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2月12日の忍海駅~角刺神社~飯豊天皇陵その他ー2

2月15日     2月12日の忍海駅~角刺神社~飯豊天皇陵その他ー2
           歴史探訪の会コース下見(本番4月15日)
此の日は・S藤さん・K場さん・M吉さんと4名で葛城市観光ボランティアガイドと
同行、4月15日本番の歴史探訪の会のコース下見に行って来ました。新庄駅からは
ガイドさん達と別れて酒蔵(梅乃宿酒造)へ試飲に行って来ました。9㎞コース
コースは     忍海駅(10時集合・スタート) 
忍海駅(10:00集合)~角刺神社(角刺宮跡)~歴史博物館(休館)~飯豊天皇陵
~置恩寺(ちおんじ)~屋敷山公園(昼食休憩)~慶雲禅寺~柿本人麻呂神社~影
現寺~新庄駅(解散)9㎞コース  ボランティアガイドと此処でお別れして・・・
梅乃宿酒造へ向かう ⇒ 新庄駅前~10分~梅乃宿酒造~10分~新庄駅 
実際に歩いたコースは
忍海駅(10:00集合・スタート)~角刺神社(角刺宮跡)~歴史博物館(休館)~飯
豊天皇陵~屋敷山公園~金村神社~置恩寺(ちおんじ)~屋敷山公園(昼食休憩)~
住吉神社~慶雲禅寺~影現寺~柿本神社(解散)~新庄駅~梅乃宿酒造~新庄駅
柿本神社でボランティアガイドとお別れして、新庄駅でS籐さんとお別れして・・
3名で梅乃宿酒造へ向かう ⇒ 新庄駅前~10分~梅乃宿酒造~10分~新庄駅 
此の日の私の万ぽ計は、23304歩で約13.9㎞歩いたことに・・・
志都美駅
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忍海駅~角刺神社へ
角刺神社・・・葛城市HPより
角刺神社は、飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ)が政(まつりごと)を行った
忍海角刺宮跡として知られています。日本書紀によると、飯豊青皇女(いいとよあ
おのひめみこ)は2人の弟が天皇の位を譲り合い、長く位につかなかったため忍海
角刺宮で政を行い、自ら忍海飯豊青尊(おしみいいとよのあおのみこと)と名乗っ
た、と記されています。日本の歴史において、最初の女帝は推古天皇と言われてお
り、日本書記や古事記は彼女と天皇としては記していませんが、後世には彼女を天
皇とする歴史書も残されています。
また、角刺神社の東500メートルのところに袖の松旧跡があります。當麻寺の中将
姫が曼荼羅をおるための蓮糸を角刺神社の鏡池の蓮よりとりたいと思い、祈願した
ところ願いのとおり蓮糸をとることができました。そのときに感謝の気持ちを植え
たのが袖の松といわれています。
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鏡池
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飯豊天皇陵(いいとよてんのうりょう)
歴史の表舞台から立ち去った最初の女帝と言われる飯豊天皇の墓です。「古事記」
・「日本書紀」によると、角刺神社(つのさしじんじゃ、葛城市歴史博物館南隣)
で政務を執り行ったことが伝えられています。
全長約90mの前方後円墳。前方部を南西に向け、周濠を巡らしている。現在宮内
庁により「飯豊(いいとよ)天皇埴口(はにぐち)陵」に治定されて、その管理
下にあり整備されています。周辺遺物から、6世紀前半の築造と推定され、また、
飯豊天皇は、「角刺神社」に祀られている飯豊青皇女で、別名忍海郎女(おしみ
のいらつめ)とも云い、古事記では代23代顕宗(弘計)、代24代仁賢(億計)
両天皇の伯母となっており、日本書記では彼らの姉となっています。
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※飯豊天皇
葛城市HPより引用
五世紀末ごろ、雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)によって葛城氏の宗家が滅ぼされま
した。その雄略天皇の死後即位した清寧天皇は、跡継ぎを残さないまま死去します。
後継者を決めるため、葛城の忍海の人々が大王家につながる二人の皇子を見つけ
出します。ところがこの皇子たち、億計王と弘計王の兄弟は互いに譲り合って、な
かなか皇位につこうとしません。
そこで、王位の空白を埋めるために臨時に政務を執り行ったのが飯豊女王でした。
忍海の「高木の角刺宮」で政治を行い、その皇居は歌に詠まれるほど美しいものだ
ったそうです。倭辺に見が欲しものは忍海のこの高城なる角刺の宮『日本書紀』
(意味:大和のあたりで見たいものは、忍海にあるこの高城の角刺の宮です)
飯豊天皇は、歴代天皇の系譜に名前を連ねていません。あくまでも臨時に政権を執
っただけなので、正式に即位したとはみなされなかったからです。
※『扶桑略記』には
