So-net無料ブログ作成

9月14日の奈良きたまち・歴史(とき)めぐり-2

9月20日          9月14日の奈良きたまち・歴史(とき)めぐり-2
                  JRふれあいハイキング 5.5㎞
此の日は久し振りに知人のY田さんと二人でJRふれあいハイキングに参加しました・・・・
コースは  JRふれあいハイキング  なら観光ボランティアガイドの会主催 参加費無料
JR奈良駅 奈良市総合観光案内所前(9:15集合)~旧奈良駅駅舎~開化天皇陵~浄教
寺~漢國神社~初宮神社~奈良女子大学~聖武天皇陵・光明皇后陵~多門城跡~旧
奈良監獄~般若寺~北山十八間戸~転蓋門(解散12:00頃)
解散後~昼食は来来亭でラーメン~近鉄奈良駅~JR奈良駅
旧奈良監獄へ行く迄は涼しい風もあり快適だったが以降はやはり暑くなり暑かった・・・
奈良愛にあふれたボランティアガイドの説明に聞き入り楽しいハイキングになりました。
知人と私は、1班16名でスタート、2班は10名以下で我々の後からスタートした様です。 
此の日の私の万歩計は、16797歩で約10km歩いたことに・・・
JR奈良駅 奈良市総合観光案内所前(9:15集合)
旧奈良駅駅舎(観光案内所)
JR奈良駅の北にある奈良市総合観光案内所。国内外の観光客から重宝される奈良
の観光拠点ですが、実はこの建物、平成15年(2003)までJR奈良駅舎として利用さ
れていました。  日本国有鉄道(現JR西日本)によって昭和9年(1934)に竣工され、
その様相は寺院風和風と鉄骨鉄筋コンクリート造の近代的構成でできた和洋折衷の
荘厳なもの。当時の建築技師が奈良の諸寺院の特色ある屋根を参考して考案したそ
うです。このような建築は洋風意匠の建物に比べ、数が少なく貴重です。ところが平成
13年(2001)、JR奈良駅付近の連続立体交差事業で駅機能が新駅に移ったことによ
り、その存続が危ぶまれます。県民や観光客からの存続を望む声や、文化的価値を踏
まえ、県・市・JR西日本の三者協議の末、保存が決定。駅舎をレールと鉄の棒(ころ)
による曳き家工法で、北東へ18m移動を行い、平成21年(2009)年に観光案内所とし
て生まれ変わったのです。.
IMG_0094.JPG
棚田嘉十郎が建立した石碑・・・大極殿跡への道標を建立した。
棚田 嘉十郎(たなだ かじゅうろう)
日本の植木職人。文化財保護運動家。明治時代から大正時代にかけて平城宮の保存
活動を行った。植木職人として奈良公園などの植栽を手がけていた。
江戸時代に幕府の役人北浦定政の調査で研究が始まった平城宮は、1897年に奈良県
技官で東京大学名誉教授の関野貞・同奈良県技官の塚本慶爾らによって発見された。
棚田は、観光客に平城宮跡の場所を尋ねられたが、場所を知らず答えることが出来な
かった。これを奈良の人間として恥ずかしいと思った棚田は、平城宮跡の保存と顕彰に
一生をかけることを決意した。
1896年、知人に連れられて大極殿跡を訪れた棚田は、放牧地となり堆肥が山積みに
なっている有様を見て、次のように言って涙を流したという。

「 実に見る影もなき有様。之れを皇居の址と云はれ様か。 」

これ以降、棚田は憑かれたように保存運動へのめり込んでいった。平城宮の啓発のため
に宮跡の図面を観光客らに配り、宮跡で掘り出された瓦を高名な人らに贈るなどした。
また、1906年には自ら発起人となり「平城宮阯保存会」を組織したほか、1912年3月には
当時の国鉄奈良駅前に大極殿跡への道標を建立した。
朱雀門前に銅像が建立されており今でも平城宮跡を見守っています。
IMG_0095.JPG
開化天皇陵
開化天皇(かいかてんのう、孝元天皇7年 - 開化天皇60年4月9日)は、日本の
第9代天皇(在位:孝元天皇57年11月12日 - 開化天皇60年4月9日)。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる
「欠史八代」の1人に数えられる。
IMG_0096.JPG

