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回顧3)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3

9月14日  (回顧録)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-3
        昨年10月6日~24日(家内と娘が13日~16日来島)帰省
今回は、昨年の帰省に比べて期間も短く、梅雨時の6月になったが、わりに
天気にも恵まれ、考えていた作業については自己採点だがほぼ満足の行く
できばえ?だった、と思うが、折角の帰省にレクレーションの要素が欠け・・・
前半は働き過ぎて筋肉痛の時も・・・
後半数日間は雨にたたられ、食べて寝る繰り返しで体重増に・・・
6月18日の内科と眼科の定期検診では体重増以外の不都合は無く一安心
今回の(回顧)には、奄美大島の一般的な事を追記しました。
奄美大島・・・鹿児島県です、沖縄県ではありません。
地理
面積712.35 km2で、本州などの4島を除くと佐渡島に次ぎ面積 3位の島である
(大きな方から順番に、沖縄本島-佐渡島-奄美大島)。年間の日照時間が日本一
短い。大島海峡沿岸や湯湾岳などは奄美群島国立公園の一部となっている。
奄美大島の海岸には、サーフィンに適した波がありサーファー達に人気がある。
台風の通過が多く、毎年のように崖崩れや農作物などへの被害が発生するほか、
2010年10月には記録的な豪雨が島を襲い甚大な被害が出た。
自然・・・興味ないかもしれませんが
山地にはスダジイ、イジュ、シマサルスベリ、ソテツ、ガジュマル、ビロウ、ヘ
ゴ、シマオオタニワタリなどの樹木が生え、海岸付近にはアダン、アカテツ、ハ
マビワ、シャリンバイ、クサトベラなどの低木が生えている。また、サトウキビ、
びわ、タンカン、ポンカン、バナナ、パパイヤ、マンゴー、メロン、パイナップ
ル、スモモ、パッションフルーツなどの温帯、亜熱帯植物が栽培され、リュウキ
ュウマツなどの植林が行われている。
奄美市の住用町に、日本では西表島に次ぐ広さのマングローブ(約71km2)があ
り、同市山岳部には、ヒカゲヘゴなどが生い茂る金作原(きんさくばる)原生林
がある。
    ☆奄美大島はこんな所です?
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デイゴ
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パパイア
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瀬戸内町嘉鉄湾
ハートの見える丘
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アダン
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サガリバナ
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極楽鳥花
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加計呂麻島 芝の海岸から大島海峡
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加計呂麻島 実久~芝の林道から無人島の江仁屋離&東シナ海
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歴史・・・興味ないかもしれないが 
旧石器時代~
奄美群島での人の痕跡は、約3万年前のものと推定されるアマングスク遺跡(徳
之島)で、南西諸島最古級の遺跡である。土浜ヤーヤ遺跡(奄美大島)、喜子川
遺跡(同)などは旧石器時代から縄文時代初期の遺跡と言われ、姶良カルデラの
火山灰(2万4000年前〜2万2000年前)と鬼界カルデラの火山灰(約6400年前)
も確認されている。
縄文時代~ 弥生・古墳時代~ は割愛して・・・
古代~
奄美の存在が日本の歴史書に登場するのは7世紀で、『日本書紀』には657年(斉
明天皇3年)に「海見嶋」、682年(天武天皇11年)に「阿麻弥人」、『続日本紀
』には699年(文武天皇3年)に「菴美」、714年(和銅7年)に「奄美」とあり全
