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12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2

12月8日     12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2
           近鉄駅フリーハイキング 8㎞ 
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ

私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅
JR奈良駅のセント君
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旧奈良駅駅舎(奈良市総合観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用さ
れていました。 日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、
その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の
荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそ
うです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが
平成13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったこ
とにより、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的
価値を踏まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと鉄
の棒(ころ)による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年に
観光案内所として生まれ変わったのです。
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三条通り
JR奈良駅前~猿沢池迄・・・
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の
第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる
「欠史八代」の1人に数えられる。
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浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延
と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年
(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がなかっ
たが、楠木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授
かり、第7世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるよう
になったという。また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った。
11世行心の代、享禄3年(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、
また永禄2年(1559年)12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという。
この頃より九条山と号するようになった。また天正19年(1591年)、行春は石山合
戦の際の忠節を顕如上人から讃えられ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本
山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、
現在地へ移転した。
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漢國神社(林神社) かんごうじんじゃ(りんじんじゃ)・源九郎稲荷神社
園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を
祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓
神社は当社からの勧請であると社伝では伝えるが、平安京の園神社・韓神社の社伝
とは矛盾している。

推古元(593)年創建の古刹。藤原氏に崇敬された。本殿は三間社流造になっている。
社宝に徳川家康奉納と伝えられる鎧があるが、現在は奈良国立博物館に委託されて
いる。境内の林神社には、室町時代に中国から渡来し、饅頭の製法を伝えた林浄因
が祀られている。春の大祭には、全国の菓子業者が集まる。また、林家から出た碩
学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点として9月15日、
印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、巨石を伏せた
饅頭塚もある。
源九郎稲荷神社-祭神:宇賀御魂神。1924年(大正13年)に山の寺から勧請した。
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近鉄奈良駅で知人と合流して興福寺へ向かう
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興福寺・五重塔・南円堂・額塚・中金堂
興福寺
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さら
にさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」(やましな寺)が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である
鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営
したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われ
ています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移
建され、その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとと
もに、「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、
奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北
家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌
倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、
徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れ
ましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその
歴史を刻み続けています。
五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三
間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特
別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭
和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の
塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の
木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い。
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南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建
てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開
珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げた
ことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだ
いしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.
4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はき
わめて古様です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろく
そざぞう)、四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
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額塚
興福寺には山号がありません。南都七大寺には不思議と山号がないため今まで気に
も留めていなかったのですが、興福寺にはそれなりの理由があるようです。比叡山
延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところです。奈良の興
福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。
そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれる額塚です。
興福寺の山号額は南大門に掲げられていました。
天平宝字8年の5月、興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来た
そうです。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態
なのに樹木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、
とある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水
に縁のあるものであるから、水が出る。これを取り下ろせば良いのではということ
になり、山号額を取り外すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収
まり、その発端となった山号額は茶臼山に埋められたという逸話です。
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中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・
東金堂の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺におい
て、その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来
像をその中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観
音菩薩像を置き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺
においても東大寺大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとさ
れています。奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に
初代中金堂が焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。
中金堂は6回目の焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の
享保2年(1717年)に7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(18
19年)に再建されたものも「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造
上も弱く、平成12年(2000年)には取り壊しが行われ、その後創建当初のスケール
を持つ中金堂を復興することになり平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の
計画で中金堂の再建が進められることになりました。再建された中金堂は、興福寺
に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考に復元されたものであり、
東西の間口は約37m、南北の奥行きは約23m、高さは約20mの規模となっており、
東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬師寺大講堂に匹敵、もしくは少し
上回るような規模を有しており、平成の世において建造された最大規模の木造建築
物となっています。
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南大門跡
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猿沢池
猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360mの池。興福寺五重塔が周囲の
柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつと
なっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造ら
