7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-2
7月29日 7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-2
歩こう会 NHK朝ドラ わろてんか
暑い暑い街中ウオーキングに参加者62名、地下街で2回涼をとりながら無事に歩ききり
天神祭りの宵宮にも触れる事が出来、祭り気分も楽しめ盛夏ウオーク楽しめました・・・
解散後は天神橋筋商店街で串カツとビールで陵をとり、久し振りに祭り気分迄も楽しみ、
此の日の私の万歩計は、19031歩で約14km歩いたことに・・・・
コース
通天閣(10時集合・スタート)~新世界~でんでんタウン~道具屋筋~なんばグランド花
月~法善寺~南地花月「花月の落語亭」跡碑~道頓堀川沿い~クリスタ長堀(地下街)
~ガス燈が連なる三休橋筋~中之島公園・バラ園(昼食休憩)~大阪天満宮~天満天神
繁盛亭~第二文芸館跡(解散)・・・天神橋筋商店街~地下鉄天六駅
※吉本せい
「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、今日の漫才師が束になってかかっても、
吉本興業の創業者である吉本せいの痛快でおもろい人生にはかなわない。吉本せいは、
明治の終わりから大正、昭和、そして終戦まで、興行界を席巻した女興行師。1889年生ま
れで、1950年に戦後まもなく肺結核で亡くなっています。このとき、吉本せいは、まだ60歳
の若さでした。
吉本せいは、荒物問屋の息子であった吉本吉兵衛と、20歳で結婚。1912年、吉本夫妻は、
当時8軒もの寄席が競った繁華街の天満八軒で、不人気だった1軒の寄席の経営権を獲
得しました。その後、吉本せいの手腕で、またたく間にいくつもの寄席を買い上げた吉本夫
妻は、1932年に吉本興業合名会社を設立。戦後1948年には、吉本興業株式会社として、
いち早く株式会社化を実現しています。
吉本せいの偉大な業績は、従来は落語が中心だった寄席に、物真似、音曲、曲芸といった
諸芸を取り入れ、全く新しい笑芸、漫才を寄席にもたらしたことでしょう。
夫の吉本吉兵衛が、1924年に、37歳の若さで亡くなってしまっただけでなく、子供たちがみ
んな早世したことから、細腕一本で働かざるを得ませんでした。以後、吉本せいの片腕とし
て働いたのは、吉本せいの10歳年下の弟、林正之助です。そのまた8歳年下の林弘高が、
戦前の東京吉本を担うことになります。
吉本せいは、戦後になると会長職に退き、1950年に亡くなりました。そして林正之助が、社
長を継いで以来、1973年に一旦社長を退いたものの、1986年に社長に復帰し、1991年に
亡くなるまで社長を務めます。吉本せいが戦前の吉本興業の立役者ならば、林正之助は、
戦後の近代的な吉本興業を形作った人物です。
自宅近くのバス停(服部)
レジャービルにボーリング場と和食「さと」
新今宮駅でおりて通天閣迄歩く
通天閣の下で受付
新世界
でんでんタウン
道具屋筋
なんばグランド花月
千日前
難波地下街
法善寺
水掛不動明王
お初大神横の路地を行く
此処までは、
7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-07-28-1
此処では、続きの南地花月「花月の落語亭」跡碑の路地~
南地花月「花月の落語亭」跡碑地
道頓堀川沿い
ガス燈が連なる三休橋筋を
通り、中の島公園へ向かう
中之島公園・バラ園(昼食休憩)
今日は天神祭の宵宮・・・
バラ園を後に天満宮へ向かう
天神橋を渡る
天満宮へ向かう
大阪天満宮
天満天神繁盛亭
