2018年 8月26日の大念仏寺「幽霊の掛け軸」と地蔵巡り-2
2018年8月28日 2018年8月26日の大念仏寺「幽霊の掛け軸」と地蔵巡り-2
近鉄ハイキング 約10km
此の日は大阪阿部野橋駅・地下東改札口へ知人と6人が集まり、1名は自転車で大念佛寺
の幽霊の掛け軸を見に先回りして終了?残り5名はコースをてくてく歩いて全興寺を見て昼
食(餃子の王将)を済ませて解散、1名は大阪メトロ平野駅から帰り、残り4名はゴールの針
中野駅迄歩いて、ドトールコーヒーで休憩して解散、未だ未だ暑い暑い一日でした・・・
此の日の私の万歩計は、21037歩で約15.5km歩いたことに・・・
コース 大坂阿部野橋駅受付・スタート 10時集合で6名参加?
阿部野橋駅・地下東改札口(受付・スタート)~八反田一願地蔵尊~寺田町駅~子安地蔵尊
~小池地蔵尊~源ヶ橋~生野本通り商店街~桑津天神社~京善寺~今川緑道~馬場口地
蔵尊~大念仏寺~平野アーケード商店街~全興寺~流口地蔵尊~昼食(餃子の王将)~駒
川商店街(ドトールコーヒー)~針中野駅(ゴール)
大阪阿倍野橋駅~八反田一願地蔵尊
八反田一願地蔵尊
八反田地蔵尊は、文政年間に天王寺村の人々が五穀豊穣、無病息災を願ってこの地に奉
祀したのが始まりです。
ご本尊は じつは阿弥陀如来様で古くは大坂夏の陣で亡くなった豊臣方の武士の霊を弔う
ために奉祀されたという説もあるんです。今では霊験アラタカな阿弥陀様と地蔵菩薩様をお
参りするため 八月に盛大なお祭りが行なわれます。
「八反田地蔵尊」。長い間、お地蔵さんとして信仰を集めてきたが、専門家による調査の結
果「地蔵菩薩」ではなく「阿弥陀如来」であることが判明した。しかし、長らく信仰されてきた
「お地蔵さん」を引き継ぐため、わざわざ新たに「地蔵菩薩」が建立された。
正面にお地蔵さんとして信仰されてきた「阿弥陀如来」。左に新たに建立された「地蔵菩薩」。
寺田町駅~子安地蔵尊
子安地蔵尊
直ぐ近くに、小池地蔵尊
源ヶ橋~生野本通り商店街
源ヶ橋の由来・・・生野の民話より
今はもう暗渠となってありませんが、昔この辺りには猫間川という川が流れていました。185年
ほど昔、江戸時代は文化の頃、猫間川の渡し守をしている「源さん(源兵衛)」という人がいまし
た。この人は通行人から金品を強奪したり、法外な渡し料を要求したりする悪人でした。源さん
には女房と男の子が一人いましたが、愛想をつかして出て行ってしまいました。何年もたった
ある日、舟の上で一人の若者を殺して荷物を取り上げた源さんは、その若者が自分の息子で
あることを知ります。さしもの源さんも深く悲しんで自分の行いを悔やみ、出家をして仏門に入
りました。そして罪ほろぼしのために全財産を投げ打ち猫間川に橋をかけました。その橋は香
りの良い伽羅という名木で造られていました。そのことを知った人たちは、源さんの名にちなん
でその橋を「源ヶ橋」と名づけたということです。現在橋はなくなりましたが、地名となって残って
います。
生野本通り商店街
桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
桑津天神社は、大阪市東住吉区桑津にある神社。祭神は少彦名神をはじめ、明治時代の合
祀により菅原道真、須佐之男命、奇稲田比売命、野見宿禰、天児屋根命、布刀玉命、天宇受
売命、猿田毘古神、経津主命、健甕槌命の計11柱。旧社格は村社。
社伝によれば、仁徳天皇の妃である日向髪長媛が病気に罹ったとき、天皇が少彦名神に全
快を祈って快癒し、それが縁でこの地に同神を勧請された。
髪長媛は、神の資格のある采女として日向国より召され、仁徳天皇妃となり、桑津の地に居
住していたという。
明治5年(1872年)村社に列した。明治41年(1908年)近隣の林神社(牛頭天王社)を合祀し、
翌明治42年(1909年)神饌幣帛料供進指定神社となった。
京善寺(きょうぜんじ)
京善寺は、大阪市東住吉区にある真言宗御室派の寺院。山号は心王山、院号は殊勝院。
桑津古新書によると、元和元年(1615年)に大坂夏の陣で焼失、承応2甲午年(1652年)に
復興。近畿三十六不動尊霊場第4番。 摂津国八十八箇所41番。
今川緑道へ向かう
歩道のギンナン
今川緑道
大念佛寺へ向かう
馬場口地蔵尊(ばばぐちじぞう)
平野郷・十三口の地蔵尊の一つ。
大坂道と繋がる場所で、人の往来が多かった所にある地蔵尊です。
※平野庄本郷は壕(ほり)と土塁(どるい)に囲まれた環濠集落。本郷七町には惣門
(そうもん)といわれた十三の出入口があって、そこには地蔵尊が置かれていました。
その地蔵尊が現在も残っています。
大念佛寺へ向かう
此処までは、
8月26日の大念仏寺「幽霊の掛け軸」と地蔵巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28
此処では、続きの大念佛寺~の詳細を掲載します。
大念仏寺・・・融通念佛宗 総本山
