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1月9日~の奄美大島・加計呂麻島帰省-2

1月25日       1月9日~の奄美大島・加計呂麻島帰省-2
   1月9日~17日・故郷奄美へ帰省
Windows7のサービス切れに備えてWindows10のOSにアップグレードして初の
しかもインターネッㇳ接続OSもIEからEdgeに変更して慣れないシステムの中、
失敗を繰り返しながら漸くブログ投稿へ漕ぎつけました・・・・
今回の奄美大島・加計呂麻島へ帰省の詳細スケジュール
1月9日(木)
    志都美駅~新今宮駅~関西空港駅 関西空港14:10⇒奄美空港着16:05
    奄美空港~バスで奄美市名瀬浦上の叔母の家へ
1月10日(金)奄美市 名瀬浦上 名瀬浦上 2泊目
1月11日(土)名瀬浦上~奄美市住用(道の駅)~瀬戸内町嘉鉄~瀬戸内町
      古仁屋港へ車~加計呂麻島生間(イケンマ)港へフエリー~芝へ 
1月12日(日)芝の生家で寝泊まり    芝で4泊5日
1月13日(月)
1月14日(火)
1月15日(水)芝~瀬相港~瀬戸内町古仁屋港へフエリー 古仁屋で1泊 
      同窓生と会う 食事 居酒屋&カラオケ
1月16日(木)古仁屋~奄美市名瀬浦上へ車で移動    名瀬浦上 1泊
1月17日(金)名瀬浦上~名瀬~奄美空港発16:45⇒関西空港到着18:15
      関西空港駅~新今宮駅~王寺駅~バスで自宅へ
奄美大島
奄美大島は、鹿児島から南へおよそ380キロメートルに位置し、全国の離島の
中でも沖縄本島、佐渡島に次ぎ3番目に大きな島です。
日本で2番目に大きいマングローブの原生林、国の特別天然記念物アマミノク
ロウサギなど太古の生命が息づく金作原原生林、奄美十景として知られる夕陽
の美しい大浜海浜公園、美しい水平線と亜熱帯の風景を思い起こさせるあやま
る岬など多くの自然と景勝地を有しています。
伝統文化として古くから伝承された五穀豊穣を祈り、祝う島唄や八月踊、中世
時代に都で装飾品として使用されたヤコウガイを用いるらでん細工や貝さじ等
の製作遺跡など歴史とロマン漂う空間が随所に見られます。

加計呂麻島・・奄美大島から20分天国のように美しい加計呂麻島の海とビーチ。
加計呂麻島(かけろまじま)は、奄美群島内の島で、鹿児島県大島郡瀬戸内町
に属する。人口約1200人の島です。
面積77.25km2で、大島海峡を挟んで奄美大島南岸と向かい合っている。また、
地形は細長く海岸線が複雑に入り組んでいるため海岸線長は147.5kmと長くなっ
ている。島内には小さな集落が30ヶ所程存在し、世帯数852、人口1,262人
(2017年8月末現在)
サトウキビの栽培、漁業。きび酢、黒糖焼酎の製造。観光(民宿、ペンション
など)。島内に大規模な商店はなく、フェリーかけろまで行ける古仁屋港付近
のスーパーマーケットでまとめ買いをする人が多い。
島の北側の薩川湾は太平洋戦争中、軍港として栄え大和や武蔵など連合艦隊の
戦艦が停泊したことで有名。また島内各所に特攻兵器震洋が配備され、出撃命
令を待っていた。
航路は、加計呂麻島東部の生間(いけんま)、中央部の瀬相(せそう)と奄美
大島・古仁屋(こにや)との間に瀬戸内町営「フェリーかけろま」が定期便と
して就航している。乗用車も利用できるが、積載台数に限りがあるので、予約
が望ましい。奄美空港からしまバスで古仁屋港に来るには名瀬で乗り継ぎする。
古仁屋港には「海上タクシー」が待機しており利用可能。加計呂麻島から利用
する場合は、電話で古仁屋から呼ぶことになる。
定期バスは、加計呂麻バスがフェリーの発着に接続する形で生間港および、瀬
相港から島内の各集落へと毎日1便-4便運行している。
レンタカーも生間港および瀬相港付近で業者が営業している。
島の観光資源と祭り
諸鈍(しょどん)のデイゴ並木、展示・体験交流館。呑之浦(のみのうら)の
特攻艇震洋基地跡と島尾敏雄文学碑。安脚場戦跡公園。大屯神社(おおちょん
じんじゃ) - 平資盛を祭る神社。秋に諸鈍シバヤが行われる。
むちゃ加那の碑 - 悲しい民話、むちゃ加那物語のむちゃ加那とウラトミを弔う碑。
於斉のガジュマルの巨木 - 枝が民家を覆うほど大きなガジュマル。寅さんのロケ
地にもなった。島内に多くの海水浴に適した海岸やダイビングスポットがある。
祭り他
諸鈍シバヤ - 踊り・村芝居。平家の落人・平資盛が土地の人を招いて. 上演した
のが始まりと言い伝えられている。
加計呂麻島は寅さんシリーズ第48作目(最終話)であり、渥美清の遺作ともな
った映画の舞台となった。島内には、ロケ地記念碑が6箇所(瀬相、諸鈍、於斉、
スリ浜、徳浜、勢里)に設置されている。また加計呂麻島に渡る古仁屋港(奄美
大島)にも設置されている。

1月9日 奈良~関空~奄美へ
志都美駅
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関西空港第2ターミナル搭乗受付
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搭乗
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1月10日 奄美市名瀬浦上 早朝散歩 8504歩 5.1㎞歩いて汗ビッショリ
浦上川沿いを大熊漁港へ 
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徳洲会病院
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浦上川と有屋川の合流ポイント
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大熊漁港
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名瀬浦上の叔母の家へ戻る、汗ビッショリでシャワーを浴びる羽目に
黄鈴樹の花がきれい、この時期玄関は網戸で全開
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1月11日 雨が降ったり止んだり
名瀬浦上~奄美市住用(道の駅)~瀬戸内町嘉鉄~瀬戸内町古仁屋港へ車~
加計呂麻島生間(イケンマ)港へフエリー~諸鈍観光 大屯神社~芝へ
奄美市住用(道の駅)で小休止 ガジュマル㋨木
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瀬戸内町嘉鉄 鹿児島ロマン街道 ハートが見える風景
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瀬戸内町嘉鉄 マネン崎展望台 
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アマミホシゾラフグのミステリーサークル
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瀬戸内町古仁屋 古仁屋港(海の駅)クロマグロ養殖日本一の町瀬戸内町
「近大マグロ」のふるさと、いったいどこなのかご存知ですか。
奄美大島南部に位置する瀬戸内町です。瀬戸内町はクロマグロの養殖で日本一
です。今でもそうなのかな?対岸の加計呂麻島へのフェリー乗り場のそばにあ
る「せとうち海の駅」には、大きなクロマグロのオブジェが鎮座しています。
ちょっとした記念写真のスポットです。瀬戸内町には、近大マグロで知られる
近畿大学の研究施設もあります。世界で初めてクロマグロを卵から完全養殖の
実用化に成功したことで知られます。
「全身ほぼトロ」ともいわれる高級魚の養殖クロマグロは、口に入れた瞬間に
トロトロな食感で、日本人皆が好きな魚です。瀬戸内町で食べるクロマグロは
絶品です。
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フェリーかけろまで加計呂麻島生間港&瀬相港へ交互に・・・
今回は生間港へ渡る
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フェリー乗船
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生間港到着 雨が止んだので観光 諸鈍へ 寅さん最終作ロケ地&大屯神社
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寅さんロケ地記念碑 大屯神社(平資盛神社)
※男はつらいよ 逸話
1969年(昭和44年)の8月27日が、映画「男はつらいよ」の第1作が公開さ
れた日らしいです。
実は、この国民的大ヒット映画となった「男はつらいよ」の映画が生まれる
きっかけに奄美大島が深く関わっているってご存知でしたか?
もともと「男はつらいよ」は、1968年(昭和43年) ~1969年(昭和44年)
にフジテレビで放送されていたテレビドラマでした。
その最終回の放送で、寅さんは一攫千金をもくろんで、奄美大島へやってき
ます。当時、奄美ではハブ咬まれる被害が多かったので、ハブを減らすため、
生きたハブを捕獲した場合、自治体で買い取る制度がありました。制度が始
まった1954年当時は1匹150円だったそうです。現在は、1匹3,000円で買取
っています。寅さんは弟の雄二郎と、鹿児島からフェリーで奄美へ向かいま
す。最初はご機嫌で甲板の上で当時、大ヒットした田端義夫「島育ち」を口
ずさんでいたが、だんだん波が高くなり、寅さんはひどく船酔いしてしまい
ます。しかし朝5時に奄美大島の名瀬の港に着いたとたん、船酔いしていた
のウソのように回復し、一目散に奄美の森へハブとりにいきます。
やがて、寅さんはハブを捕まえることなくハブに咬まれてしまい命を落とし
ます。しばらくは、寅さんの死を受け入れなかった妹のさくらでしたが、あ
る夜、寅さんが現れます。近づいていくと、寅さんはフッと消えてしまい、
さくらは寅さんが亡くなったことを改めて実感。悲しみに泣き叫ぶさくらに、
天国の寅さんが、やさしく手を振っている場面でドラマはエンディング。
ところが、大人気だった寅さんが死んでしまったことで、テレビ局へ抗議の
電話が殺到したそうです。
これがもとで、映画として新しく寅さんシリーズが始まったということです。
それ以降、48作の映画は作られており、ギネスの最長記録にもなっています。
そして、最後のオリジナル作品となった48作目「男はつらいよ 寅次郎紅の花」
も、なんと奄美大島の加計呂麻島が舞台となっています。
実は映画は50作まで計画されていたそうですが、寅さん役の渥美清さんが亡
くなったため、48作品目が最後となってしまいました。奄美からはじまり、
奄美で終わる。男はつらいよと奄美とは不思議なつながりがあります。
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諸鈍 大屯神社~瀬相港~芝へ到着  生家の部屋掃除
大屯神社(平資盛神社)
大屯神社(おおちょんじんじゃ)。
1185年、壇ノ浦の戦いで破れた平家の落人たちは、奄美諸島へ逃げて来た。
平有盛(ありもり)、平行盛(ゆきもり)、平資盛(すけもり)ら3人は、
最初は喜界島へ逃げ、平有盛は奄美市名瀬浦上を制圧し居を移し、平行盛は
龍郷町戸口を制圧し居を移した。平資盛は加計呂麻島の諸鈍を制圧し居を移
したという。大屯神社はその平資盛を祭った神社。重要無形民族文化財に指
定されいる。「諸鈍シバヤ」という祭りもここで行われる。諸鈍シバヤの由
来は、土地の人々と交流を深めるために平家の落人平資盛が教えたのがはじ
まりとされている。
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※加敬呂麻島の西の集落実久(サネク)に源為朝の子、実久三次郎神社がある。

