9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-2
9月26日 9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-2
昼飲み会&近鉄ハイキング
此の日は、近鉄駅フリーハイキングに併せて何時もの阿倍野の居酒屋で昼飲み会、
近鉄駅フリーハイキングは、大阪の歴史を感じて寺社巡り 歩程約7㎞を少し短縮し
銭湯&15時~の昼飲み会に間に合わせる、参加はS藤・M吉・K場・R得・T原の5名
コース 近鉄駅フリーハイキング 鶴橋駅東口受付 9時半~11時 9時40分集合
鶴橋駅(東口・受付)~三光神社~玉造稲荷神社~越中井~善福寺~心眼寺~興
徳寺~真田山公園(昼食)~東高津宮~産湯稲荷神社~ショートカットして鶴橋駅へ
JR鶴橋駅 →天王寺駅 湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ
9月21日(金) 昼飲み会15:00~17:00 居酒屋 甘太郎 コース料理&飲み放題
参加者 ハイキング参加者に加えて Y川・N西の7名、2次会は ジャンカラへ4名
此の日の私の万歩計は、19852歩で約14.6km歩いたことに・・・
鶴橋駅(東口・受付)~三光神社
三光神社
三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園に
ある神社で、天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀る。
反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職と
して奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在
地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮
(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名
所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。
明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。
3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、
大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社
殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。
千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸
を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
玉造稲荷神社は、大阪市中央区玉造にある神社。旧社格は府社。宇迦之御魂大神
(稲荷神)を主祭神とし、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を配祀する。
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願
し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦
国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。慶
長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年(1619年)に徳川幕府
の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していた為、
少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人
らが運び込む「砂持」が行われた。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津
稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の
大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建。
