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2月8日の天理駅~奈良豊澤酒造「豊祝」へ-2

2月10日        2月8日の天理駅~奈良豊澤酒造「豊祝」へ-2
             近鉄ハイキング酒蔵みてある記 10㎞
この日は、知人の・K場さん・O村さん・K川さん・久し振りにハイキングに出て来て
くれたY田さんと5名で近鉄ハイキング酒蔵みてある記に参加、道々気持ち良かった。
コースは    天理駅(受付・スタート・10時集合)
天理駅前(受付・スタート)~和爾下神社~櫟本高塚公園~広大寺池~奈良豊澤酒造
(抽選会・甘酒・試飲・販売)販売~上三橋バス停~バス~近鉄奈良駅
色々と寄り道しながらコース変更しながら?酒蔵にはつじつまを合わせて・・・
実際に歩いたコースは
天理駅前(受付・スタート)~祝田神社~浄土院~石上町お地蔵さん~石上市神社~
在原神社~ショートカットして~馬出~柿本寺跡~和爾下神社・十二社神社~山野辺
の道~鬼子母神社~櫟本高塚公園(昼食休憩)~川沿い~池田町の熊野神社~ショー
トカットして~奈良豊澤酒造(抽選会・甘酒・試飲・販売)解散~上三橋の須佐之男
神社~郡山イオンモール~バス~私はJR郡山駅へ、他の3名は近鉄奈良駅へ、Y田さん
は酒蔵から直ぐ近くの帯解駅へ自転車を置いてる様で先に帰って・・・
此の日の私の万歩計は、24657歩で約14.7㎞歩いた事に・・・
天理駅前(受付・スタート)~祝田神社へ向かう
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祝田神社(はうりたじんじゃ)・・・ほうりたとは、なかなか読めない?
天理駅の北に840mの所にある田部町に鎮座の古い神社。御祭神は豊受大神。
式内社・祝田神社に比定されている古社だが、創祀年代、および由緒は不詳。
また「石上布留神宮抄」には、「祝田神殿一座在田村 神宮坤凡二十余町田村ノ後
宮ニ坐ス」とあり、石上神宮の西南2Kmほどの田村(現在の田町)の地が、祝
田神殿の跡であるとも、田村は田部の誤記で、田部鎮座の当社が式内社であると
も考えられているようだ。
さらに祝田神殿の今木大神が、延暦元年(782)十一月、従四位上に叙され、
山城国平野神社に遷され、第一殿に祀られたという説もあるらしい。現在の祭神
は豊受大神だが、以前は日本武尊であるとも考えられており、明治までは天満宮
とも称されていたらしい。
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浄土院へ向かう
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浄土院
「浄土宗鎮西派 福田山 往生寺おうじょうじ 浄土院じょうどいん」です。
本尊は「阿弥陀如来立像」ということで、創立等の詳細は不明だそうです。
この道は「上ツ道」だそうで、平城京へいじょうきょうと飛鳥京(藤原宮)を結ぶ
官道であったということで、人々の往来もかなりあったことでしょう。歴史の積み
上げがかなり存在してる。
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勢至丸さま像・・・法念上人の幼名
法念上人
法然(ほうねん、長承2年(1133年) - 建暦2年(1212年))は、平安時代末期から鎌
倉時代初期の日本の僧である。はじめ山門(比叡山)で天台宗の教学を学び、承安5年
(1175年)、専ら阿弥陀仏の誓いを信じ「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、死後は
平等に往生できるという専修念仏の教えを説き、のちに浄土宗の開祖と仰がれた。
法然は房号で、諱は源空(げんくう)。幼名を勢至丸。通称は黒谷上人・吉水上人と
も。謚号は、慧光菩薩・華頂尊者・通明国師・天下上人無極道心者・光照大士である。
大師号は、500年遠忌の行なわれた正徳元年(1711年)以降、50年ごとに天皇より加
謚され、平成23年(2011年)現在、円光大師・東漸大師・慧成大師・弘覚大師・慈教
大師・明照大師・和順大師・法爾大師である。
『選択本願念仏集』(『選択集』)を著すなど、念仏を体系化したことにより、日本
における称名念仏の元祖と称される。 浄土宗では、善導を高祖とし、法然を元祖と崇
めている。
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※浄土真宗
浄土真宗では、法然を七高僧の第七祖とし、法然上人・源空上人と称し、元祖と位
置付ける[注釈。親鸞は、『正信念仏偈』や『高僧和讃』などにおいて、法然を「本