「飯豊天皇」と記載されているものの、いくつかの記録があり、飯豊天皇の記述は
一致しません。履中天皇の子とされたり、市辺押磐皇子の子とされたりします。
ただ忍海部女王の呼ばれていたことからも分かるように、飯豊女王がここ葛城の忍
海で一時天皇の位につき、政治を執り行ったようです。
飯豊天皇は、北花内にある墳墓「飯豊天皇埴口丘陵」に眠っています。現在も忍海
の人々は、角刺宮の伝承地とされる角刺神社の横の忍海寺に安置される十一面観音
菩薩立像(平安時代)を「飯豊女王の化身」と言い伝え、歴史から忘れ去られた女
帝をしのんで毎月17日に法要を行っています。

※『扶桑略記』
平安末期の僧皇円が神武天皇から堀河天皇までの事柄を編年体で記した歴史書。

屋敷山公園・・・葛城市HPより引用
葛城山の麓にある総面積約58000平方メートルの総合史跡公園です。敷地内には
屋敷山古墳、公民館、体育館、図書館、グラウンド等があり、文化・スポーツの
活動拠点になっています。
屋敷山古墳とは 5世紀の中頃の築造とされる前方後円墳(全長135m)で、古代
豪族葛城氏に関係するといわれ、国指定史跡です。
新庄城址
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金村神社(かなむらじんじゃ)
祭神:大伴金村
大字大屋小字金村に鎮座する式内社である。 明治四年には四反歩の境内旧地を持
つ大社であった。
社伝によれば、安閑天皇二年(535年)大伴金村公の霊を勧請したとする。
当地と大伴金村との関連は不明。志賀剛氏は『式内社の研究』でキンムラすなわ
ち木叢との説をだしている。 キンムラ、キムラとの地名や山名はなさそうであり、
『式内社調査報告』では退けている。
布施氏が当地を領有した際、この神社の近辺までを屋敷地としたようだ。裏鬼門
の守護としたのかも知れない。
大伴氏は古い豪族で各地に拠点があったが、『古事記の継体記』に「この御世
(ミヨ)に、筑紫君(ツクシノキミ)石井(イハヰ)、天皇の命(ミコト) に従
はずて、礼(ヰヤ)無(ナ)きこと多かりき。かれ、物部(モノノベノ)荒甲之
大連(アラカヒノオホムラジ)・大伴金村連(オホトモノカナムラノムラジ)二
人を遣(ツカ)はして、石井(イハヰ)を殺したまひき。 」と出てくる。
また後に任那の一部を百済に割譲した件で、それも賄賂がらみとの疑いで失脚す
るのであり、大伴連としては、 自慢にし難い祖神である。
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※大伴金村(おおとも の かなむら)
大伴 金村は、古墳時代の豪族(大連)。大伴室屋の孫で、大伴談の子とされるが、
大伴室屋の子とする系図もある。
仁賢天皇11年(498年)仁賢天皇の崩御後に大臣・平群真鳥、鮪父子を征討し、武
烈天皇を即位させて自らは大連の地位についた。武烈天皇8年(506年)武烈天皇
の崩御により皇統は途絶えたが、応神天皇の玄孫とされる彦主人王の子を越前国か
ら迎え継体天皇とし、以後安閑・宣化・欽明の各天皇に仕えた。
『日本書紀』によると継体天皇6年(512年)に高句麗によって国土の北半分を奪わ
れた百済からの任那4県割譲要請を受けて、金村はこれを承認する代わりに五経博
士を渡来させた。継体天皇21年(527年)に発生した磐井の乱では物部麁鹿火を将
軍に任命して鎮圧させた。
ただし、『古事記』の竺紫臣石井退治(磐井の乱)の記事には、物部荒甲(麁鹿火)
大連と大伴金村連が討伐にあたったと記されており、本居宣長は『古事記伝』で単
なる脱字の可能性と実はこの時にはまだ大連に就いていなかった可能性を指摘して
おり、近年においても笹川尚紀は『日本書紀』の編纂において、壬申の乱の功労者
として当時の朝廷において一定の影響力を有していた大伴氏の伝承に基づく金村の
顕彰記事(平郡真鳥討伐や継体天皇擁立など)が採用されていたと考え、金村は少
なくても継体天皇の即位の頃はまだ大連ではなかった可能性も指摘している。
しかし、欽明天皇の代に入ると欽明天皇と血縁関係を結んだ蘇我稲目が台頭、金村
の権勢は衰え始める。さらに欽明天皇元年(540年)には新羅が任那地方を併合す
るという事件があり、物部尾輿などから外交政策の失敗(先の任那4県の割譲時に
百済側から賄賂を受け取ったことなど)を糾弾され失脚して隠居する。これ以後、
大伴氏は衰退していった。
晩年は大伴氏の館のあった摂津国住吉郡(現在の大阪市住吉区)に住み、そこで死
去。住吉区にある帝塚山古墳は、大伴金村あるいはその子の墓とされている。ただ
し、古墳の築造年代は4世紀末から5世紀初頭であり年代が合わない。

置恩寺へ向かう
小春美鳥の中を上着を脱いで?ひたすら歩く・・・
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集落について
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もうすぐ
置恩寺