浄教寺へ向かう
IMG_0097.JPG
浄教寺(じょうきょうじ)
淨教寺は、浄土真宗本願寺派の寺院である。山号は九条山。本尊は阿弥陀如来立像。
『淨教寺由緒略記』によると、開基行延法師は、河内国八尾の庄司で、真野将監行延と
名乗る知勇兼備の武士であった。浄土真宗開祖親鸞上人の直弟子となり、寛元2年(12
44年)3月出家し、法名を行延と賜ったという。第6世の円誓には実子がなかったが、楠
木正季の孫が初陣にあたり深手を負い、円誓の養子となって空信と法名を授かり、第7
世を継いだと伝わる。このため当寺では「九耀菊水」を定紋に用いるようになったという。
また北朝光明天皇の勅願所となり、「称仏明院」の号を賜った。11世行心の代、享禄3年
(1530年)に、河内国から大和国添下郡冨庄西城村に移転し、また永禄2年(1559年)
12世行春の際に、しばらく九条の里に移っていたという。この頃より九条山と号するよう
になった。また天正19年(1591年)、行春は石山合戦の際の忠節を顕如上人から讃えら
れ、御染筆にて「淨教寺」の号を賜り、石山本山内仏の本尊阿弥陀如来を拝領したという。
慶長8年(1603年)3月6日、徳川家康から南都上三條で御赦免の寺地を頂戴し、現在地
へ移転した。
IMG_0100.JPG
IMG_0102.JPG
漢國神社(かんごうじんじゃ)&林神社
漢國神社は、式内小社(論社)、旧社格は県社。祭神は、園神(そのかみ)として大物主命、
韓神(からかみ)として大己貴命・少彦名命を祀る。延喜式神名帳で宮中宮内省に祀られ
名神大社に列すると記される園神社・韓神社は当社からの勧請であると社伝では伝える。
推古天皇元年(593年)2月3日、勅命により大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)が園神
を祀ったのに始まると伝える。その後、養老元年(717年)11月28日、藤原不比等が韓神
二座を相殿として合祀したという。かつては春日率川坂岡神社あるいは園韓神社と称して
いたが、韓神の韓が漢に、園神の園が國となり、「漢國神社」という社名になったと伝える。
貞観元年(859年)1月27日、平安京内の宮内省に当社の祭神を勧請し、皇室の守護神と
したと社伝では伝えているが、平安京の園神社・韓神社の社伝とは矛盾している。

境内社として林神社がある
境内社の林神社(りんじんじゃ)は、日本唯一の饅頭の神社。貞和5年(1349年)に中国か
ら来日し、漢国神社社頭に住居して日本初となる饅頭を作ったという、饅頭の祖・林浄因
が祀られていることが名前の由来。1978年(昭和53年)に菓祖神の田道間守を合祀し、
饅頭・菓子の祖神の神社として関係業界の信仰を集める。林浄因の命日である4月19日
には、菓業界の繁栄を祈願する例祭「饅頭まつり」が行われ、全国各地の菓子業者が神
前に自家製の銘菓を献上するほか、一般参拝者向けにも無料で饅頭と抹茶がふるまわ
れる。また、林家から出た碩学、林宗二の著作『饅頭屋本節用集』に因み、民間印刷業の
原点として9月15日、印刷・出版業界の参列のもと節用集祭りが執り行われる。境内には、
巨石を伏せた饅頭塚もある。
IMG_0103.JPG
IMG_0104.JPG
茶道発祥地への案内標識
茶礼祖村田珠光旧蹟称名寺 左と書かれた石碑
村田珠光
能阿弥に書院茶を学んだ村田珠光 は、当時庶民のあいだに伝わっていた地味で簡素な
「地下茶の湯」の様式を取り入れ,さらに大徳寺の一休宗純から学んだ禅の精神を加味し
て,精神的・芸術的内容をもつ茶道を作りました。
能阿弥が十八畳の書院座敷を用いたのに対し、珠光は四畳半の茶室を考案しました。
当初、広い座敷を屏風で囲って区切ったので、後に茶室は「かこい」とも呼ばれます。
茶室を四畳半に限ることで、必然的に装飾を制限するとともに、茶事というものを「限られ
た少人数の出席者が心を通じ合う場」に変えたのでした。
東求堂の書院、同仁斎の広さが四畳半であるのは、足利義政に珠光が進言したものと云
われています。
村田珠光が立てた礼式作法は、武野紹鴎や千利休を経て今日に伝わり, 現存する各流
儀のいずれもが村田珠光をもってその祖としている。

※武野紹鴎(たけのじょうおう)
武野紹鴎は、1502~55(文亀2~弘治1)村田珠光の茶の湯を徹底して深化し、佗び茶の
根本を説いた戦国時代の茶人。珠光の四畳半茶の湯をいっそう清潤化し、小座敷のうちに
心のやすらぎを求める。これが紹鴎の創始になる佗び茶の真髄といわれる。津田宗久・今
井宗久は高弟にあたる。次代の千利休らに強い影響を与えた。
IMG_0105.JPG