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作ってい
た玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居 -- 慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥
居。阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置か
れている。
越中井へ向かう
公園に彼岸花が・・・
越中井(えっちゅうい)
越中井は、大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12にある史跡。細川家の当主である細川忠
興の屋敷の台所があったと伝えられる場所で、細川ガラシャ最期の地として知られる。
越中井戸(えっちゅういど)とも呼称される。
細川ガラシャの名で知られる玉子が当屋敷に移り住んだのは1578年。細川忠興の正室
であった玉子は、父である明智光秀が本能寺の変を起こしたことで、逆臣の娘の存在が
細川家の存亡にかかわる事を恐れた忠興により、細川領内で丹後半島の奥地である味
土野に幽閉されていた。後に光秀を討ち取った豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を建
設。細川屋敷は城の三の丸にあたる同地に建設され、玉子もそこに住むことを許された。
細川屋敷に移った後、玉子は忠興の命により家臣2人を付けられ、外出を厳しく制限され、
彼女はほとんど外へ出る事が出来ない中、お忍びで訪れた教会がきっかけで熱心なキリ
シタンとなる。玉子はバテレン追放令が発令された直後に忠興に内緒でキリスト教の洗礼
を受け、「ガラシャ」の名を授かった。
秀吉の死後の1600年、会津征伐において忠興が徳川家康に従って出征している間に、豊
臣家の再興をもくろむ石田三成が決起。三成は忠興を味方につける為、ガラシャを人質に
しようと細川屋敷を取り囲むが、彼女はこれを拒絶し、自らの命を絶ち、屋敷に火を放った。
これに驚いた三成は他の大名の家族に手を出すのを控えるよう余儀なくされ、結果多くの
武将が家康側に付くこととなった。
大阪カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)
創立は1894年(明治27年)。創立時に建てられた「聖アグネス聖堂」は1945年(昭和20
年)の大阪大空襲により滅失。現在の大聖堂は1963年(昭和38年)に落成した。
敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、大聖堂内内陣左側には細川ガラシャ
を描いた画が掲げられている。その「最後の日のガラシア夫人」および聖堂正面の壁画
「栄光の聖母マリア」、右側の「高山右近」は堂本印象の筆、大小100の窓に施されたス
テンドグラスは羽淵紅州の作、十字架や聖像はオーストリアの彫刻家ルンガルチエの作
と、当時一流の芸術家を集めて造られた。パイプ数2400の巨大なパイプオルガンでも知
られる。近代建築家・長谷部鋭吉の遺作ともいえる建築作品である。
高山右近&細川ガラシャ
善福寺(どんどろ大師)
善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てら
れたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ」とは、天保年間の大坂城代で
弘法大師を信仰した土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)の「土居殿」 がなまり、
本尊の弘法大師がこの名称で呼ばれるようになったといいます。土井利位は、幕府の老
中となり、水野忠邦の天保の改革に協力した人物です。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴の
母子再会の舞台としても有名です。
境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分か
れた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春(啓
蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙の原
料として用いられる。
心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があり、