芝へ到着
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寝泊まりするために部屋掃除
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1月12日 芝
八朔&赤ミカン収穫&各々の木の剪定&庭の草刈り、パパイヤ移植
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1月13日 芝 畑の草刈り 瀬相港GSへ草刈り機用の混合油購入へ
畑の草が大変な状態に? 墓参りにも行けた
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庭のパパイヤ
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庭の柿の木
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墓参り
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墓参りを終えて
海岸に出て家へ帰る
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車をここに置いてあるので・・・
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此の道を通って、我が家のポトス
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此処までは、
1月9日~の奄美大島・加計呂麻島帰省-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-01-23
此処では、続きの 1月13日 芝 畑の草刈りの続き~の詳細を掲載します。
畑の草刈りの続き、瀬相のGSへ草刈り機の燃料を買いに行く
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戻ってきて畑の草刈り
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1月⒕日 芝 畑の草刈り 
周りの大半の畑が草ぼうぼうのままで使用されていない
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1月15日 芝~瀬相港~フエリーで古仁屋港へ 古仁屋散策 古仁屋で1泊
瀬相港  民間フェリーの天長丸も停泊している
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フエリーかけろまに乗船
古仁屋港へ到着、ホテルへチェックインして古仁屋の町を散策
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山の上にソーラー
大雨が降ったら崩れはしないだろうか?
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コーラル橋
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公園の相撲場(土俵)
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居酒屋で知人と食事 食事の後はカラオケスナックへ・・・
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1月16日 古仁屋~奄美市住用 鹿児島ロマン海道マングローブ原生林~
    住用(道の駅)~名瀬浦上
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住用 道の駅
バオバブの木 緋寒桜開花(途中ではほぼ満開の木も見られた)
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名瀬浦上の叔母の家 黄鈴樹の花 
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大熊漁港のカツオ幟 夕食はキハダマグロの刺身
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1月17日 名瀬浦上~名瀬~奄美空港発16:45⇒関西国際空港到着18:15

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令和2年1月6日初詣(松尾寺・松尾神社)他-2

令和2年1月7日    令和2年1月6日初詣(松尾寺・松尾神社)他-2
 令和阿2年 初詣
同じ町内の近所に住む娘と一緒に家族3名で松尾寺&松尾神社へ初詣に行って来た。
例年は鏡開きが終わってから小正月の間、11日~15日の間に行くのが我が家の慣習?
今年は、例年よりも早い初詣になったが行って来ました。松尾寺の帰りに法隆寺へも
立ち寄ってみました。
初詣には、古札を返納して、蝋燭と線香を灯して松尾寺へお詣りを済ませて、山の上
の松尾神社へお詣りに、今年は家内も上がると言い3名で松尾神社へのお詣りも済ま
せて、松尾寺で例年の様に家内と娘はお守りを、我が家の為には七福神堂で熊手と絵
馬を購入して帰った・・・.
松尾寺北惣門
小泉方面からの参道。一間の薬医門で、108段の石段を登れば本堂。手水は閼伽井から
の霊泉で“大和の名水100選”に選ばれ、参詣者をはじめ、ハイカーの喉も潤しています。
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山門を入り手水舎で手と口を清めて松尾寺本殿へ階段を上る
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階段途中の閼伽井
閼伽井屋
1300年の昔から、当山のご本尊厄除観音様にお供えする閼伽水で自然湧水。この水
は昔から松尾水(まつのおのみず)と呼ばれ、不老長寿、健康のために良いと言わ
れています。
また古来、醸造に適した水として知られ、今も境内の鎮守社「松尾山神社」の社頭
には宝暦8年(1758年)銘の石灯籠に南都で栄えた酒屋の杜氏たちの寄進名が彫ら
れ残っています。
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本堂(重文)
中世の真言宗本堂の典型的なもので、入母屋造り本瓦葺。本尊千手千眼観世音菩
薩(やくよけ観音)は秘仏で、年に一度11月3日に開扉されます(9:00~16:00)。
内陣では、毎日厄除のご祈祷が行われ、厄年をはじめすべてのやくよけのご祈祷
が厳修されます。
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松尾寺・・・松尾山縁起(天平古記録)
松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、勅命による日本書紀編
纂の折、42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立
された日本最古の厄除霊場です。 親王が松尾山に参詣修行し、ご祈願の養老2年2
月初めの午の日、東の山に紫の雲たなびき(瑞雲)、千手千眼観世音菩薩が天降り
ご出現なされたという「松尾山縁起」により、国運隆昌・国体安穏を祈祷申し上げ
る勅願寺として、歴代皇室の御叡信厚く、後水尾天皇も御持仏の如意輪観音を下さ
れた由緒ある寺です。
ご本尊厄除け観音― 千手千眼観世音菩薩(秘仏)、ご本尊の厄除け観音は、千の手、
千の目をお持ちになる千手千眼観世音菩薩(秘仏)で、図り知ることの出来ない広
大な慈悲の力を備えられ、殊に霊験あらたかと伝わります。
・千手千眼観世音菩薩立像・十一面観世音菩薩立像・日本唯一の舎人親王坐像
・日本で最大の役行者像
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蝋燭と線香で松尾寺にお詣り
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古札返納所の
横の階段の上に三重搭が有る
三重塔・・・ 承和2年(835)創建(寺伝)。
明治の再建説もありますが、鬼瓦に正徳三年(1713)の銘があり、旧材も一部に
再用されています。後水尾天皇持仏であった如意輪観世音菩薩が寄進され、祀ら
れています。
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松尾神社へ登る
先ず階段を上り三重搭前へ

三重搭を過ぎると神社の鳥居が見える
鳥居の方から神社へ上る
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松尾神社・・・松尾山神社(奈良時代)
春日造り桧皮葺の三社殿が並び、これに拝殿と神楽殿が配置されています。松尾大
明神を本社、清滝権現・牛頭天皇を脇社として三社斎祀しています。元観音堂跡と
言われ、昭和52年に発掘された奈良時代の鎧瓦などが宝蔵殿に展示されています。
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三重搭の横に到着
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本殿を見下ろす位置に
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階段を下りて
七福神堂で例年通り熊手と絵馬、今年は笹飾りはなしに・・・
珍しく娘が御朱印帳を出して御朱印を授かっている
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娘と家内はお守りを授かり
帰りに鐘楼で各々厄除けの鐘を一突きして帰る慣わし??
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天気が良いので帰りに法隆寺へ行ってみる事に・・・
此処までは、
令和2年1月6日初詣(松尾寺・松尾神社)他-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-01-07
此処では、続きの 法隆寺~ についての詳細を掲載します。
法隆寺
法隆寺見どころ・簡単まとめ情報です。夢殿(国宝)は厨子(ずし)に聖徳太子の
等身像と言われている救世観音像(国宝)を安置しています。夢殿は739年(天平
11年)に行信僧都(ぎょうしんそうず)が聖徳太子を偲び、聖徳太子一族の住居で
あった斑鳩宮(いかるがのみや)の旧地に建立した言われています。
法隆寺(ほうりゅうじ)・斑鳩寺(いかるがでら)は第31代・用明天皇が自らの病
気平癒を祈願する為に発願したが、実現しないまま崩御し、607年(推古天皇15年)
第33代・推古天皇と用明天皇の皇子・聖徳太子(厩戸皇子)が用明天皇の遺志を継
いで創建し、本尊・薬師如来を安置したのが起源と言われています。670年(天智9
年)に焼失したが、その後再建され、693年(持統7年)には仁王会が行われたとも
言われています。739年(天平11年)行信僧都が聖徳太子を偲び、斑鳩宮(いかるが
のみや)の旧地に夢殿を建立した言われています。その後慶長年間に関白・豊臣秀
吉の子・秀頼、江戸時代には江戸幕府5代将軍徳川綱吉とその生母・桂昌院が伽藍の
修造を行いました。

南大門
法隆寺の玄関にあたる総門です。三間一戸の八脚門(やつあしもん)で現法隆寺建
立時には中門前の石段上に立っていたが、寺域の拡大により現在の場所に移された
と言われます。創建時のものは、永享7年(1435)に焼失し、永享10年(14
38)に現在の門が再建されました。(室町時代 国宝)
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南大門~中門の横を通り西円堂へ向かう
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西円堂
西院伽藍北西の小高い場所に、峯の薬師と呼ばれる薬師如来像を安置する八角円堂
の西円堂があります。このお堂の創建については、養老2年(718)に光明皇后の母、
橘夫人の発願によって、行基菩薩が建立したという伝承があります。現在の建物は
建長2年(1250)に再建されていますが凝灰岩の礎石や二重の須弥壇に天平期の名残り
がみられます。
堂内中央の薬師如来像を取り囲むように十二神将像が、また東面には千手観音像、
北面には不動明王像が安置されています。また堂内には薬師如来の霊験を物語る、
夥しい数の刀剣や弓、甲冑、鏡などが奉納され、現在その一万点以上が宝物庫に収
蔵されています。
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※薬師如来像
八角形の裳懸け座に坐す、丈六の大きな脱活乾漆造で「峯の薬師」と呼ばれ、今
も多くの人々から篤く信仰されています。光背は鎌倉時代の後補で二重になった
円相には七仏薬師と千体仏が取り付けられています。(奈良時代 国宝)
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西円堂からの眺め
五重塔
日本最古の塔である五重塔は、五重目の軸部が初層の半分の大きさになっており、
これに深い軒の出が相まって安定感を与えています。その軒を雲肘木が優しく支
えて、見る人を飽きさせません。
心柱の下にある心礎には、仏舎利が納められています。(飛鳥時代 国宝)
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西円堂から降りて
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回廊
回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、並立する五重塔と金堂
を囲んでいます。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、
経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていました。また西側より東側のほうが一間だけ長
くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。
(飛鳥時代 国宝)
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中門
西院伽藍の本来の入口となる中門は軒が深く覆いかぶさり、正面が四間二戸と入口
が二つある形が特徴です。エンタシスの柱や上層には金堂と同じ卍崩しと人字型の
割束を配した高欄を備え、壮麗な飛鳥時代の様式を今に伝えています。
(飛鳥時代 国宝)
回廊
回廊は東側の鐘楼、中央の大講堂、西側の経蔵につながり、並立する五重塔と金堂
を囲んでいます。平安時代以前の回廊は、経蔵、鐘楼の手前で閉じられ、大講堂、
経蔵、鐘楼は回廊の外側に建っていました。また西側より東側のほうが一間だけ長
くなっているのは、金堂と五重塔のバランスを考慮したものだと考えられています。
(飛鳥時代 国宝)
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南大門を出て
駐車場へ向かう
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令和2年元旦(2020年1月1日)

