7月17日の柏原市史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-2
7月20日 7月17日の柏原市史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-2
近鉄てくてくマップハイキング
コロナ騒動以降、初の知人達と5名でのハイキングを計画したが天候悪く出出し雨で
2名が不参加、M吉さん。K場さんと3名で近鉄てくてくマップ大阪14番コースを短縮
して河内国分駅~西町地蔵尊~国分神社~西法寺~阿弥陀寺~不動明王堂~田辺池~
田辺廃寺跡・春日神社~初吉稲荷社~原川コミュニティー道路(レンガの歩道)~大
和川河川敷公園(昼食・解散)と、此の日の私の万歩計は、15077歩で約9㎞歩いた、
久し振りの長距離で疲れた。
志都美駅
高井田駅
白坂神社・・・宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
宿奈川田神社は、大阪府柏原市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。地元で
は通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ばれ、地図や看板でもそのように表記され
ている。祭神は、宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田)とともに、当地
を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社となっ
ており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列してい
る。中世には「白坂大明神」と称していた。一説には、現在二宮神社(柏原市安堂町)
大正時代に2社を合祀して現在地に遷座)のある地が「字白坂」であることから、元
の宿奈川田神社の鎮座地であるという。
大和川・国豊橋
大和川
国豊橋を渡って
河内国分駅で待ち合わせ、駅改札でスタンプを貰ってスタート
西町地蔵尊・奈良街道
国分神社・松岳山古墳・・・今回は古墳への登頂はパス
当社は字美山にあり、その創建は詳らかではないが、古書、口伝等によれば
鎌倉時代の建立によるとある。創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に
仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼すなわち有職、接待、技術等
かつて見たこともないものを伝え、その才の勲功があったと大仁後の正二位の
官位を賜ったが舒明天皇の十三年(六四一年)に没した。二十七年後の天智
天皇の七年(六六八年)妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳
山の上に葬った。その墓は前方後円墳で史跡として当社が所有している。
※松岳山古墳(まつおかやま古墳)此の日は登らず・・・
松岳山古墳は古墳時代前期の前方後円墳。国の史跡である。4世紀後半の
築造と考えられている。国宝の※銅製船氏王後墓誌(三井記念美術館蔵)は
この古墳から出土したと伝えられている。
※銅製船氏王後墓誌(どうせいふなしおうごぼし)
墓誌は、松岳山古墳群から出土したと伝えられていますが、出土の詳しい場所や
時期など経緯は不明です。縦約30cm、横幅約7cm、厚みが0.1cmの 極めて薄い
短冊形の銅板で、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字が刻まれています。
668年につくられたと考えられており、わが国最古の墓誌で す。また、文字使い
や内容などから学問的にも貴重な資料です。
国分神社
国分神社御旅所
西法寺へ向かう、雨に濡れた煙の木?
西法寺
浄土真宗本願寺派 塩出山 西法寺
西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代蓮如上人の教化により
浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
西法寺の西門に石碑が建っています。その石碑に西法寺の歴史が記されてあり、そ
の碑文を書き写したものが残っています。
今から約1400年前、聖徳太子が仏法を広めるため「塩出山 浄生院 放光寺」というお
寺を枯栖山(今の芝山らしい)のふもと、杜本神社の近くに建てられました。
初代の住職は「実言」という方でした。その後宝亀3年(772年)火災で、堂塔、門等
すべて焼失して僅かに礎石を残すだけとなったために、小さなお堂を建てて法灯を護
り続け、創建以来900年が経ち、第53代「実弘」の時代となりました。
当時の国分代官「安藤 善正」は実弘の弟であり、兄弟で本願寺第8代の「蓮如上人」
を慕い、そのみ教えを信奉して浄土真宗に帰依しました。それが文明8年(1476年)
のことです。そこで、西法寺は「善正」を浄土真宗としての開基住職としています。
その後「蓮如上人」が当寺にお立ち寄りになり7日間御逗留され、浄土真宗のみ教え
をお説きになられました。「放光寺」が「西法寺」という名前(寺号といいます)に変
わりましたのは、慶長12年(1607年)10月に本願寺第12代宗主准如上人より「西法寺」
の寺号を賜り公称するようになりました。第8代住職「善空」の時に現在の地に移転。
此処までは、
柏原市の史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-1 として
下記のセカンドブログへも詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-20
続きは、阿弥陀寺~