師源空」や「源空聖人」と称し、師事できたことを生涯の喜びとした。

石上町のお堂
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石上市神社
天理市石上町の石上市(いそのかみいち)神社。古代に賑やかな市のあった場所
とされます。御祭神は少彦名命とされますが、詳細は不明です。諸説あって定か
ではありません。牛頭天王、大市姫命、あるいは市辺押磐皇子とも伝えられます。
「石上(いそのかみ)」は地名であり、本居宣長は「イ」を接頭語とし、「ソノ
カミ」は「古」を意味すると説きました。
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在原神社(在原寺跡)
標石が示すとおり、元々は在原寺と業平神社がありましたが、明治時代の廃仏毀
釈で在原寺が廃され、業平神社は在原神社になりました。
在原神社-在原業平と父を祀る神社-
「伊勢物語」の作者とも、モデルとも伝えられる在原業平とその父・阿保親王(あ
ぼしんのう・平城天皇の皇子)が祀られています。
中将・在原業平は有名な歌人の一人で、絶世の美男子だったと伝えられ、紀有常
の娘とこの地に居を構えていました。
在原寺跡-在原氏の氏寺-
和州在原寺の縁起によると、東の平尾山には光明皇后が開かれた補陀落山観音院本
光明寺(現在の姫丸神社近辺)があり(本尊・聖武天皇御縁仏の十一面観音)、阿
保親王(第51代平城天皇の子)はこの観音を信心したおかげで在原業平が生れた
と信じ、承和2(835)年、光明寺をこの地に移して、本光明山補陀落院在原寺と称
したそうです。その後に書かれた「寛文寺社記」には、元慶4(880)年5月28日に業
平が病没したので、邸を寺にしたとあります。
天文23(1554)年の『吉野詣記』や、延宝9(1681)年の『和州旧跡幽考』には、寺領
はわずかに五石だが、本堂、庫裡、楼門などがあり、近在は在原千軒と呼ばれる
ほど人家が建ち並んでいた、と記されています。その後、在原寺は廃寺となり、
本堂は明治初年に大和郡山市若槻の西融寺に移された。
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※今も残る天理の 昔ばなし
平安時代、歌人であり美男子としても知られた在原業平は、今の櫟本町の在原神社
(在原寺)あたりに住んでいました。幼い頃、仲よしの女の子とそばの井戸で姿を
写したり、井戸のへりに小袖を掛けたりして遊びましたが、その内、女の子は業平
に思いを寄せるようになりました。しかし、大人になった業平は河内の河内姫と言
う女性を恋するようになり、遊び仲間の女の子を忘れてしまいました。
業平は河内へ河内へと足繁く通い、河内姫への恋を燃やしましたが、ある日、姫の
ふとした下品な態度を見、いっぺんに恋心がさめてしまいました。
これも移り気な男心なのでしょうか。河内姫は河内に出向かなくなった業平を追い
かけ、柿の木の下にある井戸までやってきました。業平が柿の木に登って隠れてい
ると、井戸に映った業平の姿に、河内姫は「この中に業平さまが・・・」と、井戸
に飛び込んでしまいました。哀れなことに、女心は報われず、井戸の中へと消えて
しまいました。その後この井戸は「業平姿見の井戸」と言われるようになりました。
さて、幼い頃に遊んだ女の子は大人になっても、業平に思いを寄せていましたが、
河内へ河内へと通う男心がうらめしくてなりませんでした。
業平の冠をかぶった我が姿を井戸の水に映しては業平をしのび、幼い頃の楽しい
日々を思い出しては片思いの寂しさをまぎらわしていました。
年毎に老いてゆく姿は、恋を取り戻すことができぬまま、寂しく思い出に生きる
老婆となり、最後は草ぼうぼうの井筒に果ててしまいました。
この寂しい老婆の物語は、世阿弥によって能の「井筒」に書かれ、現在も上演さ
れています。また、業平が河内の高安へ通ったとされる業平道には今も「業平姿
見の井戸」が残り、かたわらには与謝蕪村の「虫鳴くや河内通いの小提灯」の
句碑が建っています。

馬出(うまだし)の町並み・・・馬つなぎの遺構が残る町
JR万葉まほろば線櫟本駅のすぐ東には、南北に上街道が通っている。上街道を南
へ進み、高瀬街道と交差する一帯は櫟本と大和高原を結ぶ交通の要所。古くから
市場が開かれて商業が活発だった。上街道から東の高瀬街道に沿った部分は、
「馬出(うまだし)」と呼ばれた。古い民家のなかに、「馬つなぎ」がいまも残
っている1軒がある。炭を扱う商家だった。民家の入口をはさんで左にあるのが
「馬つなぎ」、右にある少し低いものは牛をつないでいた。馬や牛をつないだ綱
