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9月22日の昼飲み会ハイキング・今川駅~2

9月26日      9月22日の昼飲み会ハイキング・今川駅~2
              今川駅~湯処・あべの橋へ 約8km
此の日は、15:00~17:00、阿倍野の居酒屋で月1回の昼飲み会を設定している日・・・
ハイキング参加者は、私を含めて3人、近鉄今川駅~阿倍野のキューズモールの裏の
湯処・あべの橋へ歩いて、風呂で汗を流して昼飲み会の待ち合わせ場所へ集合する。
此の日は曇り空、午後はあめの予報、雨が降る迄に阿倍野へ帰れる予定だったのが、
午前中に雨が降り出して、雨の中で弁当を食べる訳にもいかず、止む無く中華料理店
でサービスランチを食べる羽目になり、昼飲み会ハイキングを開催して初めての雨?・・・
コース    此の日の私の万歩計は、19000歩で約10.5km歩いた事に・・・
今川駅(集合)~今川緑道~白鷺公園~大念佛寺~杭全神社・宇賀神社~平野郷環濠
跡~JR平野駅~平野川大橋~東部市場~生中橋~生野本通り商店街~生野八坂神
社~生野本通り商店街~源ケ橋交差点~寺田町駅~南河堀交差点~JR陸橋~近鉄
庚申口~阿倍野キューズモール~湯処・あべの橋(ゴール・風呂で汗を流して休憩)

予定の14:50 JR天王寺駅待ち合わせ場所551蓬莱前で昼飲み会メンバーと合流

大念佛寺~杭全神社へ行く途中から雨がポツリポツリ、平野川大橋~東部市場で小雨、
生中橋を渡り本通り商店街に入るとアーケード街なので八坂神社の所でのみ傘が必要。
源ケ橋交差点のアーケード出口でも雨は降っており此れから先の公園での昼食は無理、
源ケ橋交差点ちかくのチュウか料理店でサービスランチを食べ、キューズモールへ・・・
昼飲み会の二次会に、久し振りにカラオケ(2ヶ月ぶり)にも行き、それでも19時迄で・・・
今川駅~今川緑道
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今川緑道
戦前は漆並木で有名な「漆堤」の名称がありました。
正徳5年(1715)付け城蓮寺村の堤奉行宛恐書(オソレガキ)の中に、「うるし堤」の美し
さを述べる文言があるので、その頃に既に漆が広く植えられていたことがわかります。
しかし、戦前の今川に残されていた漆は僅かなもので、西除川沿いにある矢田7丁目
の阿麻美許曽神社や松原市の布忍神社境内や、駒川沿いの鷹合神社境内にも川沿
いに漆の木が植えられていたことが確認できるので、漆は地場産業として、また川堤
の補強策としても、今川堤に限らず、広く植えられていたことが分かります。 今川の本
漆は、戦中の燃料不足に困った住人達が堤の樹木を盗伐し、漆にまで手を付けたの
で、その全てが消滅しましたが、今も、一部では漆を植えているところもあり、昔年の
紅葉を楽しませてくれます。
ただ、現在川沿いの所々に見られる櫨(ハゼ)の木は漆と似ていますが、樹液を分泌せ
ず、造膜性や刺激性がなく、異なった性質の樹木です。
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白鷺公園~大念佛寺
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大念佛寺・・・大念佛寺のHPより引用
大治2年(1127年)、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った
際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創
建したのが始まり。 平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門
の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、
元禄期(1700年頃)に本山として体 裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
本堂は、大阪府下最大の木造建築で、国登録の有形文化財に指定されています。
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大念佛寺~杭全神社・宇賀神社
杭全神社
貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂
上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。以降、建久
元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には熊野三所権現
(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の
勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。明治になって現在の社名に改まった。日本
で唯一連歌所が残っており、連歌会は明治以降廃れていたが、1987年に復活させ、
現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。1999年からはインターネット
連歌が始まった。初代の連歌所は室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼かれ
た。現存するのは1708年(宝永5年)に再建されたもので、大阪市指定文化財に指定
されている。
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宇賀神社
杭全神社の摂社で市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)をお祭りしている神社。
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此処までは、
9月22日の昼飲み会ハイキング・今川駅~1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-25-2 
続きは、宇賀神社~平野郷環濠跡~
杭全神社の参道に平野環濠跡の碑を発見?
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平野郷環濠跡
平野の環濠は、いつ頃掘られたものか不明であるが、戦国時代の動乱の時代に自衛
と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割をもってつくられたものと考えられ
る。町の周囲には堤を築きその外に濠を、さらに堤と濠というように二重に築かれてい
たところもあり、濠が平野川ともつながっていたので舟運もひらけ、繁栄の基礎ともなっ
た。また、町の出入口13の門(平野郷樋尻口門跡)から街道が各地に通じ、平野は水
陸両方の交通の要衝でもあった。尚河骨池(ここのいけ)口付近には船溜りがあり、平
野川を上下する柏原船の発着で賑わった。
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平野郷環濠跡~JR平野駅前~平野川大橋
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平野川
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平野川大橋~東部市場前~生中橋~生野本通り商店街
どりー夢 生野本通り商店街入り口へ入る
源ケ橋の入口には、キャラクター<しょーたくん> 聖徳太子の子孫という?絵が・・
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生野八坂神社~生野本通り商店街~源ケ橋交差点
生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字
林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありま
すが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様とし
て崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、
境内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠
なる努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八
坂神社』の認証を受け、『生野の祇園様』として今日に至っています。
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良い言葉を見つけた
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生野本通り商店街
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生野本通り商店街を抜ける
生野本通商店街のキャラクター<しょーたくん> 聖徳太子の子孫ということです。
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※源ケ橋交差点
源ケ橋交差点の付近、ここには、千年以前の昔から「猫間川」がありました。南から
流れてきた水が、北の旧淀川に合流していてのです。
さて、このあたりに、古い伝説があります。
200年も昔、江戸は、文化と言われる頃のことです。「猫間川」の渡し守をしている
「源」という悪党がいました。通行人から暴力で金品をまきあげきあげて生活をして
いたのです。或る日、例のように、一人の旅人からみぐるみ剥いで殺してしまいまし
た。ところが、この人が、長年行方を捜していた、我が子だったのです。さすがの悪
党の「源」も深く悲しんで悔やみました。思い悩んだ末、ついに罪滅ぼしをしようと決
意します。自分の身代をすべてなげうち、「猫間川」に橋を架けることにしたのです。
この橋は、すごい橋でした。それは香木に使われる「伽羅」で出来ていたのです。
この香り高い伽羅香木の橋は、源さんの悔いを表して、あまりあるものでした。人々
は、善人になった「源さん」に因んで、「源ケ橋」と名づけて呼んだのでした。

