11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り-2
12月2日 11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り-2
11月度歩こう会例会 参加者84名
此の日は天候にも恵まれてオープン参加者も含め84名が参加し、富田林市ボラン
ティアガイドの皆さんの案内で素晴らしい楽しいハイキングとなりました・・・
コースは 近鉄富田林駅前きらめきファクトリー駐車場(10時スタート)
近鉄富田林駅(10時スタート)~旧杉山家住宅等寺内町巡り(仲村家住宅・木口
家住宅・興正寺・葛原家住宅・越井家住宅・奥谷家住宅)~じないまち交流館
(昼食休憩)~東高野街道~錦織神社~近鉄川西駅(解散)
とても綺麗に整備された環境に整然と旧家が立ち並ぶ、ごみ一つ無い綺麗な町と
言う印象でした。此の日の私の万歩計は、13125歩で約7.8㎞歩いたことに・・・
志都美駅~柏原駅~道明寺~富田林駅
富田林駅
富田林寺内町
永禄初年頃(1558~1560年頃)、興正寺門跡証秀上人によって創建された興正寺
別院を中心とした寺内町として誕生し、商売の盛んな在郷街として発展しました。
現在も創建当時の六筋七町(後に八町)の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、
大阪府指定文化財仲村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されてい
ます。また、大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
戦国時代、興正寺別院を中心とした一向宗の自治都市として始まった富田林の寺内
町は、一向一揆の制圧を目論む織田信長との対立関係の中で、生き残りを図る為
信長に従う意思を表明し、破壊を免れます。 17世紀後半に入ると、近郊の農作
物やその加工品などの交易の中心地となり、杉山家をはじめとする豪商たちが出現
するに至ってますます繁栄し、寺内町誕生当時そのままの碁盤の目のような町並み
には、これら豪商の手によって江戸時代中期以降に建てられた個性豊かな町家が軒
を連ねています。 漆喰塗の白壁、格子窓、虫籠窓、煙だしの越屋根など、往時の姿
をそのまま伝える伝統的な町家は、今もこの町の人々の生活の場として活き続けて
おり、大阪の堺や奈良の今井町に残る、「海の堺」に「陸の今井」と謳われた寺内
町同様、極めて貴重で価値の高い文化遺産として並び称されています。
きらめきファクトリー駐車場に集合・スタート
旧杉山家住宅へ向かう
旧杉山家住宅 <国指定重要文化財>
富田林寺内町造営の中心であった八人衆の筆頭年寄であった杉山家は、当初木綿問屋
を営み、その後酒造業を始めた河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。明治の明星派
歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。
寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在
は430坪)を占め、当時の繁栄を見ることができます。
中庭
仲村家住宅 <大阪府指定文化財>
富田林寺内町造営に関わった八人衆の一人であった仲村家は屋号を「佐渡屋」といい、
酒造業を営んでいました。造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785)の酒
造米高は、河内国で最高の2135石に達しました。
文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰も訪れております。
木口家住宅
当家の母屋の遺構は古風な面が多く18世紀中期の築造と推定される。敷地内には江戸
末期の土蔵2棟と明治の離れ座敷と蔵が残っており、かつての繁栄が偲ばれる。
当家は屋号を木綿屋(木綿庄)といいはじめは木綿商を営んでいたといわれるが、四
代前より瀬戸物商に転じている。近くの堺筋沿いで瀬戸物商を開いておられたが、既
に廃業されています。
壁にベンチ?
