12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-2
12月28日 12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-2
2月5日の歩こう会特別企画 コース下見約9㎞
此の日は知人と3名で2月5日の歩こう会特別企画のコース下見に田原本町に行って来た、
オプションも加えて歩いてみる事に、その中で本番のコースを決めて行く・・・
コース下見 近鉄田原本線黒田駅に10時集合 ・M吉さん・Y田さんと私の3名で歩いた
近鉄田原本線 黒田駅(スタート)~孝霊神社(集合場所に設定)~法楽寺(桃太郎伝説発
祥の地)~黒田大塚古墳(トイレ休憩)~笹鉾山古墳(オプション)~安養寺(オプション)~
鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩)~池坐神社・千万院~ながめの丘展望台
~唐古・鍵遺跡史跡公園(昼食休憩)~遺構展示情報館~道の駅「レスティー唐古・鍵」~
近鉄橿原神宮線石見駅→田原本駅出降りて田原本町観光ステーションに立ち寄り。
曇り空の中を歩いたが雨には降られず、田原本駅で乗り換え時にパラパラと小雨に会い、
此の日の私の万歩計は、21416歩で約15.8km歩いたことに・・・
本番へのコース設定を次に決めた
黒田駅~徒歩3分~孝霊神社(受付・集合場所)~法楽寺(桃太郎伝説発祥の地)~黒田大
塚古墳(トイレ休憩)~鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩)~池坐神社・千万院
~ながめの丘展望台公園(トイレ休憩・展望)~唐古・鍵遺跡史跡公園(昼食休憩)~遺構展
示情報館(解散)~道の駅「レスティー唐古・鍵」~橿原神宮線石見駅
志都美駅
王寺駅(1月22日の歩こう会 受付・集合場所)
りーべる王寺1F玄関前広場・・・雪丸像が
黒田駅
孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦命
(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社であっ
たが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧地より
移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。
岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』
に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するもの
である。第七代孝霊天皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この
黒田のあたりを指し、この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。孝霊神社の周辺
には弥生時代の黒田遺跡や、古墳時代の前方後円墳・黒田大塚古墳がある。又、この
前の道は、聖徳太子が通ったとの伝承をもつ太子道である。
法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかかる
ものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)に
再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の伽
藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在残
るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後期)
などの古い仏像も所蔵する。
黒田大塚古墳・・・古墳に登れる トイレ休憩
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は86m
であるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。周濠の発掘調査
では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたものと考えられる。葺石は
認められない。出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
笹鉾山古墳へ向かう
笹鉾山古墳・・・オプション 入口も中も狭く多人数で入れない
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。全長
88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方部に向かっ
て参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立されていた。 古墳時
代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円墳(2号墳)が存在する。
2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬のセットが2組出土している。馬子
の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。出土した埴
輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
安養寺・・・オプション 回り道になる、トイレが有れば良いが?
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。安養寺(あんようじ)は