中華料理店でランチ~JR寺田町駅~南河堀交差点

源ケ橋交差点を渡り
南河堀交差点~JR陸橋~近鉄庚申口~キューズモールへ
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湯処・あべの橋
湯処 あべの橋・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 大阪市港区2丁目3番33号  深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
    ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進
    ・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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居酒屋&カラオケ
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9月20日の近所の散歩コース-2

9月25日       9月20日の近所の散歩コース-2
                10716歩で約7.1km
久し振りに家内と一緒に買い物がてらに近所の散歩コースを歩いてみた・・・
家を出て高速道路下のトンネルを潜り裏道を廻って滝川を渡り、花屋の前を
滝川台の小学校の前を通り、介護老人ホームの前へ出て、大型商業施設の
横道をハナミズキの色付き具合を観察しながら、ハナミズキ並木を食品スー
パ-へ向かう、途中の24時間食品スーパーで小休止、スーパの前の道路の
のヤシの実の匂いに魅かれて道路の反対側に渡り、ヤシの木と落ちた香ば
しい実を撮って、滝川を渡り食品スーパーで買い物の前へ出て滝川沿いの
遊歩道を通って図書館の近くまで来て、家内は其のまま滝川沿いの遊歩道を
歩いて自宅へ向い、私は左折れして交番所の前へ出て近道??の坂越えで
自宅へ向う事にした、食品スーパーで買い物した荷物が負担になり近道を・・・
高速道路の裏道で
毎年咲く朝顔?田圃の稲も色付いて
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滝川を渡る所で
此れから向かう場所の曇り空を1枚
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花やの角の琉球朝顔
今年も変わりなく綺麗な色で咲いている
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小学校の正門前の道路
ハート型の雑草の刈りこみと色々な花が咲いている
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介護老人ホームの前を通り
ハナミズキも少し色付いて道路沿いの花壇は花盛り
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大型商業施設の横を通り食品スーパーへ向かう
交差点まえのこんもりとした葛に花が咲いていた
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交差点を渡り、ハナミズキ並木は未だ続く
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此処からは、田圃の向こうに
二上山が見えるのだが曇り空で此の状態、カメラも調子悪い?
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ハナミズキは少し色付いて来た
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此処までは、
9月20日の近所の散歩コース-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-25
続きは、
24時間スーパーの前の道路のヤシの木から
大きなヤシの木が2本、2本目のヤシの木の
根本の方に黄色の実が落ちていてものすごく香ばしい・・・
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ハナミズキの色付き具合は・・・
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滝川を渡り、食品スーパーで買い物
滝川沿いの遊歩道を歩いて自宅へ向う
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川面に白い点々が、良く見ると川の中の藻に
花が咲いて花が水面から顔を出している、此のカメラでは?
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虹の湯の看板の
周囲にキバナコスモスが・・・
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遊歩道を図書館の前迄歩いて、此処で家内と別れて、
家内は滝川の遊歩道を其のまま歩き、私は左折れしてショートカットで帰る
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おまけ
我家の駐車場の日除けの琉球朝顔が3輪咲いていた
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裏庭の彼岸花も咲き始めて・・・
鉢植えの沢キキョウ&沢キキョウとルドベキアとコリウス
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9月15日の元薬師寺跡のホテイアオイ-2

9月16日         9月15日の元薬師寺跡のホテイアオイ-2
                  藤原宮跡資料室駐車場~約2km
このひは家内と2人で車で出かけてみました。
元薬師寺跡に一番近い藤原宮跡内の駐車場は開いて無かったので香久山の麓の
飛鳥文化財研究所藤原宮跡資料室の駐車場に車を入れて元薬師寺跡のホテイア
オイを撮って来た、ほぼ満開状態で朝から天気も良く丁度良い鑑賞日和だった・・・
コース   藤原宮跡資料室駐車場へ車を入れて
藤原宮跡朱雀大路跡~飛騨町を通り~飛鳥川を渡り~元薬師寺跡へ約2km~
飛鳥川を渡り~飛騨町~藤原宮跡朱雀大路跡~藤原宮跡資料室駐車場へ
朱雀大路跡から藤原宮跡と耳成山
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飛鳥川を渡る
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元薬師寺跡 東塔跡周辺のホテイアオイ
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右奥は元薬師寺本堂跡
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左奥は畝傍山
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元薬師寺跡 西塔跡周辺のホテイアオイ
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真ん中奥は畝傍山、彼岸花もそろそろ?
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こんもりとした木は東塔跡
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真ん中奥は畝傍山
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バックは本堂跡
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バックは東塔跡
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バックは西塔跡&駐車場
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此処までは、
9月15日の元薬師寺跡のホテイアオイ-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-16-1
続きは、左奥は畝傍山~
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左奥は本堂跡、真ん中は東塔跡
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左側が東塔跡で右奥が西塔跡
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駐車場横のキバナコスモス
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右側が西塔跡
うねび北小2年生が植えたホテイアオイの立て看板
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本堂跡の横に「史跡元薬師寺址の石碑」~帰り道へ
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右が本堂跡、真ん中が東塔あと
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帰り道に田の稲
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帰り道、飛鳥川を渡り、飛騨町を過ぎ
朱雀大路跡の対面の耳成山
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帰り道の朱雀大路跡
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帰り道のハギ
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帰り道の香久山
香久山へ向かって歩いています
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道路脇に彼岸花
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おまけ
我家の琉球朝顔の初花
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我家のデュランタ&クロトン
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我家の沢キキョウ&コリウス
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9月13日・堺の神社仏閣&公園旧跡めぐり-2

