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11月14日の紅葉シーズン到来の吉野山!!-2

11月24日        11月14日の紅葉シーズン到来の吉野山!!-2
              近鉄ハイキング 10日遅れのUP
此の日は、素晴らしいハイキング日和とはいかず?暑かったが知人のK場さんとI 田さん
と3名で紅葉シーズン到来の吉野山へ、近鉄ハイキングに参加しました。
コース   近鉄吉野駅 11時集合・スタート
吉野駅~2.2㎞~如意輪寺~2.2㎞~吉水神社~0.5㎞~金峯山寺蔵王堂~0.5㎞~銅の鳥居
~0.5㎞~七曲り坂~1.3㎞~吉野駅
実際に歩いたコース
吉野駅~道標~町営住宅・道標~地蔵・道標~石標~温泉旅館道標~石畳の道~石碑~如
意輪寺~後醍醐天皇陵・親王陵~山門ゲート~道標~カーブミラー~参陵トンネル~道標
~後醍醐天皇陵石碑~吉野山観光案内マップ~勝手神社跡・鳥居~金峯山寺蔵王堂~銅の
鳥居~大橋~七曲り坂~吉野駅
此の日の私の万歩計は、19726歩で約11.8㎞歩いたことに? 暑かった、疲れた・・・
吉野駅~道標
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町営住宅・道標
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地蔵・道標
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石標~温泉旅館道標
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吉野山石票
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温泉旅館
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道標
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石畳の道~石碑
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如意輪寺
如意輪寺は、奈良県吉野山の中腹に位置し、春は桜に、夏は深緑、秋は紅葉、冬は雪
と四季を感じ自然豊かな中に伽藍が連なっています。
延喜年間(901-923)三好善行の弟で醍醐天皇の御帰依を被った日蔵道賢上人により
真言宗のお寺として建立されました。そして、後醍醐天皇が吉野に行宮を構えた際に、
後醍醐天皇の勅願寺と定められ南朝(吉野朝)勅願寺ともなりました。
如意輪寺は、南朝と大変深い関わりがあるお寺です。正平二年(1346)、楠正行公は
大阪府四條畷の戦いの前に、一族郎党143人と共に如意輪寺に参詣しました。正行公は
参詣した者から少しずつ遺髪として髪を集め本尊前に143名分を奉納し、本堂の扉に弓
矢を手に取り鏃(やじり)で辞世の歌を刻み、如意輪寺の過去帳に143人の名前を書き、
四條畷に出陣していかれました。
その後、江戸時代に四国の戦国武将・長曾我部元親と、正行公の弟・楠正儀の末裔とな
る女性との間に生まれた文親と呼ばれる武将が出家して文誉鉄牛上人となり、如意輪寺
中興上人として入りました。その際に真言宗から浄土宗へと改宗され、念仏を弘通し、
御陵を守護するお寺として現在に至っています。
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※楠正行(くすのき まさつら)
延元元年(1336年)湊川の戦で父正成が亡くなった後、11歳の正行は楠氏の惣領とな
ると、約2年間にわたる幕府軍との天野合戦・河内合戦を戦い抜き、河内東条に安寧を
もたらすとともに、吉野山に入った宮方、後醍醐帝の警護に努めます。
正行公成人の後、河内近辺にて賊にさらわれようとする女人を助け、尋ねたところ吉野
朝廷に仕える女官弁内侍でした。早速家来に命じて吉野まで送り返します。のちに後村
上天皇より内侍を正行の奥方にとのお言葉がありましたが、四条畷の戦には生きて再び
帰れぬ覚悟であった為辞退されました。
正平3年正月5日。四條畷の戦いは早朝よりはじまり、夕刻にまで及びます。敵将高師直
の軍勢約5万、味方は5千、一気に本陣に向かい、師直の首を斬りましたが影武者の首で
した。七度空に投げ上げ残念がります。遂に弟正時と差し違えて討死にします。
時に正行23才、正時21才でした。
※弁内侍(べんのないし)
弁内侍は日野俊基の娘で、才色ひときわ勝れた美貌の持ち主で、いつどこで見初めたのか
高師直が恋慕し、策を講じ誘い出し、都への拉致を図ります。折しも、正行が吉野に参内
