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1月20日の馬見丘陵公園の無患子の大木

2021年1月25日      1月20日の馬見丘陵公園の無患子の大木
              黄金色の無患子の実が好きで・・・
20日に馬見丘陵公園散策に行き、下池の畔の無患子の大木になる大好きな?小金色の
無患子の実を撮って来ました。青空に透けて見える実を何時までも眺めて・・・
此の下池のウッド橋を渡った先の池の畔に無患子の大木が2本有ります。
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無患子
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無患子についての色々
ムクロジは、ムクロジ科ムクロジ属の植物です。さまざまな場所に植えられており、
その実は古くから各地で石鹸(せっけん)として使われてきました。その為「セッケ
ンノキ」「ソープナッツ」などの別名を持ちます。また、実の中には黒くて硬い種が
入っており、これは数珠の材料や羽根つきの珠などに利用されています。
各地の庭や公園などに多く植えられています。また、魔除けの力があると古くから伝
えられており、古いお寺にはしばしば大きなムクロジの木が植えられています。また、
九州や東南アジアなど、暖かい地域の山中では、自生していることもあります。
ムクロジの樹は、とても大きく成長します。樹高は高いものでは20mにもなり、直径
も50cm~1mほどにもなります。枝は横に広がる特徴があり、大きく張り出した枝葉
は大きな日陰を作り出します。ムクロジの葉は、細長くやや厚みがあります。光沢の
ある大きな葉が左右に広がります。暑さが過ぎ涼しい季節が近づくと、やがてムクロ
ジの葉は黄色くなり、紅葉の時期になると、イチョウと共に山を黄色く彩りはじめます。
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ムクロジは、漢字では「無患子」と書きます。これは「子どもが患(わずら)う事が無
いように」という意味が込められています。この木で作った棒で鬼を払ったと言う伝説
もあり、古くから「邪気=病をはらう力」を持っているといわれてきました。
ムクロジは、古くからさまざまな形で利用され、特に天然の石鹸としては、日本以外の
国々でも使われてきました。乾燥させても石鹸としての効果は衰えず、むしろ独特のに
おいもおだやかになり、寒い季節になると実を収穫し、干して年中使っていました。
ムクロジの実には、多くのサポニンが含まれます。これは強い殺菌作用を持つ事と、水
につけて揉むと泡立つ事から、天然の石鹸になります。
古くから石鹸として利用され、日本では、平安時代にはムクロジの石鹸としての効果は
知られており、すす落としなどに使われていたとの記録が残っています。インドでも、
食器や衣類などさまざまな汚れに対して使われていました。まだ若い実でも使うことが
できますが、熟した実を乾燥させると臭いが減り、保存性も上がるためより使いやすく
なります。
ムクロジはまた、数珠の材料にも使われてきました。その昔お釈迦様は、厳しい修行の
中でムクロジの種を108個つないで数珠にし、弟子たちや如来(にょらい)様たちに配っ
たという伝説があります。現代でも、ムクロジで作った数珠は高級品と扱われています。
黒く硬いムクロジの数珠は、使い込むごとに濃い光沢が出てくるため、多くの人々に愛
されてきました。
ムクロジは色々な所に植えられ、日本の文化に根付いてきまし。特に公家屋敷(くげや
しき)の庭には、たいていムクロジが植えられていたといわれています。理由は、ムク
ロジはお釈迦様に由来する植物であるため縁起がよいと考えられたことや、石鹸として
使えるため屋敷で働く人々に利用されていたことなどがあげられます。ムクロジの用途
として特に有名なのは、正月に遊ぶ羽根つきです。羽根つきに使う羽根の、根元にある
黒い珠は、ムクロジの種です。古くからムクロジは身近なところに植えられていたこと、
1つの木に多くの実がつくため手に入れやすいこと、硬くて軽いため子どものおもちゃと
して都合がよかったことなどがあげられます。羽根つきには、魔除けのおまじないと言う
意味もあり、蚊は病気を運ぶ虫として人々の悩みのタネでした。そこで、蚊の天敵である
トンボをかたどった羽根をつけ、蚊を追い払ってくれるようにと願いを込めたのです。
ムクロジの種が使われるのも、こうした無病息災の意味も兼ねていました。

ハナモモの丘の向こうは乙女山古墳
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下池の向こうに葛城山、二上山が見えます
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ウッド橋を戻って古墳の丘の右へ出ると菖蒲園、菖蒲園の横のマサキを・・・
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此の日の私の万歩計は、6737歩で約4㎞歩いた事に・・・
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2021-1-14 1月14日の初詣 松尾寺&松尾山神社

2021-1-14          1月14日の初詣 松尾寺&松尾山神社
1月16日             12日に雪が降り14日に・・・
此の日は奈良医大付属病院への通院日、11時前には家へ帰れるので帰ったその足で
初詣へ行く事にした。此の日の病院は何故か来院者が少なくて?何時もより早く済、
10時10分に家へ帰る事が出来、近くに住む次女も行くと言い一緒に・・・
同じ町内の近所に住む次女と一緒に3名で松尾寺&松尾山神社へ初詣に行って来た。
例年は鏡開きが終わってから小正月の間、11日~15日の間に行くのが我が家の慣習?
今年も例年同様の初詣になったが、次女と行って来ました。松尾寺の帰りのランチは
コメダコーヒーへ立ち寄ってみました。
此の日の私の万歩計は、6394歩で約3.8㎞歩いたことに・・・
初詣
初詣には、古札を返納して、蝋燭と線香を灯して松尾寺へお詣りを済ませて、山の上
の松尾山神社へお詣りに、今年は家内は下で待つと言い、娘と二人で松尾神社へのお
詣りを済ませて、松尾寺で例年の様に家内と娘はお守りを、我が家には七福神堂で熊
手と絵馬と小判の付いた笹を購入して帰った・・・.
松尾寺北惣門
小泉方面からの参道。一間の薬医門で、108段の石段を登れば本堂。手水は閼伽井から
の霊泉で“大和の名水100選”に選ばれ、参詣者をはじめ、ハイカーの喉も潤しています。
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何時もは、山門を入り手水舎で手と口を清めて松尾寺本殿へ階段を上るが今年はコロナ
禍でひしゃくが置いて無いので此れは出来ず、流れる水で手を濡らす真似事だけ・・・
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階段途中の閼伽井
閼伽井屋
1300年の昔から、当山のご本尊厄除観音様にお供えする閼伽水で自然湧水。この水は昔
から松尾水(まつのおのみず)と呼ばれ、不老長寿、健康のために良いと言われている。
また古来、醸造に適した水として知られ、今も境内の鎮守社「松尾山神社」の社頭には
宝暦8年(1758年)銘の石灯籠に南都で栄えた酒屋の杜氏たちの寄進名が彫られ残って
います。
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108段の階段を上り本堂へ到着
本堂(重文)
中世の真言宗本堂の典型的なもので、入母屋造り本瓦葺。本尊千手千眼観世音菩
薩(やくよけ観音)は秘仏で、年に一度11月3日に開扉されます(9:00~16:00)。
内陣では、毎日厄除のご祈祷が行われ、厄年をはじめすべてのやくよけのご祈祷
が厳修されます。
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松尾寺・・・松尾山縁起(天平古記録)
松尾寺は、養老2年(718)、天武天皇の皇子舎人親王が、勅命による日本書紀編
纂の折、42歳の厄年であったため、日本書紀の無事完成と厄除けの願をかけて建立
された日本最古の厄除霊場です。 親王が松尾山に参詣修行し、ご祈願の養老2年2
月初めの午の日、東の山に紫の雲たなびき(瑞雲)、千手千眼観世音菩薩が天降り
ご出現なされたという「松尾山縁起」により、国運隆昌・国体安穏を祈祷申し上げ
る勅願寺として、歴代皇室の御叡信厚く、後水尾天皇も御持仏の如意輪観音を下さ
れた由緒ある寺です。
ご本尊厄除け観音― 千手千眼観世音菩薩(秘仏)、ご本尊の厄除け観音は、千の手、
千の目をお持ちになる千手千眼観世音菩薩(秘仏)で、図り知ることの出来ない広
大な慈悲の力を備えられ、殊に霊験あらたかと伝わります。
・千手千眼観世音菩薩立像・十一面観世音菩薩立像・日本唯一の舎人親王坐像
・日本で最大の役行者像

