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8月19日の達磨寺~片岡城跡~貴船神社を歩く

8月23日       8月19日の達磨寺~片岡城跡~貴船神社を歩く
              歩こう会11月例会のコース下見
数年前に奈良県ウオーキング協会主催のJRふれあいハイキングに参加して歩いた
コースを思い出し、知人のM吉さん、I本さん、K場さんと4名で王寺駅から・・・
もう一人、R得さんは途中のせせらぎ公園から参加し、5名でコース下見をした。
コースは、王寺駅10時集合で
王寺駅(10時スタート)~達磨寺~葛下川遊歩道・せせらぎ広場~片岡城跡~伊
邪那岐神社~滝川遊歩道~上牧町2000年会館・やすらぎ公園(昼食休憩)~貴船
神社~志都美駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、21627歩で約12.9㎞歩いた事に、疲れた非常に疲れた・・・
志都美駅
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達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年( 613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。
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葛下川遊歩道
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せせらぎ広場
葛下橋
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片岡城跡へ
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片岡城跡・・・中世の山城「片岡城」
片岡城を築いたのは片岡国春。上牧町内の下牧地区から金富地区へ抜ける峠道の
頂部分に中世の山城と伝えられる片岡城跡があります。片岡城は1550年頃に片岡
国春によって築かれたとされています。下牧に片岡城を築く前は、隣町の王寺町と香
芝市の境界あたりにある小高い山、送迎(ひるめ)山の標高262mのところにありまし
た。この頃の葛城地方は片岡氏に続いて南のほうへ順に岡・万歳・布施・倶志羅・楢
原・吐田の六人が勢力を伸ばし、倶志羅氏以外の五氏はいずれも山城を築いており、
片岡国春の送迎山城も地理的に良く似たところにあります。片岡国春が上牧町内に
新たに築いた片岡城は高さ80mの丘城で、他の山城とは地形的に異なり、要害性に
は劣りますが、片岡谷を見下ろす位置にあり、政治・経済の中枢としての機能は送迎
山城より優れていたと考えられます。片岡城は葛下川を望む上牧第二中学校から葛
下川と滝川との合流点へ続く丘陵地帯に築かれた山城です。
城の西すそを流れる葛下川から見ますと48mの高さの位置にありますが、急な崖で
迫り、当時、すそを覆うように流れていた葛下川がたびたび氾濫を繰り返し、あたり一
面は湿地帯になっていました。また、城の東側にも滝川が流れそれが城の北側で葛
下川と合流、三方を自然の水濠で囲まれた、この近辺では屈指の要害に適した地形
になっていました。片岡氏から松永久秀に変わって・・・松永時代に完成した片岡城、
別々に機能していた曲輪と曲輪を共通に防御できるようになり、このときに片岡城が
完成したと考えられます。この年代は永禄12年から天正5年の8年間と限定できます。
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※細川忠興15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳
天正5年(1577)の、松永久秀による信長への反乱に従い、松永久秀の与力である海老
名某も、河内国片岡城に立て籠もった。これに対し信長は、長岡(細川)藤孝父子、惟
任(明智)光秀、筒井順慶に「3人で押し寄せ、蹴散らせ」と命じた。
これにより十月朔日未明に、この3名による片岡城攻めが始まった。ここで、長岡藤孝
の嫡男與一郎(細川忠興)15歳、その弟の頓五郎(細川興元)14歳の兄弟が真っ先に
駆け入った。織田勢は新手を入れ代わり立ち代わりに攻め立てさせた為、死傷者多く出
て残り少なくなると、「今や叶わじ」と思ったか、城主の海老名は腹を十文字に掻っ切
って伏せ、残る兵たちも、みな思い思いに自害して、同じ枕に臥した。
細川忠興・興元兄弟は、この戦いでの働きにより信長から直筆の感謝状をもらっている。

案内板の横のお地蔵さん
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伊邪那岐神社
下牧と金富との間に横たわる山の頂にあり、祭神は伊邪那岐命です。
主神の伊邪那岐命を中央にして、相殿とし春日、八幡、住吉、稲荷の神をまつっています。
もと指定村社で、町内の神社では格式が高いとも言われていました。
神殿は流れ造りで明治12年(1879)の造営で昭和43年(1968)に改築されています。
もと東田口の忍山(しのんやま)にありましたが疫病が流行したので静寂の聖地をもとめ
て現在の地に移したといわれています。 旧地は現在住宅化している丘陵の中央で頂上
が平地になっていました。そのころは五社神社と言われていたようです。
また足利の末期に片岡国春がここに片岡城を築いたときに春日、八幡の両神を守護神と
してまつったという言い伝えもあります。『延書式巻九』の神名帳には、「葛下郡伊邪
奈岐神社」と書かれている神社がこれではないかといわれています。
また『大和国町村誌集』には「下牧、神社、伊邪奈岐神社」とあり、明治24年の『神社
明細帳』にも「伊財奈岐神社」とかかれていますが、今は伊邪那岐神社と書いています。
境内に末社はありませんが石灯篭が数多く並んでいて、信仰の篤さを示しています。
その石灯篭の中には寛文年号のものもあります。
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片岡城跡
案内板の横のお地蔵さんへ戻る
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滝川遊歩道~
上牧町2000年会館・やすらぎ広場(昼食休憩)
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※虹の湯
神の牧温泉。泉質はナトリウムー塩化物温泉。
適応症
・神経痛・筋肉痛・関節痛・五十肩・運動麻痺・間接のこわばり・うちみ・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・きりきず
・やけど・慢性皮膚病・虚弱児童・慢性婦人病
現在は、スーパー銭湯形式で大野天風呂が魅力の「虹の湯」が営業しています。

貴船神社
智照寺山にあり、祭神は罔象女命(春日)、保食神(稲荷)、素盞鳴命(八坂)、
別雷神(加茂)を祀り、智照神社の奥の宮といわれてる。社殿は神明造りで、元は
上牧小学校の奉安殿であったのを移築する。この近くに葦田池があったと伝えられ、
地形上から延喜式内の古社「深溝神社」ではないかといわれている。
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志都美駅へ皆さんを送って
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コメント 2

mamu7010

 集合場所には、公共交通機関は使いたくないですネ~?。
片岡城跡への道まさか平坦とは思いませんが、キツそうですネ。
その分帰り道は、気持ちよかった?かナ。
今回は虹の湯、パスだったですか?
by mamu7010 (2020-08-25 18:33) 

taharas

mamu7010 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
片岡城跡への坂道は非常に急でつらい坂道でした・・・
今日のコースのままでは歩こう会会員には薦められません。
辛い疲れるだけ?のコースでした。
by taharas (2020-08-27 00:50) 

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