するため石川辺りに差し掛かった際、中から泣き声の聞こえる怪しげな駕籠に遭遇し、拉
致された弁内侍を助け、吉野に送り届けました。
正行が四條畷の合戦で討死したことを知った弁内侍は、深い悲しみに沈みます。しかし正
行への追慕の情を絶ち難く、ここ如意輪寺で黒髪を切り、大君に仕えまつるも今日よりは
心にそむる墨染めの袖と詠い、尼となって吉野山を下り、山口村龍門の西蓮華台院(現西
蓮寺)に入り、寂滅するまで正行の菩堤を弔い、正行への貞節を護ったと云われています。
※高 師直(こう の もろなお)
高 師直は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて足利尊氏に仕えた武将、官僚、政治
家、歌人。正式な名乗りは、高階 師直(たかしな の もろなお)。
高師重の子、兄弟に師泰・重茂、子に師夏・師詮ら。鎌倉幕府有力御家人足利氏執事、
建武政権雑訴決断所三番奉行人・武者所および窪所寄人、北朝武蔵守、室町幕府初代
および第三代執事(室町幕府管領の前身)・上総国守護・武蔵国守護・引付頭人。
通称の「高」は、本姓で氏(うじ)の「高階」ないし氏姓(うじかばね)「高階朝臣」
の略記であり、領地に基づく家名である名字を持たなかった珍しい武士である。
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後醍醐天皇陵・親王陵
後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
第九十六代後醍醐天皇は、北条幕府を倒幕し京都で建武の親政を始められ、足利尊氏の
離反により京都を逃れ吉野に南朝(吉野朝)をたて、尊氏は光明天皇を擁立し京都で北
朝をたて対立することになりました。
如意輪寺は、後醍醐天皇勅願寺(南朝勅願寺)と定められ、後醍醐天皇は如意輪寺に祀
られる如意輪観世音菩薩と金剛蔵王権現を熱心に拝み、日々祈願祈祷に来られますが、
延元4年(1339)8月16日に、右の御手に剣を、左の御手に経巻を握り、尊氏がいる京都
の方(吉野より京都は北に当たる)をにらみつけたまま崩御されます。そのときの綸言に、
唯生々世々の妄念となるべきは、朝敵をことごとく滅して、四海泰平ならしめんと思ふば
かりなり。(中略)これを思う故に玉骨はたとえ南山の苔に埋ずむる共魂魄は常に北闕の
天を望まんと思ふと残し、如意輪寺の御堂のうしろの林の奥に円丘を高くして葬られまし
た。後醍醐天皇陵は「塔尾陵」又は「延元陵」と呼ばれ、天皇陵のなかで唯一の「北面の
御陵」(歴代天皇の陵はすべて南向きに葬り奉るのを通規とする)となっています。後醍
醐天皇崩御の後は、天皇陵を守護し菩提を弔い続けています。
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山門ゲート~道標
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県道37号のカーブミラー
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高野マキ群落
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参陵トンネル~道標
参陵隧道は、県道15号~如意輪寺の後醍醐天皇陵へむかう道路へ通ずる短い隧道で
皇紀2600年にあたる1941(昭和16)年に、「皇紀2600年記念事業」
のひとつとして建造されたもの。
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猿引き坂・後醍醐天皇石板碑?公園で昼食休憩
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竹林院
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吉野山聖天
吉野聖天は、役行者が1350年前に大峰々中奥深く「聖天の森」に祀られた日本最古の
聖天さまです。その後、より多くの方がお参りできるようにと、当山第二世により吉
野山櫻本坊に御魂が移され、ご遷座くださいました。
聖天尊とは大聖歓喜双身天王と称され、梵我一如・和合と調和・財宝の神です。
宇宙の中心・究極の神仏といわれ、その大慈悲心とお力の強さで知られています。
聖天尊は、ご本地仏十一面観世音菩薩と一つになってはじめて、お力が発揮されます
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善福寺
善福寺の詳細は歴史書などが現存していないため不明な点が多く、現在でも確かな