奈良女子大へ向かう
IMG_0107.JPG
初宮神社
比較的立派な鳥居・社殿を持つ神社は、そのルーツを奈良時代に宮中で神祇官が天皇
を守護するためにお祀りしていた「八神殿」の存在にまでさかのぼる非常に歴史ある存
在となっており、ご祭神としてはその神祇八神である神皇産霊神(かんむすひのかみ)・
高皇産霊神 (たかみむすびのかみ)・魂留産霊神(たまとめむすびのかみ)・生産霊神(い
けむすびのかみ)・足産霊神(たるむすびのかみ)・大宮売神(おおみやのめのかみ)・御
膳津神(みけつのかみ)・事代主命(ことしろぬしのみこと)を祀るほか、春日大社の「若宮
神社」が創建された時期からは伊勢皇大神(いせすめらおおかみ)・春日大神・住吉大神
も合わせてお祀りしています。また、境内には小さなお社もあり、市杵島姫命(いちきしま
ひめのみこと) と稲荷大神がそれぞれ祀られています。
IMG_0109.JPG
奈良女子大学の重要文化財(・奉安殿・講堂・門柱)
「奈良女子大学」にある、明治末期に建てられた建築物『奈良女子大学記念館(旧本館)』。
重要文化財に指定されている貴重な建物です。
古くは奈良奉行所が置かれていた北魚屋東町・西町に位置する『国立大学法人 奈良女子
大学』。前身となる「奈良女子高等師範学校」は、1908年3月に設立されました。
その中心に建つ「奈良女子大学記念館」は、明治末期の1909年に「奈良女子高等師範学
校本館」として竣工したもの。1階は事務室、2階は講堂として利用されました。1990年に名
前を「記念館」と名称を改め、1994年には大規模な改修工事を行い、守衛室(附 正門)と
奉安殿とともに国の重要文化財に指定されています。
IMG_0111.JPG
IMG_0113.JPG
IMG_0115.JPG
奈良奉行所跡
奈良奉行所は、今の奈良女子大のところにあり、江戸幕府の設置した遠国奉行のひとつ。
奈良町中の行政・訴訟、大和国の寺社の支配、大和国の訴訟の一部を職掌としていまし
た。約29,000平方メートルの敷地があり、遠山金さんのいた江戸北町奉行所の3倍以上の
大きさ。奉行所として日本一の規模。堀で囲まれ、京都の二条城と同じ規模のまさにお城と
言えます。
有事の際には、上方から江戸までの繋ぎの城の機能を持っていました。女子大前の道が広
いのは、ここで行列を整えたから。また、奉行所向かいの寺川道具店は、奉行所の中をのぞ
けないように2階に窓がありません。奉行所があったことの証人です。
又、佐保川堤の川路桜としても有名な幕末の名奉行川路聖莫(かわじとしあきら)が、弘化
3年(1846)からあしかけ6年間善政をひいたことで有名。
IMG_0117.JPG
聖武天皇陵へ向かう
桟瓦と丸瓦が混在のサンプルが・・・
瓦作りの技術は、中国から朝鮮を経て、寺院建築とともに日本に伝えられた。瓦といえば、
今日では一般に桟瓦(さんがわら)を連想するが、古くは丸瓦と平瓦を組み合わせて葺き
上げていく方法、すなわち本瓦葺きが基本的な葺き方であった。日本では瓦作りが始まっ
た当初から、丸瓦は重なりを考慮して一方を狭く作る行基葺き式のものと、重なりの部分
に玉縁のつくものとが混在していた。…
左が丸瓦で右が桟瓦(さんがわら)
IMG_0119.JPG
聖武天皇陵へ向かう
佐保川の向うに天皇陵
IMG_0120.JPG
聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう)-756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武天皇の
第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月
15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会
うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢
37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇
(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇
子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤
原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天
皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正
天皇より皇位を譲られて即位することになる。聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する
長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:
県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即
位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は
光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自
害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長
屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄
弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入っ
たが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血
縁の者である。天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとん
どが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じ
て辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷
都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫
香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付け
は定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火
災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。天平年間は災害や疫病(天然痘)が
多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平
15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を
行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)
が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私
財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年
閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒
殺と見る説がある。天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲
位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷
が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
IMG_0122.JPG
IMG_0123.JPG
IMG_0133.JPG
右手は光明皇后陵
IMG_0126.JPG
IMG_0129.JPG