9月15日      9月13日・堺の神社仏閣&公園旧跡めぐり-2
             JRふれあいハイキング 歩程約12㎞
此の日は、1人でJRふれあいハイキングに参加、此の日の参加者は250人・・・ 
コース JRふれあいハイキング 大阪・関西歩け歩け協会主催 参加費500円
堺市駅~徒歩5分~東雲公園(受付・9:45集合)~方違神社~本願寺堺別院~
ザビエル公園~さかい利昌の杜~旧堺燈台~大浜公園~南宗寺~大仙公園~
上野芝駅(ゴール・解散)
此の日の私の万歩計は、25352歩で約16.9km歩いたことに・・・
堺市駅~東雲公園(しののめこうえん)
東雲公園
平成14年に開園した公園です。エントランス部にバラ園が設けられた趣のある西洋
風の公園で、広場ではイベントなどが開催され、人々が集い楽しみ賑わう空間となっ
ています。バラ園を囲む回廊と、バラ園とのロマンチックな調和は中世ヨーロッパの
ルネッサンスをイメージさせるものです。
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東雲公園をスタート
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大阪刑務所(おおさかけいむしょ)
大阪刑務所は、法務省矯正局の大阪矯正管区に属する刑務所。 府中刑務所に次ぐ
収容能力を持ち、西日本では最大規模の刑務所である。通称「大刑(だいけい)」。
下部機関として堺拘置支所、岸和田拘置支所を持ち、2007年度からは和歌山刑務所
所管の丸の内拘置支所、田辺拘置支所、新宮拘置支所を併せて所管するようになった。
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方違神社(ほうちがいじんじゃ)
社伝では、応神天皇の時代に天神地祇ほか三座を祀り、方違大依羅神と号し、この社
を方違宮と称したとされる。
社地は摂津、河内、和泉の境の三国山(現在は三国ヶ丘と称される)にあり、三令制国
のいずれにも属さない地、方位のない地であるとして、古くから方位、地相、家相などの
方災除けの神社として信仰を集めてきた。現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅
行などの際に祈願する参拝者が多い。自分の在所からでかけていく先の方位について
のお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒く。
古くから方除けには当地の埴土を包んだちまきを奉ったことから、厄除守に御札のほか
御砂、ちまきがある。
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反正天皇陵・・・はんぜいてんのうりょうこふん(たでいやまこふん)
前方部を南に向けた前方後円墳です。百舌鳥古墳群の中では北端にあり、現在は百舌
鳥耳原三陵の北陵・反正天皇陵として宮内庁が管理しています。墳丘の規模は全長約
148m、後円部径約76m、高さ約13m、前方部幅約110m、高さ約15mで百舌鳥古墳群で
は7番目の大きさです。墳丘は3段に築かれ、そのかたちや出土した埴輪から、5世紀後
半頃に造られたと考えられています。
現在、一重の盾型周濠がめぐっていますが、前方部外周で行われた発掘調査で、かつ
て二重濠があったことが確認されています。
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※反正天皇
淡路宮(不詳、淡路島?)で生まれ、容姿美麗であった。生まれながらにして綺麗な歯並
びであったので、瑞歯別の名があるという。
『古事記』によれば、身長は9尺2寸半(約3.04m)、水歯別命の名は、歯の長さが1寸、広
さ(厚さ)は2分(4ミリ)で、上下等しく整っており、歯を褒め称えて、「水歯」と名付けられた
ことによる。
仁徳天皇87年、父仁徳天皇の崩後、叛乱を起こした同母兄の住吉仲皇子をその近習で
ある曽婆訶理(隼人)を利用して誅殺した(従って、直接手は下していない)。履中天皇2年
1月4日に立太子(皇太弟)。同6年3月15日に履中天皇が崩御し、翌反正天皇元年1月に
即位。兄弟継承はここに始まる。同年8月6日、共に和珥木事の娘である和珥津野媛を皇
夫人に、和珥弟媛を妃に立てる。同母兄弟の2天皇と異なり皇族の妻を娶ることはなく、
皇太子も立てず、子孫が即位することもなかった。10月に河内丹比を都とする。天下太平
であり、何事もなく在位5年。反正天皇5年1月に崩御。『古事記』『水鏡』に60歳。『古事記』
に従えば、崩御した「丁丑年七月」は西暦437年に相当し、生年は逆算して、兄履中天皇
より9歳年下の西暦378年に相当するが、定かではない。

本願寺堺別院へ向かう
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本願寺堺別院
堺市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれ、現在の本堂は文政8年(1825年)に
再建されたもので、明治4年(1871年)の廃藩置県後から10年間堺県庁として使用され
ていました。明治維新当初の堺県は旧天領地だけでしたが、明治2~9年に河内県、丹
南4県、奈良県などを合併して、近畿でも有数の大きな県になりました。広大な県域を有
し独自の県政を行った堺県でしたが、政府の大阪府域拡大の方針で明治14年(1881年)
に県域を府に併合され、その歴史に幕を降ろしました。堺県の廃止後、境内地と建物は
浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至っていますが、堺県庁跡として府指定の史跡と
なっています。
鐘楼に釣られた梵鐘は元和3年(1617年)の銘をもち、銘文によると慶長20年(1615年)の
大坂夏の陣で焼失した念仏寺(開口神社の神宮寺)のために、堺の復興や新しい町割に
努めた堺奉行が再鋳させたものです。明治初期の廃仏毀釈にともない堺別院に移されま
したが、江戸時代はじめの堺復興の歴史を示す記念碑的な資料、年代の明らかな市内
最古の梵鐘として貴重なもので、市指定の有形文化財となっています。
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※ザビエル公園
戎公園はイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが天文19年(1550年)、堺に立ち寄った
際に、手厚くもてなしたとされる豪商日比屋了慶の屋敷跡付近に昭和22年(1947年)、計
画されました。また、昭和24年(1949年)の公園開設が、フランシスコ・ザビエル来航400年
であったことから、それを記念してザビエル公園という名称が使われるようになりました。
中世の海岸線は発掘調査により、当公園内に位置すると推定されており、園内には当時の
海岸推定線を示す幅30センチメートルの石を設置しています。併せて階段状の護岸や南蛮
船をイメージした遊具を一体的に配置し、海に開かれた中世の堺を想起できるようになって
います。記念碑の森には、いろいろな記念碑があります。また、公園の周辺には、黄金の
日々を謳歌し自治都市として栄えた堺を支えた千利休、小西行長、武野紹鴎などの屋敷跡
もあります。