板のすだれ
※あて曲げの道 (城之門筋)
寺内町は戦国時代の自治・自衛都市の町割をそのまま残しており、直交する2つの道
路(南北が筋、東西が町)をわずかにずらすことで、遠方がまっすぐに見通せない構
造になっている。
※背割り水路
興正寺別院
富田林興正寺別院は、富田林町に所在する真宗興正派の寺院で、大阪府内で唯一、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている富田林寺内町の中核寺院です。
戦国時代の後半にあたる永禄初年頃(1558~1561)、浄土真宗の有力寺院であった
京都興正寺第16世 証秀上人は、石川左岸の荒地を購入し、寺内町の開発に着手する
とともに、その中核となる寺院を建設しました。
本堂は寛永15年(1638)に再建された大規模な建築です。浄土真宗寺院の本堂とし
ては大阪府内では最古、近畿でも最古級の建築であり、全体に古式で、住宅風の趣
をよくとどめています。初期の浄土真宗本堂の成立過程を知る事ができる遺構とし
てきわめて重要な建築です。
日本の道100撰に・・・
鍾馗様像(しょうき様像)
鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱
瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。
また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾っ
たり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。
此処までは、
11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り -1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-01
此処では、続きの 葛原家住宅へ向かう~についての詳細を掲載します。「
葛原家住宅へ向かう
葛原家住宅
富田林寺内町のなかにある三階倉で有名な葛原家の別邸として、大正13年に建てら
れました。コテージ風の外観と内部のセセッション式の意匠は、大正時代の洋風住
宅を知る典型的な建物となっています。(コテージ風住宅は、大正時代、軽井沢な
どで別荘建築として流行しました)
瓦葺で急勾配の切妻屋根がT字形に交差する、三角屋根の瀟洒(しょうしゃ)な住
宅には、よく見ると、窓に薔薇の模様をあしらった、すてきなステンドグラスがは
められています。また、邸内には、池泉やパーゴラ(日陰棚)も残されています。
建物の老朽化にともなって、屋根の葺き替えや、壁の塗り替えなどの修理がおこな
われ、大正時代のモダンでのびやかな雰囲気が甦りました。
近世の風景が色濃く残る富田林寺内町にほど近い場所に建てられたこの住宅は、新
しく夢のある洋風景観を成していて、当時は注目を集めたことと思われます。
※葛原家は、公開していません。
越井家住宅へ向かう
PLの塔が見える
越井家住宅
当家は代々「平尾屋庄兵衛」を名乗り、その先祖が平尾村 から当地に移住したと伝え
られる 材木商を営み安政年間(1854-60年)には庄屋を務めた家柄である。母屋
は明治末期の建築で、当家の材木置場跡に建てられたものである。越井家は地元の
素封家で、材木商・越井林業をはじめ広く事業を営み、昭和初期に大鉄電車社長を
務めた。昭和4年古市-久米寺間延長や20m級大型車増備など積極的に大鉄電車の
経営を推進した。
番外編
ガイドさんのお宅
奥谷家住宅・・・すだれうだつが有る
当家は北側に面する奥谷家(岩瀬屋)の分家で、本家6代目の時にこの家を興した。
分家の年代は明らかではないが明治時代の前半と推定される。味醂醸造業を営んで
いた。母屋(八棟造)は桁行六間半、梁行五間半 梁行3室並びの整形六間取り居
