10月31日のボート免許更新講習&その他
11月7日 10月31日のボート免許更新講習&その他
10月31日~11月1日
10月31日
船舶免許更新講習会場ヘ向う
船舶免許更新講習は5年毎に行われる、私にとって今年は2回目の更新
志都美駅
天満橋駅で降りて歩いて会場へ向かう
講習会場の有るビル
免許更新講習が終わって、近くの大阪城公園へ向かう
京橋口から入って
極楽橋から
天守閣前広場
豊国神社へ向う
豊国神社
豊国神社を出て
噴水広場へ向かう
沖縄が帰って来た、記念碑が・・・
森ノ宮駅口噴水広場へ出た
森ノ宮駅へ
11月1日
歩こう会HP更新&志葉先生(絵手紙教室)の個展へ
社友会事務所へ歩こう会HP更新へ
難波の
志葉先生(絵手紙教室)の個展へ
絵手紙教室の作品も展示されて
個展会場の前は繁華街
おまけ
自宅近くの道路脇で・・・
10月31日~11月1日
10月31日
船舶免許更新講習会場ヘ向う
船舶免許更新講習は5年毎に行われる、私にとって今年は2回目の更新
志都美駅
天満橋駅で降りて歩いて会場へ向かう
講習会場の有るビル
免許更新講習が終わって、近くの大阪城公園へ向かう
京橋口から入って
極楽橋から
天守閣前広場
豊国神社へ向う
豊国神社
豊国神社を出て
噴水広場へ向かう
沖縄が帰って来た、記念碑が・・・
森ノ宮駅口噴水広場へ出た
森ノ宮駅へ
11月1日
歩こう会HP更新&志葉先生(絵手紙教室)の個展へ
社友会事務所へ歩こう会HP更新へ
難波の
志葉先生(絵手紙教室)の個展へ
絵手紙教室の作品も展示されて
個展会場の前は繁華街
おまけ
自宅近くの道路脇で・・・
10月30日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-2
11月3日 10月30日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-2
来年1月の歴史探訪の会コース下見
来年1月の歴史探訪の会(M越さん)に向けてコース下見の応援に?K場さんM吉さんと
一緒に参加した、M越さん手配の藤井寺市観光ボランティアの会のガイド二人と歩いた。
コースは 近鉄道明寺駅で10時待合せてスタート
道明寺駅(スタート)~道明寺天満宮~道明寺~土師ノ里駅前~鍋塚古墳~仲姫命陵古
墳~澤田八幡神社~古室山古墳(昼食)~大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~番所山古墳
~サンド山古墳~シュラホール~辛国神社~葛井寺~藤本酒造醸~藤井寺駅 (解散)
来年の年始ウオ-ク実施(1月16日(水))時は、雨天決行とし、昼食は応神天皇陵古墳
の後に「カゴの屋」予約しておいて室内での食事を検討(M越さん)・・・
此の日の私の万歩計は、17316歩で約12.8km歩いたことに・・・
志都美駅へ向かう
志都美駅
道明寺駅で合流・スタート
※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?知らなかった?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当
たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が
あった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太
子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に
は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途
中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等
が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
道明寺(どうみょうじ)
道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂け
れ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故
事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれて
いる。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」
に由来する。
土師ノ里駅前広場
鍋塚古墳
仲津山古墳(伝仲姫命陵)の後円部に近接して築造された、一辺50m、高さ7mの
方墳であり、濠があった可能性がある。内部構造は明らかでないが葺石と埴輪列
が確認されている。円筒埴輪の他、家、盾、靫、蓋(きぬがさ)形の形象埴輪が用
いられている。円筒埴輪には黒斑を有し、類似の埴輪が出土している仲津山古墳
との関係がうかがえる。1956年に国の史跡に指定された。なお、2001年に史跡の
追加・統合指定が行われ、本古墳を含む14基の古墳が「古市古墳群」の名称であ
らためて国の史跡に指定されている。
知人の家の前を通り、仲姫命陵古墳へ向かう
※澤田八幡神社
境内に電車が通っているという、全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭 神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生
した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八
幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室
八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。とある・・・・
仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群で
は応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考
られる鍋塚古墳があります。
古室山古墳で昼食休憩
古室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置
しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばら
しいものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花
を咲かせます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の
長さは150mで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古
墳が造られたのは4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形
成が開始された時期にあたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数
えられます。
二上山も見える
昼食後墳丘から下りて
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中で
は中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になってい
て、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の
斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の
構造は分かっていません。
応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで
百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143
万立法mで仁徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大。
来年の1月16日
本番の時には、ここで昼食場所「かごの屋」を入れる予定?
