3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー2
3月23日 3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー2
歴史探訪の会(オープン企画) 8㎞
此の日は最高のハイキング日和、オープン企画とした為会員以外の参加者が14名増となり
参加者合計36名で歩きました。此の日の私の万歩計は、18406歩で約11km歩いたことに・・
コースは 田原本駅西口広場に10時集合
田原本駅西口広場(受付・スタート)~浄照寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(役場)
~寺川~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社~千万院~眺めの丘(昼食)・展望台~ 唐
古・鍵遺跡史跡公園~遺構情報展示館~道の駅「レスティ唐古・鍵」(解散)~石見駅へ
田原本町の観光ボランティアガイドさん2名のご案内で歩きました。有難う御座いました。
志都美駅
畝傍駅~
八木西口駅で乗換
田原本駅西口広場(集合・10時スタート)
浄照寺へ向かう
浄照寺~本誓寺
浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ
岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」と
呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村を与えられ5
千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはなかった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の真宗
大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ立ち退か
せられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄土宗
本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立した。領主
は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人に寄進した。住
職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表塀の五本の筋)が使
用される。
※本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本領主
であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄土真宗教
行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立した。 本堂は
度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる平安
時代中期の十一面観音立像が安置されている。
田原本聖救主教会へ向かう
田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年(1895)
には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建てられ、木造
平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が ついている。玄関
妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭和初期当時の面影を留
めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」のロケ地としても使用された。
平野氏陣屋跡(役場駐車場)~
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗
本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。
寺川・・・今里浜
通称、今里では「浜」と呼ばれているが、今里橋 付近の寺川が改修され昔の面影は
何も残っていない。村伝来の古地図を見る限りでは昔の繁栄振りが伺えるが今は掲
示板だけが立っているだけ。田原本北部、今里領と石見領と入り組んだ寺川の東岸
に石見領唐の口に江戸期今里村庄兵衛が経営する舟問屋があった。
今里浜は立地条件の良いことからこれらの物資の荷上場として舟問屋が建ち並び問屋
町田原本の外港として栄えた。舟運は水量の多い春と秋に利用され春は上り船が多く
塩、肥料の干鰯や油粕が運ばれ、秋は下り船が主で米、雑穀、綿花等が運ばれた。
唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
玄関前のこれは何?
ただの雨だれを受ける器・・・
館内
真剣に聞いています
真剣に聞いています
楼閣と第建造物の
イメージ図
此処までは、
3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23
此処では、続きの池神社へ向う~ の詳細について掲載致します。
池神社へ向う
池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院に
かわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
眺めの丘へ向かう
眺めの丘(昼食)・展望台・集合写真撮影・オープン参加者へ入会の案内
唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈良県
磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクタールは近畿
地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡ってい
ました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期(1,700年前)までの約
600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・石器・木器が出土し、その成
果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3次調査以来継続的な調査が行われ、
多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など重要な成果が相次ぎました。その重要性か
ら、1999年1月27日、国の史跡に指定されました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100年以