さかい利昌の杜へ向かう
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※沈香木(じんこうぼく)
沈香が香木の王者であることは,お香の店で鎮座する製品やその上級品である伽羅
(きゃら)の塊の価格を見ると,即実感できる。白檀(ビャクダン)がその木の固有の香
り(精油)であるの対して,沈香の香りは生木で自然に生成されるものではなく,外的な
要因で生成された樹脂成分に由来するとされている。
熱帯産のジンチョウゲ科アキラリア属の常緑喬木の幹から採取される香木。インドから
インドシナに分布するジンコウ、ミャンマーからボルネオにかけて広く分布するマラッカ
ジンコウ、タイのシャムジンコウ、中国南部のシナジンコウなど、多くの種類があるが、
ベトナム産が最も評価が高い。
この樹木を沈香樹と呼んでいる。沈香の名は,上質の樹脂分の多いものは水に沈むこ
とに由来する。また,沈水木(ジンスイボク)又は沈水とも呼ばれる。
この樹木に傷,その他の原因で,ある種の刺激が加えられると,その部分に樹脂分が
沈積して,沈香になると言われる。本来の材は黄白色ないし淡黄褐色であるが,病理
的に樹脂分が沈積した部分は暗褐色あるいは黒色となる。このことに関して,バクテリ
ア(真菌)が作用してできるとの説明がある。
生木から採取する場合と枯れたあるいは土埋木から採取する場合がある。土埋木の場
合は,抗菌性の含油樹脂のため腐朽菌に侵されないで残った部分であり,余分な部分
が消失しているために品質がよい。一般には脂分を多く含む暗褐色から黒色で光沢に
富み,比重の高いものほど名品とされる。
なお,この樹木を栽培して,幹に人工的に傷をつけ,土中に埋めて沈香をとることも行っ
ているという。
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さかい利昌の杜
堺が生んだ茶の湯の大成者「千利休」と、日本近代文学を切り拓いた歌人「与謝野晶子」
の生涯や人物像などを通じて、堺の歴史・文化の魅力を発信する文化観光施設です。
千利休と茶の湯を歴史文化から解き明かす「千利休茶の湯館」、歌人与謝野晶子の作品
世界とその生き方に触れる「与謝野晶子記念館」、堺観光の基点となる「観光案内展示室」
などがあります。
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堺の環濠?
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「土佐十一烈士記念之碑」
史跡の説明によると
『慶応4年(1868)2月15日、手続きの不備や言葉の問題などもあって無通知でこの附近
に上陸してきたフランス軍艦の兵士11名を、当時堺の警固にあたっていた土佐藩士が殺
傷するという事件が起きました。フランス政府の要求により、2月23日に、箕浦猪之吉以
下11名が彼らは妙国寺の北隣にある宝珠院に葬られ、昭和13年(1938)、土佐十一烈
士墓として国の史跡に指定されました。』
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呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん)
呂宋 助左衛門、永禄8年(1565年)? - 没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿
易商人。本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。堺の貿易商・納屋才助の子。呂宋
以外にも別名で菜屋助左衛門(なや すけざえもん)や魚屋助左衛門(ちや すけざえもん)
ともいう。『太閤記』などによれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで
巨万の富を得た。文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人となった豊
臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など珍品を献上し、
秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。
慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒言によっ
て、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処分を受けることに
なるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安寺に寄進して日本人町
のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られてい
た物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったとも。慶長12年(1607年)
スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア
国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。
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旧堺燈台
堺旧港南波止場に明治10年築造された高さ11.3mの六角錘形の灯台。埋め立てが進み
役割を終えた後、堺のシンボルの一つとして保存、現地に現存する日本最古の木造洋式
灯台として国指定史跡になっています。
室町時代から安土桃山時代にかけて、天然の良港であった堺港は海外貿易港としても発
展しました。後に大和川の付け替えにより衰退しましたが、江戸の商人と堺の人々により
築港・修理されたのが現在の堺旧港の原型です。その南波止場に、明治10年(1877年)堺
の人々の寄付などにより高さ11.3mの六角錘形の木造洋式灯台が築造されました。灯台
はおよそ1世紀にわたって堺港に出入りする船の航海の安全を守ってきましたが、周辺の
埋め立てが進んだ昭和43年(1968年)にその役割を終えました。今なお堺のシンボルの一
つとして保存され、現地に現存する日本最古の木造洋式灯台の一つとして国の指定史跡
になっています。
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此処までは、
9月13日・堺の神社仏閣&公園旧跡めぐり-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-15
続きは、大浜公園~
大浜公園
大浜公園は明治12年(1879年)に開園し、堺市営で最も古い公園です。(府営浜寺公園は
明治6年(1873年)に開園)。明治36年(1903年)には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧
会の会場となり、世界に誇る東洋一の水族館と言われた堺水族館が設置されました。
その他にも公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などもあり、当時は、関西有数
のレジャー地として賑わいました。 しかし、当時の白砂青松の美しい海岸線も臨海工場地
帯の埋め立て造成に伴い、その面影をなくしました。現在は、野球場、屋外プール、体育館、
テニスコート、相撲場、猿飼育舎、蘇鉄山などがあり、スポーツ・レクリエーションの場として
利用されています。
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昼食後、大浜公園をスタート
小さな秋?紅葉・・・
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仁徳天皇陵へ向かう
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南宗寺(なんしゅうじ)・・・徳川家康討死伝説
南宗寺は、堺を支配していた戦国武将の三好長慶によって建立された由緒正しいお寺
です。そして、ここには徳川家康の墓が建てられています。豊臣家を滅亡に追い込んだ
大阪夏の陣。その茶臼山の戦いにおいて、家康は逃げる際に乗っていた駕籠(かご)ご
と後藤又兵衛の槍に突かれて重傷を負い、南宗寺に運ばれて絶命したという伝説が
残っています。その伝説に沿うように、家康の墓が境内にあるそうです。
別の場所には、家康が絶命する前に座っていたと言われるイスのような形の石がある
そうです。この石に座るとご利益が得られる、と密かなパワースポットに・・・
千利休も、ここ南宗寺にゆかりのある人物で、千家一門の供養塔があり、真ん中にある
一番大きな塔が利休、右半分は表千家、左半分は裏千家の塔が並んでいるそうです。
またその隣には利休の師である武野紹鴎の墓があるそうです。
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仁徳天皇陵へ向かう
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仁徳天皇陵
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、形状は前方
後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。 実際の被葬者は明らかでないが、宮内
庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみは らのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇
の陵に治定されている。名称は「仁 徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」
とも。 全国で第1位の規模の巨大古墳である。クフ王ピラミッドや秦の始皇帝墓陵になら
ぶ「世界三大墳墓」ともいわれ、墳丘の平面規模は秦の始皇帝陵を凌いで世界最 大値
に達している。
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※仁徳天皇
仁徳天皇(にんとくてんのう)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日- 同87
年1月16日)。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(おほさざきのみ
こと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・難波天皇(『万葉集
』)。応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承 者の菟道稚郎子(うじのわ
きいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に
皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、そ
の間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のか
まど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれ
に由来する。ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い
一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元
来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』にお
いては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を
一人に合成したとする見方もある。
都は難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の大阪府大阪市中央区)。