名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・真
田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋野氏
の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。門
には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑があります。丸城とありますが、最近の調査の結果、丸で
は無かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、それに
よると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。真田丸
は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった京都
見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺院。
天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の火災
で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
境内に彼岸花&ハンゲショウ
真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。
碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏
陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
円珠庵(えんじゅあん)・・・鎌八幡・・・HPより
遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で、そのわきに一本の榎の霊木があり、
人々の信仰を集めていた。
下って、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に陣所を構えたが、この信仰を聞き
伝えて、鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげたと
伝えられている。
江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に、国文学者として有名な高僧契沖阿闍梨が
居を定め、円珠庵と称した。契沖は、ここで万葉代匠記や和字正鑑要略を著し、国文
学の研究に専念すると同時に、深く鎌八幡を信仰した。この頃から「鎌八幡」は「祈とう
寺」として、人々の信仰が広まった。
大正11年に、境内全域が大阪市では最初の国の史跡指定を受けたが、境内の大部
分は、戦災で損壊したあと復興したものである。その間、霊木は蘇生し、絶えなる信仰
と多くの霊験が得られている。
此処までは、
9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-09-25
此処では、続きの真田山公園(昼食)~の詳細について掲載します。
ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作)だと思う?
中国原産でマンサク目マンサク科トキワマンサク属の耐寒性常緑小高木 「トキワマン
サク(常盤万作)」の変種の紅花品種です。
木立姿は分枝が多い。 葉は単葉の卵形で毛が密生した光沢性のある皮質です。 葉は
互生につき、葉縁には鋸歯がありません。 若葉は赤紫色で成長と共に緑色に変わる
青葉種と、紅色を保つ紅葉種があります。
春に、鮮紅色で光沢のあるビニールの細紐状の花を集合させて咲かせます。 花の感じ
がユニークです。 花は、長さ2~5cmの花弁が4枚つく4弁花で、雄蕊も4本あります。
3~5個の花が集合し、小花序を形成します。花には微香があります。
花後になる果実は朔果で倒卵形をしており晩夏~初秋に熟します。 朔果の中に黒い
長卵形の種子が入っています。
昼食後は、梅川・忠兵衛の供養塔へ向かう
此処まで来たのでもう少し・・・
梅川・忠兵衛の供養塔
大和・新口村の小百姓四兵衛の息子・清八が大坂淡路町にあった飛脚屋に養子に
出て、亀屋忠兵衛と名乗っていたが、1709年(宝永6年)新町・槌屋の遊女梅川に
通い詰め、店の金を使い込んでいた。