創建年代の情報はありません。本堂内の仏像群や本堂北側にある井光井戸など見所
は多数あります。
※『井光の井戸』伝承
昔、神武天皇が九州から大和に来られた時に、『吉野』のあたりを通られました。
杉の木の根っこに井戸があって、井戸の中からもの凄い光が射してきました。
井戸の中から尻尾のある小さな人が出てきて神武天皇の前にひれふしました。
神武天皇が驚いて、「お前は何者なのだ。」と尋ねると尻尾のある小さな人は、
「私はこの吉野に住んでいるものです。あなたが大和に来られたと聞いて、道案
内をして差し上げようと思っていたのです。あなたをお待ちしていました。」と
こたえました。
神武天皇は喜んで道案内をしてもらうことになりました。道案内のお蔭で神武天
皇は山を越えて、とうとう『橿原』にたどり着くことが出来たということです。
それ以来、尻尾の有る小さな人の井戸を、「井戸が光る」ということで、『井光
の井戸』と言うようになりました。
またこんな話も伝わっています。
井戸の中から現れたのは尻尾のある人ではなく、『井光』という名前のお姫様で
あったというのです。そして、このお姫様が神武天皇の道案内をして神武天皇を
お助けしたということです。それからこの「水分神社」のあるあたりをお姫様の
名前である『井光(いびか)』がなまって、『飯貝(いいがい)』と言うようになった
ということです。
また、この地で神武天皇が、貝をおかずにしてご飯を召し上がったので『飯貝』
と呼ばれるようになったとも伝えられています。
※井光井戸
『井光の跡』とされる場所は3か所あります。
一つは川上村の『井光(いかり)』。もう一つは吉野山の「善福寺」で、近くに
『井光の井戸』があります。そしてもう一つが、飯貝の「水分神社」の下の
『井戸跡』です。近年地元の方が『井光の井戸伝承地』というプレートを建て
ました。又『飯貝』(いいがい)は『井氷鹿』(いびか)から来ている説や、飯貝に
猪という文字がつく人がいることから、昔は猪飼部の里があり「いのかいべ」
から飯貝になった説などがある。
善福寺の詳細は不詳ですが、江戸時代には現在の桜本坊の所にあったという古文書
を「金峯山寺編纂」された首藤善樹氏が発見しました。
伝えでは葬儀を行わず祈祷を旨とする吉野の修験道寺院が多く、善福寺は吉野山住
人の菩提寺として江戸時代には存立していたとされています。決して修験道と関わ
りがないわけではなく、本堂には蔵王権現像や役行者像が安置されています。
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此処までは、
11月14日の紅葉シーズン到来の吉野山!!-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-24
此処では、続きの 勝手神社跡・鳥居~ についての詳細を掲載します。
勝手神社跡・鳥居
この神社の祭神は、大山祇神、木花咲耶姫命 ほか三神で、社殿は豊富秀頼が慶長九年
(1604)に改修したのが、正保元年(1644)十 二月に焼亡したので、翌二年に再建
され、さ らに明和四年(1767)にまたも焼失しました 現在の建物はこの後の再建に
なるものです。
社殿の後の山を袖振山といって、天智天皇 の十年(672)大友皇子に対抗して、吉野
(今の宮滝か) に兵を挙げた大海人皇子(天武天皇)が、この神 前で琴をかなでて
いると、天女が後ろの山の上から袖をひるがえして舞いながら現れ、吉 兆を示しまし
た。この故事が五節の舞の起り だといわれ、芸ごとに深いかかわりを持つ神 様とさ
れて、かつては猿楽や能が盛んに奉納 されました。
又、文治元年(1185)の暮れ、源義経と雪の吉 野山で涙ながらに別れた静御前が、
従者の雑色男に金銀を奪われ、山中をさ迷っているところを追手に捕えられ、この
社殿の前で雅た姿で法楽の舞をまい、居並ぶ荒法師たちを感嘆させたとう話が伝え
られています。境内には舞塚がある。
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金峰山寺蔵王堂へ向かう
東南院
東南院(とうなんいん)は、奈良県吉野郡吉野町にある大峰山の持護院。金峯山修験
本宗別格本山。役行者霊蹟札所。山号は大峯山。開山は役行者。
霊地霊山は、霊地を開くときに中心になる伽藍を建て、そこから巽(東南)の方角に
当たる所に寺を建て、一山の安泰と興隆を祈願した。金峯山寺より東南に位置する。
現在は宿坊も営む。
多宝塔は1937年(昭和12年)に東南院に移されてきたものである。元々は和歌山県
海草郡紀美野町の野上八幡宮にあったものであるが、その後、数度移築が行われ、
東南院に落ち着いた。
