依 ー 眞如寺の始まり
能勢頼次が秀吉軍に攻められ落ち延びて19年、備前の妙勝寺で「南無妙法蓮華経」
のお題目を唱えて能勢氏再興を願い、それが実現したことで仏への感謝の念が大きく
ふくらみ、もっと法華経の信仰を深めたいという想いにかられ、日乾上人の説法を聞く
ことになります。
※日乾上人という人
日乾上人は、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の法主(ほっす=住職)になられた高
徳の僧で、その法話を聞き感動した頼次は、即座に日乾上人に帰依(自分の身も心も
すべてを捧げて信じること)します。そして広大な山屋敷を寄進し、ここに住んでさらに
教えを説いて欲しいと願い出たことが眞如寺の始まりです。
「鎮宅霊符神」を法華経のご守護神「妙見大菩薩」として祀る
日乾上人は能勢氏の家鎮として古くから祀られてきた妙見大菩薩を法華勧請し法華経
のご守護神とし、さらに武運長久を願って武具甲冑を身につけ剣を手にした妙見大菩
薩のご尊像を日乾上人自ら彫刻して授与し、これを能勢の領地が一望できる為楽山の
山頂(大空寺趾)に祀りました。これ以後、為楽山は妙見山と称されるようになりました。
能勢地方の日蓮宗=能勢法華が成立 ー 東京別院の建立
以後、日乾上人は能勢頼次の外護のもとに次々と能勢一帯の神社・寺院を日蓮宗に改
宗していきます。こうして能勢地方の日蓮宗=能勢法華が成立していきました。
能勢頼直の代には、江戸の下町本所に下屋敷を賜り、ここに妙見大菩薩のご分体を祀
りましたところ多くの信仰を集め、親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信
仰を得ており、今も妙見山の東京別院として賑わっています。
花折街道
能勢妙見山山麓、池田、川西から妙見山へと続くこの道は明治中期に開通した。
「花折街道」の名前の由来は、街道の両側に花が溢れ咲いていたからとも、人々
が花を手折りながら歩いて行ったからとも云われていたからだそうです。
吉川八幡神社
源頼仲(満仲の4代目の子孫)が冶歴年間(1065~1069)吉川在住のおりに創建
した神社。元は高代寺の統括下にあったが、明治の神仏分離で独立。「応神天皇」
を祀る宇佐八幡宮の末社、天照社、多賀社、弁財天、稲荷社の末社を祀っている。
シイの木の北限(天然記念物)となる木立は豊能町の保護樹林第1号に指定され
ている。
黒川いこいのガーデン
黒川公民館(トイレ休憩)へ
黒川公民館~出野三角点へ向かう
ありなしの道
出野三角点へ向かう
ようやく到達
出野三角点、366m此処からはしばらく下り・・・
此処までは、
8月3日の「のせでん第一木曜ハイキング」・妙見口駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-08-07
此処では、此の続きの、野間の大けやきへ向かう~
「のせでん第一木曜ハイキング」・妙見口駅-1 として詳細を掲載します。
野間の大けやき
国指定天然記念物の「野間の大ケヤキ」です。説明板では、樹齢1000年、幹周14m、
樹高/30m、ケヤキとしては全国で4番目の巨樹とのこと。
環境省のデータでは「幹周11.95m/樹高25m」となっています。いずれにしてもケヤキ
としては全国でも屈指の巨樹です。大阪府の巨樹としては第2位の巨樹です。
説明板によれば、この大ケヤキのある地はかって「蟻無宮」とよばれた神社の境内で
あったそうです。そしてこの大ケヤキはその神社の御神木であったと考えられていま
す。神社は鎌倉時代中期の承久2年(1220年)の創始と伝えられており、明治に至り
野間神社に合祀されたそうです。伝承では、里人は大ケヤキの春先に出る新芽の出
具合でその年の豊凶を占ったそうです。
能勢けやきの里
野間川沿いに天王山神社へ向かう
円珠寺(えんじゅじ)
能勢町にある日蓮宗寺院。慶長6年(1601年)寂照院日乾が開山。山号は龍淵山。
天王山神社
小休止、此れから林道をまた登る
大堂越へ向かう
大堂越 標高450m?