がこすれて、木材がすり減っている部分が100年の歴史を物語っている。
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柿本寺跡・・・柿本人麻呂
柿本寺(しほんじ)は、名前の通り、柿本氏の氏寺です。
建武4(1337)年、北朝軍が天王社(和爾下神社)や柿本寺に陣取って南朝軍と戦った
との記録や、その前後に描かれた柿本宮曼茶羅(まんだら・現在は奈良市学園前町
の大和文華館が所蔵。重要文化財)が伝わっています。
寺は室町時代までに西へ約400m離れた、現在の櫟本小学校西側に移転しています。
江戸時代までは代々、学僧が出、和歌や茶の湯などが親しまれましたが、明治初年
に廃寺となりました。
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和爾下神社・十二社神社
櫟本の町中を流れている高瀬川に沿った長い参道があって、東の治道山に鎮座、
寿永2年(1183年)藤原清輔の弟顕昭(けんしょう)が著わした『柿本朝臣勘文』によ
ると、「清輔が語っていうに、大和国へ下向した時、古老から聞いたが、添上郡
石上村の傍らに社があり、春道社という。その中に寺があって柿本寺といい、人
丸の堂である。その前の田の中に小塚があって人丸墓という」意味の記事があり、
この記事により石上村の付近に治道の森があり、治道社(春道社)と柿本寺があった
ことがわかる。『東大寺要録』には、「神護景雲3年(769年)東大寺領の櫟庄に水を
引くために、高瀬川の水路を今の参道に沿った線に移し、道も新しく、まっすぐに
造られた。この社は東大寺山丘陵の西に位置する古墳の上に祀られていて櫟本地方
にいた豪族の氏神であったが、今は櫟本の鎮守である。
御祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)を祀っているので牛頭天王社ともいわれ、此
処に建てられた柿本寺との関係で柿本上宮ともいわれた。明治初年に延喜式内の和
爾下神社に当ると考証されて社名を和爾下神社と定められた。
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山辺の道へ向かう
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山辺の道
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鬼子母神社
綺麗に整備された「櫟本高塚公園」の西麓の端に鎮座する社。鬼子母神という
中国の神が祀られています。中国仏教の神であるため、日本の神とは異にし
ます。神仏混交の影響で神社のように祀られています。
式内社 春日神社の論社となっていますが、比定社は春日大社の境内社 榎本神
社。当社に関する資料は皆無なので詳細は分かりません。
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此処までは、
2月8日の天理駅~奈良豊澤酒造「豊祝」へ-1 として
      下記のセカンドブログへ詳細を投済です。
      https://nara-amami-shiba.blog.ss-blog.jp/2020-02-09-1
此処では、続きの「櫟本高塚公園」(昼食休憩)~の詳細を掲載します。
「櫟本高塚公園」(昼食休憩)
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※櫟本の由来・・・今も残る天理の 昔ばなし 「大きな櫟の木」
昔、ある村に、大きな大きな櫟(いち)の木が天にもとどかんばかりにそびえて
いました。枝は四方に広がり、村全体をすっぽりと包んでいました。
村人たちは、毎日せっせと田畑をたがやして暮らしていましたが、この大きな櫟
の木のためにお日さまの恵みが受けられず、米や作物はほとんど育ちません。
さらに、この木の上に住む天狗がいたずらをしては村人を苦しめ、果ては毎年一
人ずつ、娘を差し出せと言ってきました。村人たちは困り果て、大きな櫟の木を
見上げてはため息をつくばかりの毎日でした。
ちょうどその頃、中国で修行を積んだ覚弘坊(かっこうぼう)という立派なお坊
さんが帰国し、村人たちが苦しんでいるのを知りました。覚弘坊は村人達の姿を
見かね、何とかして天狗を退治してやろうと一策を講じました。
ある晴れた日、覚弘坊は「もしもし天狗さん、中国から良いお土産を持って帰っ
たよ。」と櫟の木の下から呼びかけました。
誘いに乗って大木の上から顔を出した天狗に、坊さんは衣の中から、とおめがね
(望遠鏡)を取り出して見せました。