室である。二階は床棚付2室を設けるなど極度に発展しているが、表側は江戸時代
同様低い2階造となっている。屋根は切妻桟瓦葺で煙だしは設けず後方妻側上部の
窓によって煙を抜くようになっている。このように寺内町には、当家を含め各時代
を代表する建造物が数多く残されており、それらの変遷を見ることによって地域に
おける生活の移り変わりを知ることができる。
じないまち交流館へ向かう
じないまち交流館(2Fで昼食休憩)
「じないまち交流館」は、富田林寺内町を訪れる方々に寺内町の歴史・文化につ
いての様々な情報や市民の交流の場、そして来訪者の休憩場所を提供することな
どを目的としています。
東高野街道を通り
錦織神社へ向かう
東高野街道
東高野街道は高野山参詣のための街道のひとつで、石清水八幡から生駒山西麓を
南下し、石川を渡り、藤井寺、羽曳野、富田林市域を通り、河内長野市域で西高
野街道と合流し、紀見峠を越えて高野山に向かいます。
江戸時代、富田林市域を通る街道として、南北に通る東高野街道や巡礼街道、東
西に通る富田林街道や廿山(つづやま)街道などがありました。市域を縦断する
街道に、東高野街道と巡礼街道があります。
巡礼街道は、西国巡礼三十三所観音霊場を巡る巡礼の道です。第4番札所槙尾山施
福寺を出て、河内長野市域で東高野街道と合流し、錦郡・新家・甲田を通って富田
林寺内町に入った巡礼街道は、寺内町の北端で東高野街道と分かれ、水路沿いに北
へ進み、宮と平の集落を抜けて羽曳野市域に入り、羽曳野丘陵沿いに第5番札所葛
井寺へ向かいます。
錦織神社
すばるホールの東側、総合福祉会館に隣接するうっそうとした森に鎮座するの
が錦織神社です。このあたりは、もとは河内国錦部(にしきべ)郡に属し、錦織
の地名も古くからこの地域に居住した百済(くだら)からの渡来人が綾織、錦織
を朝廷に献上したことに由来すると考えられています。
当社は大和川支流の石川の谷に位置するところから、建水分神社(千早赤坂村)、
美具久留御魂神社(富田林市宮町)とともに古くから河内国の三水分(みくまり)社
として広く信仰を集めていました。
南側の大石鳥居からのびる長い参道は、かつて流鏑馬(やぶさめ)の式が行われた
ところで馬場先といい、その奥に本殿と二摂社があり、ともに国の重要文化財
に指定されています。
本殿は室町時代の築造で、唐破風(からはふ)の上に千鳥破風(ちどりはふ)をのせ
た独特のもので、漆塗りの極彩色の華麗な様式は、日光東照宮拝殿などの原型
となっています。
摂社も本殿と同世代の優れた建造物で、これまで修理が繰り返されてきたもの
の痛みが激しいため、今年の3月に桧皮(ひわだ)の葺き替え修理が行われました。
現在では、桧皮は文化財の修理でも手に入りにくい貴重な建築資材となってい
ます。
天誅組の石碑
天誅組河内勢志士の名が列記、志士だけではなく、その協力者も書かれている。
※佐幕派の新撰組とは真逆の倒幕を主張した尊王攘夷派(倒幕派に属する)の
人達の一集団が天誅組です。
幕末は、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国
内の政治権力の再編が進む過程で、その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐
藩、肥前藩で、新撰組の上部組織である京都守護職のトップは、このうちの会津
藩主でした。
対して天誅組の盟主は、青年貴族中山忠光(明治天皇の叔父)でした。
天誅組は、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想のもと、朝廷を守護するため
に立ち上がった武士の集団であったはずが、新政府軍の勝利が目前となり、天皇
が大和へと行幸するより先んじてその魁(さきがけ)とならんと先行するも、そ
の頃京都では尊王派と攘夷派が結びついて幕府を立て直し朝廷と協力して政治を