令和2年元旦(2020年1月1日)
         新年
        明けましておめでとう御座います

        今年も宜しくお願い致します

我が家は 令和2年元旦 新年のおせち
今日は、子供&孫達が全員集合するのでてんやもののおせちで我慢・・・

新年のおせちは?
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三段重
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フイルムを外して
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後は雑煮とオードブル
オードブルも並べるだけ
は数種類のハムと焼き豚、紅白かまぼこ、伊達巻、玉子焼き等

手造りは雑煮と煮しめと数の子と切り干し大根の酢の物だけ?で正月・・・
後は、此れに飽きたら寿司、寿司も既に注文済みで取りに行くだけで済む

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12月20日の堺市大浜公園・蘇鉄山~旧堺港巡り-2

12月23日    12月20日の堺市大浜公園・蘇鉄山~旧堺港巡り-2
             昼飲み会ハイキング 6㎞
此の日の参加者は・K場さん・S藤さん・Y本さん・R得さん・M村さんと私の
6名で初の湊駅集合。ハイキング日和の中、ワイワイガヤガヤ話が弾み・・・
コースは  南海 湊駅(10:10分集合・スタート) 
南海 湊駅(10:10分)~船待神社御旅所・飛行場跡碑~大浜公園・蘇鉄山
・相撲場~旧堺灯台・旧堺港(龍女神像は眺めるだけ)~ルソン助左衛門像
~大浜公園(昼食)~神明神社(蘇鉄山登頂証明貰う)~南海堺駅(ゴール)
※ショートカットで 天誅組義士上陸之碑・酒井事件碑~南蛮橋を通らず。
志都美駅
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湊駅をスタート
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出島漁港&ヨットハーバー
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船待神社御旅所
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魚貝海虫慰霊碑
船待神社御旅所付近にある碑。 大阪府に面した大阪湾の埋め立てに伴い、それ
まで住んでいた生物の犠牲・供養を目的に建立された。
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民間航空輸送発祥の地之碑
船待神社御旅所付近にある碑。1922年、日本の民間航空輸送会社として初めて
日本航空輸送研究所が設立された。 設立には、徳島県出身のタクシー会社経営
の井上長一氏が携わった。 日本航空輸送研究所は、堺市の大浜水上飛行場を拠
点とした。 小松島、高松、大分、白浜など全国各地を結び、乗客・貨物・郵便
の輸送業務を行っていた。 海軍から払い下げられた横廠式イ号甲型水上練習機、
一四式水上偵察機、愛知AB-4飛行艇、スーパーマリン サザンプトンなどを
運用し、「空飛ぶホテル」として人気を集めた。 後に、拠点を大阪市大正区の
木津川河口の木津川飛行場に移転させた。
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大阪府・堺大浜飛行場跡地
大浜飛行場があった所、今は漁港とヨットハーバーになっている。(南海本線
湊駅から西へ800m)(出島漁港に民間航空輸送発祥之地の碑がある)
戦時国策のため閉鎖された民間航空輸送のさきがけ大浜水上飛行場跡
大正11年から始まって昭和14年に閉鎖されるまで18年間に、堺および大阪
と徳島・高松・今治・大分との間や白浜への延べ飛行距離は249万キロメートル、
旅客2万5千人のほか、郵便・貨物を運んだ、日本の民間航空輸送の発祥地であ
る。第一次世界大戦で飛行機が兵器として有効性が認められ急速に発達するが、
国内でも、明治43年、軍人の日野・徳川両大尉による代々木練兵場での初飛行
に示されるように軍用飛行としてスタートする。これに対してあくまで民間の人、
もの、情報を運ぶ「平和利用」としてパイオニア的に開設されたのが、大浜海岸
を利用した水上機と飛行艇による航空事業であった。「征空野武士」ともいわれ
た徳島出身の井上長一氏によって「日本航空輸送研究所」という名称の会社が設
立され、数度の風水害や事故をのりこえて、閉鎖される3年前に導入した双発の
スーパーマリン・サザンプトン飛行艇(19人乗り)はキリン号と名付けられ、
大きな座席、明るい窓、エアガールによるサービス、ビール提供の「空飛ぶホテ
ル」として関西から四国・九州方面の利用客から人気を博した。さらに当時とし
てはジャンボ機にたとえられてもよい50人乗りの大飛行艇を導入し、大発展を
期していた矢先の閉鎖を余儀なくされる。それは、昭和6年の「満州事変」、同
12年の日中戦争、そして近づく太平洋戦争へ、すべてが戦争遂行のため、国策
の大日本航空株式会社へ吸収されたからである。この時、井上長一氏は無念の気
持ちを国にかなり遠慮しながらも「18年の光栄ある日本航空輸送研究所の無に
帰することは愛児を葬る日のごとき惜別の情がひしひしと胸底を往復し、一抹の
悲哀は事業の終末の挽歌と思える。」と述べている。最近まで残っていた格納庫
は新しい市の消防本部庁舎が建ち、痕跡はなくなった。ただ出島漁港の西側の船
待神社お旅所の片隅に、海に向かって高さ1.8mの自然石の記念碑と航空事業
の犠牲になった、飛行士、機関士、整備士らの銘板が残されている。
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出島漁港
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大浜公園
明治36年内国勧業博覧会場にもなった最古の市営公園。水族館・公会堂・潮湯・
海水浴場などの当時のレジャー地は、現在では野球場・プール・体育館・相撲場
などになっています。7月開催の「堺大魚夜市」は有名。
明治12年に海浜公園として誕生し有名になった堺市営で最も古い公園です。明治
36年には大阪で開かれた第5回内国勧業博覧会の会場となり、堺水族館が設置さ
れ世界に誇る東洋一の水族館とはやされました。他にも公会堂、潮湯、海水浴場、
料理旅館や土産物屋などが軒を連ね当時は堺のレジャー地として賑わっていた。
しかし白砂青松の美しい海岸線も、臨海工業地帯の埋め立て造成に伴いその面影
をなくしました。現在は16haの敷地に野球場、プール、体育館、相撲場、サル島、
蘇鉄山(一等三角点のある日本で一番低い山)などがあり、気軽に利用できるレクリ
エーションスペースとなっています。
また、毎年7月31日には鎌倉時代から続く堺の夏の風物詩「堺大魚夜市」が、古式
に則したせりや、鮮魚の即売など威勢のいい掛け声とともに賑やかに繰り広げられ
ます。
ひょうたん池
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大浜公園 蘇鉄山
幕末の黒船来航に備えて築かれたお台場、明治12年大浜公園として開放され築山と
して整備されました。昭和14年東南の御蔭山から移された一等三角点が設置されて
いる標高6.97mの日本一低い山。
蘇鉄山は大阪湾に面し、幕末には黒船来航に備えてお台場(砲台)が築かれた場所を、
明治12年(1879年)に大浜公園として解放され展望のよい築山として整備されたとこ
ろです。蘇鉄山の約300m東南にあった御蔭山の頂に、近代地図作成のための基準
点となる一等三角点が明治18年(1885年)に設定されました。
その後御蔭山が削られ、昭和14年(1939年)に蘇鉄山の標高6.97mの所に移設された
ものです。現在一等三角点の設置されている日本一低い山となっています。御蔭山
は天保年間に港と水路浚渫により造られた山で、同時期に川浚えの土砂を積み上げ
てできた大阪の天保山とは兄弟関係にあたります。
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蘇鉄山 一等三角点
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ラジオ塔
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蘇鉄山 反対側へ降りる
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此処までは、
12月20日の堺市大浜公園・蘇鉄山~旧堺港巡り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-23
此処では、続きの 相撲場へ向かう~ についての詳細を掲載します。
相撲場へ向かう
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大浜公園 相撲場
古くからアマチュア(学生)相撲の大会が行われ、幾多の好勝負と名選手をその歴
史に刻んできた相撲場です。
第1回全国学生相撲選手権大会が大浜で大正8年に開催され、第64回大会からは大浜
公園相撲場と両国国技館において隔年開催されています。現在に至るまで幾多の好
勝負を生み、名選手をその歴史に刻んできました。
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相撲場の横を通り
旧堺港灯台へ向かう
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旧堺港灯台
堺旧港南波止場に明治10年築造された高さ11.3mの六角錘形の灯台。埋め立てが進
み役割を終えた後、堺のシンボルの一つとして保存、現地に現存する日本最古の木
造洋式灯台として国指定史跡になっています。
室町時代から安土桃山時代にかけて、天然の良港であった堺港は海外貿易港として
も発展しました。後に大和川の付け替えにより衰退しましたが、江戸の商人と堺の
人々により築港・修理されたのが現在の堺旧港の原型です。
その南波止場に、明治10年(1877年)堺の人々の寄付などにより高さ11.3mの六角錘
形の木造洋式灯台が築造されました。灯台はおよそ1世紀にわたって堺港に出入り
する船の航海の安全を守ってきましたが、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(1968
年)にその役割を終えました。今なお堺のシンボルの一つとして保存され、現地に
現存する日本最古の木造洋式灯台の一つとして国の指定史跡になっています。近年
老朽化が著しかったのを平成13~18年度に保存修理工事が行われ往時の姿が甦りま
した。周辺は龍女神像とともに新たな親水ゾーンとして親しまれています。
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呂宋 助左衛門 銅像へ向かう
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龍女神象・・・遠くに眺めるだけです
明治36年内国勧業博覧会で大浜水族館前に設置。平和と繁栄のシンボル「乙姫さん」
の愛称で親しまれたが、廃館で撤去された後平成12年市制110周年記念事業で北波
止突堤に復元建設されました。
明治36年(1903年)第5回内国勧業博覧会の際に、堺会場の東洋一を誇った大浜水族館
前に設置されました。博覧会終了後、水族館とともに堺市が譲り受け、像は平和と
繁栄のシンボルとして、「乙姫さん」の愛称で親しまれましたが、臨海工業地帯の
建設や第2室戸台風の影響などで、廃館となった水族館の解体とともに撤去されまし
た。平成12年(2000年)7月、堺旧港周辺が世界民族芸能祭「ワッショイ!2000年」の
会場となった時に、市制110周年記念事業として、北波止突堤の付け根に復元建設さ
れたものです。高さ16mの石張りの台座上に10mのブロンズ製の乙姫像が立ち上がっ
ています。
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呂宋 助左衛門 銅像へ向かう
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呂宋 助左衛門 銅像(るそん すけざえもん 銅像)
大阪府堺市及びマニラに銅像がある。また、同市の大安寺に助左衛門の墓といわれ
ているものがある。呂宋 助左衛門(るそん すけざえもん、永禄8年(1565年)? -
没年不詳)は、戦国時代の和泉国堺の伝説的貿易商人。本名は、納屋助左衛門
(なや すけざえもん)。堺の貿易商・納屋才助の子。呂宋以外にも別名で菜屋助
左衛門(なや すけざえもん)や魚屋助左衛門(ちや すけざえもん)ともいう。
『太閤記』などによれば、安土桃山時代にルソンに渡海し、貿易商を営むことで
巨万の富を得た。文禄3年(1594年)7月20日、織田信長の後を継いで天下人とな
った豊臣秀吉に対して蝋燭、麝香、真壺、ルソン壺(呂宋壺)、唐傘、香料など
珍品を献上し、秀吉の保護を得て日本屈指の豪商として活躍した。
慶長3年(1598年)、あまりに華美な生活を好んだため、石田三成ら文治派の讒
言によって、秀吉から身分をわきまえずに贅を尽くしすぎるとして邸宅没収の処
分を受けることになるが、事前に察知してその壮麗な邸宅や財産を菩提寺の大安
寺に寄進して日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝
物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の
怒りを買ったともいう。
慶長12年(1607年)、スペインがカンボジアに介入した後にルソンからカンボジ
アに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。
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大浜公園へUターン(昼食&トイレ休憩)
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神明神社
この神社の堺市による銘板には次のように記載されています。
        神 明 神 社
祭神はもとは稲荷大神(いなりおおかみ)が主神で、別に伊勢の大神が祭られて
いたが、慶応年間に変更になり、現在は天照皇太神(あまてらすこうたいじん)
・豊受大人(とようけおおかみ)をはじめ住吉(すみよし)大神・金山彦(かな
やまひこ)大神など計16柱が合祀されており、かって新地とよばれた、現在の
堺駅を中心とした地区の氏神として崇敬されている。 稲荷大神は、豊彦稲荷
(とよひこいなり)神社と称し本社に列している。
天保12年 (1841)に当時の堺町奉行水野若狭守(みずのわかさのかみ)
は、この町の繁栄、発展を祈り地域の氏神の奉斎を命じた。これが神明(しんめ
い)神社の創建である。翌13年正月に社殿が完成し、2月の初午(はつうま)
に大祭を執行した。  わずか9日で社殿が竣工したので、これを慶し、九と日
を1字にまとめて、旭宮(あさひのみや)と称した。
その後、安政2年(1855)に境内地地が狭いため移転を計画、慶応元年(1
865)現社地に移転を決定し、同3年6月に竣工、17日間遷座奉祝行事を行
い、旭(あさひ)神明神社と改称した。明治4年(1871)2月13日新地新
明神社と改称、同5年村社に列し同42年(1909)神饌幣帛供進社(しんせ
んへいはくきょうしんしゃ)に指定された。明治30年(1897)頃より神明
神社と称されるようになった。            堺市
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今回は、ショートカットした為、下記の見所は見れませんでした。
☆天誅組義士上陸遺蹟碑
天誅組の変、大和義挙、大和の乱。 1863年、吉村寅太郎ら尊皇攘夷派浪士の
一団(天誅組)は公卿中山忠光を主将として大和国で決起、幕府軍の討伐を受け
て壊滅。 長州藩など各地から集結した浪士などから成る尊攘派は、朝廷にも強い
影響力を持っていた。 尊攘派の主張で、朝廷は直接各藩に攘夷を命じるほか、畿
内を朝廷の直轄領とするなどの意見があったが、天誅組の蜂起は、幕府に対する
尊攘派の初めての武力蜂起という点で画期的なものであった。 天誅組の挙兵によ
って幕府領支配の拠点である陣屋や居城が公然と襲撃された。
☆堺事件
1868年、フランス海軍のコルベット艦「デュプレクス」は、駐兵庫フランス
副領事M・ヴィヨーと臨時支那日本艦隊司令官ロアら一行を迎えるべく堺港に入
り、同時に港内の測量を行った。 士官以下数十名のフランス水兵が上陸して市内
で遊んでいたが、夕刻、近隣住民の苦情を受け、六番隊警備隊長箕浦元章(猪之
吉)、八番隊警備隊長西村氏同(佐平次)らは仏水兵に帰艦を諭示させたが言葉
が通じず、土佐藩兵は仏水兵の捕縛を試みた。 仏水兵側は土佐藩の隊旗を奪って
逃亡し、土佐藩兵側は発砲。 双方銃撃戦の末、仏水兵を射殺、溺死させ、遺体は
16日に引き渡した。
☆堺事件のその後
土佐藩は発砲を認め、隊長の箕浦、西村ら指揮官4名と隊士16名は責任を取っ
て死刑が決定。 大阪裁判所の宣告により、堺の妙国寺で土佐藩士の刑の執行が
行われた。 立ち会ったフランス軍艦長アベル・デュプティ=トゥアールは、11
人が切腹したところで外国局判事五代友厚(才助)に中止を要請、結果として9
人が助命。
☆堺魚市場
鎌倉時代から魚介類の市場として栄え、堺の一大名物となっている。 当初は、英
彰小学校付近で市場としての機能を果たしていたが、明治時代には、現在地に移
転したと言う。 近海で獲れた魚介類を中心に、遠洋のものまで幅広く、取り揃う
☆南蛮橋
堅川にかかる橋。 橋の中央部分に設置された南蛮人の銅像が話題を集めている。
かつて、堺市は、堺港があり、海外との貿易が盛んな地域であった。 世界的に
有名なカトリック教の宣教師、フランシスコ・ザビエル氏が訪れた場所としても
知られる。 そんな時代背景からか、川に面した設置された銅像は、過去の堺市の
繁栄を物語る。