融通念佛宗は 浄土宗、 浄土真宗の一派。 寺院数356、信者数123,000。
京都 嵯峨の清涼寺は 融通念佛宗に属する。
1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢の
お告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建した。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、浄土教の最初の宗派で
日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に
本山として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
(融通念仏宗 大本山 大念仏寺 ホーム・ページより)
※融通念佛宗とは・・・(大念佛寺 パンフレットとホームページより )
平安末期 良弁上人が比叡山での修行を終え、さらに仏道を求めようと京都大原に住ま
い来迎院、 浄蓮華院 を創建。 永久五年(1117年) 良弁上人が来迎院にて修行中、
阿弥陀仏から 速やかに佛の道へ至る方法として
一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行
是名他力往生 十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳円満のの偈文(げもん)を授かり
融通念佛宗を開いた。
融通念佛宗の教義は 「南無阿弥陀仏」を唱えれば 阿弥陀仏の本願力と自己の力が共
鳴しあって(融通して)極楽浄土へ行ける。 この教義から・浄土宗・浄土真宗へ発展した。
平野アーケード商店街~全興寺
平野アーケード商店街
全興寺(せんこうじ)
全興寺は、大阪市平野区にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は野中山。平野薬師
としても知られる。「平野の町づくりを考える会」の事務局があり、平野町ぐるみ博物館
を含め様々な町おこし活動を行っている。境内には地獄の様子を写した「地獄堂」や仏
の世界を表現した「ほとけのくに」、町ぐるみ博物館の一つである「小さな駄菓子屋さん
博物館」や子供の遊び場として利用される「おも路地」など、多種多様な施設があり、
「大阪のおもろい寺」、「寺のディズニーランド」とも称されている。
飛鳥時代、聖徳太子が当時野原だったこの地域に仏堂を建て、薬師如来像を安置した
のが起源とされる。寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事
から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。薬師堂の建立後、周りに人
が住み始め、町を形成していった。これが後の平野郷となる(「平野」という名前は平安
初期、この地の領主だった坂上田村麻呂の子の坂上広野(坂上広野麿)の「ひろの」が
転化して「ひらの」になったと言われている)。
中世には藤原氏の荘園となり[8]、応仁の乱以降は戦乱に巻き込まれないようにと豪商
らが環濠を築き上げ[9]、堺と並ぶ環濠都市として栄えた。大坂冬の陣では徳川秀忠の
軍勢が河内路より平野に入り、全興寺の隣にある野堂町会所を本陣にしたと伝えられ
ている。大坂夏の陣により町は戦火に飲まれたが、すぐに再建。大阪大空襲の被害も
逃れ、今日もこの一帯は江戸時代からの古い町並みが残っている。全興寺の本堂は天
正4年(1576年)に建造され、大坂夏の陣で一部を焼失。1661年に再建されたもので、
大阪府内でも有数の古い木造建築となっている。
流口地蔵尊~昼食(餃子の王将)
流口地蔵尊(ながれぐちじぞう)
平野郷・十三口の地蔵尊の一つ。
流口門の傍らにあったもので、大門であった木戸口から南下する道は中高野道と称し、
喜連(きれ)、瓜破(うりわり)を経て、かって平野川の水源であった狭山池で堺から来る
西高野道と合流する信仰の道であった。
駒川商店街(ドトールコーヒーで休憩)~針中野駅(ゴール)
駒川商店街(こまがわしょうてんがい)
駒川商店街とは、大阪市東住吉区駒川にある商店街。天神橋筋商店街や千林商店街、
十三本一商店会などと共に大阪を代表する商店街の一つ。
近鉄針中野駅
おまけ
小さな秋見っけ! ハゼの木の紅葉
近鉄ハイキング 約10km
此の日は大阪阿部野橋駅・地下東改札口へ知人と6人が集まり、1名は自転車で大念佛寺
の幽霊の掛け軸を見に先回りして終了?残り5名はコースをてくてく歩いて全興寺を見て昼
食(餃子の王将)を済ませて解散、1名は大阪メトロ平野駅から帰り、残り4名はゴールの針
中野駅迄歩いて、ドトールコーヒーで休憩して解散、未だ未だ暑い暑い一日でした・・・
此の日の私の万歩計は、21037歩で約15.5km歩いたことに・・・
コース 大坂阿部野橋駅受付・スタート 10時集合で6名参加?