行おうとする「公武合体派勢力」に逆転し、江戸幕府は朝敵ではなくなったこと
で、大和行幸が中止となり、先行独断の謀反人や逆賊となり、幕府から追討を受
ける運命となってしまったのです。
近鉄川西駅(解散)
11月度歩こう会例会 参加者84名
此の日は天候にも恵まれてオープン参加者も含め84名が参加し、富田林市ボラン
ティアガイドの皆さんの案内で素晴らしい楽しいハイキングとなりました・・・
コースは 近鉄富田林駅前きらめきファクトリー駐車場(10時スタート)
近鉄富田林駅(10時スタート)~旧杉山家住宅等寺内町巡り(仲村家住宅・木口
家住宅・興正寺・葛原家住宅・越井家住宅・奥谷家住宅)~じないまち交流館
(昼食休憩)~東高野街道~錦織神社~近鉄川西駅(解散)
とても綺麗に整備された環境に整然と旧家が立ち並ぶ、ごみ一つ無い綺麗な町と
言う印象でした。此の日の私の万歩計は、13125歩で約7.8㎞歩いたことに・・・
志都美駅~柏原駅~道明寺~富田林駅
富田林駅
富田林寺内町
永禄初年頃(1558~1560年頃)、興正寺門跡証秀上人によって創建された興正寺
別院を中心とした寺内町として誕生し、商売の盛んな在郷街として発展しました。
現在も創建当時の六筋七町(後に八町)の町割りや、重要文化財旧杉山家住宅、
大阪府指定文化財仲村家住宅など往時の繁栄を偲ぶ重厚な町家が数多く残されてい
ます。また、大阪府内で唯一の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
戦国時代、興正寺別院を中心とした一向宗の自治都市として始まった富田林の寺内
町は、一向一揆の制圧を目論む織田信長との対立関係の中で、生き残りを図る為
信長に従う意思を表明し、破壊を免れます。 17世紀後半に入ると、近郊の農作
物やその加工品などの交易の中心地となり、杉山家をはじめとする豪商たちが出現
するに至ってますます繁栄し、寺内町誕生当時そのままの碁盤の目のような町並み
には、これら豪商の手によって江戸時代中期以降に建てられた個性豊かな町家が軒
を連ねています。 漆喰塗の白壁、格子窓、虫籠窓、煙だしの越屋根など、往時の姿
をそのまま伝える伝統的な町家は、今もこの町の人々の生活の場として活き続けて
おり、大阪の堺や奈良の今井町に残る、「海の堺」に「陸の今井」と謳われた寺内
町同様、極めて貴重で価値の高い文化遺産として並び称されています。
きらめきファクトリー駐車場に集合・スタート
旧杉山家住宅へ向かう
旧杉山家住宅 <国指定重要文化財>
富田林寺内町造営の中心であった八人衆の筆頭年寄であった杉山家は、当初木綿問屋
を営み、その後酒造業を始めた河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。明治の明星派
歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)の生家でもあります。
寺内町最古・最大の南河内地方農家風建築様式であり、屋敷地は一区画(千坪、現在
は430坪)を占め、当時の繁栄を見ることができます。
中庭
仲村家住宅 <大阪府指定文化財>
富田林寺内町造営に関わった八人衆の一人であった仲村家は屋号を「佐渡屋」といい、
酒造業を営んでいました。造り酒屋として著しい発展を遂げ、天明5年(1785)の酒
造米高は、河内国で最高の2135石に達しました。
文人墨客が数多く訪れ、長州藩士吉田松陰も訪れております。
木口家住宅
当家の母屋の遺構は古風な面が多く18世紀中期の築造と推定される。敷地内には江戸
末期の土蔵2棟と明治の離れ座敷と蔵が残っており、かつての繁栄が偲ばれる。
当家は屋号を木綿屋(木綿庄)といいはじめは木綿商を営んでいたといわれるが、四
代前より瀬戸物商に転じている。近くの堺筋沿いで瀬戸物商を開いておられたが、既
に廃業されています。
壁にベンチ?
