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4月26日の昼飲み会ハイキング(八幡屋公園)

4月30日          4月26日の昼飲み会ハイキング(八幡屋公園)
                   平成最後の昼飲み会&ハイキング
知人と4名で平成最後の昼飲み会ハイキングへ行き、昼飲み会を12時30分スタート
に設定、昼飲み会には新たに8名が加わり全12名で開催、2時海のカラオケも7名で
盛り上がりました。此の私の万歩計は、12083歩で約7.2km歩いたことに・・・
朝潮橋駅直ぐ 八幡屋公園  10時25分集合   最大1時間25分滞在可能

☆4月26日(金)昼飲み会12:30~14:30 居酒屋甘太郎 会費3000円 12名参加
          2次会のカラオケには7名が参加し大いに盛り上がりました・・・
志都美駅
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八幡屋公園・・・HPより
ユニークな外観のプールと体育館が公園と一体化。広大な芝生広場を囲み、体育館
とプール(冬季はアイススケート)と、身近にスポーツを楽しんでいただける総合公園
です。みどりに囲まれた広大な敷地には、遊具やウォーキングコースに、展望台など
子どもから大人まで遊べるスポットがいっぱいです。どなたでも季節を感じながら楽し
んでいただけます。
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先ず、体育館屋上?展望台に向ます
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排気搭?
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小高い丘の展望台(グリーンヒルズ)
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小高い丘の展望台(グリーンヒルズ)から
芝生広場の木々を挟んでプールの屋根と弁天町の高僧ビルが見える
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まるで円墳2つが繋がってる様だ
隣の小さな円墳?の丘から大きな丘を見上げる
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多目的広場へ降りて
ジンべーサメの滑り台と花壇
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次は
プールだ
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プール正面
エントランス
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朝潮橋駅
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昼飲み会の居酒屋
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2次会のカラオケへ

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4月23日の宝塚市JR福知山線廃線跡散策-2

4月26日         4月23日の宝塚市JR福知山線廃線跡散策-2
                   平成最後の歩こう会  8km
此の日は素晴らしいハイキング日和だったが、参加人数は77名と天候良い割には低調、
ソメイヨシノは終わり八重桜が満開、山々には白いウツギの花が咲き山が微笑んでる様
な風景と渓流が涼しげ、此の日の私の万歩計は、18597歩で約11.1km歩いたことに・・・
コース   JR西宮名塩駅  10時集合
JR西宮名塩駅~旧福知山線廃線跡入り口~新岩~トンネル~天狗岩・百畳岩・千人岩
~トンネル~桜の園(集合写真・昼食・解散)~JR武田尾駅へ
JR大阪駅 宝塚線丹波路快速 篠山口行き 9:20発 西宮名塩駅 9:50着(運賃500円)
志都美駅~新今宮駅~大阪駅へ
西宮名塩駅(受付・スタート)
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旧福知山線廃線跡入り口
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入り口~新岩~トンネル~天狗岩・百畳岩・千人岩~トンネル~桜の園(昼食)
入り口~新岩
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トンネル~天狗岩
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天狗岩~百畳岩
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千人岩~トンネル
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此処までは、
4月23日の宝塚市JR福知山線廃線跡散策-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-26
此処では、続きのトンネル~鉄橋~ の詳細についても掲載します。
トンネル~鉄橋
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桜の園(昼食)へ
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桜の園(昼食)
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JR武田尾駅へ
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武田尾稲荷神社
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駅が見えて来た
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JR武田尾駅
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おまけ
自宅へ戻って
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4月15日の藤原宮跡~おふさ観音~今井町

4月22日         4月15日の藤原宮跡~おふさ観音~今井町
                  5月度歩こう会 例会のコース下見 
此の日は歩こう会の世話人3名で5月度例会のコース下見(おふさ観音から藤原京へ)
へ行って来た、此の日の私の万歩計は、25394歩で約15.2km歩いたことに・・・
コース   大和八木駅集合  9:35~9:46
大和八木駅(集合・スタート)~耳成山~耳成山公園(トイレ)~山之坊山口神社~耳成
駅~八釣山地蔵尊~畝傍坐健土安神社~畝傍都多本神社~藤原宮跡資料室~藤原
宮跡(昼食)~醍醐池~おふさ観音~飛鳥川沿い~今井町・称念寺・春日神社・順明寺
・蓮妙寺・西光寺・河合酒造~八木西口駅
志都美駅
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香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
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近鉄下田駅
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大和八木駅(集合・スタート)・・・スタンプ貰って
耳成山・耳成山公園(トイレ)
耳成山(みみなしやま)
耳成山は、奈良盆地の南部に位置する奈良県橿原市にある山。山の標高は139.6m
だが、山頂にある三角点の標高は139.2mで、天香久山、畝傍山とならんで大和三山
の一つをなし、最も北に位置する。歴史的風土特別保存地区と国の名勝に指定され
ている。この山は第三紀に噴出した火山岩が侵食されてその一部のみが残存した侵
食地形である。瀬戸内火山帯に属する独立峰であり、安山岩より形成される。
天然の山ではなく、古代に造営された上円下方墳との説がある。大和三山が二等辺
三角形をなし、かつその事実が古くより知られていた事、古事記や日本書紀において
古い時代の記述が無く、ようやく日本書紀において允恭天皇の時代以降に記述が見
られる事が根拠として提示される。その規模の大きさから全くのゼロから造営された
古墳でなく、既存の天然山を改造したという説もあり、火山と見られるのに噴火口が
無い事から、噴火口を埋めるなどの造成をした(その際に大和三山の山頂が二等辺
三角形をなすように調整された)とも考えられている(もちろん上述の通り、火山岩が
侵食された侵食地形というのが通説である)。かつては天神山とも呼ばれ天神山城
があったとされる。南麓の池は木原古池遺跡、北西には木原環濠がある。
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木原古池 万葉歌碑
耳成の 池し恨めし 我妹子が
  来つつ潜かば 水は涸れなむ (巻16-3788) 作者未詳
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山之坊山口神社へ向う
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山之坊山口神社
本社は昭和四十二年に創建された神社であり、これを主 張する説は存しない。それを論
社としてあげたのは、耳成山口神社 との関係からである。
本社は、その由緒として山之坊町の氏神は古く耳成山上に奉祀されていたが 徳川の中
期享保年間境界訴訟の結果耳成山が木原町の 領地と定められた当町の宮司佐伯丹後
守が神霊を奉じ て下山、その子孫の宅に奉仕して今日に至る。と登記明細帳に記してを
り、享保と寛延と時代は前後する が、耳成山口神社が目原坐高御魂神社とした場合には、
本来の耳成 山口神社が山の上に移り、本来の目原坐高御魂神社は現在の 山之坊山口
神社に連なる。
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耳成駅~八釣山地蔵尊へ向かう
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八釣山地蔵尊
興福寺(八釣山地蔵尊)(こうふくじ やつりやまじぞうぞん)
585年に、物部守屋(もののべのもりや)が仏法を嫌い、飛鳥の「橘寺」(たちばなでら)に
火を放って焼いたとき、金堂に安置してあった地蔵菩薩が、火から香具山(かぐやま)の
頂上に逃れて行き、それを知った聖徳太子が香具山の山麓に寺を建立して地蔵を祀っ
たと言われています。また、聖徳太子が夢のお告げで御体顕されたいう御夢想の名灸
があり、リュウマチや神経痛などに良く効くそうです。「八釣」の地名は、中世まで「やと
り」と呼んでいたことが文献に残っているとされています。この「やとり」は古代の職業名
の漢織(あやはとり)を簡略したものだという説があります。香久山の南北に「八釣」と呼
ぶ地域があり、朝廷の衣裳を縫っていた人々が住んでいたことがわかっており、この地
域の北を「下八釣」と呼んでいたとのことです。・・・ (「かしはら町名考」より)
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畝傍坐健土安神社(うねおにますたけはにやすじんじゃ)
『日本書紀』神武天皇即位前紀己未年二月二十日の条に「天皇、前年の秋九月を以て、
潜に天香山の埴土を取りて、八十平瓮を造りて、躬自ら斎戒して諸神を祭りたまふ。遂
に区宇を安定むること得たまふ。故、土を取りし処を号けて、埴土と白ふ」という埴安の
地に祀られた土霊が当社であるという。
『大和志』では「今称天照大神」とあり、近世に天照大神社と称していた。
祭神は、伊邪那美が火の神の迦具土命を産んで陰部に火傷を負い、亡くなった。この
時に、尿や糞、嘔吐物から新たな神々を産んだ。その糞から産まれた神が祭神の健土
安比売命である。
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※迦具土命
カグツチとは、記紀神話における火の神。『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎは
やをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのか
み;加具土命)と表記される。また、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほ
むすび)と表記される。

畝傍都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)
祭神は、泣沢女神(なきさわめのかみ)、泣沢という井戸があり、その井戸が御神体として
祀られている。畝尾都多本神社は、「哭澤の神社」(なきさわのもり)とも言います。祭神の
哭澤女神(なきさわめのかみ)は、「古事記」によると国生みの最後の段階で、伊邪那美神
(いざなみのかみ)が火の神である火之迦具土神(ひのかぐちのかみ)を生み亡くなったの
を、父の伊邪那岐神(いざなぎのかみ)が悲しんで泣いた涙から生まれた女神だと言われ
ています。神殿はなく玉垣で囲んだ空井戸をご神体とし、境内には末社の八幡(はちまん)
神社が鎮座しています。
桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、「哭澤の 神社(もり)に神酒据(みわす)ゑ 祈れども
我が大君は 高日(たかひ)知らしぬ」と詠んだと言われる万葉歌碑が境内にあります。
創建は不明だが、『万葉集』巻第二の二〇二に、哭沢の神社に神酒すゑいのれどもわご
玉は高日知らぬ(泣沢神社の女神に神酒を捧げて薨じられた皇子の延命を祈っているの
に、皇子はついに天を治めになってしまわれた。)その左注に、「右一首、類聚歌林に曰は
桧隈女王の泣沢女神を怨むる歌といへり。日本紀を案ふるに云はく、十年丙申(696)の秋
七月辛丑の朔の庚戌、後皇子命薨りましぬといへり」と記されている。これは、持統天皇
十年(696)に、松隈女王が再生の神に神酒を捧げ高市皇子の延命を祈ったのに、蘇るこ
となかったという、泣沢女神を恨む和歌である。この事から畝尾都多本神社は、飛鳥時代
には既に存在していると考えられる。延喜式内社の畝尾都多本神社と比定され、同じく式
内社の畝尾坐健土安神社が隣接して鎮座。奈良時代の正税を収納管理する役所「香山
正倉」の遺構が周辺から発掘されている。明治時代に社殿が再建された。
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境内社に八幡宮
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藤原宮跡資料室
裏庭にて・・・
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藤原宮跡へ向かう
池の土手へ上ると行けの向うに香久山が・・・
藤原宮跡(昼食)
天香久山
天香久山、天香具山(あまのかぐやま、あめのかぐやま)、
天香久山、天香具山、または香久山、香具山(かぐやま)は、奈良県橿原市にある山。畝
傍山、耳成山とともに大和三山と呼ばれる。標高は152.4mと三山の中では標高は2番目
である。他の二山が単独峰であることに比して多武峰から続く竜門山地の端にあたる。
歴史的風土特別保存地区[2]と国の名勝に指定されている。太古の時代には多武峰から
続く山裾の部分にあたり、その後の浸食作用で失われなかった残り部分といわれている。
山というよりは小高い丘の印象であるが、古代から「天」という尊称が付くほど三山のうち
最も神聖視された。天から山が2つに分かれて落ち、1つが伊予国(愛媛県)「天山(あめ
やま)」となり1つが大和国「天加具山」になったと『伊予国風土記』逸文に記されている。
また『阿波国風土記』逸文では「アマノモト(またはアマノリト)山」という大きな山が阿波国
(徳島県)に落ち、それが砕けて大和に降りつき天香具山と呼ばれたと記されている、と
される。藤原京の東にあることにより太陽信仰の地であったともいわれる。現在、山頂か
らは畝傍山を望むことができ、その山頂には國常立命を祭神とする國常立(くにとこたち)
神社があって、2つの小さな祠のうちの1つには高靇神が祀られている。山の北麓には櫛
真智命神(くしまちのみことのかみ)を祭神とする天香山(あまのかぐやま)神社、南麓に
は天照大神の岩戸隠れの伝承地とされる岩穴や巨石を神体とした天岩戸(あまのいわ
と)神社がある。
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藤原宮跡(昼食)
中国の都城にならい、日本で初めて建設された本格的都城。持統8(694)年遷都。平城
京遷都までの16年間、この地で持統、文武、元明の天皇三代が律令国家体制を強力に
押し進めた。藤原京の規模は東西5.3km、南北4.8kmで、その中心部には藤原宮があっ
た。天皇の住まいである内裏や、天皇が儀式や政治を行った大極殿跡が残る。最近の
調査研究によると、平城京や平安京を上回る規模だったとも考えられている。現在、宮
跡には原野が広がり、大極殿跡には基壇が残る。宮跡からは東に天香具山、西に畝傍
山、北に耳成山を望める。
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※藤原京
694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都で、
日本で初めて国家体制が確立された大化の改新(645年)以後、その新しい国家の首
として造営された日本で最初の都市である。
史料には、持統天皇4年(690年)に着工し、4年後に飛鳥浄御原宮から宮を遷した、と
ある。それまで、天皇ごと、あるいは一代の天皇に数度の遷宮が行われていた慣例か
ら3代の天皇に続けて使用された宮となったことは大きな特徴としてあげられる。この
時代は、刑罰規定の律、行政規定の令という日本における古代国家の基本法を、飛
鳥浄御原(あすかきよみはら)令、さらに大宝律令で初めて敷いた重要な時期と重なっ
ている。政治機構の拡充とともに壮麗な都城の建設は、国の内外に律令国家の成立
を宣するために必要だったと考えられ、この宮を中心に据え条坊を備えた最初の宮都
建設となった。
実際の建設は、その後の研究により、すでに676年(天武天皇5年)には開始され(これ
を倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った704年(慶雲元年)とも言
われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわ
たって居住したが、完成から4年後の708年(和銅元年)に元明天皇より遷都の勅が下
り、710年(和銅3年)に平城京に遷都された。その翌年の711年(和銅4年)に、宮が焼
けたとされている(『扶桑略記』、藤原宮焼亡説参照)。
畝傍山
平成17年に名勝指定された大和三山(やまとさんざん)と呼ばれる香具山(かぐやま)・畝
傍山(うねびやま)・耳成山(みみなしやま)のうちの1つです。
標高199.2m。大和三山では一番高い山です。橿原市の中心部に位置します。周囲には、
橿原神宮や神武天皇陵など名所旧跡が点在しています。
瀬戸内火山帯に属する死火山で、噴火時はいまよりも2倍以上大きかったそうです。それ
が長い年月をかけて侵食され、現在のような形になりました。
地質は、花崗岩質の丘陵がのびてきた上に火山が噴出したもので、中腹以上は黒雲母
安山岩からなります。
畝傍山という名前は、田の畝のようにくねくねした尾根を多く持つところからつけられたそ
うです。「古事記」「日本書紀」「万葉集」では、「畝火山」「雲根火山」「宇禰縻夜摩」「慈明
寺山」「御峯山」「瑞山」と記されました。万葉集では、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
が大和三山のことを詠んだ歌があります。
「香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より 斯くにあるらし 古昔も 然に
あれこそ うつせみも 妻をあらそふらしき」

