1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー2
2019年1月17日 1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー2
近鉄駅フリーハイキング 歩程約 8㎞
布施戎へ3年連続で参加、此の日は知人の・K場さん・M吉さん・M村さん・S藤さん・O村
さんと6名で参加、此の日の私の万歩計は、19428歩で約14.3km歩いたことに・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪線布施駅コンコース 10時3分集合
布施駅(受付・スタート)~布施戎神社~都留弥神社~子守神社跡~司馬遼太郎記念館
~石田神社~吉田春日神社(ラグビー神社)~花園ラグビー場(昼食)~東花園駅
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
下田駅
布施駅(受付・スタート)
本町通り商店街
布施駅前通りから西側の通りにあり、50店舗、約350mの両側に面し、商店街入り口に
は、足代のだんじり小屋を設置されており近くには商売繁盛の神様、布施戎神社があり
ます。地域に密着した、昭和の始めよりの老舗の物品販売、各種飲食店、食料品販売、
医院、銀行等が有ります。
布施戎神社・・・近鉄ハイキング参加者先着500名に記念のお守り
足代(あじろ)にあった神社で元の名は都留彌(つるみ)神社でしたが大正3年に統合され
荒川に移転し、その神社跡に昭和20年初期に布施戎神社と改名し、現在は、「布施の戎
さん」として親しまれています。又「福娘コンテスト」も実施されており、選ばれた福娘も戎っ
さんに参加し毎年1月9日~11日は賑わいを増しています。
本町通り商店街
都留弥神社(つるみじんじゃ)
延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 都留彌神社』とある式内社。曾ては“都留美”とも記した
が、大正5年(1916)古称・都留彌に戻ったという。
創建年代・由緒は不詳だが、当社由緒略記には「当神社の創祀は頗る古く、今より千百年
以前に、仁和2年(886)第58代光孝天皇の御代の国史所載の由緒深き式内社」とある。
国史所載とは、三代実録(901撰上)の光孝天皇・仁和2年条に記す、「授河内国従五位下
垂水水神二前従五位上」との記事を指すというが、疑義もある。
社名・都留彌(都留弥・ツルミ)の意味不明。式内社の研究(1977)には、「川中島の多いな
かで目出度い一対をなす島があったので、この神名となり豊漁を祈ったのであろう」とある
が、推測の域を出ない。
由緒略記には「醍醐天皇の延喜10年(910)、春から続く大旱魃で田植えができず百姓が
困っていた。それを聞いた天皇が、河内国の12社に勅使を遣わし雨乞いを祈願された。
これにより大雨が降り伝畑を潤し喜びの声が国々に満ち、その後も順雨が続き連年豊作
が続いた。この奇瑞に感動した天皇が親しく当社に参詣され、都留彌神社の社号を賜り、
従五位上を贈られた」(大意)とある。
これは、社名および神階授与の記事であって創建由緒ではなく、また、これを証する史料
はないという。ただ、祈雨祈願した河内12社の中の一社であることから、10世紀当初以前
からあった神社とはいえる。
子守神社跡へ向かう
子守神社跡
永和の街中に有り、此処は明治時代には横沼と呼ばれ、横沼の氏神神社でした。
現在は地蔵堂が残され、傍らに神社跡を示す大きな石碑と寛保2年造立の石燈籠
が見られます。
公民館&公園で小休止
司馬遼太郎記念館へ向かう
玉川橋を渡り石田神社へ向う
此処までは、
1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-17/
此処では、続きの石田神社~についての詳細を掲載します。
石田神社
御祭神:誉田別尊(応神天皇)、足仲彦尊(仲哀天皇)、息長足姫尊(神功皇后)
延喜式小社で弘仁式の時からの官社であり「石田神社」又は「石田八幡宮」と称します。
欽明天皇御宇(537~571)この地の田圃の中に岩船があり、その上に三神が降臨したの
で社壇を築き、奉祀したのが創始と伝えられています。
その岩船伝説によると、往古この社の北側の水田の中に直径2m位の円錐形の二つの小