堺駅~天王寺駅へ戻り、湯処・あべの橋温泉へ
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銭湯「湯処・あべの橋温泉」
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号  深さ  1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉   泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身
   ・くじき・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復
   ・健康増進・切り傷・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
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JR天王寺駅の待ち合わせ場所へ向かう
阿倍野ハルカス
地上300m、日本一の高さを誇る超高層複合ビル「あべのハルカス」は、近鉄大阪
阿部野橋駅、天王寺駅各線と直結。 日本最大級の百貨店や展望台、美術館、ホテ
ルなど多彩な店舗が出店しており、1日中お楽しみいただけます。 大阪随一の絶
景とともに堪能できるランチやスイーツなど、絶品グルメも充実。
大阪観光なら日本一高いビル「あべのハルカス」へ!  ほんまでっせ!
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昼飲み会は、居酒屋 甘太郎 14:30~11名で、二次会に4名でカラオケ迄。 
・K場さん・K池さん・N西さん・S藤さん・M吉さん・Y川さん・R得さん
・I 田さん・K西さん・M越さん・私の11名、楽しい一時と二次会のカラオケにも?
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・I 田さんの初参加が嬉しかった
此の日の私の万歩計は、18972歩で約11.3㎞歩いたことに・・・

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12月14日~18日の鹿児島訪問ー2

12月22日      12月14日~18日の鹿児島訪問ー2
             LCC Peachでの旅
旅の初めは、12月14日の関西空港第2ターミナル~鹿児島空港へ・・・
関空第2ターミナルへ入ると屋外の景色は飛行機に乗る時しか見る事が無い。
此れから搭乗
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12月15日
天文館アーケード街を照国神社へ
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照国神社(てるくにじんじゃ)
照国神社は、鹿児島県鹿児島市照国町にある神社。旧社格は別格官幣社。江戸時代
後期から明治時代初期に流行した藩祖を祀った神社のひとつ。照国大明神(島津斉
彬)を祀る。祭神は薩摩藩第11代藩主の島津斉彬。
祭神は島津家28代当主で安政5年(1858年)7月に50歳で急逝するが、文久2年(18
62年)に祭神の遺志を継いだ弟久光と甥忠義が鹿児島城内西域の南泉院郭内に祭神
を祀る社地を選定し、翌3年5月11日に孝明天皇の勅命による「照国大明神」の神号
授与を受けて祠を造営したのが創祀で、翌元治元年(1864年)に改めて東照宮が建
っていた地に社殿を造営し、照國神社と称した。
明治6年(1873年)に県社に列し、同15年(1882年)には別格官幣社に昇格。明治
維新における祭神の功績と薩摩藩の役割が考慮されたと考えられる。
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島津斎彬像
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照国神社を出て鶴丸城跡へ向かう
島津忠義像・・・島津忠義は島津久光の三男
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西郷隆盛像
鹿児島市の鹿児島市立美術館近くに立つ郷土の彫刻家・安藤照が1937年(昭和12
年)に作成した西郷の銅像は軍装(陸軍大将)である。明治より時代が下って鹿
児島市に建てられた銅像が、陸軍大将の正装で直立不動の姿勢である。
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鶴丸城跡
石垣等が 残っている。
鹿児島城は、薩摩国鹿児島城山麓(現在の鹿児島県鹿児島市城山町)に築かれた
江戸時代の日本の城である。別名「鶴丸城(つるまるじょう)」。鹿児島では一
般的に古くから別名の鶴丸城で呼ばれている。別名の由来は、屋形の形状が鶴が
羽を広げたようであったことによる。
1601年(慶長6年)に島津忠恒(家久)により築城され、以後廃藩置県まで島津氏
の居城であった。城跡は鹿児島県史跡に指定されている。
石垣
遺構として石垣や堀、西郷隆盛の私学校跡地である出丸跡、大手門との間に架か
る石橋が現存している。私学校の石垣には西南戦争の際についたといわれる弾痕
が数多く残っている。
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アコウの大木が・・・
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黎明館案内版
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石垣と堀
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横へ廻って
中へ入って見る
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立派な石垣
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天璋院篤姫像
花嫁の名は天璋院篤姫。13代将軍・徳川家定の正室である。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬の養女となって江戸に輿入れ、若き未亡人となっ
てからも徳川家を守り、江戸城明け渡しの活躍などよく知られるところだ。
はるばる薩摩から遠い江戸に嫁いだ篤姫、どのような思いで旅立ったのだろう
か。その背景とは。その少女時代とは。さまざまな想いが薩摩へ誘う。
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桜島が見える
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御楼門建設現場に入る
大手門にあたる御楼門は現在、鶴丸城御楼門復元委員会によって進められた復元
プロジェクトが、官民の連携による民間が主導する事業として「鶴丸城御楼門建
設協議会」が平成27年(2015年)2月に設立され、平成29年(2017年)9月28日
から2020年3月31日までの工期で建設工事が行われている。
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後ろの山は城山
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此処までは、
12月14日~18日の鹿児島訪問ー1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。 
     https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-22
此処では、続きの 御楼門の工事現場を覆う
壁のアートを見ながら反対側の出口へ向かう~ の詳細を掲載します。
壁のアートを見ながら
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山形屋へ向かう
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山形屋へ昼飯を食べに向かうが長打の列
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山形屋の昼めしを諦めて
鹿児島港へむかう
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ドルフインフインポートで昼食を済ませて
ホテルへ戻る・・・この日(15日)の私の万歩計は、14798歩で約8.8㎞歩いた。
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12月16日は、鹿児島市立病院・・・
翌12月17日
朝、ホテルの部屋から城山の方向を見ると左手にワシントンホテルプラザが・・
ホテルで朝食バイキングを済ませてリムジンバスで鹿児島空港へ
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鹿児島空港~奄美空港へ叔母を見送り
霧島市に住む知人のY丸さんを待つ 
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鹿児島空港展望デッキ&航空展示室をうろうろ?
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知人が空港へ迎えに来て・・・
空港の近くの知人の畑の果樹と立派な野菜
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塩浸温泉龍馬公園
坂本龍馬が新婚旅行で訪れた際、逗留したという温泉が塩浸温泉。園内には
「龍馬資料館」や「龍馬とお龍の縁結びの足湯」、「坂本龍馬・お龍新婚湯
治碑」、龍馬が入ったとされる湯舟があります。