阿部野橋駅・地下東改札口(受付・スタート)~八反田一願地蔵尊~寺田町駅~子安地蔵尊
~小池地蔵尊~源ヶ橋~生野本通り商店街~桑津天神社~京善寺~今川緑道~馬場口地
蔵尊~大念仏寺~平野アーケード商店街~全興寺~流口地蔵尊~昼食(餃子の王将)~駒
川商店街(ドトールコーヒー)~針中野駅(ゴール)
大阪阿倍野橋駅~八反田一願地蔵尊
八反田一願地蔵尊
八反田地蔵尊は、文政年間に天王寺村の人々が五穀豊穣、無病息災を願ってこの地に奉
祀したのが始まりです。
ご本尊は じつは阿弥陀如来様で古くは大坂夏の陣で亡くなった豊臣方の武士の霊を弔う
ために奉祀されたという説もあるんです。今では霊験アラタカな阿弥陀様と地蔵菩薩様をお
参りするため 八月に盛大なお祭りが行なわれます。
「八反田地蔵尊」。長い間、お地蔵さんとして信仰を集めてきたが、専門家による調査の結
果「地蔵菩薩」ではなく「阿弥陀如来」であることが判明した。しかし、長らく信仰されてきた
「お地蔵さん」を引き継ぐため、わざわざ新たに「地蔵菩薩」が建立された。
正面にお地蔵さんとして信仰されてきた「阿弥陀如来」。左に新たに建立された「地蔵菩薩」。
寺田町駅~子安地蔵尊
子安地蔵尊
直ぐ近くに、小池地蔵尊
源ヶ橋~生野本通り商店街
源ヶ橋の由来・・・生野の民話より
今はもう暗渠となってありませんが、昔この辺りには猫間川という川が流れていました。185年
ほど昔、江戸時代は文化の頃、猫間川の渡し守をしている「源さん(源兵衛)」という人がいまし
た。この人は通行人から金品を強奪したり、法外な渡し料を要求したりする悪人でした。源さん
には女房と男の子が一人いましたが、愛想をつかして出て行ってしまいました。何年もたった
ある日、舟の上で一人の若者を殺して荷物を取り上げた源さんは、その若者が自分の息子で
あることを知ります。さしもの源さんも深く悲しんで自分の行いを悔やみ、出家をして仏門に入
りました。そして罪ほろぼしのために全財産を投げ打ち猫間川に橋をかけました。その橋は香
りの良い伽羅という名木で造られていました。そのことを知った人たちは、源さんの名にちなん
でその橋を「源ヶ橋」と名づけたということです。現在橋はなくなりましたが、地名となって残って
います。
生野本通り商店街
桑津天神社(くわづてんじんじゃ)
桑津天神社は、大阪市東住吉区桑津にある神社。祭神は少彦名神をはじめ、明治時代の合
祀により菅原道真、須佐之男命、奇稲田比売命、野見宿禰、天児屋根命、布刀玉命、天宇受
売命、猿田毘古神、経津主命、健甕槌命の計11柱。旧社格は村社。
社伝によれば、仁徳天皇の妃である日向髪長媛が病気に罹ったとき、天皇が少彦名神に全
快を祈って快癒し、それが縁でこの地に同神を勧請された。
髪長媛は、神の資格のある采女として日向国より召され、仁徳天皇妃となり、桑津の地に居
住していたという。
明治5年(1872年)村社に列した。明治41年(1908年)近隣の林神社(牛頭天王社)を合祀し、
翌明治42年(1909年)神饌幣帛料供進指定神社となった。
京善寺(きょうぜんじ)
京善寺は、大阪市東住吉区にある真言宗御室派の寺院。山号は心王山、院号は殊勝院。
桑津古新書によると、元和元年(1615年)に大坂夏の陣で焼失、承応2甲午年(1652年)に
復興。近畿三十六不動尊霊場第4番。 摂津国八十八箇所41番。
今川緑道へ向かう
歩道のギンナン
今川緑道
大念佛寺へ向かう
馬場口地蔵尊(ばばぐちじぞう)
平野郷・十三口の地蔵尊の一つ。
大坂道と繋がる場所で、人の往来が多かった所にある地蔵尊です。
※平野庄本郷は壕(ほり)と土塁(どるい)に囲まれた環濠集落。本郷七町には惣門
(そうもん)といわれた十三の出入口があって、そこには地蔵尊が置かれていました。
その地蔵尊が現在も残っています。
大念佛寺へ向かう
此処までは、
8月26日の大念仏寺「幽霊の掛け軸」と地蔵巡り-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿済みです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-08-28
