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1月16日の道明寺天満宮から古市古墳群を巡り葛井寺へ-2

1月22日      1月16日の道明寺天満宮から古市古墳群を巡り葛井寺へ-2
                  歴史探訪の会の年始ウオ-ク
此の日は、参加者20名で昨年10月に下見して決めたハイキングコースを藤井寺市観光
協会のボランティアガイドのお力をお借りし、楽しい素晴らしいハイキングとなりました。
コースは
道明寺駅(スタート)~道明寺天満宮~道明寺~土師ノ里駅前~鍋塚古墳~仲姫命陵古
墳~古室山古墳~赤面山古墳~大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~サンド山古墳~シュラ
ホール~辛国神社~葛井寺~藤本酒造醸・試飲等(解散)~藤井寺駅 
此の日の私の万歩計は、15475歩で約11.4kmあるいたことに・・・
自宅~志都美駅へ向かう
志都美駅近くの着物病院?
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志都美駅
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柏原駅で近鉄に乗り換え
近鉄のホームから
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道明寺駅(スタート)・・・道明寺駅の歴史(近鉄電車発祥の駅として知られる)
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。
道明寺駅ホームから・・・
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道明寺駅の外
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道明寺天満宮へむかう
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道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当たる
野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社があった。
仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太子の発願によ
り土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺には菅原道真公のお
ばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、この寺のことを「故郷」
と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途中にも立ち寄って、覚寿
尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等が神宝として伝わり、6点
が国宝の指定を受けている。
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修羅
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梅もちらほら
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古代道明寺五重塔跡 礎石
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木槵樹(もくげんじゅ)
菅原道真公が40歳の時に古代道明寺で大乗経典のお経を写経し、それを納めた
ところから生えた木が木槵樹だそう。木槵樹の起源は古く、お釈迦様の時代からあり、
「木槵子経」というお経があるのだそうです。実の中が巻物の様になってるそうです。
此処は入れないが、現道明寺の境内にも木槵樹が植えて有り、実が拾えるそうです。
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道明寺(どうみょうじ)・・・ 道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。道明寺
は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。当時は七堂伽
藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真
がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂けれ鶏の音のなからん里の暁
もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の
『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれている。道真の死後、寺名は道明寺と改めら
れるが、これは道真の号である「道明」に由来する。
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土師ノ里駅前
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鍋塚古墳
仲津山古墳(伝仲姫命陵)の後円部に近接して築造された、一辺50m、高さ7mの方墳であ
り、濠があった可能性がある。内部構造は明らかでないが葺石と埴輪列が確認されている。
円筒埴輪の他、家、盾、靫、蓋(きぬがさ)形の形象埴輪が用いられている。円筒埴輪には
黒斑を有し、類似の埴輪が出土している仲津山古墳との関係がうかがえる。1956年に国の
史跡に指定された。なお、2001年に史跡の追加・統合指定が行われ、本古墳を含む14基
の古墳が「古市古墳群」の名称であらためて国の史跡に指定されている。
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知人の家の前を通り、仲姫命陵古墳へ向かう
※澤田八幡神社・・・境内に電車が通っている全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭  神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生した八幡神社
が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八幡宮(羽曳野市)の分霊を
勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室八幡神社、土師里八幡神社、津堂八
幡神社の四社です。とある・・・・

仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群では応神
天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考られる鍋塚古
墳があります。
仲姫命(なかつひめのみこと、生没年不詳)は、応神天皇の皇后。『古事記』は中日売命
に作る。品陀真若王(五百城入彦皇子の王子、景行天皇の孫王)の王女で、母は金田
屋野姫命(建稲種命の女)。応神天皇との間に仁徳天皇を儲ける。仲津姫命とも。ちな
みに同母姉の高城入姫命や同母妹の弟姫命も応神天皇の妃となっている。
応神天皇2年2月3日(271年3月1日)、応神天皇の皇后に立后された。仁徳天皇元年
1月3日(313年2月14日)、仁徳天皇の即位と同日に皇太后となった。
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古室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置していま
す。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばらしいものがあり
ます。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花を咲かせます。これら
はいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の長さは150mで、古市古墳群
の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古墳が造られたのは4世紀末から5世
紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形成が開始された時期にあたり、同古墳群中
で最も早く造られた古墳の一つに数えられます。
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※赤面山古墳
西名阪自動車道の高架下に赤面山古墳がある。大鳥塚古墳の後円部に接するように