龍馬お龍の銅像や龍馬資料館「この世の外」が・・・天の逆鉾レプリカ見たヨ!
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途中で昼食を済ませ
小雨の中、霧島神宮へ向かう
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霧島神宮
欽明天皇の御代(6世紀)、慶胤(けいいん)上人という僧侶が高千穂峰と火常
峰(御鉢)の間の「瀬多尾(せたお)(背門丘・瀬戸尾)」に社殿を造られたの
が始まりとされ、欽明天皇元年(540年)に創建されたともいわれている。高千
穂峰が日本神話の天孫降臨の伝承地とされる事から、現在は日向三代にまつわる
神々が祀られているが、元々は高千穂峰そのものを信仰の対象とする山岳信仰か
ら始まった神社であると考えられる。
しかし元の社地の瀬多尾は、火口に近い場所であったため社殿は噴火でたびたび
炎上し、延暦7年(788年)7月の火常峰(御鉢)の噴火で焼失した。その後天
慶3年(940年)、あるいは村上天皇の御代の天暦4年(950年)に性空上人に
より瀬多尾越(現在の高千穂河原・古宮址)に再興されるが、ここもたびたび噴
火の巻き添えで炎上し、文暦元年(1234年)の火常峰(御鉢)の大噴火により社
殿、僧坊等がことごとく焼失したため、霧島市田口の待世(霧島中学校の隣、霧
島町グランドとの境)に「仮宮」を建てて、約250年間祭っていた。文明16
年(1484年)、島津忠昌の命により兼慶上人が再興したのが、現在の霧島神宮で
ある。但、社殿はその後も幾度も炎上し、現在の社殿は正徳5年(1715年)、島
津吉貴の奉納により再建した物である。
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また一説には、文暦元年(1234年)の噴火で社殿を焼失し、社殿を霧島山の東の
長尾山(現在の東霧島神社の地)に移した後、文明16年(1484年)、島津忠昌
がこれを「東社」(霧島東御在所権現、現在の霧島東神社)と「西社」(西御在
所霧島権現、現在の霧島神宮)の2社に分けたとも、あるいは霧島山の東の長尾
山に移した後、現在の霧島岑神社と霧島東神社の2社に分け、更に霧島東神社か
ら霧島西神社(現在の霧島神宮)を分けたともいわれている。
歴代島津氏の尊崇篤く、島津義久は、天正6年(1578年)耳川の戦いに臨む途中
に参拝して鬮を引き、また九州北上にあたっても天正14年(1585年)6月に日向
国惣先達職の面高善哉坊と重臣山田有信を、再び9月に吉田清存を、それぞれ遣
わして鬮を引き侵攻方面を決めるなど、重要事の決定に際したびたび神慮を仰い
でいる。
また、坂本龍馬が日本最初といわれる新婚旅行で霧島連峰を訪れたことが知られ
るが、その頃にはすでに山頂には天津日高彦火瓊瓊杵尊が突き刺したという天の
逆鉾があった。
明治期の神仏分離令が発令されるまでは西御在所霧島権現と称し、本地堂は十一
面観音。別当寺に華林寺を有する。霧島山を中心とした修験僧による霧島六所権
現信仰の中心的役割を果たしていた。

御神木に仏像が・・・
神木の杉
神木の杉は樹齢約800年と推定され、南九州の杉の祖先ともいわれている。
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17日の夜は、知人宅でご馳走になり昔話に・・・
此の日の私の万歩計は、5600歩で約3.3㎞とほとんど車やバス・・・
翌18日は、朝7時に知人宅を出発、空港迄送って貰い
空港でモーニング、お土産迄貰って至れりつくせり、お世話になりました。
関西空港到着
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南海電車で新今宮駅へ
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12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねてー2

12月10日    12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねてー2
             近鉄駅フリーハイキング 7㎞
此の日は、知人の・O村さん・I 田さんと3名で近鉄ハイキングに参加、良い天気の
なかを気持ち良く歩く事が出来た。此の日の私の万歩計は、15956歩で約9.5㎞・・
コースは  大阪線二上駅(北口10時)   Kipsポイント 
大阪線二上駅(北口10時)~旭ヶ丘近隣公園~志都美神社~武烈天皇陵~太子道~
戎神社~顕宗天皇陵~鹿島神社~下田駅(ゴール) 私は、JR香芝駅へ帰った。
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ乗換
鹿島神社・・・コース最後の帰り際に立ち寄るので
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約8
00年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には
貴重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社
文書」(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財と
なり、現在は奈良国立博物館で保管されている。
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大阪線二上駅(北口10時)・・・大勢の人が並んでいた、それでも167番目?
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旭ヶ丘近隣公園~志都美神社へ向かう
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もうすぐ志都美神社
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志都美神社
祭神は、天児屋根命 中筒男命 誉田別命。境内看板によりますと、
「創建は、弘仁四年癸巳年八月九日藤原鎌足六世の孫従四位民部少輔片岡綱利により
創建された古社である。志都美神社は、香芝市今泉に位置するが江戸時代には上里村・
今泉村・高村の五ヶ所の氏神であり、厚い信仰を集めていた。特に明治十三年八月に
コレラが流行し氏子が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったの
を喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後石垣に『明治十二年八月虎列社病流行氏子祈願
無一人患者無人数叶奉納』ときざみ奉納した記念碑がある。
日本へコレラが最初に侵入したのは文政五年で第二次流行の安政五年は日本中をコレ
ラ流行禍にまきこみ死者二万八千人に達した。明治に入ってから同十二年に全国に流
行しての余波が十二年にまで及んだという。死者が出ないということは本当に珍しく、
ご神徳がうかがえる。また本神社の神宮寺として清水山明王院が明治の神仏分離令が
出るまであり、現在明王院という石灯篭が一基残っている。ある日盲目の法師が境内
にある井戸で目を洗うと水の霊験で目があいたという伝説があり、それゆえ一時期清
水八幡宮と呼ばれた時代があった。今も手水舎の石に八幡宮の文字が残っている。
本殿裏の社そうは椎の木を中心とした原生林で県指定の天然記念物となっている。
万葉集(巻七一.九)に『片桐のこの向う峰に椎蒔かば今年の夏の陰にならむか』と
ある。椎の原生林とかさね合わせばこの附近ではないかと思われる。歌碑は、神社参
道入り口右側にある。」とあります。
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武烈天皇陵
第25代・武烈天皇陵
武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年 - 武烈天皇8年12月8日)は、古墳時代の第
25代天皇(在位:仁賢天皇11年12月 - 武烈天皇8年12月8日)。名は小泊瀬稚鷦鷯尊・
小泊瀬稚鷦鷯天皇、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人
物かどうかについては議論がある。父は仁賢天皇、母は雄略天皇の皇女・春日大娘皇
女。同母姉妹に、手白香皇女(継体天皇の皇后・欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天
皇の皇后)らがいる。皇后:春日娘子 - 『古事記』に見えず。皇子女なし『日本書紀』
に「男女無くして継嗣絶ゆべし」『古事記』にも「日続知らすべき王無かりき」とあ
る。仁賢天皇7年正月3日に立太子する。同11年8月8日に仁賢天皇が崩御した後、大臣
の平群真鳥が国政をほしいままにした。大伴金村などは、それを苦々しく思っていた。
皇太子は、物部麁鹿火の娘影媛(かげひめ)との婚約を試みるが、影媛は既に真鳥大
臣の子平群鮪(へぐりのしび)と通じていた。海柘榴市(つばいち、現桜井市)の歌
垣において鮪との歌合戦に敗れた太子は怒り、大伴金村をして鮪を乃楽山(ならやま、
現奈良市)に誅殺させ、11月には真鳥大臣をも討伐させた。そののち年12月に即位し
て、泊瀬列城に都を定め、大伴金村を大連とした。なお、日本書紀は、武烈天皇の異
常な行為を記している。その部分を以下に列挙する。二年の秋九月に、孕婦の腹を割
きて其の胎を観す。三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。四年の
夏四月に人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死すこ
とを快としたまふ。五年の夏六月に、人を塘の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、
三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。七年の春二月に、人を樹に昇らしめ、
弓を以ちて射墜として咲いたまふ。八年の春三月に、女をひたはだかにして、平板の
上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺
し、湿はざる者は没めて官やっことし、此を以ちて楽としたまふ。なお、これら天皇
による悪逆非道の記述は、『古事記』には一切見られない。
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太子道・・・太子道 標識
聖徳太子が通ったとされる古代道路・街道を「太子道」といい、太子のご遺体を斑鳩
から叡福寺に運ぶのに通ったとされる事から「太子搬送の道」とも言われている。
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戎神社へ向かう
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此処までは、
12月8日の二上山を眺めながら香芝の由来を尋ねて-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-10 
此処では、続きの 戎神社~ についての詳細を掲載致します。
戎神社
小高い丘の上に有り境内から旭ヶ丘ニュータウンや西名阪自動車道の香芝SAが
見渡せます、既に「戎まつり」ののぼりが多数はためいていました・・・
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西名阪自動車道の香芝SAが見える
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顕宗天皇陵・・・第23代・顕宗天皇陵
顕宗天皇(けんぞうてんのう、允恭天皇39年 - 顕宗天皇3年4月25日)は、記紀・『播磨
国風土記』に伝えられる第23代天皇(在位:顕宗天皇元年1月1日 - 同3年4月25日)。
弘計天皇(をけのすめらみこと)・来目稚子(くめのわくご)、袁祁王・袁祁之石巣別
命(をけのいわすわけのみこと、『古事記』)、袁奚天皇(『播磨国風土記』)とも。
市辺押磐皇子(履中天皇の長子)の第3子。母は葛城蟻臣(ありのおみ)の女・荑媛
(はえひめ)。飯豊女王は同母姉、仁賢天皇は同母兄に当たる。皇后:難波小野王(難
波王。丘稚子王の女、石木王の女とも)『日本書紀』に皇子女の記載なし。『古事記』
にも「子無かりき」とある。安康天皇3年10月1日父市辺押磐皇子が雄略天皇に殺される
と、兄の億計王(後の仁賢天皇)と共に逃亡して身を隠した。丹波国与謝郡(京都府丹
後半島東半)に行き、後に播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変
えて丹波小子(たにわのわらわ)と名乗り、縮見屯倉首(しじみのみやけのおびと)に
使役され長い間牛馬の飼育に携わっていた。清寧天皇2年11月、弘計王自ら新室の宴の
席で、歌と唱え言に託して王族の身分を明かした。子がなかった清寧天皇はこれを喜ん
で迎えを遣わし、翌年2王を宮中に迎え入れて、4月7日(5月10日)に兄王を皇太子に、
弘計王を皇子とした。同5年1月16日に清寧が崩御した後、皇太子の億計は身分を明かし
た大功を理由として弟の弘計に皇位(王位)を譲ろうとするが、弘計はこれを拒否。皇
位の相譲が続き、その間は飯豊青皇女が執政した。結果的に兄の説得に折れる形で顕宗
天皇元年元旦、弘計が顕宗天皇として即位する。引き続き億計が皇太子を務めたが、天
皇の兄が皇太子という事態は、これ以降も例がない。罪無くして死んだ父を弔い、また
父の雪辱を果たすべく雄略への復讐に走ることもあったが、長く辺土で苦労した経験か
ら民衆を愛する政治を執ったと伝えられる。同3年4月25日、崩御。『古事記』に38歳
(但し治世8年という)、『一代要記』に48歳。なお即位前に志毘臣(しびのおみ、平
群氏)との恋争いの縺れから、これを夜襲して誅殺したという話もある(『古事記』)。
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鹿島神社へ向かう
公園で弁当を食べて寒い?
知悪のコメダコーヒーで温まって再スタート
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二上山を眺めて
鹿島神社へ向かう
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鹿島神社裏手に有るエノキ巨樹
鹿島神社・エノキの巨樹
幹周334.0cm、樹高約25m。平成8年3月12日に香芝市の天然記念物に指定される。
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この辺を見ると未だ生きている
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鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明
神(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )
年に源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたち
のくに)(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝
承ではその時村人は塩餅(しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭り
したという。鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじ
こ)の集団(宮座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約80
0年間にわたる独特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴
重な古文書がたくさん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」
(かしまじんじゃもんじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現
在は奈良国立博物館で保管されている。
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知人二人と此処から別行動、二人は近鉄下田駅へ
私はJR香芝駅へ
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香芝駅ホームから王寺駅方面
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12月4日の馬見丘陵公園散策-2