おまけに梅川を身請けするため、店に届けられていた300両の公金まで、手につけ
てしまい、2人は忠兵衛の生まれ故郷の大和・新口村まで逃亡し、実家近くの大和・
上里村(現・香芝市)の親類宅に潜んでいるところを御用となり、刑場の露と消えた
(一説には牢死したともいわれる)。
この話を近松門左衛門が1711年(正徳元年)浄瑠璃の「冥土の飛脚」としてに脚色
し、名作となった。その後、紀海音が歌舞伎の「恋飛脚大和往来」に脚色している。
梅忠ノ碑・・・墓の横に建っている「梅忠ノ碑」。
墓は四つ角の角地にあるが、周り建屋の筋違いなどの影に隠れ、見落としてしまう。
大阪市天王寺区城南寺町の一角、空き地に、「梅川・忠兵衛の墓」がある。
これらの墓は安政年間(1854~60年)に建てられたとのことで、右側の忠兵衛
の墓は「妙法頓覚利達」と刻まれ、左側の梅川の墓には「梅室妙覚信女」とある。
※お地蔵さんの横にある立派な墓は福田金塘の墓。
福田金塘は江戸時代の後期の数学者で天文暦数を修め土御門家に仕えた。
今橋に私塾を開き、門下生は数千人に及んだという。
1807年(文化4年)大坂で生まれ、1858年(安政5年)52歳で没した。
東高津宮
東高津宮(ひがしこうづぐう)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。仁徳天皇社と
称していたこともある。
創建年は不詳である。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折、当地付近
(現在では大阪上本町駅構内に当たる)に遷座したとの伝説がある。
昭和7年(1932年)の上本町駅(当時)拡張工事の折、現在地に移転。現在地を元高
津とするのは、当社から高津宮が遷座していったから。ただし、現在は高津宮に合祀
された北高津宮に遷座したからとも言われる。
戦災で社殿を焼失していたが、昭和42年(1967年)に復興した。
産湯稲荷神社へ向う
産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小
橋命に関わる伝承は多い。
「式内比売許曽神社御旅所」と「桃山跡」の石碑。
桃山というのはこの辺りの丘陵には明治の頃まで広大な桃林があったことに由来すると
いう。1919年(大正8年)に埋め立てられた味原池とともに景勝地として知られていた。
ショートカットして鶴橋駅へ
JR鶴橋駅 →天王寺駅
湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ
湯処・あべの橋温泉
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
・慢性消化器病・痔疾・冷え性・病後回復期・疲労回復・健康増進・切り傷
・やけど・慢性皮膚病・虚弱体質・慢性婦人病
JR天王寺駅
居酒屋 甘太郎へ向かう
居酒屋 甘太郎
ジャンボカラオケ
4名で1時間半歌って・・・
昼飲み会&近鉄ハイキング
此の日は、近鉄駅フリーハイキングに併せて何時もの阿倍野の居酒屋で昼飲み会、
近鉄駅フリーハイキングは、大阪の歴史を感じて寺社巡り 歩程約7㎞を少し短縮し
銭湯&15時~の昼飲み会に間に合わせる、参加はS藤・M吉・K場・R得・T原の5名
コース 近鉄駅フリーハイキング 鶴橋駅東口受付 9時半~11時 9時40分集合
鶴橋駅(東口・受付)~三光神社~玉造稲荷神社~越中井~善福寺~心眼寺~興
徳寺~真田山公園(昼食)~東高津宮~産湯稲荷神社~ショートカットして鶴橋駅へ
JR鶴橋駅 →天王寺駅 湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ
9月21日(金) 昼飲み会15:00~17:00 居酒屋 甘太郎 コース料理&飲み放題
参加者 ハイキング参加者に加えて Y川・N西の7名、2次会は ジャンカラへ4名
此の日の私の万歩計は、19852歩で約14.6km歩いたことに・・・
鶴橋駅(東口・受付)~三光神社
三光神社
三光神社(さんこうじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区玉造本町の宰相山公園に
ある神社で、天照大神・月読尊・素戔嗚尊を祀る。
反正天皇の時代の創建と伝えられる。創建以来、武内宿禰の末裔の武川氏が神職と
して奉職し、現在は86代目と伝える。社伝によれば、寛文元年(1661年)に一旦現在
地の南東の鎌八幡の隣に遷座し、宝永3年(1706年)に再び現在地に戻ったという。
かつては「姫山神社」と称し、一帯は「姫の松原」と呼ばれていた。