疲れた!此処からは急な下り・・・
妙見ケーブル駅へ向かう
妙見ケーブル駅
妙見口駅迄1km
妙見口駅
おまけ
甘く美味しい、奄美のパッションフルーツ
能勢電ハイキング 山歩き 歩程約12㎞
初挑戦!のせでん第一木曜ハイキング 山歩きに挑戦 雨天中止 歩程約12㎞
阪急&のせでんハイキング 能勢電鉄 妙見口駅前スタート 9時半~10時受付
コース
能勢電鉄妙見口駅~黒川公民館~出野三角点~ありなしの道~野間の大けやき
~能勢けやきの里~天王山神社~大堂越~妙見口駅
何時もの街中のハイキングとは異な急な坂道の登り下りで大変だったが風があり、
結構涼しかった?? 此の日の参加者 430人 夏休みのせいかお子さん達も?
標高200mの妙見口駅から標高366mの出野(しゅつの)三角点越えだと思い参加
したがどうしてどうして更に標高450mの大堂越(おおどうこえ)もコースに有った・・
この日の私の万歩計は、25523歩で約17.1km、山歩きは私には向いていない。
もう二度とこの様な山歩きには参加しない、と思うのだが風景の魅力に負け失敗・・
妙見口駅前の広場に参加者が長蛇の列、スタート
観光案内書所~役所前に花折街道の・・・
※能勢妙見山は日蓮宗の霊場、北極星信仰の始まり
その昔、妙見山がまだ為楽山と呼ばれていた頃、星の王様がこの山に降りてきたと
いう言い伝えがあります。時は天平勝宝年中(750年頃)村人達は行基菩薩に請い、
その山頂に北辰星をお祀りしたのが当地の北極星信仰の始まりと伝えられます。
多田満仲公の妙見菩薩像が祀られる
時は下り平安時代。清和源氏の鼻祖 源(多田)満仲公は厚い妙見信仰を持ってお
り、寛和2年(986年)邸宅内にお祀りしていた鎮宅霊符神像(妙見大菩薩像の別称)
を当地へ遷座されたといわれております。
以後、その長子で大江山の鬼退治で有名な頼光はじめ代々に妙見信仰が受け継が
れていきました。頼光の子にあたる頼国の時、長元年中(AD1028〜1037)に能勢に
移住し、以来能勢を氏としたと伝えられ、当地の妙見信仰は能勢氏によって守られて
ゆきました。
本能寺の変 ー そして備前国岡山の城下へ
能勢頼次は名前を三宅助十郎と変えて逃げ、能勢氏の先祖の寄進によって建てられ
た妙勝寺という日蓮宗のお寺に落ち着きます。
関が原の戦いから能勢氏再興へ
ある時、家康が京都の実相寺(現在の南区上鳥羽)という日蓮宗寺院で休憩した時の
こと、実相寺の住職が能勢頼次の弟であったことで、頼次は家康に召し抱えられること
になり、やがて慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで能勢頼次は徳川軍として大きい戦功
を立てて、家康からかつての能勢氏の領地を与えられます。
能勢頼次の日乾上人への帰依 ー 眞如寺の始まり
能勢頼次が秀吉軍に攻められ落ち延びて19年、備前の妙勝寺で「南無妙法蓮華経」
のお題目を唱えて能勢氏再興を願い、それが実現したことで仏への感謝の念が大きく
ふくらみ、もっと法華経の信仰を深めたいという想いにかられ、日乾上人の説法を聞く
ことになります。
※日乾上人という人
日乾上人は、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の法主(ほっす=住職)になられた高
徳の僧で、その法話を聞き感動した頼次は、即座に日乾上人に帰依(自分の身も心も
すべてを捧げて信じること)します。そして広大な山屋敷を寄進し、ここに住んでさらに