12月10日        12月4日の馬見丘陵公園散策-2
              近所の公園散策
未だ残っているのだろうか?皇帝ダリアと紅葉はどうなってるの?池の亀は?
家内と一緒に買い物にでかけた帰りに馬見丘陵公園の中央駐車場に車を停めて、
中央エリア~北エリア~中央エリアへ一回り、万歩計は、6228歩で約3.7㎞・・
中央エリア
チャイニーズイエローバナナ
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北エリアへの連絡隧道
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皇帝ダリア
盛りを過ぎて元気がない?
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色々なGrが作成した花壇
ハボタンのハート
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ジープ
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風車
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集いの丘
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皇帝ダリア
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晩秋の紅葉
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此処までは、
12月4日の馬見丘陵公園散策-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
    https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2019-12-09-1
此処では、続きの 集いの丘~ についての詳細を掲載致します。
集いの丘
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中央エリアへ向かう
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連絡隧道を潜って
中央エリアのバラ園
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菖蒲園
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山茶花
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下池の亀は既に冬眠?
亀の代りに水鳥が休憩中
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古墳の丘の落ち葉&苔&紅葉
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古墳の丘への裏道
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中央公園館
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中央公園館前の
鉢植えのホックスフェース
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12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2

12月8日     12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2
           近鉄駅フリーハイキング 8㎞ 
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ

私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅
JR奈良駅のセント君
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旧奈良駅駅舎(奈良市総合観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用さ
れていました。 日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、
その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の
荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそ
うです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが
平成13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったこ
とにより、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的
価値を踏まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと鉄
の棒(ころ)による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年に
観光案内所として生まれ変わったのです。
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三条通り
JR奈良駅前~猿沢池迄・・・
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開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の
第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる
「欠史八代」の1人に数えられる。
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浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延
と名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年
(1244年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がなかっ
たが、楠木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授
かり、第7世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるよう
になったという。また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った。
11世行心の代、享禄3年(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、
また永禄2年(1559年)12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという。
この頃より九条山と号するようになった。また天正19年(1591年)、行春は石山合
戦の際の忠節を顕如上人から讃えられ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本
山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、
現在地へ移転した。
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漢國神社(林神社) かんごうじんじゃ(りんじんじゃ)・源九郎稲荷神社
園神(そのかみ)として大物主命、韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を
祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ名神大社に列すると記される園神社・韓
神社は当社からの勧請であると社伝では伝えるが、平安京の園神社・韓神社の社伝
とは矛盾している。