1633年に創建されたお寺です。木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭
の作品です。像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗
ったものである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が映
っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手法が認めら
れるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認められるが、これは後
世に書き改められたものと考えられている。
鍵の蛇巻きへ向かう
鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で祝い事
のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ねる。300キロ
近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加した全少年が頭の前
進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学校の前の「はったはん」とい
う場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に吊るされる。(下り龍・降り龍)
※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18mにもな
る蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの先にくくられた「わ
かめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。甘く美味。その後、中学1
年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめでとう」と言いながら練り歩
く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、
神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられる。(上り龍・昇り龍)
唐古・鍵遺跡史跡公園・・・トイレ休憩
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈良盆地のほ
ぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、大型建物や高床・竪
穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されている。大環濠(内濠)は直径400
mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方mの面積を占める。出土遺物は土器、
農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、
種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に
入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺
構・遺物から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。展示品は、唐古・鍵考古
学ミュージアムに展示している。
此処までは、
12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-28
此処では、続きの池坐神社~ の詳細を掲載します。
池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年ごろ
までは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定されてい
る。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の実相院が社
僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社が切り離されるま
で続いた。
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にか
わって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでにな
く、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
大和川の堤防へ出て
ながめの丘展望台(大和川堤防に建つ展望台)・・・トイレ休憩
展望台から
唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
唐古・鍵遺跡史跡公園・・・昼食&トイレ休憩
遺構展示情報館
道の駅「レスティ唐古・鍵」・・・トイレ有
田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベントの開催とともに、田原本町内の
新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多数販売します。また、1階のベー
カリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを販売し、2階の
カフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメインに、ドリンクメニ