大仙公園
日本最大の仁徳陵古墳や履中陵古墳を擁する百舌鳥古墳群内に位置する「大仙公園」
が「日本の歴史公園100選」に入選しました。「日本の歴史公園100選」は都市公園法施
行50周年を記念して行われた事業で、地域に個性や魅力をもたらす優れた歴史的・文
化的資源を保存・承継・活用する公園の整備を推進することにより、観光振興や活力に
満ちた地域社会の実現をめざすことを目的として、優れた事例を対象に選定されたもの
です。
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履中天皇陵
上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、形状は前方後円墳。百舌
鳥古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により
「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として第17代履中天皇の
陵に治定されている。名称は「石津ヶ丘古墳(いしづがおかこふん)」や「百舌鳥陵山
古墳(もずみささぎやまこふん)」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟
山古墳(大阪府羽曳野市)に次ぐ第3位の規模の巨大古墳である。
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※履中天皇(りちゅうてんのう)
履中天皇は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年3月15日)。名は大兄
去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和気命。中国の『宋書』に
見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇もしくは仁徳天皇とする
説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ずとの記事が見え、これが
正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆算して369年という事になる
が、定かではない。都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや、奈良県桜井市の稚
桜神社)。

JR上野芝駅(ゴール・解散)
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おまけ
近所の秋・・・
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9月9日・竹取公園の朝市に行って・・・

9月12日      9月9日・竹取公園の朝市に行って・・・
                冬瓜を買って来た
9月3日に堺市、百舌鳥古墳巡りのハイキングに参加して、6日の竜田川斑鳩の里
ハイキングは雨に降られて参加せず、次のハイキング予定は、13日の堺市の史跡
巡りに参加する予定、10日に孫達が来てくれると言うので、粗10日間の自宅待機?
状態が続く退屈な中・・・
その中で1時間ぐらい家を出て久し振りに竹取公園の駐車場に、「竹取公園の朝市」
で冬瓜を購入? ついでに竹取公園と馬見丘陵公園の写真を撮って帰って来た・・・
竹取公園のトイレ
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竹取り公園の龍の池
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藪に萩の花
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馬見丘陵公園と繋がる陸橋に
陸橋から龍の池、葛城山~二上山
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陸橋を馬見丘陵公園側に渡って
振り返って、葛城山~二上山を
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百日紅
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馬見丘陵公園の池&オタフク南天
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馬見丘陵公園の池の方へ陸橋を降りて
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三吉2号墳(前方後円墳)
円墳の頂上へ車椅子で登れる
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馬見丘陵公園の入口を出て
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道路を渡って竹取公園入口へ
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帰る途中に小学校校門前のハートマークを・・・
ハートマークの刈込が2つとキバナコスモスが
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9月3日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-2