古札返納所
昨年授かった熊手やお守り、今年の注連縄も・・・
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古札返納所の
横の階段の上に三重搭が有る
三重塔・・・ 承和2年(835)創建(寺伝)。
明治の再建説もありますが、鬼瓦に正徳三年(1713)の銘があり、旧材も一部に
再用されています。後水尾天皇持仏であった如意輪観世音菩薩が寄進され、祀ら
れています。
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松尾山神社へ登る
先ず階段を上り三重搭前へ出て右手の上り口へ
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三重搭を過ぎると神社の鳥居が見える
鳥居の方から神社へ上る
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此処にも
神社の前の鳥居の下には雪が残っていた
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鳥居を潜って
本殿の屋根にも雪が・・・
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松尾山神社・・・松尾山神社(奈良時代)
春日造り桧皮葺の三社殿が並び、これに拝殿と神楽殿が配置されています。松尾大
明神を本社、清滝権現・牛頭天皇を脇社として三社斎祀しています。元観音堂跡と
言われ、昭和52年に発掘された奈良時代の鎧瓦などが宝蔵殿に展示されています。

神社から帰りにも
鳥居の前~帰る方にも12日に降り積もった雪が残っていた
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三重塔へ向かう
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三重搭の横に戻って来た
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本殿を見下ろす位置から
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階段を下りて
七福神堂で例年通り熊手と絵馬や小判飾りのついた笹を・・・
珍しく娘が御朱印帳を出して御朱印を授かっている
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此処にも12日に降り積もったであろう雪が残っていた
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娘と家内はお守りを授かり
帰りに鐘楼で各々厄除けの鐘もコロナ禍で??一突き??したつもりで帰る
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帰りに法隆寺のコメダコーヒーでランチ?休憩して
駐車場裏手にある聖徳太子の愛馬の黒駒の墓とされる古墳の写真を・・・・・
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駒塚古墳は、4世紀後半頃に築造された、全長49m以上の前方後円墳です。
(聖徳太子が6世紀後半~7世紀前半の方なので、時代があっていませんが)
又、黒駒のお世話役だった調子丸を葬ったとされる『調子丸古墳』があります。
この2つの古墳は、直線距離わずか100mほどの近距離にあり、今でも仲睦まじい
感じが伝わってきます。

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2021-1-10  1月10日の馬見丘陵公園の梅

2021-1-10          1月10日の馬見丘陵公園の梅
2021年1月15日
馬見丘陵公園の梅林の梅が咲き始めた!との情報が入ったので早速行って見た・・・
確かに、梅林の中の1本に数輪花が開いていた
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1月4日のかつらぎの道と佐味田宝塚古墳散策-2

2021年1月6日     1月4日のかつらぎの道と佐味田宝塚古墳散策-2
              眼鏡市場で無料の眼鏡メンテナンス
1月3日夜、立ち上がった拍子に座布団に落とした眼鏡を踏みつけて壊してしまった、
眼鏡を封筒に入れてバスで五位堂駅へ出て駅前の”かかりつけの眼鏡や?眼鏡市場”へ
最近の眼鏡は強い、以前、眼鏡のまま横になって寝てしまい落ちた眼鏡に頭が覆い
被さりツルがねじれてガラスが外れた事等有ったが自分でツルを元通りに整形して
ガラスをはめ込み事無きを得ており、2度ある事は3度有ると注意はしてたつもりが、
自分の足で踏みつけてしまいツルを止めてたネジまでちぎれてばらばらになり修理不
能なら買い替えもやむをえないと持ち込んだところ、上手く修理出来出費に繋がらず
眼鏡市場に感謝です。近鉄五位堂駅前の眼鏡市場さん有難う御座いました!(^^)!
此の日の私の万歩計は、10410歩で約6.2㎞歩いたことに・・・
五位堂へバスで行く、服部のバス停
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近鉄五位堂駅に到着
駅迄来たのでICOCAカードをチャージ
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眼鏡市場で
無料メンテナンスで眼鏡が蘇った。有難う御座いました眼鏡市場さん
帰りは「かつらぎの道」を歩き途中の商業施設で家内に頼まれた買い物して帰る
眼鏡市場~香芝市瓦口~香芝東中学迄の広陵町境界まで約600m
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約600m歩くと香芝東中学を過ぎて広陵町かつらぎの道へ入る
かつらぎの道(広陵町真美ケ丘~真美北5迄約2.4㎞の自転車と歩行者並走道?)
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一つ目の陸橋を渡る
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二つ目の陸橋を渡ると商業施設
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此処へ入って買い物とトイレを済ませて
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途中の横峯公園、トイレ有り
此処で下りて右へ行くと三吉石塚古墳と新木山古墳が有る
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陸橋をわたり「かつらぎの道」終点へ向かう
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終点で振り返って
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此処までは
1月4日のかつらぎの道と佐味田宝塚古墳散策-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2021-01-05-1
此処では、佐味田宝塚古墳への入り口探し、2号児童公園(ネズミさん公園)
道路を渡り2号公園(ネズミさん公園)の裏山へ~についての詳細を掲載します。
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裏山の藪に入ってみた
此処がそうなんだろう?けどこれ以上は怖くて入れない
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右手の住宅地へ回ってみる
其れらしき丘が道路沿いに有るが入口は見当たらない
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住宅の前を左に折れて丘の横手に行くが進入路は見当たらない・・・
洗車してる方に尋ねると幸運にもご自宅の庭から裏の古墳に入れる、と入れてくれた
直ぐ裏に佐味田宝塚古墳の外周道路が有った、親切な方に出会えて良かった・・・
佐味田宝塚古墳・・・被葬者は不明だが葛城氏の一族との説があります。
金鳥伝説
毎年正月になると黄金色の鳥がやってきて鳴きました。金鳥がとどまったところだけ
雪が降っても積もりませんでした。不思議に思った里人が発掘するとたくさんの宝物
が出てきました。
前方部を北東に向ける前方後円墳で、後円部に比べて前方部が狭長で古式の特徴を残
しています。墳丘長112m、後円部直径60、前方部幅45m、後円部高8m、前方部高8
mを測ります。明治14年(1881年)に後円部墳頂が発掘され、鏡背に4棟の建物の図
像をあしらった「家屋文鏡」をはじめとする36面の銅鏡や銅鏃、玉類、石製品等多数
の遺物が出土しています。
昭和60年度の発掘調査により鰭付円筒埴輪や家形埴輪、短甲形埴輪等の形象埴輪が出
土し、4世紀後半から末頃の築造と考えられています。
河合町内では最古の前方後円墳の一つ。河合町の歴史を考える上で貴重な古墳です。
4世紀頃の我が国の建物のようすを知ることができる「家屋文鏡(宮内庁蔵)」が出
土したことで著名な古墳です。
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外周道路が整備されている、外周道路~2mくらいの高さの平坦な前方後円墳
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さっきは、あの住宅の庭から入れて貰った?
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大きな池も有る
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反対側の入り口?駐車場所があり此処にも石標が有った
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出口へ進むとさっきの池が見えて
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河合町の「ほのぼの公園」が有るが、古墳の全景は見えない?
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此処からは河合町と反対方向の上牧町へ戻る・・・
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浜寿司が見えてきた
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赤屋や上新電器の横を通り、松の屋の前へ
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帰りはハイキング?としゃれ込み「かつらぎの道」を通り上牧町の自宅迄歩く
つもりが、途中で念願の「佐味田宝塚古墳」へ、初めて佐味田宝塚古墳を見た。
疲れた疲れた、此処でバスを待ちバスで帰ろう・・・
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2021年1月1日 新年 おめでとう御座います

