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1月22の達磨寺初詣と座禅体験&王寺町史跡巡り

1月29日       1月22の達磨寺初詣と座禅体験&王寺町史跡巡り
                  歩こう会初詣ウオーク 歩程約6km
此の日は、歩こう会の初詣ウオーク、私が歩こう会に入会して昨年迄ずーっと神社への
初詣ウオークだったが、今年は会員の皆さんに座禅体験をして貰いたくて私の住む隣り
町の王寺町にある達磨寺発祥の達磨寺へ初詣ウオーク、年始法要と座禅体験をする事
にして、王寺町観光ボランティアガイドの会にお世話になり、有難う御座いました。
コースは、JR王寺駅1F雪丸像の前に9:55迄に集合・10時スタートで80名が参加した・・
JR王寺駅1F雪丸像前~達磨寺・祈祷・座禅体験~門前中町公民館・昼食~片岡神社・
片岡王寺・放光寺~芦田池~親殿神社~孝霊天皇陵~JR王寺駅(ゴール・解散)
此の日の私の万歩計は、14681歩で約10.9kmあるいた事に・・・
志都美駅 
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和歌山線の古い車両
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王寺駅1Fの雪丸像
此処で集合して達磨寺へスタート
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達磨寺へ到着
全員出年始法要祈祷、祈祷後は2班に分かれて座禅体験
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達磨寺・・・達磨信仰発祥の地
『日本書紀』によると、推古天皇21年(613年)12月、聖徳太子が道のほとりに伏せって
いた飢人を見つけ、飲み物と食べ物、それに衣服を与えて助けましたが、飢人は亡くな
りました。そのことを大いに悲しんだ聖徳太子は、飢人の墓をつくり、厚く葬りましたが、
数日後に墓を確認してみると、埋葬したはずの飢人の遺体が消えてなくなっていました。
この飢人が、のちの達磨大師の化身と考えられるようになり、達磨寺は生まれました。
このように、聖徳太子と達磨大師の出会いからはじまった達磨寺には、今も本堂の下
に達磨寺3号墳とよばれる古墳時代後期の円墳があります。
これが、聖徳太子が飢人のためにつくったお墓、すなわち達磨大師の墓とされ、鎌倉時
代にその上にお堂が建てられて、本尊として道内に聖徳太子像と達磨大師像が安置さ
れました。

祈祷、座禅体験を終わって
達磨寺境内案内、一夜竹、雪丸のお墓、松永弾正のお墓、問答石、古墳等
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問答石
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古墳
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門前中町の公民館で昼食
次回2月5日野案内&2018年皆勤賞者表彰・賞品手渡し

昼食後の午後のスタート前に
達磨寺の境内へ戻って集合写真撮影
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片岡神社
片岡神社は八幡大神、住吉大神、豊受大神、清滝大神、天照大神が祀られ、放光寺の
鎮守社であるとされている。延喜式の神名帳には片岡坐神社(かたおかにいますじん
じゃ)とあり、古人は雨の神として尊信していたと言われている。なお、旧社地は現在地
よりも北西であったとされる。記録によると正暦5年(994年)疫病や天変地異が続いた
ため、中臣氏が救済を祈願して奉納したと言われている。
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片岡王寺・放光寺
この片岡王寺が、現王寺町の町名の起源と考えられている。その遺跡は現在の王寺小
学校を中心とする位置に存在し、明治時代までは基壇跡が残っていた。それは南向きの
四天王寺式伽藍配置で、7世紀前半に敏達天皇の系統の王族が創建したと言われてい
る。片岡王寺の伽藍は永承元年(1046年)の雷火による焼失を契機に衰退し、現在では
放光寺として存続している。放光寺は第30代敏達天皇の皇女片岡姫による創建といわ
れ、聖徳太子が建立した四十六院の一つにも数えられている。しかし、永承年間の雷火
と元亀年間の兵火でほとんどが焼失。その後、延宝・元禄の頃に再建された。2004年
には、国道168号線改良事業に伴って、王寺小学校グランド部分で発掘調査を行なっ
たところ、片岡王寺に関わる奈良時代の掘っ立て柱塀と石積み溝が検出され、平城宮の
ものと同じ文様をもつ鬼瓦が出土した。
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芦田池
片岡山の南側のすそ野、芦田池周辺の一帯は、昔から葦田といわれており、かつては
一帯に葦が繁茂していたため葦田原とも呼ばれていました。それが葦田の原と歌に詠
まれる歌名所となったのです。
歌聖・柿本人麿も、
「明日からは若菜つまむと片岡のあしたの原はけふぞやくめる」と歌っています。
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親殿神社へ向う
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親殿神社
中世、片岡武士集団の守り神として信仰を集めていたそうです。
室町時代の文明2年(1470)、片岡弥五郎道春が春日若宮社の神を勧請して祀ったのが
始まりと伝わります。中世、武士達は神殿で戦勝祈願や社を中心に団結をはかり、共同
防衛軍議をするのが常であったそうです。それゆえ拝殿には、天保10年(1829)8月25日
の武者絵、嘉永2年(1849)の平敦盛と熊谷直実の図、安政2年(1855)8月25日の武者
絵、慶応元年(1865)の敦盛、直実の図など戦勝にかかる絵馬が多く奉納されています。
祭神;春日明神(経津主神・武雷神・天児屋根命・比売神) 摂社;高倉大明神
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親殿神社に奉納された絵馬を見る
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孝霊天皇陵へ向う
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孝霊天皇陵
孝霊天皇は日本の第7代天皇(在位:孝霊天皇元年1月12日-孝霊天皇76年2月8日)。孝安
天皇の皇子。母は皇后で天足彦国押人命の娘の押媛(忍鹿比売)。兄弟として『古事記』で
は同母兄に大吉備諸進命の名が見える。26才で皇太子となる。父帝が崩御した年の12月、
黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。其れまでの山裾にあった宮と異なり大和
盆地の中央に位置する。翌年の1月に即位。即位2年、磯城県主(または十市県主)大目の
娘の細媛命を皇后とし、彦国牽尊(後の孝元天皇)を得た。また春日千乳早山香媛、倭国香
媛らを妃にしている。倭国香媛との間には崇神天皇の時代に四道将軍となった彦五十狭芹
彦命、疫病や反乱を収めるのに重要な役割を果たした倭迹迹日百襲姫命を得た。即位76年、
128才で崩御。 『日本書紀』・『古事記』ともほぼ系譜の記載のみに限られ、欠史八代の1人
に数えられる。『古事記』には大吉備津日子命と若建吉備津日子命による吉備平定が簡潔
に書かれている。此れが後の桃太郎伝説になる。
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孝霊天皇陵から田原本町法楽寺方面&天理方面を見る・・・
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王寺駅へ向かう
葛下川の堤防道路で信貴山を・・・
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