SSブログ

10月13日 南生駒の石の文化財巡り-2

10月17日         10月13日 南生駒の石の文化財巡り-2
               11月度歴史探訪の会コース下見
此の日は、当初10日に予定してたが台風14号の影響で13日へ延期して5名の予定が
3名に減り、生駒市のボランティアガイドの方々は、I 西さん含む4名、我々は私と
K場さんI 本さんの3名、7名でのハイキングとなった、お願いしてたコースに1ヶ所
追加したい場所が有る(石佛寺)との事で下見コースに追加してスタート・・・
コース
萩の台駅~石福寺~応願寺~石佛寺~円福寺~興融寺~竹林寺~観泉寺~菊司醸造
(試飲・11月例会時の対応をお願い)解散~南生駒駅(我々3名は此処で解散)
此の日の私の万歩計は、17866歩で約10.7㎞歩いた、藤尾峠への上り下りが効いた?
11月の例会本番には、藤尾峠(石佛寺)への上り下りはやはり困難、外すしか無い。
志都美駅
DSC06863.JPG

近鉄生駒線王寺駅
DSC06865.JPG

萩の台駅で生駒市ボランティアガイドの方々と待ち合せて検温&手指消毒し出発。
DSC06866.JPG
DSC06867.JPG
正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
大阪平野の大念仏寺で行われる25菩薩お練り行に毎年参列する信心深い地域という。
DSC06868.JPG
DSC06869.JPG
逆修の十三仏板碑
境内前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)
のもので歴史が感じられる。
DSC06870.JPG
※逆修
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈るための仏事をすること。その為
に建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修 。

※乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商(造り酒屋)だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り入れ
ようと、村人に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。平成19年
(2007)には「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財に指定。生駒
市萩の台の石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなくなってしまった
「村芝居」の資料が展示・保存されている。館内には芝居用具や、舞台で使われた浄瑠
璃本、練習用の版本など、さまざまな資料が展示され、村芝居を中心に人々が集った、
古き良き時代を偲ばせる。
応願寺へ向かう
DSC06874.JPG

DSC06875.JPG

竜田川
DSC06877.JPG

川を渡って国道を渡って
DSC06878.JPG
DSC06880.JPG
祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月11
日の銘有り、伊派(伊行末が創始)の石工伊行氏の作と考えられている。
DSC06882.JPG

DSC06884.JPG

DSC06885.JPG

DSC06889.JPG
DSC06890.JPG
※伊行末(いぎょうまつ)
伊 行末(いぎょうまつ、い の ゆきすえ、? - 文応元年7月11日(1260年8月19日))
は、鎌倉時代の石工。南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、鎌倉時代初
頭に来日し南都焼討後の東大寺復興にあたった。我が国の石工集団「伊派」の創始
者であり、彼の子孫は「伊」「猪」「井」を冠する苗字を名乗り(例えば伊野、猪
野、井野)、日本各地にその足跡を残している。
代表的な作品
• 新大仏寺本尊石造台座、建仁2年(1202年)重要文化財
• 大野弥勒磨崖仏、承元2年(1208年)史跡
• 大蔵寺十三重石塔、延応2年(1240年)奈良県指定文化財
• 般若寺十三重石塔、建長5年(1253年)

石佛寺へ向かう
DSC06892.JPG
DSC06893.JPG
石佛寺
奈良県生駒市藤尾町 石佛寺。暗越え奈良街道の西、藤尾峠に在る石佛寺
本尊は伊派(創始者は伊行末)の石工伊行氏作で光背部に観音・勢至菩薩を浮き
彫りにして阿弥陀三尊としています。
DSC06894.JPG
DSC06895.JPG
DSC06896.JPG

DSC06897.JPG
※伊行末(いぎょうまつ)
伊 行末(いぎょうまつ、い の ゆきすえ、? - 文応元年7月11日(1260年8月19日))
は、鎌倉時代の石工。南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、鎌倉時代初
頭に来日し南都焼討後の東大寺復興にあたった。我が国の石工集団「伊派」の創始
者であり、彼の子孫は「伊」「猪」「井」を冠する苗字を名乗り(例えば伊野、猪
野、井野)、日本各地にその足跡を残している。

円福寺へ向かう
DSC06899.JPG
龍華山 円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿革
は明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが
残る。
重要文化財
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2) -
入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書から応安4年
(1371年)の建立とみられる。
DSC06901.JPG
DSC06903.JPG
宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。北側の塔(写真左)
は初重に四仏の種子を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。南側の塔は初重に四
仏の像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
DSC06902.JPG
興融寺へ向かう
途中の有里西公園で昼食休憩
DSC06906.JPG
DSC06905.JPG
昼食後
慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。
沿革は不明ですが、安永3年(1774)『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には阿弥陀堂と記載
されています。
興融寺は生駒市青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れている
ため、石仏ファンでもない限り訪れる人は少ない。しかも、ちょっと分かり難い場
所にお寺が立っています。
DSC06908.JPG
DSC06907.JPG
DSC06909.JPG