て奄美(大島)のことだと考えられ、当時の日本の中央との交流があったことが
わかる。733年(天平5年)の第10回遣唐使は、奄美を経由して唐へ向かっている。
735年(天平7年)に朝廷は、遣唐使の往来上の利便のため碑を南島に建てた。
『延喜式』雑式には規定が書かれており、島名のほか停泊所や給水所が書き込ま
れ、奄美群島の各島々にこの碑が建てられたとしているが、未だ実物の発見は無
い。また、遣唐使に奄美語の通訳を置くことも記されている。ほか斉明5年(659
年)の第4回遣唐使の一船が百済南島から「爾加委」島(喜界島に比定)に漂着、
原住民に略奪に遭った記録がある。727年(神亀7年)を最後にしばらく奄美以南
南島人の記述は日本の国史からは途絶える。また九州太宰府庁跡などから奄美島
の他「伊藍嶋」(沖永良部島に比定)と書かれた木簡も出土している。
日本本土との関わり
本土(大和)からは、安元3年(1177年)の鹿ケ谷の陰謀により、俊寛が薩摩・
「鬼界ヶ島」に配流されたと伝わる。また、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)の条
には、阿多忠景の乱を起こした伝・薩摩平氏の阿多忠景(伝・平忠景)が「鬼界ヶ
島」に逃亡、源頼朝が義経征伐を兼ねて同島を征討し地頭を置いたと記録される。
この「鬼界ヶ島」は、俊寛については喜界島に比定する説と、薩摩硫黄島に比定
する説とがある。吾妻鏡については不詳。
『漂到琉球国記』(1243年、後述)や臨済僧虎関師錬著『元亨釈書』(1322年)
では、日本から見て奄美大島を含めた南方の島々は日本の影響下にあり「貴海国」
と称され、いっぽう奄美より南の「琉球国」は異域と見做されていた。13世紀頃
の『平家物語』でも、奄美と沖縄は違うと捉えられていた。『漂到琉球国記』は、
肥前松浦党と天台僧慶政が「琉球国」のいずれか(奄美から台湾までのいずれか
は不明)に漂着、原住民と接触した様子が慶政により記されている。
奄美群島には、北隣のトカラ列島と同じく平家の落人伝説がある。平資盛が壇ノ
浦の戦いから落ち延びて喜界島に潜伏、のち平有盛、平行盛と共に奄美大島に入っ
たと言う。大島の名瀬浦上には平有盛神社が、大島の戸口には平行盛神社もある。
鎌倉、室町時代~ 奄美伝説時代~ 琉球時代~ は割愛して
近世~
1603年(慶長8年)、江戸幕府が開かれて日本が新時代に入ると、幕府は中国大陸
の明と通航を考えるようになり、薩摩藩主・島津忠恒に琉球王国に進出して明と通
じることを許可した。1609年4月8日(慶長14年3月4日)、島津軍3000名余りを乗
せた軍船が薩摩の山川港を出帆し、まず奄美大島へ上陸して制圧、次に徳之島、次
に沖永良部島を次々と攻略し。4月30日(3月26日)には沖縄本島北部の運天港に上
陸、今帰仁城を落として首里城へ迫った。尚寧は止む無く和睦を申し入れ開城した。
島津軍は5月8日(4月5日)に首里城を接収し(4月半ば)には薩摩に凱旋帰国した。
薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし(ただし対外的には琉球の一部とされた)
1613年(慶長18年)、代官所(赤木名、名瀬等、その他多数)や奉行所を設置した。
中国や朝鮮からの難破船などに対応するため、引き続き王府の役人も派遣させていた。
この頃の奄美群島は、薩摩からは「道之島」と呼ばれた。
薩摩は住民にサトウキビ栽培を奨励したが、薩摩藩の財政悪化と共に中・後期には搾
取のようになり過酷になっていったといわれる。薩摩はサトウキビを原料とした黒砂
糖を幕府や商人に専売することで莫大な富を得たが、サトウキビ中心の栽培はひとた
び作物の不作が起こると飢饉に結びつくような有様だった。しかし、このころに黒砂
糖を使った「セエ」(黒糖焼酎)が誕生している。庶民の嗜好品として評判となり密
造酒が多数作られたが、黒砂糖の収穫が減ると困る薩摩藩がこれを取り締まらなけれ
ばならないほどだった。
近代~ ・・・明治12年に奄美群島は正式に日本の領域になる。
奄美群島は1871年8月29日(明治4年7月14日)の廃藩置県により一時的に薩摩藩から
鹿児島県へと実効支配が移管される。名目上は琉球王国の領域であったためそれが琉
球処分により消滅するまで形式的には日本の領域では無かったが、追って1879年(明
治12年)4月の太政官通達により大隅国に編入、大島郡および大島郡役所が設置され、
正式に日本の領域となる。