醍醐池  万葉歌碑
 春過ぎて 夏来るらし 白栲の
  衣干したり 天の香具山 (巻1-28) 持統天皇 
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おふさ観音
通称おふさ観音。正式名は高野山真言宗別格本山観音寺。通称名は、江戸時代に地
元の娘「おふさ」さんが、この地で観音様を奉りはじめたのが後にお寺に発展したとい
われています。本尊は十一面観音。大和七福神(信貴山朝護孫子寺、久米寺、長谷寺、
おふさ観音、談山神社、當麻寺中之坊、安倍文殊院)に大神神社が加わり、大和七福
神八宝霊場会を発足。
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※今年の春のバラまつり
開催日時2019年5月15日(水)~2019年6月30日(日)(07:00~16:30 ※開門は17:00迄)
境内を埋め尽くす4,000株、約3,800種類のバラを無料でお楽しみ頂けます。花の女王と
呼ばれる、バラの濃厚な香りと様々な花色が織り成すファンタジックな光景は、華やかな
感動を与えてくれます。また、本堂では寺宝を特別

飛鳥川沿いを今井町へ向かう
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今井町
・称念寺
称念寺は室町時代末期、今井町(重要伝統的建造物群保存地区)の中核となった寺院
です。中世期末の時代から、本願寺の証如上人 蓮如上人の末子実従、さらに顕如上人
らの高僧が投宿されています。また明治10年には明治天皇が投宿したおり、西南の役
の勃発をここ称念寺で知らされたと伝えられています。
このように称念寺は浄土真宗寺院の貴重な遺構であり、歴史上でも重要な役割を果たし
てまいりました。稱念寺は、浄土真宗本願寺派に属し、今井御坊とも南之御堂とも呼ば
れている。現在の今井町は、この寺の境内地を中心として発達した寺内町である。
寺の草創は室町末期の天文年間織田信長が誕生したあたりで、本願寺の一家衆今井
兵部卿豊寿がここに本願寺の道場を建てたのに始まる。
豊寿ならびに二代鶴寿は今井道場を自坊としたが、本願寺の与力や本願寺の支城、我
孫子の城主をも兼ねていた。彼の石山合戦の折、天正三年(1575年)には本願寺の和
議の使者のひとりとして兵部も織田信長の元に赴いている。
今井道場が今井御坊稱念寺となるのは文禄年間(1592~1595年)で富綱のときである。
時は丁度秀吉が朝鮮征伐に赴くそのあたりである。
今井氏は代々兵部と名乗り、織田・豊臣・徳川氏に仕えて武士と僧侶を兼帯し、なかん
ずく秀吉の頃には堺住吉郡の代官や大阪城の普請奉行の要職についている。
しかし延宝七年(1679年)には武士を返上して釈門に帰り、以後は大和の真宗寺院を統
轄していた五カ所御坊、十六大坊の中心寺院として幕末まで中本山的な役割を果たして
いる。明治十年(1877年)二月には明治天皇が二夜三日駐泊された。
明治天皇は、二月十二日熊本城危機の知らせのために大阪道明寺に向かわれ、御一泊
の後堺に向け御進発遊ばされた。西南の戦争の始まりであった。
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・春日神社
奈良県橿原市今井町にある春日神社(かすがじんじゃ)です。
かつては常福寺の鎮守社だったとされますが、明治の廃仏毀釈運動の影響で常福寺は
廃寺になったとされています。
そのため、境内には旧常福寺の仏堂などが残されており、橿原市の文化財に指定され
ています。創建年代は不詳とされますが、明治の廃仏毀釈で廃寺となった天台宗寺院で
ある常福寺の鎮守社だったとされ、常福寺が慶長18年(1613年)の上棟であり、現存す
る当社最古の石燈籠銘に「慶安五壬辰年仲春吉日」とあることから、江戸時代以前には
創建されていたものと推測されているようです。
現在では春日神社のみが残っていますが、境内には山門や神像・仏像などを安置する
各御堂があるため、今でも神仏習合の痕跡を残す神社となっています。
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・順明寺
戦国時代に称念寺を核とする寺内町が形成され、江戸時代にはその形態を残しつつ
商売の町として発展した。現在も江戸時代の町並みが保存され、日本で最大の重要
伝統的建造物群保存地区になっている。
その今井町にあって、称念寺は<南の御堂>と呼ばれ、真北にある順明寺は<北の
御堂>と呼ばれて、今井町を形成している。
順明和尚は1217年、常陸国の稲田にて親鸞聖人の弟子となり、新賀庄に堂宇を建
てたのが順明寺の始まりで、1626年今井町へ移ってきている。
天灯山順明寺:浄土真宗本願寺派。開創:1217年以降。本尊:阿弥陀如来。
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順明寺の表門
順明寺は、旧北町、北尊坊通りの西端にある浄土真宗本願寺派の寺院で、北の御堂
ともよばれています。屋根は降り棟(くだりむね)の付いた切妻造で、千鳥破風(ちどり
はふ)に猪の目懸魚(いのめけぎょ)が付いています。板扉には入八双金具(いりはっ
そうかなぐ)が付き、両開きとなっています。建立年代についての確証はありませんが、
文献によると表門は1638年(寛永15)の建立であることが窺われます。扉以外はすべ
て建立当初の材を残している、貴重な門です。
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・蓮妙寺
(1333)大覚大僧正妙実聖人の開基、創立 現在の本堂は昭和60年の再建。
本尊;三宝(題目宝塔を中心に多宝如来・釈迦如来を祀る) 
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・西光寺
元は天台宗でしたが、(1580頃)誉上人の代に浄土宗に改宗しています。
本尊;阿弥陀如来坐像。本堂は18世紀後半の建築 元は、明治7年に開校の文明舎
その願書が当寺に残っています。境内の鐘楼は(1690)の建立。
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・河合酒造~八木西口駅
今井町・河合酒造
河合酒造は、江戸時代から続く蔵元です。
この蔵元のある橿原市の今井町は、国の“重要伝統的建造物群保存地区”に指定され
ていて、昔ながらの街並みが保存されています。
また、この河合酒造は、その中でも国の重要文化財に指定されているほどの歴史ある
蔵元です。今では毎年造る酒の量も少なくなりましたが、昔ながらの味わいを現在も造
り続けています。
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八木西口駅へ

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4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-2

4月20日       4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-2
                 近鉄駅フリーハイキング 8㎞
此の日は、午前中は知人のK場さんと大和高田駅~約3.5km、長尾迄歩いて木戸池
公園で昼食を済ませて、近鉄ハイキングの尺土駅~の12時~13時30分受付の駅フ
リーハイキングへO村さんと知人3名のパーティーと一緒に参加、6名で歩きました・・・
先ず午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休
憩)~竹内街道・横大路を歩く~長尾・木戸池公園(昼食・トイレ休憩)~長尾神社~
尺土駅へ
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)~長尾神社~綿弓塚~中将堂で中将餅とお茶
を~相撲館・けはや座前~首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見える
ビューポイント)~石光寺~中将姫墓塔~當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
東大門~当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅
へ私だけ先に帰らせて貰った。

午前中のハイキング・・・尺土駅へ行くのが目的
大和高田駅10時集合・スタート~高田橋~高田川沿い桜並木~大中公園(トイレ休憩)
~竹内街道・横大路を歩く~長尾へ
竹内街道・横大路(大道)
春分と秋分の日、太陽は三輪山から昇り、二上山を超えて大阪湾に沈む。このこと
から、推古天皇21年(613年)に東西の直線で敷設された幅20mを越える大道(竹内
街道・横大路)は、太陽の道と言われる。
古代には、大陸からの使節団が難波宮から飛鳥京を訪れ、先進技術や仏教文化を
伝えた。中世には経済都市を結び、近世には伊勢参りの宿場町としての賑わいを見
せ、場所ごとに様々な表情を浮かべる。1400年の歴史の移り変わりを周辺の歴史遺
産を通して感じさせる日本最古の国道。それが竹内街道・横大路(大道)なのである。