2021年1月1日 新年 おめでとう御座います

      新年 明けまして おめでとう御座います
      本年も どうぞ 宜しくお願い致します
写真は、飛鳥駅前のコキアと馬見丘陵公園のコキアです。
コキアの花言葉は?下記
「恵まれた生活」「 夫婦円満」「 忍耐強い愛」等の様です。
近鉄飛鳥駅前
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奈良県営
馬見丘陵公園のコキア
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12月21日の近畿大学医学部奈良病院往復

12月23日       12月21日の近畿大学医学部奈良病院往復
              電車バスで行って見る?
今年の五月から生駒市の近畿大学医学部奈良病院(近大奈良病院)へ通う家内だが
此れ迄は、私の運転する車で通うので何も問題無いが、冬場の雪道を想定して家内
の心配性が高じて雪道イコール車は駄目だとして、雪の心配な冬場は電車とバスで
通うと言う想いで、電車バスで一度行って見たい、と言い出し電車バスで行って見
る事にした。此の日の私の万歩計は、6542歩で約3.9㎞歩いた事に・・・・
自宅からバスで王寺駅へ出て、近鉄生駒線王寺駅~東山駅、東山駅からバスで病院
へ行くルートで、帰りは天気良かったので病院から東山駅へブラブラ歩いて。。。
8時に家を出てバスの停留所へ
バスは5分遅れで待たされた。。。
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バス停~近鉄王寺駅迄はエスカレータ、エレベータが有り問題無し
近鉄生駒線王寺駅~東山駅へ

近鉄生駒線東山駅
エスカレータ、エレベータが有り問題無し
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近大奈良病院行きのバスが有り問題無し
近大奈良病院へ向かう
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近大奈良病院到着
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近大奈良病院
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近大奈良病院を出発
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遠回りだが天気良いので
バスで通って来た道を歩いて東山駅へ向かう
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少しだけ登り道が続く
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此処からはずーっと下り道
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信貴山が見える
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東山駅前のバス停留所
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近鉄生駒線東山駅
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駅前の看板
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駅舎内
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東山駅~王寺駅へ

王寺駅前バス停~五位堂駅行きのバスで下牧へ
下牧のバス停から高速道路の裏道を歩いて
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西名阪自動車道の隧道を抜けて
自宅へ向かう
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我が家の紅葉も此れで終わりに
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11月26日の馬見丘陵公園を撮り歩きー2

12月4日          11月26日の馬見丘陵公園を撮り歩きー2
               通院日の午後GSへ行って帰り
此の日はかかりつけの内科と眼科で検診を予約して有ったが、順調に早めに終わった
ので午前中は家内の買い物に付き合い、午後の空いてる時間帯に給油にGSへ廻り其の
帰りに馬見丘陵公園を14:30~16:00迄撮り歩き最後の紅葉?と皇帝ダリアを撮って
帰った。此の日の私の万歩計は、9379歩で約5.6㎞歩いた事に・・・駆け足で疲れた?
中央駐車場に車を入れて
公園館
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結いの広場を通って
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陽だまり広場を通り
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上池
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森のウッドテラスへ
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森のウッドテラス・カエルが出迎え
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上池
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狐塚古墳
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梅林~カリヨンの丘のコキア(ほうき草)
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カリヨンの丘から見る倉塚古墳
倉塚古墳
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下池
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古墳の丘
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下池
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古墳の丘
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バラ園へ向かう
山茶花が咲き出した
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マサキ
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バラ園・ベコニヤ
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バラ園~ススキの丘
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花の道
チャイニーズイエローバナナ冬支度
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連絡隧道を通って北エリア
ダリア園の皇帝ダリアが真っ盛りだが日陰に・・・
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此処までは、
11月26日の馬見丘陵公園を撮り歩きー1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
     https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-12-03-1
此処では、続きの 集いの丘麓~ についての詳細を掲載します。
集いの丘麓
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花笑み橋周辺の皇帝ダリア、此処は未だ日向だ!
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集いの丘麓の紅葉
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集いの丘
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連絡隧道を通り公園館へ向かう
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古墳の丘裏側の登り口
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公園館前の風船唐綿
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11月21日の古代ロマン・キトラ古墳を訪ねて-2

12月1日        11月21日の古代ロマン・キトラ古墳を訪ねて-2
                  近鉄ハイキング
知人のK場さんとI 田さんと3名で近鉄ハイキングに参加、下記の飛鳥駅~壺阪山駅へ
歩いて来ました、此の日の私の万歩計は、18575歩で約11.1㎞歩いた事に・・・
コース
飛鳥駅~猿石~鬼の雪隠・鬼の俎板~亀石~中尾山古墳前~高松塚古墳~文武天皇陵~
キトラ古墳四神の館・キトラ古墳~壺阪山駅  歩程7㎞コース