9月7日         9月3日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-2
                (JRふれあいハイキング誌) 歩程約4.5㎞
JRふれあいハイキング誌に掲載されていた、堺市観光コンベンション協会主催の
ハイキングに参加、ガイド1名+1に参加者6人、6人の中に知人と3人で参加、百舌
鳥古墳群巡りを堪能し解散、此処で知人1人は帰宅、古墳群巡りを終えた後は、知
人と2人で大仙公園に戻り、弁当を食べ、休憩をしてから堺市博物館に立ち寄って
見学して百舌鳥駅へ帰りました。
コース:阪和線百舌鳥駅(集合10時30分)~御廟山古墳~善右ヱ門山古墳~いた
すけ古墳~履中天皇陵古墳~大仙公園・ミニ展望台(七観山古墳跡?)・七観音古
墳・グワッショウ坊古墳~仁徳天皇陵古墳(解散) 解散後は自由行動・・・
堺市観光コンベンション協会のガイドの国領さん、お世話になり有難う御座いました。
此の日の私は、解散後の大仙公園散策も含め16910歩で約11.4km歩いたことに・・
自宅に一番近いバス停前のレジャービルと病院
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集合場所は、JR阪和線百舌鳥駅(もずえき)
少し早めに到着したので1人でコースには無い駅前の古墳を撮って来た・・・
収塚古墳
収塚(おさめづか)古墳は円墳のように見えますが、もとは前方部を西に向けた帆立
貝形古墳でした。現在、前方部は削られてその形をとどめておらず、周囲を囲んでい
た濠も埋没しています。埋葬部の構造や副葬品は不明ですが、以前に古墳の頂上
部から鉄製のよろいの破片が採集されたと伝えられています。近年、古墳の東側で
調査が実施され、濠の位置が判明し埴輪が出土しました。埴輪の形から5世紀中頃
に造られたものと推定されています。収塚古墳の西側には、孫太夫山(まごだゆうや
ま)古墳・竜佐山(たつさやま)古墳など前方部を西へ向ける帆立貝形古墳が並んで
います。これらの古墳は、仁徳天皇陵古墳の陪塚(ばいちょう)と考えられています。
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此処からはガイドと共に
御廟山古墳
御廟山古墳(ごびょうやまこふん)は、大阪府堺市北区百舌鳥本町にある古墳。形
状は前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかで
ないが、宮内庁により「百舌鳥陵墓参考地」(被葬候補者:第15代応神天皇)として
陵墓参考地に治定されている。百舌鳥古墳群のほぼ中央、大仙陵古墳の南東に
位置する。墳丘長約203メートルで、百舌鳥古墳群では4番目の大きさである。墳丘
は3段に築かれ、南側に造り出しがある。発掘調査により、かつては二重濠があった
ことが確認されている。陪塚は数基あったとされるが万代山古墳(もずやまこふん)
のみが現存している。
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いたすけ古墳へ向かう
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善右ヱ門山古墳(ぜんえもんやまこふん・いたすけ古墳の陪塚)
堺市HPより引用
善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳は、百舌鳥川北岸に位置する方墳で、いたすけ
古墳の外堤と接するように築造されていることから、同古墳に付随する古墳と考え
られます。平成12・15年度の調査では、墳丘は2段築成であることを確認しましたが、
墳丘の周囲には明確な周濠を設けていません。また、テラス上に埴輪列を検出しま
したが、その埴輪から5世紀前半の築造であると考えられます。
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いたすけ古墳
いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群のほぼ中央に位置し、前方部を西に向ける3段築
成の前方後円墳です。周囲には一重の濠が巡り、墳丘には埴輪と葺石(ふきいし)
のあることが確認されています。埋葬部分の構造や副葬品は不明ですが、墳丘の
形や埴輪の状況から5世紀中頃に築造されたと考えられます。周囲には陪塚(ばい
ちょう)とよばれる小形の古墳があり、善右ヱ門山(ぜんえもんやま)古墳が後円部
の東側に現存しています。消滅した陪塚には吾呂茂塚(ごろもづか)古墳、播磨塚
(はりまづか)古墳がありました。いたすけ古墳は、昭和30年頃に土取り工事で破
壊の危機にひんしましたが、市民による運動で保存が決まり、昭和31年に国指定
史跡になりました。現在も濠の中に残されている橋げたは、土取り工事が行われよ
うとしたときの名残です。保存運動の際に後円部から採集された冑形(かぶとがた)
埴輪は実物の鉄製冑を忠実に模したもので、堺市の文化財保護のシンボルマーク
になりました。いたすけ古墳は、百舌鳥古墳群を構成する重要な前方後円墳という
だけでなく、我が国における文化財保護の歴史を語るうえでも重要な古墳なのです。
狸が繁殖していて橋の上に8匹ぐらいの狸が出て来てエサをねだる事も有る。
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橋の上に狸が出てくると言う・・・
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ミサンザイ古墳へ向かう
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履中天皇陵古墳
上石津ミサンザイ古墳(かみいしづみさんざいこふん)は、形状は前方後円墳。百舌
鳥古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により
「百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)」として第17代履中天皇の
陵に治定されている。名称は「石津ヶ丘古墳(いしづがおかこふん)」や「百舌鳥陵山
古墳(もずみささぎやまこふん)」とも。全国で大仙陵古墳(大阪府堺市)、誉田御廟
山古墳(大阪府羽曳野市)に次ぐ第3位の規模の巨大古墳である。
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此処からぐるっと廻って
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更に廻って
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※履中天皇(りちゅうてんのう)は、第17代天皇(在位:履中天皇元年2月1日 - 同6年
3月15日)。名は大兄去来穂別尊(おおえのいざほわけのみこと)、大江之伊邪本和
気命。中国の『宋書』に見える「倭の五王」中の倭王讃に比定する説がある(応神天皇
もしくは仁徳天皇とする説もあり)。また古事記には「壬申年正月三日」に64歳で崩ず
との記事が見え、これが正しければ、在位期間が427年から432年となり、生年が逆
算して369年という事になるが、定かではない。都は磐余稚桜宮(いわれのわかざくら
のみや、奈良県桜井市の稚桜神社)。

大仙公園へ向かう
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此処までは、
9月3日(日)の百舌鳥古墳群巡り・百舌鳥駅-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-06-1
続きは、大仙公園~
大仙公園
日本最大の仁徳陵古墳や履中陵古墳を擁する百舌鳥古墳群内に位置する「大仙公園」
が「日本の歴史公園100選」に入選しました。「日本の歴史公園100選」は都市公園法施
行50周年を記念して行われた事業で、地域に個性や魅力をもたらす優れた歴史的・文
化的資源を保存・承継・活用する公園の整備を推進することにより、観光振興や活力に
満ちた地域社会の実現をめざすことを目的として、優れた事例を対象に選定されたもの
です。
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ミニ展望台へ向かう
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模造円墳(ミニ展望台)・・・七観山古墳跡?
ミニ展望台へ登って履中天皇陵古墳と反対側のあべのハルカスを・・・
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七観音古墳
七観音古墳は、履中天皇陵古墳(ミサンザイ古墳)の外周部分に該当する大仙公園
の南入口にあり、同古墳に付随する古墳と考えられます。墳丘裾に鉢巻状の土留め
がめぐっていますが、本来の古墳の形状とは異なります。公園整備に伴う発掘調査
では、墳丘盛土と墳丘裾の可能性のある地山の立ち上がりを確認しました。主体部
については未調査のため不明ですが、碧玉(へきぎょく)製の琴柱(ことじ)形石製品
が出土したといわれています。また、濠の明瞭な肩や堆積層は検出されていないこ
とから、古墳築造当初から周濠は設けられなかったと推定できます。
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旗塚古墳
百舌鳥夕雲町の大仙公園内にあります。墳丘は全長約57.9m、後円部径約41.5m、
高さ約3.8m、前方部幅約24.7m、前方部高1.3mの、帆立貝形古墳と呼ばれる前方
部が短い前方後円墳です。後円部の南側くびれ部近くに張り出しがありました。2段
築成で、前方部を西に向け、馬蹄形の濠がめぐっています。本格的な調査は行われ
ていないので、主体部の構造や副葬品の内容や性格などはわかっていませんが、
葺石と埴輪があり、円筒埴輪・朝顔形埴輪のほかに盾・蓋(きぬがさ)などの形象埴
輪も出土しています。国指定史跡百舌鳥古墳群のひとつです。
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グワショウ坊古墳
旗塚古墳のすぐ西側にある直径約61mの大形の円墳です。墳丘は2段築成と考えら
れています。周囲には濠がめぐり、葺石と埴輪があります。主体部の構造や副葬品は
わかっていませんが、円墳で径約61mという大きさは、仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)の
陪塚とされている径62mの大安寺山古墳に次ぐ大きさで、全国でも有数です。仁徳天
皇陵古墳(大山古墳)や履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)の陪塚ではないようです。
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孫太夫山古墳の横を通って 2mの仁徳天皇と鹿と百舌鳥
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※孫太夫山古墳
仁徳天皇陵古墳(大山古墳)の南に接してある西向きの前方後円墳で、同古墳の
陪塚と考えられます。古墳の全長は約56メートル、後円部径48メートル、後円部高
約7.6メートル、前方部幅約30メートルで、前方部の短い帆立貝形をしています。
一部の調査では、葺石と円筒埴輪があり、幅10メートル程の周濠がめぐっていたよ
うですが、埋葬施設などについては不明です。現在は濠を復元して整備されていま
す。後円部は宮内庁が管理し、前方部と周濠は堺市が管理しています。
なお、前方部は、公園造成の時に復元しています。