番所山古墳
藤井寺市の南部、藤ケ丘2丁目の住宅街の中に、まわりを道路で円形に囲まれ
た小さな山があります。これが蕃所山古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。この
古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されました。
直径22m、高さ3mの円墳ですが、本来はもう少し大きかったと思われます。
墳丘のまわりに濠があったかどうかは分かりません。隣接する道路の一部に深
い掘り込みがあったことが立会調査で確認されています。あるいはこの掘り込み
が濠の一部である可能性も考えられますが、断言はできません。埴輪や葺石は
確認されていません。
サンド山古墳
近くに応仁天皇陵が存在するため、宮内庁から応神天皇陵(恵我藻伏岡陵)へ
号陪塚とされていますが、恐らく独立した古墳群と考えられています。
5世紀~6世紀前半に造られたとされ、現在の規模は長さ30m、高さ3m程です。
墳形が崩れ原型を留めていないため、実際にどのような古墳だったのかは分
かっていません。サンド山古墳は藤井寺市藤が丘にある「藤ヶ丘 山道ポケット
パーク」に内にあります。サンド山古墳も蕃所山古墳と同様に住宅街の真っ只
中に存在する古墳ですが、蕃所山古墳のように墳形が保たれておらず案内板
もないのでただの土山にしか見えません。
「サンド山古墳」の特徴として ・墳形が崩れてなにかわからない ・発掘したのか
どうかもわからないから情報がない ・宮内庁管理なので中にも入れない ・エピ
ソードもない と、古墳巡り泣かせな古墳です。
此処までは、
10月31日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-03
此処では、此の続きの
仲哀天皇陵古墳~シュラホールへ向かう?の詳細を掲載します。
※岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳)・・・藤井寺市観光協会HPより
岡ミサンザイ”と呼ばれる墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭
い堤をもつ古市古墳群で3番目に大きい古墳です。5世紀末~6世紀初頭の築造と
考えられています。墳丘からは城の跡も見つかっています。周濠は水を貯え、冬には
マガモが飛来し、市民の憩いの場として親しまれています。
※アイセルシュラホール・・・・(100円コーヒータイム)
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン
ターの愛称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
辛国神社
今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社と
なり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。日本書紀には、『雄略十三
年春三月、餌香長野邑を物部大連に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町の
あたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社
をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。三代実
録には、清和天皇『貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る』
とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の
頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈
良春日大社に懇請してその祭神・天児屋根命を合祀したと伝えられている。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。
御神徳・饒速日命・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神。
天孫降臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけ
て河内国哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三
四五六七八九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死人も行き反え
らん』と教え諭された。故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信
仰されている。祭神は、天児屋根命・藤原氏の祖神。素盞鳴命・天照大神の弟神。
品陀別命・応神天皇。市杵島姫命・素盞鳴命の子。
葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立
されました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡
礼者が訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏
で、毎月18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物と
して、国指定の重要文化財となっています。
藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々からの
水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいという重治郎の願いは「冨士正宗」という銘柄
に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
藤井寺駅へ向かう
来年1月の歴史探訪の会コース下見
来年1月の歴史探訪の会(M越さん)に向けてコース下見の応援に?K場さんM吉さんと
一緒に参加した、M越さん手配の藤井寺市観光ボランティアの会のガイド二人と歩いた。
コースは 近鉄道明寺駅で10時待合せてスタート
道明寺駅(スタート)~道明寺天満宮~道明寺~土師ノ里駅前~鍋塚古墳~仲姫命陵古
墳~澤田八幡神社~古室山古墳(昼食)~大鳥塚古墳~応神天皇陵古墳~番所山古墳
~サンド山古墳~シュラホール~辛国神社~葛井寺~藤本酒造醸~藤井寺駅 (解散)
来年の年始ウオ-ク実施(1月16日(水))時は、雨天決行とし、昼食は応神天皇陵古墳
の後に「カゴの屋」予約しておいて室内での食事を検討(M越さん)・・・
此の日の私の万歩計は、17316歩で約12.8km歩いたことに・・・
志都美駅へ向かう
志都美駅
道明寺駅で合流・スタート
※道明寺駅の歴史・・・近鉄電車発祥の駅として知られる?知らなかった?
