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9月19日のJRふれあいハイキング・京都駅~2

9月23日         9月19日のJRふれあいハイキング・京都駅~2
            平安神宮拝観&神苑無料公開ウオーク
知人と2人で参加、清々しいハイキング日和の中で京都散策?他素晴らしい・・・
コース  JRふれあい  NPO法人京都府ウオーキング協会主催 
                参加費用 300円 歩程約10km
京都駅中央口前東側広場(受付・スタート)~大和大路通~八坂通~摩利支尊天堂
~建仁寺~八坂の塔()~高台寺公園~知恩院~青蓮院~岡崎公園(昼食)~平安
神宮・神苑散策~阻水の横・二条通~二条大橋~三条・四条(鴨川遊歩道)~五条
児童公園・五條大橋・牛若ひろば・弁慶と牛若丸~京都駅(ゴール)
志都美駅
京都駅前広場・京都タワー~七条大橋を渡って鴨川遊歩道
七条大橋
京都は、電気鉄道事業の発祥地である。
新橋(東京都)・横浜(神奈川県)間で日本初の鉄道が開通し、蒸気機関車が走るように
なったのは、1872(明治5)年のことだった。それからわずか23年後の、1895(明治28)
年2月1日に京都電気鉄道が、京都駅に近い「東洞院塩小路下ル駅」から「伏見下油掛
(しもあぶらかけ)駅」までの約6kmの区間で、日本で初めてとなる(路面)電車の営業
運転を開始している。1913(大正2)年に完成した七条大橋は、日本初の鉄筋コンク
リート・アーチ橋で、橋長が約112mもある巨大な6連の橋だった。建築様式としては
ウィーン分離派(セセッション)の影響を受けており、近代建築らしき堂々たるたたず
まいの中にも、平面と直線を多用するセセッションならではの特徴が見て取れる。
19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパに「新たな近代の美」をもたらした芸術運動
の、その余熱が七条大橋の「ハイカラさ」にこめられているのだ。実は、同時期に
竣工した四条大橋にも、同じデザインが用いられていた、しかし水害などにより、
四条大橋は1942(昭和17)年に架け替えられているし、丸太町橋はそれより早い
1930(昭和5)年に更新されているため、現在の鴨川に架かる橋の中では、
七条大橋が最も古い橋だということになる。明治期の意匠と息吹を今に伝えて
いるのも、唯一、七条大橋だけであることから、竣工100周年を迎えたこの橋は
「土木学会選奨土木遺産」にも認定されている。
鴨川
河川法における鴨川の起点は、京都市北区雲ケ畑の出合橋付近である。
北区雲ケ畑の桟敷ヶ岳東部の谷を源とする祖父谷川と、桟敷ヶ岳南部の薬師峠を源とする
雲ケ畑岩屋川が雲ケ畑岩屋橋で合流し雲ケ畑川となる。雲ケ畑川は、雲ケ畑の魚谷山南部
の谷を源とする中津川と出合橋で合流し、これより「鴨川」となる。鴨川起点の表記は中
津川下流域にあるため、これに従うと源流は中津川であると考えられるが、これはあくま
でも河川法上での扱いであり、伝統的には桟敷ヶ岳を源流と見なす人も多い。古代の鴨川
上流域は賀茂氏の本拠地であった。上賀茂神社、下鴨神社はその氏神を祀る。下流域に
は山背国に配置された秦氏が定住していた。平安京においては都の東限となる。なお、
鴨川が平安京の東限とされた理由として、初代造宮大夫である藤原小黒麻呂が新京
予定地域である葛野郡に視察に入り「地相」を占したとされることや、作庭記を根拠に、
風水の四神相応の思想を反映させたものとする説がある。しかし、作庭記は平安京
の地勢については言及しておらず、また平安京造営に際した詔や奏じられた踏歌に
おいてもそういった考えについては触れていないことから、四神相応の思想が造都
工事に影響を与えたという史学的根拠はなく、後世における推論が通説化したもの
と考えられる。中世には京都市街に隣接する河原が歓楽地となり、多くの芸人が集
まるようになった。その中の一人に出雲阿国がいる。
1614年(慶長19年)には角倉了以・素庵父子によって高瀬川が開鑿され、京都と大阪
を結ぶ水路として利用された。1890年(明治23年)には琵琶湖疏水によって琵琶湖と
も結ばれた。しかし20世紀に入ると、鉄道の開通によりこれらの水運は衰退した。
鴨川遊歩道
京都駅近くから出町柳(賀茂川と高野川の合流点)を超えてさらに北へ 西賀茂橋を
こえるあたりまで川沿いに約10キロ程度続く道です。
大和大路通~八坂通~摩利支尊天堂
摩利支尊天堂 山門
「建仁寺・禅居庵 開運摩利支尊天」との石碑が建ち、狛犬ならぬ狛猪が出迎えてくれる。
摩利支尊天は猪に乗った、二臂(にひ)の女神像で知られており、猪とは縁の深い神様なの
である。禅居庵の境内にあり、禅居庵は非公開なのだが、摩利支天尊堂は自由に拝観する
ことが出来る。 建仁寺の境内からも禅居庵の門から、摩利支天尊堂へと入ることが出来
る。門にある説明には、『当庵ご開山、大鑑禅師は執権北条高時の詔により、嘉暦元年
(1326)秘仏摩利支天尊像を袈裟に包み元の国より来朝され、 翌年、当庵鎮守、摩利
支尊天堂にお祀りをされました。現存する堂宇は、天文16年織田信長の父、信秀により
建立され、元禄・享保・安政・明治年間に整備改修を重ね、平成7年には大屋根の大修
理をして今日に至っています。』
建仁寺
建仁寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派大本山の寺院。山号を東山と号する。
本尊は釈迦如来、開基は源頼家、開山は栄西である。 京都五山の第3位に列せられている。
俵屋宗達の「風神雷神図」、海北友松の襖絵などの文化財を豊富に伝える。建仁寺は建仁
2年(1202年)将軍源頼家が寺域を寄進し栄西禅師を開山として宋国百丈山を模して建立
されました。元号を寺号とし、山号を東山(とうざん)と称します。 創建時は真言・止観
の二院を構え天台・密教・禅の三宗兼学の道場として当時の情勢に対応していました。
その後、寛元・康元年間の火災等で境内は荒廃するも、正嘉元年(1258年)東福寺
開山円爾弁円(えんにべんえん)が山に入寺し境内を復興、禅も盛んとなりました。
正元元年(1259年)宋の禅僧、建長寺開山蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が入寺して
からは禅の作法、規矩(禅院の規則)が厳格に行われ純粋に禅の道場となりました。
やがて室町幕府により中国の制度にならった京都五山が制定され、その第三位とし
て厚い保護を受け大いに栄えますが、戦乱と幕府の衰退により再び荒廃します。
ようやく天正年間(1573-1592年)に安国寺恵瓊(あんこくじえけい)が方丈や仏殿
を移築しその復興が始まり、徳川幕府の保護のもと堂塔が再建修築され制度や学問
が整備されます。明治に入り政府の宗教政策等により臨済宗建仁寺派としての分派
独立、建仁寺はその大本山となります。また廃仏毀釈、神仏分離の法難により塔頭
の統廃合が行われ、余った土地を政府に上納、境内が半分近く縮小され現在に
いたります。
八坂の塔
法観寺(ほうかんじ)は京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は霊応山。
観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂
の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築
物がないことから、「八坂の塔」は寺自体を指す通称ともなっている。伝承によれば五重
塔は592年に聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際仏舎利を三粒を
収めて法観寺と号したという。聖徳太子開基説は『山城州東山法観禅寺仏舎利塔記』
(暦応元年・1338年)にみられ、近世の地誌類はこれを踏襲している。創建時の伽藍は
四天王寺式伽藍配置または法隆寺式伽藍配置だったと考えられている。聖徳太子創建
の伝承は信憑性に疑いがあるものの、平安京遷都以前から存在した古い寺院である
ことは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという
見方が有力である。
高台寺&高台寺公園
鷲峰山(じゅぶざん)高台寺(臨済宗建仁寺派)
東山霊山(りょうぜん)の山麓、八坂法観寺の東北にある。正しくは高台寿聖禅寺といい、
豊臣秀吉没後、その菩提を弔うために秀吉夫人の北政所(ねね、出家して高台院湖月尼
と号す)が慶長11年(1606)開創した寺である。寛永元年(1624)7月、建仁寺の三江
和尚を開山としてむかえ、高台寺と号した。造営に際して、徳川家康は当時の政治的
配慮から多大の財政的援助を行なったので寺観は壮麗をきわめたという。現在旧持
仏堂の開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台等が国の重要文化財に指定され
ている。 秀吉と北政所を「霊屋(おたまや)」に祀り、北政所像の下はその墓所と
なっている。須弥壇(しゅみだん)と厨子は華麗な蒔絵装飾が施され、桃山美術を
代表する「高台寺蒔絵」として知られる。開山堂を中心に東西に広がる池庭は
小堀遠州作と伝えられる。 尚、豊臣秀吉夫人(北政所)は天正16年(1588)に
従一位に序せられ慶長8年(1603)に後陽成天皇より高台院の号を賜り寛永
元年(1624)9月6日、76才で亡くなられた。
知恩院
知恩院(ちおんいん)は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。山号は華頂山
(かちょうざん)。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おお
たにでら)。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)
は法然である。浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てら
れた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。
徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて
「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房
源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその
起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれ
た。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山
でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを
取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読ん
で「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年
(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥
陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教
側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。法然は建永2年(1207年)には讃岐国
(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、
翌年の1月、80歳で没した。
法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」「大谷
禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は、流罪となった晩年の数年間を
除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の
中心地となった。ここに法然の廟が造られ、弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)、
延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる
勢観房源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。
その後も永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興され
ている。浄土宗徒であった徳川家康は慶長13年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、
諸堂の造営を行った。造営は江戸幕府2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門
は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至
堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光のもとでただちに再建が進められ、寛永
18年(1641年)までにほぼ完成している。
徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉
存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、二条城とともに京都に
おける徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を
牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。
青蓮院
9歳の春、親鸞聖人(松若丸)は出家得度の意を固められ、叔父・範綱卿に手を引かれ、
京都・東山の青蓮院を訪ねられました。青蓮院は比叡山の座主を務める慈鎮和尚の
寺でし­た。親鸞聖人は、「次は、私が死んでいかなければならないと思うと、不安なん
です。何としても、ここ一つ、明らかになりたいのです」と、出家得度を願われました。
慈鎮和尚は、「わずか9歳で出家を志すとは尊いことじゃ」と驚き「明日、得度の式を
あげよう」と言いました。付き添いの範綱卿に、異存のあるはずがありません。しかし、
聖人は、紙と筆を持たれて、「明日ありと 思う心の あだ桜 夜半に嵐の 吹かぬ
ものかは」と一首の歌を記されました。「おお……」受け取った慈鎮和尚は、背を寒く
したように、その歌に打たれました。「今を盛りと咲く花も、一陣の嵐で散ってしまい
ます。人の命は桜の花よりもはかなきものと聞いております。明日といわず、どうか
今日、得度していただけないでしょうか」「そこまでそなたは、無常を感じておられる
のか……。分かった。じゃあ早速、得度の式をあげよう」かくて、その夜のうちに得度
の式を終え、聖人の髪はきれいに剃り落とされました。それは同時に、天台宗比叡
山での、20年間に及ぶ、血のにじむご修行のスタートでもあった­のです。
岡崎公園で昼食
岡崎公園は東山及び比叡山を背景に、東には南禅寺や永観堂、北には平安神宮がある環境
に恵まれた一帯です。 明治28(1895)年に開催された第4回内国勧業博覧会の跡地の一部が
公園地として指定され、明治37(1904)年7月8日に開設されました。 周辺には、京都会館
・京都市勧業館みやこめっせ・京都国立近代美術館・京都市美術館・京都府立図書館
・京都市動物園・琵琶湖疏水・インクラインなどの施設があり、このあたり一帯を、岡崎
公園と一般に呼ばれています。春の桜の頃は、岡崎桜回廊と呼ばれ、赤橋から望む
疎水沿いの桜と、疎水を運行する十石舟、まさに桜一色です。
此処までは、9月19日のJRふれあいハイキング・京都駅~1 として
             下記のセカンドブログへ投稿済みです。
         http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2015-09-23
此処では
平安神宮&神苑を掲載します。