道路を渡って仁徳天皇陵古墳へ
周辺の古墳の説明看板、古墳時代の海と道路・・・
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仁徳天皇陵古墳
大仙陵古墳(だいせんりょうこふん)または大山古墳(だいせんこふん)は、形状は
前方後円墳。百舌鳥古墳群を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「百舌鳥耳原中陵(もずのみみは
らのなかのみささぎ)」として第16代仁徳天皇の陵に治定されている。名称は「仁
徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)」や「仁徳陵古墳」とも。
全国で第1位の規模の巨大古墳である。クフ王ピラミッドや秦の始皇帝墓陵になら
ぶ「世界三大墳墓」ともいわれ、墳丘の平面規模は秦の始皇帝陵を凌いで世界最
大値に達している。
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※仁徳天皇
仁徳天皇(にんとくてんのう)は、日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日
- 同87年1月16日)。名は大雀命(おほさざきのみこと)(『古事記』)、大鷦鷯尊(お
ほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝(『日本書紀』)・
難波天皇(『万葉集』)。応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承
者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の
薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位
したという。この間の3年は空位である。
人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除
し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の
逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁
徳」の漢風諡号もこれに由来する。
ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描
かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は
1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』にお
いては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事
跡を一人に合成したとする見方もある。
都は難波高津宮(なにわのたかつのみや、現在の大阪府大阪市中央区)。
解散の後、大仙公園へ戻り昼食タイム
博物館横の池で睡蓮やラジコンヨット競技?・・・
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博物館は65才以上の証明書で入館無料となってる・・・
百舌鳥駅で帰りの電車待ち、新型車両?
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天王寺駅16番ホーム出、あべのハルカスを・・・
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9月2日・朝の馬見丘陵公園散策-2

9月6日      9月2日・朝の馬見丘陵公園散策-2
             4500歩で約3km歩いた
此の日も家内に誘われて一緒に馬見丘陵公園散策に、公園館の中央駐車場に
車を入れて、菖蒲園と古墳の丘の間を通り下池、下池を一本松古墳の方へ回り、
此の日は下池沿いに古墳の横を通り、右に下池、左に上池の堤の彼岸花を見な
がら別所した古墳の前へ出て上池沿いに陽だまり広場~ウッドデッキを森の中へ
ホオノキを見て、中央南口、中央臨時駐車場前を通りナガレヤマ古墳前を結びの
広場へ出て、芝生の丘を通り公園館前へ出て駐車場へ、1時間強歩いただけ・・・
木陰は涼しく、心地よい汗をかいて?中央駐車場へ戻った・・・・
木陰を菖蒲園へ向かう
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左手に菖蒲園、
右手に古墳の丘を見て下池へ向かう
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途中で右手に
下池のウッドデッキへ向かう通路が・・・
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下池&亀の甲羅干し
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ムクロジの実
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ススキは秋を通り越して冬へ?
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ネムノキ
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一本松古墳&ドングリ
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下池
さっき亀の甲羅干しを見たウッドデッキが見える
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一本松古墳
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上池の堤へ出て陽だまり広場へ向かう
堤に彼岸花が咲いてる
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此処までは、
9月2日・朝の馬見丘陵公園散策-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
      http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-06  
此の続きは、上池沿い~
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此処からウッドデッキを通り森に入る
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ホオノキ
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時間が無いので
途中から森を抜けて中央南口へ
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央臨時駐車場前のユリノキ
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ナガレヤマ古墳&百日紅
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結びの広場
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睡蓮池の前を通り芝生の丘へ
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芝生の丘を通り公園館前へ
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おまけ
我家の鉢植えのデュランタ&パッションフルーツ&皇帝ダリア
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9月1日・朝の馬見丘陵公園散策-2

9月1日      9月1日・朝の馬見丘陵公園散策-2
             9313歩で約6.2km歩いた
家内と一緒に馬見丘陵公園散策に、北エリア駐車場に車を入れて、集いの丘から
花見茶屋エリア~ダリア園~連絡道のトンネルを潜って花の道~バラ園~菖蒲園
~古墳の丘~下池を左回りで亀の甲羅干し~ムクロジの大木~ネムノキ~一本松
古墳~倉塚古墳~梅林~上池~ホオノキ~ウッドデッキで森を抜けて、カエル木像
~ナガレヤマ古墳~結びの広場~睡蓮池~公園館~バラ園~花の道~連絡道~
花サポーター花壇~集いの丘~大型テント~馬見花苑~大遊具~砂場~徒渉池~
馬見花苑~木陰は涼しかった、心地よい汗をかいて?北駐車場へ戻った・・・・
集いの丘~花見茶屋エリア
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百日紅
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ダリア園
秋のフラワーフエスタ(ダリか祭り)に向けて準備中・・・
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皇帝ダリアも・・
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夏の花ルドベキアはそろそろ終わり
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連絡道のトンネルを潜って
花の道~ススキの丘を・・・
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バラ園
こんなものしか無い
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菖蒲園~古墳の丘
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下池を左回りで
亀の甲羅干し
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ムクロジの大木には実がびっしり・・・
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池の向うに二上山が・・・
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ネムノキ
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広陵町の浄水タンク
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一本松古墳
松は生えてないが・・・
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倉塚古墳
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梅林
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なんじゃもんじゃ(ヒトツバタゴ)
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上池
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此処までは、
9月1日・朝の馬見丘陵公園散策-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
     http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-09-01-2  
此の続きは、森の中のホオノキへ向かう~
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ホオノキ
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ウッドデッキで森を抜けて
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カエル木像?
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ナガレヤマ古墳~結びの広場
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睡蓮池
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芝生の丘
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公園館
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バラ園へ
バラ、ルドベキア、百日紅他
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花の道~連絡道
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花サポーター花壇
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集いの丘~大型テント
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馬見花苑
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大遊具~砂場~徒渉池
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馬見花苑~駐車場へ
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私の万歩計は、9313歩で約6.2km歩いたことに・・・
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8月27日の納涼、大念佛寺「幽霊の掛け軸」を訪ねて