実際は、少しコースを変えて
飛鳥駅~みみなほし地蔵~欽明天皇陵~吉備姫王(猿石)~鬼の雪隠~天武・持統天皇
陵~中尾山古墳前~高松塚壁画館・高松塚古墳~文武天皇陵~キトラ古墳周辺・檜隈寺
前案内所で昼食休憩~於美阿志神社(檜隈寺跡)~キトラ古墳四神の館~キトラ古墳~
子嶋寺~土佐街道~光永寺~壺阪山駅  他のハイカーに殆ど出会わない良いコース?
志都美駅~香芝駅
香芝駅~近鉄下田駅へ乗り換え
鹿島神社
祀ってあるのは、「武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)」で、ふつう「鹿島大明神
(かしまだいみょうじん)」という。この神社は、承安(しょうあん)1(1172 )年に
源義朝(みなもとのよしとも)の家来であった鎌田小次郎政光が常陸国(ひたちのくに)
(現茨城県)の鹿島本宮の神を連れてきたのが始まりという記録がある。伝承ではその
時村人は塩餅 (しおもち)や押し飯(おしめし)を作り、大喜びでお祭りしたという。
鹿島神社には、昔から「結鎮座」(けいちんざ)と呼ばれる氏子(うじこ)の集団(宮
座)があり、鎌倉時代の初期から記録が残されている。これは、約800年間にわたる独
特の伝統をもって今も生き続けている。日本の古い神社や寺には貴重な古文書がたくさ
ん伝わっているが、民間の宮座記録としてはこの「鹿島神社文書」(かしまじんじゃも
んじょ)が最も古い。昭和37年には奈良県指定文化財となり、現在は奈良国立博物館で
保管されている。
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下田駅~大和八木駅~橿原神宮前駅~飛鳥駅
飛鳥駅
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みみなほし地蔵へ向かう
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みみなほし地蔵
平田集落にある「みみなほし地蔵」
此のみみなほし地蔵には「キリ」が多数奉納され、キリで穴が開けられる様に耳が
通り聞こえる様になる?というおまじないの様です。
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※朝風峠の地蔵さんと平田集落の地蔵さん
以前、朝風峠でガイドさんに下記の伝説を聞いた事が有ります。
明日香・栗原集落の朝風峠のお地蔵さん、右の肩の上が大きく欠けているのは、
「朝風地蔵」と平田集落にある「みみなほし地蔵」が争って、片方の「朝風地蔵」
は肩を取られ、片方の「耳なほし地蔵」は耳を取られた。というおもしろい言い
伝えがあるそうです。

欽明天皇陵~吉備姫王(猿石)
欽明天皇陵・・・欽明天皇(きんめいてんのう)第29代天皇
欽明天皇(きんめいてんのう、継体天皇3年(509年?) - 欽明天皇32年4月15日(571年
5月24日?))は、第29代天皇(在位:宣化天皇4年12月5日(539年12月30日?) - 欽明
天皇32年(571年?)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひ
ろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのす
めらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
継体天皇と手白香皇女との間の息子である。父親の継体天皇は第15代応神天皇から
分かれた傍系の出自であった。このため、先々代仁賢天皇の手白香皇女を皇后に迎え
入れ、権力基盤が確保された経緯があった。従って、継体天皇は即位までの妃との間
に他に沢山の子がいたが、嫡子は直系の手白香皇女との間の皇子であるこの広庭とさ
れた。宣化天皇の妃が身罷った時に、先代安閑天皇の皇后であった春日山田皇女を中
継ぎとして推薦したがこれは辞退され、まだ若い広庭が539年(宣化天皇4年12月5日)
に即位し欽明天皇となった。欽明は傍系が解消され現皇統へと続く祖となった。
天皇が皇女を皇后とするという流れは、欽明が即位するまでに天皇に立った庶兄の宣化
天皇、安閑天皇でも、それぞれ継体に続いて手白香皇女の姉妹を皇后に迎え入れ、さら
に欽明自身も石姫皇女を皇后に迎えており、維持されている。仁徳天皇を唯一の例外と
するこの流れは、聖武天皇妃の光明皇后冊立まで続いた。
大伴金村と物部尾輿を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣としたが、直後の540年(欽明天皇
元年)大伴金村は失脚する。これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に
蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇
崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族で
ある、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛
期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。
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吉備姫王墓(猿石)
飛鳥の猿石とは、明日香村平田にある吉備姫王墓(きびつひめのおおきみのはか)の
域内に据えられている4体の石造物のことを云う。吉備姫王は、欽明天皇の皇子の桜
井皇子の娘で、押坂彦人大兄皇子の子の茅渟王(ちぬのみこ)と結婚し、宝皇女(皇
極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を出産された。後の天智天皇や天武天皇には
祖母にあたる皇女である。
墓そのものに対する興味よりも、柵の内側に並べられた4体の石造物を見に来る。
これらの高さ1m前後の石造物は、それぞれ僧、男性、女性、山王権現の名で呼ばれ
ているが、何故か「猿石」と総称されている。
これらの石造物は、もともとは欽明天皇陵の前方部の南側に一列に並べられていたら
しい。江戸時代の元禄年間に欽明天皇陵の南の田んぼから掘り出され、現在の場所に
置かれたとのことだ。 誰が何のために作ったのかは謎とされ、これまでさまざまな説
が出されてきた。その一つは、邪悪なものの侵入から欽明天皇陵を守るために造られ
たものであるという。韓国の弥勒寺跡には、石塔の四隅に飛鳥の猿石と似たような石
造物が置かれているとそうだ。
「大和名勝志」という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あっ
たことが記されている。その1体を土佐の大円寺に移されたとのことだ。現在、高取町
の光永寺の庭には、人頭石(顔石)が置かれている。これがもう一体の猿石のようだ。
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鬼の雪隠へ向かう
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鬼の雪隠
鬼の俎(おにのまないた)と鬼の雪隠(おにのせっちん)
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」
がある。両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったも
のが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。元々は繰り抜かれた
横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。
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天武・持統天皇陵へ向かう
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天武・持統天皇陵
天武天皇とその皇后で皇位を継承した持統天皇の合葬墳墓。 直径50m、高さ6.36m。
円墳とも八角墳ともとれるこの古墳の石室は八角形で、金銅製の蔵骨器がのっている。
天武天皇は古代律令国家体制の基礎を築き、持統天皇がその志を継いだ。また、持統
天皇は天皇として初めて火葬された人物としても知られる。鎌倉時代に盗堀された時
の記録が残されていたことから、被葬者が確実となった。
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※天武天皇
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の子として生まれた。中大兄皇子にとっては両親を
同じくする弟にあたる。皇后の鸕野讃良皇女は後に持統天皇となった。
天智天皇の死後、672年に壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)を倒し、その翌年に即位
した。その治世は14年間、即位からは13年間にわたる。飛鳥浄御原宮を造営し、その
治世は続く持統天皇の時代とあわせて天武・持統朝などの言葉で一括されることが多
い。日本の統治機構、宗教、歴史、文化の原型が作られた重要な時代だが、持統天皇
の統治は基本的に天武天皇の路線を引き継ぎ、完成させたもので、その発意は多く天
武天皇に帰される。文化的には白鳳文化の時代である。
天武天皇は、人事では皇族を要職につけて他氏族を下位におく皇親政治をとったが、
自らは皇族にも掣肘されず、専制君主として君臨した。八色の姓で氏姓制度を再編す
るとともに、律令制の導入に向けて制度改革を進めた。飛鳥浄御原令の制定、新しい
都(藤原京)の造営、『日本書紀』と『古事記』の編纂は、天武天皇が始め、死後に
完成した事業である。
道教に関心を寄せ、神道を整備し、仏教を保護して国家仏教を推進した。その他日本
土着の伝統文化の形成に力があった。「天皇」を称号とし、「日本」を国号とした最
初の天皇とも言われる。