ューや軽食メニューをご用意しています。
石見駅へ向かう
石見鏡作神社(三宅町にある鏡作神社)・・・隣の田原本町に鏡作神社が3社ある
当社は延喜式内社にして鏡作の祖神を祀る。石凝姥命を祀る古社である。
※石凝姥命(いしこりどめのみこと)、別名 伊斯許理度売命(:いしこりどめのみこと)
鏡作りの神。鏡作の遠祖・天糠戸の御子。
『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、 鍛人天津
麻羅を求ぎて伊斯計理度売命に鏡を作らせたとある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと
考え、石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけ
た矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。また他の一書には、鏡作部の遠祖・天糠戸
に鏡を作らしめとあり、 さらに別の一書には、鏡作の遠祖・天抜戸(=天糠戸)の子・石
凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖である天糠戸の御子であること
がわかる。天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、
天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
石見駅
2月5日の歩こう会特別企画 コース下見約9㎞
此の日は知人と3名で2月5日の歩こう会特別企画のコース下見に田原本町に行って来た、
オプションも加えて歩いてみる事に、その中で本番のコースを決めて行く・・・
コース下見 近鉄田原本線黒田駅に10時集合 ・M吉さん・Y田さんと私の3名で歩いた
近鉄田原本線 黒田駅(スタート)~孝霊神社(集合場所に設定)~法楽寺(桃太郎伝説発
祥の地)~黒田大塚古墳(トイレ休憩)~笹鉾山古墳(オプション)~安養寺(オプション)~
鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩)~池坐神社・千万院~ながめの丘展望台
~唐古・鍵遺跡史跡公園(昼食休憩)~遺構展示情報館~道の駅「レスティー唐古・鍵」~
近鉄橿原神宮線石見駅→田原本駅出降りて田原本町観光ステーションに立ち寄り。
曇り空の中を歩いたが雨には降られず、田原本駅で乗り換え時にパラパラと小雨に会い、
此の日の私の万歩計は、21416歩で約15.8km歩いたことに・・・
本番へのコース設定を次に決めた
黒田駅~徒歩3分~孝霊神社(受付・集合場所)~法楽寺(桃太郎伝説発祥の地)~黒田大
塚古墳(トイレ休憩)~鍵の蛇巻~唐古・鍵遺跡史跡公園(トイレ休憩)~池坐神社・千万院
~ながめの丘展望台公園(トイレ休憩・展望)~唐古・鍵遺跡史跡公園(昼食休憩)~遺構展
示情報館(解散)~道の駅「レスティー唐古・鍵」~橿原神宮線石見駅
志都美駅
王寺駅(1月22日の歩こう会 受付・集合場所)
りーべる王寺1F玄関前広場・・・雪丸像が
黒田駅
孝霊神社
祭神は孝霊天皇(大倭根子日子賦斗迩命)御脇立 倭迹迹日百襲姫命、彦五十狭彦命
(吉備津彦命・桃太郎噺のモデル)、稚武彦命、他三神。もとは、法楽寺の鎮守社であっ
たが、明治時代初期に現社地へ遷座をし、黒田村の氏神として引き継がれた。旧地より
移した物に、明和七年(1770)の石燈籠がある。
岡山県や香川県など日本各地に残る桃太郎の伝説地の多くは、『古事記』、『日本書紀』
に記されている孝霊天皇の皇子の彦五十狭彦命と稚武彦命兄弟の活躍に由来するもの
である。第七代孝霊天皇の黒田廬戸宮(いおと)は、田原本町宮古(都の意)から、この
黒田のあたりを指し、この一帯は古代の地名を残した貴重な所である。孝霊神社の周辺
には弥生時代の黒田遺跡や、古墳時代の前方後円墳・黒田大塚古墳がある。又、この
前の道は、聖徳太子が通ったとの伝承をもつ太子道である。
法楽寺
法楽寺は、由緒書によれば、孝霊天皇黒田廬戸宮跡に建立され、聖徳太子開基にかかる
ものとされる。承元元年(1207年)、伽藍坊舎は残らず焼失したが、貞応元年(1222年)に
再建がなされた。長禄三年(1459年)八月の墨書銘をもつ板絵には、盛時の法楽寺の伽
藍坊院が描かれている。室町時代の盛期には堂宇25を数えたが、兵火で焼けて現在残
るのは1坊のみである。 本尊は子安地蔵菩薩立像。僧形地蔵菩薩坐像(室町時代後期)
などの古い仏像も所蔵する。
黒田大塚古墳・・・古墳に登れる トイレ休憩
黒田大塚古墳は、古墳時代後期の前方後円墳である。周濠まで含めた本来の全長は86m
であるが、後世に周濠は埋め立てられ、墳丘の周囲が削り取られている。周濠の発掘調査
では埴輪や木製品が出土しており、墳丘上に立て並べられていたものと考えられる。葺石は
認められない。出土品の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
笹鉾山古墳へ向かう
笹鉾山古墳・・・オプション 入口も中も狭く多人数で入れない
笹鉾山古墳(1号墳)は、田原本町八尾字山本に所在する東向きの前方後円墳である。全長
88mの2重周濠をもつ6世紀前半の古墳である。墳頂には稲荷神社が祀られ前方部に向かっ
て参道が伸びている。主体部は明らかでないが、墳丘には埴輪が樹立されていた。 古墳時
代後期(6世紀前半)に制作。1号墳の北側28mに直径約19.5mの円墳(2号墳)が存在する。
2号墳の周濠からは、ほぼ完全に復元できる馬子と飾り馬のセットが2組出土している。馬子
の1体の顔面には入れ墨を表現する線刻がみられる。
このほか、蓋形埴輪・円筒埴輪・朝顔形埴輪・笠形木製品などが出土している。出土した埴
輪の一部は、唐古・鍵考古学ミュージアムに展示されている。
安養寺・・・オプション 回り道になる、トイレが有れば良いが?