塚があり、東の塚を「幸神塚」、西の塚を「無名塚」と呼んでいました。その塚の間が36mで、
船によく似た岩がありましたた。これは古代大きな石の船がここで難破したものと言われて
います。ある時ここを開拓した者が大磐石があるのを見ましたが、暴風が忽然として起こり
その場に気絶してしまったと言います。明治5年岩田八幡宮から現社名に改称しました。
若江岩田駅前
河内花園駅
アーケード商店街
吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。
花園ラグビー場(昼食)
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
平成27年4月より「東大阪市花園ラグビー場」に名称が変更され、平成29年から改修工事
が始まり平成30年の9月には工事を終え、新しいスタジアムに生まれ変わりました。
今年は、ラグビーワールドカップ大会が開催されます。
昼食
東花園駅へ向かう
東花園駅
5名は鶴橋方面へ、私は奈良方面へ向かい生駒駅~王寺駅へ
布施戎神社のお守り
近鉄駅フリーハイキング 歩程約 8㎞
布施戎へ3年連続で参加、此の日は知人の・K場さん・M吉さん・M村さん・S藤さん・O村
さんと6名で参加、此の日の私の万歩計は、19428歩で約14.3km歩いたことに・・・
コース 近鉄駅フリーハイキング 大阪線布施駅コンコース 10時3分集合
布施駅(受付・スタート)~布施戎神社~都留弥神社~子守神社跡~司馬遼太郎記念館
~石田神社~吉田春日神社(ラグビー神社)~花園ラグビー場(昼食)~東花園駅
志都美駅
香芝駅~近鉄下田駅へ
鹿島神社・・・平安末期の勧請伝承を持つ由緒ある鹿島神社。
河内源氏当主源義朝の腹心に、鎌田左兵衛尉政清という者がいた。相模の出身で、母
が義朝の乳母であり、乳兄弟として義朝が最も信頼を置く男だった。平治の乱で平清盛
に敗れ京都を逐われた義朝は、勢力を立て直すべく東国へ向かった。道中落武者狩り
に遭い、多くの一族郎等を失いながら、尾張国野間の長田忠致の許に身を寄せた。忠致
は政清の舅にあたる。この時義朝は馬を失い、しかも裸足だったという。
忠致は義朝一行を快く迎え入れ歓待したが、その夜異変は起こる。忠致が恩賞目当てに
裏切り、入浴中の義朝を暗殺。政清も酒を呑まされて忠致の子景致に殺害される。平治
二年(1160)が明けて間もなくのことだった。
父政清とともに義朝に従っていた鎌田小次郎政光は難を逃れ、常陸国鹿島神宮に辿り着
いた。鹿島はかつて少しの期間ながら居住したことのある地だった。政光は鹿島大明神に
源氏再興と鎌田家繁栄を祈願し、百日の参籠を行った。満願を迎えた夜、夢に老翁が現
れてこう告げた。 「庚子の年に源氏栄えん。汝の福は西にあらん」
政光は鹿島の神の分霊を奉じて西方を目指し旅立った。長い年月が過ぎた。時に承安二
年(1172)三月、大和国下田に到った頃、日が沈んだため松の木の下で野宿をした。翌朝
目を覚ました政光は、この地の風景が鹿島に似ているように思い懐かしむ。そこでこの地
こそが我が安住の地と思い定め、小祠を建てて鹿島大明神を祀ったという。
政光とその子孫は下田の南の鎌田に代代住して鹿島神社に奉仕し、また鎌田村の名主と
して長く栄えた。そして庚子にあたる治承四年(1180)、源義朝の遺児頼朝が平氏を打倒し、
源氏の世が到来する。又、香芝市の市名由来は冠雪的に鹿島神社とされている。
下田駅
布施駅(受付・スタート)
本町通り商店街
布施駅前通りから西側の通りにあり、50店舗、約350mの両側に面し、商店街入り口に
は、足代のだんじり小屋を設置されており近くには商売繁盛の神様、布施戎神社があり
ます。地域に密着した、昭和の始めよりの老舗の物品販売、各種飲食店、食料品販売、
医院、銀行等が有ります。
布施戎神社・・・近鉄ハイキング参加者先着500名に記念のお守り
足代(あじろ)にあった神社で元の名は都留彌(つるみ)神社でしたが大正3年に統合され
荒川に移転し、その神社跡に昭和20年初期に布施戎神社と改名し、現在は、「布施の戎
さん」として親しまれています。又「福娘コンテスト」も実施されており、選ばれた福娘も戎っ
さんに参加し毎年1月9日~11日は賑わいを増しています。
本町通り商店街
都留弥神社(つるみじんじゃ)
延喜式神名帳に、『河内国渋川郡 都留彌神社』とある式内社。曾ては“都留美”とも記した
が、大正5年(1916)古称・都留彌に戻ったという。