れた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を
野に放つ宗教儀式である。
猿沢池七不思議
・澄まず・濁らず・出ず・入らず・蛙はわかず・藻は生えず・魚が七分に水三分
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川は
なくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいる
が、なぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増
える一方であるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くて
もおかしくないような池。
猿沢池にちなんだ言い伝え
・猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを
 嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという。
・芥川龍之介の小説「龍」は、猿沢池から雲を呼び雨を降らせながら龍が天に昇っ
 たという伝説を素材にしている。
・猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国の猴池(びこういけ)から
 来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている。
・奈良県大淀町には、興福寺の僧に恋をした娘おいのが身を投げたといわれる
 「おいの池」がある。伝説ではおいの池と猿沢池は地中でつながっており、身を
 投げたおいのの笠が猿沢池に浮かんでいたという。
・1959年に、七不思議に反して池の水が赤くなった時には、「この世の終わりだ」
 と騒がれたという。
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ならまち・元興寺へ向かう
元興寺・・・世界文化遺産、古都奈良の文化財
日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺
から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺。(佛法元興の場、聖教最
初の地)です。
元興寺の名称は
『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元
興寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと
伝えられています。飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてき
ました。建初寺=桜井道場、建通寺=向原寺、法満寺=飛鳥寺の歴史を示している
のでしょうか、朝廷および天皇家が仏教を容認し、唐式の仏教政策を取り入れてか
ら、遡って意味付けされたのだといえます。因みに、法興寺は『佛法興隆』の言葉
からきており、法隆寺とは対の名称といえるでしょう。
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瑜伽神社へ向かう
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今西酒造
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瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)
社伝によると飛鳥神奈備が平城奠都とともにこの地に移り、この山を平城の飛鳥山
と呼んだという。もとは元興寺禅定院の鬼門除鎮守の社で、後に興福寺大乗院が山
麓に建つに及び、その守護神として藤原氏等の崇敬を受けた。
飛鳥の元宮に対し今宮と呼ばれた。『大乗院寺社雑事記』明応3年(1494年)12月
30日の条に、「一後智恵光院殿御建立之分(中略)今宮殿御殿 同拝殿仮葺也」とあ
る。瑜伽神社と称するようになったのは比較的最近のこととしている。
この辺りは中世の瑜伽山城あるいは西方院山城・鬼薗山城の跡とみられており、西
隣の奈良ホテルが建つ山を鬼薗山、東の瑜伽山一帯を西方院山と呼ぶのが一般的で
ある。いまも広い台地と濠の跡が残っている。境内には奈良時代大伴坂上郎女(お
おとものさかのうえのいらつめ)が元興寺の里をながめてよんだ歌碑があります。
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天神社へ向かう
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天神社
天神社(てんじんしゃ)は、奈良県奈良市高畑町にある神社。奈良町天神社とも呼
ばれる。北天満の天神社で、境内地は約1,000平方m。
略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、
興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天
神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。
後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀
られたのは平安時代、白河天皇の御世であったという。
嘉吉元年(1441年)5月6日、猿楽が執り行われた。享保五年(1720年)10月24日夜、
天満宮が焼失し、同6年5月に造替されている。
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鷺池へ向かう
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鷺池・浮見堂・洞水門(水琴窟)
浮見堂
鷺池に浮かぶ六角形のお堂は池の水面に映る姿が美しく、憩いの場としても人気です。
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洞水門(水琴窟)
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奈良公園
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春日大社参道
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此の続きは、
12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、春日大社~
春日大社
春日大社は神護景雲2年(768)、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建
された神社です。 春日山原始林に続く御蓋山の西麓に鎮座する藤原氏の氏神を祀っ
ています。神様が白鹿に乗って 奈良の地においでになって以来、鹿は神様の使いと
されています。 平成10年(1998)、古都奈良の文化財として春日大社と春日山原始
林が世界遺産として登録されました。
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春日大社・酒殿・・・初登場
酒殿(さけどの)は、春日大社の境内地、本殿等を取り囲む「回廊」の西側に隣接す
る形で「竈殿」と南北に並ぶ重厚な檜皮葺の建築(重要文化財)です。隣接する「竃
殿」、そしてこの「酒殿」はいずれの建築も平安時代の貞観元年(859年)に建立さ
れた相当な歴史を有するものであり、途中建て替え、再建されてきたとは言え現在も
伝統的な様式を守った端正な佇まいを見せています。また、それぞれに祭神がお祀り
されており、酒殿には「酒弥豆彦神(さかみずおのかみ)」・「酒弥豆売神(さかみ
ずめのかみ)」 という神様がお祀りされています。
なお「酒殿」というその名の通り、この建物は神前にお供えする「お酒」を醸造する
「酒造場」というユニークな施設となっており、お酒をつくるにあたっては市内の酒
造業者に委託が行われ、実際にこの春日大社の地でお供えなどに使用する日本酒が醸
造されています。
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水谷神社へ向かう
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の
下社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時
代から幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛
頭天王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮
花祭」として親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平
癒や子授けを祈る人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、
幹周6.55m、樹高12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる水谷川
の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗として改装
し、現在の姿に至っております。
店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎが暑さを忘れさせ、秋に
は紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ね
の山、若草山です。若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われ
た山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年
1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典という
のにふさわしい行事です。
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手向山神社
手向け山八幡宮・校倉造
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
手向山八幡宮は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。奈良市街東部の
手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が
「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)
がある。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大
寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏
殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建
長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所
在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡と
もいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の
際に東大寺から独立した。
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校倉造り2棟
校倉造 宝庫(重要文化財)
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式と
も類似した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
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校倉造 経庫(重要文化財)
「東大寺法華堂経庫」- 奈良時代、校倉造。すぐ南には規模・形式とも類似した、
もとは、東大寺油倉の上司倉の「手向山八幡宮の宝庫」が建つ。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月
堂や三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂け
る「上院」エリアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接す
る位置にある建物(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立
は奈良時代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、
奈良時代周辺に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂
(後に大規模な改築を受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高
くないものの貴重な建築と言える存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並
び立つなお経庫は、かつては「校倉造」の代表建築である正倉院の近くに設置されて
いましたが、鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした後、江戸時代の元禄期にな
ると現在の位置に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経歴を有していま
す。その後はしばらく手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折に、
再び東大寺に帰属する建物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど
南側の位置には、手向山八幡宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じよう
な建築様式で、やはり奈良時代頃に創建されたものと考えられています。