葛城市 市場の三ツ池
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木戸池公園(昼食・トイレ休憩)
このため池が出来たのは、江戸時代。200年以上にわたって田畑をうるおしてきたが、
最近になって池の水がよごれてきて、「人が近づけない池」と呼ばれる様になった。
子供の為の遊具も有り、桜の花も綺麗・・・
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木戸池公園の遊具
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池のほとりの東屋(昼食場所)
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近所の子供連れが鯉にエサを・・・
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二上山も見える
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桜の花びら
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公園の小高い丘からの眺め
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丘の上の桜
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スミレの花
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長尾神社~尺土駅へ
長尾神社(ながおじんじゃ)・・・午後のハイキングコースになってるが事前に
長尾神社は、奈良県葛城市に鎮座する葛下郡の総社。旧大和国葛下郡の式内大
社で、旧社格は郷社。
長尾の森の広大な神域に鎮座し、『延喜式神名帳』に「葛下郡長尾神社、大、月次、新
嘗」と記されている式内の古社。このあたりを支配していた長尾氏の氏神とされるが定
かでない。また吉野連との関係があるとされる。『日本三代実録』に、「貞観元年己卯
(875年)正月二十七 日大和国従五位下、長尾神社従五位上」とあり、9世紀にはこの
地に鎮座していた。社伝によると、寛平9年(897年)より弘安4年(1281年)までの間に
九階進昇。弘安4年には正二位、江戸時代には正一位にまで昇進した。『放光寺古今
縁起』(1302年)や『大和志』(1736年)によると祭神は伊勢の神宮の内宮及び外宮の
大神天照大神、豊受大神である。伊勢の神宮の真西に鎮座していることから、古くから
人々の篤い信仰を得た神社であった。また住吉・熱田・諏訪の神々も祀られている。江
戸期の文献では水光姫命、白雲別命も祀られたとある。また『放光寺古今縁起』には
「長尾神社は葛下郡全体の総社である天武天皇が壬申の乱(672年)で勝利した後に
感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた」と記されている。
鎮座地は竹内街道、長尾街道、横大路が交差する交通の要衝であり、古来より交通安
全、旅行安全の神として篤く信仰されている。参道は拝殿に向かって東西に長く伸びて
おり一の鳥居は近年新たに竣工した。 二の鳥居の両脇には「なで蛙」が配されて、参
拝者を見守っており、安産祈願の神としても名高い。 また水光姫命は古事記や日本書
紀に体が光って尾が生じていたと記されており、神様の化身が白蛇であると言われると
ころから蛇の頭が大神神社で尾が長尾神社という伝承がある。
又、桜井の大神神社(三輪明神)を龍の頭、高田の石園座多久虫玉神社(竜王宮)を龍
の胴、葛城の長尾神社を龍の尾とする伝承もあるようです。
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午後からのハイキングへ向けて尺土駅で受付
午後からのハイキング・・・中将餅を食べてPM4時から當麻寺のお練りを見に行く
尺土駅(12:00~13:30受付・スタート)
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長尾神社
大鳥居の前に狛犬ならぬなで蛙が鎮座
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長尾神社を出て
竹内街道を歩く、長尾街道への分岐点
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竹内街道を綿弓塚へ向かう
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綿弓塚休憩所(松尾芭蕉 ゆかりの地)
綿弓塚は、「野ざらし紀行」で松尾芭蕉が門人千里をつれて、千里の旧里竹内に
宿ったときに詠んだ句を記念し文化年間に建てられた句碑が「綿弓塚」として残っ
ています。いまは休憩所「綿弓広場」として整備されています。

  「 綿弓や 琵琶になぐさむ 竹の奥      松尾芭蕉 」
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此処までは、
4月14日の歴史ある當麻の里を巡り練供養へ-1 として
          下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
        https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-20
此処では、続きの午後からの楽しみ、中将餅屋へ向う~ の詳細を掲載します。
中将餅屋へ向う
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中将堂で
中将餅とお茶のセットを頂き休憩して出発
相撲館・けはや座前
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思わず撮った
トイレの張り紙(注意事項)
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葛城市相撲館横
當麻蹶速塚(たいまのけはやづか)
相撲の始祖として知られる當麻蹶速(たいまのけはや)の塚と伝えられている五輪塔
です。垂仁天皇(すいにんてんのう)の時代に當麻蹶速と野見宿禰(のみのすくね)と
が力比べをし、これが日本で最初の天覧相撲と伝えられています。
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石光寺へ向かう
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首子塚
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首子塚・史跡首子古墳群(當麻寺の東塔と西塔が見えるビュー点)
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史跡首子古墳群
古くから「首子七塚」として知られている。現在、現地で確認できるのは4基。
首子4・5号墳の前に説明板がある。残っているこの4基も削平や改変がかなり
されている。1・4・5・8号墳が県指定史跡となっている。
説明板から
昭和28・51・52年の調査で帆立貝形前方後円墳1基・円墳6基・方墳3基 計10基
が確認されている。
多くの古墳は横穴式石室で内部に組合式石棺が納められていた。
副葬品には、刀、装身具、須恵器などがある。
5号墳 首子塚ともよばれ、埋葬部は未確認だが、木棺を直葬したものと考えられ
ている。墳丘部には円筒埴輪があった。
1号墳 櫟山古墳、
2号墳の墳丘は削平されていたが、丘尾を切断する形で溝が半円形にめぐり、溝内
から多数の円筒埴輪・家形埴輪・須恵器が出土
3・4号墳は方墳で、3号墳では、木棺直葬。4号墳は竪穴式石室
5号墳は群中最大で、帆立貝式前方後円墳で円筒埴輪がある。
7号墳は未調査だが一辺18mの方墳
8号墳は径25mの円墳で、横穴式石室の中に凝灰岩製の石棺の底石が残っていた。              この石室は中世に再利用されている。
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石光寺へ向かう
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石光寺(せっこうじ)
天智天皇の勅願によって創建された。
石光寺は、奈良県葛城市にある浄土宗の寺院である。山号は慈雲山。本尊は阿弥陀
如来。出土遺物等から飛鳥時代後期(白鳳期)の創建とみられる古寺で、中将姫伝説
ゆかりの寺院である。境内には中将姫が蓮糸曼荼羅を織成する際に蓮糸を染めたと
いう井戸「染めの井」と、糸を干したという「糸掛桜」があり、「染寺」と通称されている。
観光的にはボタンの寺として知られ、境内にはボタン、シャクヤク、アジサイ、サクラ、
サルスベリなどが植えられている。関西花の寺二十五霊場20番札所である。
役小角の開山と伝えられる。『元亨釈書』等に記載される縁起によれば、天智天皇(在
位668〜671年)の時代、霊光を放つ大石が見つかり、天皇の勅命を受けてこの石に
弥勒如来を彫らせ、堂宇を建立したのが始まりとされる。1991年(平成3年)には弥勒
堂改築に伴う発掘調査の結果、飛鳥時代後期(白鳳期)の石造如来坐像、瓦、塼仏が
出土した。この時の発掘調査で、平面五間x四間の堂跡が検出され、前述の石仏はこ
の堂に安置されていたものとみられる。また、境内に飛鳥時代後期といわれる塔の心
礎がある。
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流石!花のお寺
ミツマタ
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マンサク
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ツバキ
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ボタン
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マンサクIMG_7289.JPG
??
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ハナズオウ
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お堂の下を潜って
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マンサク
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シャクナゲ
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ヤマブキ
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ボタン
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ボタン
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石光寺を後に
中将姫墓塔~當麻寺へ向かう、又、雨が降って本降りに・・・
※中将姫墓塔・・・當麻北共同墓地内にあります。
花崗岩で造られた十三重塔で、高さ・285cm。初重の四方仏は、軸部に縁をとった
中に舟形を造って、そこに厚肉に彫出。屋根は軒反りが強く、鎌倉時代末期の様式
です。横に建つ石造三重塔は平安時代後期の作で、高さ・156cmです

當麻寺・黒門・本堂前(5名と此処で別れて)
當麻寺・黒門
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当麻寺・本堂前
未だ1時間以上待たないと始まらない
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當麻寺
當麻寺は、古代大和の“西方”に位置し、白鳳・天平様式の大伽藍を有する古刹。金堂
の弥勒仏や四天王、梵鐘などの白鳳美術を今に伝えるほか、古代の三重塔が東西一
対で残る全国唯一の寺としても知られています。
本尊として祀られる「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」は、奈良時代、藤原家の郎女・中
将姫さまが写経の功徳によって目の当たりにした極楽浄土の光景を壮大な規模で表し
たもので、中将姫さまを常に守護し、導いた守り本尊「導き観音さま」とともに今も多くの
人々のよりどころになっています。
推古天皇20年(612)、用明天皇の第3皇子である麻呂古(麻呂子・まろこ)という親王さ
まが、兄である聖徳太子さまの教えによって「万法蔵院(まんぽうぞういん)」を建立した
のがはじまりとされています。いくつか異説がありますが、現在、大阪府太子町に「万法
蔵院跡」と伝承される場所があります。万法蔵院のご本尊は弥勒さまとする史料と、救
世観音さまとする史料があります。
さて、親王さまはある時、万法蔵院を二上山の東麓に移すようにという夢を見られたそう
です。二上山は大和では落陽を象徴する山ですから、山の東側こそ祈りの地として相応
しいということだったのでしょう。しかし、壬申の乱の混乱で寺の遷造は遅れ、親王の存
命中には実現せず、その夢を実現したのは親王の孫に当たる当麻国見でした。
二上山の東麓は当時、役行者さまの私領でした。役行者さまは大和の修験者ですが、
その最初の修行地が當麻だったのです。万法蔵院の遷造に際し、行者さまはその領地
を寄進し、天武天皇10年(白鳳9年・681)、金堂にご本尊として弥勒仏さまがお祀りされ、
現在の當麻寺がはじまったのです。
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此れ以上居たら風邪をひいてしまう
東大門へ~東大門を出て当麻寺駅へ私だけ先に帰らせて貰った。
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当麻寺駅 → 橿原神宮前駅 → 大和八木駅 → 五位堂駅 経由でバスで帰った。

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4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-2

4月19日         4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-2
                歴史探訪の会 特別企画 歩程約6Km
此の日は、朝は冷たい雨が少し降ったが、宇治市観光ボランティアガイド2名と参加者13名
がスタートする頃は雨もやんでいたがスタート直後に又も雨、源氏物語ミュージアムで雨宿
り後、斎スタートし世界遺産に登録の宇治上神社~宇治神社~宇治十帖へ・・・
此の日の私の万歩計は、17466歩で約10.4kmあるいた事に・・・
コース   京阪宇治駅 10時集合 
京阪宇治駅(受付・スタート)~源氏物語ミュージアム~宇治上神社~宇治神社~与謝野晶
子歌碑~宇治十帖~恵心院~宇治発電所~興聖寺~中之島公園(昼食・集合写真)~十
三重の石搭~平等院~香りの道~宇治橋(解散)~JR宇治駅又は京阪宇治駅へ
京阪宇治駅(受付・スタート)
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源氏物語ミュージアム~宇治上神社
※源氏物語ミュージアム・・・宇治市観光HPより
平成10年に開館した、源氏物語ミュージアムでは、模型や映像により光源氏や「宇治十帖」
の世界を分かりやすく紹介するほか、テーマごとに分かれた展示ゾーンは、当時の面影、
文化と伝えるとともに、源氏物語の魅力を様々な映像で紹介しています。3000冊以上もの
蔵書をとりそろえ、見るだけではなく、実際に文章を読んで楽しむこともできます。
定期的に講座が開かれ、源氏物語・平安時代をより深く学んでもらうための取組もなされて
います。
千年の時を超えて、いまだなお愛され続ける源氏物語。現代にも普遍ともいえる、男女の愛
憎劇。当時のきらびやかな世界に思いを馳せながら、源氏物語の魅力に是非触れてみてく
ださい。