推古元(593)年創建の古刹。藤原氏に崇敬された。本殿は三間社流造になっている。
社宝に徳川家康奉納と伝えられる鎧があるが、現在は奈良国立博物館に委託されて
いる。境内の林神社には、室町時代に中国から渡来し、饅頭の製法を伝えた林浄因
が祀られている。春の大祭には、全国の菓子業者が集まる。また、林家から出た碩
学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の原点として9月15日、
印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、巨石を伏せた
饅頭塚もある。
源九郎稲荷神社-祭神:宇賀御魂神。1924年(大正13年)に山の寺から勧請した。
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近鉄奈良駅で知人と合流して興福寺へ向かう
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興福寺・五重塔・南円堂・額塚・中金堂
興福寺
法相宗の大本山として知られる興福寺。その前身は飛鳥の「厩坂寺」であり、さら
にさかのぼると天智朝の山背国「山階寺」(やましな寺)が起源となります。
その山階寺は、天智8年(669)に藤原鎌足が重い病気を患った際に、夫人である
鏡女王が夫の回復を祈願して、釈迦三尊、四天王などの諸仏を安置するために造営
したものと伝えられており、この名称は後世においても興福寺の別称として使われ
ています。その後、壬申の乱(672)ののち、飛鳥に都が戻った際に、山階寺も移
建され、その地名を取って厩坂寺とされました。
さらに、平城遷都の際、和銅3年(710)藤原不比等の計画によって移されるとと
もに、「興福寺」と名付けられたのです。
天皇や皇后、また藤原氏の人々の手によって次々に堂塔が建てられ整備が進められ、
奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家藤原北
家との関係が深かったために手厚く保護され、寺勢はますますさかんになります。
平安時代には春日社の実権を手中におさめ、大和国を領するほどになり、また、鎌
倉・室町時代には幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任に当たりました。
文禄4年(1595)の検地で春日社興福寺合体の知行として2万1千余石と定められ、
徳川政権下においてもその面目は保たれました。
その後、明治時代はじめの神仏分離令、廃仏毀釈、社寺上地令などで興福寺は荒れ
ましたが、その後は寺僧有縁の人々の努力で復興が進展し新たな興福寺としてその
歴史を刻み続けています。
五重塔
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三
間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特
別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭
和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の
塔は、応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の
木造塔としては、東寺五重塔に次いで高い。
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南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建
てになった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開
珎(わどうかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げた
ことが発掘調査であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだ
いしくうかい)が深く係わったことが伝えられます。
創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.
4m、対面径は15.5m、本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はき
わめて古様です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像、法相六祖坐像(ほっそうろく
そざぞう)、四天王(してんのう)像(以上いずれも国宝)が安置されます。
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額塚
興福寺には山号がありません。南都七大寺には不思議と山号がないため今まで気に
も留めていなかったのですが、興福寺にはそれなりの理由があるようです。比叡山
延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる山号はよく知られるところです。奈良の興
福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が付けられていたようです。
そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれる額塚です。
興福寺の山号額は南大門に掲げられていました。
天平宝字8年の5月、興福寺南大門の芝生に、あろうことか突然大きな穴が出来た
そうです。そこから洪水が噴出し、往来が困難になったと伝えられます。無風状態
なのに樹木が倒れたりしたこともあったようです。困り果てた興福寺山内でしたが、
とある僧の霊夢に「月の字は水に縁ある為なり」とお告げがありました。月輪は水
に縁のあるものであるから、水が出る。これを取り下ろせば良いのではということ
になり、山号額を取り外すことになりました。その後は無事に禍(わざわい)も収
まり、その発端となった山号額は茶臼山に埋められたという逸話です。
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中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・
東金堂の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺におい
て、その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来
像をその中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観
音菩薩像を置き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺
においても東大寺大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとさ
れています。奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に
初代中金堂が焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。
中金堂は6回目の焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の
享保2年(1717年)に7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(18
19年)に再建されたものも「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造
上も弱く、平成12年(2000年)には取り壊しが行われ、その後創建当初のスケール
を持つ中金堂を復興することになり平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の
計画で中金堂の再建が進められることになりました。再建された中金堂は、興福寺
に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考に復元されたものであり、
東西の間口は約37m、南北の奥行きは約23m、高さは約20mの規模となっており、
東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬師寺大講堂に匹敵、もしくは少し
上回るような規模を有しており、平成の世において建造された最大規模の木造建築
物となっています。
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南大門跡
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猿沢池
猿沢池(さるさわいけ、さるさわのいけ)
猿沢池は、奈良県奈良市の奈良公園にある周囲360mの池。興福寺五重塔が周囲の
柳と一緒に水面に映る風景はとても美しく、「猿沢池月」 は南都八景のひとつと
なっている。興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年)に造ら
れた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつくしみ、捕らえられた生き物を
野に放つ宗教儀式である。
猿沢池七不思議
・澄まず・濁らず・出ず・入らず・蛙はわかず・藻は生えず・魚が七分に水三分
猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。水が流入する川は
なくまた流出する川もないのに、常に一定の水量を保っている。亀はたくさんいる
が、なぜか蛙はいない。なぜか藻も生えない。毎年多くの魚が放たれているので増
える一方であるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。水より魚の方が多くて
もおかしくないような池。
猿沢池にちなんだ言い伝え
・猿沢池のほとりにある采女神社(うねめじんじゃ)は、帝の寵愛が衰えたことを
 嘆き悲しんで入水した采女を慰めるために建てられたという。
・芥川龍之介の小説「龍」は、猿沢池から雲を呼び雨を降らせながら龍が天に昇っ
 たという伝説を素材にしている。
・猿沢池の名前の由来は、インドのヴァイシャーリー国の猴池(びこういけ)から
 来たものと言われている。猴の字義としては、尾の短い種類のサルをさしている。
・奈良県大淀町には、興福寺の僧に恋をした娘おいのが身を投げたといわれる
 「おいの池」がある。伝説ではおいの池と猿沢池は地中でつながっており、身を
 投げたおいのの笠が猿沢池に浮かんでいたという。
・1959年に、七不思議に反して池の水が赤くなった時には、「この世の終わりだ」
 と騒がれたという。
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ならまち・元興寺へ向かう
元興寺・・・世界文化遺産、古都奈良の文化財
日本最初の本格的伽藍である法興寺(飛鳥寺)が平城遷都にともなって、蘇我氏寺
から官大寺に性格を変え、新築移転されたのが、元興寺。(佛法元興の場、聖教最
初の地)です。
元興寺の名称は
『佛法元興之場、聖教最初の地』の言葉より起こったとされます。南大門には、元
興寺の扁額があり、他には飛鳥寺、法興寺、建初寺、建通寺、法満寺とも標したと
伝えられています。飛鳥寺→法興寺→飛鳥大寺→元興寺と名称及び性格を変えてき
ました。建初寺=桜井道場、建通寺=向原寺、法満寺=飛鳥寺の歴史を示している
のでしょうか、朝廷および天皇家が仏教を容認し、唐式の仏教政策を取り入れてか
ら、遡って意味付けされたのだといえます。因みに、法興寺は『佛法興隆』の言葉
からきており、法隆寺とは対の名称といえるでしょう。
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瑜伽神社へ向かう
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今西酒造
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瑜伽神社(ゆうがじんじゃ)
社伝によると飛鳥神奈備が平城奠都とともにこの地に移り、この山を平城の飛鳥山
と呼んだという。もとは元興寺禅定院の鬼門除鎮守の社で、後に興福寺大乗院が山
麓に建つに及び、その守護神として藤原氏等の崇敬を受けた。
飛鳥の元宮に対し今宮と呼ばれた。『大乗院寺社雑事記』明応3年(1494年)12月
30日の条に、「一後智恵光院殿御建立之分(中略)今宮殿御殿 同拝殿仮葺也」とあ
る。瑜伽神社と称するようになったのは比較的最近のこととしている。
この辺りは中世の瑜伽山城あるいは西方院山城・鬼薗山城の跡とみられており、西
隣の奈良ホテルが建つ山を鬼薗山、東の瑜伽山一帯を西方院山と呼ぶのが一般的で
ある。いまも広い台地と濠の跡が残っている。境内には奈良時代大伴坂上郎女(お
おとものさかのうえのいらつめ)が元興寺の里をながめてよんだ歌碑があります。
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天神社へ向かう
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天神社
天神社(てんじんしゃ)は、奈良県奈良市高畑町にある神社。奈良町天神社とも呼
ばれる。北天満の天神社で、境内地は約1,000平方m。
略縁起では、承保5年(1078年)の草創とされている。後に、元興寺禅定院鎮護の社、
興福寺大乗院の鎮守社となった。祭神はもともと少彦名命であるが、この神は手間天
神(てまのあまつかみ)という別名を持つことより、一般にてまてんじんと呼ばれた。
後に奈良のゆかりの菅原道真公を相殿に祀るようになった。社伝によると、道真が祀
られたのは平安時代、白河天皇の御世であったという。
嘉吉元年(1441年)5月6日、猿楽が執り行われた。享保五年(1720年)10月24日夜、
天満宮が焼失し、同6年5月に造替されている。
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鷺池へ向かう
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鷺池・浮見堂・洞水門(水琴窟)
浮見堂
鷺池に浮かぶ六角形のお堂は池の水面に映る姿が美しく、憩いの場としても人気です。
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洞水門(水琴窟)
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奈良公園
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春日大社参道
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此の続きは、
12月1日の晩秋の奈良 過ぎ行く秋を歩く-2 として
       下記のメインブログへ詳細を投稿します。
       https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/
続きは、春日大社~
春日大社
春日大社は神護景雲2年(768)、平城京の守護と国民の繁栄を祈願するために創建
された神社です。 春日山原始林に続く御蓋山の西麓に鎮座する藤原氏の氏神を祀っ
ています。神様が白鹿に乗って 奈良の地においでになって以来、鹿は神様の使いと
されています。 平成10年(1998)、古都奈良の文化財として春日大社と春日山原始
林が世界遺産として登録されました。
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春日大社・酒殿・・・初登場
酒殿(さけどの)は、春日大社の境内地、本殿等を取り囲む「回廊」の西側に隣接す
る形で「竈殿」と南北に並ぶ重厚な檜皮葺の建築(重要文化財)です。隣接する「竃
殿」、そしてこの「酒殿」はいずれの建築も平安時代の貞観元年(859年)に建立さ
れた相当な歴史を有するものであり、途中建て替え、再建されてきたとは言え現在も
伝統的な様式を守った端正な佇まいを見せています。また、それぞれに祭神がお祀り
されており、酒殿には「酒弥豆彦神(さかみずおのかみ)」・「酒弥豆売神(さかみ
ずめのかみ)」 という神様がお祀りされています。
なお「酒殿」というその名の通り、この建物は神前にお供えする「お酒」を醸造する
「酒造場」というユニークな施設となっており、お酒をつくるにあたっては市内の酒
造業者に委託が行われ、実際にこの春日大社の地でお供えなどに使用する日本酒が醸
造されています。
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水谷神社へ向かう
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の
下社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時
代から幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛
頭天王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮
花祭」として親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平
癒や子授けを祈る人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、
幹周6.55m、樹高12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる水谷川
の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗として改装
し、現在の姿に至っております。
店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎが暑さを忘れさせ、秋に
は紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ね
の山、若草山です。若草山は、標高342メートル、面積33ヘクタールの芝生に覆われ
た山で、山頂には、5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年
1月には、若草山焼きがあります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典という
のにふさわしい行事です。
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手向山神社
手向け山八幡宮・校倉造
手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)
手向山八幡宮は、奈良県奈良市に鎮座する神社。手向山神社とも。奈良市街東部の
手向山麓に位置。手向山は紅葉の名所として知られ、古今和歌集では菅原道真が
「このたびは幣もとりあへず手向山 紅葉の錦神のまにまに」と詠んでいる
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)
がある。
天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大
寺の守護神として勧請された。当初は平城宮南の梨原宮に鎮座し、後に東大寺大仏
殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡による戦火で焼失、建
長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とされる梨原宮の所
在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園がその跡と
もいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分離の
際に東大寺から独立した。
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校倉造り2棟
校倉造 宝庫(重要文化財)
宝庫 - 奈良時代、校倉造。もとは東大寺油倉の上司倉。すぐ北には規模・形式と
も類似した「東大寺法華堂経庫」が建つ。
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校倉造 経庫(重要文化財)
「東大寺法華堂経庫」- 奈良時代、校倉造。すぐ南には規模・形式とも類似した、
もとは、東大寺油倉の上司倉の「手向山八幡宮の宝庫」が建つ。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月
堂や三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂け
る「上院」エリアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接す
る位置にある建物(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立
は奈良時代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、
奈良時代周辺に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂
(後に大規模な改築を受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高
くないものの貴重な建築と言える存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並
び立つなお経庫は、かつては「校倉造」の代表建築である正倉院の近くに設置されて
いましたが、鎌倉時代には大規模な修理が施されたりした後、江戸時代の元禄期にな
ると現在の位置に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築されたという経歴を有していま
す。その後はしばらく手向山八幡宮に帰属していましたが、明治の廃仏毀釈の折に、
再び東大寺に帰属する建物となったとされています。ちなみに、この経庫の40mほど
南側の位置には、手向山八幡宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じよう
な建築様式で、やはり奈良時代頃に創建されたものと考えられています。