平安神宮
1895年(明治28年)4月1日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された内国勧業博覧会
の目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。当初は実際に大内裏があ
った千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されたが、用地買収に失敗し、当時は郊外で
あった岡崎に実物の8分の5の規模で復元された。博覧会に先立つ3月15日には、平安遷都を
行った天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。皇紀2600年にあたる
1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に
加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。社殿は平安京の
大内裏の正庁である朝堂院(八省院)を縮小(長さ比で約8分の5)して復元したものである。
大きく赤く光る朱色が特徴的な正面の門は、朝堂院の應天門を模している。その内側の
左右の殿舎は朝集堂の再現である。外拝殿は朝堂院の正殿である大極殿(左右には
蒼龍楼と白虎楼が付属する)を模している。基本的にはこれらの建築様式は、平安
時代後期(11 - 12世紀)の第3次八省院(延久4年(1072年)再建、治承元年(1177年)
焼亡)を再現したものとなっている。この時の大極殿などの姿は、後白河法皇が作らせ
た「年中行事絵巻」に描かれている。ただ、大極殿と応天門の間には本来は会昌門と
朝堂12堂が存在し、応天門の左右には翔鸞楼と栖鳳楼という楼閣が付属していたが、
これらは平安神宮では復元されていない。また、平安神宮の社殿の瓦はすべて緑
釉瓦となっているが、近年の研究によると平安時代の大極殿では軒先と棟部分だけ
にしか緑釉瓦は使われていなかったと推定されている。敷地面積は約10,000坪の
日本庭園である「平安神宮神苑」を含め、約20,000坪ほどある。神苑は明治から
昭和にかけての名造園家である7代目・小川治兵衛(植治)が20年以上かけて
造った名園で、国の名勝に指定されている。琵琶湖疏水から水を引き入れており
琵琶湖では外来魚のために見かけることが出来なくなったイチモンジタナゴが
生存していることが確認されている。神苑には人里には少ないカワセミやオオタカ
などの鳥類や、甲羅に草を生やすミノガメ日本では非常に珍しいミナミイシガメなど
が棲息している。
創建を記念して、平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになった。
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   平安神宮神苑
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   市電
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   キノコも
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  神苑出口へ
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  神苑を出て
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平安神宮を後にして二条大橋へ向かう
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此処から先の続きは、下記のセカンドブログへ投稿します。
           http://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/
琵琶湖疏水
琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したもので
ある。両疏水を合わせ、23.65m3/s[1]を滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、
水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。また、疏
水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用と
て日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて
京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代
化に貢献した。水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結んだ。落差の
大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路
上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止された
が、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。無鄰菴や平安神宮神苑、
瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本
願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。
また疏水百選の一つである。琵琶湖疏水開通まで京都市は禁門の変で市中の大半
が焼け、明治維新と東京奠都に伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都
府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を
計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ
設計監督にあたらせた。第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23
年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成
した。4月9日には明治天皇・昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ竣工式を挙行している。
第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、
その財源には産業基立金、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対して
の目的税も充てられた。また、水力発電は当初は計画されなかったが、田邉らが
アメリカで視察したアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上
発電所を建設し、1891年(明治24年)に運転が開始された。この電力を用いて、
1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気
鉄道(京電)の運転が始まった。鴨川合流点から伏見堀詰の濠川までの鴨川
運河は、1892年(明治25年)に着工し、1894年(明治27年)に完成した。第2疏水
は、第1疏水でまかないきれない電力需要に対応するとともに、新設する近代上
水道のための水源として、京都市により「三大事業の一つとして進められた。
1908年(明治41年)に着工され1912年(明治45年)に完成し、取水量は第1第2
合わせて毎秒850立方尺 (23.65m3) となった。日本初の急速濾過式浄水場で
ある蹴上浄水場はこの時に設置されている。なお、疏水を掘り進める際に生じ
た砂は当時の滋賀県知事の許諾を得た上で、琵琶湖の埋め立てに用いられた
(現在のびわこ競艇場の場所)。
二条大橋~三条大橋~鴨川遊歩道