宇治上神社へ向う
※与謝野晶子歌碑
与謝野晶子の没後50年と宇治市制40周年にあたる平成4年10月、「みだれ髪の会」によっ
て歌碑が建てられました。
晶子は、幼い頃から古典文学に親しみ、紫式部を終生の師と仰ぎ、「源氏物語」の現代語
訳に力を注ぎました。
昭和13年(1938年)61歳のときに、「新新訳源氏物語」全6巻を完成させ、それに加え源氏
物語五十四帖を五十四首の歌で再編成した「源氏物語礼讃」を著しました。
「さわらびの道」の歌碑には、そのうちの宇治十帖の「橋姫」から「夢浮橋」までの十首が
晶子の真筆で刻まれています。
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宇治上神社(うじがみじんじゃ/うじかみじんじゃ)
宇治上神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は村社。隣接す
る宇治神社とは対をなす。世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登
録されている。
祭神は次の3柱。
左殿:菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古
事記』では「宇遅之和紀郎子」と表記される。応神天皇皇子。天皇に寵愛され皇太子に
立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと
いう美談で知られる。
中殿:応神天皇 第15代天皇。菟道稚郎子命の父。
右殿:仁徳天皇 第16代天皇。菟道稚郎子命の異母兄。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち1座に比
定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かないものの、
もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とする諸説があ
る。創建年代などの起源は明らかではない。宇治上神社のすぐ近くには宇治神社がある
が、宇治上神社とは二社一体の存在であった。宇治上神社の境内は『山城国風土記』に
見える菟道稚郎子の離宮「桐原日桁宮」の旧跡であると伝え、両社旧称の「離宮明神」も
それに因むといわれる。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の
記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される。なお、宇治上
神社の本殿は本来左右2棟であるとして、「宇治神社二座」は宇治上神社のみを指すと
いう説もある。神名帳の「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があった
ことを意味する。近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治上神社は「上社」・「本宮」、宇治神社は「下社」・「若宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。明治に入って宇治上神社とは
分離し、近代社格制度では村社に列した。
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宇治神社(うじじんじゃ)
宇治神社は、京都府宇治市宇治山田にある神社。式内社で、旧社格は府社。隣接す
る宇治上神社とは対をなす。
祭神は次の1柱。
菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと) 『日本書紀』では「菟道稚郎子」、『古事記』
では「宇遅之和紀郎子」と表記される。第15代応神天皇の皇子。天皇に寵愛され皇太子
に立てられたものの、異母兄の大鷦鷯尊(のちの仁徳天皇)に皇位を譲るべく自殺したと
いう美談で知られる。本殿には、菟道稚郎子像と伝える神像(国の重要文化財)が祀られ
ている。延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳で「宇治神社二座」と見える2座のうち
1座に比定される。この「二座」を祭神と見た場合、菟道稚郎子を1座とすることは動かな
いものの、もう1座については父の応神天皇・異母兄の仁徳天皇・母の矢河枝比売とす
る諸説がある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国宇治郡に「宇治神社二座 鍬靫」の
記載があるが、その2座はそれぞれ宇治神社・宇治上神社に比定される[1]。神名帳の
「鍬靫」の記載は、祈年祭の際に朝廷から鍬・靫の奉献があったことを意味する。のちに
近くに平等院ができると、両社はその鎮守社とされたという。
明治以前は宇治神社は「下社」・「若宮」、宇治上神社は「上社」・「本宮」と呼ばれたほか、
両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮)」と総称された。
明治に入って宇治上神社とは分離し、明治44年(1911年)府社に昇格した。
2018年(平成30年)台風第21号で大鳥居が土台部分から折れ倒壊する被害に遭った。
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大鳥居が無いと寂しい?
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宇治十帖モニュメント
古跡ではないが、宇治十帖古跡全体を象徴するモニュメントで、ヒロイン「浮舟」と
「匂宮」が小舟で宇治川に漕ぎ出す場面をモチーフとしている。宇治神社の前、朝
霧橋東詰にある。
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朝霧橋東詰
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恵心院(えしんいん)
恵心院は、京都府宇治市にある真言宗智山派の寺院。山号を朝日山と称する。宇治
川宇治橋の上流に位置する。本尊は十一面観音、開基は空海(弘法大師)である。
弘法大師によって開山され、唐の青龍寺に似ているため、龍泉寺と名付けられた。寺
伝によれば、寛弘2年(1005)、恵心僧都源信により再興されたが、中世には兵火によ
り衰退した。
恵心院本堂は、秋篠兵庫により、延宝四年(1676)に建立。建物は、須弥壇室と護摩
壇室とが左右非対称で建てられた和様仏堂である。多くの改造がなされている。
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花筏(はないかだ)・・・葉の真ん中に小さな花が咲く珍しい花だがぶれて見えない
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※恵心僧都源信
浄土真宗七高僧の第6祖源信和尚。源信和尚は、942年に奈良でお生まれになり9歳
で出家、比叡山にのぼられました。その後比叡山横川の恵心院に住んで学問されまし
た。源信和尚が、恵心僧都(えしんそうず)と呼ばれる所以です。
幼少のころからのすぐれた才能で多くの逸話がありますが、特に15歳のときその才智
ゆえ帝から賞をもらったときの話は有名です。
賞に喜んだ源信僧都は、それを郷里の母親に送りました。しかし、母はそれを受け取ら
ずに「後の世を導く僧とたのみしに、世渡る僧となるぞ悲しき」と賞に浮かれている源信
僧都を戒められたということです。
源信僧都は、そのことがあってから名利を離れ、一層仏道精進されたそうです。
その後、源信僧都は母の死とあい、より浄土願生に目覚められ『往生要集(おうじょうよ
うしゅう)』3巻を著述されました。そして、76歳横川で亡くなられました。
『往生要集』は、広く諸経論から往生極楽の要文を集めたものですが、その釈尊一代の
仏教の中から、往生への道は念仏しかないと、特に念仏門を開いていかれました。
そして、安養(浄土)に往生して仏の悟りをひらく浄土の教えに帰依して、一切の人々に
それを勧められたのでした。

花の多い恵心院
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宇治発電所の放水流
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※宇治発電所
大正初期に全長約11kmの導水路とともに建設された、国内最大規模の発電量を誇
る電力飛躍時代の水路式水力発電施設である。
銀座に我が国で初めての電灯がともされたのは明治15(1882)年。そして20年には東
京電燈が日本橋茅場町に石炭を燃料とする火力発電所(出力25kw)を建設している。
これからもわかるように出力も少なく送電技術も未熟な当時にあっては、需要地に近い
ところに火力発電所を建設するのがふつうであり、水力発電は補助的な手段と思われ
ていた。しかし、石炭の高騰などにより水力発電が次第に注目され、24年には琵琶湖
疏水を利用した蹴上発電所が運用を開始し、我が国初の営業用水力発電所として周
辺の工場に電力を供給している。その後、電力需要の増大に伴って、次第に山間部
に大規模的な水力発電所が計画されるようになっていった。
琵琶湖から流れ出す唯一の河川である瀬田川は、瀬田の唐橋から鹿跳橋付近の急
流を経て曽束を過ぎたあたりから宇治川と名を変えるが、琵琶湖から宇治までの間の
落差は70m。その豊富な水量と水位差を利用して電力を得ようとする動きは早くから
あった。27年に京都の有志が発起人となって発電用水路の掘削を出願、水路工事は
明治41(1908)年に12月に着手した。
工事に並行して仮設の水力発電所を建設し(一部は京都電燈から供 給)、43年11月
からは坑内の照明は電灯に変わり、工事用電話も敷設された。4年にわたる水路工事
においては不慮の事故もあった。こうしてできあがった水路トンネルは2.2万kwの発電
を可能にした。
宇治発電所の電力は宇治市内に電灯をともし、京阪電車を動かし、ユニチカなど多く
の工場を誘致して、宇治市の近代化と発展に寄与し続けた。

興聖寺(こうしょうじ)
興聖寺は京都府宇治市にある曹洞宗の寺院。日本曹洞宗最初の寺院である。道元が
興聖宝林寺を建立したことにはじまる。断絶のあと、慶安元年(1648年)永井尚政によ
って再興された。山号は仏徳山(ぶっとくさん)。本尊は釈迦三尊。参道は「琴坂」と称し、
宇治十二景の1つに数えられている。
道元は宋から安貞元年(1227年)に帰国、しばらく建仁寺に身を寄せた後、同寺を去っ
て深草(現在の京都市伏見区深草)の安養院に閑居した。寛喜元年(1229年)頃のこと
とされる。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の
京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されている。天福元年(1233年)、
道元は深草に興聖寺を開創する。『永平広録』によれば嘉禎2年(1236年)に開堂式が
行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号した。なお、その前年の嘉禎元年(1235年)の
「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏
堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていた。
建築史家の太田博太郎は、この時点(嘉禎元年)からわずか1年足らずの嘉禎2年に伽
藍が完成していたとは考えられないとしている。
興聖寺は、比叡山延暦寺の弾圧を受け、寛元元年(1243年)、道元が越前に下向して
以降荒廃し、住持4代で廃絶した。その後慶安2年(1649年)、淀城主の永井尚政が万
安英種を招聘して5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に復興したのが今ある興聖
寺である。
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参道
宇治川右岸に面した総門より本堂に通じるまでの200m程の緩やかな勾配参道は、
「琴坂」と呼ばれている。
琴坂の参道沿いに流れる湧き水は、本堂脇の貯水槽に一旦貯められた朝日山の山水
が流れており、その水の流れがあたかも琴の音色に聞こえ、長い参道が琴の形状に似
ていることから、今日まで琴坂と呼ばれるようになった。
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此処までは、
4月11日の宇治の世界遺産や史跡巡り-1 として
        下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
       https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-19
此処では、続きの興聖寺の門前へ出て~ の詳細についてを掲載します。
門前へ出て
茶筅塚、茶筅を燃やして供養する穴も・・・
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平等院へ向かう
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宇治発電所の放水流に架る
観流橋を渡り朝霧橋へ向かう
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朝霧橋から
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中之島公園(橘島と搭の島)・・・昼食・集合写真
橘島
先陣の碑
「宇治川先陣之碑」は、宇治川の中州の橘島に建っています。
先陣を遂げるとは、味方の先頭に立って敵陣へ突き進むことをいいます。武士にとって
戦場での功名が出世を約束する時代、恩賞の対象となるのは先陣を勤めるか、名ある
敵将の首を取って手柄を立てることでした。主人の側からいうと家臣の功名心をあおり
たて、互いに競わせるように仕向けるのが勝利のための策です。
「宇治川先陣之碑」昭和6年(1931年)に建てられたものであるが、実際には現在の宇
治橋よりもさらに下流であった出来事であるとされている。
寿永3年(1184年)1月に起こった宇治川の戦いは、木曽義仲と源頼朝という源氏同士
の戦いであった。この戦いの約半年前の7月に大挙して上洛した木曽義仲であるが、後
白河法皇との不和などから信望を失い、この時点で付き従う者は1000騎余りとなってい
た。一方、源頼朝は法皇の命を受けて、木曽軍追討のために範頼・義経の2人の弟に
数万の大軍を預けて京へ上っていた。結局、宇治川の合戦は木曽側400に対して義経
率いる25000の兵という、圧倒的な兵力差となったのである。
この合戦の白眉は、義経側の先陣争いであった。流れが急な宇治川を競って渡ったの
は、池月に乗った佐々木高綱と磨墨に乗った梶原景季の両名である。池月・磨墨とも頼
朝秘蔵の名馬であったが、先に池月を所望した景季に対して頼朝は代わりに磨墨を与
え、後から所望した高綱に池月を与えた。さらに上洛の途上、高綱が池月に騎乗してい
るのを見た景季は憤激するが、高綱の「盗んできた」との嘘の言い訳を受け入れていた。
両者とも先陣の功名を得ようと必死になるだけの理由があった。
先に進み出たのは景季である。負けじと高綱が追いすがる。ここで高綱「馬の腹帯が緩
んでおるぞ」と景季に声を掛けた。慌てて腹帯を確かめる景季を尻目に、高綱の乗る池
月は宇治川に入っていく。そして池月は急流をものともせず、高綱も川底に仕掛けられ
た大綱を太刀で切り裂き、とうとう川を渡りきって先陣の名乗りを上げたのである。
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搭の島へ
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搭の島
十三重の石搭(じゅうさんじゅうせきとう)
十三重石塔は、宇治市宇治塔川(京都府立宇治公園塔の島)にあって「浮島」「浮舟
ノ島」などと呼ばれてきた人工島の一つである「塔の島」に所在する石塔である。「十
三重石塔」とは、「石造りで十三重構造の層塔」もしくは「石造りで十三層構造の塔婆」
を意味する。アジア各地に同様の塔が数多く存在し、日本国内だけでもかなりの数に
上るため、他の同種の石塔と区別して浮島十三重石塔(うきしま じゅうさんじゅうせき
とう)ともいう。塔高15.2メートルの石造・十三重の層塔で、石塔婆(石造供養塔)。
1953年(昭和28年)3月31日、国の重要文化財に指定された(指定名称:浮島十三重
塔)。2003年(平成15年)3月14日に塔内納置品が京都府指定有形文化財となった。
浮島十三重石塔は、現存する近世以前の石塔としては日本最大(塔高15.2m)である。
なお、観光案内などで浮島十三重石塔を「日本最古の石塔」とするものがあるが、これ
は事実ではない。石造の層塔では、奈良時代前期の石塔寺三重塔(伝・阿育王塔。滋
賀県東近江市石塔町所在)が日本最古である。石造の十三重層塔としては、奈良市
長谷町の塔の森十三重石塔(奈良時代後期)が、破損は甚だしいが現存する。
勝宝山西大寺(南都西大寺)の再興などで知られる僧・叡尊は、鎌倉時代後期にあた
る弘安7年(1284年)、宇治橋の大掛かりな修造を手がけたが、橋が完成する弘安9
年(1286年)に合わせて、宇治川の川中島として大橋の南方に舟を模した形の人工
島を築き、放生会を修する祈祷道場とした。そして、宇治川で漁撈される魚霊の供養
と橋の安全の祈念を旨に、同年11月19日(ユリウス暦換算:1286年12月6日)、島の
中央に大塔婆を造立した。
大塔の建っていた島は、頻発する宇治川の氾濫にもよく耐え、激流に浚われること
がなかった為、いつの頃からか島を指して「浮島」「浮舟ノ島」などと呼ぶようなった。
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鵜の小屋
海鵜のウッティー達の小屋
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喜撰橋
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あじろぎの道
平等院へ向かう
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平等院・鳳凰堂
平等院(びょうどういん)は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。平安時代後期
11世紀の建築、仏像、絵画、庭園等を今日に伝え、「古都京都の文化財」として世界遺
産に登録されている。
山号を朝日山と称する。宗派は17世紀以来天台宗と浄土宗を兼ね、現在は特定の宗
派に属さない単立の仏教寺院となっている。本尊は阿弥陀如来、開基は藤原頼通、開
山は明尊である。琵琶湖国定公園エリア内に位置している。
京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から
貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルとも
いわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇
の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったも
のである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(10
52年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小
野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の
北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)に
は、西方極楽浄土をこの世に出現させたかのような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立さ
れた。
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鳳翔館見学・・・中は撮影禁止
平等院ミュージアム鳳翔館とは
平等院ミュージアム鳳翔館は平等院の敷地内にある博物館である。2001年3月1日
に開館し、宗教法人としては初となる総合登録博物館となっている。世界遺産である
平等院の景観に配慮し、施設の大半が地下に埋められていることが特徴である。10
円硬貨にもデザインされている平等院の鳳凰堂の建築要素を現代的に表現した建
物は周囲の景観に見事に溶け込んでいる。
平等院ミュージアム鳳翔館では国宝に指定されている梵鐘や重要文化財に指定され
ている十一面観音立像、宇治市指定文化財に指定されている帝釈天像、地蔵菩薩像
などが展示されている他、平安時代(794年–1185年)の鬼瓦などの発掘出土品も多く
展示されている。 また、最新のデジタル技術を用いたCG映像で、かつての平等院
鳳凰堂内の彩色復元映像も見ることができ、平等院の歴史と価値を知る事が出来る。
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見学を終えて
平等院鳳凰堂を後ろから見る
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扇の芝
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平等院を出て~香りの道
香りの道
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紫式部像
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宇治橋(解散)
宇治橋の南側の欄干上流に面して「三の間」といわれる張出は、のちの信長や秀吉時代、
ここから宇治川の水を汲みあげ茶をたてたといわれています。
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4月9日のマキノ駅~海津大崎&清水の桜見物-2