中風封じの神として有名な陸前国宮城郡青麻(現 宮城県仙台市宮城野区)の三光宮
(現 青麻神社)を勧請し、そちらの方が有名になった。明治15年(1882年)の『大阪名
所独案内』に三光宮を勧請した旨が書かれており、勧請はそれ以前ということになる。
明治41年(1908年)、姫山神社に境内社・三光宮を合祀し、社名を「三光神社」とした。
3柱の神を祀ることから「三柱神社」とも、「日月山神社」ともいう。
鎮座地の丘は宰相山とも真田山ともいう。かつては大坂城の出城「真田丸」が置かれ、
大坂の陣のときには真田信繁が大坂城から当地までの抜け穴を掘ったといわれ、社
殿の下に残っている。境内には黒田屏風に描かれた真田信繁を元にした像がある。
千田嘉博によると、現在残っている抜け穴は真田信繁がつくったものではなく、真田丸
を攻めた前田軍の塹壕の痕跡の可能性が高いとしている。
玉造稲荷神社(たまつくりいなりじんじゃ)
玉造稲荷神社は、大阪市中央区玉造にある神社。旧社格は府社。宇迦之御魂大神
(稲荷神)を主祭神とし、下照姫命、稚日女命、月読命、軻偶突智命を配祀する。
社伝によれば垂仁天皇18年(紀元前12年)に創建され、当時は比売社と称していた。
蘇我氏と物部氏の戦いの際、蘇我氏方の聖徳太子がこの地に布陣して戦勝を祈願
し、戦勝後当地に観音堂を建てたという伝承がある。
豊臣大坂城の三の丸に位置し、その鎮守社として豊臣家から篤い崇敬を受けた。戦
国時代の戦火で荒廃し、慶長8年(1603年)に豊臣秀頼により社殿が再建された。慶
長20年(1615年)の大坂夏の陣で社殿は再び焼失し、元和5年(1619年)に徳川幕府
の大坂城代や氏子らの寄進によって再建された。社地は元々は急崖に面していた為、
少しでも平坦化するために、寛政元年(1789年)、東横堀川の浚渫で出た土砂を町人
らが運び込む「砂持」が行われた。豊臣・徳川時代を通して大坂城の鎮守とされ、豊津
稲荷社と称した。江戸時代には伊勢参りの出発点とされた。文久3年(1863年)11月の
大坂大火(新町焼)で焼失するが、1871年(明治4年)に再建。
現在の「玉造」の社名は鎮座地の地名によるもので、一帯は古代、勾玉などを作ってい
た玉作部の居住地であったという伝承がある。
豊臣家奉納鳥居 -- 慶長8年(1603年)、豊臣秀頼により社殿再建時に奉納された石鳥
居。阪神・淡路大震災により基礎に損傷を受け、現在は上部・脚部に分け、境内に置か
れている。
越中井へ向かう
公園に彼岸花が・・・
越中井(えっちゅうい)
越中井は、大阪市中央区森ノ宮中央2丁目12にある史跡。細川家の当主である細川忠
興の屋敷の台所があったと伝えられる場所で、細川ガラシャ最期の地として知られる。
越中井戸(えっちゅういど)とも呼称される。
細川ガラシャの名で知られる玉子が当屋敷に移り住んだのは1578年。細川忠興の正室
であった玉子は、父である明智光秀が本能寺の変を起こしたことで、逆臣の娘の存在が
細川家の存亡にかかわる事を恐れた忠興により、細川領内で丹後半島の奥地である味
土野に幽閉されていた。後に光秀を討ち取った豊臣秀吉が石山本願寺跡に大坂城を建
設。細川屋敷は城の三の丸にあたる同地に建設され、玉子もそこに住むことを許された。
細川屋敷に移った後、玉子は忠興の命により家臣2人を付けられ、外出を厳しく制限され、
彼女はほとんど外へ出る事が出来ない中、お忍びで訪れた教会がきっかけで熱心なキリ
シタンとなる。玉子はバテレン追放令が発令された直後に忠興に内緒でキリスト教の洗礼
を受け、「ガラシャ」の名を授かった。
秀吉の死後の1600年、会津征伐において忠興が徳川家康に従って出征している間に、豊
臣家の再興をもくろむ石田三成が決起。三成は忠興を味方につける為、ガラシャを人質に
しようと細川屋敷を取り囲むが、彼女はこれを拒絶し、自らの命を絶ち、屋敷に火を放った。
これに驚いた三成は他の大名の家族に手を出すのを控えるよう余儀なくされ、結果多くの
武将が家康側に付くこととなった。
大阪カテドラル聖マリア大聖堂(カトリック玉造教会)
創立は1894年(明治27年)。創立時に建てられた「聖アグネス聖堂」は1945年(昭和20
年)の大阪大空襲により滅失。現在の大聖堂は1963年(昭和38年)に落成した。
敷地が細川大名家の屋敷跡という由縁もあって、大聖堂内内陣左側には細川ガラシャ
を描いた画が掲げられている。その「最後の日のガラシア夫人」および聖堂正面の壁画
「栄光の聖母マリア」、右側の「高山右近」は堂本印象の筆、大小100の窓に施されたス
