3月26日の河内長野市 楠木正成ゆかりの観心寺
3月28日 3月26日の河内長野市 楠木正成ゆかりの観心寺
3月度歩こう会 例会
今回の歩こう会は参加者86名と盛況でした、河内長野駅10時⇒観心寺山門前出で受付、
河内長野駅⇒観心寺へ約12分 バスは ①9:40 ②9:55 ③10:12(最終便)・・・・
観心寺の本堂で長老(元住職)より観心寺や楠木正成、南北朝時代、足利尊氏、後醍醐
天皇、後村上天皇、弘法大師空海のお話を聞き、境内散策・星塚(北斗七星)巡り・楠木
正成お首塚・後村上天皇陵・霊宝館等々・・・帰りは86名中30名が河内長野駅迄4.5kmを
完歩、此の日の私の万歩計は、16594歩で約9.9km歩いたことに・・・
観心寺前
楠木正成像
観心寺
観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山
である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河
内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。そ
の後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つ
の「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」
の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊
として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈
良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから奈良時代草創説もあながち否定できない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起
資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めて
いる(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡
東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇
る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平
14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内
には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ
けが建てられた、未完成の建築である。
山門をくぐってすぐに「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」があります。
後村上天皇は、南北朝時代の南朝第2代天皇で、約10ヶ月の間、日本の政治をここで
執行されました。
向い側が中院
中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成の学問所で8歳~15歳までここで勉学に励みました。
本堂は国宝です。
建掛搭(たてかけとう)
建掛搭(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ けが建
てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願し
て三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断
され、そのままになっているという。
お首塚
「楠木正成首塚」
討死後、足利尊氏の命令によりその首が当寺に送り届けられ、ここに祀られました。
湊川の戦いで討ち死にした正成の首は足利尊氏の命令により送り届けられた。
後村上天皇陵
金堂の右奥、長い石段(256段)を上がると、第九十七代後村上天皇の御陵があります。
住吉大社で没後、当山に御陵が作られました。
樹齢400年超えの椿(侘助)
星塚巡り
北斗七星が祀られています。日本ではここ『観心寺』だけだそうです。
弘法大師が厄除けの為に祀られたもので、一巡する事でその年の厄が払われると
云われています。(一巡は約15分くらいでした)
霊宝館
10体の重要文化財の仏様が展示保管されています。他にも楠木正成ゆかりの重文が
保管されています。見応え有りました。
観心寺を後に、30名を先導して河内長野駅へ歩きます。
此の橋を渡ると間もなく河内長野駅二到着します。
3月度歩こう会 例会
今回の歩こう会は参加者86名と盛況でした、河内長野駅10時⇒観心寺山門前出で受付、
河内長野駅⇒観心寺へ約12分 バスは ①9:40 ②9:55 ③10:12(最終便)・・・・
観心寺の本堂で長老(元住職)より観心寺や楠木正成、南北朝時代、足利尊氏、後醍醐
天皇、後村上天皇、弘法大師空海のお話を聞き、境内散策・星塚(北斗七星)巡り・楠木
正成お首塚・後村上天皇陵・霊宝館等々・・・帰りは86名中30名が河内長野駅迄4.5kmを
完歩、此の日の私の万歩計は、16594歩で約9.9km歩いたことに・・・
観心寺前
楠木正成像
観心寺
観心寺は、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院。山号を檜尾山と称し、遺跡本山
である。本尊は如意輪観音、開基(創立者)は実恵である。 仏塔古寺十八尊第十三番。奥河
内の観光地の一つ。大阪みどりの百選に選定されている。
伝承では、大宝元年(701年)、役小角(役行者)が開創し、当初、雲心寺と称したとされる。そ
の後、大同3年(808年)、空海がこの地を訪れ、北斗七星を勧請したという。これにちなむ7つ
の「星塚」が現在も境内に残る(なお、北斗七星を祭る寺は日本では観心寺が唯一である)。
弘仁6年(815年)、空海は再度この地を訪れ、自ら如意輪観音像を刻んで安置し、「観心寺」
の寺号を与えたという。「空海が自ら刻んで」云々の話は伝承の域を出ないが、現在金堂本尊
として安置される如意輪観音像は、様式的に9世紀の作品とされている。また、観心寺には奈
良時代にさかのぼる金銅仏4体が伝来することから奈良時代草創説もあながち否定できない。
観心寺の実質的な開基とみられるのは、空海の一番弟子にあたる実恵である。『観心寺縁起
資財帳』(国宝)などによると天長4年(827年)、実恵の意を受け、弟子の真紹が造営を始めて
いる(なお、年次に関しては天長2年(825年)とする異説もある)。承和3年(836年)には石川郡
東坂荘が勅によって施入されたと伝えられている。鎌倉時代の末期には塔頭50か寺以上を誇
る大寺院となっていた。
観心寺は楠木氏の菩提寺であり、楠木正成および南朝ゆかりの寺としても知られている。正平
14年(1359年)12月から翌正平15年(1360年)9月まで後村上天皇の行宮となった。また、境内
には後村上天皇桧尾陵がある。
境内にある建掛塔(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ
けが建てられた、未完成の建築である。
山門をくぐってすぐに「後村上天皇御旧跡(旧惣持院跡)」があります。
後村上天皇は、南北朝時代の南朝第2代天皇で、約10ヶ月の間、日本の政治をここで
執行されました。
向い側が中院
中院は楠木家の菩提寺で、楠木正成の学問所で8歳~15歳までここで勉学に励みました。
本堂は国宝です。
建掛搭(たてかけとう)
建掛搭(たてかけとう)は、一見、普通の仏堂のように見えるが、三重塔の一重目だ けが建
てられた、未完成の建築である。伝承によれば、楠木正成は、建武の新政の成功を祈願し
て三重塔の建立を発願したが、造営なかばで湊川の戦いで討ち死にしたため、建築が中断
され、そのままになっているという。
お首塚
「楠木正成首塚」
討死後、足利尊氏の命令によりその首が当寺に送り届けられ、ここに祀られました。
湊川の戦いで討ち死にした正成の首は足利尊氏の命令により送り届けられた。
後村上天皇陵
金堂の右奥、長い石段(256段)を上がると、第九十七代後村上天皇の御陵があります。
住吉大社で没後、当山に御陵が作られました。
樹齢400年超えの椿(侘助)
星塚巡り
北斗七星が祀られています。日本ではここ『観心寺』だけだそうです。
弘法大師が厄除けの為に祀られたもので、一巡する事でその年の厄が払われると
云われています。(一巡は約15分くらいでした)
霊宝館
10体の重要文化財の仏様が展示保管されています。他にも楠木正成ゆかりの重文が
保管されています。見応え有りました。
観心寺を後に、30名を先導して河内長野駅へ歩きます。
此の橋を渡ると間もなく河内長野駅二到着します。