4月15日       4月9日のマキノ駅~海津大崎&清水の桜見物-2
                   歩こう会特別企画 (距離約9㎞)
此の日は朝から少し肌寒い日となったが歩きながらの桜見物には丁度良かったかも・・・・
此の日の私の万歩計は、21731歩で約13km歩いたことに・・・
コース     マキノ駅前に11時 受付・スタート
マキノ駅~湖のテラス~大崎並木口~桜並木散策~海津大崎湖岸園地(昼食・集合写真)
~桜並木散策~大崎寺(奈良時代 泰澄開基・大崎観音)~U ターン~海津~清水(しょう
ず)の桜(水上勉の小説“桜守”)~海津天神社~マキノ駅(解散 2:30頃) 2:50に電車有り
マキノ駅前スタート
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湖のテラス
高木浜水泳場・キャンプ場は、昭和51年(1976)にマキノ浜野営場が完成、平成3年(1991)
のリニューアルオープン、翌4年には琵琶湖の感謝と湖の永久の清らかさを祈るシンボルと
して「湖のテラス」が完成し、水泳場・オートキャンプ場として親しまれています。
マキノサニービーチの玄関口、湖のテラス。雄大で澄んだ水をたたえる琵琶湖を眼下に一
望できる展望台があり、此れが「湖のテラス」です。
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※海津浜の石積
海津は古くから、今津、塩津とともに、湖北三港の一つとして栄え、今も旧街道の面影を残し
ている。湖岸には宿駅や船便の関係で石垣を積んで波除けにし、人家、問屋、宿屋などが
建ち並ぶ街並みを形づくっていた。今も残るこの石積みは嵐のたびに何度も改修されたよう
だが、改修にあたっての石代は藩主である加賀藩等が負担するものの、施工は村人による
自普請とする旨の古文書が残っており、往事の村人の労苦がしのばれる石積みである。
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海津大崎の桜
春、著名な画家が思わず描く筆をとめた、という逸話が残るほど美しく豪華な「ソメイヨシノ」は
樹齢80年を越えており、4月中旬には約800本が咲き誇り、延々4kmにわたって爛々たる風
情を造り出します。海津ならではの湖岸から望む景色も人気があります。近畿圏では桜の遅
咲きの名所として毎年多くの花見客で賑わいます。
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大崎並木口
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桜並木散策
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海津大崎湖岸園地(昼食・集合写真)
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桜並木散策
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此処までは、
4月9日のマキノ駅~海津大崎&清水の桜見物-1 として
             下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
           https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-15
此処では、続きの桜並木散策の途中~ の詳細を掲載します。
桜並木散策の途中から
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海津大崎
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大崎寺へ
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大崎寺(奈良時代 泰澄開基・大崎観音)
大崎寺縁起
真言宗智山派石立山大崎寺宝光院といい、本尊は泰澄大師の作と伝えられる千手観音で
ある。元は奈良の興福寺の末寺で僧坊三十九院を有する大寺院であったが鎌倉時代以降
荒廃していた。1536年法印が中興しそれ以来真言宗となった。豊臣秀吉が諸国仏閣復興
のとき、安土城の残材を用いて修復を行った際、血痕の残る天井板を使用した事から「安土
の血天井」として知られている。その後本堂は改築され、使われていた用材は昭和41年(19
66年)、阿弥陀堂の改築の際、阿弥陀堂の天井に使われた。また阿弥陀堂の本尊の阿弥陀
如来像は聖徳太子の作と云われている。
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大崎寺から下る
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U ターン~桜並木散策
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海津~清水(しょうず)の桜へ向かう
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清水(しょうず)の桜
海津大崎並木口から北へ約1km、海津の墓地の中に1本の老樹「清水(しょうず)の桜」
があります。樹種はアズマヒガンザクラ。樹齢300年以上といわれ、水上勉の小説「桜守」
の中でも賞賛されています。加賀藩前田候が上洛の折、何度もこの桜を愛でたことから
「見返りの桜」とも呼ばれています。海津大崎の桜より少し早く満開見頃を迎えます。
「清水の桜」は、アズマヒガンザクラと呼ばれる種類の桜で、高さ16m、幹の周囲6.4m
の滋賀県自然記念物にも指定されている県下最大級の桜です。
この桜がこの地に根付いたころ、桜の前には北国北陸からの物資を京や大阪に運ぶ
「七里半越」と呼ばれる山越えの道が通っており、数多くの荷駄や人々が海津から追坂
峠道を通って、敦賀津へ出るこの七里半越で目的地へ向かっていったと思われます。
のちにこの桜が成長するにつれ海津の街も姿を変え、当時の隆盛を偲ぶ物も減ってい
きましたが、この桜は人々の暮らしと海津の街の変化を見守りながら、現在でも四月の
上旬にはその美しい姿で私たちを楽しませてくれます。
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※海津天神社
開基は明らかではありませんが、平安時代末期に現在の海津上尾山(かいづかみおや
ま)の地に勧請したのが始まりといわれています。徳川将軍家や加賀藩主前田氏の保
護を受けて栄えました。折り重なる老松や杉の陰に、天神社を中心として大小10棟の社
が、荘厳なたたずまいを見せています。
祭神は、本殿が菅原道真、大鍬(おおくわ)神社が大己貴命(おおなむちのみこと)、小
野神社が天押足彦命(あまのおしたちひこのみこと)です。そのほかに、貴船社・愛后
(あたご)社・恵比須社など数社の社殿が立ち並んでいます。社宝として、平安時代末期
の法華経8巻に開経・結経を合わせた10巻や、徳川3代将軍家光の朱印状、狩野山楽
筆の板絵著色絵馬など、優れた文化財が数多く保存されています。これらは、10月10日
に一般公開されます。また、毎年4月29日には「海津力士祭」が行われます。

マキノ駅

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4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-2

4月10日      4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-2    
              4月7日の近鉄ハイキング 又兵衛桜
此の日は、知人と二人で参加、前回の此の辺りのハイキングで、行ってみたい神社が2社
有り、今回は此の2社(平尾の水分神社と野依の白山神社)も訪ねようと意気込んでたが、
野依白山神社は行けず、此の日の私の万歩計は、29730歩で約17.8km歩いたことに・・・
コース     榛原駅南出口階段下受付 9時半~11時
榛原駅(受付・スタート)~宇陀川沿いの桜・猟路の桜~水分神社~宇陀アニマルパーク
(昼食)~宇陀松山地区・黒門・寺社~天益寺~阿紀神社秋~又兵衛桜~柿本人丸像~
大願寺~道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅
榛原駅南出口階段下(受付・スタート)
宇陀川沿いの桜
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宇陀川沿い・猟路の桜
下井足~篠楽~五津にかけての桜並木。篠楽では万葉歌にちなみに「猟路の桜」と
命名。ぼんぼりの夜桜も楽しむことができます。
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宇陀川沿い
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水分神社(みくまりじんじゃ)・・・(平尾水分神社)
いつも鳥居を見て通り過ぎるだけだったが思い切って寄り道して見た
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水分神社本殿(みくまりじんじゃほんでん)
宇陀川の東岸に面した小高い丘陵の西斜面に鎮座する。本殿は境内の東寄りに石垣
を積み上げ、その上に一間社隅木入春日造(いっけんしゃすみぎいりかすがづくり)、桧
皮葺(ひわだぶき)の社殿を3棟並列で西面させて覆屋(おおいや)に納めている。社殿
によれば神社の創立は永徳元年(1381)と伝え、永徳9年(1566)書写『玉岡水分縁起』
の記載からもおそくとも中世末には存在していたと考えられ、近世では妙福寺は神宮寺
であった。祭神は向かって右から第一殿・天照大神、第二殿・水分大明神、第三殿・白山
大権現(だいごんげん)をまつる。水分神社本殿は3殿とも同規模で同時期に建立された
ことは明らかで、当初形式を踏襲しているものと考えられる。覆屋根は慶長4年に建てら
れていることから現社殿の桧皮葺や棟飾(むねかざり)はそれ以前のものと考えられるこ
とに注目に値する。宇太水分神社と同じ形式が見られ棟札から吉野の飯貝大工が携わ
り、大工集団としての活動範囲が宇陀地方にまでおよんでいたことがわかる。
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夜に行われ 古式を残す平尾のオンダ(御田植祭)
平尾水分神社は江戸期に宇陀水分神社より水分神を勧請して祀られた末社。毎年1月
18日、本殿石段前に設けた板張り舞台で、五穀豊穣を祈る予祝の神事としてオンダが
行われます。
午後7時ころ、神職(墨坂神社宮司)と氏子代表らにより本殿前で厳かに神事が行われ
ます。次いで社務所で関係者のお祝いの宴(直会)が開かれたあと、「ショトメ(早乙女/
初乙女)」と呼ばれる子供5人が1人ずつおんぶ、あるいは抱っこされて舞台に上がりま
す。早乙女役を子供が演じるのは珍しく、最近は男児不足から女の子も加わるように
なったそうです。
午後8時ごろ、いよいよお田植えが始まります。太夫役の「大当(だいとう)」と神主役の
「小当(しょうとう)」が神前に向かって、江戸時代頃の旧い言葉で 「・・・吉日吉時をもっ
て正月18日に三社大明神の御前にて御田植仕り候・・・」 のような台詞が声高らかに
語られます。舞台外から合いの手が入り、素朴で暖かい雰囲気の中で進められます。
「鍬入れ」「苗代作り」「水入れ」「種籾まき」「お田植え」・・・などと一連の農作業が続き
ます。この中には現在の稲作では見られなくなった「芋つむぎ」や「鳥追い」など珍しい
ものが組まれており、注目されます。
ひと息入れるころ(間炊=ケンズイ)、「若宮さん」と呼ばれる全身にコヨリを巻きつけた
人形が「小当」によって運ばれます。病気平癒を祈願する人形で、自分の体の治した
い箇所と同じところのコヨリを貰い受け、患部をなでると治癒するとのことで、大勢の
氏子や参加者が嬉しそうにコヨリを戴いていました。全体を通して古風で味わい深い
ユニークなお祭りです。
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宇陀川沿いに戻る
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※白山神社(はくさんじんじゃ)・・・今回はパスしたので次回?
野依の白山神社(のよりのはくさんじんじゃ)
野依のオンダ(のよりのおんだ)
5月5日(もと旧暦)にセックオンダ(節句御田)と呼ばれる田植え行事が行われる。野依
には宇多川を挟んで東西53戸でそれぞれ組織されるトーヤ(頭家)講があり、ここから
選ばれた大頭小頭が氏神白山神社の年間の祭祀を司る。