「この、とおめがねを目にこうしてあてると、ずっと遠くの方まで見えるんだ。
これを使ってあの東の米谷山(まいたにやま)から見下ろせば、大和全体が見わ
たせるよ。どうだい、このめがね、ほしくないかい?」
天狗は、そのめがねをぜひ自分のものにしたいと思い、「それはいくら位するの
だ?」と聞きました。「これは大変、高価なものだが、お前さんが住んでいる櫟
の木と交換してくれるのなら、タダであげよう。」と言うと、天狗は喜んで櫟の木
から下り、とおめがねを手にとるや米谷山へ向かって飛んで行きました。
坊さんはホッとして、大きな櫟の木をノコギリと念力で、「えいっ!」とばかりに
切り倒しました。すると、あたりは急に明るくなり、お日さまがキラキラとまばゆ
いばかりに輝いて、村の上に顔を出しました。
村人たちは大喜び。それからは、お日さまの恵みを受けて、村人たちの生活も豊か
になっていったそうです。その後、櫟の木が横倒しになった西の方の村を「横田」、
枝のかかった村を「櫟枝」、櫟の木があった村を「櫟本(いちのもと)」と言う様
になり、現在も地名として残っています。

白川橋へ向かう
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白川橋を通過して上街道を歩く
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生コン会社~踏切を渡る
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川沿いを歩く
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中街道を歩く
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池田町の熊野神社
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広大寺池をショートカットして~酒蔵へ
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奈良豊澤酒造(抽選会・甘酒・試飲・販売)解散
明治元年(1868年)豊澤儀助が大阪玉造にて酒卸業を創業。明治20年頃(1887年)
酒造業に進出し、灘(神戸市)、伏見(京都市)、奈良、泉南尾崎(大阪府)、里
庄(岡山県)で清酒酒造業を始める。昭和10年頃(1935年)二代目の儀三郎が本社
を西城戸町に残し、酒蔵を現在の酒造場のある今市町に移転。昭和16年(1941年)
戦時統制経済体制の為に、酒造業者の整理統合が進められ、泉南の酒蔵はこの時に
廃業。伏見と灘は奈良の豊澤酒造本店に集約される。昭和20年以降(1945年)伏見
(本家)が豊澤本店として独立。灘豊澤酒造と奈良豊澤酒造が個人企業として独立。
3代目の儀雄は、戦後の極度の食糧不足のなか、配給されるわずかな米で酒造りを
行い、酒蔵を守っていた。昭和30年(1955年)戦前に経営していた清酒の卸業を廃
止。10月、個人企業を改組し、奈良豊澤酒造株式会社を設立。昭和54年(1979年)
後に4代目となる安男(当時、専務)が杜氏を求めて但馬へ。そこで、但馬杜氏の
藤沢忠治と出会い、奈良豊澤酒造に招く。昭和59年(1984年)4代目の安男が代表
取締役社長就任。平成 2年(1990年)平成2年度全国新酒鑑評会で「大吟醸豊祝」
が金賞受賞。此れより連続5年(平成3年度、4年度、5年度、6年度)、金賞を
受賞。
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試飲・販売会場
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抽選~解散
私だけ、豊祝銘入り1合升に当選・・・ 
Y田さんは酒蔵から直ぐ近くの帯解駅へ自転車を置いてる様で先に帰って・・・
他の4名は、大和郡山のイオンモールへ向かう

上三橋の須佐之男神社
ご祭神は、素盞鳴命(すさのおのみこと)。旧社格は、指定村社。由緒は、不詳。
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大和郡山イオンモールへ向かう
左側にシャープの奈良工場が見える
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私は、イオンモール~バスでJR郡山駅へ帰った バスで5分
他の3名は、イオンモール~バスで近鉄奈良駅へ向かって帰った・・・・

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