テンドグラスは羽淵紅州の作、十字架や聖像はオーストリアの彫刻家ルンガルチエの作
と、当時一流の芸術家を集めて造られた。パイプ数2400の巨大なパイプオルガンでも知
られる。近代建築家・長谷部鋭吉の遺作ともいえる建築作品である。
高山右近&細川ガラシャ
善福寺(どんどろ大師)
善福寺は、創建当初に「鏡如庵大師堂」と称し、大坂夏の陣の戦死者を弔うために建てら
れたと伝わるお寺です。通称はどんどろ大師。「どんどろ」とは、天保年間の大坂城代で
弘法大師を信仰した土井大炊頭利位(どいおおいのかみとしつら)の「土居殿」 がなまり、
本尊の弘法大師がこの名称で呼ばれるようになったといいます。土井利位は、幕府の老
中となり、水野忠邦の天保の改革に協力した人物です。
どんどろ大師は浄瑠璃『傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)』に登場し、お弓とお鶴の
母子再会の舞台としても有名です。
境内のミツマタ
冬になれば葉を落とす落葉性の低木であり、ジンチョウゲ科のミツマタ属に属する。中国
中南部・ヒマラヤ地方が原産地とされる。3月から4月ごろにかけて、三つ叉(また)に分か
れた枝の先に黄色い花を咲かせる。そのため、「ミツマタの花」は日本においては仲春(啓
蟄〔3月6日ごろ〕から清明の前日〔4月4日ごろ〕まで)の季語とされている。皮は和紙の原
料として用いられる。
心眼寺・・・真田幸村・大助親子のゆかりの地に立つお寺
大阪城の出城である「真田丸」の跡地横に真田幸村・大助父子と深く関係するお寺があり、
名前を心眼寺といいます。
1622年(元和8年)、大坂夏の陣から7年後に、白牟(はくむ)和尚が戦国武将真田幸村・真
田大助父子の冥福を祈るために建立されました。この白牟和尚は、真田家の祖先滋野氏
の一族だと言われています。
創建から寺の定紋は真田家の家紋である六文銭が使われ、山号は真田山と称します。門
には六文銭が付いています。
入口には「真田幸村出丸城跡」碑があります。丸城とありますが、最近の調査の結果、丸で
は無かったことがわかりました。
境内に「従五位下真田左衛門佐豊臣信繁之墓」が2014年に新たに建立されており、それに
よると、三日月の形をしていたことから偃月城とも呼ばれていたと書かれています。真田丸
は大坂冬の陣の講和条件により破却されました。
戦国時代とは関係ないが、江戸時代の幕末、坂本龍馬を暗殺したことで有名になった京都
見廻組の桂早之助と渡辺吉太郎のお墓もここにあります。
興徳寺
興徳寺(こうとくじ)は大阪府大阪市天王寺区餌差町にある 高野山真言宗 の仏教寺院。
天平年間(729年~749年)行基の開創。度々の兵火に火災を罹り、古記を失う。
天正年間(1573年~1592年)の頃、祐乗上人が再興。大正4年(1915年)6月1日の火災
で本堂・庫裏を失い、わずかに土蔵のみが残った。
昭和20年(1945年)の大阪大空襲では山門を残して全焼す。その後再興。
境内に彼岸花&ハンゲショウ
真田丸顕彰碑(さなだまるけんしょうひ)
真田幸村(信繁)が大坂冬の陣の際に築いた砦「真田丸」があったとされる天王寺区
餌差町に「真田丸顕彰碑」が建立され、平成28年2月1日(月)に天王寺区役所主催
の除幕式が行われました。
碑に組み込まれた陶板には、大阪城天守閣所蔵の「大坂三郷町絵図」と、「大坂冬夏
陣立図」のうち「冬の陣図」が載っています。
円珠庵(えんじゅあん)・・・鎌八幡・・・HPより
遠い昔、このあたりは三韓坂と言われた古道で、そのわきに一本の榎の霊木があり、
人々の信仰を集めていた。
下って、大阪冬の陣のとき、真田幸村がこの土地に陣所を構えたが、この信仰を聞き
伝えて、鎌を打ちつけ、鎌八幡大菩薩と称して祈念したところ、大いに戦勝をあげたと
伝えられている。
江戸時代初期には、この鎌八幡の境内に、国文学者として有名な高僧契沖阿闍梨が
居を定め、円珠庵と称した。契沖は、ここで万葉代匠記や和字正鑑要略を著し、国文
学の研究に専念すると同時に、深く鎌八幡を信仰した。この頃から「鎌八幡」は「祈とう
寺」として、人々の信仰が広まった。
大正11年に、境内全域が大阪市では最初の国の史跡指定を受けたが、境内の大部
分は、戦災で損壊したあと復興したものである。その間、霊木は蘇生し、絶えなる信仰
と多くの霊験が得られている。
此処までは、
9月21日の大阪の歴史を感じて寺社巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-09-25
此処では、続きの真田山公園(昼食)~の詳細について掲載します。
ベニバナトキワマンサク(紅花常盤万作)だと思う?