光明皇后陵へ
IMG_0130.JPG
此処までは、
9月14日の奈良きたまち・歴史(とき)めぐり-1 として
         下記のメインブログへ詳細を投稿します。
        https://nara-amami-shiba.blog.so-net.ne.jp/2019-09-19-1
此処では、続きの光明皇后陵~ のついての詳細を掲載します。
光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年)-天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、
奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である
藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とう
さんじょう)。正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。
皇族以外から立后する先例を開いた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、
阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階
である夫人号を得る。神亀4年(727年)、基王を生んだ。神亀5年(728年)、皇太子に立てられ
た基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平
元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。 娘である阿倍内親王の立太子、およびその
後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の
藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天
皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に
葬られた。光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を
行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創
設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
IMG_0131.JPG
IMG_0132.JPG
多聞城跡へ向かう
佐保川
IMG_0134.JPG
IMG_0135.JPG
多門城跡
永禄2年(1559)に松永久秀が築城。天正4年(1576)に信長によって、跡形もなく破壊さ
れました。わずか17年間の城ですが、天守閣や多聞櫓を備えた白亜の城の最初であり、
安土城をはじめとするその後の城郭のモデルとなった画期的なものでした。
ポルトガル宣教師ルイス・デ・アルメイダが、「世界中でこの城ほど美しい城はない」と記録。
城跡からは東大寺や興福寺が足元に広がり、久秀の大和支配の気持ちを凝縮しており、
見せる城として豪華なものであったそうです。
久秀はさかんに茶会を催しており、今井宋達や宋久といった名前が見えます。柳生石舟斎
は久秀の武将として活躍しています。奈良に戦国の城があったという歴史。
IMG_0136.JPG
多聞城の有った場所は
若草中学校
IMG_0137.JPG
IMG_0138.JPG

市街地や東大寺大仏殿の裏手が見下ろせる
IMG_0139.JPG
IMG_0140.JPG
切通しを見て
旧奈良監獄へ向かう
IMG_0141.JPG
IMG_0142.JPG
IMG_0143.JPG

旧奈良監獄前の駐車場
IMG_0144.JPG
旧奈良監獄
奈良の観光名所、東大寺などからほど近い丘の上に佇む「旧奈良監獄」。江戸時代から
の奈良奉行所の流れを組みながらも、司法の近代化を掲げて造られた「明治五大監獄」
として、唯一原形を保っています。数多くの受刑者と、彼らの更生を見守ってきたロマネス
ク様式のれんが建築は、竣工から100年あまりの時が過ぎた現在もなお、その威厳と美し
さが衰えることはありません。
旧奈良監獄は、明治五大監獄(千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島)の一つとして、1908年
(明治41年)7月、当時司法省に勤め、数多くの刑務所や裁判所の設計を手がけた山下啓
次郎氏の設計によって建てられました。建設の大半は受刑者の労働によって作り上げられ、
使用されたれんがも構内に窯を築いて自給されたと伝えられています。
現代でも美しく重厚なイメージを残すロマネスク様式の赤れんが建築は、随所に当時の先
進的な技術や意匠が取り入れられ、赤れんが造りの塀で囲まれる、およそ10万6千㎡の
敷地の中央には、「ハビランド・システム」と言われる放射状に伸びた収容棟が配置されて
います。2017年(平成29年)3月まで、百有余年に亘り刑務所としての機能を果たし、日本
最古の刑務所建築としてその全貌を残した旧奈良監獄は、同年2月に、重要文化財に指
定されています。2021年に星野リゾートのホテルとして生まれ変わる事になります。
IMG_0145.JPG
IMG_0146.JPG
IMG_0147.JPG