板のすだれ
※あて曲げの道 (城之門筋)
寺内町は戦国時代の自治・自衛都市の町割をそのまま残しており、直交する2つの道
路(南北が筋、東西が町)をわずかにずらすことで、遠方がまっすぐに見通せない構
造になっている。
※背割り水路
興正寺別院
富田林興正寺別院は、富田林町に所在する真宗興正派の寺院で、大阪府内で唯一、
国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている富田林寺内町の中核寺院です。
戦国時代の後半にあたる永禄初年頃(1558~1561)、浄土真宗の有力寺院であった
京都興正寺第16世 証秀上人は、石川左岸の荒地を購入し、寺内町の開発に着手する
とともに、その中核となる寺院を建設しました。
本堂は寛永15年(1638)に再建された大規模な建築です。浄土真宗寺院の本堂とし
ては大阪府内では最古、近畿でも最古級の建築であり、全体に古式で、住宅風の趣
をよくとどめています。初期の浄土真宗本堂の成立過程を知る事ができる遺構とし
てきわめて重要な建築です。
日本の道100撰に・・・
鍾馗様像(しょうき様像)
鍾馗(しょうき)は、主に中国の民間伝承に伝わる道教系の神。日本では、疱
瘡除けや学業成就に効があるとされ、端午の節句に絵や人形を奉納したりする。
また、鍾馗の図像は魔よけの効験があるとされ、旗、屏風、掛け軸として飾っ
たり、屋根の上に鍾馗の像を載せたりする。
此処までは、
11月26日の富田林市杉山家住宅等寺内町巡り -1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-01
此処では、続きの 葛原家住宅へ向かう~についての詳細を掲載します。「
葛原家住宅へ向かう
葛原家住宅
富田林寺内町のなかにある三階倉で有名な葛原家の別邸として、大正13年に建てら
れました。コテージ風の外観と内部のセセッション式の意匠は、大正時代の洋風住
宅を知る典型的な建物となっています。(コテージ風住宅は、大正時代、軽井沢な
どで別荘建築として流行しました)
瓦葺で急勾配の切妻屋根がT字形に交差する、三角屋根の瀟洒(しょうしゃ)な住
宅には、よく見ると、窓に薔薇の模様をあしらった、すてきなステンドグラスがは
められています。また、邸内には、池泉やパーゴラ(日陰棚)も残されています。
建物の老朽化にともなって、屋根の葺き替えや、壁の塗り替えなどの修理がおこな
われ、大正時代のモダンでのびやかな雰囲気が甦りました。
近世の風景が色濃く残る富田林寺内町にほど近い場所に建てられたこの住宅は、新
しく夢のある洋風景観を成していて、当時は注目を集めたことと思われます。
※葛原家は、公開していません。
越井家住宅へ向かう
PLの塔が見える
越井家住宅
当家は代々「平尾屋庄兵衛」を名乗り、その先祖が平尾村 から当地に移住したと伝え
られる 材木商を営み安政年間(1854-60年)には庄屋を務めた家柄である。母屋
は明治末期の建築で、当家の材木置場跡に建てられたものである。越井家は地元の
素封家で、材木商・越井林業をはじめ広く事業を営み、昭和初期に大鉄電車社長を
務めた。昭和4年古市-久米寺間延長や20m級大型車増備など積極的に大鉄電車の
経営を推進した。
番外編
ガイドさんのお宅
奥谷家住宅・・・すだれうだつが有る
当家は北側に面する奥谷家(岩瀬屋)の分家で、本家6代目の時にこの家を興した。
分家の年代は明らかではないが明治時代の前半と推定される。味醂醸造業を営んで
いた。母屋(八棟造)は桁行六間半、梁行五間半 梁行3室並びの整形六間取り居
室である。二階は床棚付2室を設けるなど極度に発展しているが、表側は江戸時代
同様低い2階造となっている。屋根は切妻桟瓦葺で煙だしは設けず後方妻側上部の
窓によって煙を抜くようになっている。このように寺内町には、当家を含め各時代
を代表する建造物が数多く残されており、それらの変遷を見ることによって地域に
おける生活の移り変わりを知ることができる。
じないまち交流館へ向かう
じないまち交流館(2Fで昼食休憩)
「じないまち交流館」は、富田林寺内町を訪れる方々に寺内町の歴史・文化につ