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置恩寺(ちおんじ)・・・葛城市HPより
本尊:薬師如来坐像。正式には医王山・布施山安養院置恩寺とし、高野山真言宗。
寺伝には行基の開基とあるが、中世には布施寺とも称されたように、布施氏の氏
寺として、栄枯盛衰を共にした。
奈良時代のはじめ、行基(ぎょうき)が創建したと伝えられています。桧一木造
りの十一面観音立像が国の重要文化財に指定されています。
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※十一面観音立像
檜一木造り。眉のわん曲が大きく、鼻筋が細く、微笑をたたえた顔立ちが優しく
上品です。重心を少し左足にのせ、右足の力をぬいて立つプロポーションは、均
整がとれた美しいものです。11世紀初め~中ごろに作られたものと推定されてい
ます。国指定重要文化財。

※置恩寺の薬師お会式(置恩寺) 4月下旬の日曜日
午後1時から本堂にて當麻寺の僧侶らと村民による法会が営まれます。力強い読
経が唱えられるなか、一斉に転読(てんどく)が繰り広げられるさまは大変興味
深いものです。以前は4月23日に催行されていましたが、現在ではその日の直前
の日曜日に催行されています。
午後2時には前日から丸一日かけて用意された一石ほどのお餅が一斉にまかれます。
また、この日には特別に重要文化財の十一面観音像も開帳されます。お会式が終
われば初夏、農作業が本格的に忙しくなる季節となるため、農村の生活の節目が
一つの行事の形をとって今に残る、素朴なお祭りとなっています。
此処までは、
2月12日の忍海駅~角刺神社~飯豊天皇陵その他ー1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
       https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-02-15  
此処では、続きの 置恩寺を後に屋敷山公園へ向かう~の詳細を掲載します。
置恩寺を後に屋敷山公園へ向かう
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屋敷山公園(昼食休憩)
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屋敷山公園を後に
慶雲禅寺へ向かう
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住吉神社
表・中・底筒男命の住吉三神を祭神としていますが、本来は桑山氏の氏神であっ
たようで、明治初期に辨ノ庄の諸鍬神社から分離し、明治十四年に現在の場所に
遷座しました。
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※辨ノ庄の諸鍬(もろくわ)神社
鎮座地:葛城市弁之庄119-1 〇祭神:品陀和気命 息長帯比売命 玉依比売命
〇拝殿は入母屋造り、間口六軒もある立派な建物。鳥居は境内にもあるが、一の
鳥居は百余m離れた南にあり、八幡宮の額が掲げてある。桑山氏の産土神を祀る。
1月9日、葛城市内の神社のトップを切り、弁之庄諸鍬神社でおんだ祭が行われま
す。五穀豊穣を祈願して、古式にのっとりお田植えの神事を執り行う伝統行事です。
午後からの神事の後、忌竹に囲まれた神殿での田植えの所作が行われます。牛が
鋤を引き馬鍬で田をならした後、松葉を苗に見立てての田植え。牛がのんびりしす
ぎているので、牛使いが「こら、もっと早よ引かんかい」と叱りつけます。周囲か
らは笑い声が上がります。

住吉神社を横切って
慶雲禅寺(けいうんぜんじ)・・・葛城市fHPより
布施氏の菩提寺となっている臨済宗南禅寺派の寺です。本堂の大悲閣は大きめの三
間堂で正徳年間に建てられたものです。境内に布施行種(ふせゆきたね)らの墓が
あります。
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影現寺へ向かう
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影現寺(ようげんじ)・・・葛城市HPより
柿本山影現寺は、済衝2年(858年)に弘法大師空海の直弟子である真済上人によっ
て開かれた高野山真言宗の寺院です。元来この地には、影現寺の創建前から柿本人
麿を祀る柿本神社があり、神格化された柿本人麻呂を祀る柿本神社を護る神宮寺と
して建立されました。
寺名の影現寺の「影現」の意味するところは、仏、菩薩が衆生を済度するために来
臨されること指すとお経に記されています。
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柿本神社(かきのもとじんじゃ)・・・葛城市HPより
祭神は「万葉集」第一級の歌人と称される柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)で