白山神社 野依のオンダ(節句おんだ)・・・牛馬を使用しない珍しいおんだ祭
宇陀市の野依白山(のよりはくさん)神社で行われる、田植えの成功を前もって祝う(予
祝)神事。もともと旧暦5月5日の行事でしたが、古くからの伝承でこの日は神様の田植
えの日、村人は田植をしてはならない日とされていました。
そこで大正初め頃から新暦の5月5日に「おんだ」を田植え前の行事として行なわれるよ
うになり、俗に「節句おんだ」とも呼ばれています。奈良県の無形民俗文化財に指定。神
社の境内で10数名の神役たちが田植えの様子をユーモラスに演じます。加えて子供た
ちがふざけて神役の背中や尻を押し演技の邪魔をするなど、なごやかなお田植神事が
展開されます。神役は、大頭〔(だいとう)田主〕、小頭〔間炊*(ケンズイ)持ち〕、荒鍬持ち、
小鍬持ち、万鍬(まんぐわ)持ち、苗籠持ち、植女(ショトメ)3人、大太鼓役、荷い手2人、
小太鼓役、ケンズイ配りなどいずれも男性が務めます。* 昼食と夕食の間の飲食、おや
つ唄に合わせショトメが菅笠を上げ下げしつつ舞うのは「白山権現の舞」と「やよの舞」
と呼ばれています。
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宇陀アニマルパーク
恒例のコンニャクを食べて昼食
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宇陀松山地区
宇陀松山、聞き慣れない地名かもしれませんが、古くから城下町として発展し、その町並
みが今も生活の場としながらも景観を保ったまま残っている地区です。
2006年には「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されました。
保存地区に選定された古い町並みの散策はもちろん、町並みの隙間からふと顔を出す自
然の表情や、何年も姿を変えていないような店の軒先など、時間の止まったようなゆったり
した空気も魅力です。
宇陀松山が拓かれたのは戦国時代「宇陀三将」と呼ばれた一人、秋山氏の築いた城の城
下町として発展してきました。以後、様々な時代の変遷を経ながら、今の松山の町並みが
作られてきました。
宇陀は「吉野葛」の産地として全国的に有名で、昭和天皇が最後に口にされたのはここの
吉野本葛なのだそうです。他にも天然の良水を活かしたお酒や醤油なども特産品として有
名です。
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松山西口関門
福島掃部孝治が城下町への出入口として、今から400年前に建築したものだ。昭和6年
(1931年)に国の史跡として指定された。壁以外は黒く塗られていることから、地元では
黒門と呼ばれて親しまれている。
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恵比寿神社
黒門近くにある「恵比寿神社」。愛宕神社・恵毘須神社・愛宕寺の神仏混合社です。
愛宕神社は、城下町の火災防止のため、松山城主織田長頼が勧請奉祀させたといわ
れる。恵毘寿神社は町内の茶町から移され、江戸以来毎年2月8日には初えびすが行
われる。
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春日神社参道
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春日神社
祭神、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比び大神。本殿、拝殿、神饌所、門、社務所
の施設が整い、石造灯籠新古を交え35基を奉建している。当社の旧祠宮と伝える佐々
岡家には祭礼記など数通の古文書を蔵している。
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※慶恩寺・・・今回はパス
松谷山菩提院慶恩寺。開山は持統天皇九年に吾城行宮を賜って堂宇としたことに始まる。
その後文治2年に奈良の大仏殿再興にあたり、伽藍指図5分の1の試みとして建立された。
鐘楼には無銘であるが古い梵鐘が懸かる。
※光明寺・・・今回はパス
融通念仏宗の寺院。草創は宇多法皇の時代といわれ、天正14年に法俊上人が再興。光
明寺には本堂、山門のほかに小堂、書院、鐘楼がある。山門は入母屋造り、桧皮葺きの楼
門で、松山・神戸地区で最も古い建物の一つ。
※史跡宇陀松山城跡・・・今回もパス
宇陀松山城は、南北朝時代から宇陀に勢力をもつ秋山氏の本城であったが、天正13年
に豊臣家大名の居城となり、城下町が整備された。最後の城主福島氏が元和元年に改
易され、平成7年からは発掘調査が行われている。平成18年、国史跡に指定された。

松山地区を出て天益寺~阿紀神社へ向う
レンギョやミツマタが」綺麗
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天益寺(てんやくじ)
元伊勢伝承の阿紀神社上手にあるお寺です。枝垂桜の名所です。
境内にある樹齢約350年といわれるしだれ桜。鎌倉末期から室町時代に創建された
本堂は火事で全焼し、現在は再建に向けての取り組みがされています。
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此処までは、
4月7日の街並みを眺め時代を感じる宇陀松山地区へ-1  として
           下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
         https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-10
此処では、続きの阿紀神社~ の詳細を掲載します。
阿紀神社
(あきじんじゃ)は、奈良県宇陀市大宇陀迫間(おおうだはさま)にある神社。
式内社で、旧社格は県社。通称は神戸明神とも呼ばれる。
神代に神楽岡に創建され、崇神天皇の勅によって神戸大神宮の号を賜わる。あず地
桃山時代(天正年間)に本郷川西岸の現在地に遷座されたときに、現在の社名へと改
められた。江戸時代前期に能舞台が建設され、能が上演されるようになる。1902年
(明治35年)に郷社から昇格して県社に列格した。
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又兵衛桜へ向かう
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又兵衛桜
樹齢300年とも言われる枝垂れ桜。この地に伝わる後藤又兵衛の伝説と、この桜が
後藤家の屋敷跡にあることから「又兵衛桜」と呼ばれ親しまれています。
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又兵衛桜の後ろへ回ると桃や菜の花畑
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ぐるっと反対側から又兵衛桜
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白モクレンやコブシ、他の桜も満開
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川を挟んで帰り道から又兵衛桜を
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阿騎野・人麻呂公園
柿本人麻呂像
平成7年の発掘調査により、弥生時代、飛鳥時代、中・近世の3時代にわたる遺構が
発見されました中ノ庄遺跡です、いにしえの生活の痕跡が残る重要な遺跡として公園
整備されています。周辺は飛鳥時代「阿騎野」と呼ばれ、大和朝廷の狩り場(薬猟)で
あったと伝えられています。園内には、故中山正實(なかやままさみ)画伯による壁画
「阿騎野の朝」を元にした柿本人麻呂像が建ち、掘立柱建物や竪穴式住居が復元され
ています。
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大願寺・・・大願寺の創建は飛鳥時代と伝わります。
聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立したと言われ、この狛寅の謎も解けたような気が
します。信貴山朝護孫子寺にも語り継がれる「寅年、寅日、寅刻」・・・聖徳太子が物
部守屋との戦いに際し、毘沙門天に助けられたのが「三寅」のタイミングでした。
そう、虎は毘沙門天の使いなのです。
大願寺沿革
薩埵山(さったさん)・成就院・大願寺と称し、真言宗御室派仁和寺末で、寺の創建は推古
時代(約1400年前)で聖徳太子が蘇我馬子に命じて建立させたと伝えられている。
御本尊十一面観世音菩薩は、弘仁式で弘法大師作または徳道上人作で、その御尊前に
長谷寺建立、大蔵寺建立の大願を誓われたと伝えられ、後観音様は火災に遭うも焼けず
に発見されたので「焼けずの観音」で、「災難除け」の観音様として信仰されている。
大願寺は歴代城主である織田信長の二男信雄(のぶかつ)より松山城主高長、長頼、信
武公に亘り、信仰厚く当寺で諸祈願されたと古文書に記載されている。
毘沙門堂は室生の大杉一本で建立され、毘沙門天は長頼公が鞍馬毘沙門天と同作の毘
沙門天を勧請し祀られた。
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※白山権現社・・・・今回は登らず パス
毘沙門堂の左手奥へ上がって行くと、加賀の白山神社を勧請した白山権現社が祀ら
れています。
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道の駅宇陀路・大宇陀バス停→奈交バス→榛原駅(解散)→五位堂駅~自宅

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3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-2

4月3日         3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-2
                     近鉄駅フリーハイキング
此の日は快晴とはいかず花曇りの中を知人のK場さん・I 田さん・O村さんと4名で歩いた、
此の日の私の万歩計は、24275歩で約14.5km歩いたことに・・・
コース     近鉄奈良駅東改札(9:30~11:00) 10時半集合
近鉄奈良駅東改札(受付・スタート)~興福寺・南円堂・中金堂・五重塔~春日大社・一の
鳥居・ムクロジの大木・参道・本殿へ~水谷神社~水谷茶屋・若草山~手向山八幡宮~
校倉造り~東大寺・三月堂・四月堂・二月堂・若狭井・大仏殿・正倉院・大仏殿・転害門(て
がいもん)~佐保川~聖武天皇陵・光明皇后陵・興福院l参道~佐保小学校~大仏鉄道
公園~佐保川堤防~新大宮駅(解散)~徒歩~JR奈良駅 → 王寺駅
志都美駅
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近鉄奈良駅東改札~興福寺へ向かう
興福寺・南円堂
南円堂
西国三十三所観音霊場の第九番札所です。
弘仁4年(813)に藤原冬嗣(ふゆつぐ)が父内麻呂(うちまろ)の冥福を願ってお建てに
なった八角円堂です。基壇(きだん)築造の際に地神を鎮めるために、和同開珎(わど
うかいちん)や隆平永宝(りゅうへいえいほう)をまきながら築き上げたことが発掘調査
であきらかになりました。この儀式には弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)が深く係
わったことが伝えられます。
興福寺は藤原氏の氏寺でしたが、藤原氏の中でも摂関家北家の力が強くなり、その祖
である内麻呂・冬嗣親子ゆかりの南円堂は興福寺の中でも特殊な位置を占めます。そ
のうえ本尊不空羂索観音菩薩(ふくうけんさくかんのん)像が身にまとう鹿皮は、氏神春
日社(かすがしゃ)との関係から、特に藤原氏の信仰を集めました。創建以来4度目の
建物で、寛政元年(1789)頃に再建されました。八角の一面は6.4m、対面径は15.5m、
本瓦(ほんがわら)葺きの建物ですが、その手法はきわめて古様です。
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※額塚・・・興福寺には山号がありません。
南都七大寺には不思議と山号がない為今まで気にも留めていなかったのですが、興福
寺にはそれなりの理由がある様です。比叡山延暦寺や高野山金剛峰寺などに見られる
山号はよく知られるところです。奈良の興福寺にも月輪山(がつりんざん)という山号が
付けられていたようです。そして、その山号額が埋められている場所が茶臼山と呼ばれ
る額塚です。額塚のある場所は興福寺不動堂の南側です。