いての様々な情報や市民の交流の場、そして来訪者の休憩場所を提供することな
どを目的としています。
東高野街道を通り
錦織神社へ向かう
東高野街道
東高野街道は高野山参詣のための街道のひとつで、石清水八幡から生駒山西麓を
南下し、石川を渡り、藤井寺、羽曳野、富田林市域を通り、河内長野市域で西高
野街道と合流し、紀見峠を越えて高野山に向かいます。
江戸時代、富田林市域を通る街道として、南北に通る東高野街道や巡礼街道、東
西に通る富田林街道や廿山(つづやま)街道などがありました。市域を縦断する
街道に、東高野街道と巡礼街道があります。
巡礼街道は、西国巡礼三十三所観音霊場を巡る巡礼の道です。第4番札所槙尾山施
福寺を出て、河内長野市域で東高野街道と合流し、錦郡・新家・甲田を通って富田
林寺内町に入った巡礼街道は、寺内町の北端で東高野街道と分かれ、水路沿いに北
へ進み、宮と平の集落を抜けて羽曳野市域に入り、羽曳野丘陵沿いに第5番札所葛
井寺へ向かいます。
錦織神社
すばるホールの東側、総合福祉会館に隣接するうっそうとした森に鎮座するの
が錦織神社です。このあたりは、もとは河内国錦部(にしきべ)郡に属し、錦織
の地名も古くからこの地域に居住した百済(くだら)からの渡来人が綾織、錦織
を朝廷に献上したことに由来すると考えられています。
当社は大和川支流の石川の谷に位置するところから、建水分神社(千早赤坂村)、
美具久留御魂神社(富田林市宮町)とともに古くから河内国の三水分(みくまり)社
として広く信仰を集めていました。
南側の大石鳥居からのびる長い参道は、かつて流鏑馬(やぶさめ)の式が行われた
ところで馬場先といい、その奥に本殿と二摂社があり、ともに国の重要文化財
に指定されています。
本殿は室町時代の築造で、唐破風(からはふ)の上に千鳥破風(ちどりはふ)をのせ
た独特のもので、漆塗りの極彩色の華麗な様式は、日光東照宮拝殿などの原型
となっています。
摂社も本殿と同世代の優れた建造物で、これまで修理が繰り返されてきたもの
の痛みが激しいため、今年の3月に桧皮(ひわだ)の葺き替え修理が行われました。
現在では、桧皮は文化財の修理でも手に入りにくい貴重な建築資材となってい
ます。
天誅組の石碑
天誅組河内勢志士の名が列記、志士だけではなく、その協力者も書かれている。
※佐幕派の新撰組とは真逆の倒幕を主張した尊王攘夷派(倒幕派に属する)の
人達の一集団が天誅組です。
幕末は、徳川将軍が事実上の国家主権者として君臨する幕藩体制が解体され、国
内の政治権力の再編が進む過程で、その中心を担ったのは薩摩藩、長州藩、土佐
藩、肥前藩で、新撰組の上部組織である京都守護職のトップは、このうちの会津
藩主でした。
対して天誅組の盟主は、青年貴族中山忠光(明治天皇の叔父)でした。
天誅組は、王を尊び、外敵を撃退しようとする思想のもと、朝廷を守護するため
に立ち上がった武士の集団であったはずが、新政府軍の勝利が目前となり、天皇
が大和へと行幸するより先んじてその魁(さきがけ)とならんと先行するも、そ
の頃京都では尊王派と攘夷派が結びついて幕府を立て直し朝廷と協力して政治を
行おうとする「公武合体派勢力」に逆転し、江戸幕府は朝敵ではなくなったこと
で、大和行幸が中止となり、先行独断の謀反人や逆賊となり、幕府から追討を受
ける運命となってしまったのです。
近鉄川西駅(解散)
2019-12-02 00:59
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コメント(2)
富田林って、結構見るところありましたネ。
ボランティアガイドの皆さんの案内でも、JRで歩くのとは
だいぶ違いますね。
旧杉山家住宅等寺内町巡り良いですね。
東高野街道もそう思って歩くと良いのかも?。
by mamu7010 (2019-12-05 12:57)
mamu7010さん
コメント有難う御座います!(^^)!
ボランティアガイドの皆さんは地元愛にあふれてますから、
近鉄やJRハイクとは違って、地元の為に目一杯頑張る~ネ。
by taharas (2019-12-05 18:25)