三月堂(法華堂)
東大寺法華堂(とうだいじほっけどう)は、奈良市の東大寺にある奈良時代(8世紀)
建立の仏堂である。一般に三月堂(さんがつどう)として知られる。日本の国宝に指
定されている。東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の1つであり、堂内に安置する
10体の仏像も奈良時代の作である。「三月堂」の通称で知られる法華堂は、東大寺境
内東方の丘陵部に位置する、不空羂索観音立像を本尊とする仏堂である。東大寺は広
大な境内を有するが、このうち法華堂が位置する東方丘陵部の一画を「上院」(じょ
ういん)と称し、法華堂のほか、「お水取り」で知られる二月堂、東大寺開山の良弁
の像を祀る開山堂など、多くの建物がある。この付近は大仏開眼(752年)以前から、
東大寺の前身寺院があった場所で、法華堂はその主要堂宇の1つであった。
法華堂は、不空羂索観音を本尊とすることから、古くは「羂索堂」と称し、周囲の付
属建物を含めて「羂索院」と称された。『東大寺要録』「諸院章」には、「羂索院」
は天平5年(733年)良弁が不空羂索観音を本尊として創建したものであると記されて
いる。実際の創建時期については、かつては天平年間の後半(740年代)とされてい
たが、年輪年代調査の進展等により、『東大寺要録』のいう天平5年(733年)に近い
頃の建立とする説もある。
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四月堂
東大寺四月堂(三昧堂)は、東大寺の奥行き、風情を最も強く体感できるエリアとして
有名な二月堂や三月堂(法華堂)の位置する「上院」エリアにあるごく小さなお堂です。
名前の由来としては、本来の名前は「三昧堂」ですが、このお堂では毎年四月になると
法華三昧会(ほっけさんまいえ)と呼ばれる法要が執り行われることから、次第に「四
月堂」という通称で呼ばれるようにもなっていきました。
二月堂由来の十一面観音菩薩がご本尊
お堂の創建時期は、東大寺境内の諸堂と比較すると新しく、平安時代の1021年(治安3
年)あるいは1067年(治暦3年)に建立されたと考えられています。また、現在の建物
は江戸時代の1681年(延宝9年)の墨書銘があることから、途中で建て直しが行われた
とも推定されます。堂内にはかつては脚が短く独特の佇まいを見せる「千手観音菩薩立
像」が本尊として祀られていましたが、現在は新たな観光スポットとして整備された
「東大寺ミュージアム」の展示物として移転され、その代わりに二月堂から十一面観音
菩薩立像が招かれ、本尊として安置されています。ちなみにこの十一面観音立像は、奈
良市山間部にあった「桃尾寺」の本尊であり、廃寺に伴い二月堂にお祀りされるように
なった存在とされています。なお、現在はお堂の中で副次的な存在として安置されてい
る「普賢菩薩」さまに関してもかつては本尊として祀られていたようです。すなわち時
代によって本尊が比較的頻繁に代替わりしてきたのがこのお堂の特徴となっているので
す。知名度は低いけど、穴場の「仏像スポット」です。三月堂や二月堂といった圧倒的
な存在感を放つ建物の真横にあるため、近くを通行する際もごく小さなお堂として見過
ごしてしまう場合も多いですが、東大寺境内では珍しく、管理者の方(堂守)が近くに
常駐しておられる上に、無料で拝観することが可能なお堂となっています。三月堂(法
華堂)や二月堂にお越しの際は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
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二月堂・・・東大寺二月堂(とうだいじにがつどう)
東大寺二月堂は、奈良県奈良市の東大寺にある、奈良時代(8世紀)創建の仏堂。現存
する建物は1669年の再建で、日本の国宝に指定されている。奈良の早春の風物詩であ
る「お水取り」の行事が行われる建物として知られる。「お水取り」は正式には修二
会といい、8世紀から連綿と継続されている宗教行事である。二月堂は修二会の行事用
の建物に特化した特異な空間構成をもち、17世紀の再建ながら、修二会の作法や習俗
ともども中世の雰囲気を色濃く残している。
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下から眺める
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大湯屋へ向かう
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水路の中に・・・
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大湯屋
東大寺大湯屋(おおゆや)は、東大寺大仏殿の北側、二月堂の西側に伸びる「二月堂
裏参道」近くに位置する比較的大きな建物です。「おおゆや」と呼ばれるその建物は
「湯」という文字が表しているように、簡単に言うと昔の「お風呂」がある施設とな
っており、かつての東大寺の僧侶たちがここで仏道に励むために「身を清める」ため
の沐浴を行っていたとされています。
大湯屋の歴史は大変古く、この建物の元となる施設は奈良時代から存在(創建年代は
不詳)していましたが、平安末期の平重衡による南都焼討で焼失してしまい、現在残
っている大湯屋はその後鎌倉時代に入ってから再建されたものとなっています。 …
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大仏殿・鏡池へ向かう
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大阪万博古河館遺産、東大寺の七重搭の双輪
大阪万博の古川パビリオン、周囲に池を巡らした庭の中に、天平文化のシンボルとい
われる高さ 86メートルの「七重の塔」の展示館がそびえていた。約 1200 年前、奈良・
東大寺の大仏殿前に建てられた 2 基の「七重の塔」を摸して、当時とそっくりの姿で
再現したもので、当時の人たちが塔に託した“新しい世界”への夢を、現代に置きかえよ
うとの意味がこめられていた。  此の時の七重塔の双輪を移築して残して有るこの
相輪部だけでも23mもある。七重塔がいかに巨大なものだったかがわかる。
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東大寺大仏殿・鏡池
東大寺
聖武天皇が発願され、平城京の東に建立されました。大仏開眼は天平勝宝4年(752年)。
2度の兵火に見舞われ当初の規模は有りませんが、それでも世界最大の木造建築、大仏
殿を始めスケール、寺宝の豊富さとも、天平文化を代表する大寺です。
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東大寺・鏡池
東大寺は728年に聖武天皇が建立した金鐘寺を始まりとする。 741年に聖武天皇自身が
各地に国分寺の建立を命じた際、 金鐘寺を大和国分寺として金光明寺と称した。745年
に大仏をはじめ伽藍の造園が開始された時期に東大寺という名称になる。東大寺の「東
塔」と「西塔」は、764年に建立され、高さは70m以上あったと思われる。東塔」は11
80年の平氏の南都焼き打ちなどで焼失し、 1227年に再建後も、1362年に落雷で再び消
失した。「西塔」も平安時代に焼失し、現在は両塔の基壇が部分のみが残っている。
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南大門
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東大寺を出て氷室神社へ
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氷室神社
由緒は「氷室神社縁起」絵巻に記されており、また『続日本紀』や『元要記』にも散見
される。和銅3年(710年)、元明天皇の勅命により、吉城川上流の月日磐に氷神を奉祀
し(下津岩根社、厳寒に結氷させたものを氷室に蓄え、翌年に平城京へ献氷させる制度
が創始された。翌和銅4年(711年)6月1日に初めて献氷の勅祭が興され、以降毎年4月1
日より9月30日まで平城京に氷を納めた。奈良朝7代、70年余りの間はこの制度は継続し
たが、平安遷都後は廃止され、貞観2年(860年)、清和天皇の時期になって、現在の地
に奉遷され、左右2神を併せ三座となった。社殿が建立されたのは建保5年(1217年)と
されている。以来、春日大社の別宮に属し、式年費用や営繕費、祭礼費などは春日社、
興福寺の朱印高2万石、および社頭所禄、三方楽所料2千石などの一部によって行われた
が、明治以降はこの制度も廃止され、氏子と冷凍氷業界の奉賛により維持される形にな
っている。
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氷室神社~依水園へ
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依水園(美術館含む入園料 @900円)・・・入りませんでした。
依水園(いすいえん)は古都奈良にある、四季の花々に彩られた美しい日本庭園です。大
仏殿を有する東大寺と興福寺の間に位置していながらも静かなひと時をお過ごしいただ
ける歴史ある空間です。 .ネットのフォトギャラリーで四季折々の画像が鑑賞出来ます。

依水園~吉城園~奈良駅へ については、別途
     12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ として
          12月7日に下記へ投稿済です。
     https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2019-12-07
※※
吉城園(よしきえん)入園料@250円 但し外国人、65才以上、中学生以下は無料
吉城園は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある美しい庭園です。
奈良県庁から東へ徒歩約3分のところにあります。
吉城園の園内は「池の庭」「苔の庭(離れ茶室)」「茶花の庭」の3つの庭からなって
います。・・・紅葉も苔も茶室のある風景もとても素晴らしくて大大感動しました。
説明看板より抜粋
当園は、名勝奈良公園の一角に位置し、万葉集にも詠まれた吉城川に隣接する明治・
大正時代に造られた庭園です。この地は、かつて興福寺子院の摩尼珠院があったとこ
ろとされています。奈良県が昭和59年に取得し、庭園鑑賞や茶会等に広く利用して頂
く施設として整備を進め、平成元年4月1日に開園致しました。
入園料も記載されていました。パスポートや免許書等年齢証明するもの必要です。

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12月1日の晩秋の奈良公園 紅葉あれこれ抜粋遍

12月7日       12月1日の晩秋の奈良公園 紅葉あれこれ抜粋遍
              近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ
私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅

此処では全体のハイキングは置いといて、紅葉だけを抜粋して掲載します。
奈良公園
興福寺・南円堂・南大門跡~猿沢池
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瑜伽神社~天神社~鷺池・浮見堂~春日大社~水谷茶
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水谷茶屋
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若草山麓~手向山八幡宮
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手向山八幡宮
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大湯屋へ向かう
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大湯屋
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大仏殿へ向かう
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大仏殿・鏡池
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依水園~吉城園~奈良駅へ については、別途
     12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ として
          12月7日に下記へ投稿済です。
     https://taharas-amami-nara.blog.ss-blog.jp/2019-12-07

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12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ

12月7日    12月1日の晩秋の奈良。。。「吉城園」~奈良駅へ
          近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は知人の・I 田さんと二人で近鉄駅フリーハイキングに参加、天気も良く紅葉
の映える秋のハイキング日和、此の日の私の万歩計は、24166歩で約14.4㎞歩いた。
距離が伸びたのは往復ともJR奈良駅を利用して近鉄奈良間を歩いた為?
コースは  近鉄奈良駅(東改札10時集合)してスタート
鉄奈良駅(東改札10時集合)~興福寺~元興寺~春日大社~水谷神社~二月堂~大仏
殿~依水園~吉城園~近鉄奈良駅 ⇒JR奈良駅へ

私のコースはJR奈良駅~開化天皇陵~浄教寺~漢国神社~近鉄奈良駅(東改札10時)
知人と合流して~興福寺・南円堂・五重の塔・金堂・額塚~猿沢池~元興寺~瑜伽神
社~天神社~鷺池・浮御堂~春日大社~水谷神社~若草山山麓~手向山八幡宮~三月
堂・四月堂~二月堂~大湯屋~大仏殿~鏡池~南大門~氷室神社~依水園~吉城園~
近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅

此処では、今回初めて訪れた吉城園~JR奈良駅へ、のみを掲載します。
依水園~吉城園~近鉄奈良駅(解散)~南都銀行本店(レトロビル)~JR奈良駅へ
依水園・吉城園へ向かう
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依水園はパス
依水園(美術館含む入園料 @900円)・・・入りませんでした。
依水園(いすいえん)は古都奈良にある、四季の花々に彩られた美しい日本庭園です。大
仏殿を有する東大寺と興福寺の間に位置していながらも静かなひと時をお過ごしいただ
ける歴史ある空間です。 .ネットのフォトギャラリーで四季折々の画像が鑑賞出来ます。

吉城園・・・とても良かった
吉城園(よしきえん)入園料@250円 但し外国人、65才以上、中学生以下は無料
吉城園は名勝依水園(いすいえん)のすぐお隣(西南側)にある美しい庭園です。
奈良県庁から東へ徒歩約3分のところにあります。
吉城園の園内は「池の庭」「苔の庭(離れ茶室)」「茶花の庭」の3つの庭からなって
います。・・・紅葉も苔も茶室のある風景もとても素晴らしくて大大感動しました。
説明看板より抜粋
当園は、名勝奈良公園の一角に位置し、万葉集にも詠まれた吉城川に隣接する明治・
大正時代に造られた庭園です。この地は、かつて興福寺子院の摩尼珠院があったとこ
ろとされています。奈良県が昭和59年に取得し、庭園鑑賞や茶会等に広く利用して頂
く施設として整備を進め、平成元年4月1日に開園致しました。
入園料も記載されていました。パスポートや免許書等年齢証明するもの必要です。
趣のある吉城園の入り口
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順路⇒
池の庭
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離れ茶室
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苔の庭
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茶花の庭
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梅もどき
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出口へ向かう
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吉城園を出て近鉄奈良駅へ向かう
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近鉄奈良駅で解散して JR奈良駅へ向かう
南都銀行 レトロビル
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三条通りを JR奈良駅へ向かう
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