近畿日本鉄道(近鉄)の駅。駅番号は南大阪線がF15、道明寺線がN15。
柏原駅や古市駅と並び、現在の近鉄に属する駅の中では最古の歴史を有する。
1898年(明治31年)3月24日 - 河陽鉄道として柏原 - 当駅 - 古市間が開業に設置。
1899年(明治32年)5月11日 - 河陽鉄道の路線を河南鉄道が承継。同社の駅に。
1919年(大正8年)3月8日 - 社名変更により大阪鉄道の駅となる。
1922年(大正11年)4月18日 - 当駅から布忍駅までが開通。分岐駅となる。
1943年(昭和18年)2月1日 - 関西急行鉄道が大阪鉄道を合併、関西急行鉄道駅。
1944年(昭和19年)6月1日 - 戦時統合により関西急行鉄道が南海鉄道(現在の
南海電気鉄道の前身。後に再独立)と合併、近畿日本鉄道の駅となる。
※駅周辺のシンボルでもあったサントリー道明寺工場は2004年10月末で操業を
停止し、解体された。
道明寺天満宮
祭神は菅原道真公、天穂日命と、菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公である。
隣接して道明寺という真言宗の尼寺がある。この地は、菅原氏・土師氏の祖先に当
たる野見宿禰の所領地と伝え、野見宿禰の遠祖である天穂日命を祀る土師神社が
あった。仏教伝来後、土師氏の氏寺である土師寺が建立された。伝承では聖徳太
子の発願により土師八島がその邸を寄進して寺としたという。平安時代、土師寺に
は菅原道真公のおばに当たる覚寿尼公が住んでおり、道真公も時々この寺を訪れ、
この寺のことを「故郷」と詠んだ詩もある。延喜元年(901年)、大宰府に左遷される途
中にも立ち寄って、覚寿尼公との別れを惜しんだ。道真公遺愛の品と伝える硯、鏡等
が神宝として伝わり、6点が国宝の指定を受けている。
道明寺(どうみょうじ)
道明寺は、真言宗御室派の尼寺。山号は蓮土山。
道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であった。
道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあった。
当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであった。901年(延喜元年)、大宰
府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ね「鳴けばこそ別れも憂け
れ鶏の音のなからん里の暁もかな」と詠み、別れを惜しんだと伝えられる。この故
事は、後に人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場にも描かれて
いる。道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」
に由来する。
土師ノ里駅前広場
鍋塚古墳
仲津山古墳(伝仲姫命陵)の後円部に近接して築造された、一辺50m、高さ7mの
方墳であり、濠があった可能性がある。内部構造は明らかでないが葺石と埴輪列
が確認されている。円筒埴輪の他、家、盾、靫、蓋(きぬがさ)形の形象埴輪が用
いられている。円筒埴輪には黒斑を有し、類似の埴輪が出土している仲津山古墳
との関係がうかがえる。1956年に国の史跡に指定された。なお、2001年に史跡の
追加・統合指定が行われ、本古墳を含む14基の古墳が「古市古墳群」の名称であ
らためて国の史跡に指定されている。
知人の家の前を通り、仲姫命陵古墳へ向かう
※澤田八幡神社
境内に電車が通っているという、全国的にも数少ない珍しい神社です。
