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9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-2

9月26日       9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-2
             コロナ禍で今年2回目の歴史探訪の会
想定外の新型コロナ騒動で歴史探訪会も 3 月から予定していた例会が全て中止になり、
久しぶりの今回の例会はコロナ対策として、電車のラッシュを避けるため集合時間を
何時もより半時間遅らせて10時半受付、参加者は16名でした。其の他のコロナ対策は、
・各自、朝の体温が37度以下である事を確認して参加する。・マスクを着用する。
・集合場所で手の消毒をおこなう。・博物館などの建物には入らない。 等を条件とし
て実施されました。此の日の私の万歩計は、17332歩で約10.3㎞歩いたことに・・・
コースは、橿原神宮前駅西改札口前で受付 10時半
橿原神宮前駅 ~ タクシーに分乗~益田の岩船石 ~倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
~ シルクの杜・公園(昼食) ~ 千塚古墳 ~益田池堤跡 ~ 久米御縣神社~久米寺 ~
橿原神宮一之鳥居前(解散)~橿原神宮前駅~五位堂駅~バス~服部バス停
志都美駅~香芝駅
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島
大明神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1
(1172 )年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が
常陸国(ひたちのくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりと
いう記録がある。伝承ではその時村人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)
を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集
団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間
にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な
古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、
現在は奈良国立博物館で保管されている。
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下田駅
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橿原神宮前駅西口
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益田の岩船石
東西約 11M、南北約 8M、高さ約 4.7M の台形状の硬質の岩で、東西の側面はほぼ垂直
に切り立っている。上部に 1 辺 1.6 メートル深さ 1.3 メートルの方形の穴が二つくり
抜かれている。岩の重さは約 500~600tと推測される。飛鳥の巨石(亀石・酒船石等)
の中でも最大の石造物で、江戸時代には観光名所として見学者も多かったようである。
岩の加工法や穴の尺などに古墳時代最末期の特徴が見られるため、7 世紀頃の建造と
推定される。用途として、石碑の台石説 ・ゾロアスター教徒の拝火台(松本清張作の
小説『火の路』)などあるが、最有力説は“横口式石槨”となっている。
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岩船石を下山
しばらく住宅街を歩くと遠く金剛葛城山系を望む田園風景が現れた。
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途中大きなお堀を有する第 28 代宣化天皇陵古墳を見る。
鳥屋(とりや)ミサンザイ古墳(宣化天皇陵 せんかてんのうりょう)
鳥屋ミサンザイ古墳(とりやみさんざいこふん)は橿原市鳥屋町に所在する、墳丘長
138mの前方後円墳です。前方部を北東に向けており、県道戸毛・久米線から南にその
姿を望むことができます。周囲に幅約10~25mの盾形周濠が巡っています。これまで
に外堤の護岸工事にともなう調査などで円筒埴輪や須恵器が出土しています。それら
の遺物から6世紀前半に築造されたと考えられます。
鳥屋ミサンザイ古墳は、宣化(せんか)天皇の身狭桃花鳥坂上陵(むさのつきさかの
えのみささぎ)とされています。宣化天皇は第28代天皇で、継体(けいたい)天皇の
第二皇子です。名は武小広国押盾天皇(たけおひろくにおしたてのすめらみこと)と
いい、新羅が任那と百済を攻撃した時には大伴狭手彦(おおとものさでいでひこ)を
派遣して防衛にあたらせた、と『日本書紀』に記されています。
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※檜隈寺跡(ひのくまでらあと)於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内に石碑
於美阿志神社境内の一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひの
くまのい おりののみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にとも
ない、536年、この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。
倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓へ向かう
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しばらくすると畑の先に大きな森が見えてくる。倭彦命墓だ・・・
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倭彦命(ヤマトヒコノミコト)墓
一辺 85M、高さ 15M の全国最大の方墳である。『日本書紀』によれば、第 10 代崇
神天皇と皇后の御間城姫との間に生まれた皇子である。同母兄の垂仁天皇 28 年 10
月 5 日に倭彦命は薨去し、11 月 2 日にここに葬られた。
その際、近習は墓の周辺に生き埋めにされ、数日間も死なずに昼夜呻き続けたうえ、
その死後には犬や鳥が腐肉を漁った。これを哀れんだ天皇は殉死の禁令を出した。
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※垂仁天皇 32 年 7 月 6 日、皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際、
天皇は野見宿禰の進言に従って人・馬などの土物(はにもの)を墓に立てて代替とす
ることを命じ、以後これが埴輪の慣例になった。
日本における殉死に関する記録としては、「魏志倭人伝」に卑弥呼死去の際に「奴婢
百余人」の殉葬が書かれている。 豊臣秀吉、徳川秀忠、家光が亡くなった時にも元老
中や近習などが切腹したと記録にある。近年でも明治天皇が崩御された時、乃木希典
夫妻が自死、昭和天皇の際にも元軍人など数名が後を追って自死していると言う。
此処までは、
9月16日の歴史探訪の会(橿原市の史跡巡り)-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
 https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-09-25
此の続きは、新沢千塚古墳群へ向かう~
新沢千塚古墳群へ向かう
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此処から新沢千塚古墳へ入る