中国原産でマンサク目マンサク科トキワマンサク属の耐寒性常緑小高木 「トキワマン
サク(常盤万作)」の変種の紅花品種です。
木立姿は分枝が多い。 葉は単葉の卵形で毛が密生した光沢性のある皮質です。 葉は
互生につき、葉縁には鋸歯がありません。 若葉は赤紫色で成長と共に緑色に変わる
青葉種と、紅色を保つ紅葉種があります。
春に、鮮紅色で光沢のあるビニールの細紐状の花を集合させて咲かせます。 花の感じ
がユニークです。 花は、長さ2~5cmの花弁が4枚つく4弁花で、雄蕊も4本あります。
3~5個の花が集合し、小花序を形成します。花には微香があります。
花後になる果実は朔果で倒卵形をしており晩夏~初秋に熟します。 朔果の中に黒い
長卵形の種子が入っています。
昼食後は、梅川・忠兵衛の供養塔へ向かう
此処まで来たのでもう少し・・・
梅川・忠兵衛の供養塔
大和・新口村の小百姓四兵衛の息子・清八が大坂淡路町にあった飛脚屋に養子に
出て、亀屋忠兵衛と名乗っていたが、1709年(宝永6年)新町・槌屋の遊女梅川に
通い詰め、店の金を使い込んでいた。
おまけに梅川を身請けするため、店に届けられていた300両の公金まで、手につけ
てしまい、2人は忠兵衛の生まれ故郷の大和・新口村まで逃亡し、実家近くの大和・
上里村(現・香芝市)の親類宅に潜んでいるところを御用となり、刑場の露と消えた
(一説には牢死したともいわれる)。
この話を近松門左衛門が1711年(正徳元年)浄瑠璃の「冥土の飛脚」としてに脚色
し、名作となった。その後、紀海音が歌舞伎の「恋飛脚大和往来」に脚色している。
梅忠ノ碑・・・墓の横に建っている「梅忠ノ碑」。
墓は四つ角の角地にあるが、周り建屋の筋違いなどの影に隠れ、見落としてしまう。
大阪市天王寺区城南寺町の一角、空き地に、「梅川・忠兵衛の墓」がある。
これらの墓は安政年間(1854~60年)に建てられたとのことで、右側の忠兵衛
の墓は「妙法頓覚利達」と刻まれ、左側の梅川の墓には「梅室妙覚信女」とある。
※お地蔵さんの横にある立派な墓は福田金塘の墓。
福田金塘は江戸時代の後期の数学者で天文暦数を修め土御門家に仕えた。
今橋に私塾を開き、門下生は数千人に及んだという。
1807年(文化4年)大坂で生まれ、1858年(安政5年)52歳で没した。
東高津宮
東高津宮(ひがしこうづぐう)とは大阪府大阪市天王寺区にある神社。仁徳天皇社と
称していたこともある。
創建年は不詳である。元は生國魂神社の南にあったが、大阪城築城の折、当地付近
(現在では大阪上本町駅構内に当たる)に遷座したとの伝説がある。
昭和7年(1932年)の上本町駅(当時)拡張工事の折、現在地に移転。現在地を元高
津とするのは、当社から高津宮が遷座していったから。ただし、現在は高津宮に合祀
された北高津宮に遷座したからとも言われる。
戦災で社殿を焼失していたが、昭和42年(1967年)に復興した。
産湯稲荷神社へ向う
産湯稲荷神社
当社は比売許曽神社の旧社地にあり、現在は御旅所で末社となっている。
現地に掲げられていた社記によると「当地の開拓神である大小橋命(おおおばせのみこ
と)は天児屋根命の十三世の後胤で、13代成務天皇の御代(4世紀頃?)、ここ味原郷
に誕生した。その時、境内の玉の井の水を汲んで産湯に用いたので、この地を「産湯」と
いう。 父は神功皇后の近臣中臣雷大臣、母は紀氏清夫と言い、3人兄弟の長男である」
としている。すなわち、大化の改新で活躍した藤原家の祖、中臣鎌足の先祖に当る人で
ある。 この誕生のときの胞衣を埋めたと伝わる胞衣塚が比売許曽神社の近くにある。
また、一説では生野区にある御勝山は大小橋命の墓であるとも言われ、この地には大小
橋命に関わる伝承は多い。
「式内比売許曽神社御旅所」と「桃山跡」の石碑。
桃山というのはこの辺りの丘陵には明治の頃まで広大な桃林があったことに由来すると
いう。1919年(大正8年)に埋め立てられた味原池とともに景勝地として知られていた。
ショートカットして鶴橋駅へ
JR鶴橋駅 →天王寺駅
湯処・あべの橋温泉で汗を流して 昼飲み会へ
湯処・あべの橋温泉
天然温泉・・・大阪市港区の『天然温泉テルメ龍宮』から毎日搬送しています。
源泉名 龍宮温泉 1号 阪市港区2丁目3番33号 深さ 1,500m
泉質 ナトリウム塩化物強塩温泉 泉温 摂氏53.9度(浴槽温度40~42℃)
効能 ・神経痛・筋肉痛・関節・五十肩・運動麻痺・関節のこわばり・打ち身・くじき
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