阿弥陀寺でトイレ休憩
不動明王堂
田辺池
田辺廃寺跡・春日神社
田辺廃寺跡
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふ
ひと)氏が建てた氏寺と言われている。1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、
南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明しました。東塔の基壇
はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み
上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡
は春日神社の境内にあります。白鳳時代から中世までの間法灯を伝えるが、終始そ
の間同氏を背景に盛衰した寺院と考えられる。
春日神社(かすがじんじゃ)
境内は「国指定史跡 田辺廃寺跡」があります。 田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠
地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われている。
1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽
藍配置であることが判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げ
たセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに
三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの
出土遺物も境内の収蔵庫に展示されています。
初吉稲荷社(おいなり古墳)
おいなり古墳遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいな
り古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬
施設は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認
できていません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古
墳が複数存在した可能性が考えられています。
原川コミュニティー道路(レンガの歩道)
ムクゲ(憲法で定められてるわけではないが韓国の国花と言われる、ムグンファ)
大和川河川敷公園(昼食・解散)
国豊橋へ
大和川
振り返って
高井田駅へ向かう
大和川~遠くに二上山
高井田駅
おまけ
12日に故郷の奄美から届いた時計草(パッションフルーツ)
近鉄てくてくマップハイキング
コロナ騒動以降、初の知人達と5名でのハイキングを計画したが天候悪く出出し雨で
2名が不参加、M吉さん。K場さんと3名で近鉄てくてくマップ大阪14番コースを短縮
して河内国分駅~西町地蔵尊~国分神社~西法寺~阿弥陀寺~不動明王堂~田辺池~
田辺廃寺跡・春日神社~初吉稲荷社~原川コミュニティー道路(レンガの歩道)~大
和川河川敷公園(昼食・解散)と、此の日の私の万歩計は、15077歩で約9㎞歩いた、
久し振りの長距離で疲れた。
志都美駅
高井田駅
白坂神社・・・宿奈川田神社(すくなかわたじんじゃ)
宿奈川田神社は、大阪府柏原市にある神社である。式内社で、旧社格は村社。地元で
は通称 白坂神社(しらさかじんじゃ)と呼ばれ、地図や看板でもそのように表記され
ている。祭神は、宿奈彦根命・高皇産霊命・級戸辺命を主祭神とする。
創建の由緒は不詳である。近くにある天湯川田神社(柏原市高井田)とともに、当地
を拠点としていた鳥取連が祖神を祀ったものとみられる。弘仁式の時から官社となっ
ており、延喜式神名帳に「河内国大県郡 宿奈川田神社」と記載され、小社に列してい
る。中世には「白坂大明神」と称していた。一説には、現在二宮神社(柏原市安堂町)
大正時代に2社を合祀して現在地に遷座)のある地が「字白坂」であることから、元
の宿奈川田神社の鎮座地であるという。
大和川・国豊橋
大和川
国豊橋を渡って
河内国分駅で待ち合わせ、駅改札でスタンプを貰ってスタート
西町地蔵尊・奈良街道
国分神社・松岳山古墳・・・今回は古墳への登頂はパス
当社は字美山にあり、その創建は詳らかではないが、古書、口伝等によれば
鎌倉時代の建立によるとある。創建当時の現在地には、推古、舒明の両天皇に
仕えた船氏(帰化人)が住んでおり、中国の古礼すなわち有職、接待、技術等
かつて見たこともないものを伝え、その才の勲功があったと大仁後の正二位の
官位を賜ったが舒明天皇の十三年(六四一年)に没した。二十七年後の天智
天皇の七年(六六八年)妻安里故能刀自も没し、同じように神社の背後の松岳
山の上に葬った。その墓は前方後円墳で史跡として当社が所有している。
※松岳山古墳(まつおかやま古墳)此の日は登らず・・・
松岳山古墳は古墳時代前期の前方後円墳。国の史跡である。4世紀後半の
築造と考えられている。国宝の※銅製船氏王後墓誌(三井記念美術館蔵)は
この古墳から出土したと伝えられている。
※銅製船氏王後墓誌(どうせいふなしおうごぼし)
墓誌は、松岳山古墳群から出土したと伝えられていますが、出土の詳しい場所や
時期など経緯は不明です。縦約30cm、横幅約7cm、厚みが0.1cmの 極めて薄い
短冊形の銅板で、表面に86文字、裏面に76文字、計162文字が刻まれています。
668年につくられたと考えられており、わが国最古の墓誌で す。また、文字使い
や内容などから学問的にも貴重な資料です。
国分神社
国分神社御旅所
西法寺へ向かう、雨に濡れた煙の木?