上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池の発掘調査(第
1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生時代研究の確固たる基
礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田原本町教育委員会によって調査
が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明らかとなりました。また楼閣を描いた絵
画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺
跡は、弥生文化を考える上で重要な位置を占めています。
楼閣の説明を聞く
遺構展示館
※おまけ・・・道の駅「レスティ唐古・鍵」
平成30年4月20日(金)にオープンした田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベ
ントの開催とともに、田原本町内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多
数販売します。また、1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各
種ジェラートを販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」
をメインに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内で焼き上
げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生でお召し上がりいた
だくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
平成30年9月23日、24日に道の駅丹後王国「食のみやこ」で開催された『道-1グランプリ20
18』のスイーツ部門において、近畿大学と松井農園の共同開発したメロン「バンビーナ」を使
用した「バンビーナジェラート」が見事グランプリを獲得いたしました。各々1階 Kagiベーカリー
にて販売しております。
石見駅へ向かう・寺川
石見駅
田原本駅~西田原本駅へ乗り換え
田原本線100周年記念、100年前の色に塗り替えたシャリョウが・・・
歴史探訪の会(オープン企画) 8㎞
此の日は最高のハイキング日和、オープン企画とした為会員以外の参加者が14名増となり
参加者合計36名で歩きました。此の日の私の万歩計は、18406歩で約11km歩いたことに・・
コースは 田原本駅西口広場に10時集合
田原本駅西口広場(受付・スタート)~浄照寺~田原本聖救主教会~平野氏陣屋跡(役場)
~寺川~唐古・鍵考古学ミュージアム~池神社~千万院~眺めの丘(昼食)・展望台~ 唐
古・鍵遺跡史跡公園~遺構情報展示館~道の駅「レスティ唐古・鍵」(解散)~石見駅へ
田原本町の観光ボランティアガイドさん2名のご案内で歩きました。有難う御座いました。
志都美駅
畝傍駅~
八木西口駅で乗換
田原本駅西口広場(集合・10時スタート)
浄照寺へ向かう
浄照寺~本誓寺
浄照寺(じょうしょうじ)
浄照寺は、奈良県磯城郡田原本町にある浄土真宗本願寺派の寺院。
山号は松慶山。本尊は阿弥陀如来。田原本御坊とも称される。
天正11年4月(1583年)、織田信長の後継者の地位を争って、羽柴秀吉と柴田勝家が賤ヶ
岳の戦いを起こした。この戦いで秀吉子飼いの7人の武将が活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」と
呼ばれる勇名を馳せたが。その一人平野長泰は軍功により、田原本他6か村を与えられ5
千石の領主となる。しかし、長泰は生涯、田原本の地に居住することはなかった。
正保4年(1647年)、長泰より田原本地領(寺内町)の経営を任されていた真宗寺院の真宗
大谷派教行寺は、2代目領主長勝との間に支配権のことで対立し、広陵町箸尾へ立ち退か
せられる。慶安元年(1648年)、領主長勝は田原本に陣屋を築造する。
慶安4年(1651年)、長勝は教行寺の跡地を二分し、北側に平野家の菩提寺である浄土宗
本誓寺を招請建立し、南側に浄土真宗の寺院「円城寺」(淨照寺の前身)を建立した。領主
は円城寺と地域末寺8か寺を加えて浄土真宗本願寺第13世門主良如上人に寄進した。住
職は本願寺門主が務め、御門跡兼帯所(御坊・別院)として、筋壁(表塀の五本の筋)が使
用される。
※本誓寺(ほんせいじ)・・・田原本町HPより
本誓寺は、浄土宗の寺。開基は、鎌倉時代の伝承もあるが不明。江戸時代の田原本領主
であった平野氏の菩提寺。田原本二代領主平野長勝は、正保四年(1647)に浄土真宗教
行寺を著尾に転座させ、その跡地に円城寺(現在の浄照寺)と本誓寺を建立した。 本堂は
度々の火災を受け、現在は昭和58年に再建された鉄筋コンクリート建物である。
本尊は、阿弥陀如来立像で鎌倉時代後期の作。他に、元は楽田寺にあったとされる平安
時代中期の十一面観音立像が安置されている。
田原本聖救主教会へ向かう
田原本聖救主教会・・・田原本町HPより
日本聖公会の田原本布教の歴史は、明治16年(1883)の説教会に始まり、明治28年(1895)
には最初の会堂を建築し、伝道を本格化した。現会堂は、昭和8年(1933)に建てられ、木造
平屋、切妻造り。屋根は桟瓦葺(さんかわらぶき)、鬼瓦の紋には十字架が ついている。玄関
妻側の窓も色ガラスがはめ込まれ、桟は十字架をかたどっており、昭和初期当時の面影を留
めている。 NHK連続テレビ小説「芋たこなんきん」、「マッサン」のロケ地としても使用された。
平野氏陣屋跡(役場駐車場)~
田原本は、賤ヶ岳七本槍の一人に数えられる平野長泰が、文禄4年に豊臣秀吉から
5,000石を与えられたところ。寛永12年に2代長勝がこの地に陣屋を構え、以後旗
本交代寄合として8代続いた。
明治元年に9代長裕は、5,000石を加増され大名に列した。
寺川・・・今里浜
通称、今里では「浜」と呼ばれているが、今里橋 付近の寺川が改修され昔の面影は
何も残っていない。村伝来の古地図を見る限りでは昔の繁栄振りが伺えるが今は掲
示板だけが立っているだけ。田原本北部、今里領と石見領と入り組んだ寺川の東岸
に石見領唐の口に江戸期今里村庄兵衛が経営する舟問屋があった。
今里浜は立地条件の良いことからこれらの物資の荷上場として舟問屋が建ち並び問屋
町田原本の外港として栄えた。舟運は水量の多い春と秋に利用され春は上り船が多く
塩、肥料の干鰯や油粕が運ばれ、秋は下り船が主で米、雑穀、綿花等が運ばれた。
唐古・鍵考古学ミュージアム
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100
年以上にわたって調査が続けられてきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、これまでに出土した膨大な資料の一部を展示しており、
2018年6月にリニューアルオープンしました。
玄関前のこれは何?