第二次世界大戦中、連合国軍上陸の危険が高まった1944年(昭和19年)7月以降、沖
縄と並んで子供や女性、高齢者の本土疎開が進められた。同年9月には疎開船「武洲
丸」が潜水艦に撃沈され、約160人の徳之島島民が犠牲となっている。このほか、近
海では軍隊輸送船「富山丸」など多くの日本船舶が撃沈された。1945年(昭和20年)
3月末からの沖縄戦の間、北隣の奄美群島には陸海軍合わせて2万人以上が守備に就い
ていた。特に奄美大島南部の瀬戸内町付近は要塞化(奄美大島要塞)が進められてお
り、特攻兵器である震洋の基地も数箇所に置かれていた。しかし、奄美群島への連合
国軍上陸は無く、全体として小規模な空襲だけに終わった。

現代 アメリカ占領時代~日本んへ復帰へ
1945年(昭和20年)9月2日、米軍によって本土から分割され米国民政府の統治下に
置かれた。同年9月22日に行われた現地守備隊と米第10軍とで交わされた降伏調印式
の際、日本軍守備隊は米軍側が用意した降伏文書に奄美群島が「北部琉球」と書かれ
ていることを発見、日本から分割する意図を悟り、鹿児島県所属であることを訴えて
調印しなかった。これには米第10軍司令官が譲歩し、鹿児島県奄美群島であることを
確認した後に降伏した。
ついに日本 本土へ復帰・・・昭和28年12月25日に米国より日本へ返還
日本国との平和条約の1952年(昭和27年)4月28日発効によって日本の主権が回復
することが決まると、アメリカは基地が少なく復帰運動の激しい奄美群島の統治を
諦め1952年(昭和27年)2月10日にトカラ列島が、奄美群島も1953年(昭和28年)
12月25日に返還。「日本へのクリスマスプレゼント」として返還を発表した。
文化
奄美大島を含む奄美群島は、大東諸島を除く沖縄県と共に琉球文化圏を構成する。
奄美語は琉球語の一部であり、基本的語彙や表現などの共通点も多い。これらは
国際的には独立した言語とみなされるが、日本語の方言とする研究者もいる。
一方で奄美群島では、島を代表する焼酎(奄美黒糖焼酎)やチヂン(日本では奄
美大島だけに残る締め太鼓)、高倉(高床式倉庫)は東南アジア方面から伝えら
れたとも言われる。
1185年の壇ノ浦の戦いで敗れ落ち延びてきた平家の落人たちにより、本土の文化
が伝えられ、幾つかの城砦が築かれたとの伝承も残り、ゆかりの有盛神社、行盛
神社があり、隣の加計呂麻島では平資盛を祀る大屯神社に重要無形民俗文化財の
諸鈍芝居(諸鈍シバヤ)が伝えられている。