西法寺
浄土真宗本願寺派 塩出山 西法寺
西法寺は、聖徳太子建立と伝えられ、本願寺の第8代蓮如上人の教化により
浄土真宗の寺院となり現在に至っています。
西法寺の西門に石碑が建っています。その石碑に西法寺の歴史が記されてあり、そ
の碑文を書き写したものが残っています。
今から約1400年前、聖徳太子が仏法を広めるため「塩出山 浄生院 放光寺」というお
寺を枯栖山(今の芝山らしい)のふもと、杜本神社の近くに建てられました。
初代の住職は「実言」という方でした。その後宝亀3年(772年)火災で、堂塔、門等
すべて焼失して僅かに礎石を残すだけとなったために、小さなお堂を建てて法灯を護
り続け、創建以来900年が経ち、第53代「実弘」の時代となりました。
当時の国分代官「安藤 善正」は実弘の弟であり、兄弟で本願寺第8代の「蓮如上人」
を慕い、そのみ教えを信奉して浄土真宗に帰依しました。それが文明8年(1476年)
のことです。そこで、西法寺は「善正」を浄土真宗としての開基住職としています。
その後「蓮如上人」が当寺にお立ち寄りになり7日間御逗留され、浄土真宗のみ教え
をお説きになられました。「放光寺」が「西法寺」という名前(寺号といいます)に変
わりましたのは、慶長12年(1607年)10月に本願寺第12代宗主准如上人より「西法寺」
の寺号を賜り公称するようになりました。第8代住職「善空」の時に現在の地に移転。
此処までは、
柏原市の史跡巡り(近鉄てくてくマップ)-1 として
下記のセカンドブログへも詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-07-20
続きは、阿弥陀寺~
阿弥陀寺でトイレ休憩
不動明王堂
田辺池
田辺廃寺跡・春日神社
田辺廃寺跡
田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふ
ひと)氏が建てた氏寺と言われている。1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、
南大門などが確認され、薬師寺式の伽藍配置であることが判明しました。東塔の基壇
はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げたセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み
上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡
は春日神社の境内にあります。白鳳時代から中世までの間法灯を伝えるが、終始そ
の間同氏を背景に盛衰した寺院と考えられる。
春日神社(かすがじんじゃ)
境内は「国指定史跡 田辺廃寺跡」があります。 田辺廃寺は現在の柏原市田辺を本拠
地とした百済系渡来氏族の田辺史(たなべのふひと)氏が建てた氏寺と言われている。
1971 年の発掘調査によって金堂、東西両塔、南大門などが確認され、薬師寺式の伽
藍配置であることが判明しました。東塔の基壇はセン(レンガ状の焼物)を積み上 げ
たセン積み基壇、西塔と金堂の基壇は瓦を積み上げた瓦積み基壇で、東西両塔ともに
三重塔が建てられていたと考えられます。遺跡は春日神社の境内にあり、 瓦などの
出土遺物も境内の収蔵庫に展示されています。
初吉稲荷社(おいなり古墳)
おいなり古墳遺跡の南では、初吉稲荷社が墳丘状の高まりの上にあり、古墳(おいな
り古墳)と推定されています。かつては大きな石材が露出していたとも言われ、埋葬
施設は横穴式石室ではないかと考えられていますが、これまでの調査では古墳と確認
できていません。この南西からも大型の石材の出土が知られており、横穴式石室の古
墳が複数存在した可能性が考えられています。
原川コミュニティー道路(レンガの歩道)
ムクゲ(憲法で定められてるわけではないが韓国の国花と言われる、ムグンファ)
大和川河川敷公園(昼食・解散)
国豊橋へ
大和川
振り返って
高井田駅へ向かう
大和川~遠くに二上山
高井田駅
おまけ
12日に故郷の奄美から届いた時計草(パッションフルーツ)