※持統天皇
持統天皇(じとうてんのう、645年〈大化元年〉- 703年1月13日〈大宝2年12月22日〉)
は、日本の第41代天皇(在位:690年2月14日〈持統天皇4年1月1日〉 - 697年8月22日
〈持統天皇11年8月1日〉)。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。
大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、鸕野讃良皇女が皇后に立て
られた。
『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事に
ついて助言した。
679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津
皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人
は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。
続いて皇后も皇子らを抱擁した。
681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して律令の編纂を始
め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少
者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。
685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高
めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太
子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。

中尾山古墳前へ向かう
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中尾山古墳前
中尾山古墳・・・2020年11月26日のNHKWebニュース
明日香村教育委員会がおよそ40年前に発掘調査された古墳を世界遺産への登録に向
けて改めて調査したところ、全長がこれまでよりも3メートルほど大きくなることが
分かりました。古墳の正確な大きさが分かったことについて、村の教育委員会は「世
界遺産の登録に向けた大きな一歩」としています。
明日香村の中尾山古墳は、村が46年前に行った発掘調査などで8世紀初めに作られ
たことや土を盛った墳丘が飛鳥時代の天皇の墓に特徴的な八角形をしていたことがす
でに分かっています。
明日香村や橿原市などは「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」として、20ある遺
跡などを世界遺産に登録することを目指していますが、中尾山古墳を構成資産に含め
るためには、古墳の大きさを確定させることなどが必要なことから、村の教育委員会
は改めて発掘調査を行いました。
その結果、墳丘の周囲から新たに石敷きが見つかり、古墳の大きさがこれまでよりも
3メートルほど長い32メートル以上になることが分かったということです。
明日香村教育委員会の西光慎治調整員は、「今回、古墳として分かった場所を史跡と
して追加で申請すれば、必要な保護措置をとることができる。世界遺産の登録に向け
て大きな一歩となる」と話しています。
今回の調査現場は、今月28日と29日の2日間、一般公開されます。

2020年11月28日 読売新聞オンラインニュース
文武天皇陵であることが発掘調査で確定的となった奈良県明日香村の中尾山古墳(8
世紀初め)で28日、現地見学会が開かれ、多くの古代史ファンが訪れた。
 古墳は1974年に発掘された天皇陵に特徴的な八角墳。新たな調査で、墳丘の外
周に3重に石が敷き詰められていたことなどがわかり、造りと年代から被葬者が文武
天皇(683~707年)であることがほぼ確実となった。
見学会は29日も午前10時~午後3時に行われる。

此れ迄の中尾山古墳は
中尾山古墳(なかおやまこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字平田に所在する終末
期の八角墳である。
本古墳の立地は、古代には檜隈(ひのくま)と呼ばれたところで、尾根の最高所に位
置する。北に天武・持統天皇陵があり、南に文武天皇陵や高松塚古墳が見えるところ
にある。
本古墳の八角形の墳形、五段の墳丘を天皇の高御座(たかみくら)の形と似ていると
の見方がある。また、何故八角形が採用されたのかについて2説ある。1つは仏教の影
響で、8世紀代の供養堂として八角円堂を真似たものであるという説。2つ目は中国の
思想的背景をもって造られた古墳として被葬者を特定できるのではないかと考えられ
ている。
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高松塚壁画館へ向かう
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高松塚壁画館・高松塚古墳
※高松塚壁画館・・・此の日は入らなかったが
館内には、壁画の検出当時の現状模写、一部復元模写、再現模造模写、墳丘の築造状態、
棺を納めていた石槨の原寸模型、副葬されていた太刀飾金具、木棺金具、海獣葡萄鏡な
どのレプリカを展示し、高松塚古墳の全貌をわかりやすく再現。
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高松塚古墳
高松塚古墳(たかまつづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村(国営飛鳥歴史公園内)
に存在する古墳。藤原京期(694年~710年)に築造された終末期古墳で、直径23m
(下段)及び18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。1972年に極彩色の壁画が
発見されたことで一躍注目されるようになった。2009年に本来の形状に復元され、
一般に公開されている。壁画は石室の東壁・西壁・北壁(奥壁)・天井の4面に存在し、
切石の上に厚さ数ミリの漆喰を塗った上に描かれている。壁画の題材は人物像、日月、
四方四神および星辰(星座)である。東壁には手前から男子群像、四神のうちの青龍
とその上の日(太陽)、女子群像が描かれ、西壁にはこれと対称的に、手前から男子
群像、四神のうちの白虎とその上の月、女子群像が描かれている。男子・女子の群像
はいずれも4人一組で、計16人の人物が描かれている。中でも西壁の女子群像は(壁画
発見当初は)色彩鮮やかで、歴史の教科書をはじめさまざまな場所でカラー写真が紹介
され、「飛鳥美人」のニックネームで親しまれている。人物群像の持ち物が『貞観儀
式』にみられる元日朝賀の儀式に列する舎人ら官人の持ち物と一致する。この元日朝賀
の儀式には日月・四神の幡も立てられる。奥の北壁には四神のうちの玄武が描かれ、天
井には星辰が描かれている。南壁には四神のうち南方に位置する朱雀が描かれていた可
能性が高いが、鎌倉時代の盗掘時に失われたものと思われる。天井画は、円形の金箔で
星を表し、星と星の間を朱の線でつないで星座を表したものである。中央には北極五星
と四鋪四星(しほしせい)からなる紫微垣、その周囲には二十八宿を表す。これらは古
代中国の思想に基づくもので、中央の紫微垣は天帝の居所を意味している。
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休憩所へ向かう
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此処までは、
11月21日の古代ロマン・キトラ古墳を訪ねて-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-12-01-1
此処では、続きの 休憩所~文武天皇陵についての詳細を掲載します。
文武天皇
文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月18
日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶雲4
年6月15日(707年7月18日))。天武天皇と持統天皇の孫。
当時としては異例の14歳の若さで即位。祖母・持統太上天皇(史上初の太上天皇)の
もとで政務を行っていた。後の院政形式の始まりである。