ただの雨だれを受ける器・・・
館内
真剣に聞いています
真剣に聞いています
楼閣と第建造物の
イメージ図
此処までは、
3月20日の日本のはじまり田原本の史跡巡りー1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-03-23
此処では、続きの池神社へ向う~ の詳細について掲載致します。
池神社へ向う
池神社・千万院
池神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年
ごろまでは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定
されている。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の
実相院が社僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社
が切り離されるまで続いた。
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院に
かわって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。
現在、千万院の僧坊はすでになく、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
眺めの丘へ向かう
眺めの丘(昼食)・展望台・集合写真撮影・オープン参加者へ入会の案内
唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
唐古・鍵遺跡史跡公園・遺構展示館(解散)
およそ2,000年前に栄えた、弥生時代の代表的な集落です。奈良盆地のほぼ中央、奈良県
磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に位置します。遺跡面積の約42ヘクタールは近畿
地方最大です。直径約400mの範囲が居住区で、その周りには幾重にも「環濠」が巡ってい
ました。遺跡は弥生時代前期(約2,300年前)に成立し、古墳時代前期(1,700年前)までの約
600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・石器・木器が出土し、その成
果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3次調査以来継続的な調査が行われ、
多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など重要な成果が相次ぎました。その重要性か
ら、1999年1月27日、国の史跡に指定されました。
唐古・鍵遺跡(国史跡)は、日本を代表する弥生時代の遺跡として知られ、発見から100年以
上にわたって調査が続けられてきました。特に末永雅雄氏らによる、唐古池の発掘調査(第
1次調査)は、弥生集落の様相が初めて明らかとなり、その後の弥生時代研究の確固たる基
礎を築きました。その後も、奈良県立橿原考古学研究所・田原本町教育委員会によって調査
が続けられ、日本最大級の環濠集落であることが明らかとなりました。また楼閣を描いた絵
画土器や、勾玉を入れた褐鉄鉱容器、大型建物跡など重要な発見も多く、今なお唐古・鍵遺
跡は、弥生文化を考える上で重要な位置を占めています。
楼閣の説明を聞く
遺構展示館
※おまけ・・・道の駅「レスティ唐古・鍵」
平成30年4月20日(金)にオープンした田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベ
ントの開催とともに、田原本町内の新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多
数販売します。また、1階のベーカリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各
種ジェラートを販売し、2階のカフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」
をメインに、ドリンクメニューや軽食メニューをご用意いたします。
「黄金の生食パン 極」
高級カナダ産小麦粉を100%使用し、バター、生クリーム、はちみつを加えて施設内で焼き上
げた高級食パンです。しっとりとした食感と優しい甘さが特徴、そのまま生でお召し上がりいた
だくのがおすすめ。もちろん焼いても美味しいです。
平成30年9月23日、24日に道の駅丹後王国「食のみやこ」で開催された『道-1グランプリ20
18』のスイーツ部門において、近畿大学と松井農園の共同開発したメロン「バンビーナ」を使
用した「バンビーナジェラート」が見事グランプリを獲得いたしました。各々1階 Kagiベーカリー
にて販売しております。
石見駅へ向かう・寺川
石見駅
田原本駅~西田原本駅へ乗り換え
田原本線100周年記念、100年前の色に塗り替えたシャリョウが・・・