門扉の中は?
IMG_0148.JPG

般若寺へ向かう
IMG_0149.JPG
般若寺
真言律宗の寺院。山号は法性山、本尊は文殊菩薩。コスモス寺の名で知られる。般若寺
の創建事情や時期については正史に記載がなく、創立者についても諸説あって、正確な
ところは不明である。ただし、般若寺の境内からは奈良時代の古瓦が出土しており、奈良
時代からこの地に寺院が存在していたことは確かである。
寺伝では舒明天皇元年(629年)、高句麗の僧・慧灌の創建とされ、天平7年(735年)、聖
武天皇が伽藍を建立し、十三重石塔を建てて天皇自筆の大般若経を安置したというが、
これらを裏付ける史料はない。別の伝承では白雉5年(654年)、蘇我日向臣が孝徳天皇
の病気平癒のため創建したともいう(『上宮聖徳法王帝説』裏書)。
寺伝によると遠く飛鳥時代の開創という名刹寺院とのことです。宗派は西大寺の叡尊が再
興したのをうけて「真言律宗」、山号は「法性山(ほっしょうざん)」です。般若寺の名称は「般
若経」から付けられたもので、それ故般若経と強く関わりのあった「文殊菩薩」を本尊として
おります。「般若」とは「智慧」という意味ですが我々が知るのは「嫉妬に狂った鬼女を表した
般若の面」「般若湯(酒)」などがあり、それになんといってもお経と言えば「般若心経」であり
ます。昔、般若寺といえば医療施設を備えて病人や貧困者の救済事業に力を注いだという
庶民にはとっては大変有難いお寺だったようでその証が「北山十八間戸」と云われる。 
IMG_0150.JPG
宇治川中之島の十三重搭に次いで2番目に高い
IMG_0152.JPG
夕日観音
室町時代の夕日地蔵があり、会津八一のうたに詠まれています。
「ならさか の いしの ほとけの おとがいに こさめながるる はるは きに けり」
IMG_0153.JPG
北山十八間戸
わが国最古の病院として著名な「北山十八間戸」です。
「法華寺のお話」で「光明皇后」が治療されたわが国最初の「ハンセン氏病(癩)」患者の病院
だった所の様です。江戸時代の再建とはいえ管理がよく行き届いたきれいな建物です。
しかし、鎌倉時代に、「文殊菩薩」に深く帰依された「西大寺」の僧「忍性」によって創建された
との説もあります。忍性はハンセン氏病などの救護と治療の慈善事業に大変尽くされました
のでその功績に報いて諡号「忍性菩薩」が贈られました。それと、忍性は般若寺の再建に尽
力されましたので般若寺が慈善救済事業を盛んに行われていた影響でこの病院を創設され
たと考えるのが穏当かもしれません。
IMG_0155.JPG
IMG_0158.JPG
IMG_0159.JPG
古い建物を見つけた・水道局跡?
奈良市水道計量器室
転害門から般若寺へ向かう道にある煉瓦造りの小さな建物。既に屋根がない?
ほぼ廃墟化している。煉瓦造り、 旧奈良市水道計量器室 1920(大正9)年頃、
正面上方に右から「奈良市水道計量器室」という漢字が見えます。
IMG_0160.JPG

転蓋門へ向かう
IMG_0161.JPG
今在家町の佐保川に架かる長さ15mの大きな石橋。
かつての奈良街道の賑わいを示す証人。石橋研究家にも知られていない橋でした。
今在家町の石橋は、慶安3年といいますから、今から353年前の1650年に架けられた記
録が残っています。これは九州の橋を含めても全国20番目ぐらいの古さで、大変貴重な石
橋であるといえます。
東大寺の元禄の復興の時に、木津から荷揚げしたが木材が運ばれましたが、25トン長さ2
5mにもおよぶ巨大な梁や柱が無事佐保川を渡る事ができたのも、この石橋のおかげです。
東大寺とも縁の深い橋です。
京都や伊賀、八幡への玄関口として重要な橋であり、奈良奉行所によって南都で唯一架け
られた橋です。
IMG_0163.JPG
IMG_0162.JPG
転蓋門(解散12:00)
転蓋門(てがいもん)
東大寺の転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10
年)の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像
できる唯一の遺構(国宝)。 転害門は、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書かれた。
寺の西北にあるので「西北大門」、この門が佐保路(一条大路)の起点となっているので「佐保
路門」とも呼ばれている。「転害門」は、宇佐八幡宮が勧請されるときに八幡神がこの門から入
り、みちみち殺生が禁止されたから、又は、手向山八幡宮の「転害会」の渡御がこの門まで行
われるから「転害門」と呼ばれるようになったといわれ、行基が大仏開眼の導師菩提僧正をこ
の門のところで手招きしたから「手掻門」と書いたともいう。また、大仏殿落慶供養に参列した
源頼朝を暗殺するために悪七兵衛景清(平景清)が隠れていたため「景清門」と呼ぶともいう。
IMG_0164.JPG
IMG_0165.JPG
1400年間風雨にさらされた柱
南向きに見事な節々が綺麗に揃っている
IMG_0166.JPG
IMG_0167.JPG
IMG_0168.JPG

昼食は来来亭でラーメンを食べて~近鉄奈良駅~JR奈良駅迄歩いて・・・

nice!(13)  コメント(1)