文武天皇(もんむてんのう、天武天皇12年(683年) - 慶雲4年6月15日(707年7月
18日))は、日本の第42代天皇(在位:文武天皇元年8月1日(697年8月22日) - 慶
雲4年6月15日(707年7月18日))。草壁皇子(天武天皇第二皇子、母は持統天皇)
の長男。母は阿陪皇女(天智天皇皇女、持統天皇の異母妹、のちの元明天皇)。
父草壁は皇太子のまま亡くなり即位していないため、本来であれば「皇子」ではなく
「王」の呼称が用いられるはずだが、祖母である持統天皇の後見もあってか、立太子
以前から皇子の扱いを受けていたと考えられる。父・草壁が持統天皇3年4月13日
(689年5月7日)に亡くなり、同10年7月10日(696年8月13日)には伯父にあたる
高市皇子も薨じたため、同11年2月16日(697年3月13日)立太子。文武天皇元年8月
1日(697年8月22日)、祖母・持統から譲位されて天皇の位に即き、同月17日(9月
7日)即位の詔を宣した。当時15歳という先例のない若さだったため、持統が初めて
太上天皇を称し後見役についた。
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キトラ古墳周辺・檜隈寺前案内所へ向かう
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キトラ古墳周辺・檜隈寺前案内所で昼食休憩
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檜隈寺跡(ひのくまでらあと)
『檜隈寺跡』(ひのくまでらあと)は、7世紀ごろ、古代の渡来系豪族「東漢」(や
まとのあや)一族の中心氏族であった檜隈氏が、その祖と伝わる「阿智使主」(あ
ちのおみ)を祀った寺院があった場所です。1907年、この地に『於美阿志神社』
(おみあしじんじゃ)が移転し、現在の形となりました。
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於美阿志神社(檜隈寺跡)
於美阿志神社(おみあしじんじゃ)境内の石碑
この一帯は、第28代・宣化天皇が即位した「檜隈廬入野宮」(ひのくまのい おり
のみや)があった場所とされています。先の安閑天皇の死去にともない、536年、
この地で69歳という高齢で即位し、わずか4年で崩御なさいました。短い間でした
が、当時の日本の中心だったとされる場所に当たり、境内に石碑が建っています。
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於美阿志神社(檜隈寺跡)~キトラ古墳壁画体験館四神の館へ向かう
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キトラ古墳壁画体験館四神の館
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キトラ古墳
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。石室
の天井には本格的天文図が、壁には四つの方位を守る神とされる四神や十二支の美しい
絵が描かれています。飛鳥歴史公園内キトラ古墳周辺地区の南に位置しています。 名前
の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳
の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明
日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつか
さどる虎(白虎)から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。
キトラ古墳は7世紀末〜8世紀初め頃に造られたと推測されています。古墳時代と呼ばれ
る時代の終わり頃です。
壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたものです。本格的な天文
図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが確認されている、学術
上、価値の高い文化財です。天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の科学的な天文
図です。天の赤道や太陽の通り道である黄道が描かれ、大きな呪術的力を持つとされた北
斗七星をはじめとする中国式の星座が配置されています。太陽と月も描かれています。高
松塚古墳壁画発見の直後、付近の住民から「近くに似たような古墳がある」と知らされ、
これがキトラ古墳の発掘調査に繋がる糸口となりました。1983(昭和58)年にファイバ
ースコープによる探査が行われ、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見。15年後の19
98(平成10)年、上下左右に向きを変えるCCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を
発見しました。そして2001(平成13)年の調査ではデジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を
確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
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子嶋寺
子嶋寺の歴史は天平宝字4年(760)に孝謙天皇の勅願により、報恩法師が建立した事に
始まります。あるいは桓武天皇が子嶋山寺を建立したという記録も残されており、諸説
紛々としています。さらに永観元年(983)に、興福寺から来寺した真興が観覚寺を建て、
真言宗小嶋流を起こして隆盛を極めたと伝えられます。そこから時代は下り、戦国時代
の兵火に見舞われ、子嶋寺は衰退の一途を辿ることになります。天正年間(1573~1597
)に入り、高取城主の本多氏が寺を再興し千寿院と名付けます。更に明治以降には表門
の再建が行われ、寺の名前も子嶋寺と改められて今日に至ります。高取城主の本多氏や
植村氏の厚い庇護を受けたことが、今の子嶋寺へと繋がる布石になったようです。子嶋寺
には弘法大師を通じて嵯峨天皇に献上された国宝が伝わります。胎蔵界と金剛界の二つ
の世界が、金泥・銀泥を使って荘厳に描かれた紺綾地金銀泥絵両界曼荼羅図(こんあやじ
きんぎんでいえりょうかいまんだらず)。その由来は2800年前のインドにまで遡り、中
国を経て弘法大師の手に渡ります。嵯峨天皇に献上された後は、200年近くも宮中の本
尊とされていました。一条天皇の御代になり、天皇の病気平癒を祈願した真興(しんごう
)に褒美として与えられ、子嶋寺の宝物として伝わります。
現在の子嶋寺の山門は、高取城の二の門が移築されたものです。日本三大山城の一つに
数えられる高取城。美濃岩村城、備中松山城と共に我が国の三大山城に名を連ねる大和
高取城の遺構を、ここ子嶋寺の山門に見ることができます。現存する高取城の唯一の遺
構と言われる。
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土佐街道~光永寺へ向かう
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土佐街道
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土佐街道~光永寺
※光永寺の人頭石・・・2015年3月7日に撮影のもの
「大和名勝志」という江戸時代の書物には、字イケダから掘り出された猿石は5体あっ
たことが記されている。その1体を土佐の大円寺に移されたとのことだ。現在、高取町
の光永寺の庭には、人頭石(顔石)が置かれている。これがもう一体の猿石のようだ。
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土佐街道
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壺阪山駅~五位堂駅
五位堂駅&二上山
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11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-2