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金峰山寺蔵王堂へ向かう
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金峯山寺蔵王堂
金峯山寺は吉野山のシンボルであり、修験道の総本山。蔵王堂は正面5間、側面6間、
高さ約34m、檜皮葺き(ひわだぶき)の、東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築。蔵王権
現像(重文)3体がまつられ、本尊は高さ7mにもおよびます。
金峯山寺(きんぷせんじ)は、奈良県吉野郡吉野町にある金峯山修験本宗(修験道)
の本山である。本尊は蔵王権現、開基(創立者)は役小角と伝える。
金峯山寺の所在する吉野山は、古来より桜の名所として知られ、南北朝時代には南朝
の中心地でもあった。「金峯山」とは単独の峰の呼称ではなく、吉野山(奈良県吉野
郡吉野町)と、その南方二十数キロメートルの大峯山系に位置する山上ヶ岳(奈良県
吉野郡天川村)を含む山岳霊場を包括した名称である。
吉野・大峯は古代から山岳信仰の聖地であり、平安時代以降は霊場として多くの参詣
人を集めてきた。吉野・大峯の霊場は、和歌山県の高野山と熊野三山、およびこれら
霊場同士を結ぶ巡礼路とともに世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素とな
っている。
奈良県南部の吉野山に位置する金峯山寺は、7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役
小角が開創したと伝え、蔵王権現を本尊とする寺院である。金峯山寺のある吉野山に
は吉水神社、如意輪寺、竹林院、桜本坊、喜蔵院、吉野水分神社、金峯神社など、他
にも多くの社寺が存在する。
「吉野山」とは、1つの峰を指す名称ではなく、これらの社寺が点在する山地の広域
地名である。また、吉野山の二十数キロ南方、吉野郡天川村の山上ヶ岳(1,719m)
の山頂近くには大峯山寺がある。吉野山の金峯山寺と山上ヶ岳の大峯山寺とは、近代
以降は分離して別個の寺院になっているが、近世までは前者を「山下(さんげ)の蔵
王堂」、後者を「山上の蔵王堂」と呼び、両者は不可分のものであった。「金峯山寺」
とは本来、山上山下の2つの蔵王堂と関連の子院などを含めた総称であった。
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黒門(仁王門)~黒門を出て
細い町なみの正面、石段の上に立っている。3間1戸、重層入母屋造、本瓦葺の楼門で
金峯山寺の北の仏門。康正2年(1456年)の再建である。仁王は仏師康成の作で鎌倉
末期の力強さを示している。平成16年7月7日、世界遺産に登録。
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銅の鳥居(かねの鳥居)
銅の鳥居は、奈良県吉野郡吉野町吉野山にある金峯山寺の銅で造られた鳥居である。
大峰山上までに修行(しゅぎょう)、等覚(とうかく)、妙覚(みょうかく)の3つの
門があり、この鳥居は第一門で「発心門」とも呼ばれていた。創立年代不詳であるが、
俗に東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)鋳造の際に余った銅を使い建立されたという。
『太平記』によれば1348年(南朝:正平3年、北朝:貞和4年)に高師直の兵火により
焼け落ちたとあり、その後の再建時期は不明であるが、康正(1455年から1457年)の
頃に復興されたと考えられている。
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七曲り坂へ向かう
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大橋(朱色の橋)
大塔宮が吉野に蜂起されたとき、三空堀に見たてられた谷にかかる大橋・天王橋・丈の
橋を吉野三橋といいます。大橋は七曲り坂を登りきった攻が辻のすぐ上手にある、朱塗
りの欄干の橋。天王橋は竹林院近くの小さな橋です。丈の橋は残っていません。大橋を
渡ったあたりから、門前町の風情ある町並みが広がります。
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七曲り坂
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吉野駅~吉野口駅~志都美駅
おまけ 吉野名産のお土産
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