中金堂
興福寺「中金堂(ちゅうこんどう)」は、世界遺産「興福寺」の境内中央、五重塔・東金堂
の西側の広々とした空間に建つ興福寺境内では最大規模の仏堂です。
平城京に遷都し奈良時代が幕を開けた和銅3年(710年)頃に成立した興福寺において、
その当初から中心的なお堂として建立されたとされる中金堂は、丈六釈迦如来像をその
中心部に配置し、脇侍としては薬王菩薩像・薬上菩薩像・2体の十一面観音菩薩像を置
き、四天王像・弥勒浄土像も安置していたとされており、奈良のお寺においても東大寺
大仏殿に次ぐような規模を有する非常に重要な存在であったとされています。
奈良時代以降は受難の歴史を歩み、平安時代の永承元年(1046年)に初代中金堂が
焼け落ちてからというもの計7回の焼失を経験することになりました。中金堂は6回目の
焼失まではその都度しっかりと再建されてきましたが、江戸時代の享保2年(1717年)に
7度目の焼失となった後は1世紀ほど再建されず、文政2年(1819年)に再建されたもの
も「仮金堂」と呼ばれる小さなものとなっていたため構造上も弱く、平成12年(2000年)に
は取り壊しが行われ、その後創建当初のスケールを持つ中金堂を復興することになり、
平成22年(2010年)に工事が着工し、8年間の計画で中金堂の再建が進められることに
なりました。
再建された中金堂は、興福寺に関わる歴史資料や唐招提寺金堂の建築様式などを参考
に復元されたものであり、東西の間口は約37メートル、南北の奥行きは約23メートル、高
さは約20メートルの規模となっており、東大寺大仏殿には及ばずとも、唐招提寺金堂や薬
師寺大講堂に匹敵、もしくは少し上回るような規模を有しており、平成の世において建造
された最大規模の木造建築物となっています。
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五重搭
古都奈良を象徴する塔です。塔は仏教の祖釈迦の舎利(しゃり)(遺骨)をおさめる墓標
です。天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后
がお建てになりました。初層の東に薬師浄土変(やくしじょうどへん)、南に釈迦浄土変
(しゃかじょうどへん)、西に阿弥陀浄土変(あみだじょうどへん)、北に弥勒浄土変(みろく
じょうどへん)を安置し、また各層に水晶の小塔と垢浄光陀羅尼経(くじょうこうだらにきょ
う)を安置していたと伝えられます。その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃
に再建されました。高さ50.1m、初層は方三間で8.7m、本瓦(ほんがわら)葺きの塔で
す。軒の出が深く、奈良時代の特徴を随所に残していますが、中世的で豪快な手法も大
胆に取り入れた、大変に力強い塔です。初層の四方には、創建当初の伝統を受け継ぐ薬
師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像を安置します。
現存する興福寺五重塔は、室町時代中期・応永33年(1426年)の再建。本瓦葺の三間五
重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建
造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、
文化財保護法に基づく国宝に指定されている。
興福寺五重塔は、光明皇后の発願により、天平2年(730年)に創建された。現存の塔は、
応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.1メートルで、現存する日本の木造塔として
は、東寺五重塔に次いで高い。
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春日大社一の鳥居
平安後期に創建されたといわれ、現在のものは、寛永11年(1638年)に再建されたもので
ある。今では市街地のメインストリートの三条通との境界に当たるが、 古くは春日大社と興
福寺旧境内との境に立つ高さ6.75mの大鳥居です。3月の春日祭や12月の春日若宮おん
祭の際には大きな榊が立てられています。
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※影向の松(ようごうのまつ)
春日大社一の鳥居をくぐってすぐの、参道右側に生育しているクロマツである。延慶2年
(1309年)の春日権現験記にも記された古い巨木であったが、1995年(平成7年)に枯れ
たため、現在は巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられている。
この地は昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われた地とされる。教訓抄に
よると、松は特に芸能の神の依代(よりしろ)であり、この影向の松は能舞台の鏡板に描
かれている老松の絵のルーツとされている。

参道脇のムクロジ
ムクロジはわが国では中部地方以西の山野に自生しており、春日山にも多く生えていま
す。幹の空洞から竹が伸びていて名物樹木になっているムクロジの巨樹。幹周4.58m、
樹高15.5m。
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仏教美術研究資料センターの枝垂れ桜
関野ホール
明治中期を代表する近代和風建築であり、和風と洋風、さらにはイスラム風の意匠も
取り入れた、とても美しい建築物です。奈良国立博物館が管理する『仏教美術資料研
究センター』(重文)は、1902年(明治35年)竣工の、西洋建築の構造と日本伝統の建
築様式を取り入れた、美しい近代和風建築です。当初は「奈良県物産陳列所」として、
奈良県の物産の展示・販売をおこなう施設として利用されました。設計は、建築史学
者であり、古社寺保存修理事業に尽力した「関野貞」(せきのただし)。東京駅舎や奈
良ホテルを設計した辰野金吾の弟子で、新薬師寺や法起寺の修理なども監督・・・。
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参道
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手水
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参道の苔むした灯籠
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春日大社
本殿へ入る前の枝垂れ桜
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春日大社
春日大社(かすがたいしゃ)は、中臣氏(のちの藤原氏)の氏神を祀るために768年に創設
された神社。旧称は春日神社。式内社(名神大社)、二十二社(上七社)の一社。旧社格は
官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。神紋は「下がり藤」。全国に約1000社ある春日
神社の総本社である。武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされることから、鹿を神使とする。
ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つとして登録されている。
奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神
(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする
説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津
主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を
造営したのをもって創祀としている。

本殿の回廊
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本殿を出て祈祷所へ向かう
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水谷神社へ向う
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水谷神社
春日大社の摂社で聖流水谷川に沿ってお祀りされており、上水谷・中水谷・下水谷の下
社に相当し、素盞鳴命様・大巳貴命様・奇稲田姫様を御祭神としています。平安時代か
ら幕末までの神仏習合時代は祇園精舎の守護神で医薬の神として尊崇され、「牛頭天
王(ごずてんのう)」とされていました。例祭は4月5日で、通称「水谷神社鎮花祭」として
親しまれています。古くより霊験あらたかな神様として名高く、病気平癒や子授けを祈る
人が多いお社です。御神木のイブキ、イブキの横にある説明板では、幹周6.55m、樹高
12.5m。「イブキ」は「ビャクシン」ともいわれます。
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水谷茶屋
昭和23年創業。奈良公園内にある当店は、春日大社の北参道の入り口を流れる水谷川
の対面に位置し、大正初期に建築された茅葺き屋根と柱をそのままに店舗として改装し、
現在の姿に至っております。店舗周辺には、楓が群生し、夏は鮮やかな緑と川のせせらぎ
が暑さを忘れさせ、 秋には紅葉が見る者の目を奪う。街の喧騒から離れ、大変癒されます。
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若草山山麓
若草山
奈良公園を訪れて最初に目に飛び込んでくる景色、それが芝生に覆われた三つ重ねの山、
若草山です。若草山は、標高342m、面積33ヘクタールの芝生に覆われた山で、山頂には、
5世紀頃に築造されたといわれる史跡鶯塚古墳があります。毎年1月には、若草山焼きが
あります。夜空をこがす壮観さはまさに、炎の祭典というのにふさわしい行事です。
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土産物店
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手向山八幡宮
東大寺大仏殿前の道を東に行った正面に位置し、すぐ北には東大寺法華堂(三月堂)があ
る。天平勝宝元年(749年)、東大寺及び大仏を建立するにあたって宇佐八幡宮より東大寺
の守護神として勧請された。八幡宮からの分社では第一号である。当初は平城宮南の梨原
宮に鎮座し、後に東大寺大仏殿南方の鏡池付近に移座したが、治承4年(1180年)の平重衡
による戦火で焼失、建長2年(1250年)に北条時頼が現在地に再建した。当初の鎮座地とさ
れる梨原宮の所在地は未詳だが、奈良市役所近くにある平城京左京三条二坊庭園跡庭園
がその跡ともいわれる。創建以来、東大寺に属しその鎮守社とされてきたが、明治の神仏分
離の際に東大寺から独立した。
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校倉造り
法華堂(三月堂)法華堂経庫(重文)です。2棟とも天平時代に建てられたものです。
※手向山八幡宮南側に建つ手向山八幡神輿庫。
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※校倉造
三月堂や手向山八幡宮に囲まれた位置にある「校倉造」 。東大寺法華堂経庫は、二月堂や
三月堂(法華堂)、四月堂などが位置する東大寺の古き良き風情を体感して頂ける「上院」エ
リアの一角、かつての東大寺鎮守神である「手向山八幡宮」にも隣接する位置にある建物
(重要文化財)です。
建物は正倉院などを同じく、いわゆる「校倉造」の建築様式となっており、その建立は奈良時
代もしくは平安初期にまで遡ると言われています。東大寺の境内地において、奈良時代周辺
に建てられた建築が残っているケースは、正倉院、転害門及び三月堂(後に大規模な改築を
受けている)など一部に留まっており、この経庫も知名度は高くないものの貴重な建築と言え
る存在になっています。手向山八幡宮の「宝庫」と並び立つ。なお経庫は、かつては「校倉造」
の代表建築である正倉院の近くに設置されていましたが、鎌倉時代には大規模な修理が施さ
れたりした後、江戸時代の元禄期になると現在の位置に「手向山八幡宮」の宝蔵として移築さ
れたという経歴を有しています。その後はしばらく手向山八幡宮に帰属していましたが、明治
の廃仏毀釈の折に、再び東大寺に帰属する建物となったとされています。ちなみに、この経庫
の40mほど南側の位置には、手向山八幡宮の「宝庫」が別途設けられており、こちらも同じよ
うな建築様式で、やはり奈良時代頃に創建されたものと考えられています。

※東大寺
8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていた。東大寺の記録である
『東大寺要録』によれば、天平5年(733年)、若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こ
んしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。一方、正史『続日本紀』によれば、神亀5年(728
年)、第45代の天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子の菩提のため、若草
山麓に「山房」を設け、9人の僧を住まわせたことが知られ、これが金鐘寺の前身と見られる。
金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、このうち羂索
堂は現在の法華堂(三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。天平13年(741年)に
は国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺は大和国の国分
寺と定められ寺名は金光明寺と改められた。 大仏の鋳造が始まったのは天平19年(747年)
で、このころから「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。なお、東大寺建設の
ための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(748年)が最初である。
聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(743年)である。当時、都は恭
仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽宮(現
・滋賀県甲賀市信楽町)におり、大仏造立もここで始められた。聖武天皇は短期間に遷都を繰
り返したが、2年後の天平17年(745年)、都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺
の地で改めて行われることになった。この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要で
あったため、朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。
難工事の末、大仏の鋳造が終了し、天竺(インド)出身の僧・菩提僊那を導師として大仏開眼
会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(752年)のことであった。そして、大仏鋳造が
終わってから大仏殿の建設工事が始められて、竣工したのは天平宝字2年(758年)のことで
あった。東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょ
う)」と呼んでいる。
※盧舎那仏の造立&『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究
天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間
のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたと
いう。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