天満天神繁盛亭前の
第二文芸館跡(解散)
天神橋筋商店街
串カツ屋で涼をとる・・・
おまけ
はぜの木の紅葉
歩こう会 NHK朝ドラ わろてんか
暑い暑い街中ウオーキングに参加者62名、地下街で2回涼をとりながら無事に歩ききり
天神祭りの宵宮にも触れる事が出来、祭り気分も楽しめ盛夏ウオーク楽しめました・・・
解散後は天神橋筋商店街で串カツとビールで陵をとり、久し振りに祭り気分迄も楽しみ、
此の日の私の万歩計は、19031歩で約14km歩いたことに・・・・
コース
通天閣(10時集合・スタート)~新世界~でんでんタウン~道具屋筋~なんばグランド花
月~法善寺~南地花月「花月の落語亭」跡碑~道頓堀川沿い~クリスタ長堀(地下街)
~ガス燈が連なる三休橋筋~中之島公園・バラ園(昼食休憩)~大阪天満宮~天満天神
繁盛亭~第二文芸館跡(解散)・・・天神橋筋商店街~地下鉄天六駅
※吉本せい
「事実は小説より奇なり」という言葉がありますが、今日の漫才師が束になってかかっても、
吉本興業の創業者である吉本せいの痛快でおもろい人生にはかなわない。吉本せいは、
明治の終わりから大正、昭和、そして終戦まで、興行界を席巻した女興行師。1889年生ま
れで、1950年に戦後まもなく肺結核で亡くなっています。このとき、吉本せいは、まだ60歳
の若さでした。
吉本せいは、荒物問屋の息子であった吉本吉兵衛と、20歳で結婚。1912年、吉本夫妻は、
当時8軒もの寄席が競った繁華街の天満八軒で、不人気だった1軒の寄席の経営権を獲
得しました。その後、吉本せいの手腕で、またたく間にいくつもの寄席を買い上げた吉本夫
妻は、1932年に吉本興業合名会社を設立。戦後1948年には、吉本興業株式会社として、
いち早く株式会社化を実現しています。
吉本せいの偉大な業績は、従来は落語が中心だった寄席に、物真似、音曲、曲芸といった
諸芸を取り入れ、全く新しい笑芸、漫才を寄席にもたらしたことでしょう。
夫の吉本吉兵衛が、1924年に、37歳の若さで亡くなってしまっただけでなく、子供たちがみ
んな早世したことから、細腕一本で働かざるを得ませんでした。以後、吉本せいの片腕とし
て働いたのは、吉本せいの10歳年下の弟、林正之助です。そのまた8歳年下の林弘高が、
戦前の東京吉本を担うことになります。
吉本せいは、戦後になると会長職に退き、1950年に亡くなりました。そして林正之助が、社
長を継いで以来、1973年に一旦社長を退いたものの、1986年に社長に復帰し、1991年に
亡くなるまで社長を務めます。吉本せいが戦前の吉本興業の立役者ならば、林正之助は、
戦後の近代的な吉本興業を形作った人物です。
自宅近くのバス停(服部)
レジャービルにボーリング場と和食「さと」
新今宮駅でおりて通天閣迄歩く
通天閣の下で受付
新世界
でんでんタウン
道具屋筋
なんばグランド花月
千日前
難波地下街
法善寺
水掛不動明王
お初大神横の路地を行く
此処までは、
7月24日の「わろてんか(吉本せい)縁りの地を歩く-1 として
下記のセカンドブログへ詳細を投稿すみです。
https://tahara-nara-amami.blog.so-net.ne.jp/2018-07-28-1
此処では、続きの南地花月「花月の落語亭」跡碑の路地~
南地花月「花月の落語亭」跡碑地
道頓堀川沿い
ガス燈が連なる三休橋筋を
通り、中の島公園へ向かう
中之島公園・バラ園(昼食休憩)
今日は天神祭の宵宮・・・
バラ園を後に天満宮へ向かう
天神橋を渡る
天満宮へ向かう
大阪天満宮
天満天神繁盛亭
天満天神繁盛亭前の
第二文芸館跡(解散)
天神橋筋商店街
串カツ屋で涼をとる・・・
おまけ
はぜの木の紅葉