祭 神:仲津媛皇后 応神天皇
国府八幡神社の由緒書きに、藤井寺市内には、江戸時代初期の頃に誕生
した八幡神社が五社ありますが、国府八幡神社以外の八幡神社は、誉田八
幡宮(羽曳野市)の分霊を勧請したものとされています。沢田八幡神社、古室
八幡神社、土師里八幡神社、津堂八幡神社の四社です。とある・・・・
仲姫命陵古墳
5世紀前半に築造された大型前方後円墳です。墳丘長は290mで古市古墳群で
は応神天皇陵古墳(羽曳野市)に次ぐ大きさを誇ります。後円部側には陪塚と考
られる鍋塚古墳があります。
古室山古墳で昼食休憩
古室山古墳
古室山古墳は、後円部頂上の標高が約39mを測り、国府台地でも高所に位置
しています。そして視界をさえぎる巨木が少ないため、頂上からの眺望はすばら
しいものがあります。また、梅や桜の木が植えられており、季節になると美しい花
を咲かせます。これらはいずれも訪れる人々を楽しませています。古墳の墳丘の
長さは150mで、古市古墳群の中では中形の前方後円墳に属します。古室山古
墳が造られたのは4世紀末から5世紀初頭のことです。これは、古市古墳群の形
成が開始された時期にあたり、同古墳群中で最も早く造られた古墳の一つに数
えられます。
二上山も見える
昼食後墳丘から下りて
大鳥塚古墳
大鳥塚古墳は、墳丘の長さが110メートルの前方後円墳です。古市古墳群の中で
は中形で、前方部は南を向いています。墳丘はほぼ全域がクヌギの林になってい
て、足を踏み入れると夏でもひんやりとした感じを受けます。造られた当時、墳丘の
斜面には石が葺かれ、平坦面には円筒埴輪が並んでいました。人を葬った施設の
構造は分かっていません。
応神天皇陵古墳
誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)で墳丘長さ425m、濠を含めた全長650mで
百舌鳥古墳群の仁徳天皇陵の墳丘長486m、全長840m次ぐ。体積は、143
万立法mで仁徳天皇陵の140万立法mを抜き日本最大。
来年の1月16日
本番の時には、ここで昼食場所「かごの屋」を入れる予定?
番所山古墳
藤井寺市の南部、藤ケ丘2丁目の住宅街の中に、まわりを道路で円形に囲まれ
た小さな山があります。これが蕃所山古墳で、モッコ塚とも呼ばれています。この
古墳は、周辺の住宅街ができるときに現在のような形で墳丘が保存されました。
直径22m、高さ3mの円墳ですが、本来はもう少し大きかったと思われます。
墳丘のまわりに濠があったかどうかは分かりません。隣接する道路の一部に深
い掘り込みがあったことが立会調査で確認されています。あるいはこの掘り込み
が濠の一部である可能性も考えられますが、断言はできません。埴輪や葺石は
確認されていません。
サンド山古墳
近くに応仁天皇陵が存在するため、宮内庁から応神天皇陵(恵我藻伏岡陵)へ
号陪塚とされていますが、恐らく独立した古墳群と考えられています。
5世紀~6世紀前半に造られたとされ、現在の規模は長さ30m、高さ3m程です。
墳形が崩れ原型を留めていないため、実際にどのような古墳だったのかは分
かっていません。サンド山古墳は藤井寺市藤が丘にある「藤ヶ丘 山道ポケット
パーク」に内にあります。サンド山古墳も蕃所山古墳と同様に住宅街の真っ只
中に存在する古墳ですが、蕃所山古墳のように墳形が保たれておらず案内板
もないのでただの土山にしか見えません。
「サンド山古墳」の特徴として ・墳形が崩れてなにかわからない ・発掘したのか
どうかもわからないから情報がない ・宮内庁管理なので中にも入れない ・エピ
ソードもない と、古墳巡り泣かせな古墳です。