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新沢千塚古墳
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続
けました。
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シルクの杜(橿原市新沢千塚公園) 昼食休憩
市民の憩いの場として、新沢千塚古墳群の中に設けられた。歴史博物館や、ジム・温泉
・プール等の他、ミニ道の駅や龍の広場等がある。
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近くに有る奈良芸術短期大学の学生が、4 世紀ころの風景を壁画として描いたもの
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龍の広場で昼食
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新沢千塚古墳群
新沢千塚は総数約 600 基からなる古墳群で、日本を代表する群集墳(ぐんしゅうふん)
でもあります。新沢千塚に古墳が造られ始めたのは、4 世紀の終わり頃、今から 1600
年ほど前です。その後、6 世紀の終わり頃までの約 200 年にわたって古墳が造られ続け
ました。1960 年代、古墳群全体の約 2 割にあたる約 130 基の古墳の発掘調査が行われ、
この調査によって多くの成果があがり、遠くペルシャや中国、朝鮮半島からもたらされ
た副葬品が出土した 126 号墳の調査はその代表的なものです。
調査の成果をうけ、新沢千塚は 1976 年(昭和 51)に国の史跡に指定されました。
ペルシャから渡ってきたガラス製のお椀やお皿の他、金・銀・ガラス・ひすい等の装飾
品が遺骨に着いたまま出土し一部は国の重要文化財として、東京国立博物館に展示され
ている。
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美しい畝傍山を見ながら沢山の古墳が並ぶ散策路を進むと、まるでモヒカン刈りの様な
堤防跡が見えてきた。
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益田池堤跡
平安時代、大和の国は水不足で人を養うだけの作物が収穫できず、821 年に空海が改修
した讃岐国(香川県)の満濃池の技法を取り入れて、825 年この地に灌漑池を作った。
面積は 40 ヘクタール(0.4 平方Km)であったとされ、堤防の長さ約 200 m、幅約 30
m、高さ約 8 mであり、満水時の貯水量は 140 万tから 180 万tと推測されている。
橿原考古学研究所附属博物館には、1961 年(昭和 36 年)の川底改修の際に 2 か所で
出土した木製の樋が保存展示されており、「益田池の堤 附樋管」として、1980 年(昭
和55 年)3 月 28 日、奈良県の指定文化財の史跡に指定されている。
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久米寺へ向かう
久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)
高皇産霊命・大来目命(天久米命の孫)・天櫛根命を祀る。
『五郡神社記』では「天櫛根大久米命」で一つの神名としており、『式内社調査報告』
では、元は一柱の神であったものが近世に2つに分割して伝えられたものであると考え
られるとしている。
大来目命は久米部の祖神である。一帯は久米部の居住地であった来目邑であり、その祖
神を祀ったものである。創建の由緒は不詳である。「御県神社」という神社は大和国内
に7社あり、いずれも皇室の御料地である御県(みあがた)に鎮座していたものである。
『日本書紀』垂仁天皇27年に「是歳、来目邑に屯倉を興す」という記述があり、創建も
その頃とみられる。
延喜式神名帳では「大和国高市郡 久米御縣神社三座」と記載され、小社に列格している。
ただし、延喜式祈年祝詞には他の6つの御県神社が記載されているが、当社は含まれてい
ない。久米氏の衰退とともに当社も衰微したが、隣接して久米寺が創建され、当社はそ
の鎮守社として再建された。江戸時代中期頃からは「天満宮」「天神社」と呼ばれるよ
うになった。現在も、「天満宮」「天神社」と書かれた燈籠が数多く残る。
明治初年の神仏分離により久米寺から分離され、明治中期に久米御縣神社に改称した。
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久米寺
仁和寺別院真言宗の寺院である。 7 世紀後半、推古天皇の勅願により、聖徳太子の弟に
あたる来目皇子が眼病全快を感謝して建立したと伝わる。一方で、空中を飛んでいる時
に川で洗濯をする娘の太股に見とれて墜落した久米仙人によって創建されたという伝説
もある。
本尊薬師如来は眼病に効くとされる。京都仁和寺から移築された多宝塔(重要文化財)は、
桃山様式を残している。かつては大寺院だったということが、残された五重塔の礎石や
瓦からも伺い知ることができる。
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久米寺~橿原神宮前に出て、橿原神宮の一之鳥居で拝礼し解散
※橿原神宮
橿原神宮は、畝傍山の東南の橿原市久米町に位置している。東征によって大和を
平定した神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)は、この橿原の地に宮を
建てて、初代神武天皇として即位したと伝えられている。その宮址に新しく神社
を建てて神武天皇とその皇后の姫蹈鞴五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)
を祭神として祀ったの は、わずか120年ほど前の明治23年(1890)である。
日本最古の正史ともされる『日本書紀』において、日本建国の地と記された橿原。
天照大神(あまてらすおおかみ)の血を引く神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこ
のみこと)後の神武天皇が、豊かで平和な国づくりをめざして、九州高千穂の宮
から東に向かい、想像を絶する苦難を乗り越え、畝傍山(うねびやま)の東南の麓
に橿原宮を創建されました。第一代天皇として即位されたのが紀元元年、今から
およそ2,600余年前のことです。日本の歴史と文化の発祥の地でもある橿原は、
日本の原点です。
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橿原神宮前駅中央口へ向かう
橿原神宮前駅前の幸せの黄色いポスト
奈良県橿原市は、宮崎市との姉妹都市盟約締結50周年を記念し、近鉄橿原神宮
前駅中央口前に、幸せを願う黄色いポストを設置した。「思いを届けたい時にご
利用を」と呼びかけている。宮崎市青島は神武天皇ゆかりの地であり、橿原市は
神武天皇が橿原宮を開いた場所とされる。こうした両市は昭和41年2月に姉妹
都市の盟約を締結した。これを機に橿原市は、縁結びの神様として知られる青島
神社(宮崎市青島)近くの青島海岸に設置され、人気を集めている「幸せの黄色
いポスト」に着目した。
橿原郵便局の協力を得て2016年10月、黄色いポストを設置した。
※天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町にも黄色いポストがあるが、奈良県内で
は初めての登場となった。ポスト横の説明板には「あなたの大切な人にその思い
を届けたい時ぜひ、このポストをご利用いただければ幸いです」との市長のメッ
セージが・・・
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橿原神宮前駅中央口
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五位堂駅~バス 王寺行きに乗り帰宅
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海市