DSC06910.JPG
林の中を
竹林寺へ向かう
DSC06913.JPG
DSC06914.JPG
此処までは、
10月13日 南生駒の石の文化財巡り-1 として
         下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
        https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-10-17
此処では、続きの 竹林寺 忍性菩薩墓~ についての詳細を掲載します。
忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅
町)で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師
として、真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しま
ぬ努力をしました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がう
かがえます。後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業
を展開します。忍性は行基の大ファン?16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)
に入った。忍性は19歳から6年間毎月竹林寺に参詣したという。参詣を始めた年に
竹林寺で行基の舎利が発見された。行基は奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業な
どの社会事業を行い、大仏建立にも尽力したことが知られ、平安時代以降に文殊菩
薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣し、その生涯を文殊信仰に基づく救済
に捧げたのは、行基を範とするとするところが大きいと云われる。忍性は、鎌倉・
極楽寺で87歳で臨終を迎えた。
遺言により遺骨は三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に
努めた忍性に、後醍醐天皇は「菩薩」号を追贈した。

忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事
に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、
病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老
いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿
が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期
以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識さ
れており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。
DSC06916.JPG
DSC06915.JPG
生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定される
が詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所か
ら舎利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。
山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。
奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあっ
た僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされ
たものと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五
台山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管
理していたが、20世紀末から境内の整備が進められている。
DSC06919.JPG
DSC06918.JPG
DSC06917.JPG
DSC06925.JPG

境内の奥に有る行者堂・神変大菩薩の石碑
DSC06924.JPG
DSC06920.JPG
DSC06921.JPG
※神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)
伝–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。
修験道 の開祖とされている。

行者堂の裏山に有る数々の石造・・・
DSC06922.JPG
DSC06923.JPG
行基菩薩墓
竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられてい
ます。行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え
生駒山で火葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、
左手の墓地に忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩
薩と行基を強く尊敬しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺
言により遺骨は竹林寺・極楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されて
います。
DSC06926.JPG
DSC06928.JPG
※行基菩薩
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇など
の教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業
に活動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、
入唐して玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のもの
となっていた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行った
とされている。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそう
だ。その後、聖武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で
人生を終えると母親の近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。行基(ぎょ
うき/ぎょうぎ)668年~749年は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機関と朝廷
が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内を
中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。
また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、困
窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷から
は度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳
ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として
聖武天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された。この功績によ
り東大寺の「四聖」の一人に数えられている。東大寺では大仏創建に力のあった良
弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んで いる。

竹林寺
DSC06929.JPG
DSC06930.JPG
竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒
谷)における唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していない
ことから、この地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる
文殊山竹林寺境内にある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴
輪の特徴から、古墳時代前期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円
部の一部が失われ、後円部は墳頂に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による
損傷が生じている。その他の部分は雑木林に覆われ、開墾による削平(さくへい)
を受けておらず、原型を比較的よく留める。
DSC06931.JPG


竹林寺を後にして
DSC06932.JPG
DSC06934.JPG

観泉寺へ向かう
DSC06935.JPG
DSC06936.JPG
DSC06937.JPG

DSC06938.JPG
DSC06939.JPG

途中のお地蔵さん
DSC06940.JPG
DSC06942.JPG
DSC06943.JPG
青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯
により開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった
方々の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種子十三仏板碑など」が数多く
ある。
DSC06944.JPG
DSC06945.JPG
DSC06946.JPG

DSC06948.JPG

境内からの眺めが良い・・・生駒山山頂
DSC06947.JPG

境内に西国三十三か所巡り
DSC06949.JPG
DSC06950.JPG

十三重石塔
DSC06952.JPG

神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
DSC06953.JPG
DSC06954.JPG
DSC06955.JPG
※神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役 小角(えん の おづの /おづぬ /おつの、舒明天皇6年(634年)伝
–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝)は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。 修験
道 の開祖とされている。

菊司醸造
敷地の一画に建つのは酒の神を祀る石碑(右)。今も蔵を見守る。隣は名高い俳人、
阿波野青畝の「和を以って 尊ぶために 菊の酒」との句碑、親戚縁者だと言う。
DSC06957.JPG
DSC06956.JPG
※阿波野青畝
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月 - 1992年(平成4年)12月)
は奈良県出身の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和
初期に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称され「ホ
トトギス」の黄金時代を築くのに貢献した。
奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取
支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学
校(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。1915年、「ホトトギス」を知り、県立郡
山中学校で教師をしていた「ホトトギス」同人の原田浜人のもとで俳句を学んだ。

菊司醸造
かつて奈良街道の宿場町として栄え、300年以上の歴史を受け継ぐ造り酒屋。松尾芭
蕉が暗峠について、詠んだ句にちなんで名付けた辛口でスッキリとした味わいの
「くらがり越え しぼりたて純米生原酒」はおすすめ、スイカの奈良漬もおすすめ。
DSC06958.JPG
DSC06959.JPG
DSC06960.JPG

DSC06966.JPG
DSC06969.JPG

南生駒駅
DSC06970.JPG
DSC06971.JPG

nice!(18)  コメント(2) 

nice! 18

コメント 2

mamu7010

 ハイキングとしては魅力的なコースですネ。
ミニ情報の
「日本で一番古墳の数の多い県は、群馬県だそうです。」
 も興味あります。
ところで、役行者さんのお墓は何処に有るんですかネ。

by mamu7010 (2020-10-19 08:48) 

taharas

mamu7010 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
11時25分には出ないといけない、今日は社友会の役員会、
家の前の道路は今朝から舗装工事中で音がやかましいです。

役行者の墓は判りません、神様仏様の化身?で墓は無い。
群馬の古墳は調べていません、ガイドさんの受け売りです。
by taharas (2020-10-19 10:40) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。