位置するこの高まりが赤面山古墳です。現状からすると、墳丘の一辺が15メートルの
方墳と考えられます。人を葬った施設などは分かっていません。赤面山古墳が造られ
たのは、従来の身分秩序が変化しつつある時期でした。そして、赤面山古墳の被葬者
は、生前、大鳥塚古墳の被葬者に仕えていた人物で、死後もなお、その力関係は、葬
られた古墳の墳丘の形と立地関係により、目に見える形で現わされたのです。
此処までは、
1月16日の道明寺天満宮から古市古墳群を巡り葛井寺へ-1 として
            下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
           https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-22
此処では、続きの大鳥塚古墳~ の詳細を掲載します。
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中では中
形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になっていて、足を踏
み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の斜面には石が
葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の構造は分かってい
ません。
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応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで百舌鳥
古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143万立法mで仁
徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大と言われる。 
応神天皇(おうじんてんのう、仲哀天皇9年12月14日 - 応神天皇41年2月15日)は、第
15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。諱は誉田別尊(ほむたわ
けのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけのみこと)。
誉田天皇(ほむたのすめらみこと/ほんだのすめらみこと)、胎中天皇(はらのうちにまし
ますすめらみこと)とも称される。
学術的に確定しているわけではないが、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の
高い天皇と見られている。宮内庁によれば、在位270-310年とされている。御名に装飾
性がなく『記紀』に記された事跡が具体的でなおかつ朝鮮の史書の記述に符合する部
分も窺えることから、「確実に実在をたしかめられる最初の天皇」としている。また中国
の史書との相対比較から、『宋書』や『梁書』に見える倭の五王の「讃」に比定する説も
ある。
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かごの屋で昼食 和み弁当
皆さんご満足のご様子でした・・・
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サンド山古墳
近くに応仁天皇陵が存在するため、宮内庁から応神天皇陵(恵我藻伏岡陵)へ号陪塚と
されていますが、恐らく独立した古墳群と考えられています。5世紀~6世紀前半に造られ
たとされ、現在の規模は長さ30m、高さ3m程です。墳形が崩れ原型を留めていないため、
実際にどのような古墳だったのかは分かっていません。サンド山古墳は藤井寺市藤が丘
にある「藤ヶ丘 山道ポケットパーク」に内にあります。サンド山古墳も蕃所山古墳と同様
に住宅街の真っ只中に存在する古墳ですが、蕃所山古墳のように墳形が保たれておら
ず案内板もないのでただの土山にしか見えません。「サンド山古墳」の特徴として ・墳形
が崩れてなにかわからない ・発掘したのかどうかもわからないから情報がない ・宮内庁
管理なので中にも入れない ・エピソードもない と、古墳巡り泣かせな古墳です。
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アイセル・シュラホール
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン ターの
愛称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
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辛国神社(からくにじんじゃ)
今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社と なり、
式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。日本書紀には、『雄略十三年春三月、
餌香長野邑を物部大連に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町のあたりと思われ
る。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社をつくり、その後、
辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。三代実録には、清和天皇『貞
観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る』とあります。元の神社は恵
美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の頃)河内守護職畠山基国氏が
社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈良春日大社に懇請してその祭神・天
児屋根命を合祀したと伝えられている。 明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合
祀して現在に至っている。御神徳・饒速日命・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神。 天孫降
臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけて河内国
哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三四五六七八
九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死人も行き反えらん』と教え諭さ
れた。故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信仰されている。祭神は、
天児屋根命・藤原氏の祖神。素盞鳴命・天照大神の弟神。 品陀別命・応神天皇。市杵
島姫命・素盞鳴命の子。
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葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立され
ました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡 礼者が
訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏で、毎月
18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物として、国指
定の重要文化財となっています。
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藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々からの
水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいをいう重治郎の願いは「冨士正宗」という銘柄
に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
重治郎から経営は昇治に引き継がれ更に雅一(ただひと)に引き継がれ現在に至っ
ています。当蔵では、製造した年に販売せず、蔵で数年間貯蔵します。本来は最低
でも2~3年は貯蔵した物を販売しています。      
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利き酒&試飲
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