6月6日
大坂伊丹空港~奄美空港、奄美市でホテル1泊
今回は、6月6日~17日の期間しか無く、1泊11日の旅パックでチケット予約
6日~16日迄、叔母の車を借りて、加計呂麻島へ持って行く貨物を調達
取りあえず新しいビーバ(エンジン刈払機)や一輪車タイヤ、お茶や水等も・・
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何も無い奄美空港へ到着
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6月7日・・・7日~11日は晴れ、12日は曇り、13日は大雨と暴風
奄美市~南部の瀬戸内町へ車で移動、古仁屋港~加計呂麻島の瀬相港へ
フェリーで移動、瀬相港~加計呂麻島の東の端、芝集落へ
6月7日
朝飯前の名瀬港散歩
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加計呂麻島へ渡る
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此処までは、
6月6日~7日迄を
回顧1)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-1 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
        https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-07
此の続きは、
6月8日~13日・・・生家の手入れや墓参り、12日夜には歓送迎の宴会も
島で貰った土産物を2ヶ(チルドと普通便)梱包して発送
6月8日~13日迄を
6月8日
朝めし前の砂浜散歩
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6月9日
朝めし前の砂浜散歩
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6月10日
朝めし前の砂浜散歩
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6月11日
朝めし前の砂浜散歩
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6月12日
朝めし前の砂浜散歩
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6月13日
朝めし前の砂浜散歩
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此処までは、
回顧2)2016年6月6日~16日・奄美大島&加計呂麻島へ帰省-2 として
           下記のメインブログへ詳細を投稿済です。
        https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2020-09-09  
此処では、6月14日~の詳細を掲載します。
6月14日
朝めし前の砂浜散歩
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此れは
我家の柿の木2本
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6月14日夕方・・・曇り空から夜は晴れ
加計呂麻島~古仁屋港へフェリーで渡り、古仁屋でホテル1泊
使用したプロパンガス代の清算、知人宅訪問、知人達との食事、カラオケ等
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海上タクシー
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瀬相港を離れて
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マグロ養殖研究所の沖に高校の実習船が・・・
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もうすぐ古仁屋港
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6月15日
朝飯前の古仁屋港を散歩
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 コーラル橋
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瀬戸内海の駅
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海上タクシー
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6月15日・・・午前は曇り空、午後は大雨
古仁屋で家族にお土産を購入して奈良の自宅へ発送、奄美市名瀬へ向かう
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瀬戸内町古仁屋~奄美市名瀬へ移動、奄美市名瀬で叔母の家で1泊
奄美市では入院している知人のお見舞いに、元気そうで一安心・・・
頂いたお土産物と不用の衣類を梱包して宅配便で奈良の自宅へ発送
6月16日
奄美空港
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奄美市名瀬~奄美空港へ移動、奄美空港で叔母に借りてた車を返して
此の日の伊丹空港は大荒れ?伊丹~奄美便の出発が20分遅れて
奄美~伊丹便は伊丹空港周辺の天気が悪く着陸体制を2度もやり直し、上空
で待機して積乱雲をやり過ごして3度目に漸く着陸、其の後のリムジンバスも
阪神高速の事故渋滞で一般道へ下りて難波へ向かう事になり、迎えに来て
くれてた家内と娘もぐったり・・・
雨の伊丹空港到着
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おまけ・・・パッションフルーツ
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mamu7010

 今回は暇にあかせて、奄美空港から大字芝迄のルートを
辿ってみました。
凄いです!。
うちは神戸の墓参りにも長いこと帰っていません。
taharaさんのこのブログ見たら勇気づけられました。
気候が良くなったら、一回 帰ろかなって思いました。


by mamu7010 (2020-09-17 13:29) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
昨日迄涼しかったのに又暑さがぶり返しましたね?
16日の歴史探訪で身体が未だきしんでいます・・・ 
by taharas (2020-09-18 19:05) 

海市

奄美大島、行ったことないので行ってみたいです。
あの、マグロのオブジェ、メチャメチャ大きいですよね?
私だったら、絶対触ってると思います。
パッションフルーツって、ほぼ種?
一瞬、虫に見えちゃいました(^_^;)
by 海市 (2020-09-24 16:19) 

taharas

海市 さん
コメント有難う御座います!(^^)!
マグロのオブジェ大きいですよ!此処の近大マグロ養殖場は
和歌山の養殖場で4年間かけて育つ大きさに3年で到達すると
言われ大幅なコスト削減で安価でマグロ供給出来る様です。
パッションフルーツは種を丸ごと食べる果物ですから・・・
by taharas (2020-09-25 00:38) 

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