此処では、続きの大念佛寺~の詳細を掲載します。
大念仏寺・・・融通念佛宗 総本山
融通念佛宗は 浄土宗、 浄土真宗の一派。 寺院数356、信者数123,000。
京都 嵯峨の清涼寺は 融通念佛宗に属する。
1127年、聖徳太子信仰の厚かった良忍上人が四天王寺に立ち寄った際、太子から夢の
お告げを受け、鳥羽上皇の勅願により平野に根本道場として創建した。
平安末期以降広まった念仏信仰の先駆けとなり、浄土教の最初の宗派で
日本最初の念仏道場といわれる。その後、火災などで荒廃するが、元禄期(1700年頃)に
本山として体裁が整い、現在に至る。融通念佛宗の総本山。
(融通念仏宗 大本山 大念仏寺 ホーム・ページより)
※融通念佛宗とは・・・(大念佛寺 パンフレットとホームページより )
平安末期 良弁上人が比叡山での修行を終え、さらに仏道を求めようと京都大原に住ま
い来迎院、 浄蓮華院 を創建。 永久五年(1117年) 良弁上人が来迎院にて修行中、
阿弥陀仏から 速やかに佛の道へ至る方法として
一人一切人 一切人一人 一行一切行 一切行一行
是名他力往生 十界一念 融通念佛 億百万遍 功徳円満のの偈文(げもん)を授かり
融通念佛宗を開いた。
融通念佛宗の教義は 「南無阿弥陀仏」を唱えれば 阿弥陀仏の本願力と自己の力が共
鳴しあって(融通して)極楽浄土へ行ける。 この教義から・浄土宗・浄土真宗へ発展した。
平野アーケード商店街~全興寺
平野アーケード商店街
全興寺(せんこうじ)
全興寺は、大阪市平野区にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は野中山。平野薬師
としても知られる。「平野の町づくりを考える会」の事務局があり、平野町ぐるみ博物館
を含め様々な町おこし活動を行っている。境内には地獄の様子を写した「地獄堂」や仏
の世界を表現した「ほとけのくに」、町ぐるみ博物館の一つである「小さな駄菓子屋さん
博物館」や子供の遊び場として利用される「おも路地」など、多種多様な施設があり、
「大阪のおもろい寺」、「寺のディズニーランド」とも称されている。
飛鳥時代、聖徳太子が当時野原だったこの地域に仏堂を建て、薬師如来像を安置した
のが起源とされる。寺の名前の由来は不明であるが、この一帯が杭全荘と呼ばれた事
から、「杭全を興す寺」から全興寺になったという説がある。薬師堂の建立後、周りに人
が住み始め、町を形成していった。これが後の平野郷となる(「平野」という名前は平安
初期、この地の領主だった坂上田村麻呂の子の坂上広野(坂上広野麿)の「ひろの」が
転化して「ひらの」になったと言われている)。
中世には藤原氏の荘園となり[8]、応仁の乱以降は戦乱に巻き込まれないようにと豪商
らが環濠を築き上げ[9]、堺と並ぶ環濠都市として栄えた。大坂冬の陣では徳川秀忠の
軍勢が河内路より平野に入り、全興寺の隣にある野堂町会所を本陣にしたと伝えられ
ている。大坂夏の陣により町は戦火に飲まれたが、すぐに再建。大阪大空襲の被害も
逃れ、今日もこの一帯は江戸時代からの古い町並みが残っている。全興寺の本堂は天
正4年(1576年)に建造され、大坂夏の陣で一部を焼失。1661年に再建されたもので、
大阪府内でも有数の古い木造建築となっている。
流口地蔵尊~昼食(餃子の王将)
流口地蔵尊(ながれぐちじぞう)
平野郷・十三口の地蔵尊の一つ。
流口門の傍らにあったもので、大門であった木戸口から南下する道は中高野道と称し、
喜連(きれ)、瓜破(うりわり)を経て、かって平野川の水源であった狭山池で堺から来る
西高野道と合流する信仰の道であった。
駒川商店街(ドトールコーヒーで休憩)~針中野駅(ゴール)
駒川商店街(こまがわしょうてんがい)
駒川商店街とは、大阪市東住吉区駒川にある商店街。天神橋筋商店街や千林商店街、
十三本一商店会などと共に大阪を代表する商店街の一つ。
近鉄針中野駅
おまけ
小さな秋見っけ! ハゼの木の紅葉