三月堂(法華堂)
東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)は、奈良市の東大寺にある奈良時代(8世紀)
建立の仏堂である。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる。日本の国宝に指
定されている。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する
10体の仏像も奈良時代の作である。「三月堂」の通称で知られる法華堂は、東大寺境
内東方の丘陵部に位置する、不空羂索観音立像を本尊とする仏堂である。東大寺は広
大な境内を有するが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょ
ういん)と称し、法華堂のほか、「お水取り」で知られる二月堂、東大寺開山の良弁
の像を祀る開山堂など、多くの建物がある。この付近は大仏開眼(752年)以前から、
東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つであった。
法華堂は、不空羂索観音を本尊とすることから、古くは「羂索堂」と称し、周囲の付
属建物を含めて「羂索院」と称された。『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」
は天平5年(733年)良弁が不空羂索観音を本尊として創建したものであると記されて
いる。実際の創建時期については、かつては天平年間の後半(740年代)とされてい
たが、年輪年代調査の進展等により、『東大寺要録』のいう天平5年(733年)に近い
頃の建立とする説もある。
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四月堂
東大寺四月堂(三昧堂)は、東大寺の奥行き、風情を最も強く体感できるエリアとして
有名な二月堂や三月堂(法華堂)の位置する「上院」エリアにあるごく小さなお堂です。
名前の由来としては、本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると
法華三昧会(ほっけさんまいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四
月堂」という通称で呼ばれるようにもなっていきました。
二月堂由来の十一面観音菩薩がご本尊
お堂の創建時期は、東大寺境内の諸堂と比較すると新しく、平安時代の1021年(治安3
年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられています。また、現在の建物
は江戸時代の1681年(延宝9年)の墨書銘があることから、途中で建て直しが行われた
とも推定されます。堂内にはかつては脚が短く独特の佇まいを見せる「千手観音菩薩立
像」が本尊として祀られていましたが、現在は新たな観光スポットとして整備された
「東大寺ミュージアム」の展示物として移転され、その代わりに二月堂から十一面観音
菩薩立像が招かれ、本尊として安置されています。ちなみにこの十一面観音立像は、奈
良市山間部にあった「桃尾寺」の本尊であり、廃寺に伴い二月堂にお祀りされるように
なった存在とされています。なお、現在はお堂の中で副次的な存在として安置されてい
る「普賢菩薩」さまに関してもかつては本尊として祀られていたようです。すなわち時
代によって本尊が比較的頻繁に代替わりしてきたのがこのお堂の特徴となっているので
す。知名度は低いけど、穴場の「仏像スポット」です。三月堂や二月堂といった圧倒的
な存在感を放つ建物の真横にあるため、近くを通行する際もごく小さなお堂として見過
ごしてしまう場合も多いですが、東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに
常駐しておられる上に、無料で拝観することが可能なお堂となっています。三月堂(法
華堂)や二月堂にお越しの際は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
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二月堂・・・東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存
する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩であ
る「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二
会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用
の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗
ともども中世の雰囲気を色濃く残している。
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下から眺める
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大湯屋へ向かう
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水路の中に・・・
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大湯屋
東大寺大湯屋(おおゆや)は、東大寺大仏殿の北側、二月堂の西側に伸びる「二月堂
裏参道」近くに位置する比較的大きな建物です。「おおゆや」と呼ばれるその建物は
「湯」という文字が表しているように、簡単に言うと昔の「お風呂」がある施設とな
っており、かつての東大寺の僧侶たちがここで仏道に励むために「身を清める」ため
の沐浴を行っていたとされています。
大湯屋の歴史は大変古く、この建物の元となる施設は奈良時代から存在(創建年代は
不詳)していましたが、平安末期の平重衡による南都焼討で焼失してしまい、現在残
っている大湯屋はその後鎌倉時代に入ってから再建されたものとなっています。 …
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大仏殿・鏡池へ向かう
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルとい
われる高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・
東大寺の大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で
再現したもので、当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえよ
うとの意味がこめられていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有るこの
相輪部だけでも23mもある。七重塔がいかに巨大なものだったかがわかる。
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東大寺大仏殿・鏡池
東大寺
聖武天皇が発願され、平城京の東に建立されました。大仏開眼は天平勝宝4年(752年)。
2度の兵火に見舞われ当初の規模は有りませんが、それでも世界最大の木造建築、大仏
殿を始めスケール、寺宝の豊富さとも、天平文化を代表する大寺です。
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東大寺・鏡池
東大寺は728年に聖武天皇が建立した金鐘寺を始まりとする。 741年に聖武天皇自身が
各地に国分寺の建立を命じた際、 金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。745年
に大仏をはじめ伽藍の造園が開始された時期に東大寺という名称になる。東大寺の「東
塔」と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。東塔」は11
80年の平氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年に落雷で再び消
失した。「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみが残っている。
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南大門
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東大寺を出て氷室神社へ
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氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見
される。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀
し(下津岩根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度
が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1
日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続し
たが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地
に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)と
されている。以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、
興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われた
が、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形にな
っている。
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氷室神社~依水園へ
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依水園(美術館含む入園料 @900円)・・・入りませんでした。
依水園(いすいえん)は古都奈良にある、四季の花々に彩られた美しい日本庭園です。大
仏殿を有する東大寺と興福寺の間に位置していながらも静かなひと時をお過ごしいただ
ける歴史ある空間です。 .ネットのフォトギャラリーで四季折々の画像が鑑賞出来ます。