此処までは、
10月31日の道明寺天満宮~葛井寺へ史跡巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-11-03
此処では、此の続きの
仲哀天皇陵古墳~シュラホールへ向かう?の詳細を掲載します。
※岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵古墳)・・・藤井寺市観光協会HPより
岡ミサンザイ”と呼ばれる墳丘長242mの大型前方後円墳で、幅の広い濠と幅の狭
い堤をもつ古市古墳群で3番目に大きい古墳です。5世紀末~6世紀初頭の築造と
考えられています。墳丘からは城の跡も見つかっています。周濠は水を貯え、冬には
マガモが飛来し、市民の憩いの場として親しまれています。
※アイセルシュラホール・・・・(100円コーヒータイム)
大阪府藤井寺市にある考古学・歴史系博物館施設をメインと する生涯学習セン
ターの愛称。正式名称は藤井寺市立生涯学習センター。1994年に 開館した。
辛国神社
今から千五百年程前、雄略天皇の御代に創設された神社で、平安時代には官社と
なり、式内社として人々の尊信を集めてきた神社です。日本書紀には、『雄略十三
年春三月、餌香長野邑を物部大連に賜う』とあるが、餌香長野邑は、旧藤井寺町の
あたりと思われる。この地方を治めることになった物部氏は、その祖神を祀って神社
をつくり、その後、辛國氏が祭祀をつとめ、辛國神社と称するようになった。三代実
録には、清和天皇『貞観九年二月二十六日河内国志紀郡辛國神社を官社に預る』
とあります。元の神社は恵美坂の西南神殿にあったと思われる。室町時代(義満の
頃)河内守護職畠山基国氏が社領二百石を寄進して、現在地に神社を造営し、奈
良春日大社に懇請してその祭神・天児屋根命を合祀したと伝えられている。
明治四十一年、長野神社の祭神素盞鳴命を合祀して現在に至っている。
御神徳・饒速日命・瓊々杵尊の御兄。物部氏の祖神。
天孫降臨に先立ち、天祖より天璽宝の瑞宝十種をさずかり、大和建国の任務をうけ
て河内国哮ヶ峰に天降りになった。瑞宝は、『若し痛む処あらば、この十宝を一二三
四五六七八九十(ひふみよいむなやことお)と唱え振れ、此くなさば死人も行き反え
らん』と教え諭された。故に古来より病気平癒、厄除、呆け除の守護神として広く信
仰されている。祭神は、天児屋根命・藤原氏の祖神。素盞鳴命・天照大神の弟神。
品陀別命・応神天皇。市杵島姫命・素盞鳴命の子。
葛井寺・・・藤井寺市観光協会HPより
葛井寺(ふじいでら)は古代氏族葛井氏の氏寺として、7世紀後半の白鳳期に建立
されました。 西国三十三箇所観音霊場の第五番札所として信仰を集め、多くの巡
礼者が訪れています。 本尊の国宝乾漆千手観音坐像は、大阪府下唯一の天平仏
で、毎月18日に御開帳されます。また、 四脚門は、桃山様式をよく伝える建造物と
して、国指定の重要文化財となっています。
藤本酒造醸・・・HPより
現在の藤本雅一酒造醸は、大正2年(1913年)3代当主重治郎が創業しました。
当時、藤井寺のあたりは水田や畑が多く、特に綿の栽培がさかんでした。重治郎は
「藤源」という河内木綿の製造業を営んでいました。
いにしえより、このあたりは、金剛山、生駒山など自然も豊富で、近くの山々からの
水脈が良質の地下水となってこの地を流れています。重治郎はこの良質の地下水
を清酒造りに利用できないかと考え、丹精込めた自作の米と合わせて清酒造りに
転向したのです。うまい酒を造りたいという重治郎の願いは「冨士正宗」という銘柄
に実を結び、現在も「冨士正」として造り続けています。
藤井寺駅へ向かう