11月27日       11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-2
                 歴史探訪の会 11月例会
コロナ禍の中で今年3回目の歴史探訪の会、参加者15名を7名と8名の2班編成で三密を
避けてコロナ感染防止対策、勿論参加者全員マスク着用、受付で検温、手指消毒して
生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さんのお世話で有意義な例会となりました。
生駒市観光ボランティアガイドの会の皆さん、お世話になり有難う御座いました。
此の日の私の万歩計は、15617歩で約9.3㎞歩いたことに・・・
「南生駒の石の文化財巡り」
今でも村落の出入り口に結界の残る新子いう信仰心の厚い生駒地区、中でも南生駒地
区に今でも残る石の文化財を巡り、当時の人々が仏教を信仰していたのか?思いを馳
せながら今に残された石仏と自然をみつめてまわる歴史探訪の会にしました。
コース
萩の台駅~石福寺~応願寺~円福寺~興融寺~竹林寺・忍性菩薩墓・神變大菩薩行者
堂・庫裡で昼食休憩・竹林寺本堂・行基菩薩墓~竹林寺古墳~観泉寺~菊司醸造(お
酒各種試飲・お買い物)解散~南生駒駅  以上。
志都美駅~萩の台駅
萩の台駅
萩の台駅前広場にて検温、手指消毒、参加者15名。3密を避ける為に2班編成で生駒
市観光ボランティアガイドの会の皆さんと巡りました。
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萩の台駅~石福寺へ向かう
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文化財保存館
※乙田人形浄瑠璃(おとだにんぎょうじょうるり)
幕末、村の豪商(造り酒屋)だった松川家の当主・松川伊作が村に娯楽として取り
入れようと、村人に「浄瑠璃語り」を習わせたのがはじまりで、戦後まで続いた。
平成19年(2007)には「乙田浄瑠璃・芝居資料」として、奈良県の有形民俗文化財
に指定。生駒市萩の台の石福寺境内に建つ文化財保存館には、いまでは見られなく
なってしまった「村芝居」の資料が展示・保存されている。
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石福寺・・・正根山 石福寺
融通念仏宗、本尊は石造地蔵菩薩立像。旧乙田村の菩提寺として念佛信仰の歴史が
今日迄伝わっています。ご本尊は厨子の中、一般公開はされていない。
大阪平野の大念仏寺で行われる25菩薩お練り行に毎年参列する信心深い地域という。
逆修の十三仏板碑
境内前庭に整列した6対の石碑(13仏板碑と名号板碑)は安土桃山時代(1600年頃)の
もので歴史が感じられる。
※逆修                        
仏教用語。生前にあらかじめ自分の死後の冥福を祈る為の仏事をする事。その為に
建てる石塔婆を逆修塔という。墓石に自分の戒名を刻み朱を入れたりするのも逆修。
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石福寺~応願寺へ向かう
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応願寺・・・祈求山 応願寺
融通念仏宗、本尊は十一面観音立像。創建年代は不明。萩原の檀那寺として信仰を集
めて来ました。境内の石造地蔵菩薩像(像高147㎝)は鎌倉時代永仁2年(1294)9月
11日の銘有り、伊派(伊行末が創始)の石工伊行氏の作と考えられている。
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※伊行末(いぎょうまつ)
伊行末(いぎょうまつ、い の ゆきすえ? - 文応元年7月11日(1260年8月19日))は、
鎌倉時代の石工。           
南宋時代に現在の中国浙江省寧波付近で生まれ、鎌倉時代初頭に来日し南都焼討後の
東大寺復興にあたった。                  
我が国の石工集団「伊派」の創始者であり、彼の子孫は「伊」「猪」「井」を冠する
苗字を名乗り(例えば伊野、猪野、井野)、日本各地にその足跡を残している。
代表的な作品
• 新大仏寺本尊石造台座、建仁2年(1202年)重要文化財
• 大野弥勒磨崖仏、承元2年(1208年)史跡
• 大蔵寺十三重石塔、延応2年(1240年)奈良県指定文化財
• 般若寺十三重石塔、建長5年(1253年)
今回のコースでは、長い坂道が続くので石仏寺には行きませんでしたが(参考迄)

※石仏寺・・・岩生山 石仏寺
奈良県生駒市藤尾町 石仏寺。暗越え奈良街道の西、藤尾峠に在る石仏寺。本尊は伊派
(創始者は伊行末)の石工伊行氏作で光背部に観音・勢至菩薩を浮き彫りにして阿弥
陀三尊としています。

応願寺~円福寺へ向かう
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円福寺・・・龍華山 円福寺
真言律宗の寺院。生駒谷を見下ろす山腹に位置する。山号は龍華山(りゅうげさん)。
寺伝では天平勝宝年間(749年~757年)に行基によって創建されたとされるが、沿革は
明らかではない。度重なる火災のため、境内には鎌倉時代の再建による本堂のみが残る。

重要文化財の本堂
本堂(附:棟札1、旧来迎壁額縁1、旧床板1、旧野地板断片1、旧鬼瓦2、旧丸瓦2)
-入母屋造、本瓦葺き、和様の三間堂。来迎壁(仏壇背後の壁)の墨書「応安4年
(1371年)」から当時の建立とみられる。
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宝篋印塔(ほうきょういんとう)2基 - 本堂前に並んで建つ。
北側の塔(写真左)は初重に四仏の「種字」を刻み、永仁元年(1293年)の銘がある。
南側の塔は初重に四仏の像を刻み、北側の塔と同じ頃の造立と推定される。
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興融寺・・・慈願山 興融寺
融通念仏宗、本尊は阿弥陀如来立像。創建は不詳。有里の檀那寺だが無住寺です。
鎌倉時代中期のもので奈良県下最古の五輪塔が有ります。沿革は不明ですが、安永3年
(1774)『十一ヶ村村鑑むらかがみ』には阿弥陀堂と記載されています。興融寺は生駒市
青山台の北に位置し、暗越街道(国道308号線)からも離れているため、石仏ファンで
もない限り訪れる人は少ない。しかも、ちょっと分かり難い場所にお寺が立っています。
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興融寺~竹林寺・忍性菩薩墓~へ向かう
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竹林寺・忍性菩薩墓
良観房忍性は、建保5年(1216)に大和国城下郡屏風里(現在の奈良県磯城郡三宅町)
で生まれた。早くに亡くした母の願いを受けて僧侶となり、西大寺の叡尊を師として、
真言密教や戒律受持の教えを授かり、貧者や病人の救済にも身命を惜しまぬ努力をし
ました。特にハンセン病患者を毎日背負って町に通った忍性の人柄がうかがえます。
後半生は活動の拠点を鎌倉に移し、より大規模に戒律復興や社会事業を展開します。
忍性は行基の大ファン?

16歳の忍性は額安寺(奈良県大和郡山市)に入った。忍性は19歳から6年間毎月竹
林寺に参詣したという。参詣を始めた年に竹林寺で行基の舎利が発見された。行基は
奈良時代の僧で、貧民救済や土木事業などの社会事業を行い、大仏建立にも尽力した
ことが知られ、平安時代以降に文殊菩薩の化身とされた。忍性が竹林寺へ6年間参詣
し、その生涯を文殊信仰に基づく救済に捧げたのは、行基を範とするとするところが
大きいと云われる。忍性は、鎌倉・極楽寺で87歳で臨終を迎えた。遺言により遺骨は
三分され、額安寺、竹林寺、極楽寺に埋葬された。人々の救済に努めた忍性に、後醍
醐天皇は「菩薩」号を追贈した。