9月1日     8月27日の納涼、大念佛寺「幽霊の掛け軸」を訪ねて
            近鉄駅フリーハイキング・阿部野橋駅~
知人と3人で参加、予定より1本早い電車で着いてしまった為、長蛇の列に並んで、
354番、知人2人が予定時刻に来る頃には長蛇の列は解消されてて直ぐに受付、
阿倍野橋駅庚申口を出て、皆さんショートカットで?コースでは阿倍野歩道橋を渡
り、JR天王寺駅を北口へ出て玉造筋を東進、南河堀交差点へでるルートを、庚申
口から道路を渡り、JR線路を跨いで直接、南河堀交差点へ、以降はコース通り・・・
コース
阿部野橋駅地下東口(受付)~生野本通り商店街~生野八坂神社~生中橋~東
部市場~平野川大橋~スーパ2階レストランで昼食~平野郷環濠跡~杭全神社
~宇賀神社~大念佛寺~白鷺公園~今川緑道~今川駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、21473歩で約14.3km歩いたことに・・・
源ケ橋交差点を渡り
源ケ橋交差点の付近、ここには、千年以前の昔から「猫間川」がありました。南か
ら流れてきた水が、北の旧淀川に合流していてのです。
さて、このあたりに、古い伝説があります。
200年も昔、江戸は、文化と言われる頃のことです。「猫間川」の渡し守をしている
「源」という悪党がいました。通行人から暴力で金品をまきあげきあげて生活をして
いたのです。或る日、例のように、一人の旅人からみぐるみ剥いで殺してしまいまし
た。ところが、この人が、長年行方を捜していた、我が子だったのです。さすがの悪
党の「源」も深く悲しんで悔やみました。思い悩んだ末、ついに罪滅ぼしをしようと決
意します。自分の身代をすべてなげうち、「猫間川」に橋を架けることにしたのです。
この橋は、すごい橋でした。それは香木に使われる「伽羅」で出来ていたのです。
この香り高い伽羅香木の橋は、源さんの悔いを表して、あまりあるものでした。人々
は、善人になった「源さん」に因んで、「源ケ橋」と名づけて呼んだのでした。
生野本通り商店街入り口へ入る
生野本通商店街のキャラクター<しょーたくん> 聖徳太子の子孫ということです。
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生野本通り中央商店街
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生野八坂神社
東成郡誌第三編、生野村第四神社の項に『素盞嗚尊(すさのおのみこと)神社、大字
林寺字林に鎮座せり…』とあり、その創祀は諸書に『元禄二巳(1689)年勧請』とありま
すが、他にも説があって定かではありません。東成郡林寺村(旧地名)の氏神様とし
て崇敬されていましたが、明治41(1908)年に天王寺区の河堀稲生神社に合祀され、
境内地も『河堀稲生神社御旅所(おたびしょ)』となりました。その後、氏子有志の熱誠
なる努力によって復興造営が完成し、昭和30(1955)年御神霊の還御を仰ぎ『生野八
坂神社』の認証を受け、『生野の祇園様』として今日に至っています。
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商店街アーケードを抜けて生中橋~東部市場へ向かう
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平野郷環濠跡
平野の環濠は、いつ頃掘られたものか不明であるが、戦国時代の動乱の時代に自衛
と灌漑、排水用あるいは洪水の調節池としての役割をもってつくられたものと考えられ
る。町の周囲には堤を築きその外に濠を、さらに堤と濠というように二重に築かれてい
たところもあり、濠が平野川ともつながっていたので舟運もひらけ、繁栄の基礎ともなっ
た。また、町の出入口13の門(平野郷樋尻口門跡)から街道が各地に通じ、平野は水
陸両方の交通の要衝でもあった。尚河骨池(ここのいけ)口付近には船溜りがあり、平
野川を上下する柏原船の発着で賑わった。
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杭全神社
貞観4年(862年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂の孫で、この地に荘園を有していた坂
上当道が素盞嗚尊を勧請し、社殿を創建したのが最初と伝えられている。以降、建久
元年(1190年)に熊野證誠権現(伊弉諾尊)、元亨元年(1321年)には熊野三所権現
(伊弉册尊・速玉男尊・事解男尊)を勧請合祀し、後醍醐天皇から「熊野三所権現」の
勅額を賜り、熊野権現社の総社とされた。明治になって現在の社名に改まった。日本
で唯一連歌所が残っており、連歌会は明治以降廃れていたが、1987年に復活させ、
現在、毎月定期的に平野法楽連歌会が催されている。1999年からはインターネット
連歌が始まった。初代の連歌所は室町時代に建てられたが、大坂冬の陣で焼かれ
た。現存するのは1708年(宝永5年)に再建されたもので、大阪市指定文化財に指定
されている。
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※宇賀神社
杭全神社の摂社で市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)をお祭りしている神社。

大念佛寺・・・大念佛寺のHPより引用
大治2年(1127年)、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った
際、太子から夢のお告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創
建したのが始まり。 平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、国産念仏門
の最初の宗派で日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、
元禄期(1700年頃)に本山として体 裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
本堂は、大阪府下最大の木造建築で、国登録の有形文化財に指定されています。
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今川緑道
戦前は漆並木で有名な「漆堤」の名称がありました。
正徳5年(1715)付け城蓮寺村の堤奉行宛恐書(オソレガキ)の中に、「うるし堤」の美し
さを述べる文言があるので、その頃に既に漆が広く植えられていたことがわかります。
しかし、戦前の今川に残されていた漆は僅かなもので、西除川沿いにある矢田7丁目
の阿麻美許曽神社や松原市の布忍神社境内や、駒川沿いの鷹合神社境内にも川沿
いに漆の木が植えられていたことが確認できるので、漆は地場産業として、また川堤
の補強策としても、今川堤に限らず、広く植えられていたことが分かります。 今川の本
漆は、戦中の燃料不足に困った住人達が堤の樹木を盗伐し、漆にまで手を付けたの
で、その全てが消滅しましたが、今も、一部では漆を植えているところもあり、昔年の
紅葉を楽しませてくれます。
ただ、現在川沿いの所々に見られる櫨(ハゼ)の木は漆と似ていますが、樹液を分泌せ
ず、造膜性や刺激性がなく、異なった性質の樹木です。
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JR天王寺駅東口~
あべのハルカスを見上げる
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