安養寺は、寛永10年(1633)、源蓮社宝誉上人の開山と伝えられる。安養寺(あんようじ)は
1633年に創建されたお寺です。木造阿弥陀如来立像は鎌倉時代 12世紀末〜13世紀初頭
の作品です。像は、玉眼・粉溜塗の特徴をもつ。粉溜とは、白土を下地にその上に金泥を塗
ったものである。快慶が好んで用いた手法。X線写真によると、眼の奥に蛇腹状の文様が映
っている。これは玉眼を入れるための工法によるもので、快慶仏には時々この手法が認めら
れるという。足ほぞには快慶作を示す「巧匠安阿弥陀佛」の墨書が認められるが、これは後
世に書き改められたものと考えられている。
鍵の蛇巻きへ向かう
鍵の蛇巻き・・・(下り龍・降り龍)
鍵では、午前中八坂神社にて稲わらで蛇をつくる。午後からは1年の間に鍵大字内で祝い事
のあった家や、お祝いをしたい家に「おめでとう」と言いながら、蛇を担いで訪ねる。300キロ
近い頭を中学1年生から高校1年生までの男子が担ぎ、後ろの綱を参加した全少年が頭の前
進を阻むよう引っ張り合いながら道を進んでいく。最後に、北中学校の前の「はったはん」とい
う場所の大樹の根元に頭がおかれ、胴体を上にして樹に吊るされる。(下り龍・降り龍)
※今里の蛇巻き・・・(上り龍・昇り龍)
今里の杵築神社では、午後1時過ぎに中学生以上の男子が麦わらを束ねて、全長18mにもな
る蛇を作る。行事参加者が拝殿でお神酒を飲む間、村の参拝者にはわらの先にくくられた「わ
かめの味噌煮」が配られる。余れば、観光客にもおすそ分けがある。甘く美味。その後、中学1
年生から高校1年生までの男子が蛇頭を抱え、今里の各戸を「おめでとう」と言いながら練り歩
く。広い道では、「それ」との掛け声とともに、蛇体に人を巻き込む。蛇は再び杵築神社に戻り、
神社南側にある大樹に頭を上に巻き付けられる。(上り龍・昇り龍)
唐古・鍵遺跡史跡公園・・・トイレ休憩
田原本町大字唐古から鍵にかけて所在する弥生時代の環濠集落遺跡である。奈良盆地のほ
ぼ中央、標高48〜51mの沖積地に立地する。集落は、多条環濠を有し、大型建物や高床・竪
穴住居、木器貯蔵穴、井戸、区画溝などの遺構で構成されている。大環濠(内濠)は直径400
mの範囲を囲み、外濠を含めた全体では約42万平方mの面積を占める。出土遺物は土器、
農工具・容器などの木製品、石鏃や石包丁などの石器骨角器、卜骨などの祭祀遺物、炭化米、
種子、獣骨類など多種多様な遺物、さらには銅鐸の鋳型などの鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に
入ったヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も出土している。これらの遺
構・遺物から本遺跡は、近畿地方の盟主的な集落と考えられている。展示品は、唐古・鍵考古
学ミュージアムに展示している。
此処までは、
12月20日の田原本町桃太郎伝説&唐古・鍵遺跡公園-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-12-28
此処では、続きの池坐神社~ の詳細を掲載します。
池坐神社
池神社は、初瀬川沿いに鎮座する。祭神は天万栲幡千千比売命・菅原道真で、明治初年ごろ
までは天満宮と称されていた。現在は延喜式内大社「池坐朝霧黄幡比売神社」に比定されてい
る。中世の天満宮は、在地豪族長谷川党の鎮守であった。近世以降も 法貴寺の実相院が社
僧として社務全般を支配した。この関係は神仏分離により法貴寺から池神社が切り離されるま
で続いた。
千万院
法貴寺は、「法起寺」ともいい、聖徳太子が創建し秦河勝に賜ったという。千万院はこの法貴
寺の塔頭の子院だった。法貴寺の本坊を実相院といい、中世には法貴寺天満宮(池坐朝霧
黄幡比売神社)の別当職を担うなど、在地豪族長谷川党とのつよい結びつきで大きな勢力を
誇った。しかし、江戸時代半ばには実相院と千万院の2坊のみとなり、神仏分離で実相院にか
わって法貴寺薬師堂を受け継いだのは千万院だけとなった。現在、千万院の僧坊はすでにな
く、薬師堂を千万院と呼ぶ習わしとなっている。
大和川の堤防へ出て
ながめの丘展望台(大和川堤防に建つ展望台)・・・トイレ休憩
展望台から
唐古・鍵遺跡史跡公園へ向かう
唐古・鍵遺跡史跡公園・・・昼食&トイレ休憩
遺構展示情報館
道の駅「レスティ唐古・鍵」・・・トイレ有
田原本町道の駅「レスティ唐古・鍵」は、さまざまなイベントの開催とともに、田原本町内の
新鮮な野菜、果物、花をはじめ地元や県下の特産品を多数販売します。また、1階のベー
カリーでは「黄金の生食パン極」を製造直売するとともに、各種ジェラートを販売し、2階の
カフェではバラエティー豊かな12種類の「オリジナルドッグサンド」をメインに、ドリンクメニ
ューや軽食メニューをご用意しています。
石見駅へ向かう
石見鏡作神社(三宅町にある鏡作神社)・・・隣の田原本町に鏡作神社が3社ある
当社は延喜式内社にして鏡作の祖神を祀る。石凝姥命を祀る古社である。
※石凝姥命(いしこりどめのみこと)、別名 伊斯許理度売命(:いしこりどめのみこと)
鏡作りの神。鏡作の遠祖・天糠戸の御子。
『古事記』に、天岩屋戸神話に登場する神で、天照大御神を招き出すため、 鍛人天津
麻羅を求ぎて伊斯計理度売命に鏡を作らせたとある。
『日本書紀』の一書では、思兼神が天照大御神の姿を写すものを造って、招き出そうと
考え、石凝姥に天の香山の金を採り、日矛(立派な矛の義。日の神の矛、茅をまきつけ
た矛、または八咫の鏡)を作らせたとある。また他の一書には、鏡作部の遠祖・天糠戸
に鏡を作らしめとあり、 さらに別の一書には、鏡作の遠祖・天抜戸(=天糠戸)の子・石
凝戸辺が作った八咫の鏡を懸けたとあり、 鏡作の遠祖である天糠戸の御子であること
がわかる。天孫降臨に際し瓊々杵尊に従った五伴緒神(五部神:天児屋根命、太玉命、
天鈿女命、石凝姥命、玉屋命)の一柱。
石見駅