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5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-2

5月10日     5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-2 
           今井町を抜け、新緑の畝傍山眺めて 歩程約10㎞
午後から雨予報にも係らず近鉄ハイキングに3人で参加、終盤小雨、最後本降り、
橿原神宮前駅へ1人別れて、最後の大久保神社へは残った2人で全行程制覇・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大和八木駅受付9:30~11:00  10:00集合
大和八木駅(受付)~人麿神社~入鹿神社~今井町~高市御縣神社~河俣神社
~木葉神社~綏靖天皇陵~神武天皇陵~大久保神社~畝傍御陵前駅(ゴール)
此の日の私の万歩計は、26369歩で約17.8km歩いたことに・・・
志都美駅
左側の葛城山~右側の二上山
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畝傍駅で近鉄線へ乗り換え
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近鉄線八木西口駅
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大和八木駅(受付・スタート)
畝傍山(うねびやま)
畝傍山は、天香久山、耳成山と共に大和三山と呼ばれ、2005年(平成17年)には
他の2山と共に国の名勝に指定された。標高は198.8mと三山の中では最も高い。
ただし、山頂に有る三等三角点の標高は198.49mである。歴史的風土特別保存
地区にも指定されている。畝傍とは「火がうねる」の意味で有る。田の畝のように
くねくねした尾根を多く持つことから名付けられたとも云われる。山頂への登山口
は、東麓の橿原神宮側と、西麓の畝傍山口神社側が有る。山頂からは天香久山
や耳成山の他、遠く若草山なども眺望する事が出来る。
・・・此の日は麓から眺めるだけ