創建年代・由緒は不詳だが、当社由緒略記には「当神社の創祀は頗る古く、今より千百年
以前に、仁和2年(886)第58代光孝天皇の御代の国史所載の由緒深き式内社」とある。
国史所載とは、三代実録(901撰上)の光孝天皇・仁和2年条に記す、「授河内国従五位下
垂水水神二前従五位上」との記事を指すというが、疑義もある。
社名・都留彌(都留弥・ツルミ)の意味不明。式内社の研究(1977)には、「川中島の多いな
かで目出度い一対をなす島があったので、この神名となり豊漁を祈ったのであろう」とある
が、推測の域を出ない。
由緒略記には「醍醐天皇の延喜10年(910)、春から続く大旱魃で田植えができず百姓が
困っていた。それを聞いた天皇が、河内国の12社に勅使を遣わし雨乞いを祈願された。
これにより大雨が降り伝畑を潤し喜びの声が国々に満ち、その後も順雨が続き連年豊作
が続いた。この奇瑞に感動した天皇が親しく当社に参詣され、都留彌神社の社号を賜り、
従五位上を贈られた」(大意)とある。
これは、社名および神階授与の記事であって創建由緒ではなく、また、これを証する史料
はないという。ただ、祈雨祈願した河内12社の中の一社であることから、10世紀当初以前
からあった神社とはいえる。
子守神社跡へ向かう
子守神社跡
永和の街中に有り、此処は明治時代には横沼と呼ばれ、横沼の氏神神社でした。
現在は地蔵堂が残され、傍らに神社跡を示す大きな石碑と寛保2年造立の石燈籠
が見られます。
公民館&公園で小休止
司馬遼太郎記念館へ向かう
玉川橋を渡り石田神社へ向う
此処までは、
1月11日の布施戎からラグビーの聖地花園へトライー1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2019-01-17/
此処では、続きの石田神社~についての詳細を掲載します。
石田神社
御祭神:誉田別尊(応神天皇)、足仲彦尊(仲哀天皇)、息長足姫尊(神功皇后)
延喜式小社で弘仁式の時からの官社であり「石田神社」又は「石田八幡宮」と称します。
欽明天皇御宇(537~571)この地の田圃の中に岩船があり、その上に三神が降臨したの
で社壇を築き、奉祀したのが創始と伝えられています。
その岩船伝説によると、往古この社の北側の水田の中に直径2m位の円錐形の二つの小
塚があり、東の塚を「幸神塚」、西の塚を「無名塚」と呼んでいました。その塚の間が36mで、
船によく似た岩がありましたた。これは古代大きな石の船がここで難破したものと言われて
います。ある時ここを開拓した者が大磐石があるのを見ましたが、暴風が忽然として起こり
その場に気絶してしまったと言います。明治5年岩田八幡宮から現社名に改称しました。
若江岩田駅前
河内花園駅
アーケード商店街
吉田春日神社(ラグビー神社)
吉田春日神社は、大阪府東大阪市吉田にある神社。近代社格では村社。神社本庁に属
さない単立神社である。正式には春日神社のみ。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。大和春日大社より四柱神を勧請したと伝わる。旧河内郡吉田村の鎮守
として崇敬され、古くは「松の宮」と称した。
御祭神は、天児屋根大神・比売大神・武甕槌大神・経津主大神(斎主大神)。
現存の本殿は、江戸時代前期の寛文10年(1670年)に再建され、中期の享保5年
(1720年)に大修理されたもの。
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
当社はその程近くに鎮座するため、現在は「ラグビー神社」として知られる。拝殿には奉納
された大きな木製のラグビーボールとラグビーボール型の絵馬が並ぶ。
正月の全国高校ラグビー大会、ジャパントップリーグの開催期間には関係者の参詣が多く、
全国唯一のラグビー守袋を扱う。
花園ラグビー場(昼食)
昭和4年(1929年)、日本初のラグビー専用スタジアムとして、花園ラグビー場が開場した。
「花園」といえば高校生ラガーの憧れであり、聖地。
平成27年4月より「東大阪市花園ラグビー場」に名称が変更され、平成29年から改修工事
が始まり平成30年の9月には工事を終え、新しいスタジアムに生まれ変わりました。
今年は、ラグビーワールドカップ大会が開催されます。
昼食
東花園駅へ向かう
東花園駅
5名は鶴橋方面へ、私は奈良方面へ向かい生駒駅~王寺駅へ
布施戎神社のお守り