教えを説いて欲しいと願い出たことが眞如寺の始まりです。
「鎮宅霊符神」を法華経のご守護神「妙見大菩薩」として祀る
日乾上人は能勢氏の家鎮として古くから祀られてきた妙見大菩薩を法華勧請し法華経
のご守護神とし、さらに武運長久を願って武具甲冑を身につけ剣を手にした妙見大菩
薩のご尊像を日乾上人自ら彫刻して授与し、これを能勢の領地が一望できる為楽山の
山頂(大空寺趾)に祀りました。これ以後、為楽山は妙見山と称されるようになりました。
能勢地方の日蓮宗=能勢法華が成立 ー 東京別院の建立
以後、日乾上人は能勢頼次の外護のもとに次々と能勢一帯の神社・寺院を日蓮宗に改
宗していきます。こうして能勢地方の日蓮宗=能勢法華が成立していきました。
能勢頼直の代には、江戸の下町本所に下屋敷を賜り、ここに妙見大菩薩のご分体を祀
りましたところ多くの信仰を集め、親子鷹でおなじみの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信
仰を得ており、今も妙見山の東京別院として賑わっています。
花折街道
能勢妙見山山麓、池田、川西から妙見山へと続くこの道は明治中期に開通した。
「花折街道」の名前の由来は、街道の両側に花が溢れ咲いていたからとも、人々
が花を手折りながら歩いて行ったからとも云われていたからだそうです。
吉川八幡神社
源頼仲(満仲の4代目の子孫)が冶歴年間(1065~1069)吉川在住のおりに創建
した神社。元は高代寺の統括下にあったが、明治の神仏分離で独立。「応神天皇」
を祀る宇佐八幡宮の末社、天照社、多賀社、弁財天、稲荷社の末社を祀っている。
シイの木の北限(天然記念物)となる木立は豊能町の保護樹林第1号に指定され
ている。
黒川いこいのガーデン
黒川公民館(トイレ休憩)へ
黒川公民館~出野三角点へ向かう
ありなしの道
出野三角点へ向かう
ようやく到達
出野三角点、366m此処からはしばらく下り・・・
此処までは、
8月3日の「のせでん第一木曜ハイキング」・妙見口駅-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-08-07
此処では、此の続きの、野間の大けやきへ向かう~
「のせでん第一木曜ハイキング」・妙見口駅-1 として詳細を掲載します。
野間の大けやき
国指定天然記念物の「野間の大ケヤキ」です。説明板では、樹齢1000年、幹周14m、
樹高/30m、ケヤキとしては全国で4番目の巨樹とのこと。
環境省のデータでは「幹周11.95m/樹高25m」となっています。いずれにしてもケヤキ
としては全国でも屈指の巨樹です。大阪府の巨樹としては第2位の巨樹です。
説明板によれば、この大ケヤキのある地はかって「蟻無宮」とよばれた神社の境内で
あったそうです。そしてこの大ケヤキはその神社の御神木であったと考えられていま
す。神社は鎌倉時代中期の承久2年(1220年)の創始と伝えられており、明治に至り
野間神社に合祀されたそうです。伝承では、里人は大ケヤキの春先に出る新芽の出
具合でその年の豊凶を占ったそうです。
能勢けやきの里
野間川沿いに天王山神社へ向かう
円珠寺(えんじゅじ)
能勢町にある日蓮宗寺院。慶長6年(1601年)寂照院日乾が開山。山号は龍淵山。
天王山神社
小休止、此れから林道をまた登る
大堂越へ向かう
大堂越 標高450m?
疲れた!此処からは急な下り・・・
妙見ケーブル駅へ向かう
妙見ケーブル駅
妙見口駅迄1km
妙見口駅
おまけ
甘く美味しい、奄美のパッションフルーツ