鴨川遊歩道~四条大橋~五条児童公園~五條大橋から鴨川を・・・

牛若ひろば~弁慶&牛若丸~京都駅へ向かう

おまけ
近鉄郡山駅~JR郡山駅へ他


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Sceneway

taharasさん初めまして Scenewayと申します。
去年、私の山ブログに来られてコメントまでいただいたのに今まで気づきませんでした。ほんとうにすみません。
山ブログはほぼ停止状態でして申し訳ありません。
それにしてもすごい量のスレッドですね。読み応えがありそうです。

奄美出身で現在奈良にお住まいとか、当方も年に一度奈良に帰省しますので近しい気分になりますね。

山ブログは停止状態ですが、中国夢時間と言うブログ(名前のリンク)で活動中です。
今後ともよろしくお願いいたします。
by Sceneway (2015-09-23 02:54) 

taharas

Scenewayさん
コメント有り難うございます(o^-^o)
高取城跡気に入っています、今年もう一度行く予定です。。。
中国夢時間ブログ覗いてみた、又じっくり見させて貰います。
by taharas (2015-09-23 21:46) 

hatumi30331

風景が、秋めいてきたね。
by hatumi30331 (2015-09-24 20:54) 

mamu7010

 秋冬春の(夏以外の)京都、実は大好きです。
昔々の遠足の思い出が、ほんの少し甦ってきます。

by mamu7010 (2015-09-25 12:43) 

taharas

hatumi30331さん
コメント有り難うございます(o^-^o)
秋って良いですね、紅葉好きです。。。。
by taharas (2015-09-25 15:55) 

taharas

mamu7010さん
コメント有り難うございます(o^-^o)
知恩院、岡崎公園、平安神宮には初めて行きました。
明治の内国勧業博覧会5回の開催地、東京3回京都1回大阪1回が。。
by taharas (2015-09-25 16:05) 

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