東大寺
三月堂(法華堂)
東大寺建築のなかで最も古く、寺伝では東大寺創建以前にあった金鍾寺(きんしょうじ)の遺構
とされる。752(天平勝宝4)の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)には「羂索堂(けんさくど
う)」とあり、不空羂索観音を本尊として祀るためのお堂である。旧暦3月に法華会(ほっけえ)
が行われるようになり、法華堂、また三月堂ともよばれるようになった。
もとは寄棟(よせむね)造りの正堂(しょうどう)と礼堂(らいどう)が軒を接して建つ配置であった
が、鎌倉時代、礼堂を入母屋(いりもや)造りに改築して2棟をつないだ。正堂は天平初期の建
築だが、礼堂は大仏様(だいぶつよう)の特色が見られる鎌倉時代の建築。時代の異なる建築
が高い技術によって結ばれ、調和の取れた美しい姿を見せる。
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四月堂
東大寺の三昧堂は、「法華三昧会」が旧暦の4月に行われる為、一般に四月堂と呼ばれて
いる。創建は、1021年(治安3年)あるいは1067年(治暦3年)といわれ、現在の建物は、
1681年(延宝9年)の墨書銘がある。本尊千手観音(重要文化財)や阿弥陀如来像(重要
文化財)が安置されている。
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二月堂
旧暦2月に「お水取り(修二会)」が行われることからこの名がある。二月堂は平重衡の兵火
(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火には焼け残ったが、寛文7年(1667年)、
お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物である。本尊は大観音
(おおかんのん)小観音(こがんのん)と呼ばれる2体の十一面観音像で、どちらも何人も見る
ことを許されない絶対秘仏である。建物は2005年12月、国宝に指定された。魚を採っていて
二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音
さまに奉ったという、「お水取り」。
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若狭井
「お水取り」の井戸は閼伽井屋という建物の中にあり、当役の者以外は誰も入ることもうかがう
ことも出来ない。行列が閼伽井屋に到着すると咒師、堂童子等が中に入り水を汲む。これが二
荷ずつ、閼伽井屋と二月堂の間を三往復して、お香水が内陣に納められる。「お水取り」が終わ
ると閼伽井屋に下っていた練行衆等は再び行列を組んで二月堂へ戻り、中断していた後夜の
「時」が再開される。
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此処までは、
3月31日の奈良きた町から桜の佐保川堤を散策-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
          https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-04-03
続きは、大仏殿へ向かう~
大仏殿へ向かう
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※大湯屋(おおゆや)
寺院の風呂場です。奈良時代から設けられていたのですが、文献での初見は平安時代に降り
ます。その後数回の被災・再建を経て、室町時代に再建されたのが現在の建物で、五重塔再
建と同じ時期-すなわち応永33年(1426)頃と考えられます。正面4間(11.7m)、側面4間
(10.6m)、本瓦(ほんがわら)葺きの建物で、西面の屋根は入母屋(いりもや)、東面の屋根
は切妻(きりづま)ですので、東側になんらかの建物があり、この大湯屋で湯を沸かし、東の建
物に湯を送って蒸し風呂にしたり、あるいは入浴したりしたと思われます。 内部に床を敷かず、
地面に直接鉄の湯釜を2個据えています。南の湯釜はほぼ完形で、口径1.5m、胴径1.86
m、高さ1.27mで鎌倉時代、北の湯釜は口縁の部分しか残らないのですが、口径1.44m
で平安時代のものです。
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大仏殿
創建から2度にわたって焼失、鎌倉と江戸時代に再建された。江戸期には柱とする材が調
達できず、芯となる槻(つき)を檜板で囲い、鉄釘と銅輪で締めて柱とした。そのため、創建
時に11間(けん、86m)あったが7間(57m)となった。現在でも世界最大級の木造建築であ
るが、往時の壮大さがうかがえる。毎年、大晦日から元旦に正面唐破風(からはふ)下の観
相窓が開かれ、大仏尊像のお顔を外から拝しながら新年を迎えることができる。
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※講堂跡
東大寺講堂跡は、大仏殿の裏手にある芝生の広場。その昔、ここには大きな「講堂」が建っ
ていた。今は講堂の礎石(そせき)だけが残っていて、絶好のお弁当スポットです。東大寺と
いえば、奈良でも一番人気の観光スポット。でも、観光客でごったがえしているのは大仏殿
くらいまでで、広い境内には意外と静かなエリアもあります。講堂跡もそのひとつ。周辺を通
る人もまばらで、講堂跡に寄る人はもっと少ないし、そのなかでも、ここが「講堂跡」というと
ころだと知っている人は、ほとんどいないんじゃないでしょうか。芝生が広がっているノビノビ
した広場には、柱が立っていた礎石が並んでいて、ベンチ代わりにちょうどいい感じ。ちょっ
と休憩したり、お弁当を広げたり、観光をサボって昼寝したりするのにおすすめのスポットで
す。たまにシカが通ったりしますが、講堂跡あたりにいる シカは、お弁当を狙って取り囲んだ
りしないようです。夏のサルスベリや秋の紅葉なども楽しめます。講堂は、昔のお寺の重要
な建物のひとつで、お経の講義や説法が行われる所。何千人ものお坊さんが勉強にはげん
でいたところで、今でいえば大学でしょうか。東大寺は日本のお寺の中心として建てられた
だけあって、東大寺の講堂は「日本の最高学府」。そんな重要だった建物も、何度も火事に
あって、戦国時代の火事で焼けたあとは建てなおされませんでした。
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正倉院
正倉院(しょうそういん)は、奈良県奈良市の東大寺大仏殿の北北西に位置する、校倉造(あ
ぜくらづくり)の大規模な高床式倉庫。聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平
時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた建物で、1997年(平成9年)に国宝に指
定され、翌1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文
化遺産)に登録されている。元は東大寺の正倉(倉庫)だったが、1875年(明治8年)3月10日、
収蔵されていた宝物の重要性に鑑み、東大寺から内務省の管理下に置かれた。1881年(明
治14年)4月7日、農商務省の設置に伴い、内務省博物局が農商務省へ移管され、1884年
(明治17年)5月に宮内省所管となった。1908年(明治41年)4月、正倉院は帝室博物館の主
管となり、第二次世界大戦後の1947年(昭和22年)5月3日に宮内府図書寮の主管となった。
現在は宮内庁の施設等機関である正倉院事務所が管 理している。
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大仏殿の大屋根
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転害門へ向かう
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転害門(てがいもん)
東大寺の転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10年)
の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる
唯一の遺構(国宝)。 転害門は、手貝門・手掻門・手蓋門などとも書かれた。寺の西北にあるの
で「西北大門」、この門が佐保路(一条大路)の起点となっているので「佐保路門」とも呼ばれて
いる。「転害門」は、宇佐八幡宮が勧請されるときに八幡神がこの門から入り、みちみち殺生が
禁止されたから、又は、手向山八幡宮の「転害会」の渡御がこの門まで行われるから「転害門」
と呼ばれるようになったといわれ、行基が大仏開眼の導師菩提僧正をこの門のところで手招きし
たから「手掻門」と書いたともいう。また、大仏殿落慶供養に参列した源頼朝を暗殺するために
悪七兵衛景清(平景清)が隠れていたため「景清門」と呼ぶともいう。
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佐保川
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聖武天皇陵・光明皇后陵
聖武天皇陵
聖武天皇(しょうむ てんのう)-756年6月4日は、日本(奈良時代)の第45代天皇。文武天皇の
第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。文武天皇の第一皇子として生まれたが、慶雲4年6月
15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、母の宮子も心的障害に陥ったため、その後は長く会
うことはなかった。物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢
37のときであった。このため、同年7月17日(707年8月18日、文武天皇の母である元明天皇
(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇
子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、病弱であったこと、皇親勢力と外戚である藤
原氏との対立もあり、即位は先延ばしにされ、翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天
皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正
天皇より皇位を譲られて即位することになる。聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する
長屋王が政権を担当していた。この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:
県犬養三千代)の立后を願っていた。しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即
位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、長屋王は
光明子の立后に反対していた。ところが神亀6年(729年)に長屋王の変が起き、長屋王は自
害、反対勢力がなくなったため、光明子は非皇族として初めて立后された。長屋王の変は、長
屋王を取り除き光明子を皇后にするために、不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄
弟が仕組んだものといわれている。なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入っ
たが、光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、または両人の血
縁の者である。天平9年(737年)に疫病が流行し、藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとん
どが病死するという惨事に見舞われ、急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じ
て辛うじて政府の体裁を整える。さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、平城京に戻らないまま恭仁京へ遷
都を行う。その後、約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都(平城京から恭仁京、難波京、紫
香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、『続日本紀』で多くが触れられている。詳しい動機付け
は定かではないが、遷都を頻繁に行った期間中には、前述の藤原広嗣の乱を始め、先々で火
災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。天平年間は災害や疫病(天然痘)が
多発したため、聖武天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、天平
15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。これに加えてたびたび遷都を
行って災いから脱却しようとしたものの、官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)
が執り仕切った。天平15年(743年)には、耕されない荒れ地が多いため、新たに墾田永年私
財法を制定した。しかし、これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。天平16年
閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。これは藤原仲麻呂による毒
殺と見る説がある。天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲
位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷
が慌てて手続を執ったともいわれる)。譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。
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光明皇后陵
光明皇后(こうみょうこうごう、大宝元年(701年)-天平宝字4年6月7日(760年7月27日))は、
奈良時代の聖武天皇の皇后。藤原不比等と県犬養橘三千代の女子で、聖武天皇の母である
藤原宮子は異母姉。諱は安宿媛(あすかべひめ)。通称に光明子(こうみょうし)、藤三娘(とう
さんじょう)。正式な尊号は天平応真仁正皇太后(てんぴょう おうしん にんしょう こうたいごう)。
皇族以外から立后する先例を開いた。聖武天皇の皇太子時代に結婚し、養老2年(718年)、
阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を出産。神亀元年(724年)、夫の即位とともに後宮の位階
である夫人号を得る。神亀4年(727年)、基王を生んだ。神亀5年(728年)、皇太子に立てられ
た基王が夭折したため後継を争って長屋王の変が起こるなど紛糾した。長屋王の変後、天平
元年(729年)に皇后にするとの詔が発せられた。これは王族以外から立后された初例である。
以後、藤原氏の子女が皇后になる先例となった。 娘である阿倍内親王の立太子、およびその
後の孝謙天皇としての即位(天平勝宝元年(749年))後、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥の
藤原仲麻呂を長官に任じてさまざまな施策を行った。天平勝宝8年(756年)、夫の聖武太上天
皇が崩御。その2年後には皇太后号が贈られた。天平宝字4年(760年)に崩御、佐保山東陵に
葬られた。光明皇后は仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立を夫に進言したと伝えられる。
また貧しい人に施しをするための施設「悲田院」、医療施設である「施薬院」を設置して慈善を
行った。夫の死後四十九日に遺品などを東大寺に寄進、その宝物を収めるために正倉院が創
設された。さらに、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。
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興福院l参道
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※興福院(こんぶいん)
奈良市法蓮町にある浄土宗の尼寺。山号を法蓮山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創
立者)は和気清麻呂ともいい、藤原百川ともいう。創建について、寺伝では天平勝宝年間
(749 -757年)、和気清麻呂が聖武天皇の学問所を移して創建し、弘文院と称したという。
『七大寺日記』(嘉承元年(1106年))には藤原百川が創建した興福尼院が前身とされてい
る。また、護国寺本『諸寺縁起集』には、宝亀元年(770年)、藤原広嗣の妻・輪立氏の発願
で創建されたとある。古くは興福院弘文院の2つの寺号が用いられ、本尊は薬師如来であっ
た。前述の和気清麻呂を開基とする説は、和気氏が設立した学問所を弘文院と称したこと
から出たものと推測されている。

佐保小学校の枝垂れ桜
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大仏鉄道公園
大仏鉄道(正式名:関西鉄道大仏線)は、名古屋と大阪をつなぐ路線の一つとして、明治31
年4月に開業し、明治40年8月まで奈良駅・加茂駅間約10kmを運行していました。大仏鉄
道が廃止されてから100年が過ぎましたが、平成4年4月には大仏駅跡地付近に大仏鉄道
記念公園が設置され、大仏鉄道の面影を残しています。大仏鉄道記念公園は、奈良事務所
の南方約100mの佐保川沿いにあり、春4月には、しだれ桜の3大木が見事に咲き、たくさん
の人々が訪れます。
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佐保川堤防を歩く
佐保川堤・川路桜
佐保川は 若草山の東麓に発っし、奈良盆地の北部を西へ流れ、奈良市新大宮から 南に転
じ、大和郡山市街東部を南流し、同市南端付近の額田部で大和川に注ぐ。佐保川の桜並木は 
全長5 キロ、 3000本が植えられている。この桜並木は 奈良奉行 川路聖謨(かわじ とし
あきら)が1946年1月から5ヶ月かけて 奈良の興福寺、 東大寺などの有力寺社、町の有力
者に呼びかけ 植えたものである。 現在 地元の 「佐保川を美しくする会」、「川路桜保存会」
の人々が 桜を維持管理している。 興福寺の五重の塔から 猿沢の池に降りる52段階段の上
に 川路聖謨(かわじとしあきら)植桜楓の碑( おうふうをうえるのひ )の碑がある。 
「桜も楓も 歳月が 経てば枯れるが、後世の人が 植えてくれるだろう。そうすれば 今日の遊
観の楽しみは百年の後までも 変わらない。それは後世の人も 私も 望むところだ。」・・・・
これが現実になっています。
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川路桜
江戸時代の奈良の名奉行、川路聖謨(としあきら)ゆかりの桜です。樹齢はかれこれ160年。
ごつごつした幹や枝は支えが必要ですが、風格があります。
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雨がぱらついて
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雨もやみ新大宮駅へ向かう
新大宮駅(解散)~私は徒歩で~JR奈良駅 → 王寺駅へ帰った

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