依水園~吉城園~奈良駅へ については、別途
     12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ として
          12月7日に下記へ投稿済です。
     https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2019-12-07
※※
吉城園(よしきえん)入園料@250円 但し外国人、65才以上、中学生以下は無料
吉城園は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある美しい庭園です。
奈良県庁から東へ徒歩約3分のところにあります。
吉城園の園内は「池の庭」「苔の庭(離れ茶室)」「茶花の庭」の3つの庭からなって
います。・・・紅葉も苔も茶室のある風景もとても素晴らしくて大大感動しました。
説明看板より抜粋
当園は、名勝奈良公園の一角に位置し、万葉集にも詠まれた吉城川に隣接する明治・
大正時代に造られた庭園です。この地は、かつて興福寺子院の摩尼珠院があったとこ
ろとされています。奈良県が昭和59年に取得し、庭園鑑賞や茶会等に広く利用して頂
く施設として整備を進め、平成元年4月1日に開園致しました。
入園料も記載されていました。パスポートや免許書等年齢証明するもの必要です。

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WAKIの気ままなトンボの目

先月は志賀直哉邸で会合をした後、近くのそば処で美味しいそばを頂いて帰りましたが外国人観光客の多いのに鹿たちもシカたないなあという顔でした。見どころ一杯・気の向くままにⅡで堪能しました。
by WAKIの気ままなトンボの目 (2019-12-09 17:06) 

mamu7010

 良いですねいつもと違うコース。
いつも帰る方向の浮見堂ですか?
二月堂?。
ミツバチ営巣中は危険を冒しそれらしい写真希望です。

by mamu7010 (2019-12-09 20:37) 

taharas

WAKIの気ままなトンボの目さん
コメント有難う御座います!(^^)!
楽しみにしていたPC同好会の忘年会には急遽14日~18日、
鹿児島市へ行く事になり参加出来ません、残念です・・・
by taharas (2019-12-10 01:25) 

taharas

mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
晩秋の紅葉が素晴らしい状態で残っていて感動ものでした。
20日の大浜公園・蘇鉄山~旧堺灯台~ルソン助左衛門像へ
ハイキング行きましょうよ、Y本さんも参加しますよ・・・
by taharas (2019-12-10 01:32) 

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