忍性は早くから文殊菩薩信仰に目覚め、師叡尊からは真言密教・戒律受持・聖徳太子
信仰を受け継いでいる。聖徳太子が四天王寺を創建に際し「四箇院の制」を採った事
に、深く感銘しその復興を図っている。四箇院とは、仏法修行の道場である敬田院、
病者に薬を施す施薬院、病者を収容し病気を治療する療病院、身寄りのない者や年老
いた者を収容する悲田院のことで、極楽寺伽藍図には療病院・悲田院・福田院・癩宿
が設けられており、四天王寺では悲田院・敬田院が再興されている。また、鎌倉初期
以来、四天王寺の西門付近は「極楽土東門」すなわち極楽への東側の入り口と認識さ
れており病者・貧者・乞食・非人などが救済を求めて集まる所となっていた。
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竹林寺・神變大菩薩行者堂・・神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)
神変大菩薩とは? 役小角(えんのおづの/おづぬ/おつの)、舒明天皇6年(634年)
伝–大宝元年6月7日(701年7月16日)伝は、飛鳥時代の呪術者である。姓は君。
修験道 の開祖とされている。
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竹林寺・庫裡で昼食休憩
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此処までは、
11月18日の南生駒の石の文化財巡り(歴史探訪)-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済です。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-27-1
此処では、続きの 竹林寺本堂~ についての詳細を掲載致します。
竹林寺本堂
竹林寺・・・生馬山 竹林寺
律宗、本尊は文殊菩薩騎獅像。行基が建てた四十九院の一つ生馬仙房と比定されるが
詳細は不明。鎌倉時代に唐招提寺の僧によって文殊堂付近に有った行基の墓所から舎
利瓶が発掘されて以降、行基信仰が盛んになる。
生駒市有里町にある律宗の寺院。奈良時代の僧・行基の墓があることで知られる。
山号は生馬山。本尊は文殊菩薩騎獅像。竹林寺は生駒山の東麓の山中に位置する。
奈良時代に架橋、治水などの社会事業に奔走し、東大寺大仏の造立にも力のあった
僧・行基の墓所がある寺である。行基が壮年期に営んだ小庵が後に寺院とされたも
のと思われる。
行基は文殊菩薩の化身と信じられており、寺号は文殊菩薩の聖地である中国の五台
山大聖竹林寺にちなむ。明治時代以降は廃寺同然となり、本山の唐招提寺が管理し
ていたが、20世紀末から境内の整備が進められている。
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※行基菩薩
河内国大鳥郡に生まれる。682年に15歳で出家し、飛鳥寺(官大寺)で法相崇などの
教学を学び、集団を形成して畿内を中心に貧民救済・治水・架橋などの社会事業に活
動した。704年に生家を家原寺としてそこに居住した。その師とされる道昭は、入唐
して玄奘の教えを受けたことで有名である。行基は奈良時代、貴族の為のものとなっ
ていた仏教を民衆に広め、橋や溜池を作るなど民衆の為に社会事業を行ったとされて
いる。その行基がこの近くに一時期居を構え、母親の最期をみとったそうだ。その後、
聖武天皇より大仏建立の為に招聘( しょうへい)されるが、82歳で人生を終えると母
親の近くに眠りたいと、この地に埋葬されたという。
行基(ぎょうき/ぎょうぎ/668年~749年)は、奈良時代の日本の僧。僧侶を国家機
関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り
畿内を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬さ
れた。また、道場や寺院を多く建立しただけでなく、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、
困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷から
は度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得てその力を結集して逆境を跳ね
返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武
天皇により奈良の大仏造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大
寺の「四聖」の一人に数えられている。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武
天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んで いる。

竹林寺・行基菩薩墓・・・大正10年に当時の内務省によって国指定史跡に
竹林寺は、奈良時代の僧・行基(668年~749年)の基礎を築いたと伝えられています。
行基は 749年に奈良市菅原寺(すがはらでら)において82歳で生涯を終え生駒山で火
葬され竹林寺に埋葬されています。本堂に向かって右手に行基の墓が、左手の墓地に
忍性(にんしょう)の墓(五輪塔)が建っています。忍性は文殊菩薩と行基を強く尊
敬しており行基と同じように自らも慈善事業に努めました。遺言により遺骨は竹林寺
・極楽寺(鎌倉市)・額安寺(大和郡山市)に分骨されています。
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竹林寺古墳・・・生駒市唯一の古墳。
生駒市有里町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。竜田川上流域(生駒谷)に
おける唯一の前方後円墳で、周辺には他に主だった古墳も存在していないことから、こ
の地域の首長墓であったと目される。行基や忍性の墓所で知られる文殊山竹林寺境内に
ある小規模な前方後円墳である。築造年代は出土した円筒埴輪の特徴から、古墳時代前
期後半の4世紀中頃と比定される。前方部先端と後円部の一部が失われ、後円部は墳頂
に通じる小道が通り、掘削(くっさく)による損傷が生じている。その他の部分は雑木
林に覆われ、開墾による削平(さくへい)を受けておらず、原型を比較的よく留める。
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竹林寺を後に観泉寺に向かう
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観泉寺・・・青龍山 観泉寺
融通念仏宗、本尊は木造阿弥陀如来坐像。寺伝によれば、元禄六年(1693)僧龍峯に
より開かれた寺院。境内には、石造美術品「十三重石塔(四條畷の戦で亡くなった方々
の遺髪と臍の緒を祀ったと寺伝にあるという)、種字十三仏板碑など」が数多くある。
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境内に西国三十三か所巡りがある。
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神変大菩薩諡の木造役行者像が境内奥のお堂に祀られています。
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菊司醸造(お酒各種試飲・お買い物)解散
菊司醸造
敷地の一画に建つのは酒の神を祀る石碑(右)。今も蔵を見守る。隣には親戚縁者だ
と言う名高い俳人、阿波野青畝の 「和を以って 尊ぶために 菊の酒」 との句碑、
親戚縁者だと言う。
※阿波野青畝
阿波野青畝(あわの せいほ、1899年(明治32年)2月 - 1992年(平成4年)12月)は
奈良県出身の俳人。本名は敏雄。旧姓・橋本。原田浜人、高浜虚子に師事。昭和初期
に山口誓子、高野素十、水原秋桜子ととも「ホトトギスの四S」と称され「ホトトギ
ス」の黄金時代を築くのに貢献した。
奈良県高市郡高取町に橋本長治・かね夫妻の4男として生まれる。父は八木銀行高取
支店長で士族の家系。幼少の時に耳を患い難聴となる。1913年、奈良県立畝傍中学校
(現・奈良県立畝傍高等学校)に入学。1915年「ホトトギス」を知り、県立郡山中学
校で教師をしていた「ホトトギス」同人の原田浜人のもとで俳句を学んだ。
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菊司醸造様 奈良漬と美味しいお酒の試飲、有難う御座いました。

南生駒駅 
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11月17日の馬見丘陵公園の皇帝ダリアと紅葉-2

11月26日       11月17日の馬見丘陵公園の皇帝ダリアと紅葉-2
                 馬見丘陵公園 北エリア
此の日は皇帝ダリアと紅葉を目当てに、駆け足で北エリアを一回りして帰った・・・
家内を近所の商業施設へ送って、家内がスーパー等で買い物をしてる間に馬見丘陵公
園へ、北口駐車場に車を停めて、9時半~10時半迄の1時間、3448歩で約2㎞歩いた。
10時45分には、スーパーで家内をピックアップして家路へ、ほんま忙しい撮り歩き?
馬見花苑~集いの丘
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集いの丘
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集いの丘~
花笑み橋の皇帝ダリアへ向かう
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花笑み橋の両側の皇帝ダリア
橋の上から撮る
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橋の下へ降りて
皇帝ダリアの根元から見上げて撮る
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此処までは、
11月17日の馬見丘陵公園の皇帝ダリアと紅葉-1 として
       下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-11-25-2
此処では、続きの 集いの丘麓~ についての詳細を掲載します。
集いの丘麓
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集いの丘麓の外周の紅葉
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集いの丘
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彩り広場・ダリア園
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ダリア園と花サポータ花壇間の
皇帝ダリアを下から眺めて撮る
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彩りの広場・ダリア園の紅葉
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