人麿神社へ向かう
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人麿神社(ひとまろじんじゃ)
地黄集落北西に鎮座、柿本人麻呂を祀る。旧村社。現奈良県新庄町の柿本神社
から分祀したと伝える。「西国三十三所名所図絵」に、「人麻呂祠、地黄村にあり。
柿本大明神の額を掲ぐ。かたはらに池ありて此周に数珠の桜樹をうえたり、花の
ころは美観とす。遠近より衆人うちむれて、終日詩を賦し歌よみ舞うたひて酒宴を
もよほす。桜の下に観音の小堂ならびに玉津島明神の小祠あり。」
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入鹿神社へ向かう
池の向こうに二上山が・・
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入鹿神社(いるかじんじゃ)
神社の伝えによると、乙巳の変(645年6月12日)で蘇我入鹿が飛鳥板蓋宮で中大
兄皇子や中臣鎌足らに倒された時、その首が小網町(しょうこうちょう)に飛んで来
たのを祀ったと言われている。入鹿は首を斬られたので、入鹿神社が首から上の
病に霊験あらたかと言う信仰がある。頭痛になやむ人々には同情的で頭痛に霊験
あらたかな入鹿神社として知られている。又、蘇我入鹿が鶏鳴を合図に首をはねら
れたので、昔は小網では鶏を飼わなかったとか、小網では蘇我入鹿を暗殺した中
臣鎌足を祀る多武峰へ参ると腹痛が起るとか、明日香村小原は中臣鎌足の母の
出生地だという事で小網町と小原は縁組しない等多くの伝説がある。
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   大日堂
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今井町へ向かう
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今井町(いまいちょう)
かつて「大和の金は今井に七分」といわれるほど繁栄した今井町。現在も町の
大半の町家が大切に保存され、江戸時代の姿を残しています。時代劇の撮影
などにも使われる町並みは、世界的に貴重な財産であり、平成5年には「重要
伝統的建造物群保存地区」の選定を受けています。NHK朝の連続テレビ小説
「あさが来た」の撮影現場にも選ばれ話題にもなりました。東西約600m、南北
約310m、面積にして17.4haの地区内には、全建物数1500棟弱のうち、約500
棟の伝統的建造物があり、全国で最も多い地区となっています。
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順明寺
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の
御堂ともよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破
風(ちどりはふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双
金具(いりはっそうかなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての
確証はありませんが、文献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが
窺われます。扉以外はすべて建立当初の材を残している、貴重な門です。
1217年(建保5年)に照意房順明が十市郡新賀庄に創始して、1626年
(寛永3年)に現在地に移したと言われています。
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此処までは、
5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-1  として
              下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2017-05-10 
此処では、この続きの今井町~の詳細についてを
5月6日の大和三山を眺めて 第1弾・大和八木駅-2 として掲載します。 
今井町華甍の庭で昼食
今井まちなみ交流センター華甍
奈良県指定文化財・旧高市郡教育博物館。今井町旧環濠外の東南部にある。2階
建の本館を中央に配し、両側に左右対称に翼廊がある。明治36年に建設された博
物館であるが、昭和初年より約30年間今井町役場として使用されていた。外観は大
和にふさわしく、和風的にまとめた県下では数少ない明治建築である。江戸時代の
町並を残す、今井町の町並みについての展示コーナー、映像シアターまた情報提供
の図書室等があります。
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今井町花甍の駐車場の直ぐ前
高市御縣神社(たけちのみあがたじんじゃ)
四条町の北部、今井町との境に鎮座。祭神は 高市県主の祖天津彦根命と高皇産霊
神。近世に 苔の宮・高県(こけ)の宮・高木(こうき)の宮と称したことから、 「延喜式」
神名帳高市郡の「高市御県神社名神大、月次新嘗」 に治定。高市御県神社は大和
六処御県神社 の一で(「延喜式」月次祭祝詞)、御県は朝廷直轄領 にあたる。大同
元年(806)に神封二戸があて られ(新抄格勅符抄)、天安三年(859)一月二七 日、
従五位下より従五位上に昇叙(三代実録)、 「延喜式」神名帳によると御県の神のな
かで唯一 名神祭にもあずかった。高市県については「古 事記」神代巻に「天津日子
根命者高市県主等之祖 也」とあり、「日本書紀」天武天皇元年(672)七 月条に「高市
県主許梅(こめ)」の名がみえる。所在は明 確ではないが、現曾我町字宮毛説が有力
で、現 橿原市の西部地域に推定されたいる。「延喜式」 神名帳高市郡には高市御県
坐鴨事代主神社 (現橿原市雲梯町の河俣神社に比定)の名がみえる。 文政二年(18
29)津田長道の著した「卯花日 記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にし
て、今は今井に家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主も
な ければ、此家より神供灯明のことを物しける。 高木の宮と云也といへり」という記述
がある。
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河俣神社へ向かう
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川俣神社(かわまたじんじゃ)
主祭神:鴨八重事代主神。河俣神社は、奈良県橿原市にある神社である。式内社で、
旧社格は村社。『出雲国造神賀詞』に皇室を守護する神として「事代主命の御魂を宇
奈提の神奈備に坐せ」とあり、この「宇奈提(うなせ)」は「雲梯(うなて)」のことである
として、延喜式神名帳に記載される式内大社「大和国高市郡 高市御坐鴨事代主神社」
に比定されている(延喜式神名帳には「川俣神社三座」という社名が見えるが、これは
近くの木葉神社に比定されている)。
『日本書紀』によれば、壬申の乱の際、高市郡大領高市縣主許梅に「高市社に居る事
代主神」が神懸りし、大海人皇子(後の天武天皇)を守護すると神託した。大海人皇子
の即位後、この霊験により、高市御坐鴨事代主神に、史上初となる神位が授けられて
いる。万葉集にも当社のことを詠んだ歌がある。住吉大社(大阪市住吉区)には畝傍
山口神社境内における埴取の神事があるが、その祭祀を行う者は当社で装束を整え
ることが恒例となっており、そのことから「装束の宮」と俗称される。
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木葉神社へ向かう
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木葉神社(このはじんじゃ)