コロナでいろいろ制約があって大変ですね。でも、16人集まったのは凄い。史跡好きな方って結構多いんだな…と思いました。
対策もしているし、外は移り難いと専門家も言っていたので、運動不足解消にもいいですね。
by 海市 (2020-09-30 00:50) 

mamu7010

 普段では滅多にないタクシーの分乗、でもやっぱり見るとこ
いっぱいで充実の会でしたネ。
何故か久米寺に印象が薄く、覚えていません。
幸せの黄色いポストって良いですネ。
写真見せて頂いた限り、やはりまだ空いてますネ~。
by mamu7010 (2020-09-30 08:17) 

taharas

海市 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
此の歴史探訪の会は今年2回目の開催、2月~8月はコロナ禍で
全て中止、私は1月不参加だったので今年は今回初参加となり、
懐かしい面々に再会し喜びもひとしおでした。
昨日、29日は歩こう会も再開、此れ迄とは変えて小Grに分かれ
初めての公園散策としたがまあまあ?トラブル無く出来ました。

by taharas (2020-09-30 15:31) 

taharas

mamu7010 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
タクシー分乗は当日急遽決められていてぞーっとしたが
コロナ感染しなくて良かった。ラッシュ避ける為集合時
間を30分遅らせた為、タクシー?結果はタクシーで良か
った!歩いていたら疲れて後半持たなかったかも・・・
昨日は車で服部緑地へ親子で来て参加もありましたよ。


by taharas (2020-09-30 15:42) 

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