す。石見国(島根県益田市)で没した人麻呂を770年に改葬して、かたわらに社殿
を建てたのが始まりといわれています。
隣接する影現寺(ようげんじ)と共に、人麻呂の命日に毎年4月18日にはチンポン
カンポン祭が行われます。
人麻呂による葛城をしのぶ歌としては、「春楊(はるやなぎ) 葛木山に たつ
雲の 立ちても坐ても 妹をしそ思ふ」があります。
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※柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
葛城市柿本は、『万葉集』の代表的な歌人柿本人麻呂と深い縁があります。人麻呂
の生誕地と伝えられ、人麻呂を祀る柿本神社は、宝亀元(770)年に人麻呂を改葬
し、その傍らに社殿を建てたのが始まりと言われています。なお、柿本神社は他に
天理市や兵庫県明石市、島根県益田市など全国にあります。
人麻呂の生没年は明らかではありませんが、『万葉集』と『石見国風土記(いわみ
こくふどき)』によると、七代の天皇に仕え、石見国(島根県)に赴いていたこと
が分かります。本市柿本には人麻呂の屋敷があったとされる場所があり、「石見田
(いわみだ)」と呼ばれています。
人麻呂は、『万葉集』に多数の優れた歌を残しています。特に長歌では、皇族をた
たえる歌や死を悼む歌、また妻への思いを詠んだ相聞歌があり、雄大で荘重な歌風
です。抒情歌人として高い成熟度を示し、万葉歌人の第一人者とされ、現在では聖
とあがめられています。
葛城の地をしのぶ歌としては、「春柳 葛城山に たつ雲の 立ちても坐ても 妹
をしそ思う」(巻11 2453)があります。
また、人麻呂の遠縁にあたると言われる真済(しんぜい)は、柿本神社の境内に人
麿堂(現影現寺)を建立し、自らが彫ったとされる人麻呂の木造を安置しました。
木像は、今でも柿本の人たちによって大切に保管されています。
真済が人麻呂を尊び、前述の木像を祀って歌会を催していた記録が、影現寺に伝わ
っています。同寺にはその際詠まれた歌が奉納されており、長い年月を経た昭和の
初めごろまで、地元の人たちによって歌が奉納されていました。さらに柿本神社で
は、人麻呂の命日とされる4月18日に毎年「チンポンカンポン祭」を行い、人麻呂
を供養しています。
此処でボランティアガイドさん(M下さんとK上さん)とお別れして
新庄駅前~梅乃宿酒造へ向かう
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梅乃宿酒造
梅乃宿酒造株式会社 Hより抜粋引用
商号:梅乃宿酒造株式会社  1893年(明治26年)吉田熊太郎商店 創醸
1950年(昭和25年)梅乃宿酒造株式会社 設立、代表取締役 吉田武司 就任
1979年(昭和54年)自社ブランド中心に移行、 吟醸酒の本格醸造着手
1984年(昭和59年)四代目社長 吉田暁 就任
2001年(平成13年)リキュール・焼酎製造免許取得 東京事務所開設
2003年(平成15年)清酒1600石醸造 2004年(平成16年)梅酒 本格製造開始
2007年(平成19年)リキュール用充填ライン新設 梅乃宿東京営業所設立
2008年(平成20年)麹室新設   2009年(平成21年)冷蔵倉庫新設
2013年(平成25年)五代目社長 吉田佳代 就任 翌年 物流センター開設
企業理念
一、私達は、伝統文化の継承と発展を追求し続けることにより、地域社会の
繁栄に貢献します。
一、私達は、職業奉仕の精神をもって、お客様に安らぎと感動を提供します。
一、私達は、相共に夢を語り、夢を育み、その夢の実現に精励します。
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梅乃宿酒造の樹齢300年の梅が満開・・・
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試飲を終え、ほろ酔い気分で
新庄駅へ向かう
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駅前の柿本池
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近鉄新庄駅
新庄の由来・・・葛城市HPより引用
新庄は高野街道に沿う集落でしたが、布施氏が屋敷山古墳とその周辺に新たな
城を築いたことから、「新城」と呼ばれていたようです。
関ヶ原の戦いののち、紀州・若山(現:和歌山)から入部した桑山一晴が、布
施氏の新城跡に陣屋および家臣の屋敷を構築するとともに、その東方に商工業
者が住む新しい城下町をつくりました。その陣屋や屋敷町、城下町を合わせて
「新庄」と呼ばれるようになったとされています。
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