木葉神社は、奈良県橿原市雲梯町初穂寺にある神社。御朱印の有無は不明。『延喜
式神名帳』にある「川俣神社三座(大和国・高市郡)」に比定される式内社(大社)。近
代社格では無格社。創建年代は不詳。現在の御祭神は木花咲耶姫命。本来は川俣
公の祖である彦坐命を祀っていたと考えられている。中世以降は荒廃し、神仏習合に
よって僧坊が建てられた。これが初穂寺である。 当社はその初穂寺の隅に「浅間権現」
と呼ばれる祠で祀られた。あるいは「富士権現」と呼ばれた。いわゆる、浅間神社になっ
た。『大和志』に「川俣八王子」とあるのが当社で、八王子が初王子となり、さらに初穂寺
と変わったという。これが当社の式内比定根拠。当社は曽我川西岸に鎮座するが、対
岸の東岸には、式内社「高市御縣坐鴨事代主神社」に比定される河俣神社がある。
河俣神社は、式内社「川俣神社」と混同して、現社号に定着した、ともされている。一方の
当社名称の変遷や解釈はより不可解か。 明治初年に、御祭神名から木華神社に改称、
その後現社号に改称した。現在も「権現さん」、初穂寺の名から「八王子さん」とも呼ばれ
ている。
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橿原市運動公園へ向かう
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橿原市運動公園
橿原市では、市民の皆さんに健康で文化的な生活をエンジョイしていただくために、各種
スポーツ、レクリェーション施設を集結した、総合的な運動公園です。プール、硬式野球、
軟式野球、ソフトボール、テニス、サッカーなどがお楽しみいただけ、また、軽スポーツも
楽しめ、くつろぎスペースとしても利用できる芝の多目的広場もあります。
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綏靖天皇陵へ向かう
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綏靖天皇陵(すいぜいてんのうりょう)
第2代天皇(在位:綏靖天皇元年1月8日 - 綏靖天皇33年5月10日)。和風諡号は、『日
本書紀』では「神渟名川耳天皇(かんぬなかわみみのすめらみこと)」、『古事記』では
「神沼河耳命」。神武天皇(初代天皇)の皇子。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載は
あるが事績の記述は少なく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
『日本書紀』によると、神渟名川耳尊は神武天皇42年1月3日に立太子した。
神武天皇76年3月11日に父天皇が崩御した際、朝政の経験に長けていた庶兄の手研
耳命(たぎしみみのみこと)は、皇位に就くため弟の神八井耳命・神渟名川耳尊を害そ
うとした。己卯年11月、この陰謀を知った神八井耳・神渟名川耳兄弟は、神武天皇の山
陵を築造し終えると、弓部稚彦に弓を、倭鍛部の天津真浦に鏃を、矢部に箭を作らせた。
そして片丘(奈良県北葛城郡王寺町・香芝町・上牧町付近か)の大室に臥せっていた手
研耳を襲い、これを討った。この際、神八井耳は手足が震えて矢を射ることができず、代
わりに神渟名川耳が射て殺したという。神八井耳はこの失態を深く恥じたため、神渟名
川耳が皇位に就き、神八井耳は天皇を助けて神祇を掌ることとなった。
翌年(神武崩御の4年後;綏靖天皇元年)1月8日に即位し、宮を葛城高丘宮に遷した。
その後、綏靖天皇33年5月10日に在位33年にして崩御した。時に『日本書紀』では84歳、
『古事記』では45歳という。安寧天皇元年10月11日、遺骸は「桃花鳥田丘上陵」に・・・・
伝承:南北朝時代の編とされる『神道集』によれば、綏靖天皇には食人の趣味があり、
朝夕に7人もの人々を食べて周囲を恐怖に陥れたため、人々は「近く火の雨が降る」
との虚言を弄し、天皇を岩屋に幽閉して難を逃れたという。
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神武天皇陵(じんむてんのうりょう)
初代天皇とされる神話・伝説上の人物(在位:神武天皇元年1月1日 - 神武天皇76年
3月11日)。和風諡号は、『日本書紀』では「神日本磐余彦天皇(かんやまといわれひ
このすめらみこと)」、『古事記』では「神倭伊波礼毘古命」。また幼名は「狭野尊(さの
のみこと)」、諱は「彦火火出見(ひこほほでみ)」。日本皇統の祖としている。
神武天皇の即位月日とされる1月1日(旧暦)は、明治に入り新暦に換算され、2月11
日となり、日本国の建国の日として1873年(明治6年)に「紀元節」(祭日)と定められ
た。紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたが、1967年(昭和42年)に「建国記念
日」として国民の祝日となった。
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大久保神社へ向かう
喜多酒造(株)(御代菊)
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大窪寺跡 & 歴代天皇遥拝所
大窪寺跡(おおくぼでらあと/おおくぼてらあと)は、奈良県橿原市大久保町にある古代
から中世の寺院跡。史跡指定はされていない。跡地付近に所在する浄土宗の国源寺
観音堂(こくげんじ かんのんどう)が法燈を継承するとされ、同寺の境内に伝世される
塔心礎は大窪寺のものと推定される。創建は不明(出土瓦によれば白鳳期か)。史書
には大窪史(おおくぼのふひと、大窪氏)一族の記載が見え、大窪史と大窪寺の関係を
推測する説(一説に氏寺)もある。古く『日本書紀』朱鳥元年(686年)8月21日条には、
檜隈寺(寺跡は明日香村檜前)・軽寺(寺跡は橿原市大軽町)・大窪寺の3寺に30年を
限とする封100戸の寄進の記事が見える。持統天皇8年(694年)の藤原京遷都後は、
寺域はその京域内に所在した。また延久2年(1070年)の「興福寺雑役免帳」に大窪寺
領の記載があるほか、室町時代の「越智郷段銭帳」にも「大窪寺 四町八段半」とあり、
鎌倉時代末頃までの存続が確認される。その後、『大和志』や文政12年(1829年)の
『卯花日記』では、跡地の様子が記述されている。
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大久保神社
社殿は、畝傍山や神武陵を背に東面して建つ。境内はとても綺麗に整備され、ている。
今なお厚い信仰に支えられているのが判る。天和2年(1682)5月銘の石燈籠がある。
社家は松原家で、永禄8年(1565)以来、京都の白川伯王家(伯家神道の家元)から
神職免許を受け代々世襲していた。白川家では、同家を「神武天皇御陵神主」と弥ん
でいたという。 …雨になってしまった。
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畝傍御陵前駅(ゴール) …本降りになって
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畝傍御陵前駅→大和八木駅→五位堂駅→バスで自宅へ

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コメント 2

mamu7010

 天気なら結構楽しめるコース?
畝傍山には是非とも挑戦したいと思っています。
橿原神宮前周辺、何度行っても・何度でも行きたい
コースですね。
by mamu7010 (2017-05-10 21:03) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
折角の大和三山・畝傍山だったのに1枚も撮ってなかった・・・
ゴールは綺麗な円錐形に見える畝傍御陵前駅前